日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

弘治元年(1556)11月27日〜元和9年(1623)4月19日

越後の魚沼郡坂戸城城主だった長尾政景の次男として同城にて生まれる。
母は仙桃院。仙桃院は謙信の姉にあたる。景勝は謙信の甥にあたる。
幼名は卯松(うのまつ)。後に喜平次、顕景と名乗り、
天正3年(1575)には謙信から官位(従五位下弾正少弼)を譲られて景勝に改める。

10歳の時(永禄7年1564)父政景が野尻湖にて舟遊び中に事故死する。
これについては謀反の噂があった政景に対して宇佐美定満が独断で殺害した説、
謙信が定満に命じた説、もしくはただの事故死などの説があるがいづれも定かではない。
政景が事故死した後、景勝は春日山に入り謙信の養子となる。

天正6年(1578)3月13日謙信の突然の死去。これにより家督を巡り、謙信の養子の上杉景虎と対立をして御館の乱が起こる。
天正9年(1581)2月越後を二分化していた乱を完全に終焉する。
この御館の乱の中で武田信玄の娘の菊姫を正室として迎える。
しかし、同年新発田城城主新発田重家が御館の乱の恩賞不満から信長に通じ、
景勝に背く。会津の芦名家の後ろ盾もあったとされる。

その後は織田信長の家臣で北陸攻略総大将の柴田勝家が越中まで進軍してくるなどの危機に見舞われるが、天正13年(1582)6月に本能寺の変で織田信長が自害して果てた為逃げ切れた。
その後は羽柴秀吉に巨従し、天正14年(1586)には上洛をし従四位下左近衛権少将に命じられる。翌年には反逆していた新発田重家を討ち、新発田の乱が沈着する。文禄2年(1592)から始まった朝鮮出兵にも参戦する。
慶長2年(1597)年には65歳で死去した小早川隆景の後任で五大老となる。
翌年は蒲生氏郷が死去し、上杉家は会津へ転封となる。

慶長5年(1600)には石田三成と呼応し徳川家康と争う。
家康が上杉討伐に向かって留守中の間に三成が挙兵をし関ヶ原の戦いとなる。
景勝も挙兵をし、伊達政宗・最上義光らと戦う(長谷堂の戦い)
しかし、三成が関ヶ原で敗戦した為撤退を余儀なくされる。
家康に降伏をし、会津百二十万石から米沢三十万石に減封される。
その後は米沢城下の整備に尽力を尽くす。

慶長19年(1614)大阪の陣に参戦。先鋒として活躍する。(鴫野の戦い)
元和9年(1623)米沢城にて死去。享年69歳。

法名は覚上院殿空山宗院心大居士。
墓所は山形県米沢市の上杉家御廟所と和歌山県高野町、高野山の清浄心院にある。

「近臣の前で、一度しか笑ったことがない」といわれる。また、
一度、自分の飼ってる猿が家臣に指示したり、頷いたりと景勝の真似をしているのを見て大声で笑ったが、これが彼の人生の中で見せた最初で最後の笑顔だとも言われているほど寡黙な人であった。

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