否定派の主張

「大虐殺派」は、第16師団長中島今朝吾中将の日誌に「大体捕虜はせぬ方針なれば」とあるのを殺害の方針だとする。しかしそれは間違いである。

大西一上海派遣軍参謀はこう述べている。「これは銃器を取り上げ釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』文庫版p182)。さらに大西参謀は軍命令、師団命令で、捕虜殺害命令など絶対に出ていないと断言している。

また歩兵38連隊は12月14日、7,200人の投降兵を武装解除して収容し、捕虜として後日南京城内(第一監獄所)へ護送している。「殺害」の方針であったのならそれに反したことになるが、何の咎めも受けていない。

反論

大西一上海派遣軍参謀は軍司令部にいた人間で第16師団の人間ではないので中島師団長の方針を知悉する立場にはない。第16師団は1万人近くを捕虜にしたが、その捕虜が一部でも解放されたという確実な資料は存在しない。逆に捕虜殺害の命令は史料にある(虐殺指令の記録・証言)。
したがって「軍命令、師団命令で、捕虜殺害命令など絶対に出ていない」という大西氏の証言は事実に反する。

中島日記から「捕虜はせぬ方針」の関連部分を引用する。

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたれ共、千、五千、一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず、唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一旦騒擾せば始末に困るので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、十三日夕はトラックの大活動を要したり。乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速には出来ず。斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり。
一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、太平門に於ける守備の一中隊が処理せしもの約一三〇〇、其仙鶴門附近に集結したるもの約七、八千人あり。尚続々投降し来る。
一、此七、八千人之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず、一案としては百、二百に分割したる後、適当のカ処に誘きて処理する予定なり。

これを読んで「捕虜はせぬ方針」が釈放の方針だと見なすことは不可能だろう。捕虜は片端から殺害するつもりだったが、あまりに数が多すぎて現場での処刑が難しい。なので(いったん収容した後)手はずを整えて小分けにして殺害しよう。そのような意味だと受け取るのが自然である。
「此七、八千人之を片付くる」のに「相当大なる壕」がいるというのは、死体を処理するためか、あるいは壕に捕虜を入れて周囲から銃撃するためだと思われる。釈放するのであれば「大なる壕」など必要ない。

中島師団長の方針は命令として下達され、捕虜の即時殺害の命令として伝達され受け取られ実行された。そのことを示すのが12月13日の状況を示すと見られる下記の証言である。
児玉義雄氏証言(第16師団歩兵第30旅団歩兵第38連隊副官)

 連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。
 師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。
 参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
 部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。

(証言による『南京戦史』(5)より)

第16師団歩兵30旅団(旅団長佐々木到一少将)は、12月14日の城内外の掃蕩に際して「各隊は師団の指示ある迄俘虜を受付くるを許さず」と命じている。14日以降も師団として捕虜をとらない方針であったことが確認される。

では、歩兵38連隊第10中隊が仙鶴門付近で7,200人の投降兵を捕らえ、捕虜として南京城内へ護送したことと「捕虜をせぬ方針」との関係はどうなのだろう。

中島師団長の「捕虜はせぬ方針」は南京に達する以前に立てられた。南京に来るまではせいぜい数百の敵兵がさみだれ的に投降する状況が念頭にあり、「千、五千、一万」の敵兵がまとまって投降する事態は予想していなかった。大量の兵士が投降した場合は現場で即時に射殺することが困難となることは師団長も日記に述べている通りである。
事前の方針の実現が不可能となった場合は、その方針を取った理由に立ち返って方針を手直ししなくてはならない。捕虜の捕獲、護送、収容、給養に人手を割くと戦闘要員が減ってしまう。また捕虜を抱えていると、敵を追って前進するのに邪魔となる。それが捕虜を取らない方針のそもそもの理由である。
多数捕虜を一時に射殺することが不可能であれば、準備をして小分けに殺害することで目的は達せられる。

この大量の捕虜を処理する方法はいろいろと考えられたようだ。連行中の捕虜を目撃した佐々木元勝氏は、『野戦郵便旗』の原型となった日記にこう記している。
〔12月17日〕 夕靄に烟る頃、中山門を入る前、また武装解除された支那兵の大群に遇う。乞食の大行列である。誰一人可憐なのは居ない。七千二百名とかで、一挙に殺す名案を考究中だと、引率の将校がトラックの端に立乗りした時に話した。船に乗せ片付けようと思うのだが、船がない。暫らく警察署に留置し、餓死さすのだとか……。

(証言による『南京戦史』(9)より)

前述したように、7,200人の捕虜はこの後、城内の刑務所に収容されたといわれる。城内掃討において新たに少数ずつ捕獲された敗残兵、捕虜の殺害が優先されたためか、収容所の捕虜の殺害は後回しにされたようだ。
城内掃討が終了した頃には、中国軍の反攻の危険が去ったことも明らかになった。このため捕虜の殺害を急ぐ必要も薄れていった。南京占領後においては捕虜の収容、給養は戦闘時に較べてずっと容易になったので、捕虜殺害の方針を転換することも可能であった。そのため捕虜を使役することも一部で行なわれた。
しかし捕虜を保護するという明確な方針転換は示された形跡はない。捕虜に対して食糧は十分与えられず、虐待死と餓死、緩慢なペースの虐殺が続いたようである。

中島今朝吾日記 12月13日
http://www.geocities.jp/yu77799/nakajimakesago.htm...
第十六師団と捕虜 その1「捕虜ハセヌ方針」論議の決着
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/saigen2.htm...
「捕虜ハセヌ方針」をめぐって
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/16D.html
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