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歴史から見たリフレ政策

近年、本格的なデフレになった国は、日本以外には存在しないが
当然過去の歴史上でも、デフレ不況は存在する。
これまでデフレ不況が起きた場合どのような対応がされたのか
リフレ政策が発動された歴史を辿る。

■米将軍吉宗と元文の改鋳

 テレビや時代劇でお馴染みの八代将軍吉宗は、徳川幕府中興の祖として名高い。吉宗は、享保の改革を通じて、五代将軍綱吉の放漫財政や災害の発生などにより危機的状況に瀕していた幕府財政を見事に立て直したのであった。とくに享保7年(1722)、町人請負方式による新田開発を解禁のうえ年貢米の増収を図ったり、米価の調整に腐心したことにちなんで、吉宗は米将軍とも呼ばれる。しかし、財政立て直しに最も寄与したのは、国内産業の振興策ではなく、実は元文元年(1736)に実施された貨幣の改鋳という金融面からのリフレ政策であった。
 吉宗は当初、倹約による財政緊縮を重視したため、幕府はもとより諸大名も財政支出の削減という強力なデフレ政策を実行した。その結果、江戸の経済は深刻な打撃を受け、街は火が消えたようになったといわれている。物価も下落傾向をたどったが、「諸色高の米価安」と称されるように、とりわけ米価の下落が著しかった。年貢米の売却で生計を立てていた武士階級の場合、米価安は直ちに所得の低下を意味したため、米価の独歩安は彼らの生活を圧迫した。
 これに対し将軍吉宗は、米価の引き上げを狙いとして商人に米の買い上げを強制するなど、各種の米価対策を講じた。しかし、米の増産率が人口増加率を上回るという需給状況もあって、期待した効果はもたらされなかった。幕臣たちは、金銀貨の改鋳による通貨量の拡大を幾度となく進言したが、元禄の改鋳が一般庶民を苦しめたことを熟知していた吉宗は、なかなか首を縦に振らなかった。そして、元文元年(1736)に至り漸く、改鋳が決断された。

 元文の改鋳に当たって徳川幕府では、改鋳差益の獲得を狙いとした元禄・宝永の改鋳とは異なり、改鋳差益の収得を犠牲にする一方で、新貨の流通促進に重点を置いた。すなわち、元文小判1枚の金含有量は享保小判の半分程度に引き下げられたが、新旧貨幣の交換に際しては旧小判1両=新小判1.65両というかたちで増歩(ましぶ)交換を行う一方、新古金銀は1対1の等価通用とした。この結果、旧金貨保有者にとっては、旧貨をそのまま交換手段として利用するよりも、増歩のえられる新金貨に交換のうえ利用するほうがはるかに有利となった。 こうした増歩交換政策の実施が功を奏し、徳川幕府が期待したとおり新金貨との交換が急速に進み、貨幣流通量は改鋳前との比較において約40%増大した。この貨幣供給量の増加は物価の急上昇をもたらし、深刻なデフレ下にあった日本経済に「干天の慈雨」のような恵みを与えた。例えば大坂の米価は、改鋳直後の元文元年から同5年までの5年間で2倍にまで騰貴するなど、徳川幕府の企図したとおりの物価上昇がみられた。こうしたなかで経済情勢も好転し、元文期に制定された金銀貨は、その後80年もの間、安定的に流通した。
 一方、幕府財政は、相対米価の上昇、年貢の増徴のほか、貨幣流通量増加の一部が改鋳差益として流入したこともあって大きく改善した。この傾向は宝暦期後半(1760年代はじめ)まで続いた。このように元文の改鋳は、日本経済に好影響をもたらしたと積極的に評価される数少ない改鋳であった。

このソース元が日銀である事は、実に面白い事実である。
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_27.htm

■明治維新のデフレを乗り越えたリフレ政策
「太政官札」発行の断行こそが明治維新成功の鍵であった、維新の財政支出の94%をまかなった!

私は、十年も前から、現在のわが国の財政・経済危機を克服するためには、いわば明治維新のさいの「太政官札」(不換政府紙幣)発行の故知にならい、「国(政府)の貨幣発行特権」の直接的あるいは間接的な大規模発動を断行し、それにより事実上無尽蔵な国家財政財源を確保して、わが国を亡国の悲境より救えと提言してきた。
 しかし、この私の提言(ないしノーベル賞受賞者スティグリッツ教授の同様な提言など)への反論という含意で、「太政官札」とそれに続く「民部省札」および「新紙幣」など明治維新時の一連の不換政府紙幣の発行を、維新史の一大汚点だと決め付け、「太政官札の轍を踏むな!」と叫ぶ議論も、かなり声高に行なわれている。

 「太政官札」の発行を失敗ないし汚点であったとする明治維新史の見かたは、総じて、左翼陣営の歴史家たちのステレオタイプな姿勢である。しかし、坂本竜馬と三岡八郎(由利公正)の夜を徹しての協議(慶応3年10月末)で基本方針が定められ、慶応4年(明治元年)2月から実施されはじめた「太政官札」の発行は、客観的に見れば、明治維新を成功させた決定打として役立った施策であったのである。

 王政復古(維新政府樹立)の大号令が発せられた慶応3年末から戊辰戦争が終わった直後の明治2年の9月までの期間をとって見てみると、維新政府は、戊辰戦争の戦費をも含めて5129万円の財政支出を行なっているのであるが、そのうちの実に94パーセントの4800万円が「太政官札」という不換政府紙幣発行の造幣益でまかなわれている(『明治前期財政経済資料集成』第4巻、48〜61頁)。当時の維新政府は、まだ基盤が脆弱で、威令も十分には行なわれておらず、租税を組織的に徴収する力も弱く、まさに、累卵の上に立つような危ない状況にあった。したがって、戊辰戦役の戦費支出をも含む巨額の財政支出の94パーセントもをまかなった「太政官札」発行による造幣益が、もしも無かったとしたならば、維新政府は存続しえなかったにちがいない。すなわち、「太政官札」の発行を断行しえたことこそが、維新の大業を成功させた決定的な要因であったと、考えねばならないのである。

太政官札インフレなどは無かった

「太政官札」の発行開始から2年後には小額紙幣として「民部省札」の発行もはじまったが、これも不換政府紙幣であった。明治5年からは、「太政官札」と「民部省札」は、印刷をいっそう巧緻なものとした「新紙幣」とよばれた紙幣に取り替えられたが、これも兌換紙幣(一定レートで金貨・銀貨への交換を公約している紙幣)ではなく、不換紙幣としての政府紙幣であった点では、なんら変わりはなかった。
 もちろん、維新政府の基盤が固まり、税収が増えるにつれて、毎年の財政支出が政府紙幣の発券による造幣益に依存する程度は徐々に下がっていったのであるが、それでも、たとえば明治5年になっても、財政支出が政府紙幣の造幣益に依存していた割合は、いぜんとして30パーセントにおよんでいた。しかも、これほどにも巨額の不換政府紙幣が発行され、その造幣益を財源として、文明開化のためのインフラストラクチャー整備や防衛力充実のための巨額の財政支出と諸産業への政府融資が大々的になされ、さらには、廃藩置県にともなう旧藩の藩札等債務の償還なども少なからぬ額で行なわれたにもかかわらず、当時のわが国の国内物価は西南戦争が勃発した明治10年ごろまでは、基本的には安定していたのである。

 明治元年の物価水準が、その前年の慶応3年の物価水準に比べて10パーセントも下がったあと、さすがに戊辰戦役の影響をもろ(・・)に受けた明治2年には物価の上昇がある程度は生じたが、それ以降はわが国の物価はむしろ下がり気味となり、明治4年ごろになると、物価水準は明治元年の物価水準とほぼ同じところに落ち着き、そして、明治10年の物価水準になると、それは明治元年のそれよりも8パーセント低く、慶応3年の物価水準と比べると18パーセントも低くなっていた(山本有造『両から円へ』、12頁参照)。なお、その後の西南戦争の戦費支出に起因する物価上昇は、明治11年ごろから生じたことであった。

 当時は、国内で流通していた不換政府紙幣と対外決済用の銀貨(メキシコ銀貨が多用されていた)との交換比率である「銀紙比率」の相場が、毎日たっていたのであり、これが現在の「為替レート」に該当しているわけであるが、この「銀紙比率」も、明治10年まではむしろ安定的であった。この時期で国内紙幣の銀貨に対する交換価値が最安値になったのは──すなわち、現在の感覚で言えば最も「円安」になったのは──明治7年のことであるが、そのときの「銀紙比率」でさえも1.038にすぎなかった。すなわち、わずかに3.8パーセントの相対的な「円安」であっただけであり、不換政府紙幣の価値暴落といった状況とは、全くほど遠かった。だからこそ、上記のごとく、わが国の国内物価は安定していたのである。

まさにケインズ経済学のセオリーどおり

要するに、「太政官札インフレ」などというものは無かったのである。ということは、明治初年のころには、徳川幕府倒壊による先行き不安から経済活動の萎縮(いしゅく)が生じ(江戸の街が灯の消えたようにさびれた)、マクロ的な生産能力の遊休、つまり、デフレ・ギャップが巨大に発生していたということを物語っている。すなわち、不換政府紙幣の大量発行を財源としてなされた文明開化政策や軍備近代化の推進などによる有効需要支出の大幅な増大に対応して、そのような遊休生産能力が稼動しはじめ、諸種の物資や商品の供給も順調に増えることができたからこそ、物価は安定していたのである。

 まさに、ケインズ経済学のセオリーどおりのプロセスが妥当していたということである。 驚くべきことに、由利公正は、ケインズ理論が体系化される七十年も前に、このようなプロセスを見通していたらしいのである。故村松剛氏の名著『醒めた炎』でも、「太政官札」発行による由利公正の財政政策が、まさに、そのように意義づけられているのである(同書、下巻、283〜286頁)。
http://homepage2.nifty.com/niwaharuki/ronbun/Meizi...


 明治元年、物価水準が10パーセントも下がるデフレに突入した。このままいけば明治維新は失敗に終わっていただろう。
 しかし、明治政府は太政官札を大量増刷する明らかなリフレ政策でこれを乗り切ったのだ。


■昭和恐慌時のリフレ政策

世界中が大恐慌で苦しむ中、日本だけは何処よりも早く経済の建て直しに成功した。

昭和金融恐慌(wikipedia)より一部抜粋

1914〜1918年 第一次世界大戦

第一次世界大戦において、日本の参戦は限定的であり、直接の被害を免れた。一方で、当時世界の生産の中心であった欧州が戦場となり、生産や輸出が落ち込み、各国が世界の需要を担うこととなった。同時に戦争に供する物資・兵器の需要が高まり、日本からは船舶の供給、海運業務が提供された。この影響で所謂「船成金」が生まれるなど日本経済は好況を呈した。このとき、明治以来債務国であったものが、債権国に転じ、正貨が大いに蓄積された。

1919-1920年 バブル景気

戦争が終結し、戦争特需が終わると反動で不況になること予想された。日本においては日清戦争や日露戦争の後の反動不況の経験もあり十分警戒されたことから重篤な不況に陥らず、凡そ戦後半年で反動不況から脱した。また、欧州では戦後の復興の為の需要がおこり、これに向けて輸出が行われたし、やはり戦禍を直接受けなかった米国の景気は好調で、これも相俟って景気は拡大し、起業・生産にむけての投資も盛んに行われたが、その内容はやがて投機へと変質し、大戦中の好況で資金を蓄えた銀行も積極的に貸し出しを行ってこれを支えた。

1920年 好景気の反動

日銀は、物価高騰を抑制する見地から、1919年秋に二度にわたって金融引き締めを行っていた。3月に東京の株式市場が暴落を見せ、4月には大阪の増田ビル・ブローカー銀行が破綻に追い込まれ株式市場・商品市場が暫時閉鎖に追い込まれる事態となった。 欧州での生産が回復すると日本の輸出も落ち込みまた、7月には米国の景気が後退期に入ったことが明らかとなり、好況を前提に事業を拡大していた企業は一転して大量の不良債権を抱えた。

1927年 昭和恐慌

不良債権の処理をハードランディングさせ、昭和金融恐慌発生。

1929年 デフレ本格化、未曾有の大不況へ

浜口雄幸内閣により浜口雄幸内閣金本位制への復帰、緊縮財政へ。
浜口「我々は、国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのんで」と語り、国内の経済は簡単に改善せず金解禁は経済正常化への端緒であり、その後長い苦節を耐えたた後に、日本の経済構造が改革されると考えての行動だった。
しかし、金解禁と緊縮財政で未曾有の不況に突入する。(この時、世界は、大恐慌へと突入する)
濱口内閣時の実質GDP成長率は昭和4年(1929年)には0.5%、翌・昭和5年(1930年)には1.1%、続昭和5年(1930年)0.4%と経済失政であった。

1931年 リフレ政策発動

未曾有の不況の中、高橋是清がリフレ政策を断行 金本位制の停止、日銀の国債直接引き受けを決断し積極財政で不況を脱出。
成長率は昭和7年(1932年)に4.4%、同8年(1933年)に11.4%、同9年(1934年)に8.7%と劇的な回復を遂げる。

リフレ政策の結果、1929年には10%を越える激しいデフレに陥った日本は、1931年、金本位制の停止、日銀の国債引受(金融緩和)と積極財政により
2.4%前後のマイルドインフレに移行させ、その後不況に苦しむ他国に対し、先行し好景気となる事ができた。

昭和恐慌回復の決定要因は金本位制脱却と日銀の国債引き受けの「2段階レジーム転換」である。
詳しい内容については、岩田規久男編著「昭和恐慌の研究」が参考になる。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4492371028/

デフレ不況の処方箋は、やはりリフレ政策しか無いのである。


■オズの魔法使いの背景となる不況(1873年から1896年の米国デフレ不況)

オズの魔法使いとは、実はデフレに陥った米国経済を巡る政治的な論争を寓話にした物語です。

南部カンザス出身の普通の人の代表であるドロシーが、金銀複本位制の導入を求めて(金銀混ぜて貨幣を鋳造すべしという意見。だからドロシーは銀の靴を履いて金色の道を歩いていく)、ブリキのきこりなど労働者らとともに、東の魔女(東部の銀行家ら)を退治し、バケツの水で西の魔女(干ばつ)も退治し、緑のドル紙幣が支配するオズ(金の重さを量る単位オンス。つまり首都ワシントンDC。すべてドル紙幣=緑色に染まっているように見える)の国へ乗り込むが、期待していたオズの魔法使い(現職大統領だったがペテン師だったことが分かり人気が急落した)にも裏切られ、結局は大統領選にもやぶれ、みな散り散りに米国各地へ帰っていく、という金本位制を巡る話。L・フランク・バウムというジャーナリストがそれを寓話につくりあげた。背景を知るととても面白い話です。

私はこの話はグレゴリー・マンキューの「マンキュー マクロ経済学 第2版〈1〉入門篇 165-166ページ」を読んで知った。これは米国の経済学の学術論文にも書かれている。

もう少し詳細に述べると、こういうことのようだ。
金本位制の欠点は、中央銀行から金融政策の裁量を奪ってしまうことにある(なぜならば、中央銀行は金の量から離れて貨幣の量を調節し、自由に金利を上げたり下げたりできないから)。1873年から1896年まで、米国で53%、英国で45%ものデフレが発生した原因は、この時期、大きな金鉱の発見がないため、世界的に金の供給量が減り、そのために中央銀行は貨幣を増やしたくても増やせなかったからである。

ここで米国で主張されたのが、米国では金本位制を廃止して、金に銀を混ぜた金銀複本位制を導入して貨幣の供給量を増やすべきだという主張である(金鉱が見つからないなら、銀も混ぜてしまえばいいという考え方)。その意見に押されて1896年の大統領選に立候補したのがブライアン。この話をジャーナリストが寓話にしたのが「オズの魔法使い」である。

舞台は19世紀後半、アメリカのまん真中、カンザス州。1887年に相次ぐ大かんばつに見まわれ、農民たちはそのころ南部を中心に気運が上がった銀による貨幣の鋳造に夢を託す。そうすれば、デフレを退治できると考えたからである。

このころ米国を蝕んでいたデフレは、東部の銀行家に代表されるカネの貸し手には好都合だったが、南部や西部の農家に代表されるカネの借り手には問題だった。(以前書いたように、デフレは資金の借り手から貸し手への所得移転で、インフレは貸し手から借り手への所得移転だから)

普通の人代表ドロシーは、竜巻に襲われ(選挙で金銀複本位制論者が大勝する夢)、かんばつに苦しむカンザスから、目もくらむほど美しいオズの土地にたどりつく。OZとは金を量る単位のオンスのこと。愛犬トト(禁酒党=金銀複本位制に賛同するが、いろいろわき道にそれる。 teetotalers=禁酒主義者の略)と一緒に飛ばされてきたドロシーは、東の魔女(東部銀行家による金本位制の支持者)の上に落ちてきて魔女を退治し(本当は金銀複本位制を支持すると思われていたのに支持しなかったため、ドロシーにつぶされてしまう)、魔女のもとで働かされていた普通の人々を助け出す。ドロシーはカンザスに戻るために、エメラルドシティー(緑色一色、つまり米ドル紙幣を通じてしか物事が見えない人々の街、首都ワシントンDC)のオズの魔法使い(大統領マッキンリー=金本位制を主張)に会いに行く。

ドロシーは魔法の銀の靴(銀も混ぜるべしという意見)を履き、黄色い(金本位制。しかしどこに行くか分からない)レンガの道を歩く(金と銀が混ざることになる)。道中ドロシーはやさしい北の魔女(ニューイングランドのポピュリストたち)から支援を受け、頭の中身は空っぽだけど大いなる常識を備えたかかし(農民)、心が無いことをなやむブリキ男(労働者)、臆病なライオン(金銀複本位制を唱える大統領候補ブライアン)を道連れに、4人でエメラルドシティーを目指す(大統領選で各地を遊説する)。

エメラルドシティーでオズの魔法使いに会ったドロシーは、オズからまず西の魔女(農民を苦しめるかんばつ)を退治するよう言われ、西の魔女をバケツの水で退治する(かんばつを解決する)。いざカンザスに戻してくれるようオズに頼みに行くと、実はオズは偉大な魔法使いに見せかけているだけで、ペテン師だということが分かり、幻滅する(現職大統領マッキンリーはペテン師だったが、大統領選に勝利する)。南の魔女(南部のポピュリストたち)の助けを借りて銀の靴を履いたドロシーは、カンザスに戻り(大統領選に惨敗して地元に戻る)、かかしはエメラルドシティーに残り(都市に出てきた農民たち)、ブリキ男は西をおさめる(西部を工業化する)。

この物語のとおり、1896年の大統領選では金銀複本位制を唱えた農民代表のブライアンは敗れ、金本位制維持を訴えたマッキンリーが勝つ。しかし、選挙の前後にアラスカ、オーストラリア、南アフリカで金鉱が発見され、さらに金の画期的な精錬技術が開発され、金の生産量は飛躍的に増え、これによって米国を含めて通貨の供給量が増大し、ついに1896年から1910年までの間に米国では35%物価が上昇して”ゴールド・ラッシュ”に沸くのである。
http://d.hatena.ne.jp/yumyum2/20060131/p2
結局、このデフレもゴールドラッシュで通貨を増やす事で克服した事になる。
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