否定派の主張

約1万の捕虜が南京城内の2つの監獄と、江東門の模範囚収容の小監獄および2つの収容所に収容された。
捕虜取り扱い専任の榊原参謀によると、「中央監獄の4000人のうち、半分の2000人は、命令により上海の捕虜収容所に移した。その分類は私がした」と言う。同氏は東京裁判で、「また幾人かは各部隊が労務に使用し、逃亡する者も相当多数いたが、これはそのまま放置した」(極東国際軍事裁判速記録第310号22・11・7)と証言している。

また、一部は釈放されて、1938年に創立された維新政府(のちの汪兆銘政府)の軍隊に起用された。維新政府創立の立役者であり、行政院長に就任した梁鴻志氏は、のちに漢奸裁判にかけられて処刑されるが、その裁判の席上こう述べている。
「綏靖軍(すいせいぐん・維新政府の軍隊)の成立は民国28年(1939年)春で、兵士の大部分は投降兵から成り、応募者は僅少であった。4個師に分けたが、1個師は僅か2、3千人であった」(益井康一著『漢奸裁判史』p110)。つまり、約1万人の綏靖軍は主として南京戦、武漢作戦における捕虜を起用したというのである。のちに北京新民会首都指導部で活躍した劉啓雄少将も南京戦における捕虜の1人である。(田中正明『南京事件の総括』pp184)

反論

捕虜約1万が刑務所に収容されたという話であるが、刑務所に収容されることなく、城内外で多数の捕虜が殺害されている。捕虜1万とはそれらの捕虜の虐殺に手間取る中で、たまたま刑務所に収容されて長期に収容されたものの数字である。

否定論者の捕虜の話は、刑務所に収容した、釈放した、上海に送ったと続くのであるが、問答無用の虐殺があったことには触れようともしない。
敗残兵・投降兵と称されたものは投降を受け入れず、その場で殺害されることが多かった。多人数の場合はいったん空き地や窪地などにおいて監視したあと、集団処刑されたものが多かった。下関では多くの捕虜が倉庫に入れられ、昼となく夜となく殺されていった。
もちろんこれらは捕虜として人道的処遇を受けるべき存在だったのである。

いったん捕虜として収容されながら師団や連隊の一存で処刑された場合も、戦闘詳報に堂々と記載されていることがある。国際法違反の捕虜の処刑が堂々と戦闘詳報に書かれること自体、驚きに値する。当時の日本軍がいかに中国兵の生命を軽く見ていたか、国際戦争法や諸外国の目を気にしていなかったかのあらわれでもある。

さて、刑務所に入れた捕虜があるというのであるが、その数は一時1万2000人くらいであったとされる(資料:大和旭新聞)。ところがその数は1938年1月6日に「三千六百七十人もいるそうだ」(第十六師団経理部の小原立一少尉の日記)と減っていた。
1938年1月上旬には、

榊原主計氏の宣誓口供書(東京裁判弁護側書証二二三七)
「俘虜は南京に行く迄は軍司令部まで送付されたものは多く入城後約四千位の俘虜を収容しましたが、その半数は上海へ送り、半数を南京で収容して居た」

これは、湯水鎮にあった軍司令部に後送された捕虜が4000人あったが、そのうちの半数を上海に送り、半数は南京の刑務所に収容したという話である。それが、板倉由明や田中正明の手にかかると1万2000人の半数のように書かれている。

その後、ミニー・ヴォートリンの日記によれば、3月20日には収容者は1500人まで減っていたという。したがって、上海に移したの2000人 の捕虜とあわせ3500人しか生き残っておらず、約8500人くらいが虐殺あるいは虐待死に追い込まれたと見られる。
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