最終更新: fan_arrow_1185 2008年07月19日(土) 16:06:37履歴
[61]
「チャングムです。入らせていただきます」
不意に、気配。と同時に、聞き覚えのある声が部屋の中に滑り込み、追憶を遮った。
チャングム? 何しに来たのかしら。まだ言い足りない怨み言でも?
しかし私ひとりに会いに来るのだから、御膳のこと?
「お入り」
チャングムは静かに部屋に歩み入り、私の正面に座った。
向けられる瞳。この眼差しに、何度射抜かれただろう。
目の奥は時に蒼く、怒りの炎が奔る。恐怖が胃の底でじわりと動くような気がして、思わず身構えた。
やはり、何か言いに来たんだ。いや、もう気おされてなるものか。またぎゅっと、今度は意識して拳を握り締める。
少しは心が安まる気がした。
そう言えば、確かこの部屋に入るのは初めてだったわね。
これが、お前が切望してやまなかった座よ。
とても崇高な地位だと思っていたのでしょうから……ここに座る私は、きっと不似合いで滑稽に見えるのでしょうね?
そんな私が追い詰められていくのは、さぞ愉快だったでしょう。ましてや、ハン尚宮様と同じように疑われ詰問されてと、嘲笑(あざけわら)っていたのでしょ?
それで今も、最後に笑いにきたの?
「何か?」
「……最高尚宮様、お願いがございます」
願いだと? お前……。
意外な言葉に小さく息を飲む。
平静を保たなければ。そう思いながらもあらゆる感情は――怯えですら――怒りへと塗り変わり、心中とぐろを巻いている。
あんな言葉を投げつけたのに、今になって何を願おうというのか。
いや、そっちだってもう打つ手は無いんでしょう。もしかして、また同情を引いて泣き落とすつもり?
「しばし水剌間時代に戻って……」
ああ、こんな者と手を繋ぎ、互いを笑顔で見つめ合っていたこともあったなんて。
今となれば、なんと厭わしい。
「……お話しさせていただきたいのです」
また身の程を弁えぬ物言いを。厚かましいのは相変わらずね。
それに戻る必要なんてあるの? 戻ろうと戻るまいと変わらないじゃない。無駄で不愉快なだけでしょ。
今も昔もお前は好きに振舞い、私のものを手に入れようとしているのだから。
「……お許しいただけますか?」
しばらく、互いに沈黙。
けれど私の頭の中で、チャングムの言葉が響いている。
『水剌間時代に戻って……』
あの頃は、何憚ることのない時だった。互いが深い因縁で結ばれているとは知らず。
共にかけがえの無い友と信じ、互いを案じ、一緒に料理を学んで……お前が言ったように互いが互いを尊重できると思い込んでいた。
―――でもいきなり私の前に現れるなんて。
今はそうではない。お前の素性が分かり、そしてお前も私たち一族の闇を知った。
―――ふと、あの時のあなたを思い出してしまった。
仇同士だと。だからもう、どう言われようが私の心に触れはせず……私とて話すことなど……無い。
『水剌間時代に戻って……』
こうして会うのも恐らく今を限り。もちろん私が残り、お前に先は無いということよ。
―――誤って錦鶏を逃がしてしまった時、門の前で震える私の前に突然飛び出して
きたっけ。
ならば別れの挨拶代わりに、話とやらを聞いてやってもいいかもしれない。
―――どうして私が宮から出ようとしたのが分かったんだろう。普通、困り果てた
からって、そんなこと思いも付かないわよね。
『水剌間時代に戻って……』
なにも心を許すわけじゃない。
―――だけど……あの頃に戻ると言うお前に、今の私はどう映るのだろう。
ただ、誰かに問いかけても。
―――これが私なの? これが私の望み、得たことなの?
いや他の人に話すつもりはない。
―――私が失ったものって、私に足りないものって何?
はっきり言ってくれる人はいないし、答えられる者も見当たらない。
―――しかし…………自分でも笑ってしまう。未だにお前への執着が残って
いると……いうのか。この私に。
だから聞くとすれば……。
―――聞きたい、チャングム。聞いてみたい。
[62]
「話しなさい」
その瞬間……輝きを、少しずつ取り戻していく。
綺麗な目。
欲しかったのはこの眼差し。初めて会った夜の真っすぐで澄み切った目、純真な心を持っていた……あなた。
味噌の中に炭を入れ、いたずらっぽく微笑んでいたあなたが、瞳の中に浮かび上がる。あの頃、言葉はいらなかった。私たちは目だけで語り合うことができたから。
今の私に向けられるのは、媚び諂(へつら)う卑しい目ばかり。それは子供の頃から見慣れたはずだったけれど……この座に就いても、変わりはしなかった……。いや、奥底から嫌悪する眼(まなこ)まで向けられるようになっている。
……この子以外いったい誰が、私をこれほど真っすぐに見つめてくれただろう。
「……ねえ、クミョン。……お願い、自ら罪を認めてちょうだい。どうかあの時の真実を明らかにしてちょうだい」
何かと思えば、またそのこと?
喉奥にかすれたような嘆息が漏れる。
罪を認めてどうなるの? 叔母様たちが築き上げてこられたものをひっくり返せって? また私の居場所を失えって?
苛立ちをよそにチャングムは続けた。
「私にあなたを許せるようにして欲しいの」
なぜ許してもらわなきゃ……。
出かかった声に、口を閉じて抗う。
無言の私を、黙って見つめている。
その目は何を見ているの? 私を見ているの? いや、こっちに向けられているけれど本当の私を見てはいないじゃない!
ねえ、私が今までにどれだけのことをしてきたか。
チョン尚宮様へ偽薬を処方させたこと、硫黄家鴨の検証の前に、ホンイたちに毒アワビを食べさせて試食役に仕立てた計略、それを全部私が企んだと知ったら、それでもそんなことを言える? そうやってあなたたちを追いやったのよ。
しかも、ハン尚宮様に毒を盛ろうとまでしたわ。さすがにあまりに怖くなって、もう自らの手を汚したくないとばかりに、それからは他の者にやらせたけど。
あなたは知らないからそう言うんでしょ? 私は許しを請う資格すらない、卑劣な人間なのよ。
―――けれど……人の目をじっと見るのは久しぶり。いつからか私は、こんな風に
相手を見られなくなっていた。
「あなたには誇りがあったわ。あなたは家の繁栄よりも、それを何より大切にしていたはずでしょ?」
誇り? それを踏みつけたのは……。
「……お前に私の何が分かるというの?」
「違うの? 私の思い違いなの?」
ああ。私だってあんなことをしたくは……でも、居場所を守るために。そしてどんな手を使おうが、どうせ私のことなど誰も見てはいないのだから。
いいえ!
本当は、邪魔ばかりするあなたが困り苦しむ様を見るのが楽しいことさえあったわ!
[63]
「それならなぜ、かつてのハン尚宮様の方法で、女官たちを教えているの?」
なぜですって? それは……。
動揺する心と共に、自分の睫毛が微かに揺れるのを感じた。あなたにそれを悟られなかっただろうか。
「どうか、心の中で思うなら行動で示して!」
でもチャングム……なぜ、そうやって教えていることを……知っているの?
あなたは水剌間に入れないし、顔見知りの女官もいないのに。
…………もしかして私のことを……どこかから見ていたというの?
「……お願いよ、クミョン!」
どうして? どうしてそんなことを言うの? 私はあなたを傷つけたのよ。大切なものを奪い取ろうとしたのよ。
それでもまだ……私に語りかけようとしているの? それができると思っているの?
呆れるわ。呆れる。いつまでたっても、おかしなことを言う子ね。
「…………私は、あなたを憎みたくないの」
…………憎みたくない、か。しかし今更。
今更……そんなことを言われても。私は憎んでしまったのよ。
なぜならば……。
あなたが見せ付ける眩しさに、無力な自分を感じ続けたから。料理の…ことだけじゃなくて。いつだって諦めることなく……逆境を乗り越えてきた。
私は……逆らうこともできずに流されては、ひとつひとつ諦めてきたのに……。
「人を憎むことは、人を愛することのように辛い。辛く激しく、自分を変えてしまう」
チャングム、私たちは変わったわけではないわ。
私は私の本性を現し、あなたもその本性を現しただけ。お互いが憑かれる心や、激しく怨み怒る心を身に秘めていたのよ。あなたがこの醜い心を引きずり出し、剥き出しにし、もっと苦しめとばかりに追い詰めたじゃないの!
気持ちの昂りを感じ、一つ、深く息を吸った。
[64]
「…………私は……お前の言う、辛い憎しみを抱いたし……」
「……辛い恋もした……」
せめて邪魔立てされずに、お姿を見ることができていれば。少しは気持ちを鎮めることもできたでしょう、見習いの頃みたいに。けれどあの方は影すらなく。
ようやく宮に戻られて評議の場でご一緒しても、ただそこに居られるだけ。いや、お気持ちはいつもあなたの許にあり……最後の最後まで私の心は届かなかった。
「お前のせいで……」
そしてあなたは私の気持ちに無頓着過ぎた。
他の誰かなら、お慕いする気持ちも胸にしまい込まれたままだったでしょう。ここまで心が熱くなることも無かったでしょう。
私は……私はあの方ともあなたとも言葉を交わすこともままならなかったのに。あなたは、何のためらいもなくあの方にも私にも話しかけて。
「ミン・ジョンホ令監のせいで……」
覚えてる? あなたと会った夜のことを。宣政殿の殿閣の前で、お別れを告げていたって話した方……。
初めて知って、驚いたでしょ? ちょっとぐらいは私の痛みを分かってくれた?
今更どうにもならないけれど。あなたにも言いかけたことがあるのよ。
「…………お前が私の自尊心を踏み躙ったのよ……」
今だってこうして無頓着に私を泣き落とそうとしている。そんな風に言えば、また私はあなたに寄り添えるかのように。
「…………クミョン……それは違うわ。それは言い訳よ」
「出ていって」
「自尊心は他人ではなく、自分が崩すものなのよ」
そうよ! 満たされぬ思いはますます膨れ上がって、私の心を踏み躙っている。
それは分かり過ぎるほど分かっている。だからこそ、あなたに言われたくないのよ。
「いって。出ていって!」
これ以上あなたを見たくない! あなたにも見られたくない!
私の醜さを知ったとしたら、今以上に蔑むはずよ。たとえ人間じゃないとまで言われようと、このまま何も知られず憎まれたほうがずっとまし……。
だから明かすことなどできないの……あなただけには。
「クミョン……ああ……。もうあの頃には戻れないのですか」
でも……。
今でも信じてくれるのね。
もしそうなら、その思いに身を委ねることが許されるのなら……あなたの手にもう一度……もう一度だけ……そっと触れてみたい。その手に握られて、また新しい道を歩んでみたい。
この気持ちを悟られたくないの。だから……お願い……早くいなくなって。
また無言。
ややして感情を押し殺すかのように息を整えた後、チャングムは言った。
「……最高尚宮様、ありがとうございました。……これが、小さな頃から共に過した者の心でした……」
言い終えた瞳は、再び暗く濁る。
……戻れないのを、あなただってよく分かっているでしょ。その瞳が何よりの証(あかし)。狂(し)れた、底冷えの目を向けられるたび、怖気(おぞけ)立ってしまう。
「心して下さい。遺書はございます」
チャングムはゆっくりと立ち上がり、一礼をすると部屋をまたゆっくり退いていった。
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「チャングムです。入らせていただきます」
不意に、気配。と同時に、聞き覚えのある声が部屋の中に滑り込み、追憶を遮った。
チャングム? 何しに来たのかしら。まだ言い足りない怨み言でも?
しかし私ひとりに会いに来るのだから、御膳のこと?
「お入り」
チャングムは静かに部屋に歩み入り、私の正面に座った。
向けられる瞳。この眼差しに、何度射抜かれただろう。
目の奥は時に蒼く、怒りの炎が奔る。恐怖が胃の底でじわりと動くような気がして、思わず身構えた。
やはり、何か言いに来たんだ。いや、もう気おされてなるものか。またぎゅっと、今度は意識して拳を握り締める。
少しは心が安まる気がした。
そう言えば、確かこの部屋に入るのは初めてだったわね。
これが、お前が切望してやまなかった座よ。
とても崇高な地位だと思っていたのでしょうから……ここに座る私は、きっと不似合いで滑稽に見えるのでしょうね?
そんな私が追い詰められていくのは、さぞ愉快だったでしょう。ましてや、ハン尚宮様と同じように疑われ詰問されてと、嘲笑(あざけわら)っていたのでしょ?
それで今も、最後に笑いにきたの?
「何か?」
「……最高尚宮様、お願いがございます」
願いだと? お前……。
意外な言葉に小さく息を飲む。
平静を保たなければ。そう思いながらもあらゆる感情は――怯えですら――怒りへと塗り変わり、心中とぐろを巻いている。
あんな言葉を投げつけたのに、今になって何を願おうというのか。
いや、そっちだってもう打つ手は無いんでしょう。もしかして、また同情を引いて泣き落とすつもり?
「しばし水剌間時代に戻って……」
ああ、こんな者と手を繋ぎ、互いを笑顔で見つめ合っていたこともあったなんて。
今となれば、なんと厭わしい。
「……お話しさせていただきたいのです」
また身の程を弁えぬ物言いを。厚かましいのは相変わらずね。
それに戻る必要なんてあるの? 戻ろうと戻るまいと変わらないじゃない。無駄で不愉快なだけでしょ。
今も昔もお前は好きに振舞い、私のものを手に入れようとしているのだから。
「……お許しいただけますか?」
しばらく、互いに沈黙。
けれど私の頭の中で、チャングムの言葉が響いている。
『水剌間時代に戻って……』
あの頃は、何憚ることのない時だった。互いが深い因縁で結ばれているとは知らず。
共にかけがえの無い友と信じ、互いを案じ、一緒に料理を学んで……お前が言ったように互いが互いを尊重できると思い込んでいた。
―――でもいきなり私の前に現れるなんて。
今はそうではない。お前の素性が分かり、そしてお前も私たち一族の闇を知った。
―――ふと、あの時のあなたを思い出してしまった。
仇同士だと。だからもう、どう言われようが私の心に触れはせず……私とて話すことなど……無い。
『水剌間時代に戻って……』
こうして会うのも恐らく今を限り。もちろん私が残り、お前に先は無いということよ。
―――誤って錦鶏を逃がしてしまった時、門の前で震える私の前に突然飛び出して
きたっけ。
ならば別れの挨拶代わりに、話とやらを聞いてやってもいいかもしれない。
―――どうして私が宮から出ようとしたのが分かったんだろう。普通、困り果てた
からって、そんなこと思いも付かないわよね。
『水剌間時代に戻って……』
なにも心を許すわけじゃない。
―――だけど……あの頃に戻ると言うお前に、今の私はどう映るのだろう。
ただ、誰かに問いかけても。
―――これが私なの? これが私の望み、得たことなの?
いや他の人に話すつもりはない。
―――私が失ったものって、私に足りないものって何?
はっきり言ってくれる人はいないし、答えられる者も見当たらない。
―――しかし…………自分でも笑ってしまう。未だにお前への執着が残って
いると……いうのか。この私に。
だから聞くとすれば……。
―――聞きたい、チャングム。聞いてみたい。
[62]
「話しなさい」
その瞬間……輝きを、少しずつ取り戻していく。
綺麗な目。
欲しかったのはこの眼差し。初めて会った夜の真っすぐで澄み切った目、純真な心を持っていた……あなた。
味噌の中に炭を入れ、いたずらっぽく微笑んでいたあなたが、瞳の中に浮かび上がる。あの頃、言葉はいらなかった。私たちは目だけで語り合うことができたから。
今の私に向けられるのは、媚び諂(へつら)う卑しい目ばかり。それは子供の頃から見慣れたはずだったけれど……この座に就いても、変わりはしなかった……。いや、奥底から嫌悪する眼(まなこ)まで向けられるようになっている。
……この子以外いったい誰が、私をこれほど真っすぐに見つめてくれただろう。
「……ねえ、クミョン。……お願い、自ら罪を認めてちょうだい。どうかあの時の真実を明らかにしてちょうだい」
何かと思えば、またそのこと?
喉奥にかすれたような嘆息が漏れる。
罪を認めてどうなるの? 叔母様たちが築き上げてこられたものをひっくり返せって? また私の居場所を失えって?
苛立ちをよそにチャングムは続けた。
「私にあなたを許せるようにして欲しいの」
なぜ許してもらわなきゃ……。
出かかった声に、口を閉じて抗う。
無言の私を、黙って見つめている。
その目は何を見ているの? 私を見ているの? いや、こっちに向けられているけれど本当の私を見てはいないじゃない!
ねえ、私が今までにどれだけのことをしてきたか。
チョン尚宮様へ偽薬を処方させたこと、硫黄家鴨の検証の前に、ホンイたちに毒アワビを食べさせて試食役に仕立てた計略、それを全部私が企んだと知ったら、それでもそんなことを言える? そうやってあなたたちを追いやったのよ。
しかも、ハン尚宮様に毒を盛ろうとまでしたわ。さすがにあまりに怖くなって、もう自らの手を汚したくないとばかりに、それからは他の者にやらせたけど。
あなたは知らないからそう言うんでしょ? 私は許しを請う資格すらない、卑劣な人間なのよ。
―――けれど……人の目をじっと見るのは久しぶり。いつからか私は、こんな風に
相手を見られなくなっていた。
「あなたには誇りがあったわ。あなたは家の繁栄よりも、それを何より大切にしていたはずでしょ?」
誇り? それを踏みつけたのは……。
「……お前に私の何が分かるというの?」
「違うの? 私の思い違いなの?」
ああ。私だってあんなことをしたくは……でも、居場所を守るために。そしてどんな手を使おうが、どうせ私のことなど誰も見てはいないのだから。
いいえ!
本当は、邪魔ばかりするあなたが困り苦しむ様を見るのが楽しいことさえあったわ!
[63]
「それならなぜ、かつてのハン尚宮様の方法で、女官たちを教えているの?」
なぜですって? それは……。
動揺する心と共に、自分の睫毛が微かに揺れるのを感じた。あなたにそれを悟られなかっただろうか。
「どうか、心の中で思うなら行動で示して!」
でもチャングム……なぜ、そうやって教えていることを……知っているの?
あなたは水剌間に入れないし、顔見知りの女官もいないのに。
…………もしかして私のことを……どこかから見ていたというの?
「……お願いよ、クミョン!」
どうして? どうしてそんなことを言うの? 私はあなたを傷つけたのよ。大切なものを奪い取ろうとしたのよ。
それでもまだ……私に語りかけようとしているの? それができると思っているの?
呆れるわ。呆れる。いつまでたっても、おかしなことを言う子ね。
「…………私は、あなたを憎みたくないの」
…………憎みたくない、か。しかし今更。
今更……そんなことを言われても。私は憎んでしまったのよ。
なぜならば……。
あなたが見せ付ける眩しさに、無力な自分を感じ続けたから。料理の…ことだけじゃなくて。いつだって諦めることなく……逆境を乗り越えてきた。
私は……逆らうこともできずに流されては、ひとつひとつ諦めてきたのに……。
「人を憎むことは、人を愛することのように辛い。辛く激しく、自分を変えてしまう」
チャングム、私たちは変わったわけではないわ。
私は私の本性を現し、あなたもその本性を現しただけ。お互いが憑かれる心や、激しく怨み怒る心を身に秘めていたのよ。あなたがこの醜い心を引きずり出し、剥き出しにし、もっと苦しめとばかりに追い詰めたじゃないの!
気持ちの昂りを感じ、一つ、深く息を吸った。
[64]
「…………私は……お前の言う、辛い憎しみを抱いたし……」
「……辛い恋もした……」
せめて邪魔立てされずに、お姿を見ることができていれば。少しは気持ちを鎮めることもできたでしょう、見習いの頃みたいに。けれどあの方は影すらなく。
ようやく宮に戻られて評議の場でご一緒しても、ただそこに居られるだけ。いや、お気持ちはいつもあなたの許にあり……最後の最後まで私の心は届かなかった。
「お前のせいで……」
そしてあなたは私の気持ちに無頓着過ぎた。
他の誰かなら、お慕いする気持ちも胸にしまい込まれたままだったでしょう。ここまで心が熱くなることも無かったでしょう。
私は……私はあの方ともあなたとも言葉を交わすこともままならなかったのに。あなたは、何のためらいもなくあの方にも私にも話しかけて。
「ミン・ジョンホ令監のせいで……」
覚えてる? あなたと会った夜のことを。宣政殿の殿閣の前で、お別れを告げていたって話した方……。
初めて知って、驚いたでしょ? ちょっとぐらいは私の痛みを分かってくれた?
今更どうにもならないけれど。あなたにも言いかけたことがあるのよ。
「…………お前が私の自尊心を踏み躙ったのよ……」
今だってこうして無頓着に私を泣き落とそうとしている。そんな風に言えば、また私はあなたに寄り添えるかのように。
「…………クミョン……それは違うわ。それは言い訳よ」
「出ていって」
「自尊心は他人ではなく、自分が崩すものなのよ」
そうよ! 満たされぬ思いはますます膨れ上がって、私の心を踏み躙っている。
それは分かり過ぎるほど分かっている。だからこそ、あなたに言われたくないのよ。
「いって。出ていって!」
これ以上あなたを見たくない! あなたにも見られたくない!
私の醜さを知ったとしたら、今以上に蔑むはずよ。たとえ人間じゃないとまで言われようと、このまま何も知られず憎まれたほうがずっとまし……。
だから明かすことなどできないの……あなただけには。
「クミョン……ああ……。もうあの頃には戻れないのですか」
でも……。
今でも信じてくれるのね。
もしそうなら、その思いに身を委ねることが許されるのなら……あなたの手にもう一度……もう一度だけ……そっと触れてみたい。その手に握られて、また新しい道を歩んでみたい。
この気持ちを悟られたくないの。だから……お願い……早くいなくなって。
また無言。
ややして感情を押し殺すかのように息を整えた後、チャングムは言った。
「……最高尚宮様、ありがとうございました。……これが、小さな頃から共に過した者の心でした……」
言い終えた瞳は、再び暗く濁る。
……戻れないのを、あなただってよく分かっているでしょ。その瞳が何よりの証(あかし)。狂(し)れた、底冷えの目を向けられるたび、怖気(おぞけ)立ってしまう。
「心して下さい。遺書はございます」
チャングムはゆっくりと立ち上がり、一礼をすると部屋をまたゆっくり退いていった。
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