日本は言霊、数霊の国です。蘇民将来、八百万の神

玉置神社

宮司 榊本雅一宮司 (2012−11ー19まで)

■ 本 社 本 殿 国常立尊 伊弉諾尊 伊弉冊尊 天照大御神 神日本磐余彦尊
■ 摂社 三柱社
■ 摂 社 三柱社 倉稲魂神 天御柱神 国御柱神
■ 末 社 若宮社 春日神社 住吉神社 八幡神社
■ 末 社 神武社 迦具土神 速玉男神 高倉下神
■ 末 社 玉石社 大巳貴命
■ 末 社 白山社 菊理媛命
■ 大日堂 大日如来
由緒
 磐楯信仰は縄文時代からの原始的な信仰であろうが、海中の二見興玉神社「猿田彦大神、宇迦御魂大神」三重県度会郡二見町、海岸壁の花窟神社「伊弉冉尊」三重県熊野市有馬町、平地の小山の神倉神社「高倉下命」和歌山県新宮市神倉、そして山中深い玉置神社と熊野付近にネットワーク的に存在する。
 神日本磐余彦尊が熊野に上陸し、神邑に到り、天磐楯に登るとあり、高倉下から横刀を受けて、危難を逃れたとの説話が古事記にあるが、この磐楯信仰のネットワークの一つがこの玉置神社である。このネットワーク上を、磐余彦尊は山中に分け入り、高倉下は海縁に伊勢方面に向かい、共に大和を目指したものと思われる。山中を磐余彦尊は八咫烏の先導を受けて進み、玉置神社の聖地となるこの地で兵を休め戦勝を祈願したのであろう。
 崇神天皇はこれを記念し、玉城火防鎮護と悪神退散のために、日本の最高神を集め、ここに祭祀したとされる。
 伊弉册尊は花窟から勧請し早玉神とした。玉置の名の起源と社伝には説明されている。

 修験道の聖地の一つとして、そこに古来からの磐楯信仰が結びついた伝承であろう。

 石上神宮ではなく、この神社に物部の秘宝の十種神寶があったとする伝承があるそうである。
 玉置神社には巻外古文書が残っている。以下は概ねこの概要である。
1、天安2年(858)天台宗智証大師が、始め那智の滝に篭り後当山にて修法加持し本地仏を祀った。これより以後玉置神社は神仏混淆となった。
1、平安時代、役の小角によって大峯山がひらかれ修験道の本拠となった。修験道は前人未踏の山岳をあらゆる艱苦欠乏に耐えて心身の修業をする事を要諦とするため大峯、釈迦、笠捨等と共に山伏姿の修験僧の往来が増えてきた。結果、熊野三社権現の奥の院として日ましに繁栄を極めていった。
1、この間皇室の尊崇は極めて厚く、花山院、白河院、後白河院、後鳥羽院、後嵯峨院が参拝を行っている。
1、元禄 4年(1691年)修験道京都安井門跡派に所属。
1、亨保12年(1727年)修験道京都聖護院門跡派に所属。玉置三所権現の聖地として全国にわたり尊崇をあつめた。別当院高室院を中心に七坊15ヶ寺がこの境内に点在社僧数100人を護し修験道の一大勢力となった。
1、慶応4年(1868年)明治新政府の神仏分離令にさきがけ十津川郷民の代表は参事官に対し神社復古の請願を出した。やがて神祇事務局の許しをえて玉置三所大神となり更に現在の玉置神社と改称された。
1、明治6年十津川全村を氏子とする郷社となる。

国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、日本神話に登場する神である。
古事記では国之常立神、
日本書紀では国常立尊
 天地開闢の際に出現した神である。古事記においては神世七代の一番目に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為している。日本書記では国之常立が一番最初に現れた神としている。独神(性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。
日本書記では一番最初、古事記でも神代七代の一番目に現れた神とされることから、始源神・根源神・元神として神道理論家の間で重視されてきた。伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とした。その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れをくむ教派神道諸派でも国之常立神を重要な神としている。例えば大本教では、根本神である艮の金神は国之常立神と同一神であるとしている。
国土形成の根源神、国土の守護神として信仰され、熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の相殿、日枝神社(東京都千代田区)・大鳥神社(東京都目黒区)・御岳神社(長野県木曽郡王滝村)、玉置神社(奈良県吉野郡十津川村)などで祀られている。
日枝神社(東京都千代田区)
御祭神 大山咋神(おほやまくひのかみ) 相殿に鎮まります神々 国常立神(くにのとこたちのかみ) 伊弉冉神(いざなみのかみ) 足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)

「古事記」に『大山咋神(おほやまくひのかみ)。又の名は山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ)。この神は近淡海国(ちかつあふみのくに)の日枝山に坐す。また葛野(かづぬ)の松尾(まつのを)に坐す。 鳴鏑(なりかぶら)になりませる神なり』とあるように、近江国(今の滋賀県)の日枝山(比叡山)に鎮まりましたのが最初で大年神(おほとしのかみ)の御子神で、別にその御名を山末之大主神とたたえて申し上げます。庚申さま(猿田彦大神)は、皇孫命を御先導の御事績により道案内の神と信仰されます。人は一生において、いずれの道を進むべきか思案にくれるとき、その行路の別れ道(岐)(ちまた)にあって、霊妙な神威を顕現(けんげん)される大神と信仰されます。 山崎闇斎は「道は日神(天照大御神)の道にして、教へは猿田彦の導く所なり」と、庚申信仰の神髄を説きました。

十津川観光協会
http://totsukawa.info/joho/kanko/5tamaoki_shrine.h...

人里遠く離れた紀伊半島中央の、熊野のやまなみの雲海は、 はるか太平洋を遠望する標高1077mの霊峰玉置山。
神々が降り立つ玉置山の境内には、神代杉をはじめ樹齢3000年といわれる老樹大樹が社となりその懐に抱かれるように荘厳な玉置神社の神殿が鎮座しています。 日本における神様は国常立尊主神が1番はじめに現れたとしています。 日本で祀られている神社は、玉置神社とそして岐阜 の位山、木曽の御嶽山(里宮)、伊勢外宮など極めて 重要なところに祀られています。日本最古の神社が玉置神社にあたります。
そして八柱の神の1神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)神と 夫婦神になられた伊弉册尊(いざなみのみこと)神が今の日本の国を お創りになり玉置神社に祀られています。

神代杉玉石社には大巳貴命(おおなむじのみこと)がご神体として祀られています。
2004年「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に登録され、「大峯奥駈道」が通る霊場として世界遺産に認定され、玉置神社の台所・社務所は国の重要文化財になっており由緒ある神社です。 初夏にはたくさんの石楠花(しゃくなげ)が咲き誇り、参道から境内まで石楠花が続き花の名所として多くの参拝客が訪れます。 境内には天然記念物の老巨杉郡(神代杉・常立杉・磐余杉・大杉などの) 樹齢3000年の御神木が叢生しており、清浄な空気と荘厳な世界があなたを太古の世界へといざないます。

めはりじいさん  神武天皇御東征のときこの地で兵を休め「十種神宝(とくさのかんだから)」の「玉」を鎮め(置き)武運を祈願されたことから玉置(たまき)の名前の由来となっておる。
山深い吉野の山中を神武天皇の道案内に立った八咫烏(やたがらす)が、わしらの祖先とのいいつたえがあるのじゃ
「修験道(しゅげんどう)の開祖」役の行者(えんのぎょうじゃ)さま、
弘法大師さま、天台宗の智証大師さまもこの地で修行されたそうじゃ。 世界遺産大峯奥駈道の「修験道の聖地」十番目の行場として行者さんの往来も盛んじゃ。 現在でもスピリチュアルなパワースポットとして有名なのじゃ。 大地創造のエネルギーが詰まったこの地で心身を浄化し、最高の癒しと心の安らぎをもとめて全国から数多くの方がまごごろの参拝に訪れておる。

めはりばあさん 「大和なる(古代は熊野じゃった)玉置の宮の弓神楽(ゆみかぐら)弦音すれば悪魔退散」と詠まれ、 全国的にも珍しい「悪魔退散」という特殊なご神徳があり、古くは皇族の方の悪魔祓いが行われていたのじゃよ。
玉置神社の参道の途中には、天然記念物の「枕状溶岩(まくらじょうようがん)」があるのじゃ。深い海の底から噴き出した玄武岩質マグマが固まったものじゃよ。
それが隆起して今の玉置山が創られたのじゃ。これは紀伊半島だけではなく日本列島の成り立ちを示す貴重な証拠となるものといわれておるのじゃよ。
玉置神社の駐車場から境内までは歩いて15分程じゃから、歩きやすい足元でおゆきなされよ。




高麗氏





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高麗氏


氏姓
高麗王、高麗朝臣

氏祖
高麗王若光系
 高麗若光  (高句麗王族)

高麗朝臣系
 背奈福徳  (称・第19代高句麗王広開土王の七世の延興王(延典王)後裔)

種別
諸蕃

本貫
武蔵国高麗郡

著名な人物
高倉福信

後裔
高麗朝臣系統
 高倉朝臣  吉川氏(武家)  井上氏(武家)
凡例 / Category:氏

高麗氏(こまうじ/し)は、「高麗」を氏とする氏族。

高句麗王族を祖先とする渡来系氏族である。姓(カバネ)は王、朝臣。



目次 [非表示]
1 概要 1.1 一族

2 系譜
3 派生氏族
4 関係氏族
5 関連項目
6 外部リンク





概要[編集]

668年の唐・新羅連合軍との戦いで高句麗が滅亡。約1799人の高句麗人が日本に渡来、亡命した。

703年(大宝3年)に高句麗王族とされる高句麗使の玄武若光が高麗王の姓を下賜される。750年(天平勝宝2年)には高句麗第19代国王・広開土王から五代孫の王族・背奈福徳後裔の福信ら一族が高麗朝臣の姓を下賜されている。当時、朝臣姓を渡来人に贈るのは異例であった。その後に高麗福信は氏を高倉に改称する。なお若光の子孫は代々、高麗神社の宮司として現在まで続いている。同族に高句麗第22代国王・安蔵王から三代孫の子孫の狛氏があり、戦国武将に高麗経澄がある。

一族[編集]

高麗王若光系(高麗神社社家)
高麗若光
高麗家重‐若光の長男(高麗神社創建)
高麗聖雲‐若光の三男


高麗朝臣系
背奈福徳(背奈氏始祖)
背奈福光‐福徳の子
背奈行文‐福徳の子
高倉福信‐福光の子(高倉氏始祖)
高倉福主‐福光の子
高倉福延‐福光の子
高麗大山‐行文の子 
高倉石麻呂‐福信の子
高倉山岳‐福信の子
高倉乙人‐福延の子
高倉殿守‐大山の子
高倉殿継‐大山の子 

高麗神社に伝わる『高麗氏系図』は高麗若光とその後裔について記す一方、高麗朝臣系の人物については全く触れておらず、両者の関係は不明。

系譜[編集]

高麗神社社家(高麗王若光系)系図
宝蔵王
  ┃
  高麗若光
  ┣━━━┓
  家重  聖雲
  ┃
  弘仁
  ┃
  (高麗神社社家)


高麗朝臣系図
広開土王
  ┃
 (略)
  ┃
 延興王
  ┃
 (略)
  ┃
  福徳
  ┣━━━┓
  行文  福光
  ┃   ┗━━━┳━━━┳━━━┓
  大山      福主  福延  福信
  ┣━━━┓       ┃   ┣━━━┓
  殿守  殿継      乙人  山岳  石麻呂


派生氏族[編集]
新井氏 
吉川氏
勝氏
井上氏
新氏

関係氏族[編集]
桓武平氏秩父氏族
桓武平氏秩父氏系の高麗氏。秩父武基の長男・武家(たけいえ)が上記の渡来系高麗氏族の地に因んで高麗氏を称した。現在も秩父の近く(現:埼玉県日高市)に「高麗」の地名が残っているようにその周辺を拠点としていた。
一族に信濃白河氏、備中赤木氏、越後色部・本庄氏がある。


668年に高句麗が滅亡すると倭に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国に高麗郡が建郡された。高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族であろうとされる。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する。ほかにも『新撰姓氏録』には以下のような高句麗系氏族が見られる。
狛人…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
狛造…高麗国主夫連王より出(山城国諸蕃)
狛首…高麗国人安岡上王の後(右京諸蕃)
狛染部…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
大狛連…高麗国溢士福貴王の後(河内国諸蕃)
大狛連…高麗国人伊斯沙礼斯の後(和泉国諸蕃)

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にわか神道三六屋からす一家の神道墓、奥都城(おくつき)ができました。奥都城、奥津城は共に「おくつき」と読み、神道で「お墓」の意味です。神道のお墓の竿石は、通常は細長い角柱型で頂上部は四面を三角形に切った角兜巾(かくときん)型です。 これは、「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ、三種の神器の一つ)を表しております。にわか神道三六屋からす一家の神道墓の竿石は上方にいくに従い細くする軍人墓型とし、四面を三角形に切った角兜巾は完全なピラミッドとしました。○○家は入れません。三六屋からす一家につながる全ての魂のよりどころ、三六屋からす一家の神社です。仏教徒がにわか神道になるのですから、これぐらいインパクトのある竿石が必要です。





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天1=2、2=2,3=2,123=6、人4=1、5=1、6=0,7=0、8=1,45678=3、地9=1,10 =3、910=4。日6月3星4,
天+1=日=天=6、6の現人神。67欠け、
 十3年(星)十2月(月)1日(日)。日が1で、月が十2、星十3で完全な生命の樹,十は0ですので321。月日の121は、正6面体ブロック4つで凸の形になって、御輿、三社造りとなっています。天地人634、日月星634。総数13で平成13年に符合。日=天で天照大神。








 中心に言霊スが入ります。音図の向って右半分を主基田すきたと呼びます。
 音図の向って左半分の上段はハマヤラワとなり、音の左半分の真中に言霊ユがはいります。そこでこの音図の半分を悠紀田ゆきたと呼びます。宮中に於いては毎年新嘗祭にいなめさいに、また、天皇一代に一度の即位の時の大嘗祭に主基・悠紀の田を定め、そこから獲れる新米の稲穂を天皇自ら主基田の月読命と悠紀田の須佐男命に言霊を表わす稲穂イの名なの穂ほ を献じて、ここ三千年の月読と須佐男の対立の構図が実は皇祖皇宗の物質科学探究のための言霊学による経綸なのである事を告げ、「物質科学文明成就の暁には天皇自ら言霊布斗麻邇の原理を以って、三千年の月読・須佐男の対立に終止符を打ち、第三の文明時代建設を親裁するぞ」との予告なのです。

悠紀と主基
大嘗祭が行われる年には、まず、所司(官庁の役人)が、その祭に供える稲を出す斎田を選ぶため、悠紀(ゆき)・主基(すき)の国・郡を卜定(ぼくじょう)する。悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。悠紀は東日本、主基は西日本から選ばれ、畿内の国から選ばれたことは一度もない。中世以降は、近江国が悠紀、丹波国と備中国が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。








東京スカイツリー 高さ世界一の634メートル(ム6サ3シ4)、



美智子皇后(みちこ、旧名:正田美智子(しょうだ みちこ)1934年(昭和9年)10月20日
地4458、人379、天9十2十、=434=11
天1=0、2=1,3=1,123=2、人4=2,5=1,6=0,7=1,8=1,45678=5、地9=2,10=2,910=4、日4月4星3、
つぐのみや、みちこ
天9十2十、地27238、人379=天4人3地5=12。
天1=0、2=3,3=2,123=5、人4=0,5=0,6=0,7=2,8=1,456783、地9=2,10=2,910=4、日4月5星3、1456欠け。

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