エックハルト

 エックハルトは、中世ドイツのキリスト教神学者、神秘主義者で、1260年頃ドイツのチューリンゲンにて生まれます。
 ちょうどエックハルトが生まれたころ、トマス・アクィナスはパリ大学神学授であり、ボナヴェントゥラがフランシスコ会の総長に選ばれています。
 エックハルトは、パリ大学にてマイスターの称号を受け、トマス・アクィナス同様、同大学で二度正教授として講義を行ったそうです。
 しかし、熱心な正統派キリスト教徒というわけでもなかったそうです。
 これは、エックハルトが異端思想で宗教裁判にかけられたことからもわかります。
 何故に神は人となり給うたか? 私が同じ神として生れんがためであるなど神学者として、エックハルトの発言問題視されたのです。
 もちろん、このエックハルトの言葉は当時の教皇によって断罪されました。  
 当時は神は人から遠くに置いた特別で厳かな存在であったにもかかわらず、エックハルトは、その逆に、神は身近な存在であるとし、人が神になれるという発言をしたことになったからです。
 その後。エックハルトは、教皇の断罪に対し、弁明書を提出し、当時教皇庁があったアヴィニョンで同じく異端告発を受けたウィリアム・オッカムとともに審問を待つ間に、エックハルトは没したそうです。
 エックハルトの死後、エックハルトの命題は異端の宣告を受け、著作の刊行・配布が禁止されたてしまいました。
 そんなエックハルトの考察は、神との合一を、そして神性の無を説きました。
 エックハルトは、汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。
 さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう。
 と言いました。
 これは、自分にこだわることなく、神の自己に溶け込めることで、神の本質を理解できるとエックハルトは述べたわけです。
 その神の本質は、神はその源初において無というほかはないとエックハルトは述ました。
 エックハルトは、原初における無の状態では、神は安らぐことはないとものべました。
 なぜなら、神はロゴスであり、その言葉によって、被創造物が創造されたとエックハルトは考えたからです。
 つまり、神は論理とか真理を最初に創造したということになります。
 そして、ロゴスによって、被造物が創造されることによってはじめて神は被造物において自分自身を存在として認識したとエックハルトは考えました。
 これは、そもそも、神は唯一の存在ですから、被創造物がなければ、神と神以外の存在がなかったわけです。
 そして、被創造物にとって、神は唯一の存在であって、神の前では、被創造物は無にすぎないとエックハルトは考えました。 
 つまり、すべての被造物は、神によって創造されただけではなく、神の存在によってのみ存在しうるということです。 
 次に、アナロギアについてです。
 アナロギアとは、帰属の類比です。
 当時、神学では、神の被創造物は、神と比較など、無に等しい存在であると説かれていました。
 しかし、その場合、神は生むもの、被造物は生みだされたものってことになるという問題が発生してしまいます。
 そこで、気の明るさが太陽の光によって左右されるように、被創造物もまた、神の存在に左右される段階的な存在であるはずであると考えることができますから、神と被創造物はアナロギア関係にあるといいえるわけです。
 さて、被造物における善き者などもそれ自体が善いというよりも、善性がそれを生み出したから善いといいえます。
 善性からは、善い被創造物が生み出されるということです。
 つまり、神は善性だから、神から生み出された被造物は善き者だということです。
 そして、神は知性を持っているので、神が生み出したからこそ被創造物は、知性を持つことができるとエックハルトは考えました。
 エックハルトは、被造物にできる最高のこととして、魂の神と一致を試みることだと考えました。
 そして、エックハルトは、魂とは、無に徹することだと主張したのです。
 つまり、被創造物である人間は、神でないものすべてを打ち捨てて、神への譲歩ていかなければならないと説き、無になることが重要であると、エックハルトは主張しました。
 さて、エックハルトは、アナロギアの考えから、無になることにより、神が充溢した存在そのものであるからその本性からして無に存在を注ぎ込まずにいられなくなり、神は被造物と気まぐれな関係をもつのではなく、本質的に被造物と関わっていると考えました。
 そして、神はその本性からして、私という被造物を愛することをやめることができないといいました。
 これは、まず、極限の無になることで自分を消し去ることで、内面における神の力が発生するということです。
 内面における神の力というのは、人間は、神の創造物ですが、被創造物のうちにありながら、創造の以前より存在する魂の火花ともいえるエネルギーが働き、魂の奥底から神が誕生するということです。
 このエックハルトの人が神の子になるという思想は教会にとっては非常に危険なものでした。
 それに加えて、個人がそのまま神に接することができるということは、教会や聖職者といった神と人との仲介は不要になってしまうという不安も教会にはあったでしょう。
 みずからを消し去り、神の子として生まれ変わったものは被造物を超えた存在となるため、いかなる被造物からも悩まされることがなくなるとエックハルトは考えました。
 さて、神のうちで神とともに悩み給うのを喜ぶべきなのであるとエックハルトはいいました。
 悩みが消えるような慰めが神から与えられないときは、恩寵を受けないという仕方で受け取っているのであり、受けないということで受けことにより一層本来的に神を受容することになるというわけです。
 それは、神を受容していないからこそとエックハルトだったら言うでしょう。
 あらゆるものを受容することはエックハルトの中心的な教説のひとつです。
 神の意志はあれとかこれとかいう風に指し示せる特定の事柄として現われるのではないとエックハルトは考えました。
 エックハルトは、そういった人は、被造物たる己の意志を語っているに過ぎないと考えました。
 エックハルトは、神が何を意志するか、神が何を与えてくれるかは問題としないといいました。
 そうではなく、神の与え給うものも、そして与え給わぬものも、一切を断念することが重要だとエックハルトは考えました。
 これは、あきらめるというよりも、あらゆる欲望によって、生じる固執や執着を捨てなさいということでしょう。
 そうすることができた人は、結果的に神のうちで再び、神からの恵みを受け取るとエックハルトは考えました。
 また、エックハルトは、時間の上では神から流出したという点で、等しく、永遠の上ではそれらが神のうちにあるという点で等しいとのべています。
 神にすべてをゆだねた者にとっては、神が神自身であるようにその者自身が神だということです。
 エックハルトは、神にすべてをゆだねられる存在を神の子の誕生と考えました。そして、そのような神の子の誕生は神自身にとっての喜びでもあるとエックハルトは考えたのです。
 エックハルトにとって最高の徳は離脱と主張しました。
エックハルトは、離脱というものは、愛や慈悲や謙虚よりも貴いものとしました。
 愛が私に神を愛させるのに対し、離脱は神に私を愛させるからことになります。
 つまり、愛は神のためにあらゆるものを忍従するわけです。
 離脱はあらゆる物から脱却し、神をみずからの内に迎え入れて神を神たらしめるわけです。
 ある状態から抜け出すことだけど、エックハルトはどんな状態から抜け出す、つまり、離脱は内面において達成されるとエックハルトは言っています。
 このエックハルトの主張は、当時ドミニコ会に対立していたフランチェスコ会の自分の所有物を捨ようとする清貧の運動に対する批判になりました。
 エックハルトは、さらに神からの離脱を説きました。
 次に、存在と知性、エックハルトが主に関心を持った存在についてです。
 なぜなら、存在は神によって存在へともたらされているからであるとエックハルトは考えたからです。
 エックハルトの考えでは、神は存在であるよりも先に、知性であると言い得るそうです。
 神においては、知性と存在は、同一ではないことになっています。
 知識の力で悟る根拠は神の知性であるということです。
 神は超越的なものとして、一、真、善を純粋に所有していると、エックハルトは考えたのです。
 それゆえ、神は存在であり、真理であり、善であるとエックハルトは考えました。
 被創造物である人間は、超越的なものを神を通して、神から与えられるというわけです。
 それゆえ、被創造物の存在は、神の存在の中に含まれていると言い得るとエックハルトは考えました。
 つまり、神という純粋な存在は、被創造物と別のものではなく、神と創造物はつながっているからこそ、神からさまざまなものを得られるというわけです。
 ですから、神の純粋な存在に比べるとき、被創造物の存在は無であるといっても過言ではないでしょう。
 そして、神は純粋であるがゆえに、神と比較して、人間を含めた不純物の多い被創造物は、真、善は、類比的に語られることはできても、純粋にかたることはできないということです。

WRITER:呟き尾形
(注:呟き尾形の解釈です)

WRITER:呟き尾形
(注:呟き尾形の解釈です)
2014年05月07日(水) 00:23:18 Modified by tubuyaki1




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