大寺隆(歩兵第65連隊第7中隊・上等兵)陣中日記

12月18日
昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なつて居るそうだ、七時だが未だ片付け隊は帰へつて来ない。

12月19日
 午後七時半整列にて清掃作業に行く、揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に驚く、石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午後二時までかかり作業を終る

(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p197より。誤字は訂正)
三上翔(支那方面艦隊第三艦隊第十一戦隊第二十四駆逐艦隊)証言

 またそういったことが、毎日のように続いていたのですが、たまには夜になると、何かうごめくような叫ぶような声が向こう岸からわいわいと聞こえてきました。炎が揺れてスーと横に走り、よく見れば人間が焼き殺されているという状態でした。また翌日、火事場の焼け跡の焼けぼっくりのように、人間らしい形のものが黒こげになって倒れているのが、望遠鏡でよく見えました。

(『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』p87より)
徳田一太郎(第十六師団第三十三連隊第二大隊)証言

太平門近くに大勢の捕虜がうろうろしていましたんや。そこで、年寄りも男も女も子どもいっしょくたにして三、四百人ぐらい捕まえてきたんですわ。太平門の外から言うと、門の右の一角に工兵が杭を打って、それから鉄条網を張っていて、そこへこれらの支那人を入れて囲ってしまいました。その下には地雷が埋めてありましたんや。日本兵が踏まないように白い紙に「地雷」と書いてありました。そこへ捕まえて来た人を集めてきて地雷を引いてドンと爆発させましたんや。死体が積み重なって山のようになっていました。鉄砲ではなかなか間に合わないので、地雷を敷いたそうです。そこへわしらが城壁の上からガソリンを撒いて火を点けて燃やしましたんや。死体が山積みで折り重なってあったのでなかなか燃えなかったね。上の人はだいたい死んだけど、下にはまだ生きている人がたくさんいたんや。
 翌日朝、分隊長が初年兵に「とどめを刺せ!」と命令しまして、死体を調べてまだ生きている人間を刺し殺しましたんや。

(『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』p130-131より)
大沢一男(第十六師団第三十三連隊第二大隊)証言

 夜明けに突撃して、紫金山からまっすぐ下りて、太平門へ向かいました。大きな門は開いていて門を入ったところに敗残兵がたくさんおりました。敗残兵はあかんと思ってかどんどん固まって手を上げて出てくるんですわ。次の日ぐらい、それは大勢の敗残兵を城壁の角っこに全部集めてぐるりを鉄条網で囲みました。城内の防空壕、要塞の中にはなにやらいっぱいありますねん。石油をとってきて城壁の上から敗残兵の頭にぶっかけました。支那人ちゅうのはあきらめがいいんやね。じっとしてる、火をつけたら逃げた者おりましたで。それでもくすぶって人間なんて燃えませんで。死体はそのままでほっていました。

(『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』p141-142より)
長浜太(第十六師団野砲兵第二十二連隊)証言

 掃蕩の後、陥落が終わって落ち着いたとき、兵隊が「死体が下関に山と積んである。見に行こう」というので見にいった。門の内側に死体が背丈より高く、小山のように固めて積んであった。積んでいる人間は、生焼けで、まだ煙が出ていた。だいぶ臭かったので、近くへは寄らなんだ。死体がわしらの身長より高く積んであった。燃やした跡があり、半焼けになっていた。煙がぶすぶす出ていた。そこら中、城壁の内外は死体だらけだった。
 別の日に揚子江の河岸にも浮いているのを見ました。南京陥落してしばらくして、「揚子江に死体がようけ浮いとる。どんだけあるか、見にいこうか」と部隊内で話になったので、下関まで五、六人で一時間歩いて見に行った。実際見たときはそれほど浮いてなかった。

(『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』p175より)
陳徳星(男、72歳)証言

 日本兵が南京に来たのは1937年の冬月で、わたしが用事で江東門を通ったら、日本兵が模範監獄の前で、テーブルやベッドの板や大きな戸板などいろんな木材をある窪地に積み上げ、それにガソリンを掛けて火を付け、それから日本兵二人が中国人一人の両腕を抱え、後ろから日本兵一人が銃剣で中国人の背中を突っつき突っつきして、その中国人を炎の中へと追い込んでいるのを、見掛けたのですが、次々に上がるけたたましい叫び声が耳に響くばかりで、全く見るに耐えない惨たらしさでした。文字どおりその人たちの頭が焦げ額が爛れ、血生臭さが天に突き上がるのでした。

(『この事実を……』p16より)
楊勤州(男、61歳)証言

 1937年の冬に、日本軍が来ました。一千人ほどの国民党の敗残兵が、白旗を掲げ、日本軍にわたしたち小江辺の大きな倉庫まで連行されました。日本軍はこの人たちを整列させてから、身体捜査をやり、二人刺し殺しました。価値の高い物をみんな取り上げ、身体捜査が終わってから、又八人銃殺しました。その時に又何人か日本軍がやって来て、その敗残兵たち全部を綿花堤まで駆り立て、機関銃を二台据え付けて、掃射をし、終いには粗朶をたくさん積み上げ、それにガソリンを掛け、まだ撃ち殺されていない人を全部、火を着けて焼き殺しました。

(『この事実を……』p17より)
前田雄二(同盟通信社記者)ドキュメント 第二部 南京攻略戦 3「南京大虐殺」とは

 私は、翌朝、二、三の僚友と車を走らせた。挹江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門をくぐる恐ろしさはなかった。下関をすぎると、なるほど、深沢のいうとおり、道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている。ところどころは、石油をかけて火をつけたらしく焼死体になっている。
「機銃でやったらしいな」
 と祓川が言った。
「それにしても多いなあ」
 千はこえていた。二千に達するかも知れない。一個部隊の死体だった。私たちは唖然とした。挹江門の死体詰めといい、この長江岸の死んだ部隊といい、どうしてこういうものがあるのか、私たちには分からなかった。
 城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。

(『戦争の流れの中に』p121より)
松本重治(同盟通信上海支局長)による聞き取り

 私は、最近、従軍記者として南京攻略直後に取材のため南京に数日を過したという元同僚の新井正義、前田雄二、深沢幹蔵の三氏から、直接話を聞いた。特に深沢氏は、ずっと従軍日記をつけていたので、それを読ませてもらい、大いに参考になった。三人ともが十二月十六日から十七日にかけて直接に見たというのは、まず下関から草鞋峡の方向への河岸一帯にあった多数の焼死体であった。約二千人という人と、二、三千ぐらいであったという人があった。おそらく、機銃掃射され、ガソリンをぶっかけられて死んだものであったらしい。

(『上海時代(下)』p251より)
ジョン・ラーベの日記(12月24日分)

 この機会にと、ウィルソン先生が患者を見せてくれた。顔じゅう銃剣の傷だらけの婦人は、流産はしたものの、まあまあ元気だった。下あごに一発銃撃を受け、全身にやけどを負った男性もいた。ガソリンをかけられて、火をつけられたのだ。この人はサンパンをいくつか持っている。まだ二言三言口がきけるが、明日までもつまい。体の三分の二が焼けただれている。
 地下の遺体安置室にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。なかには、両眼が燃え尽き、頭部が完全に焼けこげた死体があった。民間人だ。やはりガソリンをかけられたという。七歳くらいの男の子のもあった。銃剣の傷が四つ。ひとつは胃のあたりで、指の長さくらいだった。痛みを訴える力すらなく、病院に運ばれてから二日後に死んだという。

(『南京の真実』文庫版p158-159より)
ジョン・ラーベ「ヒトラーへの上申書」

 残念なことに、この処刑もまた、およそ粗雑なやりかたで行われました。死刑の判決を受けた人のなかにはただ負傷して気を失っただけの人もいたのですが、死体と同じようにガソリンをかけられ、生きながら火をつけられたのです。このなかの数人が鼓楼病院へ運ばれ、息を引き取るまぎわにその残酷な処刑の模様を語りました。私もいくどかこの耳でそれを聞きました。

(『南京の真実』文庫版p359より)
岡本公三「杭州湾敵前上陸に参加して」

 あれは南京の飛行場だったと思うが、殺した中国人の隠亡焼きをやった。各部隊から集めた怪しい中国人が連れてこられている。原っぱの中に縄を張って、他へ行っちゃあいけないことになっていた。なんにも分からないからガヤガヤしゃべりあっている。そこを、格納庫の上に機関銃を据えておいて、バラバラーッと射ったんだ。射てという命令で、無意識に引き金を引いたということだと思う。殺すとかいう気持ちはない。だから無表情なんだ。戦闘中だったら、殺すってことは相手をやらなければ自分がやられる危険がある。だけどああいう場合は、感情持ったんでは射てない。射つのは機関銃隊というのがあって、それがやる。自分たちの部隊は、周りをかこんで監視していた。
 射ち始めると、先を争ってワーッと逃げる。しかし逃げたって、方々に機関銃が据えつけてあるから、けっきょくは殺されてしまう。その時、四、五百人はいたと思う。ことがすむと、鉄道のレールをつみ重ねてその上に死体を置き、下に薪を入れて、石油かけて燃やしてしまったんだ。焼くんだけど、はらわたなんかはなかなか燃えない、いつまでたってもくすぶっていた。棒でかきまわすと、下が穴になっていてそこへ落ちる。あとでレールをどけちまってきれいに埋めてしまうんだ。機関銃で射ったのが分かるとまずかったんじゃないかなあ。それで死体を燃やして埋めたんだろう。作業はだいたい夜やるんだ。夕方に殺して、次の朝までに死体を片付けてしまう。そういうことが一日だけで終わっているわけじゃない。たまたま、うちの部隊が狩りだされて、おれは隠亡焼きをやったけど、次の日だっておそらくやったと思う。殺されたのは男だけじやない、女子供もいた。子供だって十歳ぐらいのまでいた。文字通りの虐殺ですよ。殺された人間がゲリラであったかどうかは分らない。良民であるかないかを見分ける時だって、なんの根拠があったわけでない。地獄と極楽は紙一重というけど、実にいい加減のものだったんだ。

(『中国』1971年8月号より)
井家又一(第9師団第6旅団第7連隊第2中隊・上等兵)日記

拾弐月弐拾弐日 (12月22日)
(略)
夕闇迫る午後五時大隊本部に集合して敗残兵を殺に行くのだと。見れば本部の庭に百六十一名の支那人が神妙にひかえている。後に死が近くのも知らず我々の行動を眺めていた。百六十余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林時付近の要地帯に掩蓋銃座が至る所に見る。日はすでに西山に没してすでに人の変動が分かるのみである。家屋も転々とあるのみ、池のふちにつれ来、一軒家にぶちこめた。家屋から五人連れをつれてきて突くのである。うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、全く最後を知るに及んでやはり落付を失っているを見る。戦にやぶれた兵の行先は日本軍人に殺されたのだ。針金で腕をしめる、首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。中には勇敢な兵は歌を歌い歩調を取って歩く兵もいた。突くかれた兵が死んだまねた、水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中には逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。いくら呼べど降りてこぬ為ガソリンで家屋を焼く。火達磨となって二・三人が飛んで出て来たのを突殺す。
暗き中にエイエイと気合いをかけ突く、逃げ行く奴を突く、銃殺しパンパンと打、一時此の付近を地獄の様にしてしまった。終わりて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけて、火の中にまだ生きている奴が動くのを又殺すのだ。後の家屋は炎々として炎えすでに屋根瓦が落ちる、火の子は飛散しているのである。帰る道振返れば赤く焼けつつある。  向こうの竹藪の上に星の灯を見る、割合に呑気な状態でかえる。そして勇敢な革命歌を歌い歩調を取って死の道を歩む敗残兵の話の花を咲かす。

(『南京戦史資料集I』p368-373より)
栗原利一(第十三師団第六十五連隊第一大隊)の体験

 死体の山のあとかたづけで、この日さらに別の隊が応援に動員された。この段階でドラムカンのガソリンが使われ、死体全体が焼かれた。銃殺・刺殺のまま川に流しては、何かとかたちが残る。可能なかぎり「かたち」をかえて流すためであった。しかしこの大量の死体を、火葬のように骨にまでするほどの燃料はないので、焼かれたあとは黒こげの死体の山が残った。

(『南京への道』文庫版p315-316より)
高城守一(第六師団輜重第六連隊小隊長)回想録

 南京から逃げ出した民間人、男、女、子供に対し、機関銃、小銃によって無差別な掃射、銃撃がなされ、大殺戮がくり拡げられたことを、死骸の状況が生々しく物語っていた。道筋に延々と連なる死体は、銃撃の後、折り重なるようにして倒れている死骸に対して、重油をまき散らし、火をつけたのであろうか、焼死体となって、民間人か中国人兵士か、男性か女性かの区別さえもつかないような状態であった。焼死体の中には、子供に間違いないと思われる死体も、おびただしくあり、ほとんどが民間人に間違いないと思われた。

(『揚子江が哭いている 熊本第六師団大陸出兵の記録』p95より)
川畑芳弥(第六師団輜重第六中隊)回想録

 夕暮れ、少し広い空地に捕虜が引き出された。捕虜は裸になるように命じられ、着ている服を全部ぬいだ。八人いた。数人の兵士が歩み寄り、後手に縛りあげ、背中にひとかかえのワラを置き、それをまた、縄で落ちないように結んだ。その上に石油をたっぷりかけ、火種を手にした兵士が、後に立っていた。〔中略〕
「つけろ!」の合図とともにかけ寄り、ワラに火をつけた。パッとワラと石油が燃えあがる。〔中略〕ワラがプスプスと燃え、石油の燃える臭いと人の焼ける臭いが混り合って周囲に漂う。

(『揚子江が哭いている 熊本第六師団大陸出兵の記録』p120より)
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