南京事件FAQ - 釈放された捕虜はごく一部に過ぎない

否定派の主張

中国人捕虜は殺害されずに解放されている。現地釈放の例を2つ上げる。

(1)第16師団の歩兵第20連隊(福知山・大野宣明大佐)第1大隊に所属する衣川武一氏(京都府夜久野町在住)は田中正明に送った手記の中でこう述べている。「われわれの取り扱った捕虜約2000人のうち、帰順を申し出る者は、若干の米麦と白旗を持たせて帰郷させた。年末頃までに約半数が帰順し、半数は使役として働かせた。」

(2)歩兵第45連隊の第2大隊は、14日早朝、下関で白旗をかかげた捕虜約5,000と、砲30門、重機、小銃、弾薬多数及び軍馬10数頭を鹵獲した。これらの捕虜が釈放されたことを本多勝一が『南京への道』で書いている。
(田中正明『南京事件の総括』pp185)

反論

第1の例は田中正明が所持する私信というが、研究者には公開されていない代物であり、資料と見なすことは不可能である。田中は重要資料の改竄を行なった「前科」を持ち、周知の資料引用においても堂々と改竄をして議論する人物なので、信憑性はほとんどない。

第2の例は「捕虜釈放」という、「殺害」ではないもうひとつの方針に従ったケースである。これが事実であることは間違いない。しかし釈放された捕虜の一団は、別の日本軍部隊にもう一度捕まって処刑されている。これは本多の著作で「釈放」と「殺害」の両方を体験した稀有の例として紹介されているエピソードなのである。
釈放されたことは事実であるし、その全員が殺されたとは限らないとしても、後半部分をカットして紹介する行為は欺瞞というほかないだろう。

劉四海の体験

 劉二等兵を含むたくさんの国民党軍将兵が、帽子を逆にかぶって(ひさしを後ろにして)投降した。その数は一万人より少ないが、たぶん「数千人」の単位であった。
 一ヵ所に集められたところへ、日本軍のリーダー格らしい人物が馬に乗って現れた。(…中略…)通訳によれば要点は「お前らは百姓だ。釈放する。まっすぐ家に帰れ」と言っているらしかった。
 一同は白旗を作らされた。(…中略…)
 数千人の捕虜たちは、釈放されると白旗をかかげ、それぞれの故郷にばらばらに出発した。(…中略…)
 江東門(江東郷)まで来たとき、模範囚監獄の前で日本兵たちと会った。下関の日本軍にいわれたとおり、劉さんら四、五十人の釈放組は白旗を見せて「投降して釈放された兵隊です」といった。
 だが、この日本兵たちは、有無をいわせず全員逮捕した。そのまま監獄のすぐ東側の野菜畑に連行された。一列に並ばされる。まわりを五、六十人の日本兵がかこむ。そのうち十数人が軍刀、あとは銃剣だった。号令のようなものは覚えていない。いきなり、まわりから一斉に、捕虜の列へ銃剣と軍刀が殺到してきた。(…中略…)
 気付いたときは暗かった。劉さんの倒れている上に二人が折り重なっていた。

(『南京への道』文庫版p220-222)

確かに、南京で捕らえられた捕虜全員が殺されたわけではない。南京の治安に対する不安が後退するにつれて、捕虜を労役に使ったりすることが行われるようになった。『南京戦史資料集』には、炭鉱への労務に提供するために、若干の捕虜が海軍に引き渡されたという証言が記されている。また、陥落後に南京に来た第二碇泊所において300〜400人規模の捕虜が死体の清掃のために供された。碇泊所に勤務した兵士の証言ではしまいには、捕虜以外の民間人苦力と同じような扱いになっていったというから、彼らは後に解放されたのではないかと考えられる。

日本軍の捕虜に対する方針は国際戦争法を無視した上で、原則を設けないということにおいて、一貫していたのであり、解放される場合もないではなかった。しかしながら、過酷な状況であった南京戦においては圧倒的多数の捕虜は殺害された。捕虜として収容されるどころか投降さえ認められず、その場で殺害された中国兵も多かった。