帝国の竜神様閑話12

1942年 4月15日 上海租界 倉庫街

 その男は両手にケースを持って一人でその場所にやってきた。
 日本人はその倉庫の中には彼一人しかおらず、当然のように日本語は使われなかった。
「満州映画協会の者だ。
 撮影の機材を買いに来た」
「甘粕理事長は元気か?
 新作映画は上海でも公開してくれるんだろうな?」
「ああ、大陸全土を熱狂に導く李香蘭の新作を出すそうだ。
 『萬世流芳』。楽しみにしてくれ」
「それは期待するな。
 いい映画が撮れることを祈っているよ」
 互いを確認するために映画の仕事にみせかけた合言葉を言い合い、男は持っていた二つのケースを手下だろう中国人の男に手渡した。
 一つのケースの中を開ける。
 ケースいっぱいに詰められていた白い粉の袋を少しずつ開けて、それが本物である事を確認する。
 もう一つのケースの中を開ける。
 大量に詰められた中華民国の札束を確認する。
「残りは?」
「船の中だ。後で確認に来てくれ」
「了解した」
 中国人たちはケースを持ってそのまま出ていった。
 後に、大量の荷物が置かれたままの倉庫に日本人一人だけが残った。

 数日後、大連に向かう貨客船上のバーに彼の姿があった。
 あの倉庫の荷物は全てこの船に積み込んでいる。
 仕事を終えた達成感もあって心地よくウィスキーを摂取していると、隣の席にからボトルが差し出される。
 そのボトルを男は手に取り、差し出した日本人女性に先ほどの達成感も消えて忌々しそうに、けれど表面上は恭しく女に言葉を差し出した。
「私は、祖国の為に働いていると信じているのだがね。
 神祇院は、祖国への貢献すら犯罪として立件するのかね?
 それに、今の私は満州映画協会の人間という事に旅券上ではなっているはずだか?」
「ヴァハ特務大尉と申します。
 それを決めるのこそ、貴方の言う祖国ですから。
 私には調査が命じられたのみで。辻少佐」
 偽装旅券の名前でなく本名を言い当てられた事に驚きながらも、動揺を顔に出す事無く日本人に擬態した彼女が差し出したボトルを開ける。
「スコッチ。
 どうやって、手に入れたんだ?」
 グラスを二つ用意し、透明な氷にゆっくりと琥珀色の液体がかけられてゆく。
「少佐と同じ出先ですわ。
 ソ連に行く筈だった、対国民党レンドリース」
 差し出されたグラスを持って、彼女はそのグラスを彼のグラスに重ねる。
 澄んだ音が小さくバーに響き、琥珀色の液体はグラスの中の海から彼と彼女の体の中に消えてゆく。

 彼女の主達がこの星にやってきてから帝国は戦争から足抜けし、ソ連は貰うはずだった英米からの物資支援が貰えずに苦しんでいた。
 一方、帝国が足抜けした中華大陸では三峡ダム建設に伴う農民蜂起がきっかけとなって共産党と国民党の内戦が勃発。
 ソ連に渡しそこなった大量の物資が共産党打倒の為に上海に陸揚げされる事となった。
「別に正当な取引でこの船に積んである物を手に入れたのでしたら、我々も動きはしません。
 問題は、受け取りの商品では無く、代金の方に我々は注目している訳で」
 からんからんとグラスを揺らしながら、女は男に尋ねる。
「何、正当な代価だと思うよ。
 彼らがそれを欲したのは事実だ」
 女の目が鋭くなり、言葉で人を殺すような質問を男にぶつけた。
「阿片と偽札が正当な代価だと?」
 男の手が止まる。
 だが、この男がそれで負けを認めるほどやわでもないし、頭も悪くない。
「上海のマフィアを壊滅させた神祇院に言われる筋合いはないな」
「壊滅させたのは、蝗と呼ばれる謎の集団だそうです。
 ご訂正を」
 男はしらじらしく頭をかいて謝罪し、彼女のグラスに琥珀色の液体を注ぐ。
「ああ、そうだったな。
 何故か、富士の黒長耳族の居住区に上海で出回っていた品が多く見受けられるのだが、第三者から買ったのかな?
 まぁ、いい。
 特務大尉。彼らが何で阿片と偽札を欲したか知っているかい?」
 女は答えない。
 少なくともそれを答えることは彼女の任務には入っていない。
「君達の主のおかげさ。
 君達の主が、三峡にダムなんぞ作ったまま帝国を足抜けさせたから、国民党と共産党がまた内戦を始めたのさ」
「それの何処が、正当な理由……」
 女の言葉がとまったのは、男に手で制されたから。
 男は、グラスに残った琥珀色の液体を飲み込んで、自らまたグラスに飲み込んだそれを注ぐ。
「三峡ダムのおかげで四川盆地の農民が軒並み土地を失い、国民党は彼らに対して十分な保障をしなかった。
 結果、彼ら農民のほとんどが共産党支持に回り、危機感を覚えた米国がレンドリースと共に軍事顧問団を送り込んだ。
 ここまでは、君でも知っているだろう」
 諜報機関に所属する女に現状を語るなど釈迦に説法なような可笑しさがあるが、ここから先の話は甘粕から聞いた間違いなく彼女も掴んでいない話だった。
「この大陸にどれぐらいの人間が居て、その何割が農民だか知っているか?
 公称で四億。辺境の異民族や登録していない浮浪民を入れたら更に一億は跳ね上がるだろう。
 五億の民のほとんどがその農民なんだよ。
 この大陸では」
 女の顔が始めて動揺したのを男は見逃さなかった。
「国民党はこの大陸の大多数の民を敵に回した。
 で、この二つさ。
 正規の紙幣を農民達にばら撒いたらインフレになるんで、愚かな農民達をだます為だけの偽札を彼らは欲し、それを使って農民を慰撫し、阿片で薬漬けにして共産党に走らせないようにする。
 この取引の相手は上海の裏社会ではない。
 その裏社会に取り込まれた国民党首脳部の公認取引なのさ」
 流石に女もグラスを持ったまま何もいえない。
 彼女達が元居た世界も弱肉強食な世界ではあったが、大陸で行われているそれは間違いなく彼女達の世界と比べると桁が違う。
 彼女の元居た世界の感覚で一つの世界の人口を治める超大国だと思っていた中国が、ここまで腐っているとは思っていなかったのだ。
「それで、援助物資の横流しですか?」
「書類上では、この船に積んであるトラックとトラクターは三峡ダム近隣の工区に送られ、共産ゲリラの攻撃によって破壊となっている。
 そして、国民党のスポンサーは世界一の金持ち国家米国さ。
 もうこの船に詰まれた数百倍のトラックとトラクターが西海岸から上海を目指して向かっているさ」
 淡々と、机上の出来事として男は平然と語る。
 だが、グラスを傾ける手が速まったのは、男にも良心が残っているのか、それともこの特務大尉を言いくるめる為に緊張しているからなのか。
「阿片も、栽培作物でね。
 ある程度の土地と、その土地の治安の安定、そして流通経路が無いと取引ができない。
 流石に愚かなる大陸の農民ですら、自分達の栽培した阿片を自分達が吸う事位は分かるだろうから、大陸以外から安定して阿片を供給できる国が必要だった」

「……それが、帝国だったと?」
「帝国『も』だよ。
 満州以上に阿片生産に力を入れて、過去この大陸で戦争まで起した列強も同じ事をやっている。
 英国さ。
 そして、英国はインドで作られた阿片の儲けを戦時国債の償還の為、国債を買ってもらった米国に支払っている訳さ。
 すばらしい世界だろう!
 薬漬けにされて偽金の給与をもらうこの大陸の農民達以外は誰もが幸せになるという寸法さ」
 男があげた感嘆の声に、憤怒と絶望と狂気が混じっているのを女は責める事ができない。
「元々、帝国は大陸での戦争で彼ら国民党軍を崩壊させる為に、陸軍工作機関を通じて偽札をばら撒き、阿片をばら撒いて彼らを切り崩そうとした。
 それが結局失敗に終わったのは、我々帝国が大陸の暗黒街と繋がっておらず、帝国占領地での流通でとどまっていたからさ。
 自らが占領している土地の治安を崩壊させるほど我々も馬鹿ではないさ。
 足抜けして、初めて我々のやり方が間違っている事を教えられたよ。
 感謝しているさ。
 上海暗黒街で蝗が暴れまわったおかげで、暗黒街の世代交代が起こり何も考えない若者達が上に立った事で我々が作る阿片にも彼らの触手が伸びたのだから」
 英領香港から出回る阿片は当然北に行けば行くほど値段が高くなり、広東系マフィアの隆盛を招いていた。
 それに対抗したい上海・北京系のマフィアが安価で阿片を手に入れる事ができる国は満州しかなかったのだ。
 実際、満州(熱河省)産の阿片は北京では英国産を駆逐し、上海でも互角の価格競争力を誇っていたのだった。
 酒と共に胸の思いを男は女に叩き付ける。
 それは、彼なりの歪んだ愛国心の発露でもあった。聞かされた彼女には迷惑以外の何者でもなかったが。
「そして、手に入れるのがトラクターにトラックだ。
 これを使って満州開発は更に加速する。
 北満州の油田でガソリンは足りるし、壊れても彼らが国共内戦を続け麻薬と偽金を欲する限り、いくらでも横流しができる。
 ヴァハ特務大尉。
 私は戦争しか知らない馬鹿かもしれないが、今の帝国が対ソ戦に参戦するのは愚かだと甘粕理事長に諭されて変わったのだよ。
 欧米列強の軍勢を打ち破る更に強固なる軍隊を持つ為に帝国には時間が必要だ。
 それをそろえる為に、甘粕理事長の命でこうしてこの船で君と酒を交わしているのさ。
 そんな愛国者たる私を君は弾劾するのかい?」
 彼女は何も言わない。いや、言えない。
「私は、あくまで調査するのみです。
 その対象の処罰まで命令に含まれておりません」
 男は知っていた。彼女の言葉が嘘であると。
 梅津関東軍司令官に直結した彼女達は政治将校として、関東軍全体の調査と粛正をやっているのは事実だったのだから。
 対ソ戦に向けての先制攻撃を主張していた将校の一派が関東軍でパージされたのは彼女達の調査が原因だったし、そのパージされた将校を甘粕が庇護し、二階級昇進を餌に満州国軍に編入させているのを女が知っているのも男は知っていた。
 彼自身も大佐の地位で近く満州国軍に移る事になる予定だった。
 女がその気になればこの船上で男の屍を晒す事など容易だったのだが、男の狂気と強気の愛国心、そして甘粕という大物の名前が女の刃を逸らせたのだった。
 女は人形のように感情の無い声をたどたどしく口に出して、グラスの中の液体を一気に飲み干した。 
「失礼します。
 いずれ、軍より甘粕理事長共々召喚があると思いますので」
「ああ。おやすみ。
 良い夢を見れる事を祈っているよ」
 女が去ろうとした歩みを止めたのは、男のこんな言葉だった。
「ああ、そうだ。
 君達の長の銀幕御前に伝えてくれないか?
 ぜひ満州に来て、映画を作って欲しいと。
 李香蘭と並ばせて、世界に残る名作を作って見せると甘粕理事長が言っていたと」
「……確かに伝えておきます。
 では」

 女が去った後、男は肩を震わせて笑い出す。
 最後の一言は、当然酒の席の出鱈目だ。
 だが、甘粕が聞いたら迷う事無く実行に移すだろう。
 彼は満州における帝国の実力者の一人であり、紛れもなく映画に心を奪われた趣味人でもあったのだから。
「『満州は映画のようなもの』か」
 甘粕にとって満州とは映画の舞台であり、満州発展は摩天楼が張りぼてか本物かの違いでしかないのだろう。
 だから純粋に手を汚し、純粋なままで満州発展に力を注ぐ。
 そんな彼と知り合えた事を男は感謝していた。
 今の言葉を甘粕に伝えてやろう。彼のことだ。きっといい映画を作るだろう。
 ボトルに残った少しばかりのブランデーをラッパ飲みして、出て行った女に吐き出したい言葉を飲み込んだ。
(ヴァハ特務大尉。
 君達が、まだ歴史に詳しくなくて助かったよ。
 我らの同盟国がトラクターと称して何を整備したか知っていたらまた別だったろうに)

 結局、この男の愛国的行動は、甘粕正彦の助けによって黙殺された。
 その結果、関東軍は映画撮影と称して整備された米軍装備の機甲部隊を見てぶったまげる事になるが、それはまた別の話。


帝国の竜神様 閑話12
2010年07月19日(月) 16:52:12 Modified by nadesikononakanohito




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