日本茶インストラクター協会、南風サロン - 八女茶発祥の地「霊巌寺」
八女茶発祥の地「霊巌寺」

応永13年(1406年)、明から帰朝された栄林周瑞禅師は、黒木城主黒木氏勝正清より寺領の寄進を受けられて伽藍を建立され、霊巌寺と命名されたという。周瑞禅師は明から茶の種子を持ち帰り、製茶の技法を伝授されているが、これが八女茶の始まりと伝えられている。(霊巌寺からいただいた資料より)


霊巌寺

では、周瑞禅師が伝えたという製茶法はどのようなものだろうか。

中国では、1391年洪武帝は団茶の製造を禁止したので散茶が普及することになる。散茶の製法は、14世紀初頭の記録によると茶葉を蒸して色がやや変わってきた頃に冷まし、手で軽く揉んでから炉の上で乾かすとある。その後、製法は蒸し製から釜炒り製へと全面的に替わり、16世紀末の記録では、生葉を鍋で炒り、笊の上で軽く揉むことを何回か繰り返してから炉にかけて乾燥させるとある。(『お茶からアジアを考える』より)

このようなことから、周瑞禅師は釜炒り茶を伝えたのではないかとも考えられるが、釜炒り茶の伝来は1654年に来日した隠元禅師によるものとされている。

その一方で、佐賀県嬉野町では1440年頃に平戸に来た中国の陶工が自家用に茶を植えたのが始まりとされ、また永正年間(1504〜21)には、明の紅令民が南京釜を携えて中国式の釜炒り茶のつくり方を伝えとされている。


樹冠の直径が3mを超える大茶樹、樹齢200年とのこと

中国と日本の交流は、室町時代にはきわめて活発であり、幕府の勘合貿易以外におびただしい船が行き来していたはずである。室町時代の中期には、釜炒り茶が日本に入ってきた可能性はきわめて大であるが、従来このことが主張されなかったのは、それを証明する記録がなかったためだろう。(前掲書より)

周瑞禅師が留学していた江蘇省の名茶は、緑茶として高級茶の碧螺春(ピロチュン)である。太湖の紺碧の輝きをあしらった名前といわれるが、3月下旬から4月上旬、すなわち清明節前に摘んだもので明前(みんぜん)茶ともいわれている。4月上旬では茶の芽も萌芽したばかりの一心一葉を摘む。一芽一芽摘まれた芽は、150〜160℃に加熱された鉄釜で炒ることから始まる。あまりにも小さな幼芽であり緩急よろしく揉んで、さらに鉄釜で乾燥、仕上げる。(『中国名茶の旅』より)

「周瑞禅師が伝えたのは釜炒り茶?」という何某かの手がかりが発見できればと期待して霊巌寺を訪れたのだが、・・・。

written by sakataka