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マルクスの疎外論
という概念は、マルクスによって、あるばあいには、非幻想的なものから幻想性が抽出され、そのことによって非幻想的なものが反作用をうけるという意味で、またあるばあいには人間の自然規定としてぬきさしならぬ不変の概念であり、したがって人間の自己自身にたいするまた他の人間にたいする不変の概念として、またある場合には、により対象物ととのあいだに、したがってその対象物を私有するものとのあいだに、具体的におこる私的な階級の概念としてつかわれているが、もちろんかれの思想にとって重要なのは、それがどのようにつかわれていても、累
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死がおそろしいのは
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しかし、死がおそろしいのは、それが妄想であれ愛惜であれ、関係の意識が人間に存在するからである。人間を自然の一部としてかんがえるかどうかにかかわりなく、人間がじぶんの存在とじぶんの死を関係として妄想したり愛惜したりするのは、それが、じぶんの生存と他人の死との関係としてあらわれるか、じぶんの死と他人の生存との関係としてかんがえるためである。それは他人の死を目撃するとか、じぶんの死にたいする他人の嘆きを妄想するとかいうこととかかわりない。人間のじぶん自身の生存と自分自身の死との関係が、じぶんと他との関係として
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知識人
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日常生活の範囲にしか思考をめぐらせないというような存在から、なんらかの意味で知識的に上昇している存在をさします。俗な言葉でいいますと、よけいなことをかんがえることを覚えたやつを知識人というわけです。
(「知識人−その思想的課題」1966.10.29関西大学講演 「情況への発言」1968.8徳間書店に収録された)
:| 私もたぶん「よけいなことをかんがえる」ところが多々あるから、知識人である部分も身体の中に抱えている。しかし知識人として自立しなければならない。その自立とはなんなのかを考えなければならない。
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大衆
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日常の生活をくりかえし、職業的生活の範囲でものをかんがえ、そしてその範囲でものを解決していくというふうに思考する、そういう存在を意味しています。
(「知識人−その思想的課題」1966.10.29関西大学講演 「情況への発言」1968.8徳間書店に収録された)
:| こういう大衆はどこにいるのか。やはりどこにもいるし、私たち自身の中にもあるということだと思う。明治維新があり、敗戦があり、60年安保があっても、大衆はこうして生きてきた。今も生きている。
[[隆明鈔--吉本隆明鈔集]]
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毛沢東の三部作
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世界思想としてよむかぎり、毛の三部作は間違いだらけの三級品にすぎない。しかし、これを中国の民話思想としてよめばどうなるのか? わたしにはそれが読めない。しかし、竹内好はおそらくそれが判っているのだ。この間違いだらけのつまらぬ認識論の思想が、中国大衆のどれだけの原像をすくいとっているか、どれだけ背後に中国大衆の無声の声を背負っているかがわかっているのだ。
(「実践的矛盾について」1966.8「文藝」に掲載 「自立の思想的拠点−竹内好」1966.10徳間書店に収録された)
:| この三部作とは、「実践論」「
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竹内好
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毛沢東は、中共支配下の大陸に政治的統制によって思想的追従者を、つまり実践的矛盾をうみだしつつあることを恥ずべきであるが、日本に竹内好というひとりの思想家をもっていることを誇るべきだ。
(「実践的矛盾について」1966.8「文藝」に掲載「自立の思想的拠点−竹内好」1966.10徳間書店に収録された)
:| 初めて竹内好「魯迅」を読んだとき、どういったらいいのか分からないほどの衝撃を受けたものである。よくこれだけ中国を、魯迅を読み込める思想家がこの日本にいたものだ。しかし毛沢東の大いなる誤謬を目の前にして竹
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いまや一切が終わったからほんとうにはじまる
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われわれは十九六〇年代の黄昏に佇つてこう告知する
<いまや一切が終わったからほんとうにはじまる
いまやほんとうにはじまるから一切が終つた
見事に思想の死が思想によつて語られるとき
われわれはただ
拒絶がしずかな思想の着地であることを思う
(「文芸」1966.4.1に発表され、「自立の思想的拠点」1966.10.20徳間書店に収録された)
:| こうして「1960年代の黄昏」と吉本さんがいうときに、かなり吉本さんの心は暗いように思える。これは1966年のことであるわけだ。だが、ちょうど60
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