過去の日記〜映画、読書、野球

*映画/「2046」「赤目四十八滝心中未遂」('05/5/18)

レンタルで映画2本観ました。ちょっと感想など…。

まず、ウォン・カーウァイの「2046」…映像は益々Goodです!「恋がうだうだする」話というのも相変わらずで、この「うだうだ感」が好きな私にとっては、なかなか浸れます。特にチャン・ツィーのエピソードは泣けますね。
ただ、物語全体からすると、キムタクとその恋人フェイ・ウォン(宿の主人の娘)をモデルに「2046」というSF小説を書いている作家トニー・レオンという設定は、ゴージャスなんだけれども、ちょっともったいないかな、という気もしました。「小説の世界」がもっと濃厚な方が、一般的な映画としては面白かったのでは、と思います。
現実のトニーのエピソードの方が、すごく印象が強いし、娘に惹かれていたけれども、小説の中でも現実でも、それは実らず、というのも端から見てるとそうインパクトが強くない。現実には、その娘は現実のキムタク演じる日本人ビジネスマンと結ばれるというHappy Endで、トニーが相も変わらず「恋にうだうだする」ということになってしまう。一方チャン・ツィーは本気でトニーを愛しているのに、無理をしてシンガポールに行ってしまう。
この「いつも恋が一方通行」というのも、カーウァイのテーマですけどね。
なぜ、人間は反復するのでしょうね。

もう1本は、「赤目四十八滝心中未遂」…車谷長吉原作、寺島しのぶ主演です。前々から友達に奨められていましたし、原作を読んで大感動していたのですが、ようやく映画を観れました。
これも映像が美しい!赤目四十八滝というのは、私は一度行ったことがありますが、文字通り山を流れる川が、数十の滝となっている紅葉の名所です。
この映画では、心中しようと二人が出かけるのは、真夏で緑が滴るように美しく、
死に場所を探すかのように、二人が彷徨い歩くその景色が「凄」く、日本の映画は、こういう「自然」を味方に出来るのが強みだなあ、と思いました。
でも、なんと言っても演技陣や尼崎の場末の町の存在感が、コワくなるくらいスゴいです。寺島しのぶ、大楠道代、内田裕也が演じる人物は、作家自身が出会った人々がモデルだということですが、皆あまりに原作通りのイメージで、主人公がこれらの人物から何度も言われる「あんたは、ここでは生きてけへん人や」、という感じが本当にしました。

それにしても、こういう「濃い」映画は、やっぱり映画館の大きな画面で観たいなあ。どうもウチだと冷静ですよね。PCの画面だし。観終わった後の「浸り」感に欠けますね。古い街の映画館の近くには、これまた古い喫茶店なんかがあって、そこで「はあ〜」とか一息つきながら、反芻するあの感じが映画の醍醐味ですよね。

*映画/戦争の爪痕「父と暮せば」「人間の証明」('05/8/6)

今日は原爆記念日ですね。内容をあまり知らずに借りて来たのですが、昨年岩波ホールでロングラン上映されていた「父と暮せば」は原爆投下から3年後の広島のお話でした。
この映画、ほとんど家の中の父(原田芳雄)と娘(宮沢りえ)のダイアローグだけで、展開するのですが、原爆の恐ろしさ、それによって引き裂かれた命、家族、人間の心を踏みにじり、生きようという意思さえ失わせる虚しさがすごく心に迫って来ます。けれど、そういう大きな負の力に対して、ささやかではあるけれども、それによって人が立ち、新たに生きて行こうという力になるものがちゃんと存在するのだ、ということを強くメッセージとして感じました。

もう1本、「人間の証明」もまた現在(1970年代)にある殺人事件を通して出会う3人が実は戦後の闇市で運命的に遭遇していた、という重層的な話です。GIベビーとして生まれ、アメリカから来た我が子(ジョー山中)を殺す女(岡田茉莉子)、その女を助けようとして闇市で米兵になぶり殺される父を目の当たりにしていた刑事(松田優作)、その米兵の一人(ジョージ・ケネディ)は今ニューヨークで警官として働いており、優作と共に事件の手がかりを追うことになる…。
ここでもまた、戦争とその後の占領が人間を引き裂き、歪めていくという展開です。
この映画、話も壮大ですが、キャストもスゴいですね。三船敏郎、鶴田浩二、ハナ肇、伴淳三郎等々、すでにいなくなったビッグスターが目白押しです。角川映画は、プロデューサー角川春樹の不祥事でその後ケチがついたけど、今じゃ誰もこんなスケールのデカい映画撮れませんもの。やっぱり「熱い!」ですよ、'70年代は。
という話はさておき、戦争はいかんです。人が人でなくなってしまう、空虚です。何も良い事ないです。私は嫌ですね、そういうの。

*読書/内田樹著「他者と死者〜ラカンによるレ?ィナス」('05/2/13)

 昨日、内田樹著「他者と死者〜ラカンによるレヴィナス」(海鳥社)を読み終えました。
同著者の「ためらいの倫理学」(角川文庫)で紹介されていたエマニュエル・レヴィナスの思想に興味を持ち、読み始めたのですが、期待に違わぬ刺激に満ちた読書になりました。
ここで語られていることは、青野太潮説教・講演集「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」(コイノニア社)に通じるというか、実は全く同じことを表と裏というような両側から語っているのではないかと思います。
 ポイントは「時間」です。過去、現在、未来という時間と「時制」。
キリストは今も十字架につけられたまま、つけられ続けていることとレヴィナスの言う「存在しなかった過去に対する有責性」〜私はそのつどつねに過ぎ去った時間の、そこにはもういない人に対する有責者として、その人の証人として召喚されているということ〜、アブラハムがその後の(「息子を生け贄として捧げよ」という不条理な)神の命令に先立って、理解し判断してというのではなく、「私はここにおります」という応答するという行動の中に入ってくる「無限」・・。
 これだけではなんこっちゃと思われるでしょうが、私は、キリスト教会で自明なことのように語られる十字架、神の愛、与えられる、などという言葉、そういう聖書の読み方に批判的で、自分はものすごくいいかげんな人間、クリスチャンでありながら、妙に言葉の「明晰さ」だけは求める者ですが、「自分」とは何かとか、「生きる」ということの本質、本来性をぐうたらな私に改めて考えさせてくれたこれらの著書のスゴさをなんとか紹介したいと思ったのです。
 私の行っている教会に来られているある方が、「私を人間として生んでくださったことがすなわち神の御心なのだと思う」と言われたことが、私の中に引っかかっていました。
その方の人生は大変な苦労の連続であったと思われるのですが、その言葉の実体、意味の大きさを私は捕まえ納得することが出来ず、でも何かすごい言葉だという感じを抱いていました。
今回の読書で、その方の言わんとされたことが少しわかったように思います。

*読書/ラテン語を話すライオン〜ロラン・バルトの白いエクリチュール('05/2/23)

 どうも生来ぼ〜っとした子供である。親に言われ、本人もそう思い続けて来たのだが、そう言う「生来の」ものというのは、理屈じゃなく持って生まれたものだからこそ「生まれつき」とか「性分」というのであって、説明不可能というかそんなこと考えたってしょうがないじゃん、というために持ち出してきた言葉なのだろう。
 だが、この頭の回転の悪さ.遅さというものは、ある指向性を持った頭の動き、あるいは言葉の理解の方法の違いによるものではないか、ぼ〜っとした人間にもなにがしか言い分ってものがあるんだい!という文章に出会ったので、紹介したい。
 それは、光文社新書「現代思想のパフォーマンス」の第2章ロラン・バルトの「解説編」に、言葉の発信する二つのレベルについての項で例として挙げられている。(以下に要約したものを記す)

‥‥ラテン語の教科書にあるquia ego nominor leo.「なぜなら、わたしはライオンという名だからである」という文のメッセージは第一のレベルでは「わたしの名前はライオンである」であり、一方これがラテン語文法書の例文である以上、第二のレベルは「その文が告げているのは『わたしは属詞の一致原則を示すための例文である』ということである」。ラテン語を学ぶ生徒は、記号はそのように読まれなければならないと教えこまれるので、第二のレベルだけを選択して読んでいる。
 だが、もしレベルの選択を間違えて「ラテン語で自己紹介するライオン」という具体的な情景を思い描いてしまい、ジャングルの仲間たちとの(ラテン語での)会話へと想像の翼を広げてしまった子供は、多分「集中力のない生徒」として教師から見捨てられてゆくことになるだろう。
 この例は、物語(神話)的合意をこびりつかせたものではない「白いエクリチュール」にこだわるバルトが、「純粋に指示的な記号」、「オブジェとしての語」の持つ厚みや物質性に惹きつけられていること、つまり「ラテン語をしゃべるライオン」を想像し、そのライオンがどんな生活を送っていて、どんなことを考えているのかに果てしなく想像が逸脱してしまうような生徒にむしろ共感を寄せていることをあらわしている。‥‥

 長々すみません。私はまさに「ラテン語を話すライオン」をに想像してしまう子供だった(今も)というのが言いたかっただけなのです。この文読んだ時、これって私じゃん!と爆笑しました。どうりで高校生の頃、国語の読解問題とか、数学の文章問題とかにつまづき、今はパソコン、IT用語についていけないのね・・納得したっす。
 バルトの考えは、そんなわけで私には大変共感出来る(エラそうやな)ので、また改めて書いてみたいと思います。

*野球/読書/メイプル戦記('05/3/30)

 春休みモードでのんびりとした日々もそろそろ締めにかからねばならない。
今日から、6月5日のコンサート「愛の神のいたずら」に向けてマジに
リハーサル開始である。
そこで、お仕事モードをゴゴゴ〜っと燃えて迎えるために絶好のものを昨晩読んだ。
川原 泉の「メイプル戦記」(白泉社文庫)という漫画である!
女性のプロ野球チーム「スイート・メイプルズ」の活躍を描いたこの漫画、
も〜最高です。
スポーツものだけあってテンポもすごく良いし、野球ファンのオタクっぽいツボも
押さえていただきつつ、最後はほんとに手に汗握り、そして泣き・・。
フェミニスト的読みもしようと思えば出来るのかもしれないけど、
そんなちっちゃいことはい〜んだ。
男も女もオカマもみんな一緒だよ、グラウンドでも、人生でも。
わしらは、みんな「何かの目標に向かっている時」は、皆同じ土俵(グラウンド)
にいるんだと。
シンプルなことじゃないの。
それが互いの支えになったりするってことなんだ。
いやあ、それにしても「のんき」ってことがこんなに良いことに思えたのは初めてかもしれない。
わ〜い、がんばるどぉ〜。
良い気合いを入れていただきました。

*野球/されど野球('05/4/9)

 法王様の葬儀が終わり、チャールズ皇太子はカミラ嬢と再婚し、そして中日は巨人に連敗・・連敗はいかんでしょう、連敗は。
9回表は2点返して2点差まで詰め寄ったものの、あと1本が出ず。残念!
 でも、2ラン打った谷繁はやはりすごい。ここと言う時にほんとに頼りになるのだ。
昨年の日本シリーズを西武ドームで観戦した時も、一番声援が多かったのが谷繁だった。あの時も土壇場でホームラン打ってたよな。

 さて、野球に興味のない方も大勢おられるのは承知の助ではあるのだが、私の野球好きは、もう生まれ持った血という他にはないのである。
博多で生まれ育った私の幼少期、それは西鉄ライオンズの「暗黒時代」だった。
白黒テレビで、毎日毎晩、西鉄の負け試合を家族で罵倒、嘆息しながら見ていたのが、私の野球人生?の原点である。
ちゃぶ台はなかったけどね。
両親は、ライオンズ「黄金時代」を謳歌した人たちだったので、その悔しさは私の比ではなかったろう。
なんと言っても、娯楽は、映画か野球しかない時代である。
彼らは、青春の熱い血潮をたぎらせ、日本シリーズで奇跡の大逆転勝利をし、球界の盟主巨人を倒した西鉄ライオンズと共に燃えた、生き証人であったのである。
その頃も巨人戦は毎日放映されていたと思うが、うちで巨人を応援する者は当然ながら一人もいなかったので、未だに、かの球団に思い入れはないのである。

 それから幾星霜。ちょうど大学院浪人をしていた時〜私は名古屋の町の片隅で暮らしていたが〜それは星野仙一の現役最後の年であり、今なおファンの間で語りつがれている、最も熱い中日セ・リーグ優勝の年であった。
そういうわけで、砂を噛む様な(実は楽しかったけど)私の浪人生活の心の支えとなった、ドラゴンズのファンになるのに時は要らず、無事に大学院合格を果たしてからは、ナゴヤ球場に通う日々。
以来、今日に至る。
 今年、楽天、横浜のそれぞれ監督になった田尾や牛島はその頃中日のスター選手だった。特に田尾はライトの守備だったので、私たち外野席ファンには親しまれていたし、牛島は頭脳的なピッチングで抑えの切り札として圧倒的信頼を得ていた。
ところで、皆さん、ピッチャーの善し悪しは、やはり球場で見ないとわからんですよ。
「たかが野球、されど野球」とは、名言至言。
ピッチャー対バッターの戦いは、一人で相手に立ち向かうという点で見ていて実に興味深い。
よく「打たせて取る」とか、あるいは「真っ向勝負」の、等と形容されるピッチングだが、それを私は演奏にも適用し、「打たせて取る演奏」対「真っ向勝負の、打てるもんなら打ってみろ!演奏」ということをまじめに考えていた時期がある。
もう、おわかりのように「打たせて取る」は「可もなく不可もなく」であり、
「打てるもんなら打ってみろ」は破綻を恐れず、やりたい事を思い切り出す演奏である。
 意外とコンクールなどに行くと多いんですよ、「打たせて取る演奏」・・。
あ〜青臭いこと考えとったなあ、と今は思うのだが、ま、何はともあれ話が音楽に戻って来たので、実は今、自分でもホッとしているところ。
 
 てなところで、明日以降は、まじめな音楽BLOGとなるべく鋭意努力したい。
と一応言ってみる。
6/5のコンサートのプログラムと新たな企画も近々公開いたします。見てね。
2006年07月03日(月) 23:35:06 Modified by moriyoko1




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