焚き火大好き人達のおしゃべり - Jimmy オヤジのココロ

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だから、おやじですって! だじゃれ........いいですか?!
あんた、だれじゃ?。

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北の零年 再び 〜高倉一族の場合




 -STORY- ’聖地’の土地を提供してくれたJimmyから図書館に眠る代々の資料コピーを入手。読みながら時代考証していく内に、時代の荒波に揉まれる先祖の群像が浮かび上がる!最近までそんな土地がある事さえ知らなかったJimmyさえ驚く事実がここに!全て史実です。

第一章 プロローグ
 高倉家はもともと、筑前国福岡藩主黒田家に仕え、数代に渡り江戸藩邸に居住していた。上屋敷は、現在の霞ヶ関で外務省が建っている場所にあったが、この屋敷を囲むように家老長屋などいくつかの建物が並び、一番外側には士分以上の住居である表長屋がぐるりと建ち、道路との境をなしていた。この一画に高倉一家も住んでいた。         

第二章 時代
 幕末、九州諸藩も幕府を擁護する佐幕派と勤王派の間で大きく揺れた。福岡藩もこの例に漏れず、多くの藩士が藩内の抗争で切腹や斬首で命を落とした。慶応4年/明治元年、戊辰戦争が勃発しこれに勤王派として参戦したのを機に一家の長である丹治は、親子3人で郷里筑前国福岡に移り住む事を決意する。高倉輯(しゅう)16才の時であったが、輯は一人っ子で兄弟も無く、親類とも遠く離れた一家の生活の心細さは例えようも無かった。その後明治2年、274大名に版籍奉還が行われ、土地と人民は明治政府の所轄する所となったが、廃藩置県は、全国約200万人に上るとも言われる藩士の大量解雇に至るものであった。

第三章 激動
 父丹治は、明治8年11月9日永眠。小禄ながらも命の綱と当てにしていた永世家俸であったが、明治10年、西南の役が地方の暴動を誘発して、高倉家もこの渦中に巻き込まれ、一夜にして家共々財産全てが兵火に焼かれてしまった。同年、城山決戦で敗れた西郷隆盛はその地で切腹している。

第四章 決意
 輯は、明治7年以来20年3月まで、古来から朝廷の崇敬が厚く、祈願・奉幣などは宇佐神宮に準じ、伊勢・気飯・石清水の各所とともに本朝四所の一つとされる香椎宮(かしいぐう)に奉職する。その後は地方の郡役所に勤めたが、到底薄給の小使の身、生活に対する前途の見通しも無かった。折しも世間では盛んに北海道移住の宣伝が行われていた。土地は無償で貸し下げる、無肥料で耕作ができる、無税である、酒も無税で安い、兵役は免除される、という好条件であったため、明治20年ころから郷里を後にして渡道する者がぼつぼつと出てきていた。

第五章 新天地へ
 明治25年7月下旬、輯40才の時、暑中休暇を利用し来道して実地調査を行う。船便で小樽に入り馬追山を越え、夕張川を渡り、当時無人だった幌向原野に出た。鬱蒼とした樹林は昼なお暗く、背よりも高く蘆が生い茂り、数里の間は道路も橋も無かった。こうして輯は、身を護る父親譲りの一刀と地図と磁針を懐にその後の高倉の地となる場所にたどり着いたのであった。

第六章 開墾
 明治26年4月下旬、輯は家族を連れず農夫5人と馬3頭を伴い入地した。幌向駅で下車し、それより1里強の農場に味噌を初め必要器具一切を人馬の背に依って運搬したが、道らしいものも無く小さな河川は倒木を伝い、幌向川は丸木舟で渡り、この往復運搬は一日がかりであった。熊の襲撃に備え、新式猟銃1、旧式銃2を始めとして農具は無論、大工道具から下駄の鼻緒の穴開け道具まで用意した。2日間露営して、雑木の丸太をなわで縛りつけ、屋根や囲いはヨシやクマザサを用い、地面には同じ様に笹を並べてその上にゴザを敷いて3間に5間の差掛け小屋をつくった。風雨をしのぐ程度のもので、入り口はむしろを下げ、窓もなかった。冬など食事しているとご飯が凍ることもしばしばあり、寒さのため夜通し火を燃やすこともあったが、そこで1年あまりを過ごした。

 開墾も始まったが、道具はのこぎり、まさかり、なた、鍬しかなかった。これで立ち木を伐採して焼き払ったが、当時の樹木にはヤチダモ、シコロ、カタスギ、カツラの類が多く、いたるところに密生していた。周囲が1メートル以上もある大木もあり、これを倒すときは大地が地響きをたてた。飛び散った枝はササのなかに突きささり、じゃまになるため、2年目からは冬季に伐採することにした。春、雪が解けるのを待ってササ刈りをおこない、堆積している小枝を集めて焼いた。クマザサの開墾には骨が折れた。切り株と切り株の間を鍬で起こし、草の根やクマザサを片づけて整地した。大木の根はそのまま腐るにまかせた。

 食料は当然自給自足で、入植の1年目は1年分の食料を用意していたので米を食べたが、2年目からはアワ、ソバ、ムギが主食となった。副食は野菜だけで、調味料はみそと塩のみ。野生のフキ、ヨモギ、アイヌネギ、ミツバ、セリが多かったので、これを調理してよく食べたが、日用品や酒、しょうゆ、豆腐、油揚げなどは、岩見沢まで出かけて買い求めた。魚は身欠きニシンを、1年間に3、4把食べる程度であった。明治29年秋から収穫物を販売できるようになり、10月から駄馬で搬出したが、道が悪くウマの中足まではまるため、ウマが道路に立ち往生することも珍しくなく、この頃までに馬が3頭死んだ。

第七章 苦難
 幌向駅は高台にあったが、それよりずっと低い農場は毎年雪解け水が侵入しない事が無い位で、夏も一度大雨がくると水田地は一面の湖水と化した。農場より比較的高地にある西小学校でさえ3、4尺も浸水し、一週間から十日の休校も珍しくなかった。時の校長森田は、筏を組み農場に来て高倉と碁を戦わす事もたびたびであった。一番の大水害は明治31年に起こったもので、全道が大水害に見舞われた。栗沢では幌向川、清真布川、夕張川が氾濫し、石狩川の逆流も手伝い、北斗地区全域が水没し幌向駅まで自由に舟で行く事が出来るほどで、被害は目をおおうばかりであった。

第八章 大造
 大正7年、輯夫妻は老後の保養と孫の教育のために札幌に移り住み、農場は2代目大造の経営に入った。大造が来道したのは、開墾が始まってから3年目の11才の時である。福岡で友人から北海道は熊の巣窟だぞと聞かされていたが、聞くと見るのとは大違いで、小樽、札幌の繁華街に驚き、最も驚いたのは幌向川に架かる3号橋が今までに見た事の無い様な立派な洋式吊り橋であった事だった。

第九章 高倉神社
 輯には3人の子供がいて跡継ぎがいる事は幸せであったが、度重なる水害に困窮し、長年奉職した香椎宮に詣で家宝の太刀一振りを奉納した。その時御神木のあや杉で作った御剣を分霊として奉戴しこれを成功の守護神として祭ったのが高倉神社の始まりであった。

第十章 争議
 高倉農場の小作料は、土地により7斗、6斗、5斗の3段階に分けられていた。他の農場に比べても決して高いとは言えなかったが、水害地である上に日華事変の戦局拡大で人手が不足し、生産資材が窮乏して小作人の農業経営はいよいよ困難になっていった。

第十一章 エピローグ
 高倉神社の門前に小さな石碑が建っている。花崗岩で出来ているそれは、百年あまりの風雪に耐えて、もうほとんど刻まれている文字を読む事が出来ない。しかしその一文はこうだろう。 「うつせみの、世に永かれと劔(剣の旧字)太刀、捧げまつりて祈りこそすれ」 家族の健康と一族の繁栄を願って香推宮に奉納した一首である。


北の零年外伝
Jimmyの資料には、

 「昭和11年頃氏子総代橋本政雄氏が札幌の高倉大造氏を訪ね高倉神社と改めたいとの懇請により以後改称された。最初の神社は中島7線道路近くにあったが参拝その他の不便のため昭和19年4月現在の場所に高倉氏の所有地213坪の提供を受け移された。」

とある。そうここがファイヤータウンなのだ!


Jimmyダジャレ語録

☆会員メンバーどもよ、聖地の整地をちゃんとせい!!わしも動いとるんだぜ! 

Jimmy;今度のフェスティバルで、馬蹄投げゲームやるんだって?
 G・Z Cha;本物馬蹄があるしさ!5本!
 Jimmy;ひとり5回も投げるのかい?
     そりゃ、ばて〜るんでナイカイ!!
 G・Z Cha;...........!

ファイアープレイスにバラス(道路に敷く砂利)を敷く話をしてたら、そんな話は人にバラスな?
イカを焼こうと言ったら、まあイッカ?
そのイカひっくり返してくれる?これでイッカ?
飯ごうで五合炊いたら、言語道断だよ?
炭を使わずに焼くなんて、君も隅に置けないね?

ウィンドウズはコマンドが無くてこまんどう〜〜〜?

【あるミーティングの夜の会話】
  ジャンキー:「ジミ〜、コレ食べるかい?」
  ジミー:  (とりあえず食ってみる)
        『うっ!旨味はぎゅ〜っと詰まってていいんだが..........』
  チルドレン:「ドナドナド〜ナノさっ?」
  ジミー:  (含み笑いをこらえつつ)
        『堅いのサ、このジャンキーのくれた「ジャーキー」がッ!!』
  チェアマン:『べこっ!』

栗沢ファイヤープレイス、「炎」のまわりは、「農」業地帯、田圃で蛙の大合唱。
ほう、のお!


Jimmy危機一髪


危ない!急斜面から落ちそうになるJimmy。
ピリカの独り言:山岳救助犬の訓練は受けたけど、もうちょっと様子みようかしら。 


ダジャレナビ

文中からの抜粋。

ダジャレの地位が低いのは、オヤジ達が使うダジャレのレベルが低いからです。文化的香りや思想が無く、シモネタが多くて聞くに堪えない、美しくないダジャレが多いのが現状です。

また、ダジャレを頻繁に使うオヤジに、教養が低く、低俗で尊敬に値しない者が多いオヤジ自体に魅力が無いことが、ダジャレのイメージをいっそう低下させている最大の原因だと言えるでしょう。

オヤジに限らず、全てのダジャレユーザーは、レベルの高い、質の高いダジャレを使うように普段から心がけることが必要です。また、オヤジには若い人から尊敬されるような生き方を、是非してもらいたいものです。

たゆまない努力を続けることにより、「ダジャレ」が単なるオヤジの低俗なギャグではなく、高度な知的パフォーマンス であることが理解される日が来ると信じています。

みんなでダジャレを勉強?しましょう。これがアドレスです。
http://www.dajarenavi.net/index.htm

愛しのアニ〜〜 07.00.00 PM00:00


 アニー、万歳!!