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タグ検索で昭和59年は6件見つかりました。
恋愛は論じられるものではなくするものだ
恋愛は論じられるものではなく、するものだ。と同じように性にまつわる事柄は、論じられるまえに、されてしまっていることだ。またこれらをみな対幻想の領域として包括させるとすれば、それについて考察することは、それについて行動することよりも、いつも劣っているとみなされる唯一の人間的な領域だといえよう。
(「n個の性をめぐって対幻想」1985.1.25春秋社「まえがき」1984.12.14)
:| 性について話していくといっても、何故かとまどってしまう。現実に家族がありその中で日々生きているわけだから、その日々生き
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最後の漱石
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漱石はたぶん『明暗』という作品で、たったひとつの最後に残るおおきな眼を漠然と想定していて、その眼を、漱石は、たどりついたじぶんなりの境地だとかんがえているようにおもわれるのです。禅がいう悟りとはすこしちがうんですが、しかし、全部の人間を特別なふうに扱わないし、また特別な人間ともおもわないし、またどんな人間でもごく普通の人間としてみられるひとつのおおきな眼のようなものを漱石は「則天去私」、つまり「天に則って私を去る」という言葉で意味させようとしていたかもしれないとおもいます。
(「漱石の中の良寛」1984
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愉しいファッション
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それは管理にたいするはぐらかし、軽い反抗、すくなくとも無関心の旗じるしになっている。そうまでいわなくても、愉しいファッションは、それは由緒とか根拠とかを幻惑させる。わけてもわたしは、女子高を出てすぐにOLになったような娘たちや、中学や高校を出て就職しているような若い男たちが、休日や祝日に、安そうだけれど恰好のいい、ラフなファッションを着こなして闊歩している姿を、盛り場の雑踏に見るのが好きだ。
(「ファッション」1984.9「アンアン」平凡出版に掲載 「重層的な非決定へ」1985.9大和書房に収録された)
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風の谷のナウシカ
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宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」は緊迫したイメージを息もつかせずに繰り出して、見事な画像の動勢をみせてくれたが自己犠牲というものが、敗戦の八月を越えるために、どう質を変えなくてはならないものか、なにも勘定に入れてくれなかった。
(「夏を越した映画」1984.9「共同通信配信」に掲載 「夏を越した映画」1987.5潮出版社に収録)
:| この夏とは、昭和20年8月15日の敗戦のことである。ナウシカの最後のシーンは私にも大変に気にいらなかった。何故オームはナウシカの自己犠牲で暴走を止めてしまうのだ。ナウシカ
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マス・イメージ
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カルチャーまてはサブカルチャーの制作品を、全体的な概念とかんがえ、そのために個々の制作者とは矛盾するものとして、取扱おうと試みた。するとたしかに制作品は、個々の制作者と矛盾する表出の側面を露出してくる。だがこれの作者を「現在」という全体的な輪郭にまで形成することはたいへん難しいことであった。なぜかというと「現在」もまた「現在」に矛盾する自己表出(自己差異)を内臓しているからである。この内臓されたものの内部では、個々の制作者も、それをとりあげている論者も、いわば渦中の人であるほかない。
(「マス・イメージ
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ドストエフスキーの作品
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ドストエフスキーの作品は、どんな場合でも設定された世界の枠組みを、作中の登場人物とか、作中で起こる事件が、はみ出してしまいそうな充溢や懸垂感を伴う気がします。その流動する不定の感じ自体に、そのときのドストエフスキーの体験が、直接的ではなく、いろいろな陰影をこめて、あるいは中間の過程を経て、投影されています。そうかんがえると、このときの死の寸前から帰還した心理の体験は、ドストエフスキーの作品の枠組みと、その枠組みから飛び出そうとする登場人物たちや事件のあり方を決定したといっても誇張でないとおもうのです。
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