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タグ検索で1977年は5件見つかりました。
やはり信じきれない存在
イエスがじぶん自身を信じきれないで死んだことを、普遍的にいい直せば、人間はじぶんでじぶん自身を信じきれるか、信仰のあるなしとは別に、生き方としてじぶんでじぶん自身に問うばあいに、じぶん自身を信じきれるかといえば、やはり信じきれなかない存在なのだということでしょう。千年に一度しか出現しないそういう人も、やっぱり信じきれなかった。人から問われるということでなしに、また人から非難されるとか批判されるという意味でなしに、じぶんがじぶんに問うたとき、じぶんがじぶんに対面したときに、じぶんを信じきれるかという問いに
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%a4%e4%a4%cf%a4%e... - 2006年12月10日更新
新約書はいやな言葉において優れている
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%a4%e4%a4%cf%a4%e... - 2006年12月10日更新
新約書というのは、いやな言葉において優れているのです。それが、聖書の思想のいちばん大切なところだとぼくにはおもわれます。同信者とか同志とかでも、人間はギリギリに追いつめられていったばあいには、そこでたいがいに背反したり矛盾したり、裏切ったりすることはありうる、だから、もし、人を信じるとか、なにかを信ずることがあるとすれば、肉体を信ずるような信じ方は本当の信じ方ではないと云っていると理解すればできます。そこはたいへんなところではないかとおもわれます。
(「喩としての聖書」1977.8.31日本YMCA同盟
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%bf%b7%cc%f3%bd%f... - 2006年12月10日更新
思想書として読むこと
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%bf%b7%cc%f3%bd%f... - 2006年12月10日更新
思想書として読むこと信仰の書として読むこととはどこが異うのか。ぼくは思想として読むってことは、それが信仰にまつわることであれ、つまり宗教にまつわることであれ、あるいは自然科学にまつわることであれ、また人文科学にまつわることであれ、そのものの領域の内部にあらかじめじぶんを置かないで、つまり、いつでも、宗教と宗教でないもの、信仰と信仰でないもの、信ずることと信じないこと、そういうことの境界を踏まえていることだとおもいます。それが思想にとっていちばん重要な態度だとおもうのです。
(「喩としての聖書」昭和52年
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橋を架ける
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%bb%d7%c1%db%bd%f... - 2006年12月10日更新
橋を架けるということの意味ですけれど、現世流の言葉でいえば、じぶんの主体的な思想として、少なくとも、じぶんが正しいことを云うばあいにはこういうかたちしかできないよ、というかたちで主体的に橋が架かっていなければならない。つまりじじぶんの中で、嘘をつくじぶんと正しいことをいうじぶんとの間に、じぶんの中でよくかんがえられていなければならない。じぶんは、ここのところは嘘で、ここのところはいつでもごまかしやすいんだなあという問題が、主体的に突き詰められていなければならない。もうひとつは、理論的にといったらおかしい
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%b6%b6%a4%f2%b2%c... - 2006年12月10日更新
親鸞は橋が架っている
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%b6%b6%a4%f2%b2%c... - 2006年12月10日更新
本当の思想というものが、もしあるとすれば、国家として嘘をついているとか、共同体として嘘をついているとか、組織として嘘をついているいるとか、あるいは、じぶんとして嘘をついている、じぶんの内面に嘘をついているとかいうことと、本当に正しいということとの間に橋が架かっていないといけないとおもうんです。親鸞は橋が架かっている。橋が架かっていない思想はぼくは信じない。正義なんて、ぼくは信じていない。正しいことを云うなんてやさしいんですよ。理念的に正しいことを云うことはやさしいんですよ。人間は、そんなの、ちょっと教養
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%bf%c6%f3%c2%a4%c... - 2006年12月10日更新
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