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妙心寺 の境内



JR花園から右に路沿いを上がると5分もすると妙心寺の南門に着く
妙心寺  説明
妙心寺 臨済宗妙心寺派大本山の寺院 山号を正法山 南のJR花園側の表門
妙心寺の三門東福寺三門、大徳寺三門に次いで古い三門建築です。上層には須彌壇が置かれ観世音菩薩像、善財童子、月蓋長者、十六羅漢などの木造が安置されています。彩色絵は狩野権左衛門筆
法堂につながる大庫裏

退蔵院庭園  説明
三門の西の退蔵院  枯山水の史跡名勝退蔵院は今から600年前、応永十一年(1404)波多野出雲守通が妙心寺第三世無因宗因禅師に帰依して建立された寺です。現在山内寺院40余寺中、屈指の古刹です。中興の祖亀年禅愉は後奈良天皇の御帰依深く、特に照天祖鑑の国師号を賜ったそうです。
水琴窟(すいきんくつ)、
余香宛 造園家中昭和38年に着工し、3年の月日を費やして完成根金作氏の設計
余香宛
衝梅院庭園  説明
文明十二(1480)細川政元の下護によって建立された妙心寺第六世雪江宗深禅師の塔所。応仁の乱に罹災し、慶長四年(1499)に至って再建された。 [方丈] 重文・桃山  大阪夏の陣に豊臣方十勇士の一人に数えられた真野蔵人一綱の寄進とつたえる。 方丈内部の障壁画は大阪画壇の大岡春卜晩年の作品で、いずれも墨画を基調とした充実した作品をみせている。 なお境内は投老軒・錦嶺軒の両書院を有し、また庭園は楓樹を配した苔庭となっている
桂春院庭園  説明
1598年に初期見性院で開院 1631年桂南守和尚の元で 建物が完備
真如の庭  方丈の南をつつじで囲み苔で覆う庭
茶室側から見る侘びの庭
清浄の庭から見る侘びの庭
真如の庭裏 石河家代々の墓を楓が守る。
茶室からの侘びの庭を見る
茶室からの侘びの庭
方丈からの庭
清浄の庭  井戸を利用して 奇岩を配して清らかな庭にしている。
既白庵茶室 茶室の置くににじり口がある茶室が隠されている。茶道が邪道で入牢の罪もあった。そのために書院との扉は本棚になつていた。
東林院庭園  説明
妙心寺境内の東側に位置。1531年(享禄4)、細川氏綱が父の菩提を弔うために建立。本堂前庭には、樹齢300年という沙羅双樹の枯木と十数本の沙羅の木があり、その花が美しい寺として知られる。見ごろとなる季節には、沙羅の花を愛でる会(6月12〜30日)を開催。特別公開される。住職手作りの精進料理が食べられる宿坊としても有名。
大通院の門前  説明
山内一豊と妻千代ゆかりの寺院、天正14年(1586年)、一柳直末が妙心寺五十八世南化玄興定慧円明国師を開祖とし創建した。二世の湘南宗化大航普済禅師は山内一豊の子。以降、土佐藩主・山内家の菩提寺となった。境内奥に、山内一豊と妻千代の卵塔の墓石と位牌、肖像画が祀られている御廟がある。山内家の菩提寺で、天正14年(1586)美濃の国土岐氏の家臣、一柳直末が南化玄興を開山として創建。山内一豊は信長、秀吉、家康と三代に仕え、権力闘争を乗り切った戦国武将で、妻千代は「内助の功」で夫を支えた賢夫人として知られる。境内にはこの一豊夫妻の御廟があり、夫妻の墓石が並んで祀られているのはたいへんめずらしい。
隣華院の門前  説明
賤ケ岳の戦いで活躍した七本槍のひとり、脇坂安治が慶長4年(1599)南化玄興を開山として創建。方丈には長谷川等伯61歳の作といわれ、構図、筆致ともに雄大さを感じさせる襖絵「水墨山水図」(重文)が描かれているほか、京狩野派として活躍した江戸後期の絵師、狩野永岳の筆による「四季花鳥図」「紅葉図」など金地極彩色の鮮やかな襖絵で飾られている。
春光院の門前  説明
臨済宗妙心寺派に属する。もとは俊巌院と称した。豊臣秀吉の家来で後に松江城主となった堀尾吉晴が、長子金助の菩提を弔うため天正18年(1590)に建立したが、堀尾家三代目の忠晴(寛永10年病没)に嗣子なく断絶した。その後忠晴の息女が石川氏に嫁いでいたことら石川憲之が代わって壇越となり中興して寺名も春光院と改称した。方丈には、京狩野派として活躍した江戸後期の絵師、狩野永岳の筆による室中の間「月と雁図」、東ノ間「琴棋書画図」、西ノ間「花鳥図」などが色鮮やかに描かれている。方丈前庭は、慶応3年(1867)に作庭されたもので「さざれ石の庭」と呼ばれ、伊勢両宮を抽象的に構成し、寺院の庭に神道式の庭という非常に珍しい枯山水庭園で、西庭は「常盤の庭」と呼ばれ、雪見灯籠を配した鶴亀の庭となっており、亀島あたりに桃山期当時の面影をとどめている。方丈東にある1577年(天正5年)の年号を鋳込んだ南蛮寺の鐘(重文)は、もと京都四条にあったとされる南蛮寺の銅鐘で、初期キリスト教伝来の貴重な遺産とされる。 。方丈西庭(常盤の庭)は堀尾吉晴の築庭といわれる。また俗にさざれ石の庭と呼ばれる庭園は慶応3年(1867)の作庭で石川氏の伊勢神宮崇拝の篤さをよく表現している。本堂襖絵の金碧画は狩野永岳の筆になり、琴棋書画図、月と雁、花鳥、太公望を描く。南蛮寺の遺鐘はヨーロッパ風の鐘で表面に1577の西暦とIHS(イエズス会の紋章)が陽鋳されており、寺伝によると、もとは四条姥柳町にあった南蛮寺のものと推定され、当院へは嘉永7年(1854)に移された。初期キリスト教伝来の貴重な遺産である。


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