紺碧の艦隊プライベートエデッション 布哇沖海戦3




 赤城は1000ポンド爆弾の直撃を受け飛行甲板を破壊され、航空機の運用能力を喪失した。しかし、火災は消し止められつつある。
 比叡からその様子を見ていた小沢治三朗中将は忸怩たる思いを抱えてそれを見ていた。しかし、どうすることもできない。
 せめてもの慰めはこの惨事を引き起こした米空母機動部隊を利根の水偵が発見したことだろう。
 既に報復攻撃は発動されている。
 連続の出撃による疲労にも関らず搭乗員は復讐に燃え士気は旺盛だった。彼らなら必ず赤城の仇を討ってくれるだろうと思われた。
 戦況は第1航空艦隊の圧倒的な優勢だ。
 敵機動部隊が僅か空母1隻という数的劣位にあることが判明していた。もう1隻は今だ行方不明だが、とりあえずは目の前の敵を撃破することは最優先である。仮にもう1隻の空母(レキシントン)による奇襲があっとしても、それを撃退することは難しくないと考えられた。
 赤城が戦闘不能になっても、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴の5空母は無傷だ。全ては空母6隻という圧倒的な戦力の集中のなせる業だった。
 直援機を除く稼動機の全てをつぎ込んで編成された攻撃隊は全210機に及ぶ。
 既に攻撃隊は発艦していた。
 今日の第1航空艦隊が出せる攻撃隊はこれで打ち止めだった。彼我の距離から考えて、もう一度攻撃隊を出すと発艦ともかく着艦は夜間になってしまう。第1航空艦隊の技量は極めて高い水準にあったが、夜間作戦を行なえるレベルにはない。
 奇襲に成功した以上は徹底して戦果の拡大を図るべきだが、それが可能なのは日の出ているうちだけだった。
 攻撃隊は既に視界の彼方に消えた。
 小沢に出来ることは彼らの無事を祈ることぐらいだった。
「提督・・・」
 声をかけられて小沢は嫌な予感がした。
 申し訳ないような顔の伝令から電文を受け取った小沢は、
「あと30分早ければな」
 と、沈鬱な表情で言って肩を落とした。
 筑摩から発進した3座零式水偵は真珠湾に急行するレキシントンを捕捉した。
 彼我の距離と米空母の艦載機の航続能力を勘案すると、小沢艦隊はまもなくその攻撃射程圏内に入る。




 
 五島少佐は腕を組んだまま、黙って飛龍の飛行長の話を聞いていた。
 その顔にはあからさまに「やる気がありません」と描かれている。飛龍の飛行長は階級の自分よりも低い大尉なので遠慮も情けも容赦もない。指揮系統は飛龍のそれに属しているが、それは建前に過ぎないことも五島の強みだった。
 話の途中で五島は大きな欠伸をしたので、ついに飛行長はキレた。
「てめぇ、人の話を聞けよ!」
 胸倉を掴み挙げようとするので五島は軽くそれをいなすついでに一本背負いを決めて(五島は柔道3段だった)、この先どうしたものかと思案した。ついでに尻を鉄の床に叩きつけられて悶絶した飛行長の上に乗せる。
 五島の目は漫画のようにでかでかく「故障中」と張り紙がされた13試艦爆に固定されている。その張り紙は10枚あった。飛龍に持ち込んだ13試艦爆とちょうど同じ数だった。
 状況は複雑で、ここが思案のしどころだった。
 全稼動機を以ってエンタープライズへ攻撃を行なう第1航空艦隊に残っている攻撃機は幾らかの損傷機と故障で飛行不能になっている13試艦爆だけだった。
 損傷機の幾らかは今懸命の修理作業が続けられているが、どう考えても修理が終るのは明日の朝だった。小沢は損傷機の修理を急がせていたが、修理がそんなに簡単に終るなら、とっくの昔にエンタープライズへの攻撃隊に充てられているだろう。手持ちの損傷機のどれもが修理に時間のかかる中破以上のものが殆どだった。
 その中で比較的マシな部類に入るのが飛龍に持ち込まれた10機の13試艦爆だった。
 故障の理由はいたって単純だった。機体後部の推進式プロペラをまわすエンジンが冷却不足でオーバーヒートを起したのだ。
 後部エンジンの過熱は開発当初から指摘されていた13試艦爆のアキレス腱だった。
 過給圧を高めると加熱は特に顕著になり、フルスロットルでの運転は厳しく制限されていた。全速でまわすと後部エンジンがオーバーヒートする。
 飛龍に持ち込まれた13試艦爆はその欠点を強制空冷ファンの大容量化で解決したという触れ込みだったが、実際には制限時間を幾らか延長したに過ぎなかった。
 結果として対空砲火から逃れるためにフルスロットルを入れて全速で離脱した13試艦爆は次々と後部エンジンがオーバーヒートして、現在は全機が稼動状態にない。前部エンジンさえ動いていれば低速だが飛行は可能であるため、なんとか帰ってこれたがこの状態で敵艦隊に攻撃を仕掛けるのは死に行くようなものだった。
 13試艦爆が後部エンジンの加熱問題を克服するのはオイルタンクとオイルクーラーを大容量化し、オイルの循環速度を高めて冷却不足を補う空油併用冷却システムを実装してからのことになる。
「佐藤さん、ぶっちゃけて言うけどさ。今、何機とばせる?」
 横須賀海軍航空隊の整備員の中でも草分け的な老整備員に、五島はぞんざいな口調で言った。この老整備員と五島の間にはそれが許される何かがある。勤務時間外には一緒にのみに行くこともしばしばだった。
 白髪というよりは銀髪に近い頭をした老整備員は鼻を鳴らして答える。
「全機飛べるに決まっとる。ワシが整備してるんだ。手抜かりはない」
「でも、6機しか飛べないことにしといてね」
「なんだ、また悪巧みか?」
 そうした小細工が何よりも嫌いな老整備員はあからさまに顔をしかめた。
 五島は気にした様子もない。
「まァね。もしも全滅しても、4機も残れば開発は続行できるからね。ここで全滅したら開発スケジュールが致命傷だよ。ってわけで、おめぇらも裏口合わせとけよ」
 苦笑いを浮かべる部下達にべらんめぇ口調で五島は命令した。
「しょうがねぇ。世は並べて仕方がねぇことばかりだ」
 五島は吐き捨てた。しかし、口調ほどその表情は暗くない。
 むしろどこか楽しんでいるようにさえ見える。
「そんなにイヤならいっそ全部壊れてることしたらどうですか?」
 だから部下の口調も明るかった。冗談をいう余裕さえある。
「ばァーか。それじゃサボってんのが見え見えだろ。6割ぐらいが調度いいんだよ。それに考えてみろ。もしも敵空母を喰えれば、ゲテモノの13試艦爆を上の連中でも認めるしかなくなるだろう」
 五島少佐は今だ航空本部が愛知航空のHe118改造の水冷高速艦爆に未練を残していることを知っていた。嘗ての自分もそうだったからだ。
 しかし、13試艦爆の圧倒的な火力と速力、そして生存性の高さを知った今では愛知航空の水冷艦爆には何の魅力も感じられない。とはいえ見た目の奇抜さが13試艦爆の採用に様々なブレーキをかけていることも確かだった。
 人間とは見た目で物を判断する生き物であることを五島少佐は知っている。人生経験はそれなりに長い。色眼鏡で見たこともあるし、見られたこともある。見た目の第1印象の悪さを考えれば、ここまでこぎつけられたことは奇跡に近い。
 風の噂では、13試艦爆を開発した設計主任が聯合艦隊司令長官の友人であるという話だが、そんな政治力の存在も否定できないほど13試艦爆のまわりは荒れている。
 ここで大きな戦果を挙げることができれば、13試艦爆の制式採用によい影響があるのは明らかだった。軍において何よりも重視されるのは具体的な戦果だ。ヤンキーの大型空母を沈めれば、もう誰にも文句はつけられなくなる。
 13試艦爆に箔をつけやるには、それなりに冒険が必要だ。
 五島少佐は決断した。
「おい、起きやがれ。いつまでも寝てんじゃねぇよ」
 悶絶している飛行長の鳩尾に爪先を突きこみながら五島は唸った。
「う、うぅ・・・今、光る花畑に落下する夢を見ていたんだが、俺はどうしてこんなところで寝ているんだろう?」
 少し記憶が飛んでいるらしかった。
 好都合だ。五島は神か、或いは悪魔と呼ばれるものに感謝した。
「出撃準備を手伝え。なんとか6機ならあげられる」
「ほ、本当か?」
「あァ、だから早く手伝え。そして整備員を呼んでこい。それとここに書いてあるブツを直に用意しろ。必要になる」
 渡された紙切れを見て飛行長は首を傾げた。
「こんなもの何に使うんだ?」
「直に分かる」
 五島はニヤリと笑みを浮かべた。





 空母レキシントンの艦橋は静まりかえっていた。
 それもそのはずだった。味方が虐殺じみた攻撃を受けているのを知って平然としていられる人間は少ない。
 第1航空艦隊から発進した205機(5機は故障により途中で引き返した)は空母エンタープライズに殺到し、これを鉄くずに変えつつあった。
 通信機からは悲鳴と絶叫、そして何かの爆発音以外には何も聞こえない。偶に神に祈る声や家族の名前を呼ぶ声が混じるがあまり数は多くない。
 真珠湾奇襲攻撃時に、ウィリアム・ハルゼー中将を指揮官として戴くエンタープライズ以下2隻の重巡洋艦と4隻の駆逐艦から構成される小艦隊はウェーク島への海兵隊の航空機を輸送する任務についており真珠湾攻撃という合衆国海軍至上最悪の厄災から辛くも逃れていた。
 そのまま真珠湾に戻らず、退避していればエンタープライズは命中爆弾推定20発以上、命中魚雷推定14発ないし15発という至上空前稀なる壊滅的な打撃を受けることはなかったかもしれない。
 しかし、「牡牛」と仇名される闘争心の塊のようなハルゼー中将は真珠湾直後から日本艦隊の捜索を開始し、小沢艦隊からの無線発進を傍受して概略位置を捕捉するとSBD艦爆18機に索敵攻撃を命じた。索敵攻撃隊は全滅に近い損害を蒙ったが、見事に赤城を中破させた。
 そこまでは良かった。しかし、それが今のエンタープライズにできることの限界だった。
 なぜならば、エンタープライズは航空機の輸送任務についており、艦載機の大半をオアフ島の飛行場に置き去りにしていた。その艦載機は真珠湾奇襲攻撃により地上で撃破され、エンタープライズの搭載機は今や正規状態の3分の1以下まで落ち込んでいた。
 そのなけなしの艦載機を投入して行なった索敵攻撃は赤城を中破させる戦果を挙げたが、彼らは再起不能なまでに戦力を消耗していた。
 第1航空艦隊の総力をあげた報復攻撃が発動したとき、彼らに残された戦力はあまりにも少なく、直援のF4Fは倍以上の零戦に揉み潰され、がら空きになった艦隊上空に250kg爆弾と航空魚雷を抱いた99艦爆と97艦攻が殺到した。
 その結末をレキシントンは無線で知ることになった。
 第12任務部隊の将兵は誰もがエンタープライズとの合流に遅れたことを、決して口には出さないが、神に感謝していた。
 もしもそこに居合わせていたのなら、エンタープライズの受けた破滅的な打撃の半分はレキシントンのものになっていからだ。それはレキシントンを2回以上撃沈しても余りあるだけの鉄量だった。
 今のレキシントンにそれを防ぐだけの戦力はない。
 なぜならば、彼らもまたエンタープライズと同様に航空機の輸送任務中だったからだ。艦載機は定数の半分以下に過ぎない。第1航空艦隊が再び総力を挙げて襲いかかってきたらとても支えきれるものではなかった。
 しかし、レキシントンはついている。
 エンタープライズが攻撃を図らずも吸収する形になったからだ。時間と距離の関係上、もう日本艦隊に今日は攻撃隊を出す余裕はないだろうと思われた。オアフ島の空襲とエンタープライズへの攻撃で搭乗員の疲労も蓄積しているはずだ。空母艦載機の夜間作戦能力は限定的なもので、とてもではないがこれから攻撃隊を編成してレキシントンを攻撃する余裕はないはずだった。
 日本軍の水偵が自分達の居場所を通報していても、エンタープライズが破滅的な攻撃を受けていても、彼らに僅かながらの心理的な余裕があったのはそうして理由だった。
 故に、レキシントンに設置された対空レーダーが接近する識別不明機を探知したときもまだ彼らは冷静に行動することができた。
 直援のF4Fの誘導も機能していた。それは後年に行なわれるような精密な誘導ではなかったが、概略位置と高度を把握する程度のことは可能だったので直援のF4Fは全機が有利な攻撃位置につくことができた。
 迎撃に上がったF4Fの指揮はジョン・サッチ少佐が執っていた。
 少佐はその異形の日本軍機を見て、自分の目がおかしくなったのかと思った。
 なぜならば、その日本軍機はプラペラを機体の前後に2つも装備していたからだ。乱視にでもなったかと思って背筋が凍った。パイロットにとって視力は命だった。
 しかし、急降下で加速して接近するにつれて自分の目が正常であることが分かった。異常なのは日本軍機だった。葉巻型の胴体の前後でペラが回っていた。何がどうしてそんなことになったのかは不明だった。日本人の考えることは理解しがたい。それは飛行機というよりも宇宙人の乗り物のように思えた。少なくなくとも何か常識から外れた理由がそこに存在することは明らかである。
 サッチ少佐は疑問を頭の隅においやり操縦に専念することにした。考えるのは撃墜した後でも遅くない。敵機は6機。迎撃するF4Fは16機を数える。1機も生かして帰すつもりはない。
 完全に統率されたF4Fの編隊は後方上空という絶対有利な位置から急降下し、日本軍機をブローニングM2の弾幕の中に捉える。
 その時だった。唐突に日本軍機が火を噴く。
 サッチ少佐は照準器に捉えたはずの日本軍機が消えたことに気付いて驚愕した。翼下に吊り下げた何かから激しく炎と白煙を引きながら日本軍機は一瞬で100kt以上加速していた。それが加速用のロケットであることに少佐は直に気付いた。敵は迎撃を予測し、加速するタイミングを測っていたのだ。
 F4Fの降下速度に近い速度を水平飛行で叩きだした日本軍機をサッチ少佐は呆然と見送る。F4Fの最高速度よりも100ktは速い。
 何機が急降下から機首を起して軌道を修正して日本軍機に肉薄しようとするが、全て無駄な努力だった。
「ヘタクソ!腕立て200回だ!」
 サッチ少佐は無理な体勢で降下する編隊機に怒鳴った。
 機首上げで空気抵抗を増したF4Fは中途半端な態勢のままに射点につくことなく13試艦爆を見送ることになる。サッチ少佐の予測通りだった。そのうちの幾つかは完全に態勢を崩し、低空まで降下していく。迎撃に必要な上昇と加速に必要な所用時間を考えれば、それは実質的な無力化、撃墜と同義語だった。
 800kg爆弾2発を抱いた13試艦爆は空いた主翼ハードポイント4箇所にRATOを装備していた。五島少佐はそれを最適のタイミングで点火、増速することでF4Fの迎撃を無効化したのだ。
 16機を数える直援のF4Fは成す術もなかった。サッチ少佐の手ごまは一瞬で半分以下になってしまった。
 しかし、サッチ少佐は諦めなかった。彼は蛇のような狡猾さと執念深さを備えた誇り高きファイターパイロットだった。軍事指揮官にとって諦めが悪いという言葉は賛辞して理解されるべき言葉だった。
 サッチ少佐は降下で加速しつつ、迎撃を振り切った13試艦爆をにらみつけた。
 少佐はその内の3機が魚雷を抱いていることに気付いていた。しかも2発だった。増槽かと思ったが、末尾にスクリューがついている増槽など存在しない。それは魚雷であると認めるしかなかった。日本軍の攻撃機の爆弾搭載量は合衆国のそれに対して2倍ということになる。TBD6機分の攻撃力だ。それであの水平速力というのは理解しがたいことだった。日本軍機はロケットの加速が終っても、F4Fを引き離しつつある。F4Fよりも完全に高速だった。
 あんなものがレキシントンに殺到したら酷いことになる。
 なんとしても撃墜しなければならなかった。
 雲間から空母の輪形陣が見えた。
 僅か5隻の護衛艦艇。マッチ箱のように小さな愛しい我が家レキシントン。古の古戦場の名を戴く40000tの巨大な空母も空から見下ろせば小さなものだった。海は青い光を除くプリズムの色を吸収し、残る青だけをあらゆる角度に反射して、あたり一面を見事な藍色に染めていた。
 ミニチュアのような艦隊は白い航跡を引いていた。速力を上げている。艦首に波浪が立っているのが見えた。艦隊は速力を上げ、回避運動のために大きく転舵する。
 護衛の重巡はないよりはマシな高射砲の仰角を引き上げ、一斉に砲口に炎を漲らせる。少佐はその危険な煌きに覚悟を決めた。
「お前たちは退避しろ。俺が奴を仕留める」
 指示がきちんと伝わったかどうか自信はなかったが、少佐は列機が退避したことを信じてスロットルを押し込んだ。オーバーブースト。R−1830−86ツインワスプ、空冷星形複列14気筒エンジンが盛大に寿命を削りながら持てる出力の全てを吐き出した。
 それでもF4Fは13試艦爆には追いつけなかった。
 エンジンがその身を削って放つ金属の轟音に眦を決した少佐はその現実を冷静に認識していた。この戦闘機では奴には勝てない。しかし、僅かだが可能性はある。可能性がある限り戦うべきだった。それが出来ないなら戦争などやってはいけない。
 航空魚雷というものはそれ自体が高度で精密なメカニズムの融合体であり、姿勢制御のジャイロを含めて本来ならば空中投下など思いもよらない精密部品の塊だった。
 技術の進歩はそれを可能としたが、様々な制約があることも確かだった。合衆国海軍でさえ航空魚雷の投下には速度制限が課されていた。
 故にあの奇天烈な日本機がどれほど高速であったとしても、魚雷の投下直前には減速しなければならないはずだった。
 勝機があるとしたらその瞬間だった。
 しかし、そこに至る過程には様々な困難が待ち受けていた。
 機体を不規則に揺らす高射砲の弾幕がそれだった。あまり数は多くない。しかし一方的に撃たれ続ける恐怖を凄まじかった。
 空母の護衛艦は少佐のF4Fに気付いていたが、対空砲火を止めようとはしていない。持てる限りの砲弾を叩き込むような全力射撃だった。
 空母の護衛艦は味方でいても敵機が接近してくる場合は対空射撃していいことになっている。味方撃ちで飛行禁止空域に侵入したマヌケな味方機が1機や2機撃墜されても痛くも痒くもない。それよりも爆弾を抱いた敵機の方が何倍も恐ろしい。
 日本機は海面すれすれまで高度を落としていた。高速の日本機が生み出す風圧が海面を叩き、僅かにしぶきが上がる。
 訓練では禁止されている低空飛行を敢行しながら、F4Fの全速に近い速度で飛ぶ少佐はその速度感覚に悲鳴を上げそうになる。敵機は減速する様子さえ見せない。
 高射砲の射程圏内を高速で突破した日本機はいよいよ艦隊の防空バリアの最終関門に突入する。ボフォース40mm機関砲とエリコン20mm機関砲の対空機関砲による弾幕射撃だった。
 レキシントンを守る最後の楯となったインディアナポリスの対空射撃は大戦中の合衆国海軍の対空火器の恐竜的な進化から見れば貧弱と言うほかなかった。
 それでも対空砲火のシャワーを浴びたことのない戦闘機パイロットのサッチ少佐には全ての砲火が自分に向かって飛んでくるような気がしてならなかった。
 日本機は今だ減速しようとする兆候さえ見せていない。何かにとり憑かれたような超低空高速飛行を続けていた。
 サッチ少佐は笑うほかなかった。まるで暴走する雄牛のような突進だった。F4Fは限界だった。エンジンが一際大きく啼いて、風防に真っ黒なオイルをぶちまける。直後に爆発音が響いてサッチ少佐を乗せたF4Fは海面に滑り込むように突っ込んだ。
 少佐は意識を失う直前に日本機の魚雷投下を見た。少佐は大きく目を見開く。
 魚雷に白い華が咲いた。少佐にはそのように見えた。
 投下するだけ無意味なほどの高速で13試艦爆から投下された91式航空魚雷改2型にはある改良が施されていた。
 魚雷の末尾に取り付けられたパラシュートがそれだった。減速用のパラシュートは搭乗員の脱出用パラシュートを流用したものだったが、機能としてはそれで十分だった。
 投下制限速度まで一瞬で減速した魚雷は海面に落下すると同時にパラシュートと安定板を飛散させ馳走を開始していた。
 レキシントンに巨大な水柱が立ち、その後を追う様に800kg徹甲爆弾が巨大な火柱を立ち上げた。
 大量の浸水と大火災に襲われたレキシントンは急速に速度を落としていった。





 合衆国海軍太平洋艦隊司令長官ハズバンド・E・キンメル大将が僅かばかりの睡眠をとることが出来たのは明け方前だった。
 しかし、殆ど眠ることができずに仮眠用のベッドで暗い天井を見上げている。
 状況は全く酷いものだった。
 世界最大の戦力を誇った太平洋艦隊の主力戦艦は悉くが損傷し、殆どの船が浅い真珠湾の中で着底している。弾薬庫に引火誘爆したアリゾナや横転したオクラホマの復旧は絶望的で、残りの6戦艦にしても復帰には長い時間がかかりそうだった。
 幸いにも、或いはどういう理由があってのことかは理解できないがオアフ島の工廠設備や燃料タンクは攻撃されなかったので、損傷した艦艇の修理についてはある程度目処がついていた。今後の艦隊用の燃料供給についても問題ない。
 もっとも修理設備はともかくとして、燃料問題についてはこの先しばらくは大きなトラブルはないと思われた。何しろ、燃料を馬鹿食いする大型艦艇の殆どが撃沈されるか、大破していて稼動状態にないからだ。戦艦は真珠湾で枕を並べて沈められ、エンタープライズはハルゼー中将と共に深い海の底だった。ハルゼーの死亡は確認されていないが、エンタープライズは20発以上の命中弾を浴びて殆ど一瞬のうちに沈んだという。生きている可能性は全くなかった。
 エンタープライズの艦載機が日本艦隊の空母を少なくとも1隻は損傷させたというのがせめてもの慰めだった。
 レキシントンも深刻な打撃を受けた。命中した爆弾が大型で、しかも魚雷を1発被弾しているから状態は極めて危険だったが、何とか火災と浸水を食い止めることができた。しかし、そうした努力は最終的には無意味なものとなってしまった。航空機用のガソリンタンクが大型爆弾の爆発による衝撃で歪んでおり、そこから漏れて気化した爆発性の高いガスが艦内に充満し大爆発をおこしたからだ。結局、レキシントンは味方の魚雷で処分する羽目になった。
 レキシントンを沈めた日本機は僅かに6機だったという。情報部のデータにもない新型機という話だった。F4Fを振り切るほど高速だという。
 キンメルは過去に聞いた日本空軍に関する様々な憶測や噂話を思いうかべた。曰く、黄色人種は動体視力に劣り、飛行機をマトモに操縦することはできない。日本人の造る飛行機は紙と竹で造られた紙飛行機だ。性能は劣悪でパイロットは練度が低いので全く脅威にならない。
 とんだお笑いぐさだった。もしも、その全てが本当だとしたら、合衆国海軍は紙と竹で作られた紙飛行機と飛行機をマトモに飛ばすことが出来ない黄色人種に戦艦8隻と空母2隻を手もなく撃破されたことになってしまう。
 彼らのもつ強大な航空戦力はたった1日で太平洋艦隊の主力を悉く壊滅させた。航空魚雷が使用不能なはずの真珠湾で彼らは航空雷撃を実行し、水平爆撃で堅牢なはずの戦艦の水平装甲を打ち抜く徹甲爆弾を駆使した。
 もはや認めるしかなかった。彼らはとてつもなく強大で、我々は圧倒的に弱い。
 キンメルはハルゼーが羨ましかった。彼は彼の望み通りに空母の上で、戦場で死ぬことが出来た。生きている自分に待っているのは査問会と厳しい議会の追及、そして死んだ兵士の遺族からの罵詈雑言だけだ。
 一時はいっそのこと首でも吊ってしまおうかと考えたが、自殺する気にはならなかった。まだ自分にはやるべきことが残っていたからだ。
 キンメルは気分を切り替え、真珠湾の後始末に奔走した。休日で行方不明になっていた担当将校と幕僚を集結させ、必要な命令を出し、状況の整理と把握に努めた。
 真珠湾の火災の多くは夜半には消し止められ、手のつけられないような火災だったはずのものも消火機材の集中投入でなんとか消し止められていた。破壊されてしまった航空機などの瓦礫の撤去や滑走路の復旧も目処が経っている。
 あとは自分が執務室から出て行けば、後任の人間がいつ着任しても業務を再開できる。キンメルの仕事は後任に誰がきても、直に仕事を始められるように準備することだった。
 後任者が誰になるのかは分からないが、新しい太平洋艦隊司令長官は合衆国海軍史上最大の困難に直面することになるだろう。
 今や太平洋上に稼動する戦艦も空母も1隻もないからだ。
 それでもキンメルは祖国が日本に敗れるとは考えていなかった。アメリカのもつ強大な工業力を以ってすれば太平洋艦隊の再建を疑う余地はなく、本土で建造中の両洋艦隊計画艦の各艦が竣工する1943年以降には太平洋艦隊は今日の何倍も増強され、必ずや東京に進撃し、ヒロヒトに城下の盟を誓わせるだろう。
 それまでの最も困難な数年間をいかにして凌ぐかでこの戦争の勝敗が決まるだろう。キンメルはそう考えた。
 長い思索と幾ばくかの後悔を終えて、キンメルは外が明るくなっていることに気付いた。
 いつの間にか夜は明けていた。
 新しい朝が始まる。今日は過去となり歴史となる。1941年12月7日という1日は永久にアメリカ合衆国にとって忘れられない一日になるだろう。キンメルはそう思った。
 おそらく今日は自分が太平洋艦隊司令長官でいられる最後の日だと思ったキンメルは、従兵にコーヒーを持ってこさせることにした。最後の贅沢という奴だ。
 キンメルが従兵を呼ぶために電話機に手を伸ばそうとしたところで、電話機の方が先にキンメルを呼んだ。
 嫌な予感がした。とてつもなく嫌な予感だ。
 キンメルは受話器をとろうとして、その電話が自分に何を伝えようとしているのか気付いた。連続する砲声が清清しい朝の大気を擾乱し、大気を爆発させていたからだ。
 キンメルはそれが何なのか気付いていた。戦艦の艦砲射撃だ。太平洋艦隊に動く戦艦は残されていないから、消去法でその戦艦は敵のものになる。
 危険を承知して窓を開け放ったキンメルは沖合いに浮かぶ8隻の戦艦を目撃することになった。そのシルウェットはいつか夢にまで見た太平洋艦隊のライヴァル、日本の聯合艦隊の主力戦艦そのものだった。
 砲撃は激しいものではない。また実害らしい実害もないものだった。なぜならばそれは空砲だからだ。どれだけ待っても着弾音や爆発音がしないのは、彼らの目的が破壊ではなく威嚇だったからだ。
 電話は鳴り続けていた。
 キンメルは気付いていた。なぜ彼らが真珠湾の工廠や燃料タンクを爆撃しなかったのか、その理由が今になってやっと分かった。
 電話は鳴り続けていた。
 キンメルはその電話にでる勇気がなかった。その電話を受けたら最後、自分が日本軍に降伏した最初の合衆国海軍の将軍になることは確実だったからだ。
2007年07月07日(土) 00:26:26 Modified by ID:+MlOOvkmvg




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