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タグ検索で平成4年13件見つかりました。
三角関係小説
 一人の女性をめぐって二人の親しい人間が葛藤するのが三角関係の小説で、これは不倫小説とか浮気小説とはまるで違います。何が違うかというと、二人が親しいこと、もしかしたら広い意味での同性愛に近いかたちで親愛感をもっていることが三角関係小説の大きな特徴です。これがなければ、単なる姦通小説で、トルストイの『アンナ・カレーニナ』とかフローベールの『ボヴァリー夫人』みたいな小説になりますが、漱石が書くとそうはならないで三角関係小説になってしまいます。  つまり三者三様にギリギリに追い詰められて、『こころ』の場合では親
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%bb%b0%b3%d1%b4%d... - 2006年12月10日更新
新新宗教と超人的
 中世の浄土教とか日蓮宗とか曹洞宗とかの当時の新興宗教は、超人的というのはやめようじゃないか、つまりこれは倫理の言葉とか倫理の行いとかに直さなかったらだめなんだというかたちで、それぞれの宗旨、宗派はちがうんですがやったようにおもいます。なんといったらいいか、倫理的な教義の純粋化といいますか、純粋化と倫理化がいっしょになってというかたちであったとおもうんです。現在の「新新宗教」はその逆であって、旧来の倫理がだめじゃないかとおもわれはじめたときに、いままであった倫理を解体してもう一度新しく通用する倫理をつくろ
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%bf%b7%bf%b7%bd%a... - 2006年12月10日更新
若いひとの実感
 いま、日本の社会をひとつの方向に視野をもって見渡そうとすると、わりあい遠くまで見えるという実感が若いひとにもあるんじゃないかとおもいます。それと同時に逆に、近くの方を見ますと、まるで自分が裸だという実感がもうひとつあるとおもうんです。その裸だというのは、じぶんの周辺で起こることでなんでもいいですが、友だちが病気になったとか、喧嘩をしたとか、あるいは恋愛したとか失恋したとかいうことでもいいんですが、わりあいあいにじぶんの外にひろがっていることから起こってくるトラブルみたいなものがそのままじぶんの身近なとこ
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%bc%e3%a4%a4%a4%d... - 2006年12月10日更新
女性の病気は初期と晩期に出る
 女性の場合には、初期と晩期に病気の可能性があって、乳胎児にたいして影響を与える病気は初期に存在します。晩期は自分の問題としてあるとおもいます。それは男性といいますか、じぶんの配偶者といいますか、それに依存するよりもかつて産んだところの子どもの世代に依存します。ひろい意味での性といってもいいんですが、それを委譲するといいましょうか、そういうかたちで晩期の病気は現れるというのがまず普遍的な気がします。その普遍性から女性は女性なりに逃れようという意識があって、それはフェミニズムのなかにふくまれてしまっていると
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%bd%f7%c0%ad%a4%c... - 2006年12月10日更新
人間の心なり精神を決定している要素
 ぼくはいま、人間の心なり精神を決定している要素をおおざっぱに三つの分けてかんがえています。ひとつは、人間の心の「核」にあるのは、胎児の時と一歳未満の時のあいだでの母親との関係、その時の母親との関係の障害が無意識のいちばん底のところに収まっているだろうとおもわれます。そのつぎは、乳児の時から幼児期までに、これも主として母親ですが、それと家族とか、もうすこしひろげれば親戚とか、近親者との対人関係のなかで形成されるものがかんがえられます。それは無意識に入っていたり、意識の方に出てきたりという出方をする心の「中
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%bf%cd%b4%d6%a4%c... - 2006年12月10日更新
内臓系と体壁系
とわたしたちが呼んでいるものは内臓のうごきとむすびついたあるひとつの表出だ。また知覚と呼んでいるものは感覚器官や、体壁系の筋肉や、神経のうごきと、脳の回路にむすびついた表出とみなせばよい。わたしはこの著者からその示唆をうけとったとき、いままで文字以後の表現理論として展開してきたじぶんの言語の理念が、言語以前の音声や音声以前の身体的な動きのところまで、拡張できる見とおしが得られた。もちろん内臓系ののうごきはわたしの定義している自己表出の根源であり、体壁系の感覚器官のはたらきは指示表出の根源をつくっている。
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%c6%e2%c2%a1%b7%c... - 2006年12月10日更新
マルクスと折口信夫と三木成夫の三人
 わたしは対幻想という発想をしたときから男女の区別は相対的なもので、一人の人間と一人の人間の関係の仕方が対幻想だと定義してきた。三木成夫の著書を読むと、陰核は女性のなかの男性性器の名残りで、前立腺の領域は男性のなかの子宮の名残りだとかいてある。それを読みながら一人の人間と一人の人間の関係にまつわる言葉や、思考や、行為の領域では、男性も女性もより男性の領域にあるか、より女性の領域にあるかどちらかだとかんがえるべきだ。そうおもえるようになった。いってみれば対幻想の領域にある構造をあたえられる気がしてきた。だが
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%a5%de%a5%eb%a5%a... - 2006年12月10日更新
三木成夫の業績
 三木成夫のいちばん柱になる業績は、人間の胎児が受胎32日目から一週間のあいだ水棲段階から陸棲段階へと変身をとげ、そのあたりで母親は悪阻になったり、流産しそうになったり、そんなたいへん劇的な状態を体験する。こんな事実を確定し、まとめたことだとうけとれた。知識としても初耳だったのでこれには驚かされた。そして悪阻になると食物の嗜好が激変したり、嗅覚がきゅうに過敏になったり、食欲が増減したりといった母になった女性の非合理的な言動を想い出したりして、おもわず声もなくうたいたい気分になった。 (三木成夫「海・呼吸・
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%bb%b0%cc%da%c0%a... - 2006年12月10日更新
中上健次の文学の思想としての特長
 島崎藤村が『破戒』猪子連太郎や瀬川丑松をかりて、口ごもり、ためらい、おおげさに決心して告白する場面としてしか描けなかった被差別部落出身の問題を、ごく自然な、差別も被差別もコンプレックスにはなりえない課題として解体してしまったことだとおもう。  差別と被差別の問題は中上健次の文学によって理念としては終わってしまった。あとは現実がかれの文学のあとを追うだけだ。(「比類のない文学思想」1992.8.15「信濃毎日新聞」に掲載 追悼私記−中上健次−比類のない文学思想」1993.3JICC出版局に収録) :| こ
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%c3%e6%be%e5%b7%f... - 2006年12月10日更新
老いの定義
 漱石は最後にちかい作品『道草』のなかで、はじめてふと自分は何にたいして何のためかということができないが、精神が燃えていることを信じていたと、作中の主人公健三にいわせている。それが燃えつきたとき精神は生理に服従しなくてはならない。それが老いの定義だ。  では精神が生理に反抗して若づくりをしていれば老いはこないのだろうか。そんなことはない。少しずつ芯をほそくしてゆく仕方を発見することができなければ、やはり老いをことさらまねきよせてしまう。かつての時代になかったような生涯曲線のなかで、これを発見しなくてはなら
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%cf%b7%a4%a4%a4%c... - 2006年12月10日更新
東京ディズニーランド
 わたしたちはそこで大人が子供の玩具をもって、子供の遊園地と子供のビルのなかで遊ぶような気恥ずかしさと愉しさを同時に体験している。だがこのばあいは、すでにビル、濠割、船、広場の作り方が童話仕たてなのですぐに子供の映像(イメージ)の世界にはいってしまう。そして映像(イメージ)のなかに入りきれない気恥ずかしさとはいれた愉しさを同時に味あうことになる。 (「熊本日日新聞」に掲載 「見えだした社会の限界−現在の東京」1992.2コスモの本に収録) :| このテーマパークを歩いている吉本さんを思い浮べてみる。私より
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%c5%ec%b5%fe%a5%c... - 2006年12月10日更新
エイズ
 はっきり怖れなくてはいけないのは、エイズ患者と性交することだけだ。その場合だけは、感染のおそれがあり、感染のあと、不幸にして発病すれば、いまのところまず死に至るからだ。 (「熊本日日新聞」に掲載 「見えだした社会の限界−エイズの伝播」1992.2コスモの本に収録) :| エイズのことはこれだけのことだ。ところが何をあんなに騒いだりしているのだろうか。性交さえしなければ、隣人であろうとなんだろうとかまわないエイズ患者を、隔離したりしなければいけないような妄想が怖ろしいだけなのだ。 [[隆明鈔--吉本
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%a5%a8%a5%a4%a5%b... - 2006年12月10日更新
敗戦期にじぶんとかわした約束
 わたしには第二次大戦(太平洋戦争)の敗戦期にじぶんとひそかにかわした約束のようなものがある。青年期に敗戦の混迷で、どう生きていいかわからなかったとき、わたしが好きで追っかけをやってきた文学者たちが、いま何か物を云ってくれたら、どれほどこのどん底の混迷を脱出する支えになるかわからないとおもい、彼らの発言を切望した。だがそのとき彼らは沈黙にしずんで、見解をきくことができなかった。それは軽薄なお喋言りで賑やかに転身してゆく文学者たちにくらべて、流石にかれらが良心の声をきくことのできる文学者だという証でもあった
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%c7%d4%c0%ef%b4%f... - 2006年12月10日更新



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