仏教やめたら、無宗教。無宗教+礼儀作法で神道徒です。日本は言霊、数霊の国です。神道徒になれば、色々なことが閃きますよ。

第4章 古事記「白日別(しらひわけ)」
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/sono401.htm

第1節  「魏志倭人伝」と「古事記」
1. 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)の記述

 トップページにおいて、私は「魏志倭人伝と記紀(古事記と日本書紀)を相互に比較補完することによって、多くの謎が解明できると考えている。」と述べた。
 現在、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)の解釈には諸説がある。
 それらのうち、「邪馬台国(やまたいこく)は筑紫(福岡県)にあった、邪馬台国の敵国・狗奴国(くなこく)は球磨川(くまがわ)付近(熊本県)にあった、邪馬台国は東進して大和政権の基となった」などの説がある。
 私は、これら「邪馬台国=筑紫説、狗奴国=球磨川付近説、邪馬台国東進説」に賛同する者であるが、これらの説を前提にすると、古事記の記述の或る部分が非常に重要な意味を持っていることが浮かび上がってくる。
 つまり、「魏志倭人伝の謎と、記紀における疑問点の双方が同時に解明される」のである。逆に言えば、本章で述べる部分は「魏志倭人伝の記述と、古事記の記述を相互に比較補完する」ことによってのみ解明されることができるのである。

 
2. 古事記の記述

 古事記「伊邪那岐命(いざなきのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと) 3大八島国(おほやしまぐに)の生成(せいせい)」の箇所において、伊邪那岐命と伊邪那美命は次々と島を生んでゆくのであるが、九州の島を生む場面では、次の記述がある。

 次に筑紫島(つくしのしま)を生んだ。
 この島もまた、身(み、体のこと)が一つで面(おも、顔のこと)が四つある。
 面毎に名前がある。
 筑紫国(つくしのくに)は白日別(しらひわけ)と謂う。
 豊国(とよくに)は豊日別(とよひわけ)と謂う。
 肥国(ひのくに)は建日向日豊久士比泥別〈たけひむかひとよくじひねわけ〉と
 謂う。
 熊曽国(くまそのくに)は建日別(たけひわけ)と謂う

 この記述の中の、白日別とはどの様な意味なのであろうか。また、豊日別・建日向日豊久士比泥別とはどの様な意味なのであろうか。
 これらの記述には大きな秘密が隠されている。詳しく検討してみよう。

第6節  熊曽の国は「建日別」
1. 九州4国呼称の意味

 「図表4-4・筑紫島4国-その3」のようにの4国の位置が比定された。
 筑紫国は筑前・筑後(中濃色)である。
 豊国は豊前・豊後(薄色)である。
 肥国は肥前・日向・大隅・薩摩(濃色)である。
 熊曽国は肥後(無色)である。
 ここでもう一度「白日別・豊日別・建日向日豊久士比泥別・建日別」の意味を考えてみよう。
 先に、「日」は「くしひ」の「くし〈霊妙な、神聖な〉」に付けられた「ひ」と同じ使い方で、神聖さが増すと述べた。「別(わけ)」は、古代における地方豪族の称号であると述べた。

 
2. 「筑紫国は白日別と謂う」を説明しよう。

 先に、「白日別」は「統治する国」であると述べた。
 つまり、筑紫国に邪馬台国があり、卑弥呼(ひみこ)がいて、九州全土を統治する国であることを意味している。
 その頃、実際には九州全土を統治していなくても、この語句は矛盾しない。この伝承は筑紫国の伝承、つまり、最終的に九州を統治する大和朝廷へ続く流れの中での伝承であり、征服者の側からの伝承であるからである。
 「筑紫国は白日別と謂う」は、「筑紫国は九州を統治する国である」の意味である。

 
3. 順番を変えて「熊曽国は建日別(たけひわけ)と謂う」から説明しよう。

 「建(た甲け)」は「猛(た甲けし)」、つまり、「武勇に優れている、勇猛である」の意味である。この「猛し(た甲けし)」が「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の「た甲ける」となった。「たける」が邪馬台国の将軍の称号に使われていることは既に述べた(『第1章第2節 魏志倭人伝の「一大率」と日本書紀における「魁帥・梟帥」』を参照していただきたい)。
 「熊曽国は建日別と謂う」は、「熊曽国は勇猛な国である」の意味である。
 筑紫国(邪馬台国)の宿敵・熊曽国(狗奴国)にふさわしい呼び方である。

  *甲類・乙類については、第2章第1節「4. 万葉仮名(まんようがな)と借字(かりじ)」を参照してください。

 
4. 「豊国は豊日別と謂う」を説明しよう。

 「豊」は(乙と乙よ)である。
 「とよ」という言葉を国語辞典で調べると、「豊」の漢字を使った語句が一番多い。意味も漢字の意味そのもので「ゆたか」である。
 しかし、不思議な事に「ゆたか」は「ゆたかな、ゆたかに」などと形容動詞として他の語を修飾することが出来るのに対して、「とよ」は「とよな、とよに」などという形容動詞として使われることはないの勿論であるが、名詞としても他の語を修飾することはほとんどない。(「ゆたかな」の意味で「とよの」と言うことはない。)
 これは「とよ」という言葉が、本来「ゆたか」を表す言葉とは無関係であったことを示している。
 「豊(ゆたか)」以外の漢字や意味をもつ「とよ」に「とよむ・どよむ」がある。発音は(乙と乙よむ)で、「豊(とよ)」と同じである。意味は「鳴り響く、騒動がおきる」などである。
 国名を飾る言葉としては、あまり相応しい意味がある方とは言えないが、それ以上に、動詞「とよむ」の語幹「とよ」だけで、国名として使われるのは考えにくい。現代でも、動詞の語幹だけが独立して使われることの可能性は少ないと思われる。

 国語辞典には、他に「とよ」を使った言葉は見当たらない。
 「豊日別」の「豊(とよ)」が、「ゆたか」でも「鳴り響く」の意味でもないとすれば、私の知る「とよ」は邪馬台国の「台与(とよ)」しかない。
 邪馬台国女王・卑弥呼亡き後、倭国大乱となり国々は相争うが、13才の宗女・台与が擁立され、争いは治まる。台与は卑弥呼の後継者なのである。
 「豊」も「台与」も共に音は(乙と乙よ)である。
 豊国は台与が創った国であると思う。台与が創ったということは、台与が住んだということである。
 卑弥呼の後継者・台与が住んだということは、つまり、邪馬台国が筑紫国から豊国に遷都したと考えざるを得ないのである。
 豊前(豊国)には京都(みやこ)郡がある。京都(みやこ)郡付近(行橋市等を含む)に都(みやこ)があったとすれば、納得がゆく地名である。
 豊国の「豊(とよ)」は、台与の名をとって付けられ国名である。
 従って、「豊国は豊日別と謂う」は、「豊国は神聖な台与の国である」という意味になる。

 
第7節  肥国は「建日向日豊久士比泥別」

 「肥国は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と謂う」を説明しよう

 
1. 「建日(たけひ)」

 「建日別」は「勇猛な国」であると、既に述べた。
 「建日」は「勇猛な」である。

 
2. 「向日(むかひ)」

 「向日」は「日向(ひむか)」の間違いである、とする説もあるようであるが、私は「向日(むかひ)」という言葉があったと思う。他にも「むかひ」と解釈せざるを得ない語句が、日本書紀にあるからである。

 「向日」の意味を解く鍵は朝鮮半島にある。朝鮮半島東海岸に迎日(よんいる)湾という湾がある。(慶尚北道慶州の北東にある湾である。)
 「迎日」とは文字どおり、「日を迎える」という意味であろう。
 朝日を拝むという意味で、迎日湾付近の地形と宮崎市付近の地形は非常に良く似ている。
 迎日湾の「よんいる」というのは、現代の読み方で、古代も同じであったとは限らない。むしろ、古代の朝鮮半島南部と日本列島西部の言葉は似ていたと考えられる。
 「向」と「迎」は漢字で書くと、全く違った文字になるが、現代語で発音すれば「むかう・むかい」と「むかえる・むかえ」で、同じ「むか」である。古語で発音すると「むかふ・むかひ」と「むかふ・むかへ」となり、自動詞・他動詞の活用形の違いであって、元は同じである。
 同じような古語の使い方に次のものがある。

 自動詞      他動詞
添ふ・添ひ    添ふ・添へ
叶ふ・叶ひ    叶ふ・叶へ

 これらの場合は、自動詞と他動詞に同じ漢字が使われているが、「向(むかふ)・迎(むかふ)」は違った漢字が使われたのである。
 金思(くむさよう)氏は著書の中で、次のように述べている。

 朝鮮語においては受動と使役は古代・中世語には形が同じである。日本語は区別されているものの、これは絶対的なものではなく、…
 日本語にも受動的に自動詞を使う例もあって、受動・使役の区別が、かならずしも厳密ではなかったようである。
                 衞誓仆馘紅行「古代朝鮮語と日本語」より

 つまり、日本も朝鮮も古代においては、自動詞と他動詞の区別が曖昧であった。
 もしかしたら、迎日湾は向日湾と表記されたかもしれないのである。考えてみれば、「向日(朝日に向かう)」も「迎日(朝日を迎える)」も、朝日の拝み方は同じであろう。

 日本にも、場所を表す「向日」という言葉があったのではないかと思う。本来は全く同じことを表わす言葉であったのであるが、朝鮮半島南部では「迎日」の文字が使われ、九州南部では「向日」の文字が使われたに過ぎない。
 あるいは、一字で「向(むかひ、向ふの連用形)」と言ったのかもしれない。「向日」も「向」も、共に(むか甲ひ)である。
 「日向(ひむか、ひゅうが)」は特定の場所を表す固有名詞であるが、「むかひ」は特定の場所ではなく、「朝日を拝む神聖な場所」という普通名詞として使われたのではないかと思う。
 「白日・建日・豊日」は皆「日」が付いているが、語源が「向日(むかひ)」の場合は既に「日」が付いているので、それ以上「日」は付かないであろうし、語源が「向(むかひ)」の場合は「日」が付いても「向日(むかひ)」であろう。

 また、普通名詞の「向(むかひ)」が転じて、固有名詞の「日向(ひゅうが)」になったのではないかと思う。
 「向」を学研漢和大字典(学習研究社)でみると(ひゅうが)の音に似ているのは偶然であろうか。

 

 「向日(むかひ)」は、「朝日を拝む神聖な場所」を表す。

 
3. 「豊久士比(とよくじひ)」

 「豊」は「豊日別」と同じ「台与(とよ)」のことである。
 「久士比(くじ甲ひ)」は「奇し日(くし甲ひ)」と同じで神聖さが強調された言葉である。
 「豊久士比」は、「台与のように神聖で神秘的な」の意味となる。

 
4. 「泥(ね)」

 「泥(ね)」は格助詞「の」の使い方である、との説もあるかもしれないが、「古事記伝」の著者・本居宣長は次の様に述べている。

 …古事記伝には「…此記(古事記のこと)の曽泥(そね)をも其(その)の意とせるは、いよよ誤れり。能(の)を通はして那(な)とは云れども、泥(ね)といへる例なし。」と述べている。 
          蟯簀判馘紅行「日本古典文学大系1 古事記」の補注7より

(意味)
 古事記に出てくる「曽泥(そね)」の語句を、「其の」の意味とするのは間違いである。
 古くは(格助詞の)「能(の)」の替わりに、「那(な)」を使うことはあるが、「泥(ね)」を格助詞「の」の替わりに使った例はない。

 つまり、「泥(ね)」は格助詞の「の」の意味ではなく、別の意味であることになる。
 私は、「泥(ね)」は美称であると思う。
 「泥(ね)」はそのままでも使われるが、根(ね)・日子根(ひこね)・比古泥(ひこね)・田根(たね)・種(たね)などとして、神名や人名に多く使われる。
 例としては「御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかゑしねのみこと、第5代孝昭天皇のこと)」の「泥(ね)」がある。
 他にも、日本書紀・崇神天皇7年条に「大田田根子(おほたたねこ、古事記では意富多多泥古)」という人物が登場する。この場合は「田根(たね)」である。

 「泥(ね)」の語源は何であろうか。
 確かな事は言えないが、「禰(ね)」ではないだろうか。意味は「先祖の廟(みたまや)」である。
 「禰(ね)」を学研漢和大字典(学習研究社)でみると、次のように載っている。

 

 御先祖様が降臨する場所としての「屋根(やね)」、御先祖様が転じて、「物事の大元(おおもと)」の意味となり、「根本(ねもと)」などと使われ、その後同じような意味で、神名や人名の美称として使われるようになったのではないだろうか。
 つまり、外来語(中国語)が日本語になったと思うのである。

 
5. 「肥国は建日向日豊久士比泥別と謂う」の意味

 「肥国は建日向日豊久士比泥別と謂う」は、「その他の火の国は、勇猛でもあり、朝日を拝む神聖な土地もあり、台与の力により神聖で神秘的な国でもある。」となる。
 「建日向日豊久士比泥」は、広い意味では全て美称である。「その他の火の国」にふさわしい美称を多く用いて、飾ったわけである。

第8節  古事記の「邪馬台国」と「狗奴国」

 「筑紫国」は「邪馬台国」として九州を統治する国であり、「熊曽国」が「狗奴国」として肥後にある、と解釈することにより、『本章第1節 「魏志倭人伝」と「古事記」』で紹介した古事記の記述がよく理解できるのである。
 また、この記述は「白日別(統治国)」たる「筑紫国(邪馬台国)」の伝承であるとも言えよう。
 そして、この古事記の記述こそ、魏志倭人伝の描いた倭国の勢力分布が、その直後どの様になったかを知る上で、貴重な史料なのである。
 そこには、「邪馬台国の旧都があったところ(筑紫国)」、「邪馬台国の新都があったところ(豊国・台与の国)」と、宿敵「狗奴国(熊曽国)」が国として認識され、その他の国々は国として認識されず、小豪族が群居する「その他の火の国」として記述されている(「図表4-4・筑紫島4国-その3」を参照していただきたい)。
 魏志倭人伝で国名しか記述のない、斯馬(しま)国など21カ国は邪馬台国(筑紫国と豊国)に含まれる。
 そして、邪馬台国は筑紫国から豊前の京都郡付近に遷都された、ということが導き出される。





 


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にわか神道三六屋からす一家の神道墓、奥都城(おくつき)ができました。奥都城、奥津城は共に「おくつき」と読み、神道で「お墓」の意味です。神道のお墓の竿石は、通常は細長い角柱型で頂上部は四面を三角形に切った角兜巾(かくときん)型です。 これは、「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ、三種の神器の一つ)を表しております。にわか神道三六屋からす一家の神道墓の竿石は上方にいくに従い細くする軍人墓型とし、四面を三角形に切った角兜巾は完全なピラミッドとしました。○○家は入れません。三六屋からす一家につながる全ての魂のよりどころ、三六屋からす一家の神社です。仏教徒がにわか神道になるのですから、これぐらいインパクトのある竿石が必要です。





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 中心に言霊スが入ります。音図の向って右半分を主基田すきたと呼びます。
 音図の向って左半分の上段はハマヤラワとなり、音の左半分の真中に言霊ユがはいります。そこでこの音図の半分を悠紀田ゆきたと呼びます。宮中に於いては毎年新嘗祭にいなめさいに、また、天皇一代に一度の即位の時の大嘗祭に主基・悠紀の田を定め、そこから獲れる新米の稲穂を天皇自ら主基田の月読命と悠紀田の須佐男命に言霊を表わす稲穂イの名なの穂ほ を献じて、ここ三千年の月読と須佐男の対立の構図が実は皇祖皇宗の物質科学探究のための言霊学による経綸なのである事を告げ、「物質科学文明成就の暁には天皇自ら言霊布斗麻邇の原理を以って、三千年の月読・須佐男の対立に終止符を打ち、第三の文明時代建設を親裁するぞ」との予告なのです。

悠紀と主基
大嘗祭が行われる年には、まず、所司(官庁の役人)が、その祭に供える稲を出す斎田を選ぶため、悠紀(ゆき)・主基(すき)の国・郡を卜定(ぼくじょう)する。悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。悠紀は東日本、主基は西日本から選ばれ、畿内の国から選ばれたことは一度もない。中世以降は、近江国が悠紀、丹波国と備中国が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。








東京スカイツリー 高さ世界一の634メートル(ム6サ3シ4)、



美智子皇后(みちこ、旧名:正田美智子(しょうだ みちこ)1934年(昭和9年)10月20日
地4458、人379、天9十2十、=434=11
天1=0、2=1,3=1,123=2、人4=2,5=1,6=0,7=1,8=1,45678=5、地9=2,10=2,910=4、日4月4星3、
つぐのみや、みちこ
天9十2十、地27238、人379=天4人3地5=12。
天1=0、2=3,3=2,123=5、人4=0,5=0,6=0,7=2,8=1,456783、地9=2,10=2,910=4、日4月5星3、1456欠け。

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