否定派の主張

南京城の周辺も、安全区外の城内と同じく無人地帯であった。なので安全区の人口が実質的に南京市の人口であったと考えてよい。

反論

「南京市」の地理的範囲は「城内」だけでなく、城壁周辺の市街地(下関、中華門外、水西門外、江東門など)と農村部(いわゆる郷区)も含む。なので「南京市の人口」を確認する場合は農村部まで考慮しなければならない。
結論からいえば、これら城外の地域が無人地帯であったというのは誤りである。

まず揚子江岸には、7000人〜2万人規模の市民が残っていた(洞富雄『決定版 南京大虐殺』p78など)。揚子江岸の宝塔橋街の近くには和記公司(イギリス資本の会社)の工場があったが、日本軍が手出しをしないと考えた数千人の難民がそこに集まっていたという。
その他、城外の市街地全体でどれだけの難民がいたかは不明だが、決して「無人」ではなかったことは確かである。

次に戦前人口が15万に達していた郷区であるが、こちらも比較的多くの人口が残っていたはずである。貧しい農民に遠くに疎開するだけの余裕があったとは考えにくく、また城内からの避難者もそれなりにいたと思われる。
「中国軍の清野作戦で焼き払われたから無人地帯だ」というのが否定論者の常套句だが、「清野作戦」というのも、城外の家屋をひとつ残らず焼き払ったわけではない。焼き払いの対象は、南京城から半径1〜2キロ以内の家屋と、半径16キロ以内の主要道路沿いの村落(笠原十九司『南京事件』p120)であって、関係ない村まで焼き払う必要も余裕もなかった。

仮に焼き払われた範囲は無人になるとしても、そこに住んでいた人々がどこに行ったかという点にも注意を払わなくてはならない。家がなくなると人間まで煙のように消失するわけではないのである。
南京城に避難した場合、当然ながら城内とその周辺の人口は清野作戦(12月7日〜9日)以前より増えることになる。しかし有名な「20万」という数字は清野作戦の前後で変化しておらず、その増加分を考慮していないことは明らかである。
また農民が南京市内の別の農村(あるいは山など)に避難したのであれば、南京市全体の人口は変化しない。清野作戦で「南京市の外」まで農民が逃げたというのなら、「無人地帯」説を唱える者にはそれを立証する責任があるだろう。

農民は日本軍を逃れて近くの山に逃げ込んだり、穴を掘って隠れたりしていた。そのため一時は住民が0になったように見えたがそうではない。このことはクレーガーやシュペアリング、シンベアの報告にある通りである。
郊外に多数の住民がいて常に日本軍の圧迫を受けていたことは、ドイツ大使館員のローゼンや、金陵女子大学で難民キャンプを運営していたヴォートリンの報告からも裏づけられる。

したがって、安全区の人口=南京市の人口と考えることは決してできないのである。国際委員会が城外や郷区の状況を正確に把握できなかったことを無視し、あたかも安全区の外が完全な無人であったかのように言い出すのは、「虐殺」否定のためのトリックに過ぎない。

資料:城外、農村部の住民
http://www.geocities.jp/yu77799/nousonbu.html
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