Ｔ−７２Ｊ改 ｉｎ ａｃｔｉｏｎ
Ｔ−７２Ｊ改 ｉｎ ａｃｔｉｏｎ
砂漠に雪が降る。
私は奇跡のような光景を見ている。
はらはらと舞い降りる雪。真っ白な氷の結晶。私は空を見上げて、呆然とそれを見ていた。
頬に冷たいものを感じる。痛みにも似た冷気。頬におちた雪が体温で解ける。あとに残るのは砂埃の混ざった水滴だけだった。
「イェミァ、どうした？」
イラク陸軍、サハフ中尉が不思議そうに言った。
戦闘服の上に防寒ポンチョを着込み、ニットの帽子を被っていた。全て砂漠迷彩付き。完全防寒装備だった。砂漠で防寒装備というのもおかしな話だった。砂漠は放射冷却で意外にも冷えるものだが、そこまでの装備が必要になることはない。
何度訂正しても微妙に名前の発音を間違えるサハフに私は言った。
「どうしたって、驚かないのか？砂漠に雪が降っているんだぞ？」
「今日は風が強いからね。雲が流されてきたんだろう」
何てことないようにサハフは言う。
毎年のことさ、とも言った。
「知らなかったよ。イラクでも雪が降ることがあるんだな」
砂漠と雪というのはあまりにもありえない取り合わせだった。
しかし今や砂色の砂漠は真っ白な雪原に変わろうとしている。１２月だった。故郷の九州、宮崎ならまだまだ半袖だ。もちろん宮崎にも雪が降ることもある。年十年に１回、奇跡のような確率で。
「北の方はもっと降るよ。そんなに驚くようなことか？」
「ああ、全く驚きだ。人生とはなんと驚きに満ちているのだろうか」
ため息をつく。もう半年も日本に戻っていない。初雪をイラクで見るとは思っていなかった。早くも１２月も終わろうとしている。年末、年始。そしてクリスマスだった。
神を信じない社会主義者の国でもクリスマスは存在する。主に経済的な要求のためだ。企業が始めたイベントが一般化した例は日本では数多い。クリスマスはその典型的なパターンだった。１月１日に新年を祝い、１月７日にクリスマスで締める。もちろん、その間は全て休日だ。
１月７日のクリスマスは戦後に入ってきたロシア正教の影響によるものだ。ロシア正教のクリスマスを新暦に直すと１月７日になる。新年の門松は三賀日を過ぎると撤去され、クリスマス用のヨールカとマロース人形が街中にあふれる。最近はイルミネーションに凝っているものが多い。
クリスマスは企業の経済活動の一環であると党も公式に認めている。別に誰も磔獄門にされたユダヤ人教祖の誕生日を祝っているわけではない。
しかし、そのことを説明してもサハフは理解しないだろうと思った。彼は敬虔なイスラム教徒だった。一日６回メッカに向かって礼拝する。
半年ほど墓参りをサボっている私とは大違いだ。
彼を見ていると自分がとてつもない不信仰者である気がしてくる。
「ところでイェミァ。雪見をしているところですまないが、ちょっと来てくれないか。また、エンジンがかからん」
「またか、オイルに砂でも入ったかな」
「分からん。バッテリーかもしれん」
サハフがそう言うのなら、それなりに下調べはしてあるのだろう。私はそう思った。それが他の大抵のイラク軍人と彼の異なる点だ。緻密で思慮深い。それを支える経験もある。ようするにベテランということだった。
彼はフセイン時代に大統領警護隊でＴ−７２に乗っていた精兵だ。イラク戦争末期の絶望的な状況下でも乗車をやられずに終戦を迎えている。もちろん逃げ回っていたばかりではない。戦闘も経験している。戦車ではないが、ブラッドレー３両を喰っている。
そして、政権崩壊後も軍に残った生粋の軍人だった。バース党員でないというのがその理由だった。しかし、私は違うと思う。アメリカ人も彼のような生粋の軍人を放逐するほど馬鹿ではなかったのだ。
並んで歩きながら、私とサハフは近況を語りあった。
「イェミァ。家族から手紙が届いたそうだが、家族は息災か？」
白く息を凍らせながらサハフは言った。
いよいよ冷えてきた。宮崎生まれの九州男児には厳しい気温だ。
「元気にしているよ。仕事も順調らしい。先月、トムキャットを空撮したそうだ。写真をいっしょに送ってきた。あとで見せてやるよ」
「トムキャット？」
「イランの戦闘機だ。俺も詳しくはしらん。海軍の話だ」
腹違いの妹はアラビア海で空母に乗っている。一番上の姉も腹違いだ。そっちは本土で戦闘機部隊にいる。
妹や姉とは面識はない。しかし、手紙のやりとりだけはなぜか続いていた。もう２０年近くになる。
多情な父親をもつと子供が苦労する。幸いなことは、情と同じ程度に金を持っていたことだろう。寂しいが不自由な思いをしたことはなかった。
奇怪で複雑な家庭事情。しかし、一夫多妻のイスラム圏ではどうという話ではなかった。文化の違いという奴だ。サハフも本妻の他に家庭を持っている。祖国では奇異の目で見られる腹違いの兄妹も、ここではありふれた話だ。
「海軍はいい。空母の甲板でプールを作って水遊びができるらしい」
「そうなのか。だったら、どうして海軍に入らなかったんだ？」
「船酔いが酷くてね」
「船酔い？」
サハフは不思議そうに言った。彼は海を見たことがない。
内陸のイラク北部に海はない。
「知らないのなら、一生知らない方がいい。船酔いするぐらいなら死んだほうがマシだ」
「そうか。だったら、俺は一生船には乗らないことにするよ。俺は戦車だけで十分だ」
サハフは誇らしげに車庫に鎮座した愛車を見上げた。
Ｔ−７２、アサド・バビロン。バビロンの獅子。Ｔ−７２のライセンス生産モデル。これはその改良型だった。改修は日本の某重工が請け負っている。今はＴ−７２Ｊ改というべきかもしれない。
Ｔ−７２Ｊ改は戦後第２世代の属するＴ−７２を第３世代相当に改修したものだ。複合装甲の追加とレーザー測距器とデジタル式射撃管制装置の装備、赤外線暗視装備や高度な環境センサー、アクティブ式対戦車ミサイル防御装備も施されている。改修というよりは作り直しに近い。砲塔は新造して乗せ変えてある。ティーガ−�気里茲Δ平眥樵�甲の新砲塔は電子装備と複合装甲の塊だ。ＲＰＧ対策に弁当箱（爆発反応装甲）を可能な限り貼り付けてある。エンジンも日本製の１２００馬力の水冷ディーゼルエンジンに換装。高度な夜間戦闘、行進間射撃、その他諸々、西側第３世代型戦車に可能な全ての戦闘行動をＴ−７２Ｊ改は可能としている。
性能はＴ−７２の改修型の本家であるＴ−９０を全ての面で凌駕しているとされている。射撃管制に関しては、ひょっとするとアメリカ軍のＭ１Ａ２を超えているかもしれない。
人民陸軍は保有する１５００両のＴ−７２Ｊは全てこの規格に改修済みだ。
そこまでするなら、いっそ新しい戦車を作った方が早い。そう思えるほどの徹底した改造だった。装備の追加は珍しくないが、砲塔そのものを新造して乗せかえているのは日本ぐらいものだ。
では、それだけの技術力があるのになぜ戦車を国産しないのか？
政治以外の何者でもない。
「とりあえず、基本からチェックしてみよう。まずはプラグだ」
待っていたイラク人の整備兵に指示を出す。
私の仕事は彼らにＴ−７２Ｊ改の運用ノウハウを伝授することだった。国連決議に基づくイラク復興計画の一環。イラクの国防、治安維持部隊の再建は愁眉の課題だ。フセイン時代のＴ−７２を近代化改修もそのうちに入る。
Ｔ−７２Ｊ改のような改造戦車を作ることは悪いことばかりではなかった。おかげでこうした近代化改修事業が転がりこんできたりもする。世界で２万両が配備されたＴ−７２の近代化改修は大きなマーケットだ。最近では、インドから依頼が来たりする。
Ｔ−７２の近代化改修は欧州諸国や本家ロシアでも提案されていた。本家のＴ−９０やウクライナのＴ−７２ＭＰ、ポーランドのＰＴ−９１等だ。どれもＴ−７２Ｊ改ほどの性能向上は期待できない。しかし、その分だけ安価だ。独立したばかりのイラクにとってもそちらの方がよほど財布にやさしい。
では、なぜそうならないのか？
政治以外の何者でもない。
日本はイギリス次ぐ規模の治安維持部隊をイラクに持ち込んでいた。政治的な発言力はそれに比例している。
こうした国益確保のための海外派兵はソビエト崩壊後に急増していた。
１９４９年に日本共和国がソビエトから独立を果たしたとき、日本には警察官のピストル以上の火器は存在しなかった。
なぜならば、共和国憲法９条は明確に一切の軍事力保有を禁止していたからだ。よってその国防は駐日ソビエト軍に委託され、自前の軍事力を持たない日本を保護するために北海道はソビエト連邦に割譲された上で広大な軍事基地が建設された。
日本人は一切の武器を捨て、理想的な平和主義国家に生まれ変わったのである。
国内の反戦平和主義者はこの日ソ関係を世界恒久平和のモデルとして喧伝した。来るべき新世界においては、全ての労働者は解放され、武器を放棄して永遠の平和を得る。そうした与太話が立法府において真剣に議論されたのが１９４９年の日本共和国だった。
そうした平和主義国家路線が覆ったのは、それから１年後のことだった。
中華動乱の幕開けである。
日帝が満州に作り上げた工業地帯と帝国陸海軍から没収した兵器を供与された中国共産党は急速に勢力を回復した。そして１９５０年には電撃的な進撃により蒋介石の国民党軍を敗走させ、北京を解放することに成功する。
毛沢東国家主席が北京で独立を宣言したとき、誰もが半年以内に中国大陸は赤い中国人によって解放されると信じた。
それが誤りであったことは歴史が証明しているところである。
アメリカ合衆国の介入により、人民解放軍の進撃は阻止された。それどころか、上海上陸作戦により人民解放軍は後方を遮断され南北から包囲されて壊滅状態に陥った。解放されたばかりの南京も悪辣な資本主義者の手によって再び占領されたのである。人民解放軍は組織的な戦闘能力を喪失し、アメリカ軍は黄河を渡河して満州まで足を伸ばした。
こうした事態を受けて、ソビエトは義勇軍の派兵を決定した。強力なアメリカ軍に対抗するために精鋭部隊が送られることになった。そして、この時極東で最良の装備を有するエリート部隊は全て日本にいた。輸送船で中国大陸に送られた駐日ソビエト軍はアメリカ軍を押し戻し、北京を奪回することに成功した。
その結果として、日本本土の守りは０となった。台湾に落ち延びた大日本帝国残党勢力による沖縄上陸が現実のものとなったのはその直後だった。
幸いなことに日帝の残党勢力は規模も小さく、ソビエト太平洋艦隊が急派されたことで上陸は失敗に終わった。しかし、国防のために自前の軍事力整備が必要であることはもはや明らかだった。なぜならば沖縄上陸作戦阻止に投入されたソビエト太平洋艦隊はアメリカ海軍空母機動部隊に捕捉され全滅したからだ。アメリカ軍がこの時沖縄に上陸していれば、沖縄喪失は避けられなかったとされている。
しかし、アメリカ軍は中華大陸での戦闘だけで精一杯であり、アメリカ軍が沖縄に上陸することはなかった。それでも南方諸島の幾つかは日帝残党勢力に奪われている。
また、ソビエト太平洋艦隊の根拠地となっていた横須賀、呉、佐世保は米空母機動部隊により大規模な爆撃を受けた。この時、対空砲火等による反撃は一切なかった。日本政府はこれらの都市が無防備都市宣言をすることを認め、駐日ソビエト軍を撤収させていたからだ。
一切の軍事力を放棄した日本にとって空母１２隻、艦載機１０００機を誇る米空母機動部隊を相手にできることは無防備都市宣言ぐらいなものだった。しかしそれもアメリカに無視されて打つ手は完全になくなった。この時、日本は国家そのものが無防備だった。
ソビエトの承認を受けて日本が再軍備を宣言したのは、ソビエト軍が全面的な壊走に移った１９５３年１月のことだった。その２ヶ月後には上海に世界初のＩＲＢＭによる原爆攻撃が行われ、その報復にＢ−２９が６発の原爆を満州主要都市に投下した。中華人民共和国は首脳部が被爆して壊滅、国家機能そのものが崩壊した。
スターリンはさらなる報復攻撃を考えていたとされるが、それが現実のものとなる前に病死（暗殺の疑いがある）した。停戦協定が結ばれるのはそれから３ヶ月後のことである。
中華動乱が終結しても日本の再軍備が止まることはなかった。黄河を挟んで米ソは直接対峙することとなり、駐日ソビエト軍は中華大陸に駐留することになったからだ。ソビエト連邦は日本が自前の軍事力を整備することでアメリカに側面から脅威を与えることに期待していた。そのためには経済的、軍事的な援助を与える覚悟さえしていた。
日本の再軍備において、もっとも整備が急がれたのは陸軍だった。陸軍こそ全ての軍隊の基礎であり、国防の根幹であるからだ。よって急速な再建のために旧軍の将校が多数登用された。海軍が徹底して旧軍の関係を排除して再建されたのとは対象的に、陸軍は旧軍の伝統を色濃く引き継いでいる。
しかし、装備は全てソビエト式であり、戦術もソビエト式に改められている。それはライフル銃から被服、階級章にいたるまで全てソビエト式にする徹底したものだ。
人民陸軍は基本的に防衛用陸軍として再建された。総勢で１８個師団。そのうち戦車師団３個、残りは自動車化狙撃兵師団だった。いずれも完全機械化部隊。この他に２個空挺師団が存在する。空挺師団は古典的な空挺部隊とヘリコプターを使った空中機動部隊が１個ずつである。他に独立戦車旅団、独立砲兵旅団、独立対戦車旅団、独立高射砲旅団、地対空ミサイル旅団や、地対地ロケット旅団、地対艦ミサイル旅団、スペツナズ旅団等の支援部隊が存在する。
総兵力４５万。アメリカ軍の本土上陸が現実の問題として語られていたとき、日本人がロシア人の助言を得て作った鉄壁の守りだった。
Ｔ−７２はその鉄壁も守りを誇る人民陸軍が装備した３番目の戦車だった。中華動乱で大量生産され、戦後に余剰が発生したＴ−３４／８５、その後を継いで量産されたＴ−５５、その両者を統合して更新するためにＴ−７２がライセンス生産された。
より強力なＴ−８０という選択肢があったものの、ガスタービンエンジンの信頼性の低さから採用は見送られている。パワーパックが小さく纏められたＴ−８０に国産の水冷Ｖ型ディーゼルエンジンを組み込むことができないというのもネックだった。
その点において、既存の技術を活用して作られたＴ−７２はシンプルな設計が幸いして改造の許容度が大きく有利だった。
とはいえ、戦後第２世代型のＴ−７２を２１世紀にもなって第１線戦力として使い続けるのはいくらか無理があった。
「いい戦車なんだが、いかんせん古くてな」
エアフィルターを交換しながら、サハフは言った。
「いろんなところにガタが来ている。イェミァ、君の国ではどうなんだい？」
「同じだ。エンジンやＦＣＳを換装しても、それ以外は変わらないからな。あちこち無理がある。足回りが特に酷い」
欠伸をかみ殺しながら私は答えた。
エンジントラブルの原因は、電気系統の故障が原因だった。Ｔ−７２Ｊ改はエンジンを国産品の１２００馬力水冷Ｖ型１０気筒ディーゼルに換装していた。しかし、その周りの配線までは交換されていなかった。その一部が劣化して短絡を起こす。そしてエンジンの電子部品が焼ききれてしまう。それが事の顛末だった。
真相究明に一晩かかった。もう夜明けが近い。
「サハフ。あとはやっておくから、もう休んでろよ」
「そういうわけにはいかないさ。大尉殿」
サハフはラフな敬礼を返す。
こんな時だけ階級を持ち出すのはズルイ。私はそう思った。階級はこちらが１つ上だ。しかし、年齢は一回り下だった。
しかし、ありがたかった。一人ではそれなりに骨が折れる作業だったからだ。戦車のエアフィルターはエアコンのフィルターのような生易しいものではない。
エアフィルターの交換には１時間かかった。
二人で整備の終わったＴ−７２を見上げる。
「あとはエンジンをかけるだけだが、明日にしておくか」
「そうだな。可愛い部下を叩き起こすのは気がひける」
私は耳を疑った。
「本気で言っているのか？」
「本気だとも。毎日、泣いたり笑ったりできなくなるほど可愛がっているじゃないか？」
サハフの愛情表現は特殊だ。私はそう思った。
「俺の部屋で一杯やっていこうぜ」
どこで覚えたのか、サハフは親指と人差し指で輪を作って傾けた。
お猪口のつもりらしい。
しかし、ここはイスラム教の国だ。アルコールは公式には存在しない。厳密には全くないわけではない。あるにはある。倉庫の隅に戦車用の工業用エチルアルコールのタンクが。
ロシア人でもあれだけは手を出さない。
「どうせコーラだろ？」
「当然だ。ここをどこだと思っている」
「イラクだ」
爆発音。
同時に明かりが落ちた。もちろん消灯時間ではない。
カタカタとシャッターが震えた。続いて乾いた銃声が響く。聴きなれたアフトマートの射撃音。ＡＫ−４７とＭ−１６｡７.６２ｍｍと５.５６ｍｍの連奏。
警報が鳴る。静まり返っていた基地の空気は騒然とした。
「クソ！戦闘配置だ」
壁に立てかけたライフルを手に取る。
日本から持ち込んだＡＫ−７４Ｊ。オリジナルとの違いは２脚の有無だった。ＡＫに幾らかでも命中精度を求めた涙ぐましい努力。一応、それなりに報われている。オリジナルよりも高い精度で組まれた日本製のＡＫ−７４はカラシニコフらしからぬ命中精度で知られている。海外にもそれなりに輸出されていた。
チェンバーを開き、初弾を送り込む。滑らかな金属音。オイルを吸った金属の音。
口の中にアドレナリンの味が広がる。
「おい、イェミァ。どこへ行くんだ？」
サハフは首を傾げて言った。
こちらが首を傾げたい気分になった。
「決まっているだろう。戦闘配置だ」
「だったら、わざわざ歩いていくこともあるまい？俺たちは戦車兵だぞ？少し落ち着け」
「・・・・そうだった」
少し動揺していたらしい。
言い訳はしない。しかし、基地が襲撃されるのは久しぶりだったのだ。
サハフは落ち着き払っていた。ベテランは違う。私はそう思った。戦慣れしている。
「燃料はあるか？」
「ライター分だが保つだろう。問題は弾がないことだ。演習弾が３発。でも、脅しにはなると思う」
「それだけあれば十分だ」
サハフがエンジンをかける。
水冷１０気筒Ｖ型ターボチャージドディーゼルが唸る。どす黒い排気を吐き出す。冷たい砂漠の空気を汚す。修理したばかりのエンジンは軽快そのものだ。音で分かる。
サハフがアクセルを踏み込む。回転数が上がる。油圧と電圧が定格は定格を示している。冷却水の温度も問題のない範囲。空吹かしを繰り返す。反応を確かめる。自分の手足が思うとおりに動くかどうかチェックする。本当なら、エンジン始動５分前に燃料供給システムを作動させなければならかった。しかし、その時間はなかった。それでも最新のデジタル制御を取り入れた国産ディーゼルは問題なく回っている。大したものだった。
エンジンがかかったので電気系統が蘇る。Ｔ−７２の砲塔旋回機構は電動式だ。電源が落ちた場合は手動旋回が可能だ。しかし、それが現実的に意味があるかどうかは別の問題だった。軍法会議の幾つかの判例は、その場合、乗車を捨てても罪に問われないことを示している。
「サハフ。戦車長は君がやれよ」
「遠慮しておくよ。君が上官なんだ。お手並み拝見といくさ」
私は肩をすくめた。
そう言われてしまっては返す言葉はない。
「味方を轢かないように気をつけろ」
「イェミァ。君の国ではそういうのを釈迦にテッポウと言うんじゃなかったか？」
「それを言うなら鉄砲ではなく、説法だ」
仏を撃ち殺してどうする。いや、問題はそこではない。
私は諦めて覚悟を決めた。銃声はますます激しくなっている。問答をしている時間はない。通信機のスイッチを入れる。マイクは咽頭式だ。
咽元の集音マイクを押えて私は言った。
「戦車、前へ！」
トルク・コンヴァータ付き自動変速機がギアとシャフトを介してエンジンのパワーを起動輪に伝達する。
金属音を上げて履帯が砂を踏みしめる。無限軌道が前に向かって回りだす。
サハフは暗闇でも巧みに障害物を避けてＴ−７２を前進させた。乗用車のようにＴ−７２を軽々と操る。ベテランの技と操向装置の改良がそれを可能としていた。
Ｔ−７２Ｊ改の操向装置はハイドロスタティック式。バイクのハンドルに似たバーハンドルで操縦する。変速機のＡＴ化と操向装置の自動化はＴ−３４と同レベルだったＴ−７２の操縦性を劇的に改善した。
素人でも運転できる。そう陰口をたたかれるほどに。
さらに砲塔上部に装備されたサマールサイトが夜を真昼に変えていた。サマールサイトとは熱線画像装置のことだ。雑多な赤外線をコンピューター処理して精密な画像を取り出すこの装備は西側でも装備している実車は多くない。Ｔ−７２Ｊ改はこれに火器管制装置とレーザー照準器を組み合わせて、自動追尾照準機能を持たせている。２０００ｍ先の移動目標を行進間射撃でしとめる程度の能力だ。
「１６年前にこれがあればな」
唐突にサハフは言った。
「何がだ？」
「この暗視装置だ。あるいは、この戦車そのものかもしれん。こいつが１５年前にあれば、ヤンキーに負けたりしなかっただろう」
「湾岸戦争か」
「そうだ。君たちはそう呼んでいる」
湾岸戦争におけるＴ−７２の惨敗はもはや伝説に近い。
Ｔ−７２を１５００両も装備していた人民陸軍はパニックを起こしたほどだ。その混乱と恐怖がＴ−７２Ｊ改を生み出したと言えた。
人民陸軍の狼狽ぶりは今でも古株の間では語り草になっている。そして、Ｔ−７２が非公式にチハと呼ばれ始めたのものこの頃だ。
帝国陸軍の９７式中戦車、通称チハの弱さは日本戦車兵にとっては忘れられない黒歴史だ。
Ｔ−３４とチハが対戦した場合、チハの撃破率は２００％とされている。１両目を貫通した徹甲弾が、２両目のチハを撃破するからだ。他にも悪評は数多い。日本が生んだ２０世紀最高のプロレタリア文学者は旧軍将校時代に搭乗したチハを「憂鬱な乗り物」とこき下ろし、「やわらか戦車」と罵倒した。
「エイブラムズは真夜中でも２０００ｍ先からＴ−７２の前面装甲を抜いてきた。あの時どうして死ななかったのか不思議で仕方がない」
「そうかな？」
「ああ、あの時の私は右も左も分からない新兵だった。運が良かったとしか思えない。みんな良い奴から死んでいったよ」
サハフの声は鎮痛な響きだった。らしくないことだった。
「そうだとすると、今生きている俺もあんたも下らない人間ってことになるぜ」
私はサマールサイトで周囲を警戒しながら言った。
一度車長席につくと心に余裕が生まれた。不思議な話だった。しかし、緊張感と心のゆとりは必ずしも相反するものではない。ベテランの場合は特にそうだ。
その余裕をどう使うかは人に因る。ベテランに共通しているのは余所見をしないことぐらいだ。
私とサハフはその余裕をお喋りに使った。ストレスを溜めないためだ。軍医も軽口が精神衛生に齎す劇的な薬効を認めている。認めさせている。
「茶化しているのか」
「そうじゃない。ただ、俺はあんたが単に運がいいだけの人間じゃないと思っているだけさ。深く悩むなよ。全てはアラーの思し召しのままに。インシャラー。いつだってそうだろう？」
サハフは苦笑したらしかった。
「異教徒にアラーの教えを諭されるとは思わなかった」
「俺は無神論者なんだが」
だからといって共産主義者というわけでもなかったが。
「今からでも遅くない改宗したまえ」
「無理だ。日本人とロシア人に禁酒の教えは流行らんよ」
「嘆かわしいことだ。酒の害悪に精神まで毒されているとみえる」
「ウォッカが飲めなくなるなら、ロシア人は死を選ぶだろうよ。日本から居酒屋がなくなったら、日本経済は崩壊するだろうな」
「大袈裟な」
「いや、ほんとだって」
戦場音楽が近づいていた。
珍しいことだ。ゲリラ戦の基本は一撃離脱。奇襲して逃走することが殆どだ。長期戦はゲリラには向いていない。時間は常に物量に優れた者を味方する。
サマールサイトに映る戦場は白いマズルフラッシュが咲き乱れていた。敵味方の曳航弾の煌き。闇の中で交差する。グリーンの曳航火は米軍の５.５６ｍｍ弾だ。オレンジはＡＫ−４７の７.６２ｍｍ弾。嗅ぎなれたコルダイト臭いがフィルターを貫いて車内に香る。
ゲリラは要塞のように土嚢を積み上げた営門に激しく銃撃を加えていた。営門からも同程度の銃撃が飛ぶ。形勢はやや優位。ゲリラは市街地に隠れて容易に姿を見せない。それは味方も同じだ。べトンと土嚢で固めた営門はＲＰＧでは抜けない。
「どうする？」
「投光器で脅かしてやろう」
私は投光器のスイッチを入れる。
戦闘では殆ど使い道のない装備。アクティブ式の赤外線投光器から赤外線フィルターを外したものだ。これは原型のＴ−７２から流用した装備。真夜中に３００ｍ離れたところで本が読めるほど。しかし、暗視装置が発達した現代でこれを使うのは自殺行為だ。作動させた瞬間、ＡＰＦＳＤＳや対戦車ミサイルが飛んでくる。
しかし、脅しには使えると踏んだ。
投光器の強烈な光がゲリラを闇から炙り出す。直射すると目をやられるほどの光。一瞬だけ銃撃が止んだ。
一拍おいて、シャワーのように銃撃が降り注ぐ。車体を軽くノックする程度の打撃。戦場において戦車にはあらゆる火器が集中する。意味があってもなくても。
これはその典型的なパターンだった。
その分だけ営門への攻撃が減る。火力は分散される。
こんなとき恐ろしいのはＲＰＧだ。しかし、サハフは車体を巧妙に建物の影に隠していた。暴露している砲塔は正面を向いていた。新砲塔の正面装甲は複合装甲だ。ＨＥＡＴでは抜けない。
私は舌を巻いた。サハフは当然のように安全地帯に乗車を布陣させていた。やはりベテランは違う。単に運がいいだけの男ではない。
特徴的な発射炎が瞬く。ＲＰＧのバックブラスト。しかし、発射寸前に銃撃の嵐が襲った。射手はもんどりうって倒れる。ＲＰＧの弾頭は明後日の方向へ飛んでいく。その方向には奴らの仲間がいた。爆圧で派手に人間や、人間だったものが吹き飛ぶ。熱を拾うサマールサイトは高温で焦げた人体を克明に描写する。
嘔吐を催す悲惨な光景。しかし、口から出たのは喝采の叫びだった。
「いいじゃないか！」
「そうでもないぞ。２時方向！」
サハフが叫んだ。
私はサマールサイトを旋回させた。２時方向。熱線画像が写すモノクロの風景。見慣れた営門前の町並みは闇の中に沈んでいた。その中を駆ける一台のトラック。ヘッドライトは点いていない。無灯火運転。トラックの荷台には見慣れたロゴマーク。子猫を咥えた黒猫のロゴ。日本で有名な宅配業者だった。イラクに輸出された中古車だ。それが砂埃を上げて疾駆している。何かを急ぐように。
こんな時間にどうして？
答えはすぐさま出た。１つしかありえない。
神風攻撃だ。半世紀ほど前に日本人が発明した究極の精密誘導兵器。迎撃、阻止はきわめて困難なことで知られている。最近はイスラム原理主義者が多用していた。
私はレーザー測距器のスイッチを入れた。サマールサイトを使いトラックをレーザーでロックオン。電動サーボが作動。砲塔が旋回した。砲口が目標を捉える。全て完全自動制御。サマールサイトに攻撃諸源が出る。敵速は８０ｋｍ／ｈ以上。砲塔が高レート旋回を続ける。目標を捉え続ける。
セトセカ自動装填装置が弾薬を揚げる。演習弾、続いて装薬。ラマーが薬室に砲弾を込める。赤ランプが点灯。装填完了を示す。
「オブイェークト」
口の中で小さく呟く。心の中で十字を切る。発射前の儀式。祖国に仇なす者を地獄の火の中に投げ込む殺戮の死神に祈りをささげる。
発射ペダルを踏み込む。
Ｔ−７２Ｊ改、発砲。
砲声は音よりも衝撃波に近い。砲声が砂と雪を吹き払う。演習弾は秒速１６００ｍまで加速。０.３秒で目標に直撃した。爆発はしない。演習弾だからだ。爆薬は充填されていない。しかし、それでも十分だった。演習弾は運転席を直撃していたからだ。
トラックが横転する。大爆発を起こした。荷台に詰まれた爆発物が内側からトラックを粉々にした。
爆音が近かった。遮蔽されたはずの戦車の中まで音響を届かせる。
ハッチを跳ね上げる。私は顔だけだして外の様子を伺った。
炎上するトラックの破片が散乱していた。重油かガソリンでも積んでいたらしい。辺りは火の海だった。
今更に血の気がひく。危ないところだった。直撃していたら、営門は粉々だった。
おそらくあのトラックの運転手は、自分に何が起こったか分からないままに即死したことだろう。
「イェミァ。怪我人を包帯所まで運ぶ。手を貸してくれ」
「分かった」
既に銃撃は止んでいた。代わってうめき声が夜のしじまに響く。あとは炎が爆ぜる音。何かが燃える音。遠くに犬の吠える声が聞こえる。パトカーのサイレンの音も聞こえる。騒然とした夜。しかし、思ったほど煩くは感じなかった。雪が降っているせいだろう。私はそう思った。
私はサハフに手を貸しながら私は言った。
「発砲する直前、あのトラックの運転手がこちらを見ていた気がする」
「だからどうした」
折りたたみ式の担架を下ろしながらサハフは言った。
「奴は何を考えたいたんだろうな」
「天国で２４人の処女に囲まれて幸せに暮らす夢だろう。アラーアクバル。神は偉大なり。悪魔の米帝に死の制裁をとか、そんなところだ」
「茶化しているのか」
「そうじゃない。好き好んで死にたがる人間の気持ちなんて分からないということさ」
サハフはさばさばとしたものだった。
「辛いなら故郷に帰ったらどうだ」
「平気だよ」
「君がうらやましい。君には帰るべき場所がある。だが、俺の故郷はここにしかないんだ。俺の帰るべき場所はここだけなんだ」
サハフは泣いているのかもしれない。私はそう思った。
ちらちらと雪が降る。空気は酷く冷えていた。黄色い砂の上に白い雪が降る。
１２月、冬。イラクの春は遠い。
続く？
砂漠に雪が降る。
私は奇跡のような光景を見ている。
はらはらと舞い降りる雪。真っ白な氷の結晶。私は空を見上げて、呆然とそれを見ていた。
頬に冷たいものを感じる。痛みにも似た冷気。頬におちた雪が体温で解ける。あとに残るのは砂埃の混ざった水滴だけだった。
「イェミァ、どうした？」
イラク陸軍、サハフ中尉が不思議そうに言った。
戦闘服の上に防寒ポンチョを着込み、ニットの帽子を被っていた。全て砂漠迷彩付き。完全防寒装備だった。砂漠で防寒装備というのもおかしな話だった。砂漠は放射冷却で意外にも冷えるものだが、そこまでの装備が必要になることはない。
何度訂正しても微妙に名前の発音を間違えるサハフに私は言った。
「どうしたって、驚かないのか？砂漠に雪が降っているんだぞ？」
「今日は風が強いからね。雲が流されてきたんだろう」
何てことないようにサハフは言う。
毎年のことさ、とも言った。
「知らなかったよ。イラクでも雪が降ることがあるんだな」
砂漠と雪というのはあまりにもありえない取り合わせだった。
しかし今や砂色の砂漠は真っ白な雪原に変わろうとしている。１２月だった。故郷の九州、宮崎ならまだまだ半袖だ。もちろん宮崎にも雪が降ることもある。年十年に１回、奇跡のような確率で。
「北の方はもっと降るよ。そんなに驚くようなことか？」
「ああ、全く驚きだ。人生とはなんと驚きに満ちているのだろうか」
ため息をつく。もう半年も日本に戻っていない。初雪をイラクで見るとは思っていなかった。早くも１２月も終わろうとしている。年末、年始。そしてクリスマスだった。
神を信じない社会主義者の国でもクリスマスは存在する。主に経済的な要求のためだ。企業が始めたイベントが一般化した例は日本では数多い。クリスマスはその典型的なパターンだった。１月１日に新年を祝い、１月７日にクリスマスで締める。もちろん、その間は全て休日だ。
１月７日のクリスマスは戦後に入ってきたロシア正教の影響によるものだ。ロシア正教のクリスマスを新暦に直すと１月７日になる。新年の門松は三賀日を過ぎると撤去され、クリスマス用のヨールカとマロース人形が街中にあふれる。最近はイルミネーションに凝っているものが多い。
クリスマスは企業の経済活動の一環であると党も公式に認めている。別に誰も磔獄門にされたユダヤ人教祖の誕生日を祝っているわけではない。
しかし、そのことを説明してもサハフは理解しないだろうと思った。彼は敬虔なイスラム教徒だった。一日６回メッカに向かって礼拝する。
半年ほど墓参りをサボっている私とは大違いだ。
彼を見ていると自分がとてつもない不信仰者である気がしてくる。
「ところでイェミァ。雪見をしているところですまないが、ちょっと来てくれないか。また、エンジンがかからん」
「またか、オイルに砂でも入ったかな」
「分からん。バッテリーかもしれん」
サハフがそう言うのなら、それなりに下調べはしてあるのだろう。私はそう思った。それが他の大抵のイラク軍人と彼の異なる点だ。緻密で思慮深い。それを支える経験もある。ようするにベテランということだった。
彼はフセイン時代に大統領警護隊でＴ−７２に乗っていた精兵だ。イラク戦争末期の絶望的な状況下でも乗車をやられずに終戦を迎えている。もちろん逃げ回っていたばかりではない。戦闘も経験している。戦車ではないが、ブラッドレー３両を喰っている。
そして、政権崩壊後も軍に残った生粋の軍人だった。バース党員でないというのがその理由だった。しかし、私は違うと思う。アメリカ人も彼のような生粋の軍人を放逐するほど馬鹿ではなかったのだ。
並んで歩きながら、私とサハフは近況を語りあった。
「イェミァ。家族から手紙が届いたそうだが、家族は息災か？」
白く息を凍らせながらサハフは言った。
いよいよ冷えてきた。宮崎生まれの九州男児には厳しい気温だ。
「元気にしているよ。仕事も順調らしい。先月、トムキャットを空撮したそうだ。写真をいっしょに送ってきた。あとで見せてやるよ」
「トムキャット？」
「イランの戦闘機だ。俺も詳しくはしらん。海軍の話だ」
腹違いの妹はアラビア海で空母に乗っている。一番上の姉も腹違いだ。そっちは本土で戦闘機部隊にいる。
妹や姉とは面識はない。しかし、手紙のやりとりだけはなぜか続いていた。もう２０年近くになる。
多情な父親をもつと子供が苦労する。幸いなことは、情と同じ程度に金を持っていたことだろう。寂しいが不自由な思いをしたことはなかった。
奇怪で複雑な家庭事情。しかし、一夫多妻のイスラム圏ではどうという話ではなかった。文化の違いという奴だ。サハフも本妻の他に家庭を持っている。祖国では奇異の目で見られる腹違いの兄妹も、ここではありふれた話だ。
「海軍はいい。空母の甲板でプールを作って水遊びができるらしい」
「そうなのか。だったら、どうして海軍に入らなかったんだ？」
「船酔いが酷くてね」
「船酔い？」
サハフは不思議そうに言った。彼は海を見たことがない。
内陸のイラク北部に海はない。
「知らないのなら、一生知らない方がいい。船酔いするぐらいなら死んだほうがマシだ」
「そうか。だったら、俺は一生船には乗らないことにするよ。俺は戦車だけで十分だ」
サハフは誇らしげに車庫に鎮座した愛車を見上げた。
Ｔ−７２、アサド・バビロン。バビロンの獅子。Ｔ−７２のライセンス生産モデル。これはその改良型だった。改修は日本の某重工が請け負っている。今はＴ−７２Ｊ改というべきかもしれない。
Ｔ−７２Ｊ改は戦後第２世代の属するＴ−７２を第３世代相当に改修したものだ。複合装甲の追加とレーザー測距器とデジタル式射撃管制装置の装備、赤外線暗視装備や高度な環境センサー、アクティブ式対戦車ミサイル防御装備も施されている。改修というよりは作り直しに近い。砲塔は新造して乗せ変えてある。ティーガ−�気里茲Δ平眥樵�甲の新砲塔は電子装備と複合装甲の塊だ。ＲＰＧ対策に弁当箱（爆発反応装甲）を可能な限り貼り付けてある。エンジンも日本製の１２００馬力の水冷ディーゼルエンジンに換装。高度な夜間戦闘、行進間射撃、その他諸々、西側第３世代型戦車に可能な全ての戦闘行動をＴ−７２Ｊ改は可能としている。
性能はＴ−７２の改修型の本家であるＴ−９０を全ての面で凌駕しているとされている。射撃管制に関しては、ひょっとするとアメリカ軍のＭ１Ａ２を超えているかもしれない。
人民陸軍は保有する１５００両のＴ−７２Ｊは全てこの規格に改修済みだ。
そこまでするなら、いっそ新しい戦車を作った方が早い。そう思えるほどの徹底した改造だった。装備の追加は珍しくないが、砲塔そのものを新造して乗せかえているのは日本ぐらいものだ。
では、それだけの技術力があるのになぜ戦車を国産しないのか？
政治以外の何者でもない。
「とりあえず、基本からチェックしてみよう。まずはプラグだ」
待っていたイラク人の整備兵に指示を出す。
私の仕事は彼らにＴ−７２Ｊ改の運用ノウハウを伝授することだった。国連決議に基づくイラク復興計画の一環。イラクの国防、治安維持部隊の再建は愁眉の課題だ。フセイン時代のＴ−７２を近代化改修もそのうちに入る。
Ｔ−７２Ｊ改のような改造戦車を作ることは悪いことばかりではなかった。おかげでこうした近代化改修事業が転がりこんできたりもする。世界で２万両が配備されたＴ−７２の近代化改修は大きなマーケットだ。最近では、インドから依頼が来たりする。
Ｔ−７２の近代化改修は欧州諸国や本家ロシアでも提案されていた。本家のＴ−９０やウクライナのＴ−７２ＭＰ、ポーランドのＰＴ−９１等だ。どれもＴ−７２Ｊ改ほどの性能向上は期待できない。しかし、その分だけ安価だ。独立したばかりのイラクにとってもそちらの方がよほど財布にやさしい。
では、なぜそうならないのか？
政治以外の何者でもない。
日本はイギリス次ぐ規模の治安維持部隊をイラクに持ち込んでいた。政治的な発言力はそれに比例している。
こうした国益確保のための海外派兵はソビエト崩壊後に急増していた。
１９４９年に日本共和国がソビエトから独立を果たしたとき、日本には警察官のピストル以上の火器は存在しなかった。
なぜならば、共和国憲法９条は明確に一切の軍事力保有を禁止していたからだ。よってその国防は駐日ソビエト軍に委託され、自前の軍事力を持たない日本を保護するために北海道はソビエト連邦に割譲された上で広大な軍事基地が建設された。
日本人は一切の武器を捨て、理想的な平和主義国家に生まれ変わったのである。
国内の反戦平和主義者はこの日ソ関係を世界恒久平和のモデルとして喧伝した。来るべき新世界においては、全ての労働者は解放され、武器を放棄して永遠の平和を得る。そうした与太話が立法府において真剣に議論されたのが１９４９年の日本共和国だった。
そうした平和主義国家路線が覆ったのは、それから１年後のことだった。
中華動乱の幕開けである。
日帝が満州に作り上げた工業地帯と帝国陸海軍から没収した兵器を供与された中国共産党は急速に勢力を回復した。そして１９５０年には電撃的な進撃により蒋介石の国民党軍を敗走させ、北京を解放することに成功する。
毛沢東国家主席が北京で独立を宣言したとき、誰もが半年以内に中国大陸は赤い中国人によって解放されると信じた。
それが誤りであったことは歴史が証明しているところである。
アメリカ合衆国の介入により、人民解放軍の進撃は阻止された。それどころか、上海上陸作戦により人民解放軍は後方を遮断され南北から包囲されて壊滅状態に陥った。解放されたばかりの南京も悪辣な資本主義者の手によって再び占領されたのである。人民解放軍は組織的な戦闘能力を喪失し、アメリカ軍は黄河を渡河して満州まで足を伸ばした。
こうした事態を受けて、ソビエトは義勇軍の派兵を決定した。強力なアメリカ軍に対抗するために精鋭部隊が送られることになった。そして、この時極東で最良の装備を有するエリート部隊は全て日本にいた。輸送船で中国大陸に送られた駐日ソビエト軍はアメリカ軍を押し戻し、北京を奪回することに成功した。
その結果として、日本本土の守りは０となった。台湾に落ち延びた大日本帝国残党勢力による沖縄上陸が現実のものとなったのはその直後だった。
幸いなことに日帝の残党勢力は規模も小さく、ソビエト太平洋艦隊が急派されたことで上陸は失敗に終わった。しかし、国防のために自前の軍事力整備が必要であることはもはや明らかだった。なぜならば沖縄上陸作戦阻止に投入されたソビエト太平洋艦隊はアメリカ海軍空母機動部隊に捕捉され全滅したからだ。アメリカ軍がこの時沖縄に上陸していれば、沖縄喪失は避けられなかったとされている。
しかし、アメリカ軍は中華大陸での戦闘だけで精一杯であり、アメリカ軍が沖縄に上陸することはなかった。それでも南方諸島の幾つかは日帝残党勢力に奪われている。
また、ソビエト太平洋艦隊の根拠地となっていた横須賀、呉、佐世保は米空母機動部隊により大規模な爆撃を受けた。この時、対空砲火等による反撃は一切なかった。日本政府はこれらの都市が無防備都市宣言をすることを認め、駐日ソビエト軍を撤収させていたからだ。
一切の軍事力を放棄した日本にとって空母１２隻、艦載機１０００機を誇る米空母機動部隊を相手にできることは無防備都市宣言ぐらいなものだった。しかしそれもアメリカに無視されて打つ手は完全になくなった。この時、日本は国家そのものが無防備だった。
ソビエトの承認を受けて日本が再軍備を宣言したのは、ソビエト軍が全面的な壊走に移った１９５３年１月のことだった。その２ヶ月後には上海に世界初のＩＲＢＭによる原爆攻撃が行われ、その報復にＢ−２９が６発の原爆を満州主要都市に投下した。中華人民共和国は首脳部が被爆して壊滅、国家機能そのものが崩壊した。
スターリンはさらなる報復攻撃を考えていたとされるが、それが現実のものとなる前に病死（暗殺の疑いがある）した。停戦協定が結ばれるのはそれから３ヶ月後のことである。
中華動乱が終結しても日本の再軍備が止まることはなかった。黄河を挟んで米ソは直接対峙することとなり、駐日ソビエト軍は中華大陸に駐留することになったからだ。ソビエト連邦は日本が自前の軍事力を整備することでアメリカに側面から脅威を与えることに期待していた。そのためには経済的、軍事的な援助を与える覚悟さえしていた。
日本の再軍備において、もっとも整備が急がれたのは陸軍だった。陸軍こそ全ての軍隊の基礎であり、国防の根幹であるからだ。よって急速な再建のために旧軍の将校が多数登用された。海軍が徹底して旧軍の関係を排除して再建されたのとは対象的に、陸軍は旧軍の伝統を色濃く引き継いでいる。
しかし、装備は全てソビエト式であり、戦術もソビエト式に改められている。それはライフル銃から被服、階級章にいたるまで全てソビエト式にする徹底したものだ。
人民陸軍は基本的に防衛用陸軍として再建された。総勢で１８個師団。そのうち戦車師団３個、残りは自動車化狙撃兵師団だった。いずれも完全機械化部隊。この他に２個空挺師団が存在する。空挺師団は古典的な空挺部隊とヘリコプターを使った空中機動部隊が１個ずつである。他に独立戦車旅団、独立砲兵旅団、独立対戦車旅団、独立高射砲旅団、地対空ミサイル旅団や、地対地ロケット旅団、地対艦ミサイル旅団、スペツナズ旅団等の支援部隊が存在する。
総兵力４５万。アメリカ軍の本土上陸が現実の問題として語られていたとき、日本人がロシア人の助言を得て作った鉄壁の守りだった。
Ｔ−７２はその鉄壁も守りを誇る人民陸軍が装備した３番目の戦車だった。中華動乱で大量生産され、戦後に余剰が発生したＴ−３４／８５、その後を継いで量産されたＴ−５５、その両者を統合して更新するためにＴ−７２がライセンス生産された。
より強力なＴ−８０という選択肢があったものの、ガスタービンエンジンの信頼性の低さから採用は見送られている。パワーパックが小さく纏められたＴ−８０に国産の水冷Ｖ型ディーゼルエンジンを組み込むことができないというのもネックだった。
その点において、既存の技術を活用して作られたＴ−７２はシンプルな設計が幸いして改造の許容度が大きく有利だった。
とはいえ、戦後第２世代型のＴ−７２を２１世紀にもなって第１線戦力として使い続けるのはいくらか無理があった。
「いい戦車なんだが、いかんせん古くてな」
エアフィルターを交換しながら、サハフは言った。
「いろんなところにガタが来ている。イェミァ、君の国ではどうなんだい？」
「同じだ。エンジンやＦＣＳを換装しても、それ以外は変わらないからな。あちこち無理がある。足回りが特に酷い」
欠伸をかみ殺しながら私は答えた。
エンジントラブルの原因は、電気系統の故障が原因だった。Ｔ−７２Ｊ改はエンジンを国産品の１２００馬力水冷Ｖ型１０気筒ディーゼルに換装していた。しかし、その周りの配線までは交換されていなかった。その一部が劣化して短絡を起こす。そしてエンジンの電子部品が焼ききれてしまう。それが事の顛末だった。
真相究明に一晩かかった。もう夜明けが近い。
「サハフ。あとはやっておくから、もう休んでろよ」
「そういうわけにはいかないさ。大尉殿」
サハフはラフな敬礼を返す。
こんな時だけ階級を持ち出すのはズルイ。私はそう思った。階級はこちらが１つ上だ。しかし、年齢は一回り下だった。
しかし、ありがたかった。一人ではそれなりに骨が折れる作業だったからだ。戦車のエアフィルターはエアコンのフィルターのような生易しいものではない。
エアフィルターの交換には１時間かかった。
二人で整備の終わったＴ−７２を見上げる。
「あとはエンジンをかけるだけだが、明日にしておくか」
「そうだな。可愛い部下を叩き起こすのは気がひける」
私は耳を疑った。
「本気で言っているのか？」
「本気だとも。毎日、泣いたり笑ったりできなくなるほど可愛がっているじゃないか？」
サハフの愛情表現は特殊だ。私はそう思った。
「俺の部屋で一杯やっていこうぜ」
どこで覚えたのか、サハフは親指と人差し指で輪を作って傾けた。
お猪口のつもりらしい。
しかし、ここはイスラム教の国だ。アルコールは公式には存在しない。厳密には全くないわけではない。あるにはある。倉庫の隅に戦車用の工業用エチルアルコールのタンクが。
ロシア人でもあれだけは手を出さない。
「どうせコーラだろ？」
「当然だ。ここをどこだと思っている」
「イラクだ」
爆発音。
同時に明かりが落ちた。もちろん消灯時間ではない。
カタカタとシャッターが震えた。続いて乾いた銃声が響く。聴きなれたアフトマートの射撃音。ＡＫ−４７とＭ−１６｡７.６２ｍｍと５.５６ｍｍの連奏。
警報が鳴る。静まり返っていた基地の空気は騒然とした。
「クソ！戦闘配置だ」
壁に立てかけたライフルを手に取る。
日本から持ち込んだＡＫ−７４Ｊ。オリジナルとの違いは２脚の有無だった。ＡＫに幾らかでも命中精度を求めた涙ぐましい努力。一応、それなりに報われている。オリジナルよりも高い精度で組まれた日本製のＡＫ−７４はカラシニコフらしからぬ命中精度で知られている。海外にもそれなりに輸出されていた。
チェンバーを開き、初弾を送り込む。滑らかな金属音。オイルを吸った金属の音。
口の中にアドレナリンの味が広がる。
「おい、イェミァ。どこへ行くんだ？」
サハフは首を傾げて言った。
こちらが首を傾げたい気分になった。
「決まっているだろう。戦闘配置だ」
「だったら、わざわざ歩いていくこともあるまい？俺たちは戦車兵だぞ？少し落ち着け」
「・・・・そうだった」
少し動揺していたらしい。
言い訳はしない。しかし、基地が襲撃されるのは久しぶりだったのだ。
サハフは落ち着き払っていた。ベテランは違う。私はそう思った。戦慣れしている。
「燃料はあるか？」
「ライター分だが保つだろう。問題は弾がないことだ。演習弾が３発。でも、脅しにはなると思う」
「それだけあれば十分だ」
サハフがエンジンをかける。
水冷１０気筒Ｖ型ターボチャージドディーゼルが唸る。どす黒い排気を吐き出す。冷たい砂漠の空気を汚す。修理したばかりのエンジンは軽快そのものだ。音で分かる。
サハフがアクセルを踏み込む。回転数が上がる。油圧と電圧が定格は定格を示している。冷却水の温度も問題のない範囲。空吹かしを繰り返す。反応を確かめる。自分の手足が思うとおりに動くかどうかチェックする。本当なら、エンジン始動５分前に燃料供給システムを作動させなければならかった。しかし、その時間はなかった。それでも最新のデジタル制御を取り入れた国産ディーゼルは問題なく回っている。大したものだった。
エンジンがかかったので電気系統が蘇る。Ｔ−７２の砲塔旋回機構は電動式だ。電源が落ちた場合は手動旋回が可能だ。しかし、それが現実的に意味があるかどうかは別の問題だった。軍法会議の幾つかの判例は、その場合、乗車を捨てても罪に問われないことを示している。
「サハフ。戦車長は君がやれよ」
「遠慮しておくよ。君が上官なんだ。お手並み拝見といくさ」
私は肩をすくめた。
そう言われてしまっては返す言葉はない。
「味方を轢かないように気をつけろ」
「イェミァ。君の国ではそういうのを釈迦にテッポウと言うんじゃなかったか？」
「それを言うなら鉄砲ではなく、説法だ」
仏を撃ち殺してどうする。いや、問題はそこではない。
私は諦めて覚悟を決めた。銃声はますます激しくなっている。問答をしている時間はない。通信機のスイッチを入れる。マイクは咽頭式だ。
咽元の集音マイクを押えて私は言った。
「戦車、前へ！」
トルク・コンヴァータ付き自動変速機がギアとシャフトを介してエンジンのパワーを起動輪に伝達する。
金属音を上げて履帯が砂を踏みしめる。無限軌道が前に向かって回りだす。
サハフは暗闇でも巧みに障害物を避けてＴ−７２を前進させた。乗用車のようにＴ−７２を軽々と操る。ベテランの技と操向装置の改良がそれを可能としていた。
Ｔ−７２Ｊ改の操向装置はハイドロスタティック式。バイクのハンドルに似たバーハンドルで操縦する。変速機のＡＴ化と操向装置の自動化はＴ−３４と同レベルだったＴ−７２の操縦性を劇的に改善した。
素人でも運転できる。そう陰口をたたかれるほどに。
さらに砲塔上部に装備されたサマールサイトが夜を真昼に変えていた。サマールサイトとは熱線画像装置のことだ。雑多な赤外線をコンピューター処理して精密な画像を取り出すこの装備は西側でも装備している実車は多くない。Ｔ−７２Ｊ改はこれに火器管制装置とレーザー照準器を組み合わせて、自動追尾照準機能を持たせている。２０００ｍ先の移動目標を行進間射撃でしとめる程度の能力だ。
「１６年前にこれがあればな」
唐突にサハフは言った。
「何がだ？」
「この暗視装置だ。あるいは、この戦車そのものかもしれん。こいつが１５年前にあれば、ヤンキーに負けたりしなかっただろう」
「湾岸戦争か」
「そうだ。君たちはそう呼んでいる」
湾岸戦争におけるＴ−７２の惨敗はもはや伝説に近い。
Ｔ−７２を１５００両も装備していた人民陸軍はパニックを起こしたほどだ。その混乱と恐怖がＴ−７２Ｊ改を生み出したと言えた。
人民陸軍の狼狽ぶりは今でも古株の間では語り草になっている。そして、Ｔ−７２が非公式にチハと呼ばれ始めたのものこの頃だ。
帝国陸軍の９７式中戦車、通称チハの弱さは日本戦車兵にとっては忘れられない黒歴史だ。
Ｔ−３４とチハが対戦した場合、チハの撃破率は２００％とされている。１両目を貫通した徹甲弾が、２両目のチハを撃破するからだ。他にも悪評は数多い。日本が生んだ２０世紀最高のプロレタリア文学者は旧軍将校時代に搭乗したチハを「憂鬱な乗り物」とこき下ろし、「やわらか戦車」と罵倒した。
「エイブラムズは真夜中でも２０００ｍ先からＴ−７２の前面装甲を抜いてきた。あの時どうして死ななかったのか不思議で仕方がない」
「そうかな？」
「ああ、あの時の私は右も左も分からない新兵だった。運が良かったとしか思えない。みんな良い奴から死んでいったよ」
サハフの声は鎮痛な響きだった。らしくないことだった。
「そうだとすると、今生きている俺もあんたも下らない人間ってことになるぜ」
私はサマールサイトで周囲を警戒しながら言った。
一度車長席につくと心に余裕が生まれた。不思議な話だった。しかし、緊張感と心のゆとりは必ずしも相反するものではない。ベテランの場合は特にそうだ。
その余裕をどう使うかは人に因る。ベテランに共通しているのは余所見をしないことぐらいだ。
私とサハフはその余裕をお喋りに使った。ストレスを溜めないためだ。軍医も軽口が精神衛生に齎す劇的な薬効を認めている。認めさせている。
「茶化しているのか」
「そうじゃない。ただ、俺はあんたが単に運がいいだけの人間じゃないと思っているだけさ。深く悩むなよ。全てはアラーの思し召しのままに。インシャラー。いつだってそうだろう？」
サハフは苦笑したらしかった。
「異教徒にアラーの教えを諭されるとは思わなかった」
「俺は無神論者なんだが」
だからといって共産主義者というわけでもなかったが。
「今からでも遅くない改宗したまえ」
「無理だ。日本人とロシア人に禁酒の教えは流行らんよ」
「嘆かわしいことだ。酒の害悪に精神まで毒されているとみえる」
「ウォッカが飲めなくなるなら、ロシア人は死を選ぶだろうよ。日本から居酒屋がなくなったら、日本経済は崩壊するだろうな」
「大袈裟な」
「いや、ほんとだって」
戦場音楽が近づいていた。
珍しいことだ。ゲリラ戦の基本は一撃離脱。奇襲して逃走することが殆どだ。長期戦はゲリラには向いていない。時間は常に物量に優れた者を味方する。
サマールサイトに映る戦場は白いマズルフラッシュが咲き乱れていた。敵味方の曳航弾の煌き。闇の中で交差する。グリーンの曳航火は米軍の５.５６ｍｍ弾だ。オレンジはＡＫ−４７の７.６２ｍｍ弾。嗅ぎなれたコルダイト臭いがフィルターを貫いて車内に香る。
ゲリラは要塞のように土嚢を積み上げた営門に激しく銃撃を加えていた。営門からも同程度の銃撃が飛ぶ。形勢はやや優位。ゲリラは市街地に隠れて容易に姿を見せない。それは味方も同じだ。べトンと土嚢で固めた営門はＲＰＧでは抜けない。
「どうする？」
「投光器で脅かしてやろう」
私は投光器のスイッチを入れる。
戦闘では殆ど使い道のない装備。アクティブ式の赤外線投光器から赤外線フィルターを外したものだ。これは原型のＴ−７２から流用した装備。真夜中に３００ｍ離れたところで本が読めるほど。しかし、暗視装置が発達した現代でこれを使うのは自殺行為だ。作動させた瞬間、ＡＰＦＳＤＳや対戦車ミサイルが飛んでくる。
しかし、脅しには使えると踏んだ。
投光器の強烈な光がゲリラを闇から炙り出す。直射すると目をやられるほどの光。一瞬だけ銃撃が止んだ。
一拍おいて、シャワーのように銃撃が降り注ぐ。車体を軽くノックする程度の打撃。戦場において戦車にはあらゆる火器が集中する。意味があってもなくても。
これはその典型的なパターンだった。
その分だけ営門への攻撃が減る。火力は分散される。
こんなとき恐ろしいのはＲＰＧだ。しかし、サハフは車体を巧妙に建物の影に隠していた。暴露している砲塔は正面を向いていた。新砲塔の正面装甲は複合装甲だ。ＨＥＡＴでは抜けない。
私は舌を巻いた。サハフは当然のように安全地帯に乗車を布陣させていた。やはりベテランは違う。単に運がいいだけの男ではない。
特徴的な発射炎が瞬く。ＲＰＧのバックブラスト。しかし、発射寸前に銃撃の嵐が襲った。射手はもんどりうって倒れる。ＲＰＧの弾頭は明後日の方向へ飛んでいく。その方向には奴らの仲間がいた。爆圧で派手に人間や、人間だったものが吹き飛ぶ。熱を拾うサマールサイトは高温で焦げた人体を克明に描写する。
嘔吐を催す悲惨な光景。しかし、口から出たのは喝采の叫びだった。
「いいじゃないか！」
「そうでもないぞ。２時方向！」
サハフが叫んだ。
私はサマールサイトを旋回させた。２時方向。熱線画像が写すモノクロの風景。見慣れた営門前の町並みは闇の中に沈んでいた。その中を駆ける一台のトラック。ヘッドライトは点いていない。無灯火運転。トラックの荷台には見慣れたロゴマーク。子猫を咥えた黒猫のロゴ。日本で有名な宅配業者だった。イラクに輸出された中古車だ。それが砂埃を上げて疾駆している。何かを急ぐように。
こんな時間にどうして？
答えはすぐさま出た。１つしかありえない。
神風攻撃だ。半世紀ほど前に日本人が発明した究極の精密誘導兵器。迎撃、阻止はきわめて困難なことで知られている。最近はイスラム原理主義者が多用していた。
私はレーザー測距器のスイッチを入れた。サマールサイトを使いトラックをレーザーでロックオン。電動サーボが作動。砲塔が旋回した。砲口が目標を捉える。全て完全自動制御。サマールサイトに攻撃諸源が出る。敵速は８０ｋｍ／ｈ以上。砲塔が高レート旋回を続ける。目標を捉え続ける。
セトセカ自動装填装置が弾薬を揚げる。演習弾、続いて装薬。ラマーが薬室に砲弾を込める。赤ランプが点灯。装填完了を示す。
「オブイェークト」
口の中で小さく呟く。心の中で十字を切る。発射前の儀式。祖国に仇なす者を地獄の火の中に投げ込む殺戮の死神に祈りをささげる。
発射ペダルを踏み込む。
Ｔ−７２Ｊ改、発砲。
砲声は音よりも衝撃波に近い。砲声が砂と雪を吹き払う。演習弾は秒速１６００ｍまで加速。０.３秒で目標に直撃した。爆発はしない。演習弾だからだ。爆薬は充填されていない。しかし、それでも十分だった。演習弾は運転席を直撃していたからだ。
トラックが横転する。大爆発を起こした。荷台に詰まれた爆発物が内側からトラックを粉々にした。
爆音が近かった。遮蔽されたはずの戦車の中まで音響を届かせる。
ハッチを跳ね上げる。私は顔だけだして外の様子を伺った。
炎上するトラックの破片が散乱していた。重油かガソリンでも積んでいたらしい。辺りは火の海だった。
今更に血の気がひく。危ないところだった。直撃していたら、営門は粉々だった。
おそらくあのトラックの運転手は、自分に何が起こったか分からないままに即死したことだろう。
「イェミァ。怪我人を包帯所まで運ぶ。手を貸してくれ」
「分かった」
既に銃撃は止んでいた。代わってうめき声が夜のしじまに響く。あとは炎が爆ぜる音。何かが燃える音。遠くに犬の吠える声が聞こえる。パトカーのサイレンの音も聞こえる。騒然とした夜。しかし、思ったほど煩くは感じなかった。雪が降っているせいだろう。私はそう思った。
私はサハフに手を貸しながら私は言った。
「発砲する直前、あのトラックの運転手がこちらを見ていた気がする」
「だからどうした」
折りたたみ式の担架を下ろしながらサハフは言った。
「奴は何を考えたいたんだろうな」
「天国で２４人の処女に囲まれて幸せに暮らす夢だろう。アラーアクバル。神は偉大なり。悪魔の米帝に死の制裁をとか、そんなところだ」
「茶化しているのか」
「そうじゃない。好き好んで死にたがる人間の気持ちなんて分からないということさ」
サハフはさばさばとしたものだった。
「辛いなら故郷に帰ったらどうだ」
「平気だよ」
「君がうらやましい。君には帰るべき場所がある。だが、俺の故郷はここにしかないんだ。俺の帰るべき場所はここだけなんだ」
サハフは泣いているのかもしれない。私はそう思った。
ちらちらと雪が降る。空気は酷く冷えていた。黄色い砂の上に白い雪が降る。
１２月、冬。イラクの春は遠い。
続く？
2007年12月13日(木) 22:42:06 Modified by suzukitomio2001