帝国の竜神様28

1942年5月28日 モスクワ クレムリン 地下

 「ぱん」と乾いた音がすると、「どさっ」と男が倒れた。
 倒れた男の後ろには顔面蒼白の男が持っていた拳銃を落として震えていた。
 撃った男はラヴレンチー・ベリヤ。撃たれた男はヨシフ・スターリンという。
「や、やった……やったぞ……
 同志スターリンを……スターリンを殺したぞ……」
 体の震えが止まらない。
 汗がとめどなく流れる。
 砲声が近くに聞こえる。
 既にドイツ軍は赤の広場に侵入しており、赤軍と激しく交戦を続けていた。
 クレムリンの地上構造物は砲爆撃で全て瓦礫と化し、クレムリンを制圧すればこのモスクワがドイツのものになると分かっていたから、双方必死になって互いの血を流し合っていた。
 この地下道は、スターリンとべリヤしか知らない脱出用の秘密の地下道の為、ここに来る者は誰もいない。
 ベリヤは来た道を引き返して、地下のスターリンの執務室に戻る。
 秘密の扉を閉めるともう何処に通路があったか知らない者には分からない。
「ご苦労様でした。同志ベリヤ」
 執務室で待っていたのはヴャチェスラフ・モロトフ外相だった。
「スターリンは死んだ。
 後は同志がゴーリキーでソビエトを指導すればいい。同志モロトフ」
 吐き捨てるようにベリヤは言った。それは己が犯した罪の重さに耐え切れない裏返しでもあった。
 彼がどうしてモロトフの誘いに乗ってスターリンを裏切ったのか、モロトフは知らない。
 だが、はき捨てた後に憑き物が落ちたようなベリヤの顔を見ると、この男にこんな穏やかな顔ができたのかと知らなかったベリヤの一面を見たような気がした。
「これからも、NKVD長官として国家の為に尽くしてくれたまえ。同志ベリヤ。
 さぁ、我々もゴーリキーへ移ろう」
 優しくベリヤの肩を叩くモトロフだが、ヘリヤの口からはまったく想像していなかった言葉がでてきた。
「いや、私はここに残ろう。同志モロトフ」
「何を言い出すんだ!同志ベリヤ。
 もうクレムリンの上にすらナチどもが来ているというのに……」
 説得しようとした、モロトフの言葉をベリヤの痛烈な一言が打ち砕いた。
「どうせ死ぬなら、同志に粛清されるより、ナチに殺される方がましだ」
 と。
 モロトフの体が止まった。
「私を誰だと思っている?同志モロトフ。
 人民の敵を粛清してきたNKVD長官だぞ。
 同志達の動きは最初から最後まで掴んでいたさ」
「な、何故邪魔しなかった……」
 ベリヤは秘密の扉の方を見つめて微笑んだ。
「モスクワが落ちる事無く、スターリングラードでナチを包囲殲滅できたなら……」
 あった事を語るかのように冷酷にベリヤは淡々と話した。
「同志諸君を逮捕。粛清する手はずになっていた。
 同志スターリンの承諾も得ている。
 全部知っていたのだよ。同志スターリンは。
 トロツキー生存の噂から、軍内部の造反と党内の造反まで全て。
 私が報告したのだから」
 砲声がえらく遠くに聞こえるような錯覚をモロトフは覚えた。
 ベリヤは全部知っていた。それでも、モロトフの誘いに乗った。
 それは、モスクワ陥落によるスターリン失脚を見越しての事だったというのだろうか。
「処刑場に運ばれるまでの同志達を知っているか?同志モロトフ。
 疑心暗鬼の果て、味方と思っていた者に裏切られ、泣き叫び、全てに絶望してこの世界を呪詛する同志達の叫びを聞いた事があるか?同志モロトフ。
 私は、仕事でその呪詛を一心に受けてきた。
 だが、同志スターリンにそのような呪詛は似合わない。そうだろう?同志モロトフ」
 唐突に、モロトフは悟った。
 ベリヤは本当に同志スターリンに忠誠を尽くしていたのだと。
 だからこそ、死後のスターリンの名誉を守ろうとしたのだ。己を最後まで闇の中に置いて。
 歴史上に残るであろう裏切り者の汚名すら感受して。
「砲火が激しくなってきたな。
 ここも長くはもたないだろう。
 同士モロトフ。行きたまえ。
 モスクワに残しているのは同志スターリンに忠誠を誓う者達で固められている。
 ナチを道ずれにまとめて消えるとしよう。
 それでもソビエトが纏まらないなら、私の名前を出すといい。
 モスクワ陥落後に死体不明で私を粛清すれば、党内は纏まるはずだ」
 モロトフは何も言わずに執務室から出て行こうとした。
「勘違いするな。同志モロトフ。
 同志の責務は果てしなく長いぞ。
 何としてでも、革命を継続させてくれ。
 ナチに蹂躙されても、長い長い苦難の日々を超えてでも。
 同志レーニンから受け継いだ、同志スターリンの革命の炎を消さないでくれ。
 それが、私の、いや、同志スターリンの遺言だと思ってくれると嬉しい」
「同志ベリヤ。貴方に神の加護を……」
 そう言って、部屋を出て行ったモロトフの扉に小声で呟いた。
「共産党員として許されざる一言ですな……
 まぁ、聞かなかったことにしてあげましょう」
 そのまま、スターリンを撃った銃をこめかみに向けた。
 地下の奥深い執務室で響いた一発の銃声はその上の砲火にまぎれて誰にも聞こえる事はなかった。

 その三日後。ドイツはモスクワ陥落を全世界に向けて発表。
 ソ連政府はゴーリキーにて、ドイツと徹底抗戦する旨を宣言。指導部が健在である事を示した。
 ただ、モスクワ陥落後からスターリンとベリヤの名前は連呼される事は無かった。


1942年6月5日 イタリア ローマ バチカン

 赤の法衣に身を包んだ男達がひそひそと話をしている。
「スターリンが死んだか」
「それでソ連はどうなるのだ?」
「ソ連政府は集団指導体制の元、政府機関はゴーリキーへ移転して徹底抗戦を宣言したそうだ。
 極東軍にジューコフが率いていたスターリングラード防衛軍がゴーリキーを目指し、モスクワを落とした独軍にそれを潰す余力はもう残ってないだろう」
 独ソ戦のクライマックス第二次モスクワ攻略作戦「クレーメル」は、ソ連側の失策とドイツ側の損害を省みない猛攻によってドイツの勝利に終った。
 その理由として第一に、独軍の目標が「ブラウ」のスターリングラードだと思っていた事。
 第二に、その迎撃の為にロンメル率いる南方B軍を叩く事を決定した事。
 第三に、ロンメルを叩く為にモスクワに待機させていた最後の予備兵力を南下させた事。
 最後に、ドイツは陸軍と後にヒトラーまでもがモスクワを落としスターリンを失脚させれば戦争が終わると考えていた事だった。
 スターリングラードを包囲したロンメル率いる南方B軍は大爆撃でスターリングラードを灰燼に帰すとあっさりとドン川まで後退。
 激怒したスターリンの厳命でジューコフ率いるスターリングラード防衛軍がロンメルを追いかけるが、「雪原の狐」と呼ばれるロンメルはその名に相応しい遁走ぶりを発揮。
 全速力かつ、ソ連軍がぎりぎりで届くあたりまで軍を引いた後に挑発するかのように小部隊で撹乱してみせた。
 そのあまりの逃げっぷりの良さに、
「うちの軍はイタリヤ並に逃げる事だけうまくなりやがって……」
 皮肉たっぷりの賛辞をバイエルライン少将が言うぐらい、ロンメルはソ連軍を翻弄してみせたのだ。
 そして、南方B軍の殿がドン川を渡河したその時に、ジューコフの元にモスクワ危機とモスクワ防衛のスターリンの命令変更が届けられると今度はロンメルが逆襲に出る。
 消耗した同盟国軍と武装SSをドン川に置き去りにして、アフリカからの付き合いである手持ちの三個機甲師団でソ連軍の背後に噛み付いたのだ。
 もちろん、逆上したソ連軍がロンメルを捕捉しようとしてもその機動力でドン川向こうに逃げられ、軍をモスクワに向ければその背後に噛み付かれるというどうどうめぐり。
 そんないたちごっこが一週間続けられたあと、完全に独軍はドン川から東に出なくなりロンメルが目的を果した事をジューコフは痛感せざるをえなかった。
 今から、モスクワに向かっても間に合わない。
 既に、モスクワ市内での戦闘に移っており政府中枢はゴーリキーへ避難していた。
 モスクワ陥落後、結局南部はドン川を挟んで独ソ両軍がにらみ合う形で安定してしまった。
 むしろ問題なのは、モスクワを落とした『クレーメル』作戦参加戦力の方だった。
 モスクワを中心にした独軍突出部に残っているのは、半分以上が後方で再編が必要とされている傷ついた部隊だった。
 その部隊を極東からの増援と南方からの予備兵力でじわりとソ連軍は包囲をしつつあった。
 独軍に幸いだったのが、モスクワ陥落とスターリン粛清による衝撃で北部レニングラードが6月3日に降伏し、北部方面軍が中央に転出できるという事ぐらいだろうか。
 議場の中央に彼ら赤の法衣の主人が座る。
「諸君。静かに。
 今より、枢機卿会議を開催する」
 中央の法王に向けて、みなの視線が集まる。
「まずは、欧州における悲劇について。
 皆の話を聞きたい」
 話す議題の最初はそれだった。
 ソ連のモスクワ陥落とスターリンの粛清に伴う独ソ戦の動きがどう欧州にバチカンに関わってくるのか、枢機卿達はそれを心配していた。
「ドイツはモスクワを取りましたが、ソ連は徹底抗戦を叫んでいます。
 ナポレオンが、ロシアに攻め込んだ時もモスクワはナポレオンの手に一度落ちています」
 別の枢機卿か口を挟む。
「では、欧州はまだ一波乱があるという事か」
 バルカン選出の枢機卿が口を挟んだ。
「むしろ気になるのは英国が攻めているクレタだ。
 クレタが落ちたので、イタリア軍の苦戦続きの北アフリカを考えて、英国がこのイタリアを戦場に選ぶ可能性もある。
 我々は1527年の悲劇を繰り返すべきではない」
 既にクレタはモスクワ陥落を邪魔するかのように6/1日に陥落していた。
 1527年、ローマを略奪をした神聖ローマ帝国軍に英軍をなぞられてイタリア、いやバチカンが英軍の戦火に晒される事を皆非常に恐れていた。
 一人の枢機卿が口を開く。
「だが、シチリアにドラゴンがいて、各国とも戦火が及ばないように気をつけているのではないのか?」
「所詮英国人とドイツ人だ。彼らを信用しろというのならば、私は地獄の悪魔すら信用するな」
 フランス選出の枢機卿が吐き捨てたが積年の恨みと母国の惨状を考えればさもありなんと皆、誰もが思った。
「だからこそ、ドラゴンのことについて考えねばなりません」
 末席に座っていた枢機卿の声に皆がその枢機卿シチリア選出のカルロ・ブルーノ枢機卿に視線が集まった。
「何をだ?」
 十分に視線が集まったことを確認した後にカルロは口を開く。
「我々は人々を惑わす物として魔法や魔術を迫害してきました。
 それは、彼らが実際に魔法を使えたからです。
 ですが、魔法と奇跡の差なんて我々が認証したかどうかの違いでしかないのです」
 戸惑いが枢機卿間の間で漏れた。
 それは、カトリックが行った罪の懺悔に等しかったのだから。
「何がいいたいのだ!」
 一人の枢機卿の叫びに、日曜のミサで祈るような笑みを浮べてカルロは核心を述べた。
「ドラゴンという魔法の象徴が現出した今、闇に蠢く組織が表に出てくる。
 というのです」
 事実だった。
 ナチスのユダヤ人狩り以上に、欧州全域で吹き荒れる魔女狩りが欧州社会に深刻な影を落としていっていた。
 シチリアドラゴンの眷属として、ドラゴンの目として耳として欧州にばら撒かれたドラキュリーナ達に対する過剰反応が、欧州の闇を掘り出してしまったのだった。
 彼女達は別に人を殺してはいない。ただ、生きながらえる為に人間の血を吸うだけの美女達。
 それが吸血鬼と結びついて魔女狩りに発展するまでたいした時間はかからなかった。
 各国辺境の村や町では美女であるというだけで、女性が陵辱されて殺された。
 また、女性のほうもただ襲われるだけででなく防衛の為に、襲ってきた男を殺すケースも大漁に出てきた。
 強制収容所のユダヤ人女性の方が魔女狩りに襲われなかっただけましという大迫害が欧州全域で吹き荒れているのだった。
 既に大陸欧州は総力戦など行えないどころか、暗黒中世さながらの性差差別が急速に広がりつつあった。
 それが表に出てきていないのは、欧州が戦争下にあり、迫害を受けつつある女性達がナチスSSに助けを求めたからに他ならない。
「更に問題が出てきています」
 カルロは嬉しそうに、皆に写真を配る。
 その写真の中には子供達が映っていた。
 中に浮く子供。水の上を歩く子供。傷を治す子供……
「四月から我がシチリアでこのような子供達が大漁に出てきています。
 他の教区ではいかがですかな?」
 その言葉に数人の枢機卿が下を向いた。
「奇跡が…いや、魔法が復活しつつあるのですよ。
 欧州に。かつての主の御世と同じように」 
「カルロ枢機卿!口を慎みたまえ!!」
 一人の枢機卿が立ち上がって怒鳴るが、それは己が持っていた闇の裏返しでしかない。
「何故神話の御世にしかいないドラゴンと同じ姿でドラゴンが現れたのか?
 何故おとぎ話としか思えない吸血鬼が出てきたのか?
 そして、何故、主の力を子供達が使えるのか?
 ……考えてみれば、簡単な事です。
 モデルがあったんですよ。かつて。我々が失った力が主の御世には存在していた!」
「口を慎みたまえ。カルロ枢機卿」
 中央の紫色の法衣をつけた男が優しく口を開き、カルロも恭しく一礼した。
「失礼しました」
「いや、いい。
 それでカルロ枢機卿は何を求めているのか?」
 恭しく頭を下げたまま、カルロは口を開いた。
「公会議を開催すべきです。
 カトリック・プロテスタント・正教だけでなく、異端から秘密結社まで含めた公会議を」
 場がざわついたがカルロは気にもしない。
「そうです。主の尊厳の為にも。
 我々は各国を糾合して新たなる十字軍を編成しなければなりません。
 だからこそ、シチリアの、全てのドラゴンを滅ぼさないといけないのです」


 帝国の竜神様 28
2007年03月26日(月) 19:03:57 Modified by nadesikononakanohito




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