【怒りの葡萄作戦】

イスラエル軍が、1996年4月に行った軍事作戦。名前の由来はジョン・スタインバックの「怒りの葡萄」。

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1995年、イスラエルとヒズボラの緊張感が高まる。ヒズボラは、1993年の停戦を破り、何度もイスラエル北部の町に向けカチューシャを発射。米国務長官やフランス首相の訪問も無益に終わる。1996年4月9日、大多数のカチューシャ発射があり、シモン・ペレス首相(当時)は軍事作戦展開を決定する。

11日、イスラエル軍はベッカー高原とベイルートを攻撃。レバノン南部の住民はベイルートに、イスラエル北部の住民はイスラエル中央部に避難する。イスラエル空軍と砲撃隊は数百のヒズボラ関係の場所を攻撃。海軍はレバノンを海上封鎖する。その間、ヒズボラはカチューシャを打ち続ける。

15日、国連安全保障理事会はイスラエルの立場を理解。停戦を呼びかけレバノン政府も応じるが、ヒズボラは拒否。イスラエルはカチューシャ攻撃停止は停戦の最低条件とする。

18日、イスラエル軍はカチューシャが飛んできた方向に応戦。しかし、打った先は難民の避難所で国連軍がいた。攻撃で、市民100人死亡、102人が負傷。国連軍兵士4人も死亡する。同日、母娘を11人が空軍の爆撃で死亡。イスラエルは誤爆を認め、追悼の意を表すが、国際世論はイスラエルを避難し、停戦を呼びかけた。

25日、安全保障理事会はイスラエルを避難。イスラエルは攻撃をもう2日続け、27日シリアと合意する。

作戦の間、イスラエル側には777発のロケット弾が着弾。市民24人と兵士31人が負傷。レバノン側では、ヒズボラ戦闘員22人が死亡、58人が負傷。また、市民178人が死亡、470人が負傷した。
2006年07月30日(日) 17:28:29 Modified by moshejp




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