【詩論:目次】
【下記:詩論の投稿順・記載】
最終更新:oxooo 2011年05月02日(月) 13:03:43
『パリの憂愁』も「(5)二重の部屋」まで読み進んでまいりました。
それでこれまでに判ったことを、簡単にまとめて置こうと思います。
さて、
「散文詩とは何ぞや」と構えても、たちまち立ち往生するでしょう。
なにしろ、大概の人の散文詩に対する理解は得られていないのです。
「散文詩」を解りやすく説明した文に出合った記憶もないでしょう。
大学者たちがそれほど解説に苦労なさってるのが散文詩なのですね。
このような環境で散文詩を詠もうとしてもハタと困ってしまいます。
日本の詩研究家がボードレールに盲目的に随うのは何故でしょうか。
ボードレールが散文詩を世に送出した貢献者だったからでしょうか。
確かに世界の知性・詩人・学識者はボードレールを称賛しています。
称賛はそれなりの根拠があり、それを否定する物ではありませんが、
名声に権威が備わったからといっても、諾諾と随うべきでしょうか。
世界に頑固な詩人はゐても、頑迷な詩人などゐないと信じるゆえに、
解らなければ質し、過ちに気づけば正すのが詩人の器量と信じる私。
過ちに唯々諾々と従うなんて、どう考えても詰らないと思いますぉ。
頑固な姿勢は日本で色目で見られても、真の詩人でいたいと思う私、
という事で、これまでに学んだことを整理する意味はありそうです。
詩の研究家でない私は難しくするより、易しくするほうが好きです。
素人が読んで理解できないような詩を散文で書きたいと思いません。
だから、古語の散文詩はあっても、私は現代語で散文詩を書きたい。
ですから、単語や言い回しも、現代語辞典に添って用いたいのです。
「パリの憂愁」も堀口大学や三好達治でなく、山田兼士氏訳が好い。
山田兼士氏訳で満足できなければ改めて考えることになるでしょう。
現代語に関するこの記述は私の思いであり、散文詩の条件ではない。
(重要な基本ですが)文字が綴られているモノを「文章」と言います。
文章には[あいさつ文][ビジネス文書][解説文][論文]…等があって、
その文中に「詩」が含まれていても文章全体の仕立ては詩ではない。
つまり、文全体が詩になってる物と、部分が詩になってる物がある。
私たちは、どこからどこまでが「詩」かを見分けなければならない。
これが俳句や短歌などの詩だと、見分けはとても易しいのですけど、
散文詩はこの見分けが難しいので、こうして説明が重要になります。
因みに私の詩論は散文詩の形を目指していますけど、中なかですぉ♪
(それで「散文詩」の条件を考えたいと思います)
「詩の基本知識」で述べたように、詩の種類はいっぱいありますが、
説明文に目を通せば「散文詩」以外の区別はお解りになるでしょう。
散文詩以外の詩はお解りなのに、散文詩だけが解らないのですよね。
それは、ロジック無視の詩の研究家ってことにならないでしょうか。
「詩」でない文章を除いたとき、残った文章は「詩」だけでしょう。
もっとも「詩」の定義が出来ない研究家には難しい作業になるかも。
ともあれ「詩」の定義は後まわしにして、今は説明を先に進めます。
セレクトされた「詩」が眼前に置かれてあるのはお解りでしょうか。
それ等の「詩」から散文詩以外の詩を除いたら、散文詩が残ります。
さて、この選び方では人によっては異論が出るに違いありませんね。
ノラが定義する「散文詩中」には俳句が含まれていても構いません。
短歌を「散文詩中」に取り込んではいけない…とも考えていません。
すなわち、散文詩中に何を詠みこんでも構わないと考えていますぉ
だけど、逆は有り得ません。散文を韻文に取り込むのは不可能です。
散文の童話は詰らないし、劇詩や戯曲にならないとは言えないけど。
ボードレールは「パリの憂愁」の序文で、凡そ次のように綴ります。
詩篇「パリの憂愁」の全体は一つの長い物語風ではないと。つまり、
詩の小さなブロックの一つ一つは、それだけで完結しているとする。
昨日は木々に囀る小鳥と遊び、今日は野原の花を愛でるようにして、
日々は過ぎても、結局、世界は美しく素晴らしいと判るようなもの。
詩篇はどこから読んでも、どこで切っても、明日へつながると言う。
ボードレールの詩篇はどこか劇詩や戯曲にない魅力を持っていそう。
これはノラの感じるところで世間の感じ方はどうか判りませんけど、
童話の喋べる樹には驚かされるし、劇の顛末は安心して観てられる。
散文詩はその点、読み手の能力に結末が委ねられる幅があると思う。
散文詩は作者に安心の筋書きを決めてもらうことは出来ないけれど、
読者と作者はハンディ無しの対等に、結果を予測・導きだせるんだ。
私は「パリの憂愁」のなかで、ボードレールと議論しつつ・考えて、
ボードレールの間違いを指摘したり、思わぬ逆襲に慌てたりしてる。
それは散文詩だからかしら…昔、冒険小説で味わった懐かしい気分。
人間は大人になっても精一杯の所で生きる楽しさを知る生き物かも。
ボードレールはそれゆえ、散文詩の手法を必要としたとも思われる。
『パリの憂愁』も「(5)二重の部屋」まで読み進んでまいりました。
それでこれまでに判ったことを、簡単にまとめて置こうと思います。
さて、
「散文詩とは何ぞや」と構えても、たちまち立ち往生するでしょう。
なにしろ、大概の人の散文詩に対する理解は得られていないのです。
「散文詩」を解りやすく説明した文に出合った記憶もないでしょう。
大学者たちがそれほど解説に苦労なさってるのが散文詩なのですね。
このような環境で散文詩を詠もうとしてもハタと困ってしまいます。
日本の詩研究家がボードレールに盲目的に随うのは何故でしょうか。
ボードレールが散文詩を世に送出した貢献者だったからでしょうか。
確かに世界の知性・詩人・学識者はボードレールを称賛しています。
称賛はそれなりの根拠があり、それを否定する物ではありませんが、
名声に権威が備わったからといっても、諾諾と随うべきでしょうか。
世界に頑固な詩人はゐても、頑迷な詩人などゐないと信じるゆえに、
解らなければ質し、過ちに気づけば正すのが詩人の器量と信じる私。
過ちに唯々諾々と従うなんて、どう考えても詰らないと思いますぉ。
頑固な姿勢は日本で色目で見られても、真の詩人でいたいと思う私、
という事で、これまでに学んだことを整理する意味はありそうです。
詩の研究家でない私は難しくするより、易しくするほうが好きです。
素人が読んで理解できないような詩を散文で書きたいと思いません。
だから、古語の散文詩はあっても、私は現代語で散文詩を書きたい。
ですから、単語や言い回しも、現代語辞典に添って用いたいのです。
「パリの憂愁」も堀口大学や三好達治でなく、山田兼士氏訳が好い。
山田兼士氏訳で満足できなければ改めて考えることになるでしょう。
現代語に関するこの記述は私の思いであり、散文詩の条件ではない。
(重要な基本ですが)文字が綴られているモノを「文章」と言います。
文章には[あいさつ文][ビジネス文書][解説文][論文]…等があって、
その文中に「詩」が含まれていても文章全体の仕立ては詩ではない。
つまり、文全体が詩になってる物と、部分が詩になってる物がある。
私たちは、どこからどこまでが「詩」かを見分けなければならない。
これが俳句や短歌などの詩だと、見分けはとても易しいのですけど、
散文詩はこの見分けが難しいので、こうして説明が重要になります。
因みに私の詩論は散文詩の形を目指していますけど、中なかですぉ♪
(それで「散文詩」の条件を考えたいと思います)
「詩の基本知識」で述べたように、詩の種類はいっぱいありますが、
説明文に目を通せば「散文詩」以外の区別はお解りになるでしょう。
散文詩以外の詩はお解りなのに、散文詩だけが解らないのですよね。
それは、ロジック無視の詩の研究家ってことにならないでしょうか。
「詩」でない文章を除いたとき、残った文章は「詩」だけでしょう。
もっとも「詩」の定義が出来ない研究家には難しい作業になるかも。
ともあれ「詩」の定義は後まわしにして、今は説明を先に進めます。
セレクトされた「詩」が眼前に置かれてあるのはお解りでしょうか。
それ等の「詩」から散文詩以外の詩を除いたら、散文詩が残ります。
さて、この選び方では人によっては異論が出るに違いありませんね。
ノラが定義する「散文詩中」には俳句が含まれていても構いません。
短歌を「散文詩中」に取り込んではいけない…とも考えていません。
すなわち、散文詩中に何を詠みこんでも構わないと考えていますぉ
だけど、逆は有り得ません。散文を韻文に取り込むのは不可能です。
散文の童話は詰らないし、劇詩や戯曲にならないとは言えないけど。
ボードレールは「パリの憂愁」の序文で、凡そ次のように綴ります。
詩篇「パリの憂愁」の全体は一つの長い物語風ではないと。つまり、
詩の小さなブロックの一つ一つは、それだけで完結しているとする。
昨日は木々に囀る小鳥と遊び、今日は野原の花を愛でるようにして、
日々は過ぎても、結局、世界は美しく素晴らしいと判るようなもの。
詩篇はどこから読んでも、どこで切っても、明日へつながると言う。
ボードレールの詩篇はどこか劇詩や戯曲にない魅力を持っていそう。
これはノラの感じるところで世間の感じ方はどうか判りませんけど、
童話の喋べる樹には驚かされるし、劇の顛末は安心して観てられる。
散文詩はその点、読み手の能力に結末が委ねられる幅があると思う。
散文詩は作者に安心の筋書きを決めてもらうことは出来ないけれど、
読者と作者はハンディ無しの対等に、結果を予測・導きだせるんだ。
私は「パリの憂愁」のなかで、ボードレールと議論しつつ・考えて、
ボードレールの間違いを指摘したり、思わぬ逆襲に慌てたりしてる。
それは散文詩だからかしら…昔、冒険小説で味わった懐かしい気分。
人間は大人になっても精一杯の所で生きる楽しさを知る生き物かも。
ボードレールはそれゆえ、散文詩の手法を必要としたとも思われる。
最終更新:oxooo 2011年05月01日(日) 15:33:07
(この『詩論』をつくる切掛けになったのが実に、こちらのお二方です)
心掛け
発端はツイート上に、プロの文士が素人のつくった詩を呟いたことに始まりました。
それが私の目に留って、詩の勉強にもなるとの思いもあって、関わり始めたのです。
以下は、ツイートしたノラの文を見やすくして、ここにコピペしたものです。
(夜の水)÷(城戸朱理氏x高橋源一郎氏)=√5
宮澤賢治
私は今、宮澤賢治を読んでブログに綴っています。それが今から始めるツイートの遠因になったかも知れません…
切っ掛け
1.初めは、高橋源一郎氏がご自分の推奨する詩をツイッターでつぶやきました。
2.そしてそのツイートに、城戸朱理氏が噛みついたというのです。
3.ケンカの当事者は業界で名がとおった 高橋源一郎氏と城戸朱理氏ですけど、ノラが詩や小説、エッセーに関心がなければ見向きもしなかったでしょう。
4.(経緯はもうアヤフヤになってますけど…)だけど初めは、これって「ヤラセ」みたいだなって感じたのですぉ。
5.つまり、商業ベースで仕組まれたケンカ?八百長? あるいは、片八百長? つまり、「売らんかな」の商魂?
6.高橋源一郎氏の 「おススメの詩」に感じたモノがおそらく強く、ノラに影響したのです。
7.散文?エッセー?そんな危うい体裁の詩が在ったって好い。宮澤賢治のだって、詩だかエッセーだか童話だか分らない。
8.エッセーと詩の境界がじっさい解からないノラですぉ。
9.文学に詳しかろう筈のお二方の議論に惹かれたのは、そんな下地がノラに在ったからだとも考えています。
10.学ぶ姿勢が狂っててはいけませんから、好きでない詩を何べんも読んで高橋源一郎氏を受入れようとする私です。
11.私には好きになれない詩ですけど、城戸朱理氏が高橋源一郎氏に噛みついた感覚や思いも分る道理です。
議 論
1.なにはともあれ、インターネットで議論する人が現われた…それがヤラセでも、わたしの強い関心を引いたのはもう一つの事実でした。
2.ツイッターを使っての「本格的な議論」に前々から期待していた私です。
3.私は、掲示板やブログで議論をし、教育行政の批判や司法の批判などもいっぱいしました。
4.それにしても、安心してホンネで語り合える「ステージ」(安心な井戸端)がなければ ダレも声を出せないじゃないですか。
5.プロバイダーの人権意識の低さは ホンネ発言を規制させる動きをしています。
6.(商業ベースゆえ? スポンサーの御機嫌取りで?)プロバイダーの気に入らなければ、合法な記事でも削除したり…です。
7.人権感覚が進んでいる欧米のプロバイダーなら、その点、日本のネット環境と異なって、自由な発言を認めるかも知れません。
8.「電波は公共のモノ」という意識が市民の間で高まれば、人権意識が低いプロバイダーは排除できるのです。
9.ともあれ、そのようなインターネットへの思いも「城戸朱理氏 vs 高橋源一郎氏」の論争に私を引寄せた気がします。
10.さて、戦いはフェアでなければならないとお思いの方は多いですし、それなら議論も戦いですからフェアでなければなりません。
11.それにしても『フェアプレー』の言い出しッペは誰かしら? 『紳士たれ』なら恐らく英国が発 祥なんだろうな。
12.闘技場の剣闘士はルールに法って命懸けで殺し合ったのですぉ。ルールに法るなら賭けに負けた観客も文句ない。
13.素手の剣闘士と武器を持った剣闘士を戦わせて、客は剣闘士を選んで賭ける権利がある。そう考えると客同士の賭けはフェアな勝負になってる。
14.強弱の球団を雑ぜて一リーグ。弱い球団に主力投手を当てて勝っても他の球団に負けたら優勝は 遠のく。
だから弱い球団でも勝つチャンスはある。これも観客を楽しませるためのルールね。
15. そう考えると、観客のためのフェアプレーであり、戦う当事者にフェアプレーは命取りのルールにもなる。
16.城戸朱理氏 と 高橋源一郎氏の論争も負けたほうに世間の目は冷たい。プロのお二人のガチンコ勝負なの?疑わしいけど、流れはガチンコで厳しい。
17.ツイッターでのガチンコ勝負。この戦いの最大のメリットは本心を語ってもらえて、おかげでノラも詩の勉強をさせていただいてます。
18.言葉以外通じないツイッターは真剣勝負のフェアプレーと心得べし。どんな隠 し玉・ワナも使える。議論の場でプロバイダーもスポンサーも無用です。
プロ文士
1.今回の議論の当事者「城戸朱理氏 と 高橋源一郎氏」はともに「プロの文士」と理解して良さそうです。
2.プロの文士はホンネを「メタファー(暗喩)」や「シミル(明癒)」に託して語ることが多い人たちと考えて良さそうです。
3. メタファーやシミルが習慣化され・血肉化された人は、ホンネをあからさまにしない性癖がつきそうですぉ。
4.これは、ホンネをあからさまにしない人はメタファーやシミ ルに通じているという意味ではありません。
5.つまり、ホンネをあからさまにしないようで、だけど、ホンネをキッチリと述べているのがプロの文士の気概ではないでしょうか。
6.ただしこれは、私の理解の範囲で述べているのであって、プロの文士に寄せる私の期待でもあります。
7.プロの文士という立場にゐて、ゴマカシたり、詭弁に逃げるようなら最早、文士の気概を知らない売文屋と思ってしまいますぉ。
8.今回、プロの文士のお二人のツイートを詳しく読ませていただいて、プロの心に触れたい…これが私の思いです。
9.これまでの経過は、噛みついた城戸朱理氏に高橋源一郎氏が回答なさった。城戸朱理氏には堂堂たる受答えを望みます。
10.城戸朱理氏は岩手県の生まれ、、関係ないけど、岩手県 と言えば、宮澤賢治の故郷。私は今、宮澤賢治を読んでいます。
書かれるべき
1.高橋源一郎氏は述べる。ほとんどの(詩・作家) 志望者が書きたくて書いてる…と。
2.成るほど、詩『夜の水』を読むと、その対極に、作家志望者たちの姿が映し出されて見えるのですね。
3.しかも、詩『夜の水』は書かれるべき詩だと述べている。高橋源一郎氏がそう思った根拠がある筈です。
4.城戸朱理氏は高橋源一郎氏の説に異を唱えた。異を唱えるとは、その根拠に同意しても・しなくても、結局、否定したってことです。
5.同意しない意味は「高橋源一郎氏はそもそも間違い」と言ってそうだし、同意した意味は「それは取るに足りないこと」と言ってる気がする。
6.それなら、私は、「そもそも間違い」か、「取るに足りないこと」かを知らなきゃならない。それを知らずにどちらについても風見鶏だよね。
7.ところで、直前に使った『風見鶏』はメタファーですぉ。
8.主語は「誰か」、つまり「誰かによって書かれるべき詩」になる。けど、なぜ「誰か」でしょうか?
9.これが使命感に燃えた文士が述べたフレーズなら、「私が書くべき詩」とポジティブに捉えた気がする。
10.わたしは高橋源一郎氏を「プロの文士」と述べたけれど、氏はプロゆえに「書かれるべ き詩」としたと考えている。
11.高橋源一郎氏はプロの文士であるという時の「プロの文士」はメタファーですから、ど う理解するかは各人各様でしょう。
12. プロの文士の意味には例えば「○○さんの作品を推奨したい」立場や、「権威として振る舞う」立場をも含めることが可能です。
13.もちろん、「プロの文士」をメトニミー(換喩)と捉えて「文筆で生計を立てている作家・詩人」という理解も成り立つでしょう。
14.私的にはプロの文士が「権威を持って振る舞う」ことには何ら違和感も反発も覚えません。
15.城戸朱理氏には「高橋源一郎氏が権威として振る舞う」ことは不愉快なようです。この 場合の権威は城戸朱理氏の頭上に位置しています。
16.それにしても、プロの文士同士の議論はメタファー・シミル・メトニミーの境界までが錯綜していて読み応えがあります。
17.ともあれ、「権威を持って」振る舞おうが、 「権威として」振る舞おうが、権威は説明責任を果たさねばなるまい。
18.「権威に説明責任が伴う」のは例えば、国王の権威に国民の安寧が伴うようなものです。
19. 校則の説明が出来ない校長や、教育法の説明が出来ない文科相はいない筈ですし、説明を拒むなら権威でなく、権力の乱用というものです。
20.権威としてツイートしたのなら、少なくもその件に関しては説明するのがプロの責任・ 自負というものでしょう。
21.もっとも、高橋源一郎氏にすれば「夜の水」を朗読した時点で、説明し切ったとしてらっしゃるのかも知れません。
22.とに角、気付いた文士・詩人によって、あるいは偶然にも「書かれるべき詩」は書かれ・発表されました。
23.さて、書かれるべき詩は書かれただけでは完結しない。読まれるべき人に読まれて使命を終えると言えそうです。
24.高橋源一郎氏に読まれた「書かれるべき詩」は科学反応を起こし、ツイッターの宙に飛び立った。
25.指から放しただけで紙飛行機は舞うだろうか? 腕を振って風に乗せてこそ、紙飛行機は空に舞い上がり、私たちを幸せにする。
26.これが名人が作った紙飛行機であれば、そっとそぉっと指を放れても風がない室内を遊泳するのだろうけど…。
27.つまり、荒削りな紙飛行機ってことね。左甚五郎の荒削りの鯉は生き生き生きてたけど、荒削りの紙飛行機の良さは解り難い。
28.甚五郎の荒削りの鯉は鯉として価値を高め、荒削りな紙飛行機は別な目的で喜ばれかねない危うさがある。
29. メチルアルコールを飲んだアル中が失明したり・落命するみたいに、使用法をはき違えては狂う者もでる。
30. 今なら春本版「四畳半襖の下張」も文芸と言われるかも知れないけど、これは「書かれるべき」とは言えないでしょう。
31.そもそも「べき」とは「適切志向の意志」が基調にあるように思います。
32.適切志向とは「そうしたほうが好いよ」の心です。そしてその心を意識しているのは、ココでは高橋源一郎氏でしょう。
33.それで高橋源一郎氏がプロ文士の立場から呼びかけている相手は誰かと言えば、それは日本人全員です。
34.例えば、学校の先生が呼び掛ける相手は生徒・PTA・教育委員会・その他関係者でしょうし、乳児が呼び掛ける相手と言えば・母親でしょう。
35.プロの文士・高橋源一郎氏は様々な顔を持っておられる。つまり、お弟子、ファン、雑誌社、所属の組織、さらに未来のファクターが対象です。
36.もっと言えば、城戸朱理氏を支配下に置く想定もできる。その後の城戸朱理氏は高橋源一郎氏を接待したいとも述べてますね。
37.藁ほどの価値を感じない相手も、錬金術師のプロは転んで掴んだ藁を黄金に換える術をご存じに違いない。
38.ただ、ここでいう錬金術師は文芸の権威を意味しないし、詭弁の遣い手を除くモノでもありません。それ等は当人の振る舞いに縁るのです。
39.ともあれ、私は、詩論・文芸論を学ぶ素敵な切っ掛けを作って頂いたと関係者の皆さまに感謝しています。
40.医学生は感謝できる高橋源一郎氏のウンコも、医学生でない一般人がそのウンコを踏んで中毒を起こすことにも配慮しなければいけません。
41.その程度のことは権威・師匠であれば必要最低限の常識として絶対に理解できていることです。
42.けれど、見せ掛けの権威やニセモノ師匠は責任感がなく、ウンコの垂れ流しをして市民に害を及ぼす困り者です。
43.仮にもネガティブなプロ文士の害に気付いたのが同じプロ文士仲間であれば、警戒警報を流すほどの良心を持ってほしい
44.それは、薬局に売られている薬だからといっても、子供の手の届く場所に置いてはいけないという例えを引くまでもありますまい。
45.春本版「四畳半襖の下張」が文芸・文学だとしても、子供に読み聞かせる無責任な権威や教育者がいては困ります。
46.それと同じく、普通の人には「春本」との見分けがつかない文章をインターネットで読み聞かせる無責任な人間は困ったものです。
47.『詩』という美名の下に、見境なく何でも、公衆の面前に広げるような者に倫理観はあるでしょうか?
48.すなわち、「書かれるべき詩」は、「読むべき対象者」を具体的にし、ソコに集中して・その目に触れるように図るべきとなる。
49.仮にも売らんかなの悪しき商業主義に毒された卑しい心根が麗しい詩性のオブラートに隠されているなら、これを見逃してはならない。
50.高橋源一郎氏も人の親でありましょう。毅然たる態度を示してほしいと思います。
無責任な態度
1.さて、私は良薬も処方を誤まるとトンデモナイ毒になり、毒さえも処方次第では良薬に変じるという教訓を思い出します。
2. そのような二面性を持っているのが、高橋源一郎氏が推薦する「書かれるべき詩」であると、私たちは理解していなければならないでしょう。
3. ただここで、毒にも薬にもならぬような代物を「書かれるべき詩」であると高橋源一郎氏が表現したと不用意に決めつけてはならない。
4. 水アメを毒だと言って誤魔化した一休さんのお師匠さんの罪は、大事な弟子に嘘を吐かせた事ですけど、
5. まして、美味しそうな説明文が付いた毒を人目に触れる場所に放っておけば、どれほどの被害者が出るか、想像力がある人ならお解りになるでしょう。
6.想像力が欠如した・無責任で・デタラメな・困った人がそのような危険な行為をするだろう事はどなたにもお解りでしょう。
7.事は当人が罪に堕ちるだけでは足りず、多くの他者を罪に巻き込むことにもなると謙虚に猛省し・改め・正すべきでしょう。
8.如何に優れた良薬であっても・その酷い毒性に中って誰かが苦しむのは本末転倒ですから、使用には厳重な注意が必要なのです。
9.他者が危険に遭うことが予測できない・予測できて無視する、そのような無能乃至無責任な行為は文学を語る以前の問題でしょう。
夜の水
1.書かれるべき詩「夜の水」は、私のためには・どのように書かれたのでしょうか? 私は「夜の水」をどのように「読むべき」でしょうか !?
2.高橋源一郎氏は大江麻衣さんの詩集『道の絵』のなかでも「夜の水」は最良と称える。だが、どこが良いかのロジカルな説明は出来ない。
3.ロジカルな説明は不能なのに「書かれるべき詩」だと断定的に述べる高橋源一郎氏って、、ハテ さて !?
4.高橋源一郎氏は、訳も分らず感動した『夜の水』をツイート朗読した。その朗読に多くのリプライ(返答)を得て、反響の大きさを確認したとする。
5.そのリプライの内容の多くが「現代詩は敬遠していたが、この詩には感動した!」とする。
だが、リプライした人たちの感動の内容もまた高橋源一郎氏の説明では不明のまま。
6.私が違和感を持ったのはリプライに対する高橋源一郎氏の反応です。
7.高橋源一郎氏がフォローしている数はわずか50余人で、フォローされた数は優に2万人超。これは売れっ子芸人や政治家並みの知名度やキャリアを意味する。
8.(例)田代まさし13人/8500人、松尾貴史570人/37000人、スザンヌ180人/25000人、緒方龍一57人/17000人。高橋源一郎氏は緒方龍一とほぼ同じ。
9.私が美味しそうな エサを投げても大勢が飛びつきますし、高橋源一郎氏が美味しそうなエサを投げたのだからもっと多くの反響が見込めるでしょう。
10.「現代詩を敬遠していた」人たちが「夜の水」に刺激されてリプライしたと読める。
何らかの刺激を受けなければ現代詩を敬遠していた人たちが読む筈はないでしょう。
それを 「感動」のひと言だけで括る高橋源一郎氏って?
11.プロの文士・高橋源一郎氏はですから、何らかの目的があって意識的に曖昧な表現に留めたと考えて間違いないでしょう
12.「この詩には感動した!」というフレーズは特別優れた文を讃える言葉です。
「官能を刺激されて感動する」とは言わないけど、美化しなければならないプロの立場か。
13.城戸朱理氏にしてもプロの文士で、「お互い様」の呼吸は心得られてらっしゃるでしょう、つまり、触れてならない文壇の掟かも知れません。
14.ともあれ、そのリプライの一つが『本誌「新潮」編集長のもの』だったという。文脈に拘らず、この編集長も「この詩に感動した」一人と読めます。
15.ところで新潮の説明を読むと「現役の商業文芸誌」「刺激的な原稿」を歓迎していて、日本語で表現されたあらゆる言葉=思考の力を誌面に結集させたい…と。
16.どこがどう良いか解らないと高橋源一郎氏が表現した「夜の水」、新潮の編集長もどこがどう良いか、解らなかっただろうか?解っていただろうか?ハテな !?
17.新潮編集部は 『言葉=思考の力を誌面に結集させたい』と謳いながら、言葉を理解する能力に欠けてると、高橋源一郎氏が証言したようにも捉えられます。
18.ではここで、この一連の流れに少しも異議を唱えたくないように見える新潮編集部の「言葉と思考に対する姿勢」を観察したい。
19.新潮の底流に「商業主義」「刺激を求める」流れがあると知れば、大胆な予測が成り立つのではないでしょうか?
20.思春期以降の男女が最も刺激を受けるのはどのようなフレーズでしょうか? 言わずと知れた官能・性欲を刺激するモノ、つまり春本の類でしょう。
21.それなら「現代詩を敬遠していた人はモチロン、本に無関心な人まで刺激されて「感動した!」と詭弁を連ねることは考えられる。
22.高橋源一郎氏がツイッターで『これでどやァ〜』とばかりに「夜の水」を流し、『新潮』編集長が『それやぁー』とばかりに応じた。田舎芝居みたいに
23.ともあれ、一連の動きを見ると、高橋源一郎氏の思惑は『新潮』の軌道にピッタリ添ってる。
24.新潮の軌道にピッタリで商業ベースに乗るとなれば、善悪を意に介さず・倫理観のない売文屋なら小躍りするでしょう。
25.だけど、子供たちの教育に僅かの意識が働く人であれば、ツイートする前に中身をヨクヨク吟味して躊躇するでしょう。
26.新潮は「売れたら好いジャン、そりゃそうジャン」の商業主義なら、世界中の子供部屋に不道徳な中身をツイートして平然とするでしょう。
道徳観念をお聞かせ願いたい。
28. このような重大問題を軽視乃至無視する高橋源一郎氏なら、「子供=玩具」程度にしか感じていないし、教育者の資格はありません。
29.もっともそんなこと、私が言うまでもなく高橋源一郎氏ご本人が教育なんて知ったことか、と腹の中で呟いてる気がする。
30.高橋源一郎氏をフォローする2万人超の関心事として、a.官能を刺激されたい。b.高橋源一郎氏及び氏が推す作家にあやかりたいの二種が浮上する。
31.「a.官能を刺激されたい」人は、「現代詩を敬遠していた」人と言うよりも、春本の匂いに惹かれて徘徊する人群れです。
{32.「b.高橋源一郎氏及び氏が推す作家にあやかりたい」人は、「(フォロワー数50人/20000超)の高橋源一郎氏を目標にする人ですから、目標の最短距離に位置し
て見える大江麻衣氏にも感動できる人。}
33.ここに、高橋源一郎氏を目標にする人たちからのリプライ「この詩に感動した」が寄せられた意味が見えてきました。
34.「新潮」の社風に合う高橋源一郎氏の強大な支持・支援を得て、あなたも大江麻衣氏に続くことが出来ると氏のツイッターには「思わせ振り」に示されている。
35.高橋源一郎氏の権威の衣に乗って「新潮」更には「文壇・詩壇」への登竜門を潜れると考えた人たちは興奮も覚えたでしょう。感動モノですね。
36. その人たちは「夜の水は書かれるべき詩」のフレーズをどう理解したの?『夜の水に続く・夜の水以上のヒット作は私に依って書かれるべき詩』しかない。
37.大江麻衣さんの「夜の水」程度なら私にだってカンチコチン…変な自信に満ちて、そうして出来た詩を「新潮」に寄せると高橋源一郎氏が採り上げてくれる。
38.わたしも愈々・超有名詩人デビューなんだわ…愉しい夢に胸脹らませ、だけど、大江麻衣さんも努力しなきゃ、「当て馬」で終ります。頑張ってくださいね。
39.げげげの女房…水木しげる氏は『テレビくん』で講談社児童まんが賞を受賞しましたけど、プロの漫画家として二十年近い苦労の末の賞でした。
40.水木漫画「テレビくん」が子供やPTAに受入れられたのも、「鬼太郎」が子供やPTAに受入れられたの同根だと私は思います。
41.テレビくんも鬼太郎も、強きを挫き・弱きを助けたい人間のDNAに受入れられたのであって、
怖いだけでは「自分」の仲間にしない。悪党でも恐いのは敵対グループの奴らに違いないんだ。
42.弱い人間を踏みにじり・食い物にし・玩具と目した時点で、高橋源一郎氏は鬼太郎の仲間ではなく、人間の味方ではない。
43.すなわち、H系(春本)『夜の水』をツイートした感覚は鬼太郎の敵サイドでしょう。
44.話題の「権威」に戻りますぉ。読む人が読めば、城戸朱理氏ら「プロの文士の目」に、「高橋源一郎氏が権威として振る舞っている」のは一目瞭然でつ。
45.そもそも、民意は権威を正義と信じて随うものでつ。高橋源一郎氏に随えば文壇デビューできると思う民意が生まれることに城戸朱理氏は批判したと思う。
46.城戸朱理氏とプロセスは異なるかもだけど、ノラは鬼太郎の敵・人間の敵を正義と認めないゆえに、高橋源一郎氏を権威としない。
47.お解りになりましたか? 「夜の水」は文壇が人間味を失くした証しの春本であり、出版界に人間の息吹を蘇らせる材料としてノラは読みました。
48.現時点までの高橋源一郎氏の動きをみる時、「書かれるべき詩」は高橋源一郎氏が権威を登るハシゴの役割に見えます。
49.ある人に「夜の水」はあてがわれた「当て馬」の役割り、大江麻衣氏には名前を売るチャンス、編集長には部数を伸ばす弾でしょう。
50.子分の責任をヤクザの親分が取る刑法があり、秘書の犯罪にノホホンの政治家を護る悪法もある。悪法に親しんで、正義を無力化させるプロの文士には困る◆
まとめ
1.文筆で生計を立てながら文筆の責任を自覚しないプロの文士&出版社…怠惰な日々に刺激を求めて・社会に害を及ぼすチンピラども。
2. 今回、高橋源一郎氏の「春本」ツイートに始まった一連の動きに『新潮社』の商業主義が透けてみえます。
3.“読者が欲しがるモノは何を書いても構わないと、「書きたい詩=売れ筋」を群がる姿”は何なのか。
4.“大江さんは(新潮が 求める)「書かれるべき詩」を(たまたま)書いた”とする高橋源一郎氏だが、白日の下では隠しきれない。
5. 「(大江麻衣氏の)詩の良さをうまく説明することができない自分にもどかしさも感じた」と述べる高橋源一郎氏のホンネが漏れてる。
6.仮に、新刊本の「帯」に称賛の言葉を書いてほしいと頼まれて・良さが見えなければ「良さをうまく説明することが出来ない」道理です。
7.それにしても、どんなにツマラナイ本でも誉めることが出来ない者は、プロの文士として失格の烙印が編集長に捺されるのでつ。
8.「夜の水」をどう誉めたら良いかと頭をかかえ・悩んでいる高橋源一郎氏の姿が目に浮かぶようです。
9.工夫に目新しさが有るでなし、発見が有るでなし、そんなクダラナイ物の中身に触れでもしたら、高橋源一郎氏は間違いなく墓穴を掘ることになる。
10.それゆえ、中身に触れず、読者に丸投げして「どやぁ〜」で、新潮が「それやぁ〜」と応じたと、もう述べましたね。
「続きは本誌にてお楽しみ下さい。」と新潮編集部。これは官能をくすぐられて「楽しんで…」と読み換えできます。
11.結局、“みんなが「書きたい物」を書くなか、大江さんは「書かれるべき詩」を書いた”とする高橋源一郎氏のフレーズは強弁&詭弁。
12. 高橋源一郎氏の底意に気付かず、推奨文を信じて文学と勘違いした人は「春本」を子供に読ませるかも知れない。
13.これは大学の先生が推奨して、文学を目指す人たちに読まれている素晴らしい詩だよ…なんて嘘っ八は困ります。
新潮はともかくとしても、高橋源一郎さんはそんなことも想像できないのですか?
14.悪書が良書の顔をして社会にのさばるとき、子供の正常な精神の発達は歪められます。
高橋源一郎氏はその悪い手本を見せている。 (完)
さて一連の流れを振返ってみて、
1.今日の日本社会の常識から言えば、「夜の水」に出てくる単語やフレーズ程度は別に目新しくないとお考えの方は多いでしょう。
2.私でもその程度のことは知っている。新潮の類がそうやって世間を春本に馴れさせてきたのです。
3.「そうやって取り締まりの法律なんか有名無実化できる、出版のたびに少しずつ有名無実化させたら好い」なんて、見え透いた魂胆です。
4.だから「普通に目にする悪書」は、社会に曝して構わないというなら、開き直り。 放っておいたら何処までエスカレートすることか…。
5.新潮の編集長も、高橋源一郎氏も、城戸朱理氏も、どなたも、ご自分の仕事の正当性を言えるなら、論陣を張り、世間の支持を得たらいい。
6.大学教授・高橋源一郎氏の推薦なら間違いないとか、有名な新潮なら好いとか、何も分ってない無責任な文士志願者を集める行為に恥を知らなきゃいけない。
7.売れたら好いとか、有名になれるからとか、、そんな卑しい心掛けの者は「文士」と言わず、売文屋と言う。
いやしくも詩人を名のるなら、読者のなかに詩人の心・詩心を育むぐらいの気概を持ってほしいものです。
(この『詩論』をつくる切掛けになったのが実に、こちらのお二方です)
心掛け
発端はツイート上に、プロの文士が素人のつくった詩を呟いたことに始まりました。
それが私の目に留って、詩の勉強にもなるとの思いもあって、関わり始めたのです。
以下は、ツイートしたノラの文を見やすくして、ここにコピペしたものです。
(夜の水)÷(城戸朱理氏x高橋源一郎氏)=√5
宮澤賢治
私は今、宮澤賢治を読んでブログに綴っています。それが今から始めるツイートの遠因になったかも知れません…
切っ掛け
1.初めは、高橋源一郎氏がご自分の推奨する詩をツイッターでつぶやきました。
2.そしてそのツイートに、城戸朱理氏が噛みついたというのです。
3.ケンカの当事者は業界で名がとおった 高橋源一郎氏と城戸朱理氏ですけど、ノラが詩や小説、エッセーに関心がなければ見向きもしなかったでしょう。
4.(経緯はもうアヤフヤになってますけど…)だけど初めは、これって「ヤラセ」みたいだなって感じたのですぉ。
5.つまり、商業ベースで仕組まれたケンカ?八百長? あるいは、片八百長? つまり、「売らんかな」の商魂?
6.高橋源一郎氏の 「おススメの詩」に感じたモノがおそらく強く、ノラに影響したのです。
7.散文?エッセー?そんな危うい体裁の詩が在ったって好い。宮澤賢治のだって、詩だかエッセーだか童話だか分らない。
8.エッセーと詩の境界がじっさい解からないノラですぉ。
9.文学に詳しかろう筈のお二方の議論に惹かれたのは、そんな下地がノラに在ったからだとも考えています。
10.学ぶ姿勢が狂っててはいけませんから、好きでない詩を何べんも読んで高橋源一郎氏を受入れようとする私です。
11.私には好きになれない詩ですけど、城戸朱理氏が高橋源一郎氏に噛みついた感覚や思いも分る道理です。
議 論
1.なにはともあれ、インターネットで議論する人が現われた…それがヤラセでも、わたしの強い関心を引いたのはもう一つの事実でした。
2.ツイッターを使っての「本格的な議論」に前々から期待していた私です。
3.私は、掲示板やブログで議論をし、教育行政の批判や司法の批判などもいっぱいしました。
4.それにしても、安心してホンネで語り合える「ステージ」(安心な井戸端)がなければ ダレも声を出せないじゃないですか。
5.プロバイダーの人権意識の低さは ホンネ発言を規制させる動きをしています。
6.(商業ベースゆえ? スポンサーの御機嫌取りで?)プロバイダーの気に入らなければ、合法な記事でも削除したり…です。
7.人権感覚が進んでいる欧米のプロバイダーなら、その点、日本のネット環境と異なって、自由な発言を認めるかも知れません。
8.「電波は公共のモノ」という意識が市民の間で高まれば、人権意識が低いプロバイダーは排除できるのです。
9.ともあれ、そのようなインターネットへの思いも「城戸朱理氏 vs 高橋源一郎氏」の論争に私を引寄せた気がします。
10.さて、戦いはフェアでなければならないとお思いの方は多いですし、それなら議論も戦いですからフェアでなければなりません。
11.それにしても『フェアプレー』の言い出しッペは誰かしら? 『紳士たれ』なら恐らく英国が発 祥なんだろうな。
12.闘技場の剣闘士はルールに法って命懸けで殺し合ったのですぉ。ルールに法るなら賭けに負けた観客も文句ない。
13.素手の剣闘士と武器を持った剣闘士を戦わせて、客は剣闘士を選んで賭ける権利がある。そう考えると客同士の賭けはフェアな勝負になってる。
14.強弱の球団を雑ぜて一リーグ。弱い球団に主力投手を当てて勝っても他の球団に負けたら優勝は 遠のく。
だから弱い球団でも勝つチャンスはある。これも観客を楽しませるためのルールね。
15. そう考えると、観客のためのフェアプレーであり、戦う当事者にフェアプレーは命取りのルールにもなる。
16.城戸朱理氏 と 高橋源一郎氏の論争も負けたほうに世間の目は冷たい。プロのお二人のガチンコ勝負なの?疑わしいけど、流れはガチンコで厳しい。
17.ツイッターでのガチンコ勝負。この戦いの最大のメリットは本心を語ってもらえて、おかげでノラも詩の勉強をさせていただいてます。
18.言葉以外通じないツイッターは真剣勝負のフェアプレーと心得べし。どんな隠 し玉・ワナも使える。議論の場でプロバイダーもスポンサーも無用です。
プロ文士
1.今回の議論の当事者「城戸朱理氏 と 高橋源一郎氏」はともに「プロの文士」と理解して良さそうです。
2.プロの文士はホンネを「メタファー(暗喩)」や「シミル(明癒)」に託して語ることが多い人たちと考えて良さそうです。
3. メタファーやシミルが習慣化され・血肉化された人は、ホンネをあからさまにしない性癖がつきそうですぉ。
4.これは、ホンネをあからさまにしない人はメタファーやシミ ルに通じているという意味ではありません。
5.つまり、ホンネをあからさまにしないようで、だけど、ホンネをキッチリと述べているのがプロの文士の気概ではないでしょうか。
6.ただしこれは、私の理解の範囲で述べているのであって、プロの文士に寄せる私の期待でもあります。
7.プロの文士という立場にゐて、ゴマカシたり、詭弁に逃げるようなら最早、文士の気概を知らない売文屋と思ってしまいますぉ。
8.今回、プロの文士のお二人のツイートを詳しく読ませていただいて、プロの心に触れたい…これが私の思いです。
9.これまでの経過は、噛みついた城戸朱理氏に高橋源一郎氏が回答なさった。城戸朱理氏には堂堂たる受答えを望みます。
10.城戸朱理氏は岩手県の生まれ、、関係ないけど、岩手県 と言えば、宮澤賢治の故郷。私は今、宮澤賢治を読んでいます。
書かれるべき
1.高橋源一郎氏は述べる。ほとんどの(詩・作家) 志望者が書きたくて書いてる…と。
2.成るほど、詩『夜の水』を読むと、その対極に、作家志望者たちの姿が映し出されて見えるのですね。
3.しかも、詩『夜の水』は書かれるべき詩だと述べている。高橋源一郎氏がそう思った根拠がある筈です。
4.城戸朱理氏は高橋源一郎氏の説に異を唱えた。異を唱えるとは、その根拠に同意しても・しなくても、結局、否定したってことです。
5.同意しない意味は「高橋源一郎氏はそもそも間違い」と言ってそうだし、同意した意味は「それは取るに足りないこと」と言ってる気がする。
6.それなら、私は、「そもそも間違い」か、「取るに足りないこと」かを知らなきゃならない。それを知らずにどちらについても風見鶏だよね。
7.ところで、直前に使った『風見鶏』はメタファーですぉ。
8.主語は「誰か」、つまり「誰かによって書かれるべき詩」になる。けど、なぜ「誰か」でしょうか?
9.これが使命感に燃えた文士が述べたフレーズなら、「私が書くべき詩」とポジティブに捉えた気がする。
10.わたしは高橋源一郎氏を「プロの文士」と述べたけれど、氏はプロゆえに「書かれるべ き詩」としたと考えている。
11.高橋源一郎氏はプロの文士であるという時の「プロの文士」はメタファーですから、ど う理解するかは各人各様でしょう。
12. プロの文士の意味には例えば「○○さんの作品を推奨したい」立場や、「権威として振る舞う」立場をも含めることが可能です。
13.もちろん、「プロの文士」をメトニミー(換喩)と捉えて「文筆で生計を立てている作家・詩人」という理解も成り立つでしょう。
14.私的にはプロの文士が「権威を持って振る舞う」ことには何ら違和感も反発も覚えません。
15.城戸朱理氏には「高橋源一郎氏が権威として振る舞う」ことは不愉快なようです。この 場合の権威は城戸朱理氏の頭上に位置しています。
16.それにしても、プロの文士同士の議論はメタファー・シミル・メトニミーの境界までが錯綜していて読み応えがあります。
17.ともあれ、「権威を持って」振る舞おうが、 「権威として」振る舞おうが、権威は説明責任を果たさねばなるまい。
18.「権威に説明責任が伴う」のは例えば、国王の権威に国民の安寧が伴うようなものです。
19. 校則の説明が出来ない校長や、教育法の説明が出来ない文科相はいない筈ですし、説明を拒むなら権威でなく、権力の乱用というものです。
20.権威としてツイートしたのなら、少なくもその件に関しては説明するのがプロの責任・ 自負というものでしょう。
21.もっとも、高橋源一郎氏にすれば「夜の水」を朗読した時点で、説明し切ったとしてらっしゃるのかも知れません。
22.とに角、気付いた文士・詩人によって、あるいは偶然にも「書かれるべき詩」は書かれ・発表されました。
23.さて、書かれるべき詩は書かれただけでは完結しない。読まれるべき人に読まれて使命を終えると言えそうです。
24.高橋源一郎氏に読まれた「書かれるべき詩」は科学反応を起こし、ツイッターの宙に飛び立った。
25.指から放しただけで紙飛行機は舞うだろうか? 腕を振って風に乗せてこそ、紙飛行機は空に舞い上がり、私たちを幸せにする。
26.これが名人が作った紙飛行機であれば、そっとそぉっと指を放れても風がない室内を遊泳するのだろうけど…。
27.つまり、荒削りな紙飛行機ってことね。左甚五郎の荒削りの鯉は生き生き生きてたけど、荒削りの紙飛行機の良さは解り難い。
28.甚五郎の荒削りの鯉は鯉として価値を高め、荒削りな紙飛行機は別な目的で喜ばれかねない危うさがある。
29. メチルアルコールを飲んだアル中が失明したり・落命するみたいに、使用法をはき違えては狂う者もでる。
30. 今なら春本版「四畳半襖の下張」も文芸と言われるかも知れないけど、これは「書かれるべき」とは言えないでしょう。
31.そもそも「べき」とは「適切志向の意志」が基調にあるように思います。
32.適切志向とは「そうしたほうが好いよ」の心です。そしてその心を意識しているのは、ココでは高橋源一郎氏でしょう。
33.それで高橋源一郎氏がプロ文士の立場から呼びかけている相手は誰かと言えば、それは日本人全員です。
34.例えば、学校の先生が呼び掛ける相手は生徒・PTA・教育委員会・その他関係者でしょうし、乳児が呼び掛ける相手と言えば・母親でしょう。
35.プロの文士・高橋源一郎氏は様々な顔を持っておられる。つまり、お弟子、ファン、雑誌社、所属の組織、さらに未来のファクターが対象です。
36.もっと言えば、城戸朱理氏を支配下に置く想定もできる。その後の城戸朱理氏は高橋源一郎氏を接待したいとも述べてますね。
37.藁ほどの価値を感じない相手も、錬金術師のプロは転んで掴んだ藁を黄金に換える術をご存じに違いない。
38.ただ、ここでいう錬金術師は文芸の権威を意味しないし、詭弁の遣い手を除くモノでもありません。それ等は当人の振る舞いに縁るのです。
39.ともあれ、私は、詩論・文芸論を学ぶ素敵な切っ掛けを作って頂いたと関係者の皆さまに感謝しています。
40.医学生は感謝できる高橋源一郎氏のウンコも、医学生でない一般人がそのウンコを踏んで中毒を起こすことにも配慮しなければいけません。
41.その程度のことは権威・師匠であれば必要最低限の常識として絶対に理解できていることです。
42.けれど、見せ掛けの権威やニセモノ師匠は責任感がなく、ウンコの垂れ流しをして市民に害を及ぼす困り者です。
43.仮にもネガティブなプロ文士の害に気付いたのが同じプロ文士仲間であれば、警戒警報を流すほどの良心を持ってほしい
44.それは、薬局に売られている薬だからといっても、子供の手の届く場所に置いてはいけないという例えを引くまでもありますまい。
45.春本版「四畳半襖の下張」が文芸・文学だとしても、子供に読み聞かせる無責任な権威や教育者がいては困ります。
46.それと同じく、普通の人には「春本」との見分けがつかない文章をインターネットで読み聞かせる無責任な人間は困ったものです。
47.『詩』という美名の下に、見境なく何でも、公衆の面前に広げるような者に倫理観はあるでしょうか?
48.すなわち、「書かれるべき詩」は、「読むべき対象者」を具体的にし、ソコに集中して・その目に触れるように図るべきとなる。
49.仮にも売らんかなの悪しき商業主義に毒された卑しい心根が麗しい詩性のオブラートに隠されているなら、これを見逃してはならない。
50.高橋源一郎氏も人の親でありましょう。毅然たる態度を示してほしいと思います。
無責任な態度
1.さて、私は良薬も処方を誤まるとトンデモナイ毒になり、毒さえも処方次第では良薬に変じるという教訓を思い出します。
2. そのような二面性を持っているのが、高橋源一郎氏が推薦する「書かれるべき詩」であると、私たちは理解していなければならないでしょう。
3. ただここで、毒にも薬にもならぬような代物を「書かれるべき詩」であると高橋源一郎氏が表現したと不用意に決めつけてはならない。
4. 水アメを毒だと言って誤魔化した一休さんのお師匠さんの罪は、大事な弟子に嘘を吐かせた事ですけど、
5. まして、美味しそうな説明文が付いた毒を人目に触れる場所に放っておけば、どれほどの被害者が出るか、想像力がある人ならお解りになるでしょう。
6.想像力が欠如した・無責任で・デタラメな・困った人がそのような危険な行為をするだろう事はどなたにもお解りでしょう。
7.事は当人が罪に堕ちるだけでは足りず、多くの他者を罪に巻き込むことにもなると謙虚に猛省し・改め・正すべきでしょう。
8.如何に優れた良薬であっても・その酷い毒性に中って誰かが苦しむのは本末転倒ですから、使用には厳重な注意が必要なのです。
9.他者が危険に遭うことが予測できない・予測できて無視する、そのような無能乃至無責任な行為は文学を語る以前の問題でしょう。
夜の水
1.書かれるべき詩「夜の水」は、私のためには・どのように書かれたのでしょうか? 私は「夜の水」をどのように「読むべき」でしょうか !?
2.高橋源一郎氏は大江麻衣さんの詩集『道の絵』のなかでも「夜の水」は最良と称える。だが、どこが良いかのロジカルな説明は出来ない。
3.ロジカルな説明は不能なのに「書かれるべき詩」だと断定的に述べる高橋源一郎氏って、、ハテ さて !?
4.高橋源一郎氏は、訳も分らず感動した『夜の水』をツイート朗読した。その朗読に多くのリプライ(返答)を得て、反響の大きさを確認したとする。
5.そのリプライの内容の多くが「現代詩は敬遠していたが、この詩には感動した!」とする。
だが、リプライした人たちの感動の内容もまた高橋源一郎氏の説明では不明のまま。
6.私が違和感を持ったのはリプライに対する高橋源一郎氏の反応です。
7.高橋源一郎氏がフォローしている数はわずか50余人で、フォローされた数は優に2万人超。これは売れっ子芸人や政治家並みの知名度やキャリアを意味する。
8.(例)田代まさし13人/8500人、松尾貴史570人/37000人、スザンヌ180人/25000人、緒方龍一57人/17000人。高橋源一郎氏は緒方龍一とほぼ同じ。
9.私が美味しそうな エサを投げても大勢が飛びつきますし、高橋源一郎氏が美味しそうなエサを投げたのだからもっと多くの反響が見込めるでしょう。
10.「現代詩を敬遠していた」人たちが「夜の水」に刺激されてリプライしたと読める。
何らかの刺激を受けなければ現代詩を敬遠していた人たちが読む筈はないでしょう。
それを 「感動」のひと言だけで括る高橋源一郎氏って?
11.プロの文士・高橋源一郎氏はですから、何らかの目的があって意識的に曖昧な表現に留めたと考えて間違いないでしょう
12.「この詩には感動した!」というフレーズは特別優れた文を讃える言葉です。
「官能を刺激されて感動する」とは言わないけど、美化しなければならないプロの立場か。
13.城戸朱理氏にしてもプロの文士で、「お互い様」の呼吸は心得られてらっしゃるでしょう、つまり、触れてならない文壇の掟かも知れません。
14.ともあれ、そのリプライの一つが『本誌「新潮」編集長のもの』だったという。文脈に拘らず、この編集長も「この詩に感動した」一人と読めます。
15.ところで新潮の説明を読むと「現役の商業文芸誌」「刺激的な原稿」を歓迎していて、日本語で表現されたあらゆる言葉=思考の力を誌面に結集させたい…と。
16.どこがどう良いか解らないと高橋源一郎氏が表現した「夜の水」、新潮の編集長もどこがどう良いか、解らなかっただろうか?解っていただろうか?ハテな !?
17.新潮編集部は 『言葉=思考の力を誌面に結集させたい』と謳いながら、言葉を理解する能力に欠けてると、高橋源一郎氏が証言したようにも捉えられます。
18.ではここで、この一連の流れに少しも異議を唱えたくないように見える新潮編集部の「言葉と思考に対する姿勢」を観察したい。
19.新潮の底流に「商業主義」「刺激を求める」流れがあると知れば、大胆な予測が成り立つのではないでしょうか?
20.思春期以降の男女が最も刺激を受けるのはどのようなフレーズでしょうか? 言わずと知れた官能・性欲を刺激するモノ、つまり春本の類でしょう。
21.それなら「現代詩を敬遠していた人はモチロン、本に無関心な人まで刺激されて「感動した!」と詭弁を連ねることは考えられる。
22.高橋源一郎氏がツイッターで『これでどやァ〜』とばかりに「夜の水」を流し、『新潮』編集長が『それやぁー』とばかりに応じた。田舎芝居みたいに
23.ともあれ、一連の動きを見ると、高橋源一郎氏の思惑は『新潮』の軌道にピッタリ添ってる。
24.新潮の軌道にピッタリで商業ベースに乗るとなれば、善悪を意に介さず・倫理観のない売文屋なら小躍りするでしょう。
25.だけど、子供たちの教育に僅かの意識が働く人であれば、ツイートする前に中身をヨクヨク吟味して躊躇するでしょう。
26.新潮は「売れたら好いジャン、そりゃそうジャン」の商業主義なら、世界中の子供部屋に不道徳な中身をツイートして平然とするでしょう。
道徳観念をお聞かせ願いたい。
28. このような重大問題を軽視乃至無視する高橋源一郎氏なら、「子供=玩具」程度にしか感じていないし、教育者の資格はありません。
29.もっともそんなこと、私が言うまでもなく高橋源一郎氏ご本人が教育なんて知ったことか、と腹の中で呟いてる気がする。
30.高橋源一郎氏をフォローする2万人超の関心事として、a.官能を刺激されたい。b.高橋源一郎氏及び氏が推す作家にあやかりたいの二種が浮上する。
31.「a.官能を刺激されたい」人は、「現代詩を敬遠していた」人と言うよりも、春本の匂いに惹かれて徘徊する人群れです。
{32.「b.高橋源一郎氏及び氏が推す作家にあやかりたい」人は、「(フォロワー数50人/20000超)の高橋源一郎氏を目標にする人ですから、目標の最短距離に位置し
て見える大江麻衣氏にも感動できる人。}
33.ここに、高橋源一郎氏を目標にする人たちからのリプライ「この詩に感動した」が寄せられた意味が見えてきました。
34.「新潮」の社風に合う高橋源一郎氏の強大な支持・支援を得て、あなたも大江麻衣氏に続くことが出来ると氏のツイッターには「思わせ振り」に示されている。
35.高橋源一郎氏の権威の衣に乗って「新潮」更には「文壇・詩壇」への登竜門を潜れると考えた人たちは興奮も覚えたでしょう。感動モノですね。
36. その人たちは「夜の水は書かれるべき詩」のフレーズをどう理解したの?『夜の水に続く・夜の水以上のヒット作は私に依って書かれるべき詩』しかない。
37.大江麻衣さんの「夜の水」程度なら私にだってカンチコチン…変な自信に満ちて、そうして出来た詩を「新潮」に寄せると高橋源一郎氏が採り上げてくれる。
38.わたしも愈々・超有名詩人デビューなんだわ…愉しい夢に胸脹らませ、だけど、大江麻衣さんも努力しなきゃ、「当て馬」で終ります。頑張ってくださいね。
39.げげげの女房…水木しげる氏は『テレビくん』で講談社児童まんが賞を受賞しましたけど、プロの漫画家として二十年近い苦労の末の賞でした。
40.水木漫画「テレビくん」が子供やPTAに受入れられたのも、「鬼太郎」が子供やPTAに受入れられたの同根だと私は思います。
41.テレビくんも鬼太郎も、強きを挫き・弱きを助けたい人間のDNAに受入れられたのであって、
怖いだけでは「自分」の仲間にしない。悪党でも恐いのは敵対グループの奴らに違いないんだ。
42.弱い人間を踏みにじり・食い物にし・玩具と目した時点で、高橋源一郎氏は鬼太郎の仲間ではなく、人間の味方ではない。
43.すなわち、H系(春本)『夜の水』をツイートした感覚は鬼太郎の敵サイドでしょう。
44.話題の「権威」に戻りますぉ。読む人が読めば、城戸朱理氏ら「プロの文士の目」に、「高橋源一郎氏が権威として振る舞っている」のは一目瞭然でつ。
45.そもそも、民意は権威を正義と信じて随うものでつ。高橋源一郎氏に随えば文壇デビューできると思う民意が生まれることに城戸朱理氏は批判したと思う。
46.城戸朱理氏とプロセスは異なるかもだけど、ノラは鬼太郎の敵・人間の敵を正義と認めないゆえに、高橋源一郎氏を権威としない。
47.お解りになりましたか? 「夜の水」は文壇が人間味を失くした証しの春本であり、出版界に人間の息吹を蘇らせる材料としてノラは読みました。
48.現時点までの高橋源一郎氏の動きをみる時、「書かれるべき詩」は高橋源一郎氏が権威を登るハシゴの役割に見えます。
49.ある人に「夜の水」はあてがわれた「当て馬」の役割り、大江麻衣氏には名前を売るチャンス、編集長には部数を伸ばす弾でしょう。
50.子分の責任をヤクザの親分が取る刑法があり、秘書の犯罪にノホホンの政治家を護る悪法もある。悪法に親しんで、正義を無力化させるプロの文士には困る◆
まとめ
1.文筆で生計を立てながら文筆の責任を自覚しないプロの文士&出版社…怠惰な日々に刺激を求めて・社会に害を及ぼすチンピラども。
2. 今回、高橋源一郎氏の「春本」ツイートに始まった一連の動きに『新潮社』の商業主義が透けてみえます。
3.“読者が欲しがるモノは何を書いても構わないと、「書きたい詩=売れ筋」を群がる姿”は何なのか。
4.“大江さんは(新潮が 求める)「書かれるべき詩」を(たまたま)書いた”とする高橋源一郎氏だが、白日の下では隠しきれない。
5. 「(大江麻衣氏の)詩の良さをうまく説明することができない自分にもどかしさも感じた」と述べる高橋源一郎氏のホンネが漏れてる。
6.仮に、新刊本の「帯」に称賛の言葉を書いてほしいと頼まれて・良さが見えなければ「良さをうまく説明することが出来ない」道理です。
7.それにしても、どんなにツマラナイ本でも誉めることが出来ない者は、プロの文士として失格の烙印が編集長に捺されるのでつ。
8.「夜の水」をどう誉めたら良いかと頭をかかえ・悩んでいる高橋源一郎氏の姿が目に浮かぶようです。
9.工夫に目新しさが有るでなし、発見が有るでなし、そんなクダラナイ物の中身に触れでもしたら、高橋源一郎氏は間違いなく墓穴を掘ることになる。
10.それゆえ、中身に触れず、読者に丸投げして「どやぁ〜」で、新潮が「それやぁ〜」と応じたと、もう述べましたね。
「続きは本誌にてお楽しみ下さい。」と新潮編集部。これは官能をくすぐられて「楽しんで…」と読み換えできます。
11.結局、“みんなが「書きたい物」を書くなか、大江さんは「書かれるべき詩」を書いた”とする高橋源一郎氏のフレーズは強弁&詭弁。
12. 高橋源一郎氏の底意に気付かず、推奨文を信じて文学と勘違いした人は「春本」を子供に読ませるかも知れない。
13.これは大学の先生が推奨して、文学を目指す人たちに読まれている素晴らしい詩だよ…なんて嘘っ八は困ります。
新潮はともかくとしても、高橋源一郎さんはそんなことも想像できないのですか?
14.悪書が良書の顔をして社会にのさばるとき、子供の正常な精神の発達は歪められます。
高橋源一郎氏はその悪い手本を見せている。 (完)
さて一連の流れを振返ってみて、
1.今日の日本社会の常識から言えば、「夜の水」に出てくる単語やフレーズ程度は別に目新しくないとお考えの方は多いでしょう。
2.私でもその程度のことは知っている。新潮の類がそうやって世間を春本に馴れさせてきたのです。
3.「そうやって取り締まりの法律なんか有名無実化できる、出版のたびに少しずつ有名無実化させたら好い」なんて、見え透いた魂胆です。
4.だから「普通に目にする悪書」は、社会に曝して構わないというなら、開き直り。 放っておいたら何処までエスカレートすることか…。
5.新潮の編集長も、高橋源一郎氏も、城戸朱理氏も、どなたも、ご自分の仕事の正当性を言えるなら、論陣を張り、世間の支持を得たらいい。
6.大学教授・高橋源一郎氏の推薦なら間違いないとか、有名な新潮なら好いとか、何も分ってない無責任な文士志願者を集める行為に恥を知らなきゃいけない。
7.売れたら好いとか、有名になれるからとか、、そんな卑しい心掛けの者は「文士」と言わず、売文屋と言う。
いやしくも詩人を名のるなら、読者のなかに詩人の心・詩心を育むぐらいの気概を持ってほしいものです。
最終更新:oxooo 2011年05月01日(日) 11:51:33
殻を割れ
♪
なんにでも切掛けはあるものですが、この詩論をつくった切掛けは次の如くでした。
ツイッターでプロの文士の議論らしきものが始まり、燻って、すぐに鳴りを静めた。
どちらもプロを名のる文士、文壇・詩壇の立場を離れて議論出来なかったようです。
だけど、議論の性質上、私は黙することをせず、両者の議論を分析することにした。
その経過・結果を載せる場所として、ここに【詩論】カテゴリーを作った次第です。
日本の文学界は不透明な靄に包まれているように感じているのは私だけでしょうか。
文学の持ち味・長所を打消す意識が作用しているのではないかと思われてならない。
日本はあらゆるジャンルの真ん中に権威が居すわって閉塞感を生んでいる気がする。
権威とは何だろうか? 権威は既成の文化でしかないと言ったら言い過ぎだろうか?
ともあれ旧態依然たる位置に居続けたいだけの権威は新しい芽を摘むものでしょう。
あてがわれた餌を啄ばむだけの飼い鳥はいざ知らず、新たな時代の読者であらねば…
文学はなんなのか、文学はだれのモノなのか、読者側から発信すべき時ではないか?
私には詩論を語る知識など、元よりある訳でなく、過ちを指摘するぐらいですけど、
何もせず・安閑としていては、文筆を凶器とする心得違いの人を増やす結果になる。
そう思って及ばぬまでも、私の精一杯を主張し・綴りたいと思っているところです。
役に立たない殻を割って、新鮮な空気を入れねばならない。私はそう思います。拝。
殻を割れ
♪
なんにでも切掛けはあるものですが、この詩論をつくった切掛けは次の如くでした。
ツイッターでプロの文士の議論らしきものが始まり、燻って、すぐに鳴りを静めた。
どちらもプロを名のる文士、文壇・詩壇の立場を離れて議論出来なかったようです。
だけど、議論の性質上、私は黙することをせず、両者の議論を分析することにした。
その経過・結果を載せる場所として、ここに【詩論】カテゴリーを作った次第です。
日本の文学界は不透明な靄に包まれているように感じているのは私だけでしょうか。
文学の持ち味・長所を打消す意識が作用しているのではないかと思われてならない。
日本はあらゆるジャンルの真ん中に権威が居すわって閉塞感を生んでいる気がする。
権威とは何だろうか? 権威は既成の文化でしかないと言ったら言い過ぎだろうか?
ともあれ旧態依然たる位置に居続けたいだけの権威は新しい芽を摘むものでしょう。
あてがわれた餌を啄ばむだけの飼い鳥はいざ知らず、新たな時代の読者であらねば…
文学はなんなのか、文学はだれのモノなのか、読者側から発信すべき時ではないか?
私には詩論を語る知識など、元よりある訳でなく、過ちを指摘するぐらいですけど、
何もせず・安閑としていては、文筆を凶器とする心得違いの人を増やす結果になる。
そう思って及ばぬまでも、私の精一杯を主張し・綴りたいと思っているところです。
役に立たない殻を割って、新鮮な空気を入れねばならない。私はそう思います。拝。
最終更新:oxooo 2011年05月01日(日) 15:43:34
詩
詩は表面的な言葉の意味だけでなく、美学的・喚起的な性質をも用いて表現される。
多くの詩は韻を踏んだ形式であり・一定の形式とリズムを持っているが例外もある。
また感動・叙情・ビジョンなどを効果的に表すために工夫(修辞技法)がなされる。
独立した詩と、詩劇・聖歌・歌詞・散文詩などのように他と結び付いたものがある。
詩の種類
抒情詩(叙情詩)
詩人の個人的・主観的な感情や精神状態や知覚や思想・世界を発信する詩。
直接内面を表現するもの、風景に寄せて内面を表現するもの、事物に託して
内心を表現するもの、歴史的事件や人物に寄せて内面を表現するものなど、
さまざまな方法がある。
日本に伝統の和歌は、その多くが抒情詩(もしくは風景のみを詠う叙景詩)でした。
抒情詩は古くから愛を主題とするものとして知られてきたが、多くの宮廷風恋愛
詩人たちはまた戦争と平和、自然と郷愁、悲しみと喪失などを扱う抒情詩も書いた。
霊性や宗教的な主題も神秘主義抒情詩人によって歌われた。
押韻しないものも20世紀以降増加している。
抒情詩は詩の中で最も一般的なジャンルとなっている。
明確な形を持たない・より自由なスタイルを取る者もいる。
たとえばラップの歌詞は、ビートを伴う詩であると考えられることもある。
叙事詩
物事、出来事を記述する形の韻文であり、ある程度の長さを持つものである。
一般的には民族の英雄や神話・歴史として、事件を物語にして語り伝えるもの。
物語詩
広義には叙事詩も物語詩であるが、おもに一晩の娯楽・興味に訴えた作品に用いる。
物語詩は最も古い詩の種類であったかもしれない。『イーリアス』『オデュッセイ
ア』は個別のエピソードに関する短い物語詩の編集により構成されたものであると結論している。
劇詩
韻文で書かれた劇文学。散文体は戯曲で、韻文体は劇詩というような分類は成立しない。
シェイクスピアの戯曲や近代に書かれた戯曲も韻文を多用したものも多く、
戯曲(ぎきょく)
演劇の上演のために執筆された脚本や、上演台本のかたちで執筆された文学作品。
寓話詩
寓話(詩)は古代からあり、しばしば韻文で表現される。イソップがとくに知られる。
人物化された動物・植物・無生物・自然の力などが登場、道徳的な教訓を説明する簡潔な物語。
寓話詩の例「羊と狼」必要となればいつだって攻撃には大義が見付かるもの
うろつく2匹の狼が森で羊を追い詰めて
飛びかかろうとするところ。羊は問うた「一体なんの権利があって?
「お前は旨そうだし、弱いし、森にいたから。」――狼たち難なく羊を平らげた。
詩
詩は表面的な言葉の意味だけでなく、美学的・喚起的な性質をも用いて表現される。
多くの詩は韻を踏んだ形式であり・一定の形式とリズムを持っているが例外もある。
また感動・叙情・ビジョンなどを効果的に表すために工夫(修辞技法)がなされる。
独立した詩と、詩劇・聖歌・歌詞・散文詩などのように他と結び付いたものがある。
詩の種類
抒情詩(叙情詩)
詩人の個人的・主観的な感情や精神状態や知覚や思想・世界を発信する詩。
直接内面を表現するもの、風景に寄せて内面を表現するもの、事物に託して
内心を表現するもの、歴史的事件や人物に寄せて内面を表現するものなど、
さまざまな方法がある。
日本に伝統の和歌は、その多くが抒情詩(もしくは風景のみを詠う叙景詩)でした。
抒情詩は古くから愛を主題とするものとして知られてきたが、多くの宮廷風恋愛
詩人たちはまた戦争と平和、自然と郷愁、悲しみと喪失などを扱う抒情詩も書いた。
霊性や宗教的な主題も神秘主義抒情詩人によって歌われた。
押韻しないものも20世紀以降増加している。
抒情詩は詩の中で最も一般的なジャンルとなっている。
明確な形を持たない・より自由なスタイルを取る者もいる。
たとえばラップの歌詞は、ビートを伴う詩であると考えられることもある。
叙事詩
物事、出来事を記述する形の韻文であり、ある程度の長さを持つものである。
一般的には民族の英雄や神話・歴史として、事件を物語にして語り伝えるもの。
物語詩
広義には叙事詩も物語詩であるが、おもに一晩の娯楽・興味に訴えた作品に用いる。
物語詩は最も古い詩の種類であったかもしれない。『イーリアス』『オデュッセイ
ア』は個別のエピソードに関する短い物語詩の編集により構成されたものであると結論している。
劇詩
韻文で書かれた劇文学。散文体は戯曲で、韻文体は劇詩というような分類は成立しない。
シェイクスピアの戯曲や近代に書かれた戯曲も韻文を多用したものも多く、
戯曲(ぎきょく)
演劇の上演のために執筆された脚本や、上演台本のかたちで執筆された文学作品。
寓話詩
寓話(詩)は古代からあり、しばしば韻文で表現される。イソップがとくに知られる。
人物化された動物・植物・無生物・自然の力などが登場、道徳的な教訓を説明する簡潔な物語。
寓話詩の例「羊と狼」必要となればいつだって攻撃には大義が見付かるもの
うろつく2匹の狼が森で羊を追い詰めて
飛びかかろうとするところ。羊は問うた「一体なんの権利があって?
「お前は旨そうだし、弱いし、森にいたから。」――狼たち難なく羊を平らげた。
最終更新:oxooo 2011年05月01日(日) 15:47:07
散文詩が優れた文体だなんて少しも思わない。
だけど散文詩よりも韻文が良いとも思わない。
昔から韻文は詩であるとの常識しかないノラ。
韻文には韻文の良さがあると感じています。
散文詩がいけないとノラには理解できない。
散文には散文の良さがあると感じるのです。
散文の良さを韻文と調和・競合させる。
あるいは、散文の良さを詩に採り込む。
そうする事で素敵な詩になれば良いな。
そう思って散文詩をアレコレと思索中のノラです。
だけど、散文詩の定義もなにも解らないノラです。
そこでインターネット検索して勉強中なんですぉ。
インターネットで見つけた山田兼士氏の文を教材にさせて頂きました。
私の理解の範囲の抜粋ですから、捉え方に誤解があるかも知れません。
さらに、山田兼士氏の説にノラが全面的に納得した訳ではありません。
納得しないけれど、そのように感じた山田兼士氏の事実はそのまま、受け留めたい。
つまり、山田兼士氏がそのように感じた根拠と事実…どこかに必ずあると思います。
ですから、真実とは言えないまでも部分観としては成立つのだろうなという事です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
なお、山田兼士氏への皆さまの誤解を招かないために氏のHPをご紹介しておきます。
(1)思考の結果(7)
「散文詩」の条件は、ごく簡潔にいって、およそ次の五点に要約できる。
(1)まず短いこと
長い作品はその長さを維持するために詩の敵であるストーリーが必要になる(例外はある)。
(2)新奇なる発見 … 詩とは発見にほかならない。
(3)「オチ」をつけない(曖昧である) … オチは正解であり、「詩」の多義性をそこねる。
(4)読者への「問い掛け」を入れる … あれこれ考えさせてくれる「詩」は何よりの恩寵。
(5)リズム
これは定型の意味でない。散文には散文のリズムがあり、詩的リズムとも言える心地よさを生む。
※散文詩は多角的な批評詩でもある … 「批評精神」は重大要素の一つである。
※日常生活に忍び込む非日常の空気
散文詩の随所に見られる「詩的リズムによる文末表現」「主観的な時間感覚と客観的な時間感覚との齟齬がもたらす新鮮な驚き」「読者への新奇なる問い掛け」等など。
◎さらに、こうした「詩的」要素はいくつかの作品の連鎖によって「詩的要素」を高めていく。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さて、素敵な散文詩の条件について、ノラの考えも載せますぉ。
(1)散文詩にかぎらず、須らく文章や演説は短くするのに賛成。
短くなくても好いけど、短いほうが読む人に歓迎されそうです。
長くなければならない文章には時間稼ぎする意味しかないよね。
短く端折れないから・仕方なく長くすることはあると思います。
(2)発見は歓喜につながるから大賛成です。
発見のない生活・マンネリは倦怠感を蔓延させて退屈させます。
発見のない文をクドクド読み聞かせられる身にもなってほしい。
これも散文詩に限らず、須らく文章や演説は楽しめたら好いな。
(3)「詩」は多義性でしょうか?
詩は誰かを・何かをこうと決めつけてならないモノでしょうか?
このことを証明できる人は世界中に一人でもいるのでしょうか?
オチこそが悦び・正解を聞きたいということはないでしょうか?
聖書や仏典は正解を顕した経典ですから、曖昧さは危ういかも。
只、読む人の経験や知識・知恵によって、異なってみえるかも。
けど、教えられて正解に直行しても大して面白くないでしょう。
苦労してやっと辿りついた時の悦びのほうが大きいと思います。
だけど、教えられて素直に進む人ばかりなら、世界は平和かも。
そう考えると、教えて置いたほうが、結果的には好いでしょう。
(4)読者への問い掛けも(3)番と似たような考えかたでしょう。
問い掛けが無きゃ気付かない人には問い掛けが有難いでしょう。
問い掛けが無くても考える人は自問自答することが考えられる。
(5) リズムと言えば、
演説は歌うように語れ、歌は語るようにと歌えと言われますぉ。
その意味でケネディ大統領は演説の名人だと言われましたっけ。
結局(1)〜(5)は詩に限らず、全ての文章に共通しそうです。
散文詩を詠む場合にも決して忘れたくないことと言えそうです。
さて「散文詩は多角的な批評詩」についても同様に思えますぉ。
ポジティブに生きる人は凡てに問題視して暮してる気がします。
平凡な日々でも問題意識を以ってトライするから愉しいのです。
逆説的に言えば、問題意識を以って暮す人は詩人である…のね。
問題意識を持たず・不満ばかり言ってる人たちには、うんざり。
不満タラタラを大切にしてる会社なんて、GMが腐ってたなぁ。
マジメな従業員を粗末にし、怠け者がGMに媚びを売る不良品。
積極的批評と不満タラタラとでは働く姿勢が正反対ってことね。
「日常生活に忍び込む非日常の空気」も直前と共通すると思う。
マンネリ化させては自分の日常生活が詰らないじゃないですか。
それまでにない新しい空気を意識に入れるだけで、真剣になる。
向上心は昨日までにない今日を生きる姿勢と言えると思います。
そしてこれらの様々な要素を日々採りいれることが詩的生活ね。
それを述べたのが最後の行の「作品の連鎖」で高まるってこと。
こうして読んできて、山田兼士氏は詩人を語ってると思うのね。
彼が語る詩人は現代詩人だし、散文詩を元気に詠める人なのね。
山田兼士さんって、だから説得力に満ち充ちた人の気がします。
散文詩が優れた文体だなんて少しも思わない。
だけど散文詩よりも韻文が良いとも思わない。
昔から韻文は詩であるとの常識しかないノラ。
韻文には韻文の良さがあると感じています。
散文詩がいけないとノラには理解できない。
散文には散文の良さがあると感じるのです。
散文の良さを韻文と調和・競合させる。
あるいは、散文の良さを詩に採り込む。
そうする事で素敵な詩になれば良いな。
そう思って散文詩をアレコレと思索中のノラです。
だけど、散文詩の定義もなにも解らないノラです。
そこでインターネット検索して勉強中なんですぉ。
インターネットで見つけた山田兼士氏の文を教材にさせて頂きました。
私の理解の範囲の抜粋ですから、捉え方に誤解があるかも知れません。
さらに、山田兼士氏の説にノラが全面的に納得した訳ではありません。
納得しないけれど、そのように感じた山田兼士氏の事実はそのまま、受け留めたい。
つまり、山田兼士氏がそのように感じた根拠と事実…どこかに必ずあると思います。
ですから、真実とは言えないまでも部分観としては成立つのだろうなという事です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
なお、山田兼士氏への皆さまの誤解を招かないために氏のHPをご紹介しておきます。
(1)思考の結果(7)
「散文詩」の条件は、ごく簡潔にいって、およそ次の五点に要約できる。
(1)まず短いこと
長い作品はその長さを維持するために詩の敵であるストーリーが必要になる(例外はある)。
(2)新奇なる発見 … 詩とは発見にほかならない。
(3)「オチ」をつけない(曖昧である) … オチは正解であり、「詩」の多義性をそこねる。
(4)読者への「問い掛け」を入れる … あれこれ考えさせてくれる「詩」は何よりの恩寵。
(5)リズム
これは定型の意味でない。散文には散文のリズムがあり、詩的リズムとも言える心地よさを生む。
※散文詩は多角的な批評詩でもある … 「批評精神」は重大要素の一つである。
※日常生活に忍び込む非日常の空気
散文詩の随所に見られる「詩的リズムによる文末表現」「主観的な時間感覚と客観的な時間感覚との齟齬がもたらす新鮮な驚き」「読者への新奇なる問い掛け」等など。
◎さらに、こうした「詩的」要素はいくつかの作品の連鎖によって「詩的要素」を高めていく。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さて、素敵な散文詩の条件について、ノラの考えも載せますぉ。
(1)散文詩にかぎらず、須らく文章や演説は短くするのに賛成。
短くなくても好いけど、短いほうが読む人に歓迎されそうです。
長くなければならない文章には時間稼ぎする意味しかないよね。
短く端折れないから・仕方なく長くすることはあると思います。
(2)発見は歓喜につながるから大賛成です。
発見のない生活・マンネリは倦怠感を蔓延させて退屈させます。
発見のない文をクドクド読み聞かせられる身にもなってほしい。
これも散文詩に限らず、須らく文章や演説は楽しめたら好いな。
(3)「詩」は多義性でしょうか?
詩は誰かを・何かをこうと決めつけてならないモノでしょうか?
このことを証明できる人は世界中に一人でもいるのでしょうか?
オチこそが悦び・正解を聞きたいということはないでしょうか?
聖書や仏典は正解を顕した経典ですから、曖昧さは危ういかも。
只、読む人の経験や知識・知恵によって、異なってみえるかも。
けど、教えられて正解に直行しても大して面白くないでしょう。
苦労してやっと辿りついた時の悦びのほうが大きいと思います。
だけど、教えられて素直に進む人ばかりなら、世界は平和かも。
そう考えると、教えて置いたほうが、結果的には好いでしょう。
(4)読者への問い掛けも(3)番と似たような考えかたでしょう。
問い掛けが無きゃ気付かない人には問い掛けが有難いでしょう。
問い掛けが無くても考える人は自問自答することが考えられる。
(5) リズムと言えば、
演説は歌うように語れ、歌は語るようにと歌えと言われますぉ。
その意味でケネディ大統領は演説の名人だと言われましたっけ。
結局(1)〜(5)は詩に限らず、全ての文章に共通しそうです。
散文詩を詠む場合にも決して忘れたくないことと言えそうです。
さて「散文詩は多角的な批評詩」についても同様に思えますぉ。
ポジティブに生きる人は凡てに問題視して暮してる気がします。
平凡な日々でも問題意識を以ってトライするから愉しいのです。
逆説的に言えば、問題意識を以って暮す人は詩人である…のね。
問題意識を持たず・不満ばかり言ってる人たちには、うんざり。
不満タラタラを大切にしてる会社なんて、GMが腐ってたなぁ。
マジメな従業員を粗末にし、怠け者がGMに媚びを売る不良品。
積極的批評と不満タラタラとでは働く姿勢が正反対ってことね。
「日常生活に忍び込む非日常の空気」も直前と共通すると思う。
マンネリ化させては自分の日常生活が詰らないじゃないですか。
それまでにない新しい空気を意識に入れるだけで、真剣になる。
向上心は昨日までにない今日を生きる姿勢と言えると思います。
そしてこれらの様々な要素を日々採りいれることが詩的生活ね。
それを述べたのが最後の行の「作品の連鎖」で高まるってこと。
こうして読んできて、山田兼士氏は詩人を語ってると思うのね。
彼が語る詩人は現代詩人だし、散文詩を元気に詠める人なのね。
山田兼士さんって、だから説得力に満ち充ちた人の気がします。
最終更新:oxooo 2011年05月01日(日) 16:04:14
(散文詩&解説に学んで、未熟ながらもノラの結論が導かれました)
散文詩は、散文による詩ですが、その定義は一般的に曖昧らしい。
曖昧になっている原因は「詩」を定義づけられないからでしょう。
「散文詩」を始めるに当って「詩の定義づけ」の必要を感じます。
原点回帰
言語が今ほど多くなかった頃、伝達手段はどうしたのでしょうか。
このブログを始めたとき、視覚は極力排除して考えようと思った。
即ち、嗅覚・聴覚・味覚・触覚・知覚で捉えたいとノラは思った。
五感・六感の感覚を人と人が伝え合う手段がきっと言葉なんです。
人間の感性にまで到達する伝達手段に「犬の遠吠え」があります。
哀調を帯びた音色・急を告げる音色、種類は限られますけれど…。
梟の鳴声は哀しく聞え・雀の鳴声は騒々しくも賑やかに聞こえる。
これ等は人間のDNAに刻まれた記憶のなせる所と考えています。
諺(ことわざ)に『雉(きじ)も鳴かずば撃たれまい』とあるわ。
ウサギは安全・危険を互いの「気配」で知らせ合ってる気がする。
今を生き抜くだけで精一杯の弱い者には会話も危険だってことね。
だから、弱い獣が遣える伝達手段は必要最小限に抑えられたのね。
それならもっと弱い蚯蚓(みみず)の伝達手段はどうでしょうか。
蚯蚓たちは泥のなかで互いに触れ合って仕合わせを満喫している。
触れる全てに愛を感じたら敵など無く、食べられても不満はない。
仕合わせのなかに生まれ・仕合わせのなかに生を終える蚯蚓かも。
不満たらたらに見える沢山の人たちは愚痴や不平をこぼしている。
これは他者や天敵の存在を意識せず、好きに鳴いてるのだと思う。
不満たらたらの人は見える世界や感じる世界を己に従がわせたい。
そして己の意のままに出来ないときに怒りを覚えて、悪態を吐く。
このような不満たらたらの人間の言葉に希望はなく、詩ではない。
他人や社会・己の不遇を呪う言葉は嘆きであっても、詩ではない。
人が詩を感じるのは幸せ・希望・勇気・愛を詠ったフレーズかも。
明日の希望を他者に贈る心に満ちて「言葉」は詩として機能する。
詩は、韻・リズム・メーターと言うように感性を重視しています。
俳句は五七五、短歌は五七五七七でリズムをとって詠っています。
俳句の「破調」さえもリズム破りの「リズム」を生かす手段です。
季語は感性を揺すって「縁語」と開き、人を世界と一体化させる。
人の感性に訴え・魂を揺さぶり・明日を元気に目覚めさせる言葉。
その言葉は短く・長く・さまざまの体裁を取りながら訴えてくる。
理詰めに納得させるのでなくても、詩は人の心に温かい火を灯す。
作者も読者も誰も彼も、詩を通せば心はつなぎ合わせるメロディ。
嗅ぎ・聴いて・味わい・触れて・共感したら、なんて仕合わせ〜。
けど、嗅げなくても、聴こえなくても、味わえなくても構わない。
触れ合うだけの蚯蚓の仕合わせにも劣るなら、生きる悦びは疑問。
共感できる蚯蚓並みの神の能力は、人間も持って生れた筈ですぉ。
仕合わせの原点で詠み・読む言葉はいつだって詩だった気がする。
(散文詩&解説に学んで、未熟ながらもノラの結論が導かれました)
散文詩は、散文による詩ですが、その定義は一般的に曖昧らしい。
曖昧になっている原因は「詩」を定義づけられないからでしょう。
「散文詩」を始めるに当って「詩の定義づけ」の必要を感じます。
原点回帰
言語が今ほど多くなかった頃、伝達手段はどうしたのでしょうか。
このブログを始めたとき、視覚は極力排除して考えようと思った。
即ち、嗅覚・聴覚・味覚・触覚・知覚で捉えたいとノラは思った。
五感・六感の感覚を人と人が伝え合う手段がきっと言葉なんです。
人間の感性にまで到達する伝達手段に「犬の遠吠え」があります。
哀調を帯びた音色・急を告げる音色、種類は限られますけれど…。
梟の鳴声は哀しく聞え・雀の鳴声は騒々しくも賑やかに聞こえる。
これ等は人間のDNAに刻まれた記憶のなせる所と考えています。
諺(ことわざ)に『雉(きじ)も鳴かずば撃たれまい』とあるわ。
ウサギは安全・危険を互いの「気配」で知らせ合ってる気がする。
今を生き抜くだけで精一杯の弱い者には会話も危険だってことね。
だから、弱い獣が遣える伝達手段は必要最小限に抑えられたのね。
それならもっと弱い蚯蚓(みみず)の伝達手段はどうでしょうか。
蚯蚓たちは泥のなかで互いに触れ合って仕合わせを満喫している。
触れる全てに愛を感じたら敵など無く、食べられても不満はない。
仕合わせのなかに生まれ・仕合わせのなかに生を終える蚯蚓かも。
不満たらたらに見える沢山の人たちは愚痴や不平をこぼしている。
これは他者や天敵の存在を意識せず、好きに鳴いてるのだと思う。
不満たらたらの人は見える世界や感じる世界を己に従がわせたい。
そして己の意のままに出来ないときに怒りを覚えて、悪態を吐く。
このような不満たらたらの人間の言葉に希望はなく、詩ではない。
他人や社会・己の不遇を呪う言葉は嘆きであっても、詩ではない。
人が詩を感じるのは幸せ・希望・勇気・愛を詠ったフレーズかも。
明日の希望を他者に贈る心に満ちて「言葉」は詩として機能する。
詩は、韻・リズム・メーターと言うように感性を重視しています。
俳句は五七五、短歌は五七五七七でリズムをとって詠っています。
俳句の「破調」さえもリズム破りの「リズム」を生かす手段です。
季語は感性を揺すって「縁語」と開き、人を世界と一体化させる。
人の感性に訴え・魂を揺さぶり・明日を元気に目覚めさせる言葉。
その言葉は短く・長く・さまざまの体裁を取りながら訴えてくる。
理詰めに納得させるのでなくても、詩は人の心に温かい火を灯す。
作者も読者も誰も彼も、詩を通せば心はつなぎ合わせるメロディ。
嗅ぎ・聴いて・味わい・触れて・共感したら、なんて仕合わせ〜。
けど、嗅げなくても、聴こえなくても、味わえなくても構わない。
触れ合うだけの蚯蚓の仕合わせにも劣るなら、生きる悦びは疑問。
共感できる蚯蚓並みの神の能力は、人間も持って生れた筈ですぉ。
仕合わせの原点で詠み・読む言葉はいつだって詩だった気がする。
最終更新:oxooo 2011年05月01日(日) 16:09:12
美の本質
価値論的に語るなら…『美』の本質は物の形状にあるのでなく、
美しい結果に導き得るか否かにあります。
芸術・文学を語れない人の全員が、ロジックを必ず無視している。
これを日本人で説明すると、文学者・芸術家の権威を以て居直る。
居直った末に、素直な児戯にも劣った、愚かな金儲け主義に堕す。
その、日本の権威集団に属することは、あなたの才能の芽を摘む。
芸術・文学に通じるか、権威集団に属するか…虻蜂取れぬ金亡者。
視覚に観る詩心
どなたも御存じかと思いますが、キュビスムはピカソに始まった。
『ゲルニカ』にピカソの戦争を憎む心が描かれたように思われる。
戦争を憎む人には反戦の象徴で、戦争愛好家には平和憎しの象徴。
絵画を解さない人にも『ゲルニカ』の心は知られているようです。
すなわち『ゲルニカ』に画家ピカソの【真】が表現されています。
抽象絵画
抽象絵画が【真】を表現する流れにあると理解して正しいならば、
画家が抽象画に表現したいモノは、具象化された対象物ではない。
絵に表現するモノは画家にとっての【真】であると容易に分かる。
ダダイズム
現代日本の権威はダダイズムに煽られ・漂流しているのを感じる。
ロジックに無知ゆえ、明快な解説・回答は望むべくもなく、無慙。
ダダイズムは否定・攻撃・破壊という負のパワーを【真】として、
結局「よい趣味は悪い趣味と同等に有害である」とする屁理屈群。
芸術の名目で人間蔑視の悪文・悪画・悪趣味に堕す結果は、悲惨。
ロジック無視のこの思想が誘う先にあるのは、破滅・破壊への道。
あなたの周辺が解説・回答に後ろ向きの権威なら、お気の毒です。
芸術の本質
簡単ですけど、絵画をとおして、芸術の本質を語ってみましたぉ。
絵画は視覚を使って、作者と鑑賞者が互いの心を慰め・睦ぶ手段。
焼物は視覚・触角・嗅覚・味覚などを使って心を慰め・睦ぶ手段。
詩は視覚を駆使して、作者と鑑賞者が互いの心を慰め・睦ぶ手段。
見知らぬ仲であっても、芸術によって、人と人の心は結びあえる。
蚯蚓なら一緒にいて触れ合っているだけで仕合わせかも知れない
けれど、不幸な哀しい過去を引きずって生きてきたらしい…人間。
泣き虫で、意気地なしの、恐がり、そんな人間が生きられたのは、
仲間の存在を信じられた故でしょう…だから自分も人を支えたい。
仲間を支える一員でありたいと…それで、絵師は絵を描くのかも。
話に聞き入る家族への言葉は尽きないように、芸術も無尽に続く。
互いに楽しく・勇気づけ・悲しみは和らげたい…それが『詩心』
多くの詩心に触れるうち、自分が楽しいだけでは満足しなくなる。
他人の痛みが分かり、人間以外の生き物の痛みも分るようになる。
モノを一人占めする愚かさにも気づき、いつかは大きい人になる。
詩心が育つまでには、人は誰でも色々な『真』に迷うのでしょう。
他人を憎み・苦しんで、それを『真』と思ってる人は大勢いるし、
横取りしたり、一人占めして、違法でない『真』と言ってみたり、
『ゲルニカ』を見て戦争やテロを画策する人だっている筈ですし、
芸術作品に平和を思い浮かべるとは限らないのが『真』の難しさ。
名刀の切れ味を試したくて人殺しを覚えた昔の逸話に限りません。
料理を作る包丁を凶器として使う人の、それも哀しい『真』です。
過去の記憶を『真』とする故、哀しい過去を作らせてはならない。
悪しき過去に歪んだその人は、ロジックに迷い人に迷惑を及ぼす。
詩心は独りよがりの『真』でなく、人間としての『真』を求める。
人間を大きな心で包みこむ人の、温かい心が詩心だとも思います。
詩心溢れる作品には温かみや優しさが溢れていると言えそうです。
人の不幸をあざ笑う哀しい人が多い日本の現状を哀しく思いつつ…
■詩心が感じられない物は、だから、私は、詩と言えないのです。
■肯定するも、否定するも、あなたの自由ですけど、
ロジックを無視すると、言葉がまともな意味を成せず、哀しい。
美の本質
価値論的に語るなら…『美』の本質は物の形状にあるのでなく、
美しい結果に導き得るか否かにあります。
芸術・文学を語れない人の全員が、ロジックを必ず無視している。
これを日本人で説明すると、文学者・芸術家の権威を以て居直る。
居直った末に、素直な児戯にも劣った、愚かな金儲け主義に堕す。
その、日本の権威集団に属することは、あなたの才能の芽を摘む。
芸術・文学に通じるか、権威集団に属するか…虻蜂取れぬ金亡者。
視覚に観る詩心
どなたも御存じかと思いますが、キュビスムはピカソに始まった。
『ゲルニカ』にピカソの戦争を憎む心が描かれたように思われる。
戦争を憎む人には反戦の象徴で、戦争愛好家には平和憎しの象徴。
絵画を解さない人にも『ゲルニカ』の心は知られているようです。
すなわち『ゲルニカ』に画家ピカソの【真】が表現されています。
抽象絵画
抽象絵画が【真】を表現する流れにあると理解して正しいならば、
画家が抽象画に表現したいモノは、具象化された対象物ではない。
絵に表現するモノは画家にとっての【真】であると容易に分かる。
ダダイズム
現代日本の権威はダダイズムに煽られ・漂流しているのを感じる。
ロジックに無知ゆえ、明快な解説・回答は望むべくもなく、無慙。
ダダイズムは否定・攻撃・破壊という負のパワーを【真】として、
結局「よい趣味は悪い趣味と同等に有害である」とする屁理屈群。
芸術の名目で人間蔑視の悪文・悪画・悪趣味に堕す結果は、悲惨。
ロジック無視のこの思想が誘う先にあるのは、破滅・破壊への道。
あなたの周辺が解説・回答に後ろ向きの権威なら、お気の毒です。
芸術の本質
簡単ですけど、絵画をとおして、芸術の本質を語ってみましたぉ。
絵画は視覚を使って、作者と鑑賞者が互いの心を慰め・睦ぶ手段。
焼物は視覚・触角・嗅覚・味覚などを使って心を慰め・睦ぶ手段。
詩は視覚を駆使して、作者と鑑賞者が互いの心を慰め・睦ぶ手段。
見知らぬ仲であっても、芸術によって、人と人の心は結びあえる。
蚯蚓なら一緒にいて触れ合っているだけで仕合わせかも知れない
けれど、不幸な哀しい過去を引きずって生きてきたらしい…人間。
泣き虫で、意気地なしの、恐がり、そんな人間が生きられたのは、
仲間の存在を信じられた故でしょう…だから自分も人を支えたい。
仲間を支える一員でありたいと…それで、絵師は絵を描くのかも。
話に聞き入る家族への言葉は尽きないように、芸術も無尽に続く。
互いに楽しく・勇気づけ・悲しみは和らげたい…それが『詩心』
多くの詩心に触れるうち、自分が楽しいだけでは満足しなくなる。
他人の痛みが分かり、人間以外の生き物の痛みも分るようになる。
モノを一人占めする愚かさにも気づき、いつかは大きい人になる。
詩心が育つまでには、人は誰でも色々な『真』に迷うのでしょう。
他人を憎み・苦しんで、それを『真』と思ってる人は大勢いるし、
横取りしたり、一人占めして、違法でない『真』と言ってみたり、
『ゲルニカ』を見て戦争やテロを画策する人だっている筈ですし、
芸術作品に平和を思い浮かべるとは限らないのが『真』の難しさ。
名刀の切れ味を試したくて人殺しを覚えた昔の逸話に限りません。
料理を作る包丁を凶器として使う人の、それも哀しい『真』です。
過去の記憶を『真』とする故、哀しい過去を作らせてはならない。
悪しき過去に歪んだその人は、ロジックに迷い人に迷惑を及ぼす。
詩心は独りよがりの『真』でなく、人間としての『真』を求める。
人間を大きな心で包みこむ人の、温かい心が詩心だとも思います。
詩心溢れる作品には温かみや優しさが溢れていると言えそうです。
人の不幸をあざ笑う哀しい人が多い日本の現状を哀しく思いつつ…
■詩心が感じられない物は、だから、私は、詩と言えないのです。
■肯定するも、否定するも、あなたの自由ですけど、
ロジックを無視すると、言葉がまともな意味を成せず、哀しい。
最終更新:oxooo 2011年05月01日(日) 16:11:26
宮澤賢治とボードレールの翻訳詩を読んで、今、その過程だけど、
散文詩と現代詩は重なる…少なくとも私の中では重なると知って、
宮澤賢治もボードレールも、それぞれの時代性を詩に詠んでいる、
宮澤賢治の詩には方言・文化の違いを夙に感じてきたノラだけど、
ボードレールの散文には年代の違いを強く印象づけられましたぉ。
国土や文化の違い、その時代の法律を考えなければ読めない文章、
人気タレントに集るファンなら、好き好きと言ってても構わない、
詩人を名のる者までが、好き好きで済ませている日本詩壇の現状、
そのように感じている今日、 あ!風が涼しく頬をすり抜けてく…
宮澤賢治のファンを名のるからには、他者に誤まらせては悔しい、
ボードレールを語るなら、ボードレールの真実を知らしめたいと、
いやしくも詩人を名のる私のそれが最低のスタイルと自負してる。
日本の詩人を名のる歴々を善意に解釈するなら…詩を知らないし、
知らなければこそ、宮澤賢治を誤解させたままでいられるだろう、
ボードレールが歪めて伝えられても意に介さないという事だろう。
悪意に解釈するなら…彼らが詩を愛していないってことは明らか。
賢治を傷つけた、その上に、己の名誉を継ぎ接ぎして君臨するか。
ま、悪人はいないと信じるゆえに、彼らの無知を信じたいと思う。
詩を知らない権威たち(そんな権威があるとは思わないけど)が、
詩を読まず、詩の意味を知らず、解説するは…職務でしょうけど、
料理人が料理の解説ばかりで味わわなければ、可笑しいでしょう。
食べて美味しいから料理人と言えるのであって、味が始まりです。
詩人だって、どんだけ美味しかったか、味わった所を伝えるべき、
如何です?それで日本に何人の詩人がいるとお思いになりますか?
味覚音痴の弟子やらファンを引き連れて得意げな詩人たちですね。
弟子やファンを育てる気概などなく、懐の金と宣伝に汲々してる。
散文詩は現代詩…の思いが大事、現代人にも通じる現代語が好い。
宮澤賢治を現代人に翻訳してあげるのも、詩の師匠の義務ですね。
ボードレールを誉めるのに美辞麗句が一体なんになりましょうね。
日本の詩壇のレベルがどんどん劣化していく現状を憂い嘆きつつ、
詩はどんどん進化していると知るゆえ、安心しているノラですぉ!
blog タイトル、今日から【散文詩 / 現代詩】に進化させました。
宮澤賢治とボードレールの翻訳詩を読んで、今、その過程だけど、
散文詩と現代詩は重なる…少なくとも私の中では重なると知って、
宮澤賢治もボードレールも、それぞれの時代性を詩に詠んでいる、
宮澤賢治の詩には方言・文化の違いを夙に感じてきたノラだけど、
ボードレールの散文には年代の違いを強く印象づけられましたぉ。
国土や文化の違い、その時代の法律を考えなければ読めない文章、
人気タレントに集るファンなら、好き好きと言ってても構わない、
詩人を名のる者までが、好き好きで済ませている日本詩壇の現状、
そのように感じている今日、 あ!風が涼しく頬をすり抜けてく…
宮澤賢治のファンを名のるからには、他者に誤まらせては悔しい、
ボードレールを語るなら、ボードレールの真実を知らしめたいと、
いやしくも詩人を名のる私のそれが最低のスタイルと自負してる。
日本の詩人を名のる歴々を善意に解釈するなら…詩を知らないし、
知らなければこそ、宮澤賢治を誤解させたままでいられるだろう、
ボードレールが歪めて伝えられても意に介さないという事だろう。
悪意に解釈するなら…彼らが詩を愛していないってことは明らか。
賢治を傷つけた、その上に、己の名誉を継ぎ接ぎして君臨するか。
ま、悪人はいないと信じるゆえに、彼らの無知を信じたいと思う。
詩を知らない権威たち(そんな権威があるとは思わないけど)が、
詩を読まず、詩の意味を知らず、解説するは…職務でしょうけど、
料理人が料理の解説ばかりで味わわなければ、可笑しいでしょう。
食べて美味しいから料理人と言えるのであって、味が始まりです。
詩人だって、どんだけ美味しかったか、味わった所を伝えるべき、
如何です?それで日本に何人の詩人がいるとお思いになりますか?
味覚音痴の弟子やらファンを引き連れて得意げな詩人たちですね。
弟子やファンを育てる気概などなく、懐の金と宣伝に汲々してる。
散文詩は現代詩…の思いが大事、現代人にも通じる現代語が好い。
宮澤賢治を現代人に翻訳してあげるのも、詩の師匠の義務ですね。
ボードレールを誉めるのに美辞麗句が一体なんになりましょうね。
日本の詩壇のレベルがどんどん劣化していく現状を憂い嘆きつつ、
詩はどんどん進化していると知るゆえ、安心しているノラですぉ!
blog タイトル、今日から【散文詩 / 現代詩】に進化させました。

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