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異常さと平常さとが、間近に対照をうつしだす現実
もし、天下が泰平だとおもいたいならば、どんな時代の、どんな時期でもそうである。
もし、この世界には、生活としての泰平は存在しえないとおもいたいならば、どんな平和も空しい時間で充たされている。大衆デモの激発するかたわらで、恋人と二人して愉しむこともできるし、戦争のさ中に、しずかな夕食を愉しむこともできる。こういった異常さと平常さとが、間近に対照をうつしだすといった現実の実相を、かつて歴史は人間に禁じたことはないし、これからも禁ずることはありえないだろう。こういった、現実社会のリアリティの核心を、わたした
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%b0%db%be%ef%a4%b... - 2006年12月06日更新
模写と鏡
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いまこの国で演じられてきた戦後史の流動が、世界的な規模で鏡に写しだされたとて、いまさら、何を驚くことがあろうか? いま、世界的な流動を模写する思想があらわれたとて、模写以外には「無」しか所有しなかったこの国の思想に、何を驚くことがあろうか?
そうだ、何も驚くことをもっていない。この現実だけが、足の裏についてくる都市の舗装路の感覚のように確かな現実だということを知り、「彼」と「我」との容貌がちがうように、思想と思想の貌はちがい、「彼」と「我」とが思想の生命を刻みこんで、別のたたかいをえらんだことが確かで
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無方法の方法
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柳田国男の方法を、どこまでたどっても「抽象」というものの本質的な意味は、けっして生まれてこない。珠子玉と珠子玉を「勘」でつなぐ空間的な拡がりが続くだけである。この柳田学の方法的な基礎は、かれ自身の語るところによれば、「宮中のお祭りと村々の小さなお宮のお祭りとは似てゐる。これではじめて本当に日本の家族の延長が国家になってゐるといふ心地が一番はっきりします。」(「民俗学の話」)という認識にあった。かれは土俗共同体の俗習が、そのまま昇華したところに国家の本質をみたのである。そして、土俗を大衆的な共同性の根拠と
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