否定派の主張

南京城内には安全区以外に人がいなかった。南京戦が始まった時点で、ほぼすべての難民は安全区への避難を完了していた。

反論

この「安全区以外は無人地帯」説は、根拠薄弱なイメージ操作に過ぎない。たとえば台風の日や夜間などに人通りがなかったという証言から「このあたりは無人だ」と決めつけるようなものである。

「ニューヨーク・タイムズ」記者ダーディンは、日本軍占領直前の状況について以下のように記している。

ニューヨーク・タイムズ記事(12月19日付)

一方、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われるが、その死傷者は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。

(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p423)

ダーディンは安全区の難民数を「10万を越す」とするなど、必ずしも正確な人口を把握していたわけではないが、少なくとも安全区外に多数の市民が残っていたという認識を抱いていたことは間違いない。これは後年のインタビューにおいても確認される(同書p567-568)。陥落時に安全区外にいたという中国人の証言も多くある。

また日本軍の城内侵入時、市民の一部が中国軍と共に挹江門に殺到し、城外(下関)へと脱出したことがわかっているが、この事実は安全区に避難していなかった難民が一定数いたことを示唆している。
『熊本兵団戦史 支那事変編』(熊本日日新聞社)p128-129

のみならず南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。これは明らかに正規の戦闘行為によるものである。にもかかわらず中国側は虐殺として取り扱っている。

http://www.geocities.jp/yu77799/kyoudobutai.html
第六師団長・谷寿夫の軍状報告

之より先、歩兵第四十五聯隊を十日夜揚子江岸に近く北進せしめましたが、南京より脱出せる万余の敵と各所に遭遇し、之に莫大の損害を与へ、河岸一面死体を以て、覆はれたる状態を生じたのであります。

http://ww1.m78.com/topix-2/tani.html

確かに国際委員会のメンバーは、当初ほとんどの難民が安全区に入ったものと考えていた。しかしそれは城内をくまなく見回って確認したわけではなかった。事実として安全区外には多くの難民が残っていたのであり、その実態に気づいてからは認識を修正している。
ラーベの日記(1938年1月17日)

 昨日の午後、ローゼンといっしょにかなり長い間市内をまわった。〔中略〕南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一どころか半分が廃墟と化したと言ってよいだろう
 日本軍は安全区から出るようにとくりかえしいっているが、私は逆にどんどん人が増えているような気がする。上海路の混雑ときたら、まさに殺人的だ。今は道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台ができているのでなおさらだ。そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、なかには盗まれた故宮宝物もまじっている。難民の数は今や約二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいのかわからないのだ。

(『南京の真実』文庫版p216)

安全区外は無人地帯?
http://www.geocities.jp/yu77799/higasinakano92.htm...
資料:「安全区外」の残留住民
http://www.geocities.jp/yu77799/anzentitaigai.html
「マギー牧師の解説書」より ー 続・安全区外の残留住民
http://www.geocities.jp/yu77799/anzentitaigai2.htm...

日本兵による暴行がより激しかったのは、外国人の目が届かない安全区外の地域であった。日本側の記録は市民に対する暴行・強姦・虐殺の事実をほとんど伝えていないが、中国側には安全区外にいた住民の被害証言が多く残されている。
城内、安全区以外の市民の被害
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