紺碧の艦隊プライベートエデッション 運命の開戦1

 運命の開戦1

 北の海というのものはどこでも酷いものであるが、北太平洋はその中でも輪に賭けて厳しい海として知られている。
 低気圧による暴風雨、時化は当たり前で、一日の大半が濃霧によって閉ざされることはザラである。大型低気圧しか存在しないような空は悪天候が連続し晴れ間が除くことは奇跡的でさえある。高波で甲板が海水を被るとそれは見る間に凍りつき、船の重心を上昇させる。トップヘビーになった船を波濤はいとも簡単に転覆させる。
 第1航空艦隊はそうした海を真っ直ぐに東へ向かっていた。
「艦長、防空指揮所からです」
 第1航空艦隊司令長官小沢治三朗中将は高声電話を手に取った戦艦比叡の艦長の手が微かに震えていることに気がついていた。もちろん酒が入っているわけでもないし、寒いわけでもない。
「まだ・・見つか・らないのか」
 きっと叫び出したいのだろう。艦長は感情を抑えるためにそうとう無理をしているように見えた。声が震えている。
「・・・艦の動揺が・・・・」
「言い訳に・・ならん。見張り・・増やせ」
 小沢は艦長が握り締めた受話器に皹が入っていることに気付く。
 燃料節約と潜水艦からの被発見を防ぐために艦隊は厳重な灯火管制下にあり、比叡の昼戦艦橋は真夜中のような有様だったが、大抵の海軍将兵はこのような状況に対応する訓練を積んでいるのでまるで苦にはならない。小沢もそうだった。
 特に水雷戦隊の夜間見張り員ともなると昼間から窓のない照明と落とした暗室に篭り、サングラスをかけて夜目を鍛える訓練を繰り返すことで、新月の夜に15000m先の敵艦のマストを発見することさえある。
 しかし、そうした熟練の夜間見張り員を総動員しても、この霧を見通すことはできそうになかった。視力云々ではなく、純粋な物理的な問題だ。
 そもそも物が見えるとは、物体に可視光線が照射され、その乱反射が眼球内部の網膜により符号化された視覚刺激となり、それが大脳皮質で情報処理されて初めて成立する。
 よって、濃霧のように光の透過をさえぎる天然の障害を見通すことはできない。物理的に不可能なのだ。可視光線は空気中の水蒸気によって減退させられてしまう。もちろん、減退した可視光線を増幅し、一定のアルゴリズムによって情報処理をかけることで鮮明な映像を取り出すことも不可能ではないが、そうした技術が実現するのは21世紀のことになる。今は1941年12月だった。
 開戦と同時の奇襲攻撃により米太平洋艦隊を撃滅する密命を帯びた第1航空艦隊は深刻な困難に直面していた。
「タンカーとの会合予定時刻まで後どれくらいだ?」
「既に予定時刻を過ぎています」
 第1航空艦隊の航海参謀が顔面を蒼白にさせて小沢の質問に答えた。
 小沢は天を仰ぎたい気持ちになったが、海軍軍人として受けた修練と分別を弁えた大人の部分がそれを押し止めた。
 しかし、内心を吐露したい誘惑はどうしようもなく抗いがたいものがあった。
「神は我を見放したのか」
 誰にも聞こえない小さな声で小沢は呟いた。
 第1航空艦隊は神に見放されたような不運に取り付かれていた。濃霧によってタンカーとの会合に失敗しつつあるのだ。
 ハワイ・オワフ島の真珠湾軍港を開戦と同時に奇襲攻撃し、米太平洋艦隊を撃滅するハワイ作戦は聯合艦隊司令長官山本五十六の半ば恫喝に近い要請によって現実のものとなった。
 辞表をほのめかしてまでハワイ作戦に固執したのは、このチャンスを逃して米太平洋艦隊に大打撃を与えるチャンスが永久に失われると山本はブーゲンビル島上空で戦死して過去に逆行したことで学んでいたからだ。
 もちろん、『勉強会』のメンバーからハワイ作戦には異論が相次いだ。史実において真珠湾攻撃が成功したのは、多分に運による要素が強く、そしてその奇襲攻撃によってアメリカの敵愾心を煽って早期講和を不可能にしてしまったためである。
 もっとも『勉強会』の最終的な結論は「真珠湾攻撃断固やるべし」というものだった。
 なぜならば、南方資源地帯を占領することを目的とした第1段作戦を成功させるには米太平洋艦隊を最低でも半年は行動不能にする必要があるからだ。これが達成されなければ日本の絶対防衛ラインであるマリアナ諸島が危うくなり、史実において完全な成功を収めた第1段作戦でさえその成功がおぼつかなくなる。
 史実におけるマレー半島やフィリピンでの迅速な進撃は太平洋艦隊の壊滅という太平洋正面からの脅威が存在しないという前提に立ったものであり、真珠湾攻撃の成功なくして第1段作戦の成功はありえないというものだった。
 政治的な側面からも慎重に検討が繰り替えされたが、仮に宣戦布告文書の手交後に戦闘が開始されても、ハワイというアメリカの領土が攻撃されたことは例えそれが宣戦布告後の攻撃であったとしても、アメリカ人の敵愾心を煽るには十分すぎると判断された。
 特に21世紀まで生き残り、9・11事件とその後のアメリカの反応を老人ホームのテレビで見た『大蔵大臣』は真珠湾攻撃が宣戦布告の後でも先でも、程度の差に過ぎないと吐き捨てた。
 アメリカと戦争となったら最後、アメリカ人は一丸となって猛然と立ち上がるだろう。彼らが冷静さを取り戻すのは常に戦争が終った後になる。或いは、戦争がどうしようもないほどの泥沼になった後だ。ベトナム戦争がそれにあたる。熱狂したアメリカ人が冷静さを取り戻すには時間と流血が必要なのだ。
 そうした観点から真珠湾攻撃は決行されることになった。
 史実ではマレー沖にいるはずの小沢治三朗中将は第1航空艦隊の司令長官として親補された。
 日本海軍で最初に空母の集中運用を説いた航空戦の第一人者を戴いた第1航空艦隊は史実以上に活躍するだろう。
『勉強会』のメンバーの誰もがそう思ったし、それ以外の多くの人々も同様の感想をもつに至ったほどそれは当然の人事と思われた。
 しかし、現実は別だった。
「南雲さんだったら・・・」
 つい口に出た言葉を小沢は飲み込んだ。
 飲み込んだ言葉の続きはこうだった。
『こんな濃霧でも、タンカーと楽々会合してみせただろう』
 小沢は自分の経験不足を痛感していた。
 第1航空艦隊は強大な攻撃力を秘めていたが、それは今だ未完の大器だった。そもそも空母6隻を集中運用するという発想自体が前代未聞のことなのだ。
 よって、航空機の運用のみならず、艦隊の運用そのものが手探りで始まった。
 例えば、第1航空艦隊は6隻の空母を箱状に並べるボックスフォーメーションを採用していた。これは航空機の同時発進を容易にする空母機動部隊の運用に不可欠な最も基本的かつ画期的な陣形だった。この箱型陣形の発明者は真珠湾攻撃の立案を依頼された源田実航空参謀であり、当然ながらこれが世界初の試みである。世界中のどこにも参考にできる資料や文献などない。全てを一から築き上げていかなければならなかった。
 真珠湾攻撃の作戦準備とは、言い換えれば世界で最初の空母機動部隊を一から作り上げるという一大事業なのだ。
 そうした艦隊を運用するには、出来る限り艦隊勤務の経験が豊富な提督の方が好ましい。戦闘以前に艦隊として一致して運動することからして既に困難なのだから、戦闘そのものよりも艦隊運動について十分に経験を積んだ提督を必要になる。
 南雲忠一中将とは、まさにそのために選ばれた男だった。
 しかし、山本は『勉強会』の助言を受け入れて南雲ではなく、航空戦の第一人者である小沢を第一航空艦隊の長として送り込んだ。
 それが裏目に出るとは、誰も予測できなかった。
「最悪の場合、空母だけ突っ込むか」
 小沢が呟く。
 作戦計画では洋上給油に失敗した場合は駆逐艦だけ引き返して空母と戦艦だけで作戦を続行する予定だった。しかし、それはできれば避けたいシナリオだった。空母が丸裸になってしまう。
 小沢は第1航空艦隊の攻撃力をこの時点で最も深く知悉していたが、同時にその弱点も誰よりも深く認識していた。装甲化されていない空母の飛行甲板はたった1発の爆弾でも大破してしまう。飛行甲板が破壊されたら、ただちに航空機運用能力は失われ、その時点で戦力価値は0になる。
 小沢はより手厚い護衛艦艇の手配を要求したが、南方への侵攻作戦のためにこれ以上の護衛を要求するのは不可能だった。どのみち、燃料が保たない。
 そして、そのなけなしの護衛でさえ連れていけそうにないのだ。最悪、燃料が枯渇した駆逐艦を自沈処分しなければならない可能性さえある。
 神に見放されたとしか思えない不運だった。
「長官。最悪より2番目の選択かもしれませんが、手がないわけでもありません」
 第3戦隊司令の三川軍一中将は眉間に皺を寄せながら言った。
「何だ。言ってみろ」
「比叡と霧島には対水上電探が搭載されています。今は無線封鎖により使用を禁止されていますが、電探を使えばタンカーを発見できると思います」
 すかさず源田実航空参謀が反論した。
「逆探知される可能性がある。論外だ」
 この参謀は、頭は切れるが、自分の考えに固執するところがある。つまり視野が狭い。また、自分の能力を鼻にかけているせいか上官を上官と思わないところがある。今の三川に対する反論やその態度にそれが現れていた。
 有能だが、使いどころが難しい男。小沢はそう結論していた。ある意味、全くの無能よりも始末が悪いと言えた。
「しかし、このままでは駆逐艦の燃料が底をつけば空母が丸裸になる。第3戦隊は単冠湾に向かう途中、霧中航行をすることになったが電探を利用していたおかげで何の問題もなく航行できた。小さな機帆船とすれ違ったが、電探は20000m先からその小さな小船を探知した。おそらく給油隊はすぐ近くにいるはずだ。電探を使えば、すぐに見つけられる」
 三川中将は一歩も譲らなかった。
 参謀達のやりとりを小沢は腕を組んだまま一言も口を開くことなく聞いていた。
 真珠湾攻撃は奇襲を前提とした作戦だった。無線封鎖を破れば、その前提が崩れる恐れがある。
 しかし、このままでは奇襲が成功したとしても反撃にあった場合、護衛のない空母が甚大な損害を蒙るのは確実だった。空母の脆弱性をこの時日本海軍の中で最も知悉していた小沢にとって、それは避けたいシナリオだった。
「電探か」
 小沢は最近になって配備が急ピッチに進められている電磁波を利用した索敵装備について、今1つピンとこないものを感じていた。
 そもそも小沢の艦隊でのキャリアの大半は水雷畑だった。水雷戦隊といえば魚雷を抱いて一撃必殺の夜間水雷襲撃が日本海軍のお家芸だ。夜間水雷襲撃を支えるのは徹底した情報の秘匿と優れた夜間見張り員の視力だった。闇夜にまぎれてこっそり敵に忍び寄り、近距離から奇襲攻撃を行なう。それが夜間水雷襲撃だった。
 そのためにレーダーという新種の索敵装置に対する様々な批判、つまり闇夜に提灯といった類の話に一定の説得力のようなものを感じていた。少なくともその他の装備を差し置いて電探に高い優先順位をつける聯合艦隊司令部というよりは山本の方針には多少なりとも違和感を禁じえない。
 確かに米英が実用化しているのならば帝国海軍もこれを持つ必要があるだろう。敵が持っているものと同じものを持つのは軍事力整備の基本中の基本だからだ。
 しかし、そこまでの優先順位をつけるほど重要な装備だとは考えていなかった。
 それよりも戦闘機や爆撃機を1機でも多く配備した方がよりより気がする。
「5分間で結構です。それだけあれば、十分です」
「その必要はありません。給油隊と会合に失敗するのは既に織り込み済み。空母だけで突っ込むだけのこと」
「無謀だ。潜水艦が潜んでいたらどうする。駆逐艦なしでは潜水艦に対処できない」
「潜水艦が怖いなら第3戦隊だけここから引き返したらよろしい」
「なんだと!」
 議論が取っ組み合いの喧嘩になりかけたところで小沢は腹を据えた。
 このままでは埒があかない。
「そこまでだ。2人とも頭を冷やせ、仲間割れしてどうする」
 断固たる口調の小沢に気圧されて2人は振り上げた拳を止めた。やり場のない拳をなんとか後ろ手におさめる。
 2人が落ち着きを取り戻したことを確かめた小沢は言った。
「電探の使用を許可する」
「長官!」
「ただし3分だけだ」
 三川は笑みを浮かべた。
「十分です。概略位置は把握しています。長官。ご足労ですが下の電探室に一緒に下りていただけますか?電探室なら比叡に装備された電探の威力をよりよく理解していただけると思います」
 小沢は三川の言うとおりにした。




 最後の駆逐艦に給油を終えて、給油隊は第1航空艦隊から遠ざかっていた。
 三川軍一中将は約束どおり3分で僅か1000mという至近距離にも係らず第1航空艦隊を見つけられずにやきもきしていた給油隊を発見した。
 この場合は、三川というよりは比叡に装備された対水上電探とそれを操る操作員というべきかもしれないが。
 燃料の枯渇で危険なほどに重心が上昇していた駆逐艦は重油をたっぷり飲み込み、どっしりと北太平洋の荒波をかき分けていく。難航が予想された洋上給油も、給油隊を会合に成功した直後から天候が急速に回復に向かったことで予定よりも短い時間で終えることができた。
 つまりあと30分も待っていれば濃霧は晴れていたわけだが、給油隊は第1航空艦隊との会合を諦めて引き返す直前だったというのだから恐ろしい話だ。
 あと少し小沢の決断が遅ければ、或いは電探の使用を許可しなければ、ハワイには空母だけで突っ込むことになっていただろう。
「三川君。君には感謝しなければならないな。君の言ったとおり電探は大したものだ。これから電探は確実に海軍戦備で重要な位置を占めるようになるだろう」
「いいえ。私などは山本長官の言っていたことを受け売りしただけです」
 照れくさそうに三川は頭をかいた。
「山本長官が?」
「単冠湾に向かう前に呉で延々と電探の話をされていかれました。最初は何のことだかまるで理解できませんでしたがね。北太平洋でこの装備は死活的な問題を解決する鍵になるだろうとか、そんなことを仰っていましたな」
「山本長官は我々が給油隊と会合することに失敗すると予測していたのか」
「さァ。流石にそこまで予想していたとは思えませんが・・・しかし、そうだとしたら」
 小沢は聯合艦隊司令長官の顔を脳裏に思い浮かべた。
 持論の航空機主兵論といい、真珠湾奇襲攻撃といい、電探の件といい、その先見の明は神がかったものさえ感じさせる。
「旗艦は比叡におくように強く示唆されたのもこれを見越したことだったのかも」
「は?」
「いや、もしも旗艦を最初の予定どおりに赤城においていたら、私は電探の使用を許可しようとしなかっただろう。赤城には電探が配備されていないからな。そして赤城には君もいない」
「偶然でしょう」
「それが証明されない限り何者かの意思が介在したと考える方が自然だ」
 まるで自分が山本五十六の手のひらで踊っているような、そんな気がした。
 そして、それは真実、単なる偶然の一致に過ぎなかった。山本が旗艦を比叡に置くように示唆したのは別の目的がある。
「ところで、航空参謀の姿は見えませんが」
「彼なら電探室に篭っている」
 小沢は呆れたように言った。
 電探の使用に徹底的に反対していた源田は電探がものの数分で鍛え抜かれたはずの見張り員が見つけられなかった給油隊を発見してからすっかり電探に夢中になっていた。根掘り葉掘り質問攻めにして、操作員を辟易させている。
「これこそ航空機に並ぶ海軍の2大戦備だとかなんとか。困ったものだ」
「しかし、それは間違いではないかもしれませんよ」
 三川に言われて、確かにそのとおりだと小沢は首肯した。
 何はともあれ、真珠湾攻撃最大の難関だった給油隊との会合と洋上給油には成功した。洋上給油に成功さえすれば、艦隊を作戦海域にまで連れて行くのは容易だ。そこから先は小沢にとってはさらに簡単な問題だった。
 あとは電探の電波をアメリカが傍受していないことを祈るだけだった。
 打って変わって和やかムードになった比叡の昼戦艦橋に、電文を握り締めた伝令が駆け込んできたのはその直後のことだった。
「長官。GFから電文です」
 小沢はついに来るべきものが来たと思った。
「読め」
「ニイタカヤマノボレ1208」
「それだけか?他に電文はないのか?」
 念を押すように小沢は言った。
 受信漏れや何かの間違いがないかどうか確認したのだ。
 山本は最後の最後まで日米交渉に望みを託していた。交渉が妥結した場合に、万が一にも第1航空艦隊にその連絡が届かないなどのトラブルから偶発的に日米開戦となるようなことがあってはならなかった。そのために確実に通信が届くように通信設備の整った比叡に旗艦を置くように強く指示をしたのだ。
「他に電文はありません」
「分かった。下がっていい」
 小沢は静かに闘志が胸の中で燃え広がるのを感じた。
 百兵を養うのはただ1日のため。祖国の平和を守るために帝国海軍は存在する。小沢はそう信じていたし、多くの海軍士官にとってもそれは同じだった。平和を守る抑止力として帝国海軍は存在する。
 しかし、談判は決裂した。話し合いによる戦争回避は完全に不可能になったのだ。
 平和を守る。しかし、それは惰弱な非戦論を意味しない。いざというとき躊躇いもなく剣を抜く覚悟がなければ平和は守れない。
 もはや小沢には一片の躊躇いもなかった。
 しかし、こうも思った。
 この電文の送信を命じた山本長官は今、どんな気分だろう?
 小沢は対米戦反対論者だった聯合艦隊司令長官の心中を察した。対米戦反対論者の急先鋒だった山本は皮肉なことに全軍に戦争の開始を知らせる電文を打つことになったのだ。
 皮肉としか言いようがない。
「いよいよですな」
「ああ、いよいよだ。我々はルビコン川渡らねばならない」
 小沢は思わず神に祈ってしまいそうな自分を見つける。
「Jacta alea est」
「なんだね、それは」
「ヤクタ・アーレア・ェスト」
 どこか沈鬱さえ感じさせる口調で三川は言った。

「邦訳・・・賽は投げられた」

 真珠湾攻撃まであと6日
2007年06月18日(月) 20:40:36 Modified by ID:+MlOOvkmvg




スマートフォン版で見る