米内ですがハルノートを受諾しますた その2

その2:交渉開始にこぎつけますた

1941年12月14日未明。フィリピンの北、台湾の南。南シナ海のどこか。
「潜望鏡深度。」
「アイサー。」
海面から僅かに飛び出す機械の目。
「魚雷装填。」
「……考え直しませんか、艦長。」
「これは命令だ。長官直々のな。」
「……1番2番装填。」
その視線の先には、青く晴れた空。そして、その下に棚引く煙突の煙り。
「恨むなよ。別におまえらが悪い訳じゃない。運が悪かっただけだ。」
「発射用意。」
「用意良し。」
日南丸。2732トン。日産汽船の所有する真新しいこの貨客船は、タイからの旅客とゴムなどの資源を積んで、一路高雄へと向かっていた。台湾を経由して石垣、那覇、そして大阪へと向かう予定であった。
暁暗の海面に突き出た海中からの観察者は、14ノットで北上するのどかな民間船を無遠慮に見つめた。その様子を咎めるものは誰もいない。
「1番、2番。発射。」
誰にも正体を知られることのない海中で、乾いた声が呟く。
海中へと打ち出された2本の物体は、直径533mmの頭部で海水を切り裂き、白い航跡を残して日南丸へと殺到した。30ノットで迫るその円筒は、誰にも気づかれることなく衝突し、船腹を食い破る。就航後一年にも満たない貨客船は、わずか数分で波間へとその姿を消した。300人を超える乗員乗客をその身に抱きかかえたまま。
「……レント艦長。」
「言うな。何も言うな。」
フィリピンへと帰投するSS201トライトンの艦内には、ただ沈黙だけが満ちていた。


日南丸遭難、生存者4名 乗員乗客312名絶望 沈没前に謎の航跡 独潜水艦による雷撃か

紙面に躍る文字を見ながら、海軍次官・井上成美中将は苦渋に満ちた表情を浮かべていた。苦虫をどんぶり一杯は食わされたような渋面である。
「米軍の挑発に間違いないだろうが、しかしここまでやるかね。」
井上の目の前に座る男は、対照的に気の抜けたようなあっさりとした表情である。言外に、こうなることは分かっていたと言わんばかりの態度だ。
「伊66号やサイパンの件はまだ外に漏れていないが、海軍内部はガスがたまって火がつく寸前さ。米国はなんとしてもこっちに一発目を撃たせたいらしい。」
海軍大臣・山本五十六大将はあきれ顔で言う。
伊66号とは、当然ながら帝国海軍の潜水艦である。この艦は、フィリピンに増勢されたと見られる米国艦隊の動向を監視するため、南シナ海へと派遣されていた。しかし公海を航行中に米国駆逐艦に発見され、爆雷による制圧攻撃を受けた。伊66号は損傷を受けつつ辛くも逃れたが、これは明らかに公海上での違法行為である。しかし、米国との宥和を進める観点からこの事件についての抗議は棚上げされている。海軍部内では伊66号乗組員の拘留を含めた厳重な箝口令を敷いているが、いずれ漏れるのは時間の問題だ。
サイパンの件とは、12月10日以降グアムの米軍基地からサイパンへ頻々と領空侵犯機が舞い込んできていることだ。カタリナ飛行艇やP-40戦闘機に加えて、"空の要塞"B-17爆撃機までが、サイパン上空へと我が物顔で飛来しているのだ。現地部隊には、侵犯機に対して警告以上の行動は一切しないように厳命している。警告射撃すら許してはいない。しかし、現地から不満の声がひっきりなしに上がってきており、軍内部の圧力は次第に高まっている。
そこへ加えて、日南丸事件である。
独行の民間船が雷撃によって沈没する事態に、世論は沸き返っている。海軍では調査を進めるとのみコメントしているが、非公式の推測として『同盟脱退に対するドイツの報復ではないか』との憶測を流布させて誤魔化している。もちろん、これがまず間違いなく米国潜水艦による仕業であることは既に見当が付いている。しかし、断じて公にするわけにはいかない。
さらに貨客船には、悪いことに陸軍参謀本部から急遽タイへと派遣された高級士官数名が乗っていた。その中には、"作戦の神様"こと辻正信参謀本部員がいたという間の悪さである。陸軍からは海軍に対する突き上げも始まっていた。
「ともかく、米内さんからは『何としても我慢させろ』の一点張りだ。なんとか手を打って茶を濁すしかないな。護衛船団計画はどうなってる。」
山本の言に、井上はさらに渋い顔をした。
「『海上護衛総隊』計画には、軍令部総長が難色を示してる。」
「永野さんか。ま、気持ちは分かるがね。今の風潮で水雷戦隊を引っぺがされちゃ、二度と戻ってこないだろうからな。」
この事件を機に、上から商船護衛部隊の独立案が下りてきていた。聯合艦隊から水雷戦隊を中心とした巡洋艦や駆逐艦を分離し、大規模商船団の護衛任務を独立司令部で総覧させる。出所は不明だが、艦艇や人員を含めてイヤに現実的な計画案が回ってきている。
山本は、その出所が気にはなったがこのカードを積極的に切る気になっていた。臣民の海の安全を守る海軍。沸き返る世論を納得させるにはちょうどいい。
井上もこの案には賛成している。より正確には、『対米戦を回避するなら漸減作戦でもないだろう』と言うのが本音だが、彼の身近にはより積極的な賛同者がいた。同じ航空派の小沢治三郎や山口多聞だ。彼らは、欧州大戦の際に第二特務艦隊として地中海で護衛戦を戦っている。その戦訓からして、商船護衛や海路啓開の重視に賛同していた。
「もっとも、さっき総長を説得に行こうとしたら、"元帥の宮"がお越しになってたから、イヤでもねじ込まれるだろうが。」
「あの"総長宮"様が変われば変わるもんだ。」
かつて艦隊派の親玉として海軍に絶大な影響力を持っていた伏見宮博恭王も、いまや天皇陛下のシンパとして粛軍にかけずり回っている。米内内閣発足と同時に、政権中枢では大きな地殻変動が起こっている。あちこちで大きな動きが起き、同時に不平不満も噴出する。だがそれでも、米国相手に乾坤一擲の大ばくちを打つよりは内側でゴタゴタしていた方がまだましだ。
「とにかく、新たに『海上護衛総隊』を発足してこのような事態が起きないように万全を期す、という方向で一時凌ごう。」
米国が諦めて交渉の席に着くまで、何としても耐えるしかないのだ。山本と井上は互いに頷き合った。


「なぜだ!なぜジャップは撃ってこない!」
書類をたたき付ける音に怯える者はいない。ワシントン特別区にある白い家の一室では、車いすの上で一人の男が怒りの暴風となって荒れ狂っていたが、それを見る男達の視線は冷え冷えとしていた。
「閣下。そろそろ日本とは手打ちにするべきでは。」
「なんだと!」
ハル国務長官の言葉に、合衆国第32代大統領、フランクリン・デラノ・ルーズベルトは怒りに燃えさかる視線を向けた。
「このままチョビ髭がクレムリンに鍵十字を掲げるのを見ていろと言うのか!太平洋の覇権はどうなる!」
度重なる挑発にも動じない日本に、彼は激怒していた。
「良かろう、ヨナイめ!こうなったら、我々海軍の全力を見せてやろうではないか。ノックス!」
「はい、閣下。」
怒れる大統領の声に、ウィリアム・ノックス海軍長官はしらけた声で応えた。
「太平洋艦隊の戦艦を東京湾に送り込め!名目は……親善でも何でもいいからでっちあげろ!そして天皇の城に一発お見舞いしてやれ!」
「そ、それは!」
「理由は何とでもなる!これで奴らも挑発に乗るはずだ!」
怒りは怒りでも、これはあまりにも常軌を逸している。やはり、これはもうダメだ。
ハル国務長官と、スティムソン陸軍長官とノックス海軍長官は、互いに視線を交わした。戸惑いの視線ではない。何かを諦めたような視線だった。
「衛兵を呼ぼう。侍医もな。」
「ああ。」
すぐさま、室内に一隊の兵士と医師の一段が呼び込まれた。
「……なんのつもりだ。これは何のつもりだ!」
叫ぶ大統領に構わず、兵士達は彼を車いすからつかみ上げ、移動寝台の上に力ずくで寝かしつける。
「残念ながら大統領閣下は病に倒れられた。」
モーゲンソウ財務長官が、重々しく口にした。それはまるで弔辞のように。
「な、なにをする きさまらー!」
「ウォーレス副大統領をお呼びしよう。急いで就任式を。」
閣僚は互いに頷き、申し合わせたかのようにため息をついた。その後ろで、医師に鎮静剤を打たれた前大統領のわめき声がぱたりと止んだ。


「漸く、ご返答をお返しできてほっとしております。野村大使閣下。」
「確かに、些かお時間がかかったようですな。ですが、回答期限にはまだまだ余裕がありますのでご心配なく。国務長官閣下。」
時計の針は先ほど深夜を回ったところだ。1941年12月19日。あれから10日過ぎたことになる。
「詳しくは文書にて回答いたしましたが、要点だけ申し上げましょう。インドシナからの即時撤退と、中国軍との停戦を了承いただければ、合衆国政府はすぐさま交渉に入る用意があります。また、交渉の目的は新たな米日間の安全保障と、英国・オランダ、中国・タイを含んだ太平洋地域の安全保障です。交渉開始とともに、禁輸政策については可及的速やかに見直す用意があります。こちらをお受け取りください。」
コーデル・ハルは、感慨深げに大日本帝国への回答文書を手交しながら微笑んだ。
「なんとか、無事に交渉のテーブルに着くことが出来そうで、一安心です。」
文書を受け取った野村吉三郎も、安堵の笑顔を返した。
「ところで、前大統領閣下のご容態はいかがですか。」
野村の問いに、ハルは満面の笑みで頷いた。
「残念ながら重篤です。以前より重病をおして執務を続けていらしたのですが、このところの激務が祟ったようですな。」
「何卒ご静養されますようお伝えください。」
「ええ、ウォレス大統領から伝えておきます。では、失礼いたします。」


1941年12月19日。大西洋。ニューファンドランド島沖。
合衆国の保証海域内を進む客船を、海中から見つめる視線があった。
「魚雷装填。」
「……艦長。本当にやるのですか。司令部にもう一度確認すべきでは。」
「本艦は無線封鎖中だ。封緘命令書には大統領の署名もある。命令に従え。」
「……わかりました。1番2番装填。」
その客船の名はアキタニア号。彼女は奇しくも、1915年にU−ボートによって1198名の乗員乗客とともに波間へと沈められたルシタニア号の姉妹船であった。
この船とともに極寒の大西洋へと消えた人命は985名と姉妹船よりも少なかったが、その事件が与えた衝撃は姉妹船のそれを凌ぐことになる。
2007年08月21日(火) 09:11:45 Modified by ID:CdF1bKbHBQ




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