日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

(まつながひさひで)
【生没年】永正7(1510)年誕生(諸説あり)、天正5(1577)年10月10日大和信貴山城にて自害。享年68歳。

出自については、京の商人説・摂津の農民説など多数ある。

天文8(1539)年頃、三好長慶に仕え右筆として活躍。三好氏の下、畿内でその地位を高める。

永禄2(1559)年には、大和の筒井氏を破り多聞山城を築き拠点とする。
この多聞山城が日本における天主閣の始まりとする説もあり、信長はこの天主閣を模して安土城に天主閣を築いたといわれる。

三好家内で実権を握ると、三好長慶の子供等を謀殺したといわれている。

永禄8(1565)年5月19日、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)らと共謀して時の将軍・13代足利義輝を暗殺。しかし、三好家で台頭してくると、三人衆になり対立。

永禄10年(1569)には三好三人衆が本陣としていた奈良・東大寺を焼き討ちし、大仏殿を焼失させるという大事件を引き起こす。

永禄11(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると名物「九十九髪」を献上して信長の軍門に降る。
しかし、その後、足利義昭や本願寺や上杉らと手を結び度々信長に反旗を翻し、
天正5(1577)年10月、織田信長の嫡男・信忠を総大将とする織田軍の攻撃を受け居城・信貴山城にて自害。この際、信長が所望していた名物「平蜘蛛釜」に爆薬を詰め火を着け爆死した言われている。単に「平蜘蛛釜」を叩き割り、城に火を放ち自害したとも言われる。

将軍を殺し、主家を滅ぼし、さらに東大寺の大仏殿を焼き討ちにするなどしたため梟雄(きょうゆう)として名高いが、茶道にも通じ文化人としての素養も身につけた教養人としても有名。茶道の師は武野紹鷗(たけのじょうおう)で、千利休とは兄弟弟子にという関係になる。

子孫には俳人の松永貞徳(1571〜1653:久秀の孫)やその子で儒者の松永尺五(1592〜1657:久秀の曾孫)が出ている。

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