第5話「Suppression」
軍神山本
第5話「Suppression」
1936年 2月26日 午後4時
大日本帝國 帝都東京
市ヶ谷 統合戦略指揮本部
「勅命である」
戦本に戻った馬渕は、市内各所に設置されたスピーカーへマイクを通して勅命を読み上げた。
「午後三時、陛下は貴官らの行動に対して勅命を私、海軍中将馬渕慎司に下賜された。以下、謹んで貴官らに布告する」
これはもちろん桜田門外の警視庁に集結している叛乱部隊にも聞き取れた。急遽五式歩兵戦闘車に増設されたスピーカーから発せられたのである。
「勅命、叛乱参加部隊はこれより直ちに解散し、明日午前八時までに原隊に復帰せしむる事。この項が為されぬ場合、戦本直轄部隊による、叛乱部隊に対する全面攻撃を許可す。帝都東京を焼け野原にしても、皇軍の威を汚さぬ事に尽力すべし。以上、今上天皇裕仁」
以下、勅命は三回にわたって読まれた。桜田門外に集結した部隊は呆然とこの布告に聞き入っている。戦本直轄の近衛独立装甲団の十式戦車三両、五式歩兵戦闘車十両が警視庁門前に進み、警視庁内に拘留されていたもの達を乗せ、後退する。これによって、明日午前八時までに警視庁などを退去しなかったものは、逆賊として討伐される事となった。
午後5時
帝都東京 千代田区
警視庁 叛乱部隊司令部
外を轟音が響く。十式戦車が『降伏せよ』とのビラを貼り付けてバリケード前を通り過ぎていった。その速度は酷くゆっくりで、まるでこちらの弾丸がそれを貫通する事が出来ない事を嘲っているようにも取れた。
「どうするのだ?」
会議室の沈黙に対し、第一声を放ったのは坂井中尉だった。坂井中尉は旧陸軍省、参謀本部を襲撃するべく部隊を率いて行ったが、門前に展開した十式戦車五両、五式歩兵戦闘車十両に撃破され、退却してここに合流したのだった。
「陛下に弓引くことはまかりならん!」
既に勅命の書簡は彼らにも渡されていた。警視庁に拘留されていた者達を受け取ったときに、十式戦車に乗り込んでいた大佐が彼らに手渡したのだった。
上空に爆音が響いた。窓から外を見ると、兵士たちに向ってビラがまかれている。すぐに下士官が室内に入り、そのビラを手渡す。
「戦車、歩兵戦闘車など一〇〇両か……」
そのビラには勅命の内容と、明朝五時から開始される攻撃に際しての戦本直轄部隊の概要が記されていた。既に首相官邸、陸軍省と参謀本部前の戦闘に於いて、彼らの使用する八九式、九五式戦車が戦本直轄部隊の戦闘車両に対抗できない事は明らかだった。
「この勅命は」
栗原中尉だった。目は血走り、まるで肩から吊っている腕の痛みなど気にも留めていないかのようだった。彼の腕は敵歩兵が放った五・六粍小銃弾に貫通され、銃創をおっていたのだった。
「逆賊どもが陛下に対し、強いて書かせたものに他ならない!」
「そうだ!」
追従したのは磯辺だった。
「全部隊を山王ホテルに移動しよう。あそこは背中に宮城を背負ってるから向こうは撃ってこられないはずだ、絶対勝てる!」
「馬鹿なことを言うな!」
叫んだのは野中大尉だった。
「陛下を人質に取るようなものではないか!」
「我ら陛下と一心同体!」
「ともかく、それは許されぬと思う。我ら帝國陸軍の第一の存在意義は、玉体を安んじ奉る事なのだからな」
「ならば……」
少し弱気になったらしい栗原は言った。
「統帥体系を通じてもう一度お上にお伺い申し上げようではないか。勅命が本当かどうかをお伺い申し上げるのだ。お伺い申し上げた上で我々の進退を決しよう。もし死を賜るということにでもなれば、将校だけは自決しよう。自決するときは勅使の御差遣くらい仰ぐようにでもなればしあわせではないか」
「うむ」
磯部も妥協した。陛下の御心が我らを慮った上で死を賜ると言うのならば、賛成できると感じられたからだった。
彼らはすぐさま包囲軍司令官である沢本荘一陸軍少将に使いを出すと、沢本もこれを馬渕に図った上で了承した。馬渕はこの後どうなるかを既にわかっていたが、ここで陛下の御心を徹底せねばならないとわかっていたからだった。
馬渕は即、参内した。
午後8時
宮中
「陛下、ついに参りました」
馬渕は陛下に叛乱将校たちの親書を手渡した。
「あの本通りになったな」
「はっ」
「ならば、朕の心は決しておる」
馬渕は敬礼した。
「侍従長」
陛下は侍従長を勤める鈴木貫太郎海軍大将を呼ばれた。
「はい」
「以下、筆記せよ」
「はっ」
鈴木は椅子に座ると、紙を取りだし筆を握った。
「自殺するならば勝手に為すべく、かくのごときものに勅使など以ての外なり、また、叛乱将校は自らの責任を解せざるものなり、戦本はかくのごとき厚顔無知な輩を、即刻鎮圧すべし。彼らは朕がもっとも信頼し、そして朕の股肱たる重臣及び大将を殺害せんとし、朕を真綿にて首を絞むるがごとく苦悩せしむるものにして、甚だ遺憾に堪えず。而してその行為たるや憲法に違い、明治天皇の御勅諭にももとり、国体を汚しその明徴を傷つくるものにして深くこれを憂慮す。この際十分に粛軍の実を挙げ再び失態なき様にせざるべからず」
このようにおおせられると、陛下は馬渕の方を向かれた。
「後は、よろしく行え。また、首謀者その他の逮捕も」
「はっ」
ここに、叛乱軍将兵の希望は潰えた。
またこれを受けて戒厳司令部とされた戦本では速やかに討伐準備が整えられていった。
午後10時
市ヶ谷 統合戦略指揮本部
戒厳司令部
攻撃開始は27日9時と戒厳司令部で決定され、もはや小細工はなくなった。
この決定に伴い、叛乱軍展開地域の住民に対し避難勧告が出され、住民が僅かな手荷物を持ち、退去を始めた。
叛乱軍も決戦の覚悟を決めて、警視庁前、司法省前、山王ホテルなどに布陣し、兵の士気高揚の為の軍歌や万歳の声が周囲に響いていた。
「既に皇道派の首魁と思われる各高級将校の逮捕が始まりました」
佐藤純海軍少将が馬渕に連絡した。
「ついでに富永恭次と佐藤賢了、そして辻正信も、つまり、三月事件を引き起こした桜会の奴らも一緒に捕らえろ。例え統制派でも容赦はするな」
馬渕は言った。
「これを機会に粛軍を断行する」
「罪はどうされますか?」
「『国体を武力にて変えんとし、今回の叛乱を招いた。これは叛乱を起こさぬと言えども許される事ではない』、だ。実際、皇道派将校に対する隊内でのいじめは凄かったらしいからな。例え叛乱を実際には行なわぬと言えども、統制と軍部独裁を履き違える馬鹿に容赦は要らん」
「はっ」
外では、いままた雪が降っていた。帝都に雪。もうすぐ三月。春を迎えようとしているのに、この様な雪が振るとは。馬渕には、この雪が相食む事を運命付けられた皇軍に天が向けた、葬送の様に思えてならなかった。
しかしそんな思いを堪えると、馬渕は法務科の将校を呼んだ。
「軍事裁判の用意を整えて欲しい」
第一声はそうだった。
「わかっております」
「裁判の原則を確認する」
馬渕は言った。
「公開、二審制、弁護人あり、だ」
「それはわかっています。当然の処置でしょう。何を確認する必要があるのですか?」
「これは、帝國の将来とも深く関った事態である」
馬渕は言った。
「陸軍の中に、陸軍の面子によって、馬鹿どもに刑を科する事をひるむ奴等がいるからだ。既に、国防省陸軍部では策動が始まっている」
「それは!」
法務科将校は意気込んだ。
「司法の独立を侵害する行為です!」
「そうだ」
馬渕は言った。
「ここにおいて、全ての関係将校を、下級、高級の別なく断罪する。それが基本原則だ。君ら編成される者達には、その点、徹底して欲しい。それに関しては戦本が総力をあげて援護する」
将校は居住まいを正すと敬礼した。
「わかりました」
これにて全ての政治的判断は終了したのだった。
鎮圧が、始まる事となった。
1936年 2月27日 午前八時半
帝都東京
山王ホテル
叛乱軍のうち、解散を決意しない徹底交戦を唱える将校たちとそれに率いられた兵たちはここに集結した。その数七〇〇名あまり。戦車一四両を擁し、重機関銃十、軽機関銃三〇などを擁する、なかなかの火力を持った戦闘集団が、帝都東京の皇居近辺に布陣したのだった。
これは、前段において磯辺中尉が唱えたように、『皇居を背にしている山王ホテルを攻撃する事は、天皇に弓引くことと同じ』であるからだった。実際、攻撃に参加するのは近衛独立装甲団のみである。攻撃に参加しないとはいえ、これを包囲する海軍陸戦隊、陸軍歩兵第一師団に所属し、今回の叛乱部隊を出した第一、第三連隊の兵士たちには動揺が広がっている。
しかし、その動揺もすぐに収まることとなる。天皇陛下は皇居に軍服を持って鎮座し、叛乱軍に対して断固たる対応を求めたからである。そして既に勅命は下った。既に時間は午前八時半。勅命の期限である午前八時から三〇分が過ぎていた。彼らは、自ら逆賊足る事を選んだのだった。
既に前日において、山王ホテル支配人と交渉を持った馬渕海軍中将は、『皇軍の威を守り、逆賊を殲滅』すると言う大義名分のもと、支配人、経営者などと山王ホテル破壊についての許可を持っていた。
作戦計画はこうである。
1:攻撃開始は九時。それまでは叛乱軍部隊に投降を求める。
2:攻撃第一陣は多連装ロケット砲による徹底射撃。
3:攻撃第二陣は、戦車による攻撃。
4:歩兵戦闘車の援護のもと、歩兵の投入。
市街戦としては圧倒的なまでの火力集中だった。戦本が、如何に二・二六事件を重視していたかが、これで窺い知る事が出来るだろう。
そして、時間は過ぎた。午前九時の到来である。ここにいたって叛乱軍は総員六四二名までに減少していた。既に戦本は、叛乱部隊参加者全員に関しての詳細な名簿を作成し、全員の名前を確認していたほどだった。
攻撃は、計画通り多連装ロケットの攻撃から開始された。
空気の抜けるような音と共に箱型の発射機から次々とロケット弾が発射される。それらは山王ホテルの荘厳な雰囲気をかもし出す建物に次々と命中し、それを破壊した。兵士達が叫びを上げる。
包囲網を形成している兵士達は、これにより如何に天皇陛下の怒りが強いかを認識したことだろう。最も、全ては遅きに失したが。近衛独立装甲団という戦力に山王ホテル攻撃を命じたのは陛下御自身である事が既にわかっていたからだった。
ロケット弾による三〇分もの制圧射撃。これは、ただのホテルに対するものとしては空前絶後の破壊力を示した。建物の殆どは破壊され、其処彼処で叛乱軍兵士がうめきを挙げている。しかし、機銃座の中には反撃を開始するものも表れた。前を固める戦車に銃弾が着弾、火花を上げた。
次に射撃を開始したのは、榴弾を装填した戦車達だった。120粍滑腔砲から吐き出された砲弾は、次々と残っていた銃座を叩き潰す。爆発と共にアスファルトの道路に吐き出されるものは、兵士の血に塗れた肉体だった。それは、目にも鮮やかなカーキ色の陸軍軍服に他ならない。
戦車砲の発射音が止んだ。銃座は全て潰され、既に兵士達はうめきを上げている。轟音と共に戦車が前進を開始した。背後に控える歩兵戦闘車が戦車を楯に前進を開始する。
絶望的な反撃が敵から起こった。戦車に対して辛うじて有効なものとして彼等が考えていたのは彼等が保有する戦車と手榴弾だったが、その両方が十式戦車の前にはかなわなかった。掩体壕から表れた八九式、九五式戦車は、瞬く間に戦車砲弾、機関銃によって貫通され、爆発、炎上した。手榴弾は十式のキャタピラを破壊することは出来なかった。十式戦車のキャタピラは、手榴弾程度の爆発で壊れるような事が無い様に強化されているからだった。そして手榴弾投擲によって位置を明らかにした兵士たちの末路は哀れの一言に尽きた。兵士数人に対して行うにしては、あまりにも苛烈過ぎる銃弾の雨が降り注いだのだった。
五式歩兵戦闘車の後部扉が開き、防弾服を着用した歩兵達が降車した。隊員の被害を極度に恐れる自衛隊は、歩兵の防弾服をこれでもかと言うくらいにまで強化していた。アラミド繊維の一〇〇倍以上の強度を誇る三式歩兵戦闘衣は、この時代の機関銃弾さえ貫通する事を許さない。ヘルメットから降ろしている強化ガラス、随所に装着されているプロテクターなどには、必ずと言って良いほど強化措置が施されていた。
ここでホテル内部の戦闘について記す事は、如何に戦前の日本軍国主義を確立する要因となった彼らに対する嫌悪を持ってしても、あまり気持ちの良いものでは無い。其処で示されたのは、戦前の日本人がいかに敢闘精神を持っていたか、であり、そしてそれが狂気の方向へと傾いたとき、どれほど始末の悪いものになるか、を示すものでしかなかった。
ホテル内部の戦闘を行なった装甲団の兵士達は、部屋に対してまず手榴弾と銃弾を撃ち込んでからの突入を行なった。もちろん、閃光手榴弾と混ぜてある。
戦闘終了は午前十一時二三分。ホテル最上階のロイヤルスィートにおいて、叛乱軍決起将校、その最後の一人である野中四郎大尉は割腹して果てていた。
3月15日
帝都東京 市ヶ谷 統合戦略指揮本部
第1大会議室
叛乱開始直前から行なわれていた改装によって成立したこの大法廷の中には、既に三〇人以上になる高級、下級将校からなる被告達が存在した。彼等は、従容として席についた。
既に裁判官席には最高裁大法廷から招致された裁判官達が着席しており、傍聴席には各新聞社の記者達が並んでいた。そして参考人として皇道派、統制派の各将校、戦本から検察側証人として佐藤海軍少将が出席した。
そして異例な事に、裁判官の後ろ、一段高くなり、そして御簾に遮られた其処に、天皇陛下が鎮座していた。陛下は史実における裁判により、陸軍主導の軍部内閣が出来上がった事をすでに知っておられた。これを断固として食いとめるために、自らこの裁判に出席したのであった。
「これより先の帝都における叛乱、その首謀者達に対する審議を行なう。これに先立ち、陛下より御言葉がある。傾聴せよ」
裁判官の言葉と共に全員起立、一礼した。
「朕が股肱の臣達の命を狙い、あまつさえ、およそ一日に渡って帝都東京を騒がし、臣民に強く不幸をそち達は強いた」
その言葉に、叛乱軍将校たちは俯き、嗚咽をはじめた。事ここに至ってついに、彼らは陛下の御心に触れることがかなったのだった。
「しかし、罪はそち達だけのものでは無い。そち達を扇動し、唆し、今回のような暴挙に至らせた者達がいる。朕を思うが故を大義名分とし、この帝國を亡国へと導こうとする輩に、断固たる態度を朕とその臣達は示さねばならぬ」
その言葉に荒木、真崎をはじめとする皇道派高級将校と、急遽ここに呼ばれた桜会主要メンバー達の顔色が変った。陛下は、ここに皇道派とあわせて全ての叛乱行動の下となった桜会の断罪をも決意為されたのだった。
ここに呼ばれた桜会の主要メンバーとは、橋本欣五郎砲兵中佐、坂田義郎歩兵中佐、牟田口廉也、根本博、河辺虎四郎、土橋勇逸、富永恭次、辻政信等であった。陛下は、太平洋戦争においてこれらの将校が為した行為を、太平洋戦争においてこれらの将校が与えた影響を持ってこれらのものを断罪する決意を固められたのだった。
「これより裁判をはじめるが、そち達においては、もう一度自らの胸に手を当て、罪があるか無しかを問え」
陛下は着席為された。裁判参加者一同はもう一度陛下に一礼すると、着席した。
さて、ここまでする理由は、史実における裁判の流れにある。以下、史実における裁判の流れを見てみよう。
史実における裁判は、三月四日に発せられた緊急勅令によって設置された。以下のようなものである。
緊急勅令
朕茲に緊急の必要ありと認め枢密顧問の諮問を経て帝国憲法第八条第一項により東京陸軍軍法会議に関する件を裁可し之を公布せしむ
御名御璽
昭和十一年三月四日
内閣総理大臣
各省大臣
さて、この勅令により、陸軍首脳は叛乱軍をどう処分するかで議論噴騰した。
出た結論が、天皇によって戦地と同じ(戒厳令下のため)特設軍法会議を設けることとしたのであった。
この会議の特色が、世に言う
『上告なし、弁護人なし、非公開、一審制』
である。
現在の裁判とはまったく正反対の性質をもっているのがわかるだろう。
しかも軍法会議であるから、法曹界の裁判官や検事ではなく、軍人が裁判を行うことが出来るのだ。また普通軍の中で法問題を取り扱うのが法務官だが、別に他の兵科の人間でも構わないというのも重要な点である。
裁判前、陛下は叛乱将校に対し、既に結論を下していた。それは『天皇の宸襟を悩まし、軍人勅諭に背き、国体明徴を汚す者』という断罪である。もはや結果は決まったようなものだ。叛乱軍将兵の命運はこの裁判を前にして天皇のこの一言に決した。
さて、今回の事件については緊急勅令が出る前までは相沢事件裁判と同様に、第一師団の師団軍法会議で裁判しようと陸軍部内で、特に法務官の間で考えられていた。この形態であると、ほぼ普通の裁判と変わらず、弁護人もつくし、上告もできる。
ただ、この方法だと時間もそれなりにかかってしまうため、今回の前代未聞の大事件においては治安・軍紀保持の為に迅速に処理する必要に迫られた。
これに加え、天皇の勅令によって特設軍法会議が設置されたのである。
法廷は、被告人らの護送の関係で刑務所内に設けるのがいいと、議論が出たが、予審だけでなく公判までも刑務所内で行ったとすれば、のちに暗黒裁判と非難を受けるのは必至として、代々木練兵場内に6棟建てのバラックを建築した。バラックとは言っても各部屋ごと完全な防音が施された。
四月上旬に完成し、早速裁判が開始された。周囲を鉄条網が囲み、歩哨が随所に立っていた中で(なお、翌12年1月18日の判決終了後、素早くこの建物は解体された)。
裁判にあたり、匂坂春平法務官を主席検事とする検察官6名、裁判官としては小川関次郎法務官以下15名が任命された。この裁判官の中には普通の兵科の将校も任命されていた。例えば、酒井直次大佐や若松只一中佐などが挙げられる。また、検察官は人数が足りないということで地方の師団から4人の法務官が東京に召集された。
裁判についてもうすこし捕捉しておく。
裁判の事実上の指揮は陸相が受け持っていた。当時の陸相は寺内寿一大将で、裁判後は軍内部の粛正をした人物である。
まず、これだけで、裁判が公平さを欠いた、陸軍首脳の少なからぬ関与が考えられよう。そして、陸相の下に公判部と検察部に分けられる。公判部は文字通り裁判の判決を行うもので裁判官はこちらに属す。検察部も文字通り検察官が属している。
ここで、非常に重要な問題がある。
検察部は大臣の指揮の下で被告人の起訴/不起訴を決めた。公判部は「司法の独立」を建前としたが、結局裁判官は陸相に任命されることとなる。さらに、検察部は人事権や、捜査指揮権をも有していた。
これだけでもおわかりになると思うが、陸相いかんで、被告人を裁判にかけずにすむ、捜査の手をゆるめることができる、判決が気に入らなければ裁判官を換えてしまうことが出来るということが大問題なのである。
ここが暗黒裁判と呼ばれる最大の問題点なのであろうと私は解釈する。
なにより、こういう制度にしたのは、捜査が事件の黒幕……おそらく軍首脳に居たであろう大物を守ろうとしたに違いない。もしかしたら寺内陸相も一枚噛んでいたのかもしれない。
つまり、裁判が陸軍首脳の思惑通りに進行でき終結を迎えられるというメリットがあった。例えば、北一輝や西田税の死刑は判決前に既に陸軍中央で決定済みであった。これは
「かかる不敬の輩が将校を惑わし今日の事態を招いた」
とのことだった。
起訴された将校以下123名を予審にかけ、とくに事件に直接参加した将校20名は一ヶ月半で判決が下るという驚異的な早さで処理された。これら被告は将校班、下士官班、兵の班、常人班の5組に分けられ、それぞれの担当裁判官も同じく5組に分けられた。
さて、上記のような裁判が適当であるか否かなど、少しでも法学について学んだ事があるものならば明白である。繰り返す事になるが、つまり、陸軍首脳は天皇陛下の意思にもかかわらず、この事件をうやむやのうちに闇に葬ろうとしたのである。
既に戦本においてもこの様な二・二六事件の進捗は研究が四年前から行なわれており、ここにおいて太平洋戦争、並びにそれに伴う軍事行動において問題となる将校全てを軍から排除しようと決意したのである。
これにより、裁判の流れは陸軍における、第三者による『粛軍』となった。
一応一筆書いておくが、私は歴史の学徒であり、法学の学徒では無い。であるから、基本的な法の流れについては置く。しかし、断罪された将校その他がどのような判決を下されたかについてはここに記載する。
■叛乱参加将校(実動)
安藤輝三
香田清貞
栗原安秀
竹島継夫
対馬勝雄
中橋基明
丹生誠忠
坂井直
田中勝
中島莞爾
安田優
高橋太郎
林八郎
渋皮善助
水上源一
磯部浅一
村中孝次
判決:軍籍剥奪、死刑
■思想幇助者
北一輝
西田税
判決:禁固六年
■叛乱幇助
荒木貞夫陸軍大将・軍事参議官
真崎甚三郎陸軍大将・軍事参議官
香椎東京警備司令官兼東部防衛司令官
判決:予備役編入、禁固四年
阿部信行軍事参議官
西義一軍事参議官
植田謙吉軍事参議官
寺内寿一軍事参議官
判決:予備役編入、禁固三年、執行猶予六年
■旧桜会関係者
小磯国昭
建川美次
重藤千秋
杉山元
二宮治重
橋本欣五郎
坂田義郎
牟田口廉也
根本博
佐藤賢了
河辺虎四郎
土橋勇逸
富永恭次
辻政信
判決:予備役編入、禁固三年、執行猶予六年
ここに、二・二六事件はその終結を見たのであった。
第5話「Suppression」
1936年 2月26日 午後4時
大日本帝國 帝都東京
市ヶ谷 統合戦略指揮本部
「勅命である」
戦本に戻った馬渕は、市内各所に設置されたスピーカーへマイクを通して勅命を読み上げた。
「午後三時、陛下は貴官らの行動に対して勅命を私、海軍中将馬渕慎司に下賜された。以下、謹んで貴官らに布告する」
これはもちろん桜田門外の警視庁に集結している叛乱部隊にも聞き取れた。急遽五式歩兵戦闘車に増設されたスピーカーから発せられたのである。
「勅命、叛乱参加部隊はこれより直ちに解散し、明日午前八時までに原隊に復帰せしむる事。この項が為されぬ場合、戦本直轄部隊による、叛乱部隊に対する全面攻撃を許可す。帝都東京を焼け野原にしても、皇軍の威を汚さぬ事に尽力すべし。以上、今上天皇裕仁」
以下、勅命は三回にわたって読まれた。桜田門外に集結した部隊は呆然とこの布告に聞き入っている。戦本直轄の近衛独立装甲団の十式戦車三両、五式歩兵戦闘車十両が警視庁門前に進み、警視庁内に拘留されていたもの達を乗せ、後退する。これによって、明日午前八時までに警視庁などを退去しなかったものは、逆賊として討伐される事となった。
午後5時
帝都東京 千代田区
警視庁 叛乱部隊司令部
外を轟音が響く。十式戦車が『降伏せよ』とのビラを貼り付けてバリケード前を通り過ぎていった。その速度は酷くゆっくりで、まるでこちらの弾丸がそれを貫通する事が出来ない事を嘲っているようにも取れた。
「どうするのだ?」
会議室の沈黙に対し、第一声を放ったのは坂井中尉だった。坂井中尉は旧陸軍省、参謀本部を襲撃するべく部隊を率いて行ったが、門前に展開した十式戦車五両、五式歩兵戦闘車十両に撃破され、退却してここに合流したのだった。
「陛下に弓引くことはまかりならん!」
既に勅命の書簡は彼らにも渡されていた。警視庁に拘留されていた者達を受け取ったときに、十式戦車に乗り込んでいた大佐が彼らに手渡したのだった。
上空に爆音が響いた。窓から外を見ると、兵士たちに向ってビラがまかれている。すぐに下士官が室内に入り、そのビラを手渡す。
「戦車、歩兵戦闘車など一〇〇両か……」
そのビラには勅命の内容と、明朝五時から開始される攻撃に際しての戦本直轄部隊の概要が記されていた。既に首相官邸、陸軍省と参謀本部前の戦闘に於いて、彼らの使用する八九式、九五式戦車が戦本直轄部隊の戦闘車両に対抗できない事は明らかだった。
「この勅命は」
栗原中尉だった。目は血走り、まるで肩から吊っている腕の痛みなど気にも留めていないかのようだった。彼の腕は敵歩兵が放った五・六粍小銃弾に貫通され、銃創をおっていたのだった。
「逆賊どもが陛下に対し、強いて書かせたものに他ならない!」
「そうだ!」
追従したのは磯辺だった。
「全部隊を山王ホテルに移動しよう。あそこは背中に宮城を背負ってるから向こうは撃ってこられないはずだ、絶対勝てる!」
「馬鹿なことを言うな!」
叫んだのは野中大尉だった。
「陛下を人質に取るようなものではないか!」
「我ら陛下と一心同体!」
「ともかく、それは許されぬと思う。我ら帝國陸軍の第一の存在意義は、玉体を安んじ奉る事なのだからな」
「ならば……」
少し弱気になったらしい栗原は言った。
「統帥体系を通じてもう一度お上にお伺い申し上げようではないか。勅命が本当かどうかをお伺い申し上げるのだ。お伺い申し上げた上で我々の進退を決しよう。もし死を賜るということにでもなれば、将校だけは自決しよう。自決するときは勅使の御差遣くらい仰ぐようにでもなればしあわせではないか」
「うむ」
磯部も妥協した。陛下の御心が我らを慮った上で死を賜ると言うのならば、賛成できると感じられたからだった。
彼らはすぐさま包囲軍司令官である沢本荘一陸軍少将に使いを出すと、沢本もこれを馬渕に図った上で了承した。馬渕はこの後どうなるかを既にわかっていたが、ここで陛下の御心を徹底せねばならないとわかっていたからだった。
馬渕は即、参内した。
午後8時
宮中
「陛下、ついに参りました」
馬渕は陛下に叛乱将校たちの親書を手渡した。
「あの本通りになったな」
「はっ」
「ならば、朕の心は決しておる」
馬渕は敬礼した。
「侍従長」
陛下は侍従長を勤める鈴木貫太郎海軍大将を呼ばれた。
「はい」
「以下、筆記せよ」
「はっ」
鈴木は椅子に座ると、紙を取りだし筆を握った。
「自殺するならば勝手に為すべく、かくのごときものに勅使など以ての外なり、また、叛乱将校は自らの責任を解せざるものなり、戦本はかくのごとき厚顔無知な輩を、即刻鎮圧すべし。彼らは朕がもっとも信頼し、そして朕の股肱たる重臣及び大将を殺害せんとし、朕を真綿にて首を絞むるがごとく苦悩せしむるものにして、甚だ遺憾に堪えず。而してその行為たるや憲法に違い、明治天皇の御勅諭にももとり、国体を汚しその明徴を傷つくるものにして深くこれを憂慮す。この際十分に粛軍の実を挙げ再び失態なき様にせざるべからず」
このようにおおせられると、陛下は馬渕の方を向かれた。
「後は、よろしく行え。また、首謀者その他の逮捕も」
「はっ」
ここに、叛乱軍将兵の希望は潰えた。
またこれを受けて戒厳司令部とされた戦本では速やかに討伐準備が整えられていった。
午後10時
市ヶ谷 統合戦略指揮本部
戒厳司令部
攻撃開始は27日9時と戒厳司令部で決定され、もはや小細工はなくなった。
この決定に伴い、叛乱軍展開地域の住民に対し避難勧告が出され、住民が僅かな手荷物を持ち、退去を始めた。
叛乱軍も決戦の覚悟を決めて、警視庁前、司法省前、山王ホテルなどに布陣し、兵の士気高揚の為の軍歌や万歳の声が周囲に響いていた。
「既に皇道派の首魁と思われる各高級将校の逮捕が始まりました」
佐藤純海軍少将が馬渕に連絡した。
「ついでに富永恭次と佐藤賢了、そして辻正信も、つまり、三月事件を引き起こした桜会の奴らも一緒に捕らえろ。例え統制派でも容赦はするな」
馬渕は言った。
「これを機会に粛軍を断行する」
「罪はどうされますか?」
「『国体を武力にて変えんとし、今回の叛乱を招いた。これは叛乱を起こさぬと言えども許される事ではない』、だ。実際、皇道派将校に対する隊内でのいじめは凄かったらしいからな。例え叛乱を実際には行なわぬと言えども、統制と軍部独裁を履き違える馬鹿に容赦は要らん」
「はっ」
外では、いままた雪が降っていた。帝都に雪。もうすぐ三月。春を迎えようとしているのに、この様な雪が振るとは。馬渕には、この雪が相食む事を運命付けられた皇軍に天が向けた、葬送の様に思えてならなかった。
しかしそんな思いを堪えると、馬渕は法務科の将校を呼んだ。
「軍事裁判の用意を整えて欲しい」
第一声はそうだった。
「わかっております」
「裁判の原則を確認する」
馬渕は言った。
「公開、二審制、弁護人あり、だ」
「それはわかっています。当然の処置でしょう。何を確認する必要があるのですか?」
「これは、帝國の将来とも深く関った事態である」
馬渕は言った。
「陸軍の中に、陸軍の面子によって、馬鹿どもに刑を科する事をひるむ奴等がいるからだ。既に、国防省陸軍部では策動が始まっている」
「それは!」
法務科将校は意気込んだ。
「司法の独立を侵害する行為です!」
「そうだ」
馬渕は言った。
「ここにおいて、全ての関係将校を、下級、高級の別なく断罪する。それが基本原則だ。君ら編成される者達には、その点、徹底して欲しい。それに関しては戦本が総力をあげて援護する」
将校は居住まいを正すと敬礼した。
「わかりました」
これにて全ての政治的判断は終了したのだった。
鎮圧が、始まる事となった。
1936年 2月27日 午前八時半
帝都東京
山王ホテル
叛乱軍のうち、解散を決意しない徹底交戦を唱える将校たちとそれに率いられた兵たちはここに集結した。その数七〇〇名あまり。戦車一四両を擁し、重機関銃十、軽機関銃三〇などを擁する、なかなかの火力を持った戦闘集団が、帝都東京の皇居近辺に布陣したのだった。
これは、前段において磯辺中尉が唱えたように、『皇居を背にしている山王ホテルを攻撃する事は、天皇に弓引くことと同じ』であるからだった。実際、攻撃に参加するのは近衛独立装甲団のみである。攻撃に参加しないとはいえ、これを包囲する海軍陸戦隊、陸軍歩兵第一師団に所属し、今回の叛乱部隊を出した第一、第三連隊の兵士たちには動揺が広がっている。
しかし、その動揺もすぐに収まることとなる。天皇陛下は皇居に軍服を持って鎮座し、叛乱軍に対して断固たる対応を求めたからである。そして既に勅命は下った。既に時間は午前八時半。勅命の期限である午前八時から三〇分が過ぎていた。彼らは、自ら逆賊足る事を選んだのだった。
既に前日において、山王ホテル支配人と交渉を持った馬渕海軍中将は、『皇軍の威を守り、逆賊を殲滅』すると言う大義名分のもと、支配人、経営者などと山王ホテル破壊についての許可を持っていた。
作戦計画はこうである。
1:攻撃開始は九時。それまでは叛乱軍部隊に投降を求める。
2:攻撃第一陣は多連装ロケット砲による徹底射撃。
3:攻撃第二陣は、戦車による攻撃。
4:歩兵戦闘車の援護のもと、歩兵の投入。
市街戦としては圧倒的なまでの火力集中だった。戦本が、如何に二・二六事件を重視していたかが、これで窺い知る事が出来るだろう。
そして、時間は過ぎた。午前九時の到来である。ここにいたって叛乱軍は総員六四二名までに減少していた。既に戦本は、叛乱部隊参加者全員に関しての詳細な名簿を作成し、全員の名前を確認していたほどだった。
攻撃は、計画通り多連装ロケットの攻撃から開始された。
空気の抜けるような音と共に箱型の発射機から次々とロケット弾が発射される。それらは山王ホテルの荘厳な雰囲気をかもし出す建物に次々と命中し、それを破壊した。兵士達が叫びを上げる。
包囲網を形成している兵士達は、これにより如何に天皇陛下の怒りが強いかを認識したことだろう。最も、全ては遅きに失したが。近衛独立装甲団という戦力に山王ホテル攻撃を命じたのは陛下御自身である事が既にわかっていたからだった。
ロケット弾による三〇分もの制圧射撃。これは、ただのホテルに対するものとしては空前絶後の破壊力を示した。建物の殆どは破壊され、其処彼処で叛乱軍兵士がうめきを挙げている。しかし、機銃座の中には反撃を開始するものも表れた。前を固める戦車に銃弾が着弾、火花を上げた。
次に射撃を開始したのは、榴弾を装填した戦車達だった。120粍滑腔砲から吐き出された砲弾は、次々と残っていた銃座を叩き潰す。爆発と共にアスファルトの道路に吐き出されるものは、兵士の血に塗れた肉体だった。それは、目にも鮮やかなカーキ色の陸軍軍服に他ならない。
戦車砲の発射音が止んだ。銃座は全て潰され、既に兵士達はうめきを上げている。轟音と共に戦車が前進を開始した。背後に控える歩兵戦闘車が戦車を楯に前進を開始する。
絶望的な反撃が敵から起こった。戦車に対して辛うじて有効なものとして彼等が考えていたのは彼等が保有する戦車と手榴弾だったが、その両方が十式戦車の前にはかなわなかった。掩体壕から表れた八九式、九五式戦車は、瞬く間に戦車砲弾、機関銃によって貫通され、爆発、炎上した。手榴弾は十式のキャタピラを破壊することは出来なかった。十式戦車のキャタピラは、手榴弾程度の爆発で壊れるような事が無い様に強化されているからだった。そして手榴弾投擲によって位置を明らかにした兵士たちの末路は哀れの一言に尽きた。兵士数人に対して行うにしては、あまりにも苛烈過ぎる銃弾の雨が降り注いだのだった。
五式歩兵戦闘車の後部扉が開き、防弾服を着用した歩兵達が降車した。隊員の被害を極度に恐れる自衛隊は、歩兵の防弾服をこれでもかと言うくらいにまで強化していた。アラミド繊維の一〇〇倍以上の強度を誇る三式歩兵戦闘衣は、この時代の機関銃弾さえ貫通する事を許さない。ヘルメットから降ろしている強化ガラス、随所に装着されているプロテクターなどには、必ずと言って良いほど強化措置が施されていた。
ここでホテル内部の戦闘について記す事は、如何に戦前の日本軍国主義を確立する要因となった彼らに対する嫌悪を持ってしても、あまり気持ちの良いものでは無い。其処で示されたのは、戦前の日本人がいかに敢闘精神を持っていたか、であり、そしてそれが狂気の方向へと傾いたとき、どれほど始末の悪いものになるか、を示すものでしかなかった。
ホテル内部の戦闘を行なった装甲団の兵士達は、部屋に対してまず手榴弾と銃弾を撃ち込んでからの突入を行なった。もちろん、閃光手榴弾と混ぜてある。
戦闘終了は午前十一時二三分。ホテル最上階のロイヤルスィートにおいて、叛乱軍決起将校、その最後の一人である野中四郎大尉は割腹して果てていた。
3月15日
帝都東京 市ヶ谷 統合戦略指揮本部
第1大会議室
叛乱開始直前から行なわれていた改装によって成立したこの大法廷の中には、既に三〇人以上になる高級、下級将校からなる被告達が存在した。彼等は、従容として席についた。
既に裁判官席には最高裁大法廷から招致された裁判官達が着席しており、傍聴席には各新聞社の記者達が並んでいた。そして参考人として皇道派、統制派の各将校、戦本から検察側証人として佐藤海軍少将が出席した。
そして異例な事に、裁判官の後ろ、一段高くなり、そして御簾に遮られた其処に、天皇陛下が鎮座していた。陛下は史実における裁判により、陸軍主導の軍部内閣が出来上がった事をすでに知っておられた。これを断固として食いとめるために、自らこの裁判に出席したのであった。
「これより先の帝都における叛乱、その首謀者達に対する審議を行なう。これに先立ち、陛下より御言葉がある。傾聴せよ」
裁判官の言葉と共に全員起立、一礼した。
「朕が股肱の臣達の命を狙い、あまつさえ、およそ一日に渡って帝都東京を騒がし、臣民に強く不幸をそち達は強いた」
その言葉に、叛乱軍将校たちは俯き、嗚咽をはじめた。事ここに至ってついに、彼らは陛下の御心に触れることがかなったのだった。
「しかし、罪はそち達だけのものでは無い。そち達を扇動し、唆し、今回のような暴挙に至らせた者達がいる。朕を思うが故を大義名分とし、この帝國を亡国へと導こうとする輩に、断固たる態度を朕とその臣達は示さねばならぬ」
その言葉に荒木、真崎をはじめとする皇道派高級将校と、急遽ここに呼ばれた桜会主要メンバー達の顔色が変った。陛下は、ここに皇道派とあわせて全ての叛乱行動の下となった桜会の断罪をも決意為されたのだった。
ここに呼ばれた桜会の主要メンバーとは、橋本欣五郎砲兵中佐、坂田義郎歩兵中佐、牟田口廉也、根本博、河辺虎四郎、土橋勇逸、富永恭次、辻政信等であった。陛下は、太平洋戦争においてこれらの将校が為した行為を、太平洋戦争においてこれらの将校が与えた影響を持ってこれらのものを断罪する決意を固められたのだった。
「これより裁判をはじめるが、そち達においては、もう一度自らの胸に手を当て、罪があるか無しかを問え」
陛下は着席為された。裁判参加者一同はもう一度陛下に一礼すると、着席した。
さて、ここまでする理由は、史実における裁判の流れにある。以下、史実における裁判の流れを見てみよう。
史実における裁判は、三月四日に発せられた緊急勅令によって設置された。以下のようなものである。
緊急勅令
朕茲に緊急の必要ありと認め枢密顧問の諮問を経て帝国憲法第八条第一項により東京陸軍軍法会議に関する件を裁可し之を公布せしむ
御名御璽
昭和十一年三月四日
内閣総理大臣
各省大臣
さて、この勅令により、陸軍首脳は叛乱軍をどう処分するかで議論噴騰した。
出た結論が、天皇によって戦地と同じ(戒厳令下のため)特設軍法会議を設けることとしたのであった。
この会議の特色が、世に言う
『上告なし、弁護人なし、非公開、一審制』
である。
現在の裁判とはまったく正反対の性質をもっているのがわかるだろう。
しかも軍法会議であるから、法曹界の裁判官や検事ではなく、軍人が裁判を行うことが出来るのだ。また普通軍の中で法問題を取り扱うのが法務官だが、別に他の兵科の人間でも構わないというのも重要な点である。
裁判前、陛下は叛乱将校に対し、既に結論を下していた。それは『天皇の宸襟を悩まし、軍人勅諭に背き、国体明徴を汚す者』という断罪である。もはや結果は決まったようなものだ。叛乱軍将兵の命運はこの裁判を前にして天皇のこの一言に決した。
さて、今回の事件については緊急勅令が出る前までは相沢事件裁判と同様に、第一師団の師団軍法会議で裁判しようと陸軍部内で、特に法務官の間で考えられていた。この形態であると、ほぼ普通の裁判と変わらず、弁護人もつくし、上告もできる。
ただ、この方法だと時間もそれなりにかかってしまうため、今回の前代未聞の大事件においては治安・軍紀保持の為に迅速に処理する必要に迫られた。
これに加え、天皇の勅令によって特設軍法会議が設置されたのである。
法廷は、被告人らの護送の関係で刑務所内に設けるのがいいと、議論が出たが、予審だけでなく公判までも刑務所内で行ったとすれば、のちに暗黒裁判と非難を受けるのは必至として、代々木練兵場内に6棟建てのバラックを建築した。バラックとは言っても各部屋ごと完全な防音が施された。
四月上旬に完成し、早速裁判が開始された。周囲を鉄条網が囲み、歩哨が随所に立っていた中で(なお、翌12年1月18日の判決終了後、素早くこの建物は解体された)。
裁判にあたり、匂坂春平法務官を主席検事とする検察官6名、裁判官としては小川関次郎法務官以下15名が任命された。この裁判官の中には普通の兵科の将校も任命されていた。例えば、酒井直次大佐や若松只一中佐などが挙げられる。また、検察官は人数が足りないということで地方の師団から4人の法務官が東京に召集された。
裁判についてもうすこし捕捉しておく。
裁判の事実上の指揮は陸相が受け持っていた。当時の陸相は寺内寿一大将で、裁判後は軍内部の粛正をした人物である。
まず、これだけで、裁判が公平さを欠いた、陸軍首脳の少なからぬ関与が考えられよう。そして、陸相の下に公判部と検察部に分けられる。公判部は文字通り裁判の判決を行うもので裁判官はこちらに属す。検察部も文字通り検察官が属している。
ここで、非常に重要な問題がある。
検察部は大臣の指揮の下で被告人の起訴/不起訴を決めた。公判部は「司法の独立」を建前としたが、結局裁判官は陸相に任命されることとなる。さらに、検察部は人事権や、捜査指揮権をも有していた。
これだけでもおわかりになると思うが、陸相いかんで、被告人を裁判にかけずにすむ、捜査の手をゆるめることができる、判決が気に入らなければ裁判官を換えてしまうことが出来るということが大問題なのである。
ここが暗黒裁判と呼ばれる最大の問題点なのであろうと私は解釈する。
なにより、こういう制度にしたのは、捜査が事件の黒幕……おそらく軍首脳に居たであろう大物を守ろうとしたに違いない。もしかしたら寺内陸相も一枚噛んでいたのかもしれない。
つまり、裁判が陸軍首脳の思惑通りに進行でき終結を迎えられるというメリットがあった。例えば、北一輝や西田税の死刑は判決前に既に陸軍中央で決定済みであった。これは
「かかる不敬の輩が将校を惑わし今日の事態を招いた」
とのことだった。
起訴された将校以下123名を予審にかけ、とくに事件に直接参加した将校20名は一ヶ月半で判決が下るという驚異的な早さで処理された。これら被告は将校班、下士官班、兵の班、常人班の5組に分けられ、それぞれの担当裁判官も同じく5組に分けられた。
さて、上記のような裁判が適当であるか否かなど、少しでも法学について学んだ事があるものならば明白である。繰り返す事になるが、つまり、陸軍首脳は天皇陛下の意思にもかかわらず、この事件をうやむやのうちに闇に葬ろうとしたのである。
既に戦本においてもこの様な二・二六事件の進捗は研究が四年前から行なわれており、ここにおいて太平洋戦争、並びにそれに伴う軍事行動において問題となる将校全てを軍から排除しようと決意したのである。
これにより、裁判の流れは陸軍における、第三者による『粛軍』となった。
一応一筆書いておくが、私は歴史の学徒であり、法学の学徒では無い。であるから、基本的な法の流れについては置く。しかし、断罪された将校その他がどのような判決を下されたかについてはここに記載する。
■叛乱参加将校(実動)
安藤輝三
香田清貞
栗原安秀
竹島継夫
対馬勝雄
中橋基明
丹生誠忠
坂井直
田中勝
中島莞爾
安田優
高橋太郎
林八郎
渋皮善助
水上源一
磯部浅一
村中孝次
判決:軍籍剥奪、死刑
■思想幇助者
北一輝
西田税
判決:禁固六年
■叛乱幇助
荒木貞夫陸軍大将・軍事参議官
真崎甚三郎陸軍大将・軍事参議官
香椎東京警備司令官兼東部防衛司令官
判決:予備役編入、禁固四年
阿部信行軍事参議官
西義一軍事参議官
植田謙吉軍事参議官
寺内寿一軍事参議官
判決:予備役編入、禁固三年、執行猶予六年
■旧桜会関係者
小磯国昭
建川美次
重藤千秋
杉山元
二宮治重
橋本欣五郎
坂田義郎
牟田口廉也
根本博
佐藤賢了
河辺虎四郎
土橋勇逸
富永恭次
辻政信
判決:予備役編入、禁固三年、執行猶予六年
ここに、二・二六事件はその終結を見たのであった。
2007年08月12日(日) 19:31:36 Modified by ID:aCwBTZQzHg