日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

(べっしょながはる)
弘治2年(1556)誕生。天正8年(1580)1月、三木城にて自刃。享年25歳。

東播磨の守護で名門赤松氏の一族。13歳の若さで三木城主となるが、叔父・三木賀相(よしすけ)が実権を握っていた。

叔父・賀相は反織田派であったが、天正5年(1577)10月、羽柴秀吉率いる織田の大軍が播磨に攻め入るとこれに降伏。長治は秀吉の中国攻めの先陣を務めることになる。
名門意識の強い三木賀相は、成り上がり者の秀吉の命令の下に動くことを嫌い長治をそそのかし、翌天正6年2月織田家に反旗を翻し三木城に籠城する。

以後、秀吉軍の2万8000が城を取り囲む。籠城一年後、兵糧も尽きはじめ一か八かの合戦を挑むが大敗を喫し、再び城内に籠もる事になる。

毛利軍も救援のため出陣してくるが、織田軍に阻まれ撤退。
城内では完全に食料がつき、小動物や馬・草木を食べて飢えをしのぐ状況に陥る。

天正8年(1580)1月、長治はここにいたり降伏を決意。自身と弟・友之、叔父の三木賀相の命と引き換えに城兵の命を助けるよう秀吉に懇願する。
秀吉はこれを受け入れる。

長治は行水を終え、身を清めると妻と三歳になる子供を刺し殺し、自らは弟・友之と共に自害して果てる。

時世の句『今はただ 恨みもあらじ諸人の 命に代わる わが身と思えば』
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