超越論的主観

超越論的主観

 そもそも、超越論的主観は、一般に言う、主観という観念とは異なります。
 たしかに、同じ主観という言葉を用いてはいます。
 しかしながら、異質のものだというのが私の見解です。

 で、エポケーは主観と客観を分離するのではなく、超越する方法です。
 超越とは、飛び越えることであり、この場合、主観的とか客観的とかそう
いった話を飛び越えるという行為です。

 現象学では、この普遍性を本質と呼び、その本質を超越論的に知覚
することを本質直観と呼んでいます。

つまり、主観的な先入観を超越すること(エポケー)によって、本質直観する視点が超越論的主観であり、超越論的主観に現われたものを現象(純粋経験)だと呼んでいるわけです。
 いわば、現象とは(各自の)意識の内側と外側の媒体であるといえるでしょう。
 私たちの、日常生活における現象は意識の領域のもの。
 とすると、たちまち先入観(憶見)にかわり、エポケーの対象になります。

 ところで、よく間違った批判をされている内容に超越論的という単語に過剰に反応した批判があります。
 それは、「超越」という言葉から、神様のような視点で主観と客観の一致を確認するという印象がもたれ、そんなことを想定された批判です。
 その批判は、もう、ナンセンスは批判になってしまいます。

 現象学における超越論的主観というのは、ものすごく簡易的に説明すれば、もう、主観も客観もこだわらない一元論的な視点のことを述べております。
 つまり、主観と客観という仕訳を取り払う。という意味で「超越」という単語を持ちいられているわけです。
 とどのつまりは、二元論を一元論に還元しましょう。ということになります。

 しかしながら、それは通常では難しいことだといえます。
 なぜなら、日常生活の感覚において、ついつい、「私」という存在を意識してしまいますが、「私」という存在を意識するということは、同時に「私以外」(他者)を想定してしまいます。
 ここで、自動的に私と他者の二元論が発生してしまいます。
 自動的ですので、日常生活を思い浮かべると、二元論は「当たり前」ということになります。

 つまり、私を意識すると、「他者がいるはずである」という先入観が自動的に成立するわけです。
 すると、私-他者という二元論が先入観が前提になります。
 その二元論を前提にすれば、”現象学は、私と他者の「超越論的主観」のぶつけ合いにしかならない”という批判が成立します。

 しかしながら、超越論的主観とは、二元論を一元論に還元することですから、
 上記の批判の生じる発想は現象学的ではない。
 ということになり、つまり、現象学に対して、現象学が述べていないことに対する批判をしている。
 という事になってしまいます。

エポケー

現象学

純粋経験

超越論的

本質直観



 WRITER:呟き尾形
(注:呟き尾形の解釈です)
2005年08月03日(水) 20:57:35 Modified by tubuyaki1




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