裂織の私的な哲学まとめwiki

ハイデガー「芸術作品の根源」の読書会用レジュメ(筆者:伊藤治雄さん)


2013/4
※以下の邦訳は伊藤治雄さんの著作物であり、平凡社や理想社の邦訳とは関係ありません※

p.21第三段落
例えば靴のような道具は製品として、単なる物と同様、それ自体の内に安らうが、花崗岩のように独自生成的なものをもたない。他方、道具は人間の手による生産物であるかぎり、芸術作品との類似性を示す。にも拘らず、芸術作品はその自足的存在によってむしろまた、独自に生成し何物にも帰せられない単なる物に近い。それでも我々は作品を単なる物に分類しない。我々の周りの使用物が最も身近で本来的な物であることは変わらない。道具は、物的性質に規定されるから半ば物であって、それ以上のものである。道具はまた半ば芸術作品であって、芸術作品の自足性を欠くから、それ以下のものである。道具は物と作品の間で独自の位置を占める、そのような要素の増減を勘案した配列が許されるとして。

道具(例:靴)= 制作物 (fertiges)、それ自体の内に安らう(in sich ruhend)
単なる物(例:花崗岩の塊)= それ自体の内に安らう、独自生成的 (eigenwuechsige)
芸術作品 = 独自生成的(自足的存在 selbstgenuegsames Anwesen)、制作物

p.22第二段落
道具存在を規定する質料・形式という結構は、あらゆる存在者の、直接理解可能な組成として、容易に受け取られる。制作者自身が、道具が存在するに至る仕方において関与するからである。道具が単なる物と作品との間の中間に位置するかぎり、道具的あり方(質料・形式結構)を、物や作品を含むすべての存在者の理解に役立てることは、当然と思われる。

p.22第三段落
質料・形式という結構をあらゆる存在者の組成とみなそうとする傾向には、聖書の信仰に基づいて、すべての存在者を被造物、制作物と表現することによる特別の動機がある。この信仰による哲学は、神の働きは職人の作業とは異なることを保証する。しかし同時に、あるいは前もって、聖書解釈に対するトミズムの事前設定に従い、ens creatum 創造された物は materia 素材と forma 形の統一から成ると考えるならば、信仰は一つの哲学から解釈される。その哲学の真理は存在者の隠れなさにあり、その隠れなさとは信仰において信じられた世界とは別のあり方をしている。

p.22第四段落
信仰に基づく創造観念は存在者に関する知識全般を導く力を喪失し得る。しかしすべての存在者に関し、かつて定められ、異国の哲学を借用した神学解釈、すなわち質料と形式による世界観はそのまま残り得る。これは中世から近代への移行期に起こったことだ。その形而上学は中世的に特徴づけられた形相・質料という結構に基づいており、形相・質料は言葉として eidos と hule という埋もれた本質を想起させる。かくて質料・形式による物解釈は中世的であれ、カント風超越論的であれ、周知・自明のものとなった。しかしまたそれゆえに、この解釈は他の物解釈に劣らず、物の物的あり方に対する侵害(Ueberfall)となるのだ。

p.23第二段落
本来的な物を「単なる物」と称したことで、すでに事態は明らかだ。「単なる」とは「使用」や「制作」という性質をはずすことを意味する。単なる物は一種の道具だが、道具的あり方を剥奪された道具である。物的あり方はなお残存するものにおいて成り立つ。この残ったものはその存在特性において殊更規定されない。道具的側面をすべて取り去る過程で物の物的側面が姿を現わすかどうかが問われる。かくて質料・形式の結構を頼りにする第三の物解釈も、物を侵害することが明らかになる。

p.23第三段落
前述の三通りの物性規定は、物を、特徴の担い手、感覚的多様性の統一、形成された質料として、それぞれ捉える。存在者に関する真理の歴史的経過において、今は無視してもかまわないことだが、上記三解釈は結びついた。この結びつきにおいて、それらは当初のもくろみ通りますます拡張され、物・道具・作品に等しく妥当する結果となった。それら(解釈)から、物・道具・作品についてだけでなく、存在者全般についても考え進める思考法が生まれる。つとになじみのこの思考法は、存在者の直接経験全部を先取りする。この先取りはその時々の存在者の存在を思慮することを妨げる。かくて、支配的な物概念は、我々が物の物的側面、道具の道具的側面、そして無論のこと作品の作品的側面に至る道を閉ざすことになる。

p.24第二段落
この事実のゆえに、物概念について知る必要がある。これを知った上で、物概念の由来や果てしない干渉、またそれらの見かけの自明性をよく考えるためである。この知識は、我々が、物の物的側面、道具の道具的側面、作品の作品的側面を視野に収め言葉にしようとあえて試みるならば、猶更必要となる。そのために必要な唯一つのことは、かの思考法による先取りや干渉を遠ざけて、例えば物をその物的あり方に基づかせることである。存在者を単に(それであるところのもの)存在者であらしめること以上に容易なことがあろうか。あるいはそうして最難事に直面するだろうか、特にそうする意図が、未検証の存在概念を利するように存在者に背を向ける無関心とは正反対のことを意味しているならば。我々は存在者に向き合い、存在状態の存在者そのものについて考えるべきであるが、同時に存在者をその本質においてそのままにしておかねばならない。

p.25第一段落
このような思考法は物の物性を規定する際、最大の抵抗に会うように思われる。上述の試みが挫折する理由はほかにあろうか。目立たない物は思考対象から最もよく外れる。単なる物のこうした自制、それ自体で存在し何物にも干渉されないあり方は、物の本質に属するべきか。かの奇異で弧絶したものは、物について考える思考にとって、なじみのものになってはならないか。そうであるなら、物の物性に至る手段を無理に手に入れる必要はなかろう。

p.25第二段落
物の物性がとりわけ困難で滅多に語られないということは、上述のその解釈史が紛れもなく証明している。その歴史の宿命に従って、今まで西洋的思惟は存在者の存在を考えてきた。我々は今このことを確認するだけではなく、同時にこの歴史からヒントを得る。物解釈において質料と形式を手掛かりにした解釈が優位を獲得したのは偶然なのか。この物規定は道具の道具的あり方の解釈を源にしている。道具という存在者は特別な仕方で、人間が思い描くに近しいものであるが、我々自身が生産して存在するに至るからである。なじみ深い存在者である道具は、同時に物と作品との中間に位置している。我々はこのヒントに従い、まず道具の道具的側面を探求する。おそらくそこから物の物的側面や作品の作品的側面についても何かが明らかになるだろう。ただ我々は性急に、物と作品を道具の変種とすることは避けねばならない。それでも我々は、道具のあり方においてもなお(存在の歴史に関わる)本質的な区別があるかもしれない、という可能性は無視する。

p.26第二段落
いかなる通路が道具の道具的側面に達するか。道具が真実何であるかを、我々はいかに経験すべきか。今必要なやり方は、くだんの解釈による干渉をもたらすかの試みから遠ざからなければならない。確実にそれを遠ざけるのは、我々が哲学的な理論を用いず道具を単に記述する場合である。

p.26第三段落
普通の道具、一足の農作業用の靴を例にしよう。それを記述するには、現物を提示する必要すらない。誰でも知っている。しかし直接的な記述が大事なので、具体的説明を容易にするのがよいだろう。絵画表現が十分その助けになる。そのためにゴッホの有名な絵を取りあげよう。彼は同様の靴の絵を何枚か描いた。その絵に何を見るべきか。誰でも何が靴に属するか知っている。木靴や靭皮の靴でなければ革の靴底と甲革が縫い目と鋲で継ぎ合せてある。そのような道具が履くのに役立つ。畑仕事向きとかダンス用とか、有用性に応じて、素材と形式は異なる。

p.26第四段落
このような当然の記述は我々がすでに知っていることを説明するだけである。道具の道具的あり方はその有用性にある。しかしこの有用性自体はどうなのか。我々はすでに有用性で以て道具の道具的側面を把握しているか。それがうまくいくよう、我々は有用な道具をその働きの状態に求めてはならないか。畑の農婦は靴を履いている。ここで初めて靴は、それであるとされる物(was sie sind)となる。農婦が仕事の際に靴のことを考えたり、それを観察したり、感じたりしなければしないほど、靴は真にそのような物となる。このようにして靴は実際役に立つのだ。道具使用のこの経過において我々は道具的側面に実際出会うに違いない。

p.27第二段落
我々は、一足の靴を一般的に思い浮かべたり、絵の中の脱がれた靴を注視したりするかぎり、決して道具の道具的側面が真実何であるかを経験しないだろう。ゴッホの絵によっては、この靴がどこにあるかさえ確認できない。この靴の周囲には、それが属し得るものが何もなく、ただ不定の空間がある。その使用を示すような、畑や野道の土塊さえ付着していない。一足の農作業靴、それ以外何もない。でも…。

p.27第三段落
履き古した靴の内部の暗い開口部から、仕事で歩む労苦が覗く。靴のどっしりとした重さに、激しい風にさらされた、遠く伸びた一様な畝を、緩慢に歩行する粘り強さが溜まっている。革には土の湿りと豊かさがある。靴の下に夕暮れの野道の孤独が入り込む。靴の中では、大地の密やかな呼びかけ、熟した穀物の静かな贈り物、冬の畑の荒涼とした休耕地の説明されない拒絶が反響している。この道具に浸透するのは、パンを得る確かさについての声なき不安、困窮の再克服による無言の喜び、誕生への震えと死の切迫への戦慄である。この道具は「大地」(Erde)に属しており、農婦の「世界」(Welt)において守られている。この守られた帰属から、道具そのものは、それ自体に安らう物へと生成する。

p.28第二段落
しかしこういったことすべてを、我々はおそらく絵の中の靴だけから見てとるのである。それに対して農婦は簡単に靴を履く、靴を履くことがそのように簡単であるならば。いつものように農婦は晩遅く激しくも健康的な疲労を感じて靴を脱ぎ、まだ暗い朝まだきに靴に手を伸ばし、休日には靴の傍を通り過ぎる。彼女はこうしたことすべてを、観察せずとも知っている。道具の道具的あり方はその有用性にあるが、有用性自体は道具の本質的存在の豊富さにある。我々はそれを信頼性と呼ぶ。信頼性があるから、農婦は道具により大地の無言の呼びかけの中に入れられる。道具の信頼性の力によって、彼女は自分の世界を確信する。世界と大地は、彼女および彼女と同様に存在する人達にとっては、このように道具にだけある。「だけ」という言い方は誤っている。なぜなら道具の信頼性がまず単純な世界に保護を与え、大地に絶え間ない殺到の自由を保証するからである。

p.28第三段落
道具の道具的あり方すなわち信頼性は、すべての物をその様態と広がりに応じて束ねる。道具の有用性は信頼性の結果に過ぎない。前者(有用性)は後者(信頼性)の中で反響し、後者なしには何物でもない。個々の道具は使い古され消費される。同時に使用は消耗に至り、すり減り、日常的となる。かくて道具的あり方は荒れすさみ、単なる道具に堕する。このような道具的あり方の荒廃は信頼性の消失である。使用物がかの退屈なほど執拗な日常性をもつ要因であるこの消失は、もはや道具的あり方の根源的本質を証するものでしかない。道具の消耗した日常性は、唯一でそれに固有に見える存在様式としてしゃしゃり出る。もはや剥き出しの有用性が見えるだけである。それは、道具の根源が素材に形式を刻印する製作にある、という外観を生み出す。にも拘わらず道具は真の道具的あり方にもっと遠くから至る。素材と、形式と、両者の区別とはもっと深い根源をもつ。

p.29第二段落
それ自体の内に安らう道具の安住は信頼性にある。信頼性において我々は道具が真に何であるかを見てとる。しかし我々は、初めに探求した物の物的側面についてはまだ何も知らない。ましてや、我々が本来専一に求めた芸術作品という意味での作品の作品的側面を知らない。

p.29第三段落
あるいは作品の作品的あり方について我々は、知らぬ間に、いわばことのついでに、何かをすでに経験しただろうか。


p.29第四段落
道具の道具的あり方は発見された。だが、いかにして? 実際目の前にある靴の記述や説明によってではなく、靴製造工程に関する報告によってでもないし、あちこちで生起する靴の実際の使用を観察することによってでもない。それはもっぱら我々がゴッホの絵に直面することによってである。この絵が語ったのだ。作品のそばで、我々はいきなり、日頃の居所とは別の所にいることになったのだ。

p.29第五段落
芸術作品は靴が真に何であるかを知らしめる。我々の記述が主観的行為として、すべてを描写し、それを作品に読み込んだ、と考えようとするならば、それは最悪の自己欺瞞だ。ここで問うべきことがあるとすれば、それは、我々が作品のそばであまりにもわずかなことしか経験せず、その経験をあまりに大雑把に、あまりに直接的に語った、ということでしかない。しかし何よりも作品は、第一印象はそうかもしれないが、道具の何であるかをより分かりやすく説明するためにひたすら奉仕するものではない。むしろ、作品によって初めて、そして作品においてのみ、道具の道具的あり方が特に出現するのである。

p.30第二段落
ここで何が生起しているのか。作品において何が起きて(am Werk)いるのか。ゴッホの絵とは、一足の農作業靴という道具が真に何であるかを開示したものである。この存在者は存在の隠れなさのうちに入っていく。存在者の隠れなさをギリシャ人は aletheia と呼ぶ。我々は「真」と言って、この語を用いて思考することをほとんどせずに済ませている。存在者の中身やあり方において存在者の開示が行われるとき、作品においては真理の出現が起きている。

p.30第三段落
芸術作品において、存在者の真は作品の中に自らを置く (sich ins Werk setzen)。ここで「置く」とは定置すること (zum Stehen bringen) を意味する。存在者である一足の農作業靴は作品において、存在の光の中に位置するようになる。存在者の存在はその輝きの常立の中に現われる。

p.30第四段落
そうであるならば、芸術の本質とは、存在者の真が<作品中に自らを置くこと>であろう。しかし従来芸術は美しいものと美に関わり、真を問題にしてこなかった。そうした作品を生み出す(芸)術は、道具を制作する手工業的な(技)術と区別して、美術と呼ばれる。美術において、(芸)術は美しくないが、美しいものを生み出すので、美術と呼ばれる。それに対して真は論理学に属する。だが美は美学のためにとって置かれる。

p.31第二段落
あるいは「芸術は真が作品中に自らを置くことである」という命題とともに「芸術は現実の模倣であり描写である」というあの、幸いにも克服された見解が息を吹き返すのだろうか。目の前のものの再現は存在者との一致、それとの間合いの測定を要する。それを中世は adaequatio と称し、アリストテレスは homoiosis と呼んだ。存在者との一致は長い間、真理の本質と見なされている。だが我々は、ゴッホのあの絵は目の前の一足の農作業靴を写生し、それに成功したから作品である、と考えるだろうか。あの絵は現物の写しをとり、これを芸術的…制作の産物の中に移し入れた、と考えるだろうか。断じて。

p.31第三段落
かくて作品において大事なのは、そのつど目の前にある個々の存在者の再現ではないどころか、まさに物の普遍的本質の再現である。しかし、芸術作品と一致するような、この普遍的本質は、どこに、また、どのように存在するのか。ギリシャ神殿はいかなる物のいかなる本質と一致するだろうか。神殿の理念が建築物に表現されているなんてあり得ないことを、誰が主張できるだろうか。それでも、そのような作品において、それが一つの作品であるならば、真がその作品中に置かれるのだ。あるいはヘルダーリンの讃歌『ライン』を思い浮かべてみよう。詩人に対し、何がここに、またどのように差し出されており、詩において再現され得るようになっているのか。讃歌や同様の詩の場合にも既存の現物と芸術作品との模写関係を考えても明らかにだめかもしれないとすれば、C.F.マイヤーの詩「ローマの泉」が示す類の作品によって、作品は模写する、という見解は最もよく証明されるだろう。

ローマの泉

噴水が上がり、降りそそぐ
大理石の水盤の円を満たして
その水盤は、ヴェールを被ったようにして、溢れだす
(噴水は)第二の水盤の底に(そそぐ)
第二の水盤は、過剰になって、あたえる
第三の水盤に、激しく波立って、その溢れる水を
それぞれが、うけとると同時に、あたえ
そして流れ、かつ安らう

ここでは、現実にある泉が写しとられてはいないし、あるローマの泉の普遍的本質が再現されてもいない。しかし真が作品中に置かれている。いかなる真が作品中に生じるのか。そもそも真は生じ、かく歴史的であり得るのか。真は非時間的で永遠なものである、と人は言う。

p.32第二段落
作品において働く芸術というものを発見すべく、我々は芸術作品の現実性を探し求める。作品の最も身近な現物であると判明するのは物的下部構造である。しかし、この物的なものを把握するのに、伝統的な物概念は不十分である。なぜならこの概念そのものは物的側面の本質を捉えそこなうからである。支配的物概念、すなわち形成された質料としての物は、物の本質からではまったくなく、道具の本質から読みとられている。さらに、もう長いこと、道具的あり方は存在者の解釈において特異の優位性を主張しているということも、明らかだ。それにも拘わらず殊更考慮されたことのない、この道具的あり方の優位性は、道具的側面への問いを、周知の解釈を回避しながら、改めて立てるよう示唆している。

p.33第二段落
道具が何であるかを、我々は作品によって告げられた。それによって、いわば秘密裡に、作品において起きていることが明るみに出た。それは存在者の存在状態での開示であり、真の生起である。しかし、もし作品の現実性が作品において起きていること以外のいかなることによっても規定され得ないのであれば、現実の芸術作品をその現実性において探すという我々の企てはどうなるだろう。作品の現実性を真っ先にかの物的下部構造において推定するうちは、我々は間違っていた。我々は今や、我々の考察の奇妙な結果に―それをなお結果と呼び得るとして―直面している。二重のことが明らかになる。
一つには、作品に付随する物的なものを把握する手段、すなわち支配的な物概念が不十分である。
もう一つ、同時に我々が作品の最も身近な現実性として把握しようと欲したもの、すなわち物的下部構造がそのようなあり方では作品の一部をなさないのである。
我々が作品に付随するそのようなものを目指すやいなや、我々は知らぬ間に、作品を道具と解釈していた。しかもその道具に、我々は芸術的なものを含むべき上部構造を認める。しかし作品は、そこに付着する美的価値を与えられた、いかなる道具でもない。そんなものが作品ではないのは、単なる物が、有用性や製作といった本来の道具的性格を欠けば、道具でないのと同様である。

p.34第一段落
作品への我々の問い方は動揺する。なぜなら我々が問うたのは作品ではなくて、なかば物であり、なかば道具であったからである。しかしこれは、我々が初めて展開した問い方ではなかった。それは美学の問い方である。美学が予め芸術作品を考察する仕方は、あらゆる存在者についての伝統的解釈の影響下にある。だが、習慣的な問い方の動揺は本質的なことではない。重要なことは、最初の開眼であり、それによって、もし我々が存在者の存在を考えるなら、作品の作品的側面、道具の道具的側面、物の物的側面が初めて我々に一層迫ってくる、ということが見えてくる。そのために必要なのは、先だって自明なことの制約が瓦解し、周知の疑似概念が片付けられることである。それゆえ我々は回り道をしなければならなかった。しかし回り道は同時に我々を、作品に付随する物的側面の規定に至り得る道へと進ませた。作品に付随する物的側面を拒否すべきではない。しかしこの物的側面は、すでに作品の作品的あり方の一部をなすなら、作品的側面から考察されなければならない。もしそうであるならば、作品の物的現実性の規定に至る道は、物を通じて作品に達するのではなく、作品を通じて物に達するのである。

p.34第二段落
芸術作品は、それなりの仕方で存在者の存在を開示する。作品において、この開示、すなわち露呈、つまり存在者の真が生じる。芸術作品において、存在者の真は作品の中に自らを置いたのである。芸術とは真が<作品中に自らを置くこと>である。真自体は何であるのか、時に芸術として生じることがある真とは。この<作品中に自らを置くこと>は何であるのか。

2013/2/14
ハイデガー『芸術作品の根源』読解(7)
(使用テキスト:Reclam 版 Martin Heidegger, Der Ursprung des Kunstwerkes)

p.21第三段落要約

まとめると、

道具(例:靴)= 制作物 (fertiges)、それ自体の内に安らう(in sich ruhend)
単なる物(例:花崗岩の塊)= それ自体の内に安らう、独自生成的 (eigenwuechsige)
芸術作品 = 独自生成的(自足的存在 selbstgenuegsames Anwesen)、制作物

道具と単なる物と作品の三者の関係が述べられます。二者同士共有する特徴があります。

p.22第二段落

要約:
質料・形式結構は、道具であるということを規定し、あらゆる存在者の、直接理解可能な組成と解される。制作者自身が、道具が存在するに至る仕方に関与するからだ。道具が単なる物と作品との間の中間に位置するかぎり、道具的あり方(質料・形式結構)を、物や作品を含むすべての存在者の理解に役立てることは、当然だろう。

コメント:
Zeugsein を「道具的あり方」と訳しました。関口訳では「道具存在」です。これは「道具があること」ではなく、「道具であること」でしょう。以下同様に Dingseinを「物的あり方」、Werksein を「作品的あり方」としました。
 ここで著者は、道具的あり方を検討することが物や作品の理解につながると考えているようです。

p.22第三段落

要約:
質料・形式結構をあらゆる存在者の組成とみなす傾向は、すべての存在者を神の被造物とする信仰にも動機づけられている。この信仰に関わる哲学では、確かに、神の働きは職人の作業とは異なるけれども、トミズムによって、ens creatum 創造された物は materia 素材と forma 形の統一から成ると考えるならば、信仰は一つの哲学から解釈される。この哲学の真理は存在者の隠れなさにあり、その隠れなさとは信仰において信じられた世界とは別のあり方をしている。

コメント:
質料・形式による存在規定と神学との関係が述べられます。真理の隠れなさ Unverborgenheit ということは、あとで芸術作品についても言われます。真理が隠れるとか、隠れないとか、これは一体どういうことなのでしょうか。芸術の場合そもそも「真理」とは何なのか。命題で表現される単なる事実でもなさそうです。あとを読んでもそれがよく分からないことが、不満です。

p.22第四段落

要約:
信仰よる創造観念は存在者に関する知識全般を導く力を喪失し得るけれど、神学解釈としての質料と形式による世界観はそのまま残り得る。実際それは中世から近代になっても残っている。この形而上学は中世的に特徴づけられた形相・質料結構に基づいており、形相・質料という言葉は eidos と hule を想起させる。質料・形式による物解釈は中世的であれ、カント風超越論的であれ、周知・自明のものとなったが、またそれゆえに、この解釈は他の物解釈に劣らず、物の物的あり方に対する侵害(Ueberfall)となる。

コメント:
物を解釈 Auslegungen することは侵害 Ueberfall になるということでしょうか。「解釈」という言葉に否定的な意味合いがあるのかしら。

p.23第二段落

要約:
本来的な物を「単なる物」と称した。「単なる」とは「使用」や「制作」という性質をもたないことだ。単なる物は一種の道具だが、道具的あり方を剥奪された道具である。そこに物的あり方はなお残存しているが、それは殊更規定されない。道具的側面をすべて取り去っていくと物の物的側面が姿を現わすかどうかが問われる。かくて質料・形式結構による第三の物解釈も、物を侵害することが明らかになる。

コメント:
p.21第三段落のまとめで述べられた「単なる物」の in sich ruhend は道具とも共通の性質ですが、それも道具的側面の一つとして取り去るということでしょうか。そうして残るのは「単なる」物でもない物ということになります。
 「単なる物は一種の道具」「道具的あり方を剥奪された道具である」という言っているので、道具がより普遍的な概念であるとも考えられます。例えば、単なる石が重しという道具として使われるとか、考えられはしますけれど…。あるいは、すり減って使い物にならなくなったやすりとか、道具だけれども道具的あり方をしていない…。

p.23第三段落

要約:
物を、特徴の担い手、感覚的多様性の統一、形成された質料とする前述の三解釈は。歴史的過程で結びつくともに、拡張され、物・道具・作品に等しく妥当することとなった。それら解釈から、物・道具・作品についてだけでなく、存在者全般についても考える思考法が生まれる。なじみ深いこの思考法は、存在者の直接経験全部を先取りするが、先取りすることで、その時々の存在者の存在を思慮することを妨げ、ついに、物の物的側面、道具の道具的側面、作品の作品的側面に至る道を閉ざすことになる。

コメント:
伝統的形而上学に対するハイデガーの批判が述べられているのでしょうか。先取り Vorgriff とは先入観と言い換えてよいでしょうか。

p.24第二段落

要約:
上述のことがあるから、物概念について知る必要がある。物概念の由来や、果てしない干渉、またそれらの見かけの自明性をよく考えるためである。物概念の知識は、物の物的側面、道具の道具的側面、作品の作品的側面を視野に収め言葉にしようとするならば、猶更必要となる。ここで必要な唯一つのことは、かの思考法による先取りや干渉を遠ざけて、物なら物をその物的あり方に基づかせることである。存在者を単にそのまま存在者であらしめることは極めて容易に思われる。それで最難事に直面することもなさそうだが、存在者に背を向ける無関心とは正反対のことが意図されるとすれば、問題ないだろう。我々は存在者に向き合い、存在状態の存在者そのものについて考えるべきだが、同時に存在者をその本質においてあるままにしておかねばならない。

コメント:
単なる物、道具、作品といった概念の根本にある(共通の)物の概念の重要性が語られているようです。それを理解するには、物すなわち存在者を、そのあり方のままに(解釈することなく)考察しなければならない、ということでしょう。

p.25第一段落

要約:
このような思考法は物の物性を規定する際、最大の抵抗に遭うように思われる。目立たぬ物は執拗に思考を逃れる。単なる物のこうした自己抑制、自存的で何物にも押しつけられないあり方は、その本質に属するのか。それは思考になじまないか。そうだとしたら、無理してはだめだ。

コメント:
読書会で私は、下から6行目 Muss dann jenes Befremdende und Verschlossene 以下段落最後まで、もう少し忠実に、

かの奇異で弧絶したものは、物について考える思考にとって、なじみのものになってはならないか。そうであるなら、物の物性に至る手段を無理に手に入れる必要はなかろう。

と訳しました。(im Wesen des Dinges の訳語が抜けています。また Dinghaften を「物的側面」と訳すべきでした。)関口訳では、「なってはならないか」が「なるはずはないのではないか」と、また「必要はなかろう」が「ゆるされない」としてあります。「必要なかろう」は私の誤訳で「ゆるされない」に訂正します。私の訳では「なる」可能性を認めています。関口訳はその可能性を排除しているように読めます。それから「そうであるなら」 Steht es so を私は「なじみのものになるとしたら」の意味に取っています。
 関口訳「なるはずはないのではないか」の方が次の段落と滑らかにつながるようにも思います。そこでは、物性自体の探求は行き詰るから道具の道具的側面から考察しよう、という具合に話が進んでいくからです。
 訳文の違いはともかく、「最大の抵抗」とか「目立たない」とか、どういうことなのか、もう少し説明がほしい。
2012/11/25
ハイデガー『芸術作品の根源』読解(6)
(使用テキスト:Reclam 版 Martin Heidegger, Der Ursprung des Kunstwerkes)

前回 Form を「形相」としていましたが、「形相」に当たるギリシア語は eidos であり、ハイデガーのテキストでは、Form に当たる語を morphe としています。したがって以下では、Form を「形式」と言い換えることにします。

p.19第三段落(続き、6行目から)

要約:
質料・形式の区別が芸術理論と美学のための概念図式そのものであるという事実は、その区別が十分根拠をもつとか、芸術や芸術作品の領域に根源を有するとかいうことを証するものではない。さらに、この対概念の妥当範囲は美学の領域を超えている。形式と内容とは何にでも当てはまような至極普遍的な概念である。さらに、形式が合理的(論理的)、質料が非合理的(非論理的)なものに分類され、質料・形式の対概念が主体客体関係と結び付けられるならば、無敵の概念機制を手中にすることになる。

コメント:
ハイデガーのテキストには、質料・形式の対概念が芸術理論や美学においていかに用いられてきたか、ということについての具体的記述はありません。読者としては、具体的データが与えられてないので、検討することができず、おとなしく「ああ、そうですか」と言って引きさがるほかありません。それでも著者はここで、重大で興味深い事実に言及していると思います。さらに合理的とか論理的とか、それが何を意味するか気になるところです。

ハイデッガーは、二元論的解釈の固定化を廃しようとしているのではないでしょうか。二元論には、分けて考えることによって片方のものしか考察できなくなるという弊害があるからです。

ハイデガーの考えはともかく、二元論にそういう弊害があるのでしょうか。私は、二元論的な思考というのは知性の必然的結果であるように思います。二項として対比させることでしか考えられないことがあるでしょう。あることを立てれば、必ずその否定が立ち上がる。真偽、善悪、美醜、表裏、陰陽、心身その他もろもろ。それとも二元論は、一方を採り他方を排する思考法なのでしょうか。


p.20第二段落

要約:
この質料・形式の区別を用いて、単なる物の領域を、他の存在者と区別して、どう画定したらよいだろうか。質料・形式による特徴づけは(前段に述べたような)対概念の拡大と空疎化をやめさえすれば、領域画定力を回復するかもしれない。しかしこれは「その特徴づけが領域画定力を発揮するのは、どの存在者領域であるか知っていること」が前提だ。この領域が単なる物の領域であるというのは、まだ仮定に過ぎない。美学における質料・形式という概念結構(Begriffsgefuege)の多用は、質料と形式が芸術作品の本質を古来より規定するものであって、そこから物へ転用された、という思いを抱かせる。質料・形式という結構(Gefuege)は、物の物性、あるいは芸術作品の作品性のいずれに起源を有するのであろうか。

コメント:
まず、「単なる物」という概念の内包と外延をまだ正確には知らないということ、これは p.8 あたりで出てきた芸術と作品を巡る循環と同形の語り方であるようにも思われます。
 次に、「単なる」という言い方は注意を要します。p.21第三段落あたりを読むと分かりますが、芸術作品から芸術性を取り去ったら単なる物になる、というわけではない。芸術作品イコール単なる物プラスαではない。単なる物にあって芸術作品にはない特質がある、ということです。bloss ってどういうことなんだろう。言葉の使い方があまり clear ではない。

単なる物とその他の存在するもの、質量と形相、どちらの区分が根源的なのかということが問われているのではないでしょうか。

そうだすれば、ハイデガーは前者(単なる物とその他の存在者の区別)をより根源的と考えているのではないかしら。あるいは in sich ruhend といった概念がより根源的であると。



p.20第三段落

要約:
それ自体の内に休らっている花崗岩の塊は、不格好であれ、ある確定した形式をもつ質料的なるものである。ここで形式とは、質料部分の空間的な場での配置・配列であり、その結果質料は輪郭をもつことになる。しかし、壺や斧や靴も、形式をもつ質料であり、これらにおいては輪郭としての形式は、質料部分を配置した結果ではなく、逆に形式が質料配置を決定している。その上、形式は、壺の不浸透性、斧の固さ、靴の適度の柔軟性など、質料の性質や選択さえ
前もって指定する。さらに、この形式・質料の機能的結合(waltende erflechtung)は、壺、斧、靴を有用にするものにより、予め規定されている。この有用性は、壺、斧、靴といったあり方をしている存在者に、あとから指定されるものではないし、目的として先立つものでもない。

コメント:
「それ自体の内に休らっている」 in sich ruhende は、p.18第二段落下から4行目にも同様の表現がありました。ハイデガーによるとこれは芸術作品にはないあり方です。それ自体として完結しており、もっと言えば、人間の関心とは無関係に存在し得る、ということでしょうか。あとを読んで想像するに、人の関心の対象となるのは道具です。
無関係というのは言い過ぎのように思われます。

そうですね。私のコメントは思慮を欠いていました。これに関し、二点述べておきます。
 第一に、p.23第二段落では、Das blosse Ding ist eine Art von Zeug と言い切っています。だから、単なる物を道具と峻別することはできない。
 第二に、「人間の関心」に関して、単なる物の方が道具よりも我々の関心を引く、とハイデガーは考えたかもしれない。例えばp.27の1行目から3行目に「畑仕事で農婦が靴のことを考えたり、観察したり、感じたりしなければしないほど、靴は真実それであるところのものとなる」と書かれています。道具の道具たる働き(ここでは履いている靴の有用性)は意識されない。関心の対象にならない、と言えるでしょう。
 一方、単なる物は我々の関心を引く場合がある。風景を構成する一点だったり、何かを作る素材になったりもします。花崗岩でテーブルを作ったり、花崗岩を彫刻したりするとき、その素材たる岩石が我々の関心と無関係であるはずはありません。

 著者は形式を輪郭と関係づけていて、輪郭とは形のことですから、Form をここでは「形」と訳す方がよいかもしれません。形式(形・輪郭)は質料(素材)の部分(要素)を空間的(上下・左右・前後)に配置したものとして説明されます。
 これは空間芸術である美術だけでなく、音楽についても言えそうです。ごく単純に旋律を形と見て、ド・レ・ミ・ファという四つの音(素材)しかなかったとすれば、それらをド・レ・ファ・ミなど順に並べて旋律を作ることができます。もちろん実際の作曲では、ドの音一つとっても、音程、強弱、持続時間などいろいろで、また旋律も複数のものが複雑に絡み合って一つの曲を構成するので、音楽作品を質料と形式で最後まで分析できるのか、よく分かりません。
演奏ではなく、楽譜や楽典についての考察ですね。

 さて、この段落では、突如話が道具の方に大きく転回します。あとを読んでいくと、今までの三つの物解釈の検討は、本筋ではなく「枕」だったのかという感じさえします。
 要するに道具にあっては、形式(形)も質料(素材とその性質)も有用性が決める、ということです。確かに、ペンでも鋏でも、使いやすい(役に立つ)形や材質というものはありますね。工業製品は使いやすさ(有用性)を一番重視して設計されるでしょう。それでも万人向きな製品というものはない。個々の消費者の好みは違うので、マーケットでは同種の製品でもスペックが違うものが提供されたりします。だから有用性は形状や素材をすべて決定するとは
言い切れないでしょう。

p.21第二段落

要約:
有用性は、道具的存在者の根本的特徴であり、そこから存在者は我々を見返すとともに現前し、しかるべき存在者となる。この有用性は形式や質料の選択、そして質料・形式結構の支配の拠り所となる。その支配を受ける存在者は必ず製作過程の産物であり、それは道具として製造される。存在者を規定するものとしての質料・形式は、道具の本質に由来する。「道具」とは使用や慣習のために生産された物を指す。質料・形式は単なる物の物性を根源的に規定するものではない。

コメント:
uns anblickt, d.h. anblitzt とはどういうことか、読書会で問題になりましたね。似た表現が p.19三行目あたりにあります。そこでは「物が外観を通して我々に関わるような直接的光景(unmittelbaren Anblick)」と言われていました。何かある物を見るということは、それが人や動物のような視覚をもった存在者でなくても、それに見返されている、ということでしょうか。物理学でいう作用と反作用のように…。見るものと見られるもの双方に視点を置いて考えているのかもしれない。しかも見られているのは道具であり、その見返しは、道具としてのアピールで我々の関心を引くことなのでしょうか。
 もう一つ読書会で問題になったのは Herrschaft という語でした。私はあのとき、これは三つの物解釈のうちでの優位性のことだと申しましたが、いい加減な解釈だったと反省しています。これは同ページ2行目の waltende と同じような表現だと思います。Herrschaft を受けて次頁に untersteht とあります。何を支配するかと言えば、生産物たる存在者を支配するのですが、もっと分かりやすく言えば、生産物の性格を定める、デザインするということになるでしょう。(ちなみにp.25第二段落9行目 Vorherrschaft は解釈の優位性ということですけれど。)
 質料・形式を持ち出してきたのは、実は道具の本質を論じるためであったかとも感じられます。
私も同じ考えです。あと付け足すならば、既存の概念を否定的に論じるためだともいえるでしょう。
2012/10/7
ハイデガー『芸術作品の根源』読解(5)
(使用テキスト:Reclam 版 Martin Heidegger, Der Ursprung des Kunstwerkes)

p.15第三段落(続き)

文構造と物構造のどちらが元か、という問は未だ答が出ていないが、答が出せるのか疑わしい、と述べられます。

p.16第一段落

要約:
文構造と物構造は、その特質と相互関係において、ある共通の根源に由来する。
いずれにせよ、物の物性に関する第一の解釈は、我々が思っているほど自然なものではない。
それが自然に思えるのは、長いこと慣れてしまったからで、当初は馴染みのない異様なものであった。

einer gemeinsamen urspruenglicheren Quelle ですが、多分古代ギリシアに遡り、言語が構造をもつことへの意識や関心に由来することでしょう。
言葉が意味をもつとはどういうことか、という問題意識から、文構造と物構造の対応に思い至ったと想像されます。

p.16第二段落

要約:
物性に関する第一の解釈、第一の物概念は、単なる本来の物ばかりでなく、存在者全般にも適合してしまう。
さらに、この概念は物の物的側面、独自発生的で自足的なものを捉え損なっている。
この物的側面には長年暴力が加えられ、その暴力には思考が関わってきたという感情(Gefuehl)を、我々は抱くことがある。
こうした感情はratio に変じてしまった理性よりも、存在に対し開かれているがゆえ、理性的である。
この物概念はあらゆる物に妥当するが、現にある物を把握するのではなく、それに襲いかかるのである。

Eigenwuechsige und Insichruhende (独自発生的かつ自足的なもの)とは、石とか木とか人工でない自然物のことでしょう。

「暴力」および「感情が理性より理性的である」という二点につき、裂織さんから関口先生に訊いていただきました。
裂織さんのメールでのご回答を引用させていただきます。

>「暴力とは何か」というのは、物を物として見ずに、あらゆる連
>関をはぎとって孤立させた対象として扱うこと、科学技術的に扱
>うことだそうです。

>それから感情がより理性的であるといわれるのには、「理性」と
>いう語の問い直しが含まれているとのことでした。「理性」は、
>「ラチオ」すなわち「計算」「合理」として想定される概念では
>なく、ドイツ語のvernehmenのニュアンス「ものごとを聞く」の意
>を汲んだ受容的なものであるとハイデガーは考えるそうです。
>だから、「ラチオ」よりも「感情」のほうがドイツ語のvernehmen
>的である、というのが文意ではなかろうかと思います。

今読み直して、何を言おうとしてるのか分からないのは、p.17三行目

Dabei leistete das Schielen nach dem Ir-rationalen, als Missgeburt des ungedachten Rationalen, seltsame Dienste.

という文です。
全体が過去形の文であるので、前文で過去形で述べられた部分に対応すると考えると、Dabei は「理性が ratio に変じた際に」という意味になりましょうか。
私は初め、著者は非合理的なものに価値を認めていると解釈したのですが、Missgeburt とかseltsame とかネガティブな語を使用しているので、むしろ非合理
的なものに対して著者は否定的なのだと考えられます。
文の意味は、合理的なものを十分考えなかった結果生まれた非合理的なものが理性を毒している、ということでしょうか。それにしても分からぬ。
この箇所は、平凡社ライブラリー関口浩訳だと、25ページのうしろから4行目にあたります。ちなみにこの箇所に関しては、11/25に、やはり非合理的なものに価値を認めている、という見解で一致しましたね。

そういう見解で一致したつもりはありません。私が舌足らずだったようで御免なさい。ハイデガーは、感情や気分の方が ratio になってしまった理性よりも理性的だと言っていますから、確かに理性よりも感情に価値を認めています。しかし、その感情が非合理的であるとは言っていないことに、注意したい。そしてここでは、感情に劣るとされるその理性は「合理的」と誤解されている(rational missdeutet wurde)と言っています。だから、本当は感情の方が合理的なのかもしれないでしょ。(そうだとしても ir-rational の意味は依然として判然としませんけれど。)

なるほど、感情と非合理的なものとを分けて考える必要がありました。

2012.11.29追記。レヴィナスに次のような記述がありました。「「正気の」ひとが営む思考に反対して、プラトンは神の賜物である狂気、「翼のはえた思考」の価値を肯定しているが、ただし、狂気は非理性的な意味をもつのではない。狂気は「慣習法令との神的本質を有した断絶」にほかならない。第四の狂気、それはイデアにまで上昇する最高の意味での理性そのものである。神の憑依―神がかりの熱狂―は非理性的なものではなく、孤独な、あるいは内的な思考(…省略…)の終末であり、新しきものおよび本体の真の経験の始まりであり、すでにしで<欲望>なのだ。」(合田正人訳、『全体性と無限』、国文社、p. 57)


「襲いかかる」ueberfallen とはどういうことなのか。菊池訳では「おっかぶせ」となっています。
物と我々との間に入り込んで物を覆い隠してしまう、という意味なら「おっかぶせ」でいいと思います。
不意打ちという意味もあるのかしら。ueberfallen は次の段落初めの「Ueberfall を回避する」に繋がります。
二人でいろいろ話し合った結果、「襲いかかり」は、「暴力」と類似の概念ではないかという読みに行き当たりましたね。ちなみに私が当初予想していた「襲いかかり」の意味は、関口訳p. 36「…これらの解釈から、ただ単に、物、道具、作品にかんして個別的に思索できるだけでなく、存在するものの一切にかんして一般的に思索できる思索様式が生じる。このような長い間周知のものとなっている思索様式が、存在するものについての直接的な経験の一切を先取りする。この先取りがそのつど存在するものの存在について省察することを妨げる。」の部分で言われていること、でした。

「襲いかかる」と「暴力」とは互を暗示する語で、似たような文脈で登場すると考えられますからね。でも、かの「暴力」とは「襲いかかり」のことである、と結論するのは、ちょっと待った方がいいような気もします。Ueberfall が為されるのは、第一の(特徴の担い手としての)物解釈と第三の(形を付与された質料としての)物解釈です。(p.23の第一段落下から2行目、同頁第二段落下から2行目に Ueberfall が出てきます。)裂織さんが邦訳から引用した箇所を含む段落は、第二の物解釈も含めた三解釈の結合作用のよう
なものについて述べている所で、「襲いかかり」に関係するのか疑問があります。うむ、でも確かに「襲いかかり」は「妨げる」ものではありますね。私は、むしろp.24第二段落8行目

Dazu ist aber nur eines noetig: unter Fernhaltung der Vor-und Uebergriffe jener Denkweisen das Ding z. B. in seinem Dingsein auf sich beruhen lassen.

の Uebergriffe が Ueberfall と似たような意味じゃないかな、と思ったりします。因みに英訳者は両方 assault という語を当てています。この次の文の

das Seiende nur das Seiende sein to lassen, das es ist.

は、「暴力」を「物を物として見ずに、あらゆる連関をはぎとって孤立させた対象として扱うこと…」との説明にある「物を物として見る」ということに他ならないと思います。解釈はそうだとしても、「物を物として見る」とはどういうことか、という問題はさらに考えなければならぬでしょう。


p.17第二段落

第二の解釈、物概念が導入されます。

要約:
概念や言説において、物と我々の間に入り込んでくるものを一掃すれば、我々は直接に現存する物と向かい合う。
これはつとに為されていることであり、視覚、聴覚、触覚など感官の伝達するもの、色や音や手触りなどの感覚において物は我々の身体に作用する。
物は感覚によって受容されるもの aistheton であり、そこから、感覚の多様性の統一という周知の物概念が生じた。
この統一を総和、全体、形態のいずれとみなすかは、この概念の基本的特質に影響しない。

p.17第三段落

第二の解釈の問題点を例(暴風、飛行機、車、ドアの音)を挙げて指摘しています。

二行目の

Das genuegt schon, um an ihrer Wahrheit zu zweifeln.

ですが、「そのこと(Das)は既にしてその(概念の)真理性を疑わしめるに十分である」という意味でしょう。
Das とは前文の「第一の解釈と同様 richtig und belegbar である」ことだと読めます。
菊池訳「この第二の解釈がまことであるかどうか疑ってみたらそれで十分です」は Das を um 以下を受けていると解釈しているようで、疑問を感じます。
関口訳では、伊藤さんの解釈と一致した訳がなされています。「すでにこのことだけでも、この解釈の真理性を疑うに十分である。」(p. 27)


ハイデガーは、音を聞くとき、音色や響きといった音の感覚ではなく、音を出す物自体を聞いているのだ、と述べて、だから物は感覚とは別物だと言いたいのでしょう。
 ここには、聞こえるもの、あるいは知覚されるものとして、何を想定するかという問題があります。
あまりに異様な対象を想定するとカテゴリーミステイクと言われてしまうでしょう。
 「ベートーヴェンのピアノソナタを聴く」
 「ピアノを聴く」
という言い方は問題なさそうです。しかし
 「ピアノの音を聴く」
は駄目でしょうか。
ピアノの調律師は、弦やハンマーといった物ではなくて、鳴っている音を聴くのではないか。
画家はパレット上で色を創りだすとき、絵の具という物ではなくて、視覚が受ける色を見ているのではないか。
 ただ感覚は持続しない。ドアの閉まる音などそれこそ瞬間的です。
一方、ドアなどの物は、移動したり解体したりしない限り、そこにあると言えます。
あとで Standhaftigkeit(常立性)とあるように、ハイデガーは、物はある時間不変でなければならない、との前提に立っているようです。
獏とした音全体を聞いているわけではなく、われわれが聞き分けられるものを聞いているのではないか、というのが私の提案です。(これには伊藤さんも肯定的であったと理解しています。)「音」には、「感覚」で受け取るような獏とした雑音全体という一面と、「物としての音」と言うことができるような、われわれにとって馴染みのある物の音たち、という一面があるのではないでしょうか。

裂織さんに説明されて、納得しました。私はハイデガーが「聞く」という語の用法を分析していると誤解していたようです。分析哲学者じゃないんだね。


p.18第二段落

第三の解釈、物概念へと話が進みます。

要約:
この物概念は、最大限の直接性において物を捉えようと企図するものであるが、感覚的に受容されるものを物的なものとして指定するかぎり、目的を達しない。
物は、第一の解釈では我々の身体から遠ざかり過ぎるが、第二の解釈では我々の身体に近づき過ぎる。
両解釈の行き過ぎを回避しなければならない。
物そのものは自足した状態に置かれなければならず、その常立性において受け取られなければならない。
このことが、前二者と同じくらい古い第三の解釈を生じる。

p.18第三段落

ポイント: Das Ding ist ein geformter Stoff.

要約:
(第一の解釈の)物の核となると同時に(第二の解釈の)色などの感覚を引き起こすものは、物の質料性(Stoffliche)である。
質料(hule)は形相(morphe)とともに物を規定し、物の常立、不変性は質料が形相とともにあることおいて成立する。
物とは形成された質料である。
この解釈は物の直接的な現われに基づき、物はその見え方(eidos)を通して我々に関わる。
質料と形相を組み合わせることで、自然物にも使用物にもよく当てはまる物概念がついに発見されたことになる。

p.19第二段落

第三の概念と芸術作品の関連が論じられます。

要約:
この物概念によって、芸術作品における物的なものとは何かという問に答えるならば、それは質料であり、質料は芸術的造形の基礎であり、下地である。
この明白・周知の事実確認を後回しにして先の二つの概念に寄り道したのは何故かと言えば、我々はまだこの第三の物概念を信用していないからである。

p.19第三段落

質料形相という対概念こそ、我々の動かなければならない領域で、一般的に用いられている、と述べられます。
段落二行目の

demjenigen Bereich ... innerhalb dessen wir uns bewegen sollen

(我々が動かなければならない領域)は、我々が今議論を進めるべきこの分野という意味でしょうか。

Die Unterscheidung von Stoff und Form ist, ... das Begriffsschema fuer alle Kunsttheorie und Aesthetik.

質料形相の区別は、極めて多様な仕方で為されるが、芸術理論と美学のための概念図式そのものである、と述べられます。
2012/9/11
ハイデガー『芸術作品の根源』読解(4)
(使用テキスト:Reclam 版 Martin Heidegger, Der Ursprung des Kunstwerkes)

p.14第二段落

主体、基体、偶有を表わすギリシア語がそれぞれラテン語に翻訳され、西洋の伝統的な存在解釈を確定したこと、しかしこれらのラテン語はギリシア人の根本的経験(griechische Grunderfahrung)を伝えていない、ということが語られます。

hupokeimenon → subjectum(主体)
hupostasis → substantia(基体、実体)
sumbebekos → accidens(偶有)

Erfahrung と言うからには、言葉は経験に裏打ちされていなければならない、ということでしょう。しかし著者はギリシア人でもないのに、どうしてギリシア的経験を、あるいはそのような経験の欠如を知ることができるのでしょうか。この疑問に対する答えは、著者がギリシア語を学び、ギリシア語の書物を読んできたから、というものでありましょう。古代ギリシア人と生活を共にしたり、彼らと会話したりすることはできないので、彼らの経験を知るには彼らの残した本を読むしかない。でも外国語を読むということは、辞書を引き、原語と母国語を対応させるということ、つまり翻訳という作業に帰着するのではないでしょうか。辞書の訳語が不適切であることを、いかにして著者は知り得たのでしょう。
 著者はそれを知らない、と私は言いません。(近代人はラテン語を経由せずに直接ギリシア語を学べるから、問題ないよ、と言われそうです。)しかし著者はここで折角ギリシア語とラテン語を挙げているので、それぞれの語の本来の意味を明確に述べ、ギリシア語からラテン語への翻訳により何が失われ、何が加わったかを明らかにしてほしかった。

この段落の7行目

Sie beginnt mit der Uebernahme der griechischen Woerter in das roemisch-lateinische Denken.

の Sie はその前の文の die abendlaendische Auslegung でしょう。ということは、存在者の存在に関する西洋的解釈はギリシア語からラテン語への翻訳とともに始まった、ということになります。しかも関口訳の註記によれば、その翻訳者はボエティウスであるらしい。ボエティウス(480-525)は西ローマ帝国が滅亡し、古典古代が幕を閉じた頃の知識人ですね。ハイデガーはそれ以前の時代、古典古代を abendlaendisch ではないと考えていたのでしょうか。

p.15第二段落

要約:
かくて物は偶有性をもつ実体と規定され、周知の見解に従えば、これは我々の物の見方に対応しているようにも見える。物に対する態度や物についての言表も、この物の見方に適合しているのは不思議ではない。文は物を表わす主語(hupokeimenon に由来する語)と属性を表わす述語から成り、この文構造には物の構造が対応する。主語述語の文構造は物の構造の反映(Spiegelbild)なのか、それとも後者は前者を足場にして描き出された(entworfen)のか。

entwerfen は 投影(project)という意味があるかもしれません。

物の構造とは、物が属性をもったり、他の物とある関係で結ばれていたりする状態のことでしょう。ウィトゲンシュタイン『論考』のSachverhalt や Tatsache に相当すると思われます。
 ハイデガーは、文構造と物構造のどちらが実でどちらが影かを問わなければならない(muessen wir fragen)と言います。それは、
(1)文構造が物構造を定める、
(2)物構造が文構造を定める、
どちらも言える。だからここにも前のコメントで述べたような循環がある、と彼は結論したいのでしょうか。
 文構造と物構造に(名詞と個物、動詞と関係といった要素同士の)一対一の対応があると単純に仮定すれば、(1)と(2)のどちらもメタ言語的な言明として言えそうですが、両者は言える場面(水準、次元)を異にすると私は考えたい。文構造と物構造の関わりを
(1)は語の意味に着目してアプリオリな観点から、
(2)は文の情報提供機能に着目してアポステリオリな観点から
捉えている、と思います。
  (1)について言えば、例えば、私たちは「湯が熱い」とか「湯がぬるい」と言いますが、「湯が冷たい」とは言わないし、「水が熱い」とも言わない。英語では "water is hot" も "water is cold" も OK ですね。「水」と "water" は指示する対象(外延)が重なる場合もあるが、厳密には同じでない。日本語と英語は異なる言葉(概念、カテゴリー)を世界に投影し、異なる構造を描き出しており、かくて文構造(言語)が物構造(事象)を定め(構成し)後者は前者に依存するわけです。
 (2)の観点からは「湯が熱い」という文は、例えば、風呂が沸いたという事実を伝えている(情報を提供する)と考えられます。ウィトゲンシュタインの『論考』のように考えれば、文は事象のシグナルであり、事象を写す像となります。無論、要素間の一対一対応が写像成立の条件です。かくて事象がしかるべき表現、つまり語の選択や配列を決定することによって、物構造が文構造を定めることになります。ただ、語の配列を決定すると言っても、語順が決まらない場合もあります。ドイツ語で "A ist B" と "B ist A" は文頭にくる語を主語とすれば、主語が異なり意味も異なりますが、後者を倒置文とすれば、語順は異なるが意味は同じと考えられます。(因みに "A is B" に相当するラテン語 "A est B" は6通りの語順が可能です。)だから語順そのものは物構造を反映しない。

p.15第三段落

人は言語表現での物の捉え方を物構造に転写しているというのが真相に近いのではないか。でもどうしてそんな転写が可能か明らかにしなければならぬだろう、と著者は言います。

段落6行目

... ohne dass nicht schon das Ding sichtbar geworden ist.

の ohne dass nicht は二重否定で、この前置詞節全体を肯定に解してよいのか否か、読書会で問題になりましたね。参考までに、

菊池訳:…物が見えるようになりもしないで…
英訳:... without the thing having already become visible.

二つの訳とも nicht をフランス語の虚辞の ne のように無視しています。私の調べたドイツ語文法解説書には虚辞の nicht などどこにも説明がありません。「もう物が見えていて」と肯定に取って問題はないという気がしてきます。
2012/8/27
ハイデガー『芸術作品の根源』読解(3)
(使用テキスト:Reclam 版 Martin Heidegger, Der Ursprung des Kunstwerkes)

p.11下から2行目

Ein solches Ding, das nicht selbst erscheint, ein "Ding an sich" naemlich, ist nach Kant z.B. das Ganze der Welt, ein solches Ding ist sogar Gott selbst.

「それ自体では出現しないもの、すなわち物自体の例として、カントは世界全体や神を挙げている」という意味ですが、ist の前の ein solches Ding を述語成分、ist の後の das Ganze der Welt とGott を主語とする倒置文と解する方が分かりやすい。

「物自体と出現する物、すなわち、そもそも存在するすべての存在者(Alles Seiende)を哲学言語では Ding と言う」とこの段落の最後で述べています。ドイツ語ではこのように all が単数名詞の付加語になることがあります。英語では all(すべての)の次に来るのは大抵複数名詞ですね。英語に慣れた者の感覚では、単数名詞付加語の all は奇異な感じがします。alle Seiende(複数形)では駄目なのでしょうか。
 ここでは包摂関係は Seiende Dinge となるのかしら。
イコールではないのですね。


p.12第二段落

Ding の例が挙がっています。飛行機、ラジオ、究極のものとしての(関口訳の註によると四終に含まれる)死と最終審判も Ding であり、芸術作品も Ding であると言う。しかし芸術作品の存在様式をもつ存在者(Ding)とそれ以外の存在様式をもつ存在者をまだ区別できないと言います。
 段落後半では Ding の範囲を、日常の言語表現に近づけて限定します。(このように日常言語を配慮するハイデガーが、哲学論文では日常言語を逸脱することを意に介さないことが多いように思われるのですが、日常言語は彼の哲学的思考にどんな関わり方をしていたのでしょうか。)
芸術的な飛躍にちかいものがあるのでしょうか。

 Ding と呼ぶのがはばかられるものがあるとして、神や農夫、火夫、教師などの人間、鹿、甲虫、茎などの生物があると言います。
 それに対し、普通に Ding と呼ばれるものとして、ハンマー、靴、斧、時計などの有用物、石、土塊、木片といった単なる自然の無生物を挙げています。
 少女を ein noch zu yunges Ding と呼ぶことがあると、Ding を人に当てはめる例外を著者は認めていますが、その理由は

weil wir hier das Menschsein in gewisser Weise vermissen und eher das zu finden meinen, was das Dinghafte der Dinge ausmacht.

と「我々はある点で、人間存在(人間であること)の欠落に気づき、物の物的側面(裂織さんの考えた Dinghafte の訳語を使わせてもらいます)を成しているものを認めようとしているからだ」と言うのですが、これは、少女を Ding と呼ぶのは「彼女を Ding と認めているからだ」と前文とほぼ同じ内容を繰り返しているだけで、理由が解き明かされていない。「ある点で」と言うが、それはどういう点なのか説明してほしい。説明するには言語学や社会学の知識が必要になると思いますが、その説明がないということに、哲学的な知の限界、視野の狭さを感じます。英語でも poor thing(気の毒な人)とか little thing(可愛い子)とか言ったりしますが、発話者の感情がこめられています。thing だから却って同情や愛情の対象になるという心理的な仕組みがあるのかもしれません。それにしても、感情の対象が Menschsein では全くないとは考えられないでしょう。
確かにそうかもしれません。※ドイツ語の先生に要・確認


das Reh in der Waldlichtung

Lichtung は著者の思い入れの深い語で後に頻出しますが、ここにさりげなく、複合語の中に挿入されています。指摘するほどのこと
か分からないけれど、森の空き地は Lichtung の原イメージかも。

p.12第三段落

前段ではいろいろな Ding が挙げられましたが、ここから単なる物(blosse Dinge)を考察していきます。道具ですらない単なる物が本当の物だと著者は言います。単なる物に基づいて、物一般の物性(Dingheit)が規定され、この規定が、物的側面そのものを特徴づけることを可能にし、かくて我々は(他の成分の付加された)作品という物のほとんど明白な現実を特徴づけることができる、と述べられます。
 物を考察することで芸術作品を理解しようとしているわけです。
「物」が前段に言うように存在者を意味するとしたら、その概念は最も包括的であり、カテゴリー階層のほぼ最上位に位置するでしょう。著者の言うように、作品は石であり、木であり、色であり、声であり、音である。このような多様な物のあり方に、単なる物の考察から到達できるのだろうか、という疑問が浮かびます。
少し前のところで挙げられている具体例がありますが、あれが中間的カテゴリーにあたるものかと思っていました。
「物」と「作品」の間にある中間カテゴリーがすっ飛ばされているのではないか。例えば、生物としての「人間」を理解するのに、「物」を考察するだけでは不十分であり、「物」から「人」へは、大雑把に考えても、物→生物→動物→脊椎動物→哺乳類→霊長類→ヒト、と多くの中間カテゴリーを経なければ到達しないでしょう。さらに、カテゴリー階層はこれ一つだけではない。作品は物質性をもつばかりでなく、価格のような経済的価値をもちます。マーケットで売買されて商品となり、誰かに所蔵されることで財産となります。この場合「商品」や「財産」が「作品」の上位カテゴリーと考えられるでしょう。
ハイデガーはこういった観点で芸術を見ることを嫌うような気がします。
「物」と「作品」の間の中間カテゴリーを考えていないように見えることが本書を読みにくくしており、徒らに読者の想像、あるいは忍耐を強いることになる、と思います。

p.13第二段落

要約しますと、古来存在者は基本的に物として考えられてきた。基本的な存在者たる物についての伝統的解釈が、物の物性を確定してきた。新規に考察する面倒を省くためにも、その伝統的な物解釈を確認してみよう、ということです。物とは何であるかという問に対する答は周知のものだ、とも言っています。

p.13第三段落

その物性解釈は、西洋的思惟において支配的であったため、つとに自明となり、今日ありきたりなものとなっているが、三つにまとめられる、と言っています。
 以下の段落で、順次それらの解釈を論じていきます。

p.13第四段落

花崗岩を例に説明します。物は属性(Eigenschaften)をもつ、と述べられます。ポイントは、

Das Ding ist, wie jedermann zu wissen glaubt, jenes, um das herum sich die Eigenschaften versammelt haben.

という文にあるでしょう。物は属性が纏わりつく核のようなものだとも言っています。核と属性に関連するギリシア語が引かれます。
分析的な定義といえますね。


...was sich mit dem jeweils Vorliegenden immer auch schon eingestellt hat und mit dabei vorkommt.

この einstellen と vorkommen の訳し分けが難しい。両方とも「生じる」という意味があります。einstellen には「来る」という意味があり、vorkommen には「存在する」という意味もあります。eingestellt habt を「到来した」、vorkommen を「生成する」と訳しましょうかね。ここではしかし、語の違いよりも、完了形と現在形という文法的相違に注目する必要がありそうです。参考までに英訳と邦訳を示します。

Hofstadter 訳:
that which always turned up already along with the given core and occurs along with it.

菊池訳:
はじめからあるものと折り合いをつけ、それと一しょになってでてくるところのもの

裂織さんは dabei を空間的な意味にとって bei dem Vorliegendenということだと解釈し、私も同意しましたね。

「当面のもの、提出されているもの、いま手元にあるもの、いま問題になっているもの」というニュアンスでしょう。


p.14第二段落

二行目の was hier nicht mehr zu zeigen ist は英訳では that lies beyond the purview of this essay とあり、「小論の範囲を超える」と片付けられていますが、スペースの話ではなくてもはや存在しない(だから示せない)こと(ギリシア人の経験)に言及しているのではないでしょうか。
私もそう思います。訳者の関口先生に聞いてみたいです。

2012/8/20
ハイデガー『芸術作品の根源』読解(2)
(使用テキスト:Reclam 版、Martin Heidegger, Der Ursprung des Kunstwerkes)

第四段落の続きです。

前回循環について考えましたが、その後、これは「解釈学的循環」と言われているものであることを Wikipedia で知りました。
Wikipedia の Hermeneutic circle の項に以下の記述があります。

Martin Heidegger (1927) developed the concept of the Hermeneutic Circle to envision a whole in terms of a reality that was situated in the detailed experience of everyday existence by an individual (the parts). So understanding was developed on the basis of "fore-structures" of understanding, that allow external phenomena to be interpreted or in a preliminary way.

Another instance of Heidegger's use of the hermeneutic circle occurs in his examination of The Origin of the Work of Art (1935-1936).
Here Heidegger argues that both artists and art works can only be understood with reference to each other, and that neither can be understood apart from 'art,' which, as well, cannot be understood apart from the former two. The 'origin' of the work of art is mysterious and elusive, seemingly defying logic: "thus we are compelled to follow the circle. This is neither a makeshift or a defect. To enter upon this path is the strength of thought, to continue on it is the feast of thought, assuming that thinking is a craft. Not only is the main step from work to art a circle like the step from art to work, but every separate step that we attempt circles in this circle. In order to discover the nature of the art that really prevails in the work, let us go to the actual work and ask the work what and how it is."

Heidegger continues, saying that a work of art is not a simple thing (as a doorknob or a shoe is, which do not normally involve aesthetic experience), but it cannot escape its "thingly character," that is, being part of the larger order of things in the world, apart from all aesthetic experience. The synthesis of thingly and artistic is found in the work's allegorical and symbolic character, "but this one element in a work that manifests another, this one element that joins another, is the thingly feature in the art work". At this point, however, Heidegger raises the doubt of "whether the work is at bottom something else and not a thing at all." Later he tries to break down the metaphysical opposition between form and matter, and the whole other set of dualisms which include: rational and irrational, logical and illogical/alogical, and subject and object. Neither of these concepts is independent of the other, yet neither can be reduced to the other: Heidegger suggests we have to look beyond both.

引用終わり。
第五段落と第六段落の全文を Albert Hofstadter の英訳で引用しています。
Ding に関する考察など、後のハイデガーの論述でも個物と概念の間の循環が暗示されます。
「解釈学的」と仰々しく形容されている位で、この循環は何か著者にとって大切な方法論であるのかもしれません(解釈学については何も存じませんのでお許しあれ)。
それはどういう方法論なのか、何を解明するのか、どんな有効性や適用範囲をもつのか、興味があります。
ただ、ここでハイデガーが述べていることは、ウィトゲンシュタインの側からは、普遍概念と個別事例に関して家族的類似を無視した議論として片付けられそうに思います。
最後の一文はもっと詳しく知りたいです。

ちょっと長くなりますが。
例えば「椅子」という身近な概念を考えてみます。私たちがその概念を獲得する(つまり「イス」という言葉の意味を知るようになる)のは定義によるのではない。子どものときに親や周りの大人達が「イス」という語を使用するのを聞く中で習得するのでしょう。
「こっちのイス」「あっちのイス」「イスに腰かけて」「イスに寄っかかるな」など様々な発言の中に現れる「イス」という音とそれら発言の場に必ず現われる同じような形の物体やそれに関わる大人達の表情・仕草など繰り返し経験する中で、推量を働かせ、「イス」が何かを理解するようになります。(と、これ『探求』の最初でア
ウグスティヌスの言ってることと同じですが。)子どもが「イス」と認識するのは、初めは一脚あるいは数脚でしょう。その後認識する「イス」の数は増えていきます。背もたれがあったり、なかったり、肘掛がついていたり、なかったり、イスも様々で、「イス」と呼んでよいかどうか迷わせられる物にも遭遇するでしょう。でも世界中の「イス」と呼ばれる物を全部知ることはない。少しずつ「イス」概念を拡張し改変していくのです。だから「イス」概念は固定したものではない。習得経験の違いによって当然、概念は人ごとに、社会ごとに、時代ごとに異なるでしょう。一つの物体を「イス」と呼ぶのは、それが概念の規定する普遍的な特徴を持つからではない。そもそも概念(語の意味)が普遍的規定であるかも怪しい。ある一つのイスを見て、その特徴をいくらでも挙げることはできるでしょうが、それらの中から普遍的な特徴を指定することはできない。普遍的特徴(本質)はどこにもない。せいぜい、このイスとあのイスとか、何脚かのイスに共通した特徴(すなわち家族的類似)を挙げることはできるでしょうが、すべてのイスに共通の特徴(イスの必要条件)はない。ウィトゲンシュタインだったら、以上のように考えると思うのですが、ここで注意したいのは、イスらしき個物に出会うごとに、人はそれを「イス」と認識し「イス」と呼ぶのであって、それを予め共通特徴によって「イス」として分類しているわけではない、ということです。したがって循環はありません。
 同様のことが「芸術」についても言えるでしょう。少しずつ、展覧会や音楽会に行ったり、名画の複製を見たり、CDを聴いたり、本を読んだりするうちに、朧げな概念がくっきりとしてきます。
 しかし芸術作品は、物として見てさえ「イス」などより遥かに多様です。芸術作品は子どもの画くようなただの絵などではない。下手であってはならない。評価されなくてはならない。この評価の尺度が明らかでないので、尚のこと「芸術」概念は曖昧です。
 新たなジャンルや様式の独創的な作品が日々制作されつつあり、それらを一挙に体験することは不可能だし、個々の作品をいくら分析しても普遍的な特徴(すなわち芸術の本質、必要条件)など発見できるはずがありません。私たちはある作品と出会い、その場でそれを「芸術作品」と呼ぶとしても、ある決定的な特徴ゆえにそう呼ぶのではない。したがって循環もない。
 マーティン、それでも君は芸術の本質があると言うのか?

「芸術作品」という語彙の習得の場面を考えてみるのが面白そうです。やはり最初は美術館で教えるんじゃないかな…。そしてだんだんと、美術館の外でも芸術性を見出すことができるようになる。こんな感じで芸術作品を理解するのだと、素朴には考えられますね。


さて第四段落最後の文

Das Aufsammeln von Werken aber aus Vorhandenem und das Ableiten aus Grundsaezen sind hier in gleicher Weise unmoeglich und, wo sie geuebt werden, eine Selbsttaeuschung.

前回「より高次の概念」と言いましたが Grundsaezen 根本命題とあるので Ableiten は論理的推論のことなのでしょう。
in gleicher Weise とはつまり「(循環があるから)同様に」という意味に読めますけれど。
一緒に検討しましたが、その通りだと思います。

そして、その「同様に」不可能であることを実行するのは自分を欺くことだ、とまで著者は言い切っているのですが、次の段落では循環を積極的に評価しています。
二つの段落に整合性はあるのでしょうか。

第五段落に行きましょう。

ドイツ語原文は So muessen で始まります。この muessen を私は「せざるを得ない」と訳しましたが、邦訳には「しなければならない」とあり、裂織さんも、積極的、自発的な責務の引き受けと解釈していましたね。
しかし英訳は「…するよう強いられる」となっています。
上に述べた整合性を考えると、英訳者のように解釈する方が、前段落からの繋がりがいくらかスムースであるように感じられますが、如何でしょうか。
そのように訳しても、重大な差異はないと思います。あとは個人の解釈の問題に思えます。


gesetzt dass das Denken ein Handwerk ist.

Handwerk とは職人の、熟練を要する仕事のことで、哲学的な思考とはそういうもの、哲学者は職人だということですかね。
出来合いの概念によってではなく、自分の手で(手作りの概念で)問題を考えていこうというニュアンスでしょう。

裂織さんのように取りたいですね。哲学は本来そうしたものだと思います。私は英訳が craft となっているのに引きずられてしまったようです。


jeder einzelne der Schritte, die wir versuchen, kreist in diesem Kreise.

「我々の試みるいかなる歩みもこの循環に至る」ということで、そうだとしたら、よほど慎重に議論を進めていかなければならない。
そしてそれが上に述べたような何か重要な方法論であるならば、尚のこと、読者も著者が循環をどう処理しているか見極めることが求められるしょう。
哲学は思考の限界に挑戦するものでもありますが、ここでは循環が思考の壁となって行く手を阻んでいるようです。
循環はたしかに壁ではありますが、それを利用して考察を進めようとしているように思えます。


第六段落

芸術の本質を知るために、現実の作品を見てみようということで、第三段落の問を繰り返しています。

第七段落

ポイントは

Die Werke sind so natuerlich vorhanden wie Dinge sonst auch.

で、Ding という概念が登場します。
私の疑問は、ベートーヴェンの四重奏曲の楽譜は作品と言えるのか、ということです。
音楽は演奏されて聴く人がいて初めて作品となるのではないか。
ある時間的な音の経過としてしか存在しない音楽を、物としては考え難い。
楽譜は単なる印刷物です。
ヘルダーリンの詩も、背嚢に入れられる物は大量に刷られたコピーに過ぎない。
作品は物だとしても、コピーではなく、自筆原稿とかもっとオリジナルに近い物だと考えたくなります。
確かにゴッホの絵は物ではありますが、音楽作品や文学作品を同じようにある空間を占める物体と見なすのは、少し強引に思われます。
音楽作品の存在は、どう基礎付けられるでしょうか。例えば鑑賞者に重点を置いて考えてみます。音を漫然と聴くのではなく、知識などに助けられて、統一的に聴くことによって成り立つといえないでしょうか。

そうですね。未知の曲を、特に自分が聴き慣れていないジャンルの作品を、一度だけ聴いて理解するのは難しい。クラシック音楽だったらソナタ形式などを知っていれば、テーマや展開、転調といった内部の構造を聞き分けられるでしょう。
 楽譜とは、作曲者から演奏者への指示書であり、台本に相当するものですが、作品の記録とも言えるでしょう(CDなどはまさに記録ですね。)演奏とは、ある時間音を出して、音楽的な空間を出現させる行為でしょう。記録と行為(あるいは現象)を区別した方がよいと思います。ハイデガーは、この区別が頭にないのか、演奏行為を Ding とは考えないのかもしれません。
 物としての美術作品も、記録と言えないことはないでしょう。それはまず制作過程の記録と考えることができますが、構図や配色を工夫して視線を導くフォーカスポイントを作れば、鑑賞者への見方を指示しているとも考えられます。この場合、鑑賞が行為であり、それは作品を、近く、遠く、斜めに見たりして、様々に視点が変わる、ある時間経過を伴う現象と言えるでしょう。

時間や空間のひろがりを必要とする、という発想は、共感をもって受けとめました。しかし、時間や空間が必要なものは芸術作品ばかりではありません。ほぼすべての事象に時間と空間は必要です。どうして芸術作品において時間と空間が取りざたされるのか? これが問題ではないでしょうか。私は、作品と鑑賞者とのあいだを取り持つものとして、時間や空間が特に重要になってくるのだと考えます。作品の本質は真空で保たれるようなものではなく、鑑賞者がそれを享受して、理解するような空間や時間が必要だ、といいたい。


第八段落

すべての作品は物的な性格(das Dinghafte)をもつ、と著者は言います。

Aber auch das vielberufene aesthetische Erlebnis kommt am Dinghaften des Kunstwerkes nicht vorbei.

この文は「よく引き合いに出される美的体験も芸術作品の物的性格を避けて通ることはない」という意味ですね。
私は初め、美的体験は関与しないと解釈していましたが、間違っていたようです。

Das Musikwerk ist im Ton.

やっぱりね、そうだとすると出版社の倉庫に眠っている物は何なの?と訊いてみたくなります。
 段落の最後で、芸術作品のこの物的性格とは何であるかと著者は問います。
これは例えば、書物と思想の関係に似ていませんか。受け手に届くまでにいくつかハードル(読書という行為や読者の知識)があり、ただそこに存在するだけでは作品としての真価を発揮できないのです。

音楽や美術の場合よりも、そのハードルは遥かに高いような気がします。誤読ということが起こり得るし、古典作品では様々な解釈がなされていたりしますしね。


第九段落

芸術作品の物的性格に付随する他のものこそが作品の芸術性を成しているのだから、物的性格のみを問うても仕方がないのではないかという疑問を著者は考慮しています。
 ちょっと分からなかったのは

...aber es sagt noch etwas anderes, als das blosse Ding selbst ist, ...

で、「作品(es)は単なる物自体とは異なった物を意味する」という意味であろうと思いますが、ist をどう解したらいいのでしょう。
ist はなくても anderes als の比較文として通じるようですしね。
前の sagt と ist はどう対応しているのかな。
これは私にもわかりません。


Das Werk macht mit Anderem oeffentlich bekannt, ...

この bekanntmachen は他動詞なので対格目的語をとるはずなのですが、省略されているのでしょうか。
その目的語は uns かしら。
 芸術作品において物がが他のものと関係づけられる、ということは、言い換えれば、作品がアレゴリーであり、シンボルである、ということだと、元のギリシア語に照らして、著者は述べているようです。

第十段落

上の疑問を受けて、著者は、芸術作品の物的性格の重要性を力説しているようです。

...was mit einem Anderen zusammenbringt, ...

これも他動詞なのに対格目的語が見当たらない。
省略されているとして、それは何なのでしょうか。
英訳者はこれを自動詞に訳しています。
これもわかりません。


p.10下から2行目、darein und darueber 以下、動詞が後置されているのはなぜでしょうか。
worein und worueber だったら関係文を導くから動詞は後置されると思うのですが、darein と darueberは単なる副詞ですよね。
これもわかりません。


Und ist es nicht dieses Dinghafte am Werk, was der Kuenstler bei seinem Handwerk eigentlich macht?

私は eigentlich を前の文の das Eigentliche と引っ掛けて、ここの eigentlich を形容詞と誤解していました。
その後辞書を見て、eigentlich は形容詞としては付加語にしか用いられない、ということを知りました。
訳は「そして芸術家がその職人仕事で実際に制作するのは、作品におけるこの物的性格ではないのか」となりますかね。(「物的性格」という訳語は不適切かもしれない。)
でも芸術家が石や木を作るわけはない。
石や木といった物を素材として加工し作品に仕上げるのでしょ。
音楽家は音を出すから、音を作ると言えないことはないだろうけれど。
この文は理解しにくい。
性格を作るというよりは、制作過程は物的だと言いたいのではないでしょうか。

 eigentlich は「通常の理解」と違って「真相は」と言いたいのでしょうか。
 反語的な否定疑問だから、著者は肯定の答を期待していると私は解釈しました。
日本語訳は「ではないのではないか」と二重否定となっていて、ではその疑問文に対する答は?
これは私にもわかりません。個人的には、単純な問いかけであると受けとめました。

 それからもう一つよく分からないのは、am Werk と前置詞が inではなくて an であることです。
p.30の第二段落の一行目にはWas ist im Werk am Werk? とさえ書かれていますから、ここでも著者は当然 an と in を意識して書き分けていると思われます。
anとinの厳密な違いがわかりません。


次は序章第11段落ですが、段落数だけ自動的に増えていくと参照し辛くなるので、以下、「p.11第二段落」というように、ページ番号とそのページの何段落目かを指定することにします。

序章の最後に当たり、議論の筋道が述べられます。
(1)現実の芸術 wirkliche Kunst を知る、
そのために、(2)現実の芸術作品 Wirklichkeit des Kunstwerkes を知る、
そのために、(3)芸術作品の物的性格 Dinghafte des Werkes を知る、
そのために、(4)物とは何か Was ein Ding ist を知る、
というわけで、(1)が最終目標で、(4)→(3)→(2)→(1)と段階的に考察していくことになるのでしょうか。
ここで wirkliche Kunstという言葉が出てきたことに注目したい。
p.7第二段落では、Kunstという語に対応する wirklich なものが何もないと言われていました。
理念的なものではなくて、現実の芸術を理解しようというのですね。

p.11第三段落

「物と作品」の章に入ります。
 das Dingsein(物存在)と die Dingheit(物性)という新タームが出たということを覚えておきましょう。
 それから、ここでは Ding と呼ばれるものは Seiende(存在者)であることが述べられています。

p.11第四段落

Ding の例が挙がっています。石、土塊、瓶、井戸、ミルク、水、雲、アザミ、木の葉、鷹など。これらは出現する(erscheinen)ものであるが、出現しない Ding もある、と述べています。
2012/8/6
ハイデガー『芸術作品の根源』読解(1)
(使用テキスト:Reclam 版 Martin Heidegger, Der Ursprung des Kunstwerkes)

文頭から始めましょう。

Ursprung bedeutet hier jenes, von woher und wodurch eine Sache ist, was sie ist und wie sie ist.

まず後で気がついたのは、woher に von がついていること。

ドイツ語は随分ご無沙汰しているし、学生時代もそんなにドイツ語の本を読んでいないので、ドイツ語ネイティブの言葉使いには全く不案内です。しかし相手は高名な哲学者なので、気になる言葉使いの細部に(ドイツ語素人の私たちにも)可能な限り注意を払って読んでいきたい。
ドイツ語は私たちにとって外国語であり、知らずに誤読してしまったら仕方がない。
でも苦労して異国の哲学書を読むのは、私たちが哲学するためのヒントを得ることが第一の目的なのだから、正確な読解はドイツ語の専門家に任せておけばいいと責任転嫁で、気楽に読み進めましょう。

やっぱり von をつけた方が読みやすいのでしょうね。
しかしその「から」の前に来るのは、場所だろうか、時点だろうか。
それとも時空と次元を異にした何かだろうか。
「芸術」のことを考えれば、単なる場所(or時点)からそれが由来したとは思えない。
私のイメージでは、歴史的な根源だけではなく、理論的な根源を示唆しようとしてvonを付けたのではないかと思います。


さて Ursprung は差し当たり「根源」としました。
邦訳も「根源」としている(他に「起源」とか「はじまり」と訳している人もいる)。
ハイデガーは本書の最後の方で、この言葉を語源に近い?意味で用いています。
参考までに以下引用。

...Etwas erspringen, im stiftenden Sprung aus der Wesensherkunft ins Seins bringen, das meint dasWort Ursprung. (p.80、第二パラグラフ三行目)

もどって「ここで Ursprung の意味は云々」と言っているのは、日本語に甚だ訳しにくい文です。
「云々」を一応「ある事物(Sache)がそれが何(was)であり、如何に(wie)あるかということの由来(woher)と原因(wodurch)となるもののことである」と訳しておきますか。拙訳!
 was sie ist を「その(事物)の意味(内包?)」、wie sie ist を「そのあり様」とか、もっと簡単に訳せないものかしら。
「それであるところのもの」とか翻訳でしかお目にかからない表現は避けたい。
そんな日本語として不自然な言葉使いを気にせず、よく翻訳が読めるものだと感心します。
was sie ist はたった三音節。
日本語で、この主述構造の節の内容を三音節で言うことは無理。
それだからこそ、ドイツ語原文を読み、ドイツ語的な思考の型を知ることは有意義なのだと思います。
関口訳を参照しますと、p.80は「何かを跳び出させること、本質の由来から樹立しつつ飛躍することによって存在へともたらすこと、このことこそが根源という語の意味するところである」となっています。


Das, was etwas ist, wie es ist, nennen wir sein Wesen.

Wesen は「本質」と訳すしかないと思いますが、キーワードの一つですね。
特にハイデガーは動詞 wesen を使用しているのでWesen は「存在」を含意していると言えるでしょう。
それにしても Wesen 本質とは何かということを常に考えながら読み進む必要がありそうです。
上の文と違い、ここでは wie の前の und がない。
wie 以下は was etwas ist の副詞節になります。
とするとそれが修飾する was 節の方が主である、つまり「あり方」よりも「何であるか」の方にポイントがある、と言っていいのかな。

Der Ursprung von etwas ist die Herkunft seines Wesens.

Herkunft は「由来」と訳しておきます。
ある物の Ursprung とはその物の Herkunft ではなくその Wesen の Herkunft であるというわけで、Wesen を物と Herkunft の間に介在させています。
Ursprung を考える場合、Wesen すなわち本質とその含意としての存在が想定されていることになります。
上述の「から」が単に時空的な位置を指すのでないことが分かるとも言えます。
では「から」の座標は何なのか?
ともあれ、後を読めば分かるように、具体的な芸術作品や作者を考えるだけでは「芸術」という抽象概念に届かない、という事情も関係あるのかもしれません。

次の文は引用しませんが(以下では、コメントに必要な部分だけ引用することにします)、ここでいよいよ本書のタイトルである Ursprung des Kunstwerkes という語が登場します。
それを問うことは Wesensherkunft des Kunstwerkes を問うことであると。
上記からしてそうなります。

そして Kuenstler と Werk が取り上げられる。
Werk は勿論Kunstwerk です。
Das Werk(そして der Kuenstler)と定冠詞が付いているのが気になります。
数えられる物の名詞なので、冠詞があっておかしくはない。
「作品というものは一般に」という意味で、個別的な物を概念化、抽象化するのに冠詞が効いています。
しかしそれはどの程度抽象化されているのか。
同じ段落の少し下では、無冠詞で Kuenstler und Werk と出てくるので、二語とも純然たる抽象名詞になってしまっているようです。

Der Kuenstler ist der Ursprung des Werkes. Das Werk ist der Ursprung des Kuenstlers.

芸術家は作品の根源である。作品は芸術家の根源である。
ということは、芸術家は(芸術家の根源)の根源である、と言えそうにも思えます。
同様に、左は右の反対である。右は左の反対である。
だから、左は(左の反対)の反対である、と言えるわけです。
互に他を定義していると取ると堂々巡りか無限後退に陥ってしまう。
そうならぬためには、ここは Ursprung つまり Herkunft の意味に違いがあると考えなければならぬでしょう。
その違いは何か。
ハイデガーの言っていることは、原因-結果で考えると、
(1)芸術家は作品を生み出す、
(2)作品は芸術家の評価を高める、
ということのようです。
(1)と(2)はまるで違った事柄のようで、Ursprung という一語を両者に当てはめてよいのでしょうか。
創作しない芸術家はいないでしょうが、芸術家の関与しない作品はあるのではないか。
私たちは自然の造形を庭園とか人為的な加工物と錯覚したり、高名な作家を騙った贋作を真作と信じていたりすることは考えられるでしょう。
贋作者は芸術家なのか。
興味深い考察です。


この段落の最後に Kuenstler と Kunstwerk の名前の由来となるKunst が登場します。
二語に共通の要素であり、まだ内容未定の概念です。

第二段落に移ります。

So notwendig der Kuenstler in einer anderen Weise der Ursprung des Werkes ist als das Werk der Ursprung des Kuenstlers, so gewiss ist die Kunst in einer noch anderen Weise der Ursprung fuer den Kuenstler und das Werk zumal.

in einer anderen Weise とは上に述べたような堂々巡りにはならぬということを意味しています。
in einer noch anderen とさらにまた違った根源のあり方、「根源」の第三の意味があることになります。
それはどんな意味か。
Ursprung fuer というのは Ursprung+2格あるいは Ursprung von とはどう違うのか。
fürの意味は、「利益、限定、目標、目的、用途、代理、代償」などがありますが、ここでは「限定」つまり「〜にとっての(根源)」という意味かと思います。vonだと、「空間、時間、離脱、出所、所属、テーマ」などを表すので、「芸術家や作品における根源」となり、これ自体は間違いではないと思いますが、あまりインパクトがありません。

意味としてはおっしゃる通り「限定」でよいと思います。der Ursprung fuer den Kuenstler und das Werk とあり、Werk もKunstwerk のことですから、芸術家も作品も Kunst というものと分かち難く結びついており、Kunst によって限定されています。Kunst は両者の「の根源」ではあるのですが、さらに他のものではなくまさに両者「にとっての根源」である、ということを著者は言いたかったのかな。


Aber kann denn die Kunst ueberhaupt ein Ursprung sein? Wo und wie gibt es die Kunst?

そもそも根源たり得るか、と問われれば、根源と考えない方がよいのかしら。
芸術の<存在>を問うのは、ハイデガーらしい。
私たち読者も存在を意味する語に出会う度、立ち止まって、そこで言われる存在とは何か、改めて考える必要がありそうです。

Die Kunst, das ist nur noch ein Wort, dem nichts Wirkliches mehr entspricht.

Wirkliches は現実のもの、(入不二的に?)「現に」あるものと考えましょう。
「芸術」は、いかなる現実のものにももはや対応しない語にすぎないと言っています。
nichts mehr は、かつては対応していたと暗に言っているのでしょうか。
それは後出の古代ギリシアなのかもしれません。
興味深い洞察です。


で、芸術に関わる現実のものとして、個々の作品と芸術家がある。
芸術とは、それらの集合をまとめる観念かもしれない。
とにかくそれらの現実性に基づかなければ、芸術という観念あるいはその意味はあり得ないだろう、と著者は述べます。
段落は次の問で終わります。

Gibt es Werk und Kuenstler nur, sofern die Kunst ist als ihr Ursprung?

ihr は「作品と芸術家の」という意味ですから、芸術は単にそれらの根源と考えてよいようです。
(上では Ursprung の後に fuer を使用していました。)
芸術という抽象観念と、それが適用される現物は、どちらが先かという以下の議論に繋がります。

第三段落に進みます。

... die Frage nach dem Ursprung des Kunstwerkes wird zur die Frage nach dem Wesen der Kunst.

ここで、現実のものとして Kuenstler は考察から除外されます。
本書は『芸術作品の根源』ですから、Werk に焦点を合わせて論じるということでしょう。
第一段落の定義に従って Ursprung をWesensherkunft で置き換えるとどうなるでしょうか。
Kunst については Herkunft を問わないのでしょうか。
私もそれは感じました。果たして、ハイデガーの論文からそれを再構築できるかはわかりませんが…

今思うに、私の感想はまぜ返しだったかもしれません。この本ではKunst こそがすべての大元で、その先を掘り下げてはいないのではないか。書名も Was ist die Kunst? でよかったのではないか(とちょっと言い過ぎかもしれませんが)。p.11序章の最終段落で「我々は芸術作品の実際に当たりたい、なぜならそうすることによってのみ現実の芸術を知ることになるからだ」といったことを述べているわけで、著者の最終目標は Kunst とは何かを明らかにすることであったと思うのです。


Da es jedoch offen bleiben muss, ob und wie die Kunst ueberhaupt ist, werden wir das Wesen der Kunst dort zu finden versuchen, wo Kunst ungezweifelt wirklich waltet. Die Kunst west im Kunstwerk. Aber was und wie ist ein Werk der Kunst?

die Kunst ueberhaupt ist ということで、やはりハイデガーだから芸術も存在すると言うでしょう。
それはどんな風に存在するのか、ということは、私たち読者も自分なりに真剣に考え検討してみる必要があると思います。
Kunst ungezweifelt wirklich waltet とすると、芸術自体は前述の通り wirklich ではないが、wirklichに働いてはいる、ということになります。
これはレトリックなのでしょうか。
次の動詞 wesen の使用にも著者の拘りがあるような感じがします。
芸術は現実に作品の中に存在すると著者は言う。それはどんな意味で?と訊き返したくなります。
ともあれ著者はまず芸術の現実化である作品というものを問おうとしているようです。

第四段落に行きましょう。

芸術とは何か(Was die Kunst sei)ということは、現実の個々の作品に当たれば分かるように思われる。
しかし何が作品であるか(Was dasWerk sei)は、芸術とは何か予め知っていなければ分からない、という循環に陥る、と著者は述べます。

 なぜ議論が循環するのか考えてみます。
これは「芸術」という概念あるいは語の意味(内包)と、それが指示する現実の対象(外延)に関する問題であるとも言えるでしょう。
「芸術」は現実の対象(作品)に共通の性質だと考えられています。

 概念の意味を知るために、現実の対象を調べることを、私たちは普通行なわない。
概念がいかなる対象をカバーするかについて疑問をもつことなく日常的に意思を通じるからです。
科学の言語であれば、概念は、初めに厳密に定義されていれば、意味が対象から乖離することなく、語義を確認するのに対象を調べ直すことはしません。
例えば「バラ科の植物」という概念を知るのに、既にバラ科であると判明している現実の梅や桜や桃の木などを観察することはない。

 しかし新たに語や概念を定義する場合は、どんな対象がそこに属するか、すなわち構成要素を定めることになります。
こうした、語を定義する場面と、語を使用する場面とは、分けて考える必要があるでしょう。

 「芸術」の意味を作品を通して知ろうとするとき、私たちは新語を定義する場面に立ち戻っていると言えます。
作品とおぼしき物を集めてきて共通の要素を抽出し「芸術」と名づける。
それ以前、作品らしき物を集める段階では、芸術概念は存在しないので、作品の選考基準には使えない。
ところが、それを使えると考えるから、すなわち「芸術」という語は既に通用していると考えるから、循環が生じるのです。
一般的に定義というものを考えると、循環がつきものであるといえないでしょうか。なぜならわれわれは、すでに意味を知っている言葉を定義するからです。このことから、なぜ定義につきものの循環をわざわざハイデガーが指摘しているのかという疑問が浮かびます。私の考えでは、ハイデガーは、定義では不十分だと考えていたのではないでしょうか。

裂織さんの言っているのは、例えば「下駄」を定義すると、「板」「歯」「鼻緒」などの語を使用する。これらの語をさらに定義するまたいくつかの別の語がある。それらもまた定義できる。そして定義を続けていくと、ある所で前に出てきた語をきっと使用せざるを得なくなる。つまり循環してしまう、ということでしょうか。循環を逃れるには、英語とか異国語の定義に移るか、「これ」とか指して(ostensive definition)沈黙することになりますね。 でもこれは定義というより、言葉の言い換えといった方がよさそうに思います。それも尻取りのような言葉遊びに近い。(尻取りもある程度の語彙をもつ競技者によるゲームで、しかも必ず行き詰まるでしょ。) 言葉をよく知らない子どもや外国人などに語の意味を教えるとき、私たちは語を定義すると言えるのではないでしょうか。これは未知の語を既知化することです。「厠とはトイレのことだよ」とか。 ここには循環はなく、定義によって情報が獲得され、知識が拡大するわけです。 また定義は概念の意味を明確化するという働きもあるでしょう。「水は水素と酸素の化合物である」という定義は、湯でも氷でも、雨でも雪でも、プールの中身でも川の流れでも「水」と呼ばれる物質の正体を一元的に規定しますよね。日常的な概念が科学的な概念として扱われるとき、そうした定義がなされると思います。 ハイデガーはやはり「芸術」という概念を日常的、常識的な通念とは切り離して、哲学的?に論じたいのでしょうね。 私は「定義する場面」と言いましたが、ハイデガーは「芸術」を定義しているつもりはないかもしれません。定義というと、理論の基礎であり、出発点ですが、彼の考える「芸術」はむしろ到達点でしょう。

未知のものを既知化したものとして扱うための定義、ということだとすれば、ハイデガーが批判している古典的な物理論にあてはまりそうに思えます。


 循環はともかく、なぜ著者は「芸術」を定義する場面に戻って考えようとしているのでしょうか。
対象が多様であり、概念の境界線が不明瞭であるからだと私は思います。
多様というのは、ジャンル、様式、素材、規模などの多さで、作家の個性を加えれば無限と言っていいでしょう。
芸術作品とそれ以外の作品を分ける基準も定かではない。
子どもの絵は普通、芸術とは言わない。
でもモーツァルトが3歳のとき作曲した小品はどうなのか。
多様性のあるものを定義することは大切です。しかしここでは、多様性があるにもかかわらず、われわれが芸術と言うものを了解してしまっている、ということがポイントではないでしょうか。

そうですね。そして、それを了解してしまっているのが循環だとハイデガーは考えるのでしょうけれど、なぜ了解しているのか。あるいはなぜという理由はないのか。ハイデガーとは別の方面から考えてみたくなります。


 「芸術」のような、日常使用される一般概念を表わす語に対する私たちの思い込みを、ウィトゲンシュタインは『青色本』でcraving for generality として、以下のように指摘しています。

...The tendency to look for something in common to all the entities which we commonly subsume under a general term.--We are inclined to think that there must be something in common to all games, say, and that this common property is the justification for applying the general term "game" to the various games; whereas games form a family the members of which have family likenesses. Some of them have the same nose, others the same eyebrows and others again the same way of walking; and these likenesses overlap. The idea of a general concept being a common property of its particular instances connects up with other primitive, too simple, ideas of the
structure of language. It is comparable to the idea that properties are ingredients of the things which have the properties: e.g. that beauty is an ingredient of all beautiful things as alcohol is of beer and wine, and that we therefore could have pure beauty, unadulterated by anything that is beautiful...
 後略ですが、このテーマはもう少し先まで続きます。
(The Blue Book, p.17-18、ちくま学芸文庫の大森荘蔵訳では、p.43〜46)

「芸術」についてもウィトゲンシュタインの言うことが当てはまるのではないか。
作品間に家族的類似があるのではないか。
そうだとすれば、語の使用の場面から定義の場面に戻ることなく、循環を回避できるのではないかしら。
とても興味深いのですが、今の私には説明できそうにありません。これから徐々に関係性がわかるようになれば、この勉強会も成功したことになると思います。


次いで

...so wenig wie durch eine Aufsammlung von Merkmalen an vorhandenen Kunstwerken laesst sich das Wesen der Kunst durch eine Ableitung aus hoeheren Begriffen gewinnen; denn auch diese Ableitung hat im voraus schon jene Bestimmungen im Blick, die zureichen muessen,
um uns das, was wir im voraus fuer ein Kunstwerk halten, als ein solches darzubieten.

より高次の概念からの導出によっても「芸術」に達することはほと
んど不可能だと言っています。
より高次の概念とはどんなものでし
ょうか。
「美的体験」「真実」「創造」「技術」「技巧」「天才」
「世界」など、いろいろ考えられます。
これら抽象概念を組み合わせて「芸術」を定義できるかもしれない。
しかしその場合でも我々が作品とみなす物を十分カバーする諸規定を視野に入れていなければならない、というのは著者の言う通りでしょう。
だが、それでは既存の作品にしか適用されない芸術概念を導くだけでつまらない。
芸術概念の拡張、改変があった方が面白い。
概念が現実に先行し、新たなジャンルや芸術家を生み出すことはあり得るでしょう。
どうして演繹も帰納もダメなんでしょうかね。単なる言語分析で解決する問題ではないということは理解できます。私の予感では、芸術を循環のなかで考察する人間の哲学的いとなみに重きを置いていたのではないかと思えます。

「芸術を循環のなかで考察する人間の哲学的いとなみ」を裂織さんも考えてみてください。

このページへのコメント

copermixさん

とても面白いものを紹介してくださってありがとうございます。そして返信が遅くなってしまい、ごめんなさい。
ウィトゲンシュタインへのオマージュなんですね。ぱっと見た感じでは、あまりよくわかりませんでした。
ぐにゃぐにゃした階段のデザインが、巻貝みたいでユニークです。

Posted by 裂織 2013年03月24日(日) 12:58:57

そうですか。
世界内存在の具体例は建築内存在じゃないかと思いますけど。

Wittgenstein が姉の家を設計したのはご存知でしょう?
最近 Steven Holl が改修設計した NYU の哲学棟は Wittgenstein へのオマージュみたいです。
http://www.stevenholl.com/project-detail.php?type=educational&id=21&page=0

Posted by copermix 2013年03月05日(火) 00:09:17

copermixさん

オブジェについての言及は、少なくとも本文にはないようです。
言及があるのはゴッホの農夫靴の絵画と、ギリシャの神殿です。

ハイデガーが個別の芸術に対してどのように考えていたのか気になりますね。

Posted by 裂織 2013年03月04日(月) 12:00:33

ハイデガーは具体的なアートオブジェについて何か書いてませんか?たとえばミースの建築は見てるはずで、どう思ったか知りたいところです。哲学と建築を本気で近づけたいと思ってます。

Posted by copermix 2013年03月03日(日) 19:28:08

コメントをかく


ユーザーIDでかく場合はこちら

画像に記載されている文字を下のフォームに入力してください。

「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

×

この広告は60日間更新がないwikiに表示されております。

メニューバーB

リンク


入不二基義先生のwiki。先生の活動内容(新刊告知・公開講座情報など)が見られます。

管理人のみ編集できます