デカルト

デカルト

デカルトは、近代哲学の父と呼ばれるくらいの哲学者で
す。
 デカルトは、1596年に、中部フランスの西側にあるアンド
ル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれました。
 父はブルターニュの高等法院評定官でした。母からは、空咳と青
白い顔色を受け継ぎ、診察した医者たちからは、夭折を宣告されま
した。
 母は病弱で、デカルトを生んだ後13ヶ月で亡くなりました。
母親を失ったデカルトは母を失ったデカルトは、祖母と乳母に育
てられました。
 旧式フランスの官僚貴族とよばれる新興階級の家に生まれ、10歳
の時から10年間ほど、フランスのイエズス会が経営するラ・フレー
シュ学院で学びました。
 当時、ラ・フレーシュ学院は、1604年に創立され、優秀な教師、
生徒が集められました。
 デカルトは学院において従順で優秀な生徒であり、論理学・形而
上学・自然学といった、教えられる学問だけでなく占星術や魔術な
ど秘術の類のものも含めて多くの書物を読みました。
 学問の中ではとりわけ数学を好んだといわれています。そして、
デカルトは、学生時代から、数学を機械工学に応用すること、なら
びに、数学と現実の世界の対応関係に関心を持っていました。
 そうしたこともあり、カリキュラムの1つである哲学的討論におい
ては数学的な手法を用いて相手を困らせたました。
 デカルトは、スコラ哲学を学ぶことで、スコラ哲学の前提となるも
のに対して、徹底的な分析と検討に欠いているスコラ哲学に不満を
持っていました。
 そして、デカルトは、学んだ学問の中で数学の解析方法を使って学
問の統一を試みました。
 デカルトは、好んだ数学に対して、神学・スコラ学の非厳密性、蓋
然性は際立ち、それを基礎にした学院の知識に対して、デカルトの哲
学の根源となる懐疑が生まれることになりました。
 デカルトは、学院を卒業後、大学に進み、法学、医学を修め
卒業します。デカルトの卒業後、学園を離れるとともに書斎で
読まれるような書物を捨て、世間という大きな書物の中に飛び
込んでいくことを決意します。
 いわゆるフィールドワークです。
 フィールドワークは、現地での実態に即した調査とか研究です。
 野外調査ともいいます。
 デカルトが、文献の解釈に明け暮れる中世哲学を見限り、世
間という大きな書物」から真の知識を得ようとしました。
 デカルトが、22歳のとき、オランダに赴きナッサウ伯マウリッツの
軍隊に志願し、入隊したました。
 哲学者で軍隊に志願したってなんか意外ではありますが、オランダ
の軍隊に志願したのは、オランダ軍が早くから数学や物理学の諸成果
を、築城や兵器の製造といった軍事科学に応用しようと、多くの学者
を集めていたからだといわれています。
 理論や技術の実用するということです。
 さて、マウリッツの軍隊は近代化されており、新兵器の開発も盛ん
であったこともあり、デカルトは自然科学者との交流を求めて、マウ
リッツの軍隊を選んだとも考えられています。
 デカルトは、オランダ軍在籍中、驚くべき学問の基礎を発見したと
いった。
 ガリレイの発見した落体の法則の実験などを行ない、自然現
象と数学の計算式との見事な一致を目の当たりにし、自然研究
への数学の応用がどれほどすばらしいものであるかを痛感した
ようです。
 軍隊に入隊したデカルトですが、実際の戦闘はなかったようです。 
 除隊後もデカルトは、数学の計算式と自然現象の強い平行関
係に関心を持ち続けました。
 それと同時に、デカルトは、なぜ自然現象は、数式によって
表現できるのだろうか? という疑問をもっていました。
 この疑問を抱きつつ、デカルトは旅にでます。
 デカルトは、自然現象は数式によってさまざまなことを表現
できることを見て、なぜ自然現象は、数式によって表現できる
のだろうか? という疑問を抱えていました。
 自然がたまたま数式によって表現できるように神によって造ら
れているという安直な考えでは、デカルトは納得しなかったわけ
です。
 さて、デカルトは、1623年から1625年にかけて、ヴェネツィア、
ローマを渡り歩きます。
 旅を終えたデカルトはパリにしばらく住みました。
 その間に、さまざまな学者と交友を深めています。
 そして、教皇使節ド・バニュの屋敷での集まりにおいて、デカ
ルトは初めて公衆の面前で自分の哲学についての構想を明らかに
しました。
 デカルトの語る新しい哲学の構想を理解したのは、枢機卿ド=
ベリュルでした。
 枢機卿というのは、カトリック教会における 教皇の最高顧問
です。
 ド=ベリュルはデカルトの哲学構想を実現させるべく努めるこ
とがデカルトの良心の義務だとまでいって、研究に取り組むこと
を強く勧めたのです。
 そして、1628年にデカルトは、オランダに移住しました。
 オランダが八十年戦争によって立派な規律を生み出しており、
最も人口の多い町で得られる便利さを欠くことなく、孤独な隠れ
た生活を送ることができるためです。
 32歳のデカルトは、自己の使命を自覚して本格的に哲学にと
りかかります。
 この頃に書かれたのが世界論です。
 宇宙論とも呼ばれる書かれたものは、デカルトの機械論的世界
観をその誕生から解き明かしたものでした。
 しかし、ガリレイが地動説を唱えたのに対して、ローマの異端
審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こります。
 これを知ったデカルトは、世界論の公刊を断念しました。
 世界論の公刊を断念したデカルトですが、1637年、方法序説を
公刊します。
 懐疑を通じて疑う余地のない真理に到達するまでの思想形成過
程を、自伝的に述べたものです。
 この公刊によって、デカルトは、スコラ哲学と断絶した新しい
形而上学・自然哲学の粗描することになります。
 この方法序説では冒頭に良識はこの世で最も公平に配分されて
いるものであるという文で始まっています。
 これは、思想の領域における人権宣言にも比されています。
 方法序説を皮切りに、 1641年、デカルト45歳のとき、パリで
執筆活動を続け、複数の公刊をしました。
 このころ、心身問題についてデカルトは興味を持ち始めます。
 心と体にどんな問題があるのか?
 というものです。
 哲学の伝統的な問題の一つで、人間の心と体の関係についての
考察です。
 さて、デカルトの心身問題は後でふれるとして、 その後、ス
ウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け、スウェー
デン女王のために朝5時からの講義を行ういます。
 そして デカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去しまし

 享年53歳でした。
 デカルトは、”さあ、今度は出かけねばならぬ!という言葉が
最後の言葉だったといわれています。
 さて、デカルトといえば、我思う、ゆえに我ありという言葉で
す。哲学史上でもっとも有名な命題の1つといえるでしょう。
 これは、考える主体としての自己の精神とその存在を定式化し
ました。
 そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教
えであるところの信仰による真理の獲得ではなく、人間の持つ自
然の光という理性を用いて真理を探求していこうとする近代哲学
の出発点を簡潔に表現しています。
 デカルトが近代哲学の父と言われる理由といえるでしょう


WRITER:呟き尾形
(注:呟き尾形の解釈です)
2017年07月02日(日) 23:04:14 Modified by tubuyaki1




スマートフォン版で見る