捕虜約1万が刑務所に収容されたという話であるが、刑務所に収容されることなく、城内外で多数の捕虜が殺害されている。捕虜1万とはそれらの捕虜の虐殺に手間取る中で、たまたま刑務所に収容されて長期に収容されたものの数字である。
否定論者の捕虜の話は、刑務所に収容した、釈放した、上海に送ったと続くのであるが、問答無用の虐殺があったことには触れようともしない。
敗残兵・投降兵と称されたものは投降を受け入れず、その場で殺害されることが多かった。多人数の場合はいったん空き地や窪地などにおいて監視したあと、集団処刑されたものが多かった。下関では多くの捕虜が倉庫に入れられ、昼となく夜となく殺されていった。
もちろんこれらは捕虜として人道的処遇を受けるべき存在だったのである。
いったん捕虜として収容されながら師団や連隊の一存で処刑された場合も、戦闘詳報に堂々と記載されていることがある。国際法違反の捕虜の処刑が堂々と戦闘詳報に書かれること自体、驚きに値する。当時の日本軍がいかに中国兵の生命を軽く見ていたか、国際戦争法や諸外国の目を気にしていなかったかのあらわれでもある。
さて、刑務所に入れた捕虜があるというのであるが、その数は一時1万2000人くらいであったとされる(資料:大和旭新聞)。ところがその数は1938年1月6日に「三千六百七十人もいるそうだ」(第十六師団経理部の小原立一少尉の日記)と減っていた。
1938年1月上旬には、
榊原主計氏の宣誓口供書(東京裁判弁護側書証二二三七)
「俘虜は南京に行く迄は軍司令部まで送付されたものは多く入城後約四千位の俘虜を収容しましたが、その半数は上海へ送り、半数を南京で収容して居た」
これは、湯水鎮にあった軍司令部に後送された捕虜が4000人あったが、そのうちの半数を上海に送り、半数は南京の刑務所に収容したという話である。それが、板倉由明や田中正明の手にかかると1万2000人の半数のように書かれている。
その後、ミニー・ヴォートリンの日記によれば、3月20日には収容者は1500人まで減っていたという。したがって、上海に移したの2000人 の捕虜とあわせ3500人しか生き残っておらず、約8500人くらいが虐殺あるいは虐待死に追い込まれたと見られる。