七転納豆ブログ掲載の青印関連記事の転載です。
主な情報は、青印納豆係累の「みりちゃん」様からご提供いただきました
あまりの引きの強さに、箸が折れるというエピソードです。
青森と函館は兄弟みたいな街ですから、良く似たタイプの納豆だったのかも知れません。
さて、青印納豆と言えば電子納豆ですが。。
みりちゃん様にどんな納豆だったのですか?とうかがったところ、今でいうところのイオン水を使った納豆のことだとのお返事をいただきました。
イオン水を使った納豆と言えば、現在でも三重小杉食品、宮城グリーンパール、秋田二代目福治郎、ウメヤなど多数あります。
青印納豆は、その先駆けの一つだったということのようです。
2018.10.21)第二報のエントリーにコメントをいただきましたので紹介します。これもまた貴重な証言です。
今日は高橋一氏が残された言葉をいくつか。。。
青印納豆では、自動発酵室を導入した後も、経木納豆だけは炭火製法で製造していたのだと言います。
しかも、昔ながらの人が尽きっきりになる製法で作っていたのだと。
戦前・戦後の頃、納豆製造を始めた方には、栄養豊富で安価な納豆を食卓に供給しなければいけないという使命感を持つ方が多いように感じます。
今でいうところの「ソーシャルアントレプレナー」ってやつでしょうか。
そして、
高橋一氏にとっては、経木納豆こそが本物の納豆だという思い入れがあったのでしょう。
すてきなことです。
もう一つだけ、高橋一氏の言葉を。
地の文が混じっているので、ちょっと読みにくいかもしれませんがお許しください。
明治日本の息づかいが聞こえてきませんか。
主な情報は、青印納豆係累の「みりちゃん」様からご提供いただきました
函館市民に愛されていた「高橋なっと」こと青印納豆について、北海道在住のみりちゃん様から貴重な情報を提供していただきました。
まずは、創業者のことからご紹介しましょう。
青印納豆は2軒あったと、かつて報告させていただきましたが、元祖は高橋一氏の筋だとか。
その高橋氏は宮城県の出身。北海道に渡って様々な商売を手がけ、納豆製造で地歩を固めたのだと言います。
大縄町にあった「青印市場」も同氏の経営によるもの。
そして、函館市の市会議員まで勤め上げたのだと。
では、みりちゃん様の文章を引用させていただきます。
私事ではありますが、私の母は実は北海道奥尻島出身。
幕末の蝦夷地防衛で乗り込んできた津軽藩士の流れなのだそうです。
こういう話は、ほんとに身近で良く聞かされました。
まずは、創業者のことからご紹介しましょう。
青印納豆は2軒あったと、かつて報告させていただきましたが、元祖は高橋一氏の筋だとか。
その高橋氏は宮城県の出身。北海道に渡って様々な商売を手がけ、納豆製造で地歩を固めたのだと言います。
大縄町にあった「青印市場」も同氏の経営によるもの。
そして、函館市の市会議員まで勤め上げたのだと。
では、みりちゃん様の文章を引用させていただきます。
高橋一(はじめ)氏は宮城県出身で昭和の初めに北海道に渡りました。色々商売をしたのですが、最終的には納豆製造で地位を固めました。「青印」は当時「○○印」というネーミングが流行っていたのと、信号で進め(ます)の色なのでそのように決めたそうです。さて。。
私事ではありますが、私の母は実は北海道奥尻島出身。
幕末の蝦夷地防衛で乗り込んできた津軽藩士の流れなのだそうです。
こういう話は、ほんとに身近で良く聞かされました。
青印(本店)の納豆はイトが丈夫で箸でかき回すと「ミリミリ」と特有の音がします。味も若干辛めの味で豆の風味が美味でした。本当に「力強い古風な納豆」といった感じでした。これって、青森かくた武田の納豆を彷彿させますね。
あまりの引きの強さに、箸が折れるというエピソードです。
青森と函館は兄弟みたいな街ですから、良く似たタイプの納豆だったのかも知れません。
さて、青印納豆と言えば電子納豆ですが。。
みりちゃん様にどんな納豆だったのですか?とうかがったところ、今でいうところのイオン水を使った納豆のことだとのお返事をいただきました。
イオン水を使った納豆と言えば、現在でも三重小杉食品、宮城グリーンパール、秋田二代目福治郎、ウメヤなど多数あります。
青印納豆は、その先駆けの一つだったということのようです。
青印納豆は添加物などは一切使っていませんでした。そのため、一番問題となるのは「納豆のイトの質が変化しやすい」ことでした。当時は納豆の粘り気を出すために「丈夫なイトがたつ添加物」入れていました。(中略) 青印ではこのような添加物は使わなかったのでこういった工夫をしていました。
2018.10.21)第二報のエントリーにコメントをいただきましたので紹介します。これもまた貴重な証言です。
僕が小中学生で函館に住んでいた頃、「高橋市次郎商店」のパッケージが「経木」の「青印電子なっと」、正方形の発泡スチロールに入った納豆が2個入りの「ペアー納豆」を朝飯て良く食べていました
本家の「青印食品」の納豆は殆ど食べてませんでした(青印食品には「ペアー納豆」と同じような商品で「アベック納豆」という商品がありました)
僕の中では納豆といえば「青印なっと」です
STVテレビの「青印電子なっと」のCMが懐かしいです
小学生位の女子の声で「青印の工場へ、行ってきました、とても綺麗な工場です、大好きです、青印の、電子なっと」
納豆売りのおじさんの声で「なっとなっとー♪」
電子納豆、アベック納豆などのヒットで函館の街に定着していった青印納豆ですが、当時は電気冷蔵庫の普及率が低く、季節によって販売量が大きく変わり、通年で納豆をつくり続けるのは難しかったのだと言います。
鍋のシーズンは「それじゃ、鍋に入れる材料を作りましょう」と言うことで「こんにゃく」「白滝」「モヤシ」を作りました。
これは「ところてん」を作るノウハウを応用できました。モヤシ作りは大豆の水中にうるかす技術を応用できました。それにモヤシの種の保管は大豆の保管と同じ技術でした。
全国的に見ても、納豆専業のメーカーが少ないのは、こういう所に原因があったのかもしれません。
たとえば、夏には全く納豆が売れなかったという戦前の仙台。
元祖仙臺納豆の高橋食品工業が、バナナの色付けを副業としていたというエピソードにも通じるものを感じます。
※画像は仙台高橋食品工業の弟子筋にあたる小岩久三郎商店の工場です。SATYの看板の下あたりが同社のバナナ室工場。シャッターの空いた向こうにバナナ室を見ることができます。
しかしながら、もともと新穀の大豆を年末に仕込んで冬の間食べ続けていたのが、本来の納豆の姿。
江戸期・明治期の報告では、東京では夏の方が売れると話題になったぐらいです。。
冬季の函館で納豆が売れなかったのは何故なんでしょう。
青印本店は夏には「ところてん」「煮豆」を製造しました。 この2つは納豆を作るラインをほとんど流用できました。さらに材料はなぜか大豆を扱う卸からも供給できました。
鍋のシーズンは「それじゃ、鍋に入れる材料を作りましょう」と言うことで「こんにゃく」「白滝」「モヤシ」を作りました。
これは「ところてん」を作るノウハウを応用できました。モヤシ作りは大豆の水中にうるかす技術を応用できました。それにモヤシの種の保管は大豆の保管と同じ技術でした。
全国的に見ても、納豆専業のメーカーが少ないのは、こういう所に原因があったのかもしれません。
たとえば、夏には全く納豆が売れなかったという戦前の仙台。
元祖仙臺納豆の高橋食品工業が、バナナの色付けを副業としていたというエピソードにも通じるものを感じます。
※画像は仙台高橋食品工業の弟子筋にあたる小岩久三郎商店の工場です。SATYの看板の下あたりが同社のバナナ室工場。シャッターの空いた向こうにバナナ室を見ることができます。
しかしながら、もともと新穀の大豆を年末に仕込んで冬の間食べ続けていたのが、本来の納豆の姿。
江戸期・明治期の報告では、東京では夏の方が売れると話題になったぐらいです。。
冬季の函館で納豆が売れなかったのは何故なんでしょう。
たとえば、1972年の日中国交回復と納豆の関係。
日本人好みに改良した品種が残っていた!
新しい知見です。
確かに、満州地区の大豆は本来油を搾るための大豆がほとんど。それが「油分が少なく」とありますので、地元消費向けの食用品種が残っていた説は確度が高そうです。
※戦前の満州国は世界最大の大豆生産国にして輸出国。大豆品種の開発や応用製品の研究は満州鉄道が一手に担っていたといいます。
北米産の大豆も元々は日本原産。そして、中国産の輸出大豆も日本が原産と言うことになるのでしょうか?
閑話休題。
中国産の大豆が出回ることで,輸入先の分散がはかれ原価が下がり品質も向上した納豆。生産額は毎年のように上昇していきます。
納豆作りで日中国交回復は非常に大きな意義がありました。 旧満州産の小粒の大豆が安価で大量に入ってました。旧満州の大豆は油分が少なく加工用に向いていました。(中略) なんでも、満州開拓に行った方のお話によると「戦前に日本人好みに品種改良した種がそのまま残っている」とおっしゃっていました。これによって「小粒納豆」の原価が大幅にさがり、しかも品質が大幅にアップしました。
日本人好みに改良した品種が残っていた!
新しい知見です。
確かに、満州地区の大豆は本来油を搾るための大豆がほとんど。それが「油分が少なく」とありますので、地元消費向けの食用品種が残っていた説は確度が高そうです。
※戦前の満州国は世界最大の大豆生産国にして輸出国。大豆品種の開発や応用製品の研究は満州鉄道が一手に担っていたといいます。
北米産の大豆も元々は日本原産。そして、中国産の輸出大豆も日本が原産と言うことになるのでしょうか?
閑話休題。
中国産の大豆が出回ることで,輸入先の分散がはかれ原価が下がり品質も向上した納豆。生産額は毎年のように上昇していきます。
1973年のオイルショック前後での納豆マーケットの変化も興味深いものです。
台頭するスーパーマーケットの当場とともに、業者として下風に置かれるようになった納豆製造業者。
ところがオイルショック後は、一転して品不足になり立場が逆転したと言うのです。
台頭するスーパーマーケットの当場とともに、業者として下風に置かれるようになった納豆製造業者。
ところがオイルショック後は、一転して品不足になり立場が逆転したと言うのです。
ところがオイルショックの後は品不足のためスーパー側から納豆を工場まで取りにくるようになりました。そのため、立場が逆転してスーパーの店長が本社を訪れて頭を下げる光景がとっても印象的でした。この頃が地方の中小納豆メーカーの最盛期だったという証言も興味深いものです。
そして、いよいよナショナルブランドの波が北海道を襲う日がやってきます。
納豆先進国にして、納豆独立王国だった北海道が開国を迫られる日がやってきたようです。
PC管理の生産ラインが「多品種少量生産」を可能にして大手が地方へ進出しました。ある会社は傘下にそしてある会社は廃業と追い込まれました。全国チェーンのGMSが全国共通の商品を求め、それに応える形で全国に生産ネットワークを広げてきたナショナルブランドのメーカー。
納豆先進国にして、納豆独立王国だった北海道が開国を迫られる日がやってきたようです。
経木入りは手間もかかるし、ごまかしもできない。利益も少ないが本来の味がでる。
今日は高橋一氏が残された言葉をいくつか。。。
市議会議員をしていた時、函館には貧しい人がたくさんいた。 視察で、ある子供に『何を食べたいか?』と尋ねた時に『腹いっぱい納豆ご飯を食べてみたい』と答えた。自分の家も貧しかったので自分の子供時代とオーバーラップした。こういった子供たちが毎日食べられるように安い値段の経木入りの納豆だけは残したかった
青印納豆では、自動発酵室を導入した後も、経木納豆だけは炭火製法で製造していたのだと言います。
しかも、昔ながらの人が尽きっきりになる製法で作っていたのだと。
戦前・戦後の頃、納豆製造を始めた方には、栄養豊富で安価な納豆を食卓に供給しなければいけないという使命感を持つ方が多いように感じます。
今でいうところの「ソーシャルアントレプレナー」ってやつでしょうか。
そして、
高橋一氏にとっては、経木納豆こそが本物の納豆だという思い入れがあったのでしょう。
すてきなことです。
もう一つだけ、高橋一氏の言葉を。
地の文が混じっているので、ちょっと読みにくいかもしれませんがお許しください。
生前、「なぜ、市議会議員になったのか?」と聞いたことがありました。すると一氏は「小学校の学芸会でリンカーンの役をやった。非常に立派な人物だったので担任の先生に『ニッポンでリンカーンに一番近い職業は何ですか?』と聞いたら先生は迷わず『村議会議員ですよ』と答えたそうです。そこで小学校の時からいつかは市議会議員になって世の中のためにがんばろう」と思ったそうです。
明治日本の息づかいが聞こえてきませんか。
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昔は納豆嫌いだったが今は好物になった。