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金沢城攻防と清原氏滅亡
 清原氏家臣に推され難攻不落の金沢城に移った家衡は、清衡と源義家率いる連合軍と徹底抗戦をした。金沢城周辺は険しい山と湿地に囲まれた天然の要害で、官軍は苦戦する。その中で「雁行の乱れにより伏兵を知る。」などや「剛の座と臆の座」などの故事が生み出された。  清原軍の守りは依然難く、清衡・義家軍は攻撃を止め、兵糧攻めの策をとる。睨み合いの中、一騎打ちの戦いや、家衡の乳兄弟千任の源氏への罵倒などがおこる。  兵糧攻めについに耐えきれなくなった清原氏は、柵内の女子供を場外へと出すが、吉彦秀武の言により出てきたものは
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陸奥守八幡太郎義家の介入
 客人の前での吉彦秀武の振る舞いに怒った真衡は直ちに兵を出し、秀武を攻めようとした。秀武は手を回し、清衡、家衡兄弟に密使を送る。  吉彦秀武の密書により、出羽に出兵した真衡の留守を狙って、胆沢郡白鳥の在家四百余戸を焼き討ちする。これを聞いた真衡は、まずこの二兄弟と戦うため出羽から引き返した。しかし、真衡は軍備を重ねたものの両軍戦うことはなく、膠着状態となった。  その時、陸奥守に源義家(頼義の長男)が赴任してきた。これを聞いた真衡は義家を供応し、三日廚といわれるほど毎日酒を振る舞い、贈り物を献じたりした
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長老吉彦秀武憤怒
 前九年の役の後、奧六郡の権力を握ったのは源氏ではなく清原氏であった。清原氏は本拠地出羽から衣川に進出し、戦の褒美として賜った安倍氏の女達を妻に迎えた。清原氏も例外無く、安倍氏の女を妻に迎えた。  それから約二十年後、清原氏に家督相続の問題が起こった。  清原武貞(貞衡)の先妻の子、真衡。後妻の藤原経清の妻有加一之末陪の連れ子、清衡、そして武貞と有加一之末陪の子、家衡である。通常年長の真衡が嗣ぐべきものだが、真衡には子がいなかった。  清原武貞死後、清原真衡が家督を継ぎ、海道小太郎成衡を養子に、その妻に源
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後三年の役
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