否定派の主張

毛沢東は1938年5月、延安の抗日戦争研究会で「持久戦について」という有名な講演をしたが、南京の虐殺に触れるどころか「包囲は多いが殲滅は少ない」として日本軍の甘さを指摘している。
つまり毛沢東や中国共産党でさえ事件の存在を知らなかった。南京大虐殺など存在しなかったのである。
 これが南京陥落から半年後の講演であった。毛沢東の総括によれば、
(1)南京の日本軍は支那軍を殲滅しなかった。
〔中略〕
(5)だから(毛沢東から見ると)日本軍の戦略はまずかった。
と言うのである。
 要するに、袋の鼠となった城内の支那兵を日本軍は皆殺しにしなかった――と毛沢東は演説したのである。毛沢東もまた、日本軍戦時国際法違反(南京虐殺)を指摘できなかったことに注意する必要がある。

(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p340より。機種依存文字は適宜修正)

反論

特定の発言や著述の中に「南京での虐殺」が出てこないからといって、毛沢東が、中国共産党が虐殺事件を知らなかったとは言えない。

東中野修道は「毛沢東の総括によれば」「南京の日本軍は支那兵を殲滅しなかった」としているが、これは恣意的な歪曲である。
問題の箇所は以下のようになっている。

毛沢東「持久戦について」

 第五は、包囲は多いが殲滅が少ないこと。台児荘戦役以前には、敵は上海、南京、滄州、保定、南口、忻口、臨汾の諸戦役で、撃破は多かったが、捕虜と戦利品は少なく、ここに指揮のまずさがあらわれている。
 この五つの点――兵力を小出しにふやしたこと、主攻方向がないこと、戦略的協同がないこと、時機を逸したこと、包囲は多いが殲滅が少ないこと、これが台児荘戦役以前、日本の指揮のまずかった点である。

http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/guns...

ちなみに『「南京虐殺」の徹底検証』では上記の強調部分は引用されていない。
ここでの「殲滅が少ない」の中に、南京攻略戦が入っているのかどうか読み取ることは不可能であり、「南京の日本軍は支那兵を殲滅しなかった」とまで断言はできないだろう。
また、毛沢東が持久戦論で強調しているのは、「日本軍は強いようだが、その指揮は不徹底でまずいものであり、恐れることはない、これからは勝てる」ということである。
毛沢東の講演はなにも日本軍の残虐行為について語ることが目的ではなく、日本軍の戦術を分析して「恐るに足らず」と共産軍の志気を高めることを目的としていたのである。

なお、延安は漢口から約1,000km、上海からは1,500kmも離れた山間の奥地であり、交通は不便でラジオ放送がそのまま受信できる環境ではなかった。南京で行われたことがいつ頃詳しく伝わったかは不明である。
武漢で発行されていた中国共産党の刊行物、週刊誌『群衆』の1938年1月1日号には、すでに南京での虐殺について言及があるが、延安で発行されたものでは陳甘寧辺区政府機関紙『新中華報』の第443期(1938年6月30日)に「日本侵略者一年来の暴行」と題する論説を掲載しているのが最初のようだ。
毛沢東が「持久戦論」の内容をまとめた時点では、南京事件の詳細が延安まで伝えられていなかった可能性もある。

ただし、後には、毛沢東自身も「南京事件」の安全区委員会資料を掲載した、『中国占領区の日本帝国主義』(延安時事問題研究会編、1939年)に序文を書いている。
当然、この時点ではその内容について承知していたことになる。
ある事柄について書かれていない書物が存在することが、その「ある事柄」の不存在の証明にならないことは、落ち着いて考えれば誰でも理解できるだろう。
人類の共に斥けるべき敵軍の暴行
※共産党刊行雑誌『群集』第1巻第4期(1938年1月1日)「短評」欄

 敵軍の暴行は最近開始されたものではなく、「九・一八」以前にすでに各種の残虐事件が引き起こされ、我が民衆が虐殺された。「九・一八」に敵軍がわが東北、華北ではたらいた残虐な行為は、すでに世の共に知るところとなっている。しかし、南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未曾有の血なまぐさい残虐な獣行記録をつくることとなった。これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍さは、人道と正義を血で洗い、全世界・全人類の憤怒と憎悪をよび起こした。

(『南京事件を考える』p170より)
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