城内にいた市民で日本軍侵入時に安全地帯(難民区)に逃れていなかったひとは多数いた。それらの人たちの多くは自身、あるいは家族・親戚・知人などが暴行・強姦・拉致・殺害を受けた。

難民区に行かなかった理由として、「安全区があるのを知らなかった」、「体が不自由、病気などで行けなかった」、「店を守るために残った」などの証言がある。


『体験者27人が語る 南京事件』笠原十九司編 より

1.唐順山 一九一四年七月三〇日生まれ(pp198-206)
(要約)南京の評事街にある大元勝革靴店の徒弟だった。親方は城外に避難して、一人で店を守ることになった。日本軍が南京城内に侵入してきたその夜、私は新街口から上海路、清涼山へと逃げ、最後は三牌楼にある兄弟子の家に身を寄せた。
十二月十四日好奇心から日本軍を見ようとして捕まり、中国人の民衆四百人と一緒に銃剣殺されるところだったが、幸運にも傷をおっただけで、胡楼病院に運び込まれ、ウィルソン医師の手当を受けて助かった。病院に運ばれてはじめて安全区の存在を知ったという(この証言部分は本多勝一の聞き取りによる)。
2.楊明貞一九三〇年生まれ(pp221-229)
(要約)大中橋文思巷の向かい側の実家は爆撃で範囲されバラック小屋に住んでいた。
十三日朝、隣の小父さんとその妻は日本兵に殺された。父もまた日本兵に刺されたがそのときは死ななかった。十四日の夜逃げ出そうとしたが、またもや日本兵に襲われ、父は刀で切られて死んだ。十五日楊さんと母親は強姦された。母親は暴行を受け数日後に死んだ。父の弟の童養?は輪姦されて殺害された。十六日は近所の少女が難民区から戻ってきたところ強姦されてしまった。孤児となった楊さんは近所の人に食べ物を与えてもらっていた。
3.趙伝仁 一九二五年一月二日生まれ(pp245-254)
(要約)日本軍が南京城外に接近したとき、多くのひとたちが難民区へ避難して行ったが、私の祖母は目が見えず、母も子供を産んだばかりだったので、難民区へはいけず、継父、叔父も一緒に洪武路帰内営二五号の家に残った。十二月十三日に叔父は連行されてその後消息不明。十二月十五日から母は数回にわたって強姦された。十二月十六日継父を連行しようとした日本兵に印鑑刻字をしているひとだ、といったところ、日本兵がただで印鑑刻字をさせて、連れて行かれずにすんだ。
趙伝仁氏は「当時、難民区へ避難しないで自分の家に留まっていた市民の名かで、一〇人のうち九人は殺害されたのではないでしょうか」という。

『南京への道』本多勝一著より pp255 

4.佐潤徳(当時17歳)
父・母・妹二人の五人家族で柵戸区の王府巷に暮らしていた。十二月十三日に市民二人が日本兵に殺されるのを目撃した。翌日、佐さんは近所のムスリムを含む六、七人とともに日本兵に連行され、銃剣殺されそうになったが間一髪逃げ出すことができた。その夜南京市衛生所が放火され、 王府巷のひとたち二十人が消火にかけつけたが、戻ってこなかった。後に佐さんは埋葬隊の一員になったが、南京衛生所の焼け跡には黒こげになった死体が百体前後あった。その夜、佐さん家族は命からがら難民区に避難したが、王府巷に住んでいた人たちの半数は殺された。

『この事実を・・・・』より

6.朱秀英 57歳(当時9歳)(pp130-131)
母とともに泥馬巷十六号、旧の同義公染坊に隠れた。日本兵に見つかって首を斬られそうになったが一人のおばあさんが命乞いしてくれて助かったので翌日に難民区へ逃れた。叔父は捕まって殺害された。
7.李金友 68歳、当時21歳(pp138)
興中門驢子行で馬車の御者をしていた。日本軍が入ってきてから興中門を土で塞ぐ作業をさせられたが、そのとき一人が撃ち殺された。その後、難民区に行った。
8.魏廷坤 71歳(pp168)
日本軍が南京を占領したとき、家は頭条巷十八号で両親はわたしたちを連れて成賢街の建築中の建物の地下室に行って隠れた。そこにはもう三、四十人の人が隠れていたが、日本軍に見つかってしまった。私は煙突の口に入り込んで難を逃れたが、三、四十人のひとと両親はすべて殺された。
9.傳永成  57歳、当時10歳(pp178)
1937年冬、日本軍が中華門から入ってくるのを見た。街角では団子を売っていた人が日本軍に撃たれて殺された。銃声を聞いた父、傳寿は私を呼び戻して家の門を閉ざした。日本軍が来て門をこじあけ、父は銃殺された。私たちの内庭の査さんは刀で首を切り落とされ、日本兵にむしゃぶりついた、その母親もけり殺された。私はズボンを引きずり下ろされ、男の子だったのでやられずに済んだ。わたしたち長楽街では二十人余りが殺された。

『証言・南京大虐殺』南京市文史資料研究会編より

清真寺(pp73-74)
二、三月になって・・・イスラム教内の年齢の高い教主たちもあいついで清真寺に様子を見に帰った。・・・さらに多くの清真寺、たとえばa.草橋の清真寺、b.太平路の清心寺、c.漢西門の清真寺、d.長楽路の清真寺などでは、いずれも日本軍に惨殺された回教徒の死体が倒れていた。なかでも草橋の清真寺がもっとも多く、一〇体余りであった。

被害に遭った市民の所在地


凡例 市民の所在地 清真寺の所在地 難民収容所、避難場所

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