否定派の主張

東京裁判に提出された埋葬報告は事件後10年を経て作られた物で信憑性が低い。特に崇善堂が事件後4ヶ月で11万余を埋葬したという崇善堂の報告を信用することは不可能である。(田中正明『南京事件の総括』pp190-199)

反論

崇善堂はその埋葬数が紅卍字会の3倍近いこと、特に4月の埋葬数が急増していること、日本側資料、安全区国際委員会資料に登場しないこと、資金が不明なこと、大量の埋葬するには崇善堂の団員が少ないことなどが疑問視されている。

紅卍字会の資料も崇善堂の資料も、実は当時のままで保管されていたのではなく、戦後になって散逸した資料を探しだし、残っていた資料だけで復元したものである。崇善堂が存在しており、埋葬活動を行っていたこと自体はいくつかの書簡の存在で明らかである。4月において10万2000体と埋葬数が急増しているが、当時の資料が失われたため埋葬作業の実態は明らかでない。しかし、4月以降の埋葬が虚偽であるとか捏造であるという意見には同意できない。なぜなら、南京戦における中国軍兵士の遺棄死体は2月30日の朝日新聞が8万4000体(上海派遣軍発表)である。3月末までの全埋葬数は紅卍字会、崇善堂その他の埋葬団体をあわせても6万人程度に留まる。崇善堂の埋葬がなかったとしたら、2万人以上の遺棄死体が南京に放置されたままになるのである。

なぜ4月以後に埋葬が急増したのか。第一に気温が上昇することによて遺体の腐敗が進行し、死臭がひどくなる。また病気の流行を招く惧れがある。これまでのように一体ごとに収棺して寺院などの墓地まで運ぶという悠長なやり方では到底処理しきれないことが懸念された。また城外の激戦地には大量の戦死体が集中し、一挙に埋葬する必要があった。このため近隣住民の協力を求め、遺体現場の近くのま荒地、菜園に集団で埋葬することとした。また、南京城の外郭陣地にはおびただしい数の塹壕や、防空壕、戦車壕が堀めぐらされていた。それらを利用することによって集団埋葬がはかどったと考えられている。崇善堂は隊員みずからが作業するばかりでなくむしろ住民に対し作業の手順を取りまとめ、埋葬集計を執り行うことになったと考えられる。

埋葬団体として日本側や安全区国際委員会に知られていなかったことであるが、すべての埋葬団体が知られていたわけではない。むしろ日本側は死体の埋葬に対しては資金援助も熱心とはいえず、それほど関心を抱いていたとは思えない。

埋葬に要する資金であるが、特務機関資料によれば、1938年4月前後(3月下旬〜4月上旬)まで特務機関は紅卍字会に対して一切の埋葬経費を負担しておらず、紅卍字会は独自の資金のみでこの時期まで埋葬を行っていた事実が明らかになっている。紅卍字会同様、慈善団体である崇善堂が資金の続く限り埋葬活動を行ったことは自然なことと思われる。活動狭小とか、資金援助を求めたとの記録があるが、それはむしろ埋葬活動に力を使い果たした結果と考えられる。に力を使い果たした結果と考えられる。

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