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182 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2010/03/22(月) 10:55:08 ID:SM95Xp8B





今はもうおぼろげな記憶。
それでも彼と出会ったあの日、あの時のことは忘れない。
右も左も、上も下もわからない暗い闇の中、懸命に外へ、外へ。
自分を閉じ込めるこの窮屈な殻から出るためにがむしゃらに外を目指した。
右も左も、上も下もわからない暗い闇の中、外がどっちかさえもわからない狭い殻の中。
こんなところはもういやだ。
外に出るんだ、なんとしてでも。
外になにがあるのかなんて知らない、だけど、聞こえたから。
忌々しく隔たる殻のその向こうで、いつも彼の声がした。
彼の存在を感じられた。
怖かった。
気付けば一人ぼっちで、こんなところに閉じ込められてて、満足に体も動かせなくて、怖くて怖くてたまらなかった。
どれだけこんな扱いを強いられたことを憎んだかわからない。
それ以上に、どれだけ外にいる彼に救われただろう。
彼は一日の大半は傍にはいなかったけど、でも数時間だけはずっと傍にいてくれた。
喋ることさえできないわたしに、それでも色々なことを話しかけてくれた。
何気ない話題を、飽きもせず独り言みたいに喋ってる姿は、今思えばなにしてるんだろうって笑っちゃうんだろうけど、でも楽しかったなぁ。
ひとりぼっちだったのが、二人っきりになったように思えて。
彼といる間だけは、たしかにわたしの世界が広がった。
こんな生活も、彼となら案外悪くないのかもしれないって、だけど。
いつしかそれだけじゃ満足できなくなっていたのも、わかってた。
きっとあの頃にはもうわたしは落ちてたって、そう思う。
外に出たい。
他の何が見えなくてもいい。一目でいい、彼をこの目で見てみたい。
それ以上は望まない。一度でいい、触れてみたい。
その瞬間に消えたってかまわない。一言でいい、言葉を交わしたい。
日増しに縮んでいく殻、圧迫感と彼に対する欲求に苛まされる日々。
このままいけばそう遠くない内にわたしは壊れる。
それだけで十分。
いつからそうしていたのかもわからない、憎んですらいたけど、どこか安心と愛着すら覚えた殻の中を出るのに、他に理由はいらなかった。
彼に会いたい。
その一心で、わたしは───

「お、おお? なんだ?」

多分、上だったと思う。
走った亀裂。そこ目掛けて何度も何度も、そしてこぼれていった欠片。
小さな穴から差し込む光は慣れないわたしには刺激が強すぎて猛烈に目が眩んだ。
空いた穴と同じくらいの恐怖が微かにわたしの心を蝕む。
この先はわたしの知らない世界。
もしかしたら、今はもう役目を果たせなくなったこの殻の中、仮初の安穏を享受していた方が幸せだったかもしれない。
怖い思いをがまんすれば、それよりも怖い思いをしなくて済むのかもしれない。
諦めた方がいいのかもしれない。
臆病なわたしはいくつも言い訳を用意していた。
だけど、たしかに聞こえた、彼の声。
わたしの知らない世界は彼のいる世界。
所々にひび割れを起こしたわたしの、わたしだけの世界には絶対に彼は現れない。
だったら行こうよ、後戻りなんて無意味だし、今日を怯えて明日を後悔したくない。
それになにより、わたしは会いたい。他でもない彼が、彼だから。
今までのような殻越しじゃない、鮮明な彼の声を耳にした瞬間、わたしは全身全霊で声のする方へと飛んだ。
砕け散るわたしの世界。どこまでも広がっていく知らない世界。
そこには彼がいた。
あれだけ会いたがっていた彼がすぐ目の前に、なのに、思っていたような実感はわかなかった。
それだけならまだしも、やっぱやめといた方がよかったかなって。
だって彼、想像していたよりもずっと大きくて、あとなんか、なんていうか、今だから言えるけど初めての印象は、ちょっと怖かった。
目つきが。
あ、これわたし死んだなって、頭の中、冷めたわたしが感慨もなくぼやく声が聞こえたくらい。
それくらい怖い目つきしてた。


「よくがんばったな、えっと、名前は・・・そうだ」

でも、彼はそんなの気にもとめさせない優しさを持って、そして私に名前をつけてくれた。

「インコちゃんだ、今日からインコちゃんはインコちゃんだよ。よろしくな、インコちゃん」

世界で一番素敵な名前を。
一個だけ訂正。
きっとあの時、わたしは本当の本気で彼に落とされた。


「×××ドラ! ─── ×××ドラ! × i ───」


それが彼・・・竜ちゃんとわたしの、馴れ初めっていうのかな、恥ずかしいけど。
他に言い方が思いつかないんだから馴れ初めでいいよね、うん。
ともかくあの日からなにもかもが一変した。
しばらくは思うようには動けなかったけど、外の空気に慣れていくと体がぐんぐん大きくなっていって、キレイな羽も生えた。
これにはけっこうビックリして、とってもうれしかったの。
それまではずっと、その、あー・・・は、はだか・・・だったから、とうぜん竜ちゃんはいっつも見てたわけで。
わたしの大事なとことか、ぜんぶ。
竜ちゃんなら、えっと、イヤっていうんじゃないんだけど、でもわたしだって女の子だし・・・だから、オシャレな羽が体を覆ってくれてうれしい。
だって好きな人には可愛い自分を見てほしいって、女の子なら当然じゃない。
ごはんの心配もなくなった。
毎日決まった時間になると、欠かさず竜ちゃんがごはんをくれる。
そのおかげで飢えたことは今まで一度もない。
気分はまるでお姫様。それか、箱入り恋人とか。
わたしのこと大事にしてくれてるんだ、竜ちゃん。
なにより、お部屋まで用意してくれたのは本当にうれしい。
狭い殻の中とはまさに天と地の差の、すっごく広くて明るいお家の中、室内を一望できる絶景のポジション。
前は遠く広がる空だって見れたくらい。
それにわたしのお部屋のすごいところは持ち運びができる点。いつでも一緒にいられるように。
愛されすぎて時々自分が怖かったり、なんて。
唯一の不満は竜ちゃんのお部屋に置いてくれないところかな。
けどいいの、わたしわかってる。
竜ちゃんは待ってくれてるんだよね、わたしが、ちゃんと大人の女の子になるまで。
・・・・・・だから、わたしがもうちょっと早く大人になれてたら、あんなことにはならなかったんだよね。



               ・
               ・
               ・



あれは、そう・・・羽が生え変わった時期だから、三ヶ月ほど前のこと。
あの晩に起こった悲劇は、忘れたくても忘れられない。


「たっらいまぁ〜・・・ひっく」

草木も眠る丑三つ時も過ぎてから帰ってきたのはやっちゃん。
やっちゃんていうのは竜ちゃんのお母さんで、いずれは私のお母さん。
たまにごはんもくれる、竜ちゃんの次に優しい、わたしの大切な家族。
やっちゃんはお昼の間は出かけてる竜ちゃんとは逆で、暗くなってからお出かけしてる。
帰ってくるのは明るくなってるときも多くって、大抵お酒の臭いをプンプンさせてる。
酷いときなんて横になりながらずっと呻ってることもあって、心配。
お仕事ってそんなに大変なのかな。
いつもならもう慣れちゃってるし眠いから、やっちゃんが帰ってきたくらいじゃわたしも、竜ちゃんも目を覚まさない。
でも、その日はそうじゃなかった。

「竜ちゃ〜ん、ね〜え〜、りゅーうーちゃーん!」

真夜中なのにやっちゃんは突然大声で竜ちゃんを呼びつける。
竜ちゃん言ってた、こういうの、近所迷惑だからやめてくれって。

「お前、また飲みすぎたのかよ」

さすがにこんな時間に起こされちゃった竜ちゃんが、いつもよりもっと目を吊り上げてお部屋から出てきた。
暗くてよくわかんないけど、僅かに入る光と、ギラギラとそれを反射する宙に浮く二つのガラス球。
あれが多分竜ちゃんのはず。
襲ってこないってわかっていても、本能的に背筋が震える。

「も〜竜ちゃんおーそーい」

「酒くさ・・・今日はまたずいぶん酔ってんな」

「やっちゃ、っく・・・やっちゃん酔っれないもん」

泥酔っていうんだっけ。
完全にそんな状態だった。

「分かったから、ほら、ちゃんと起きろよ」

「む〜りぃ、だっこして」

竜ちゃんはなんとか自力でお部屋まで行ってもらいたいみたいだけど、やっちゃんは横になったまま動こうとしなかった。
ずーっとだっこだっこ、って。
やっちゃんのわがままに、竜ちゃんは深い、深ーいため息をついて、やっちゃんをだっこしてあげた。
いいな、わたしもしてほしいな、だっこ。
わたしじゃ小っちゃすぎてだっこじゃなくて、なんて言うんだろ? よくわかんないや。
肩に止まるのってあれだっこじゃないし。

「たく、今度から飲みすぎたらムリして帰ってくんなよ、ちょっと酔い醒ましてきたりとか」

「うぅるぅさぁいぃ! そんなの、お酒飲むのがやっちゃんのお仕事だもん。
 なのに、お仕事したら帰ってくるなーって・・・そんなことまで竜ちゃんにぶちぶち言われるすじあいないよ・・・」

「ああそうかよ」

イヤな空気、珍しい。
お部屋に入られて、何してるのかまではわかんないけど、竜ちゃんとやっちゃんがこんな風にケンカしてるの目の当たりにしたの、初めてかも。
大丈夫かな。わたしまでやりづらいよ、朝ごはんのときどんな顔すればいいんだろ。

「いらねぇ世話焼いて悪かったな。おやすみ」

「竜ちゃんもそうやってやっちゃんのこと捨てるんだ」


うわぁ、ほんとに今日は絡むなぁやっちゃん。
嫌なことでもあったのかしら、悪酔いも悪酔いの超悪酔いしてるよ。

「なんだそりゃ、何でそうなんだよ」

「どうせ竜ちゃんやっちゃんのことなんかどーだっていいでしょ。いいも〜ん、べっつにぃやっちゃん捨てられちゃうの慣れてるから」

「おい、お前なに言って」

「だからぁ、竜ちゃんやっちゃんのことキライなんでしょ! キライならキライって、はっきりそう言えばいいのに」

「おい!」

こ、こわ〜・・・けど、竜ちゃんが怒っちゃうのもムリないよ。
やっちゃんになにがあったかわかんないけど、こんな遅くに帰ってきて、無理やり起こされてそんな事言われたんじゃ、竜ちゃんが可哀想。
捨てちゃうなんてヒドいこと、竜ちゃんしたりしないのに。
わたしがここから自由に出られたら竜ちゃんのこと慰めてあげられるんだけど。
やっちゃんにも、パーでえいっしてあげるんだから。
竜ちゃんの気持ちも考えないであんなこと言っちゃうやっちゃんにお仕置きするの。えい、えいって。
それでやっちゃんの目を覚まさせてあげる。

「キライとか捨てるとか、俺がいつ言った、誰がそんなこと言ったんだ」

「言わなくったってわかるもん、やっちゃんのこと邪魔だって思ってるくせに」

「思ってねぇよ」

「うそ。だって竜ちゃん、大河ちゃんのことばっかり」

それは確かに、わたしもそう思うときがある。
あのむっちち───難しい字で書くと、おっぱいが無いと書いて「無っ乳」───がこのお家に居座るようになってから、竜ちゃんは大忙し。
なんでって、あのむっちちが何でもかんでも、用なんてなくっても竜児、竜児ーって。
竜ちゃんの名前を気安く呼ばないで、あのアバズレならぬアバラズレ。
わたし知ってるんだから、むっちちが竜ちゃんに色目使ってるって。
そのくせごはんの支度も洗濯も、あと自分のお家のお掃除までさせて、竜ちゃんのこと沢山こき使って。
ほんと何様のつもりなんだろ。
肉食だからって偉そうにしちゃってさ、わたしのこともブサコとかイジめるし。
竜ちゃんだって見てるんだからちょっとは言ってくれればいいのに、むっちちのこと甘やかしちゃって、だから増長しちゃったんだよ。
優しいのも考え物だよ、もう。

「はぁ? なんで今の話に大河が出てくるんだよ。関係ねぇじゃねぇか」

「ほら、そうやって大河ちゃんの肩もつ。そういうの、もうイヤなの」

やっちゃんも、ちょっと気にしてたのかしら。
まぁむっちちが来るまではわたしたち三人で仲良く暮らしてて、そこに割り込んで好き放題されちゃったら、ねぇ?

「もってねぇだろ。意味わかんねぇよさっきから」

「竜ちゃんのほうが意味わかんない! なんでやっちゃんのことわかってくれないの!」

「・・・なんなんだよホントに・・・俺、なにか気に障ることでもしたか」

「した、したしたした! い〜っぱいした! ・・・竜ちゃん、さいきんやっちゃんに冷たい・・・」

ていうか、最近のむっちちが調子のりすぎ。
朝から晩まで竜ちゃんにべったり。
それに、まるでこのお家を自分のお家みたいにしちゃって、たくさん私物だって持ち込んで。
竜ちゃんが何も言わないのをいいことに、調子に乗りまくって。

「そんなこと」

「あるもん」

「ねぇよ」

「ある」

竜ちゃんの言うとおりだと思うけど、今のやっちゃんには届かない。
だってそう思って思って、ガマンしてたのが何かの拍子で爆発しちゃったんだもの。
簡単には引っ込まないよね、そういう気持ちって。
せめて言いたいこと吐き出しちゃうまでは、ね。

「やっちゃんわかるよ、パパだってそうだった。新しい女の子作って、冷たくなって、最後にはやっちゃんのこと」

「いい加減にしろよ」

竜ちゃんの声は怒ってる感じじゃなかった。
代わりに、すごく真剣味を帯びていた。

「親父と俺は一緒なのか? 違うだろ」

「それは・・・ちがう・・・けど」

「嫌うとか邪魔だとか、俺がそう思ってるって、泰子は本気で思ってるのか?」

「・・・でも」

中々ハッキリしないなぁやっちゃんも。
けどもう一押しだよ、いっちゃえ竜ちゃん。

「竜ちゃんは・・・大河ちゃんが大切なんでしょ・・・?」

「家族みたいなもんだからな、もう。それに目が離せねぇんだよあいつ、そそっかしくて、放っておけねぇっていうか」

「やっぱり」

「だけどよ、泰子だって家族だろ。大切にしてるつもりだぞ。蔑ろにしてるつもりだってねぇよ」

はいはい、竜ちゃん、竜ちゃーん! ここにもいるよ、竜ちゃんの大切な家族がもう一人いるよー?
むっちちよりももっと前から家族してるわたしがここにいるんだよ? ちゃんと聞こえてるよ?
忘れてないよね、ね?

「だから捨てたりするわけねぇだろ。ていうか、捨てろって言われたって絶対捨てねぇ。
 俺以外に誰が泰子みたいなトロくて、ズレてて、甘ったれためんどくさいヤツの面倒見るんだよ」

あれ? わたしは? まだわたし呼ばれてないよ。

「・・・ほんと? 竜ちゃん、やっちゃんのこと、ほんとに大切?」

「当たり前だろ」


「捨てたりしない? 一緒にいてくれる? なにがあっても、ずっと?」

「おぅ」

「・・・やっちゃんのこと、好き?」

「ああ好きだよ好き、文句あるか、好きで」

・・・・・・・・・ま、最初から期待とかしてなかったからいいですけど。

「・・・気はすんだか? ならもういいだろ。そろそろ寝ようぜ、疲れてんだろ、泰子」

「・・・うん」

うん、いいよ、そういう流れじゃなかったの、わたしちゃんとわかってるし。
いい感じで終わったとこに水差す気もないし、空気の読める方でいたいからわざわざ蒸し返したりしないよ。
ちょっぴり心の汗がこぼれちゃったけど、お話のしめに添える花としてはけっこうキレイだから許してくれるよね。

「待って」

あーあ、もう寝よ寝よ。
寝不足はお肌の大敵っていうし、わたしべつに夜行性じゃないし。

「なん・・・・・・・・・」

あれ、まだお話終わってないのかな。
それにしてはなんだか妙なところで切れたけど、どうしたんだろ。

「な、なにすんだお前!? いきな、むぐ」

むぐ? え、なに? なにがどうしたの、一体。
なんなのその焦りよう。
なんなのこの途切れ途切れの竜ちゃんの声に混じってしてくるクチュクチュっていう水音。
ま、まさか・・・な、なはずないよねー?
だって竜ちゃんとやっちゃんは親子だよ、お・や・こ。
親子同士でってそんなのどーぶつ以下だよ、どーぶつ以下。
だってどーぶつだって普通はそんなことしな

「んぅ・・・竜ちゃんが言ったんだよ、寝よって」

「は・・・? ・・・・・・っ!? そ、そんな意味で言ったんじゃ、てかお前酔って」

そう、酔ってる、やっちゃん酔ってるよ。
血液中に大量に回ったアルコールが脳の判断能力を狂わせてとかなんかそんなの。
だから今普通の考えができないんだよ。

「ちゅぷ、ん、ふ・・・それに、大切だ、って・・・あん・・・やっちゃんとなにがあってもずっと一緒だって・・・好きだって・・・ちゅる」

「だ、だからそういう意味じゃ」

でも今だけでいいの、お酒なんかに負けないで!
思い出して、竜ちゃんがやっちゃんにとってなんなのかって!
お酒が入ってナイーブになってるときに優しくされて気が緩んだとか、そんなので一線を越えちゃダメなんだから!
ぶっちゃけ竜ちゃんに変なことしないで!
竜ちゃんも早く逃げてー!

「ちゅむ、ちゅ・・・ぷぁ・・・んふふ・・・だぁめ、もう離さないんだから」


───その晩わたしは眠れなかった。
なぜなら耳を塞ぐことができないわたしは、ただただ聞きたくもないやっちゃんの嬌声と、
竜ちゃんの、おそらくは悲鳴を聞かされ続けていたから。
おそらくというのは悲鳴というには無理やりに押し殺した、あまりにも小さなものであったことと、
三回ほど挿まれたインターバルにおいて、その都度やっちゃんにもうやめてってお願いしていた竜ちゃんの声が、
今まで聞いたこともないような弱々しく、か細く、震えたものであったから。
コトが終わったのはもう東の空が白み始めた夜明け前のことで、お部屋からようやっと開放された竜ちゃんは纏っていた衣類を抱きかかえていて、
けど自分は下着一枚身に着けていないという、変わり果てた姿でお風呂へ入っていった。
助けることができなかった負い目と、痛々しさと、そしてその様がいやに現実感を煽ってきて、
わたしは動く者もいないというのにカーテンの隙間から外を覗くことしかできなかった。
呆然としていた、というのが正しいのかな。
はてしなくどうでもいいけど、そうやってどうでもいいことを絶え間なく考えていないと頭がおかしくなりそうだった。
シャワーの水音は階下の大家さんを気遣ってか静かなもので、すぐそこで寝ているやっちゃんの寝息の方が良く聞こえてくる。
規則正しくすーすーと、穏やかな寝息を立てるやっちゃんはとてもさっきまで組み敷いた竜ちゃん相手に乱れていたとは思えなくて、
寝顔もあどけないんだろうなぁ。
それにきっと竜ちゃんが風邪なんて引かないように、しっかりと服を着せてあげて、お布団にも入れてあげたんだろうね。
自分は裸で。
こんなのって・・・・・・

「ぐ、ぐえ?」

いきなりカーテンが取り払われた。
そこにいたのはお風呂上りの竜ちゃんだった。
まだ濡れている髪から水が滴っている。まるで、涙みたいに。
ど、どうしよ、正直気まずいよ、あんなことがあってすぐになんて。
でも竜ちゃんは無言でわたしのお部屋を手にすると、それをテーブルへ。
そしてわたしをお部屋から出した。
無言が続く。な、なんか言った方がいいかな? でもなんて言えばいいんだろう。
おめでとうなんて絶対言っちゃいけないしつか言いたくないし、あからさまな慰めの言葉も余計に傷付けちゃうかも。

「インコちゃん・・・」

ああ、こんなときどうしたらいいの。
わたしは竜ちゃんになんて声をかければ正解なの。

「・・・俺・・・俺・・・」

や、やだ、やだやだやだ、聞きたくない! 竜ちゃんの口からそんなの聞きたくない!!
お願いだから誰かわたしの耳を塞いで、ううんいっそもう潰して! なるべく痛くない方法ですぐ治るように。

「・・・・・・汚された・・・・・・」

衝撃が全身を突き抜けた。
信じたくなかった。この目で見たわけじゃないから、信じたくなかったのに。
突きつけられた事実の残酷さに、わたしは打ちのめされた。
いや、だめ、ここで倒れるなんてしちゃいけない。
目の前にいる竜ちゃんはわたしなんかの考えが及びもしないくらいの衝撃を受けてるはず。
なのに、そうに違いないのに、悲劇のヒロインぶるなんて。
そうだよ、一番可哀想なのは竜ちゃん。
自分の意思に反してどーぶつ以下にされちゃって、こんなに心に傷を・・・なんて可哀想なんだろう。

「明日からどんな顔してりゃいいんだ・・・」

元気出して竜ちゃん、わたしがいるよ。

「げ、げげ、げんき、げんき」

「・・・インコちゃんは優しいなぁ、元気出してって言ってくれるんだもんなぁ、ハハハ」


そうだよ、わたし優しいよ。
でも、わたしにできたのは暗く沈む竜ちゃんに、たった一瞬乾いた笑顔を浮かべさせただけ。
こんなに虚しいことってないよ。
せっかくお部屋から出してもらえたのに、これじゃとんだ役立たずだ。
喋る人形と変わらない。
なんて無力でちっぽけなんだろう、わたしは。

「ハハ・・・俺、この先ずっと引きずってくのかな、今の」

それはキツそう、しかもとんでもなく。
朝、おはようをするときから、夜、いってらっしゃいをするとき。
顔を合わせるその都度竜ちゃんの脳裏にはさっきの情事が蘇る。
ちょっと違うかもだけど、女の恋愛は上書き保存、男の恋愛は名前を付けて保存っていうのはよくいったものだよ。
消しちゃうことができないんだもん。
どんなに新しい思い出ができても埋まることなく、たしかにそこにあり続ける。
わたしだったら耐えられない。
いっそのこと全部無かったことにできれば、そんな苦しい思いしなくってすむのに。

無かったことにできれば?

「やっぱマズイよな、いくらなんでもするもんしてなかったのは・・・」

無かったことにできれば、たとえ事実が消せないとしても、竜ちゃんにとって無かったことにできれば?

「だけどさぁ、あんなことになるなんて夢にも思ってなくってさ、いきなりだったし・・・夢であってくれねぇかな・・・」

そうすれば、竜ちゃんは今までどおり、嫌な思いも苦しい思いもしなくてすむ。
わたしの竜ちゃんに戻って───

「あはっ」

「でもなんか、抱きしめた泰子が柔らかくて、いい匂いがして、だんだん何も考えられなくなって、正直流されたところもあるっていうか・・・
 なに言ってんだろうな、俺、インコちゃんに」

平気だよ竜ちゃん、わたしむっちちにも他の人にもこの話しないから。
だから安心していいからね。これでも口堅い方なんだから。はいお口にチャック、これでオッケー。
今日のことはお墓まで持ってってあげる。
二人っきりの内緒だよ? やっちゃんは・・・この際しょうがないや、あんなこと吹いて回ったりしないだろうし、ほっとこ。

「ごめんなインコちゃん、こんな時間にこんな話して・・・一人でいると俺・・・」

わたしはいいの、そんなの気にしてないから。
それよりも、問題はどうやったらいいんだろう。
わたしが押したぐらいじゃ倒れるわけがないし、かといって飛びながら持てる物だって限られてくるし、そんなに長くも飛んでられない。
それにそんな物じゃ多分ムリ。もっとずっと重たい物じゃなくちゃ。
なにか、なにかない? 硬くて重くて、竜ちゃんの記憶を消せるような・・・あ、そうだ。
竜ちゃんを使おう。

「あ、インコちゃん?」

思いつくやいなや、わたしはお部屋の中、一番大きなタンスの上へと飛んだ。
竜ちゃんが立ち上がり、捕まえようと手を伸ばす。
まだ、まだまだ、焦っちゃだめ、慎重に・・・今だ!
入念にテーブルと竜ちゃんの立ち位置を見極め、わたしは全力でもって飛び出した。


「うわっ!?」

竜ちゃんの顔目がけ。
そしてぶつかる寸前でおもいきり羽をバタつかせる。
驚いた竜ちゃんは目論見どおり、一歩下がろうとして、テーブルに足をひっかけて転んだ。
よし、そのまま・・・よし!
竜ちゃんが強かに頭を打ちつけたのはお台所とを仕切る戸の、その縁に使われてる柱。
あれなら堅いし、竜ちゃんは尋常じゃない勢いで倒れていった。
派手な音を立ててぶつかった後、ピクリともしない。
一応頭の上に降りて確認。うん、起きる気配はないけど息はしっかりしてる。
わたしにできることは全てやった、あとは人事を尽くしてなんとやら。

「───なんだよ、ベタベタしてきて」

「なんでって、その・・・だって、竜ちゃん言ってくれたよね? もう寂しい思いはさせないって、だから」

「まったく知らん、夢でも見たんじゃねーの。それにしても珍しいな、ちゃんと着替えて寝てるなんて。
 泰子、昨日あんまり飲まなかったのか。毎日そうだったらいいんだけどな」

「りゅ、竜ちゃん? え、あれ? あれぇ?」

天命は思いのほかわたしに味方してくれた。

「ぐぇっぐぇっぐぇっぐぇっぐぇ」

「竜児、ブサコがいつになくキモい鳴き声上げてんだけどどうにかしてちょうだい。ねぇ、ちょっと聞いてんの、竜児ー」



               ・
               ・
               ・



わたしが大人の女の子になってれば、防げたかもしれないのに。
よりにもよってやっちゃんがあんなこと竜ちゃんにするなんて、お酒って怖い。
前後不覚なんてレベルじゃないよ、あんな行くとこまでいっちゃうなんて。
竜ちゃんが全部覚えてたら今頃どうなっていたか。
でもあんなに上手くいくなんて、やっぱり普段の行いがものを言うって本当なんだね。
だって竜ちゃんなんにも覚えてないんだもん。
嘘ついてるんじゃなくて、ほんとに。
それからしばらくやっちゃんはあれこれ竜ちゃんを誘ってたっぽいけど、竜ちゃんからしたらどれも意味不明に映ってたんじゃないかな。
火遊びじゃなくなったんだね、やっちゃん。
竜ちゃんにそういうつもりがなくても結果としてあしらわれちゃって、それでかなり落ち込んでたのは、やっぱりそういうことなんだと思う。
やっちゃんにもやっておけばよかったかな。でもさすがに気が引けるし。
一月も経つ頃には、表面上はあんまりそんなことも見なくなったから、一応はやめたけど。
ああ、けど、ちょうどそのくらいだったっけ。
あんなことが、それも相次いで起こったのは・・・・・・



               ・
               ・
               ・



あの日、竜ちゃんはいつもみたいにむっちちと朝から出かけていった。
べつにそれはいいの。おかしかったのは、中々帰ってこなかったこと。
普段なら、遅くても晩ごはんの時間までには帰ってくるのに、その日に限ってはそうじゃなかった。
仕方なくやっちゃんが何も口にしないで、またお酒飲むお仕事に出かけて、お家に残ったのはわたしだけ。
暗いし、お腹減ったし、つまんないことこの上ない。
結局竜ちゃんが帰ってきたのは日付を跨いだ後だった。
でも、朝は一緒だったはずのむっちちは、なんでか一緒じゃなかったの。
時間も時間だし、極たまにむっちちは外で食べてくることもあるから、このお家にいないときだってないことはないんだけど、
それでも竜ちゃんはやっちゃんとわたしのご飯の用意とかがあるから決まった時間までには必ず帰ってくるのに。
なにもないに越したことはないんだけど、やっぱりなにかあったのかな。
帰ってきてから電気も点けないでずっと座ったままだし。

「くええぇ?」

「あ・・・ああ、ごめんインコちゃん、お腹減ったよな」

竜ちゃんはわたしの存在に今気が付いたように、お部屋をそっとテーブルに。
ごはんを持ってきてくれると、わたしをお部屋から出した。
浮かない顔してどうしたんだろう。それにため息ばかりついちゃって。
なにかあったんだ、それは間違いない、けど、なにかってなんだろう。

「なぁインコちゃん」

うん?

「大河のこと、どう思う」

わりとキライ。わりと本気で。
だってむっちちは意地悪だし、うるさいし、竜ちゃんにヒドいことするし、竜ちゃんに甘えるし、意地悪だし、竜ちゃんを独り占めするし。
むっちちがお家にいる間は心休まる暇がないよ。
そのせいか最近なんて羽毛がハラハラ抜けたりして。
なんで竜ちゃんがあんなの傍に置いとくのかわかんないよ。

「そうか、インコちゃんもそう思うのか。やっぱりもう家族なんだよな、あいつ」

そうは言ってもわたしは嫉妬心剥き出しにするようなお子様じゃないから? むっちちと違って。
円滑な人間関係が築けるように気を遣ってあげるよ、感謝してね、むっちち。
まぁ何か言う前に竜ちゃんがぽんぽん先を言っちゃったんだけど。

「なのに、俺は大河になんてことを・・・」

ん? んん? なになに、竜ちゃん、むっちちになにかしたの?
あ、わかった、わたしわかっちゃった。
むっちちのわがままが過ぎるから、竜ちゃん怒ってえいってしちゃったんでしょ? えい、えいって。どう、当たってる?
竜ちゃん、それは竜ちゃんが悪いんじゃないよ、むっちちがいけないんだよ。
たまにはそうやって押しの強い竜ちゃんも見せてあげなきゃつけあがる一方で

「大河のこと、押し倒すなんて」

そんな押しの強すぎる竜ちゃんなんて竜ちゃんじゃない! わたし大っ嫌い!!


「・・・帰りがけに、大河に部屋、掃除してってくれないかって頼まれてさ。だから寄ってったんだよ、あいつの家に。
 ただ、思ったよりも片付いてて、でもなにもしないのもあれだから軽く掃除機でもかけてこうとしたんだ。
 なのに大河、俺がまだいるってのにいきなり服脱ぎだして・・・
 『こっち見るんじゃないわよ、駄犬! 覗き見したら許さないんだから!』って言うから、慌てて目ぇ瞑って部屋を出ようとしたんだよ。
 そしたら今度は『・・・なによ・・・そんなに私といるのはイヤ・・・? こんな体、見たくない・・・?』って」

それって激しく矛盾してない?
わたし難しい言葉ってよく知らないけど、でもむっちちが右を見ながら左を見ろ、みたいなこと言ってる気がしてならないんだけど。

「そんなこと言われたら、気まずくて出て行くことなんてできねぇし、かといって服着てない大河の方も向けねぇし・・・
 とりあえず大河に『そんなことあるわけねぇだろ』とは言ったんだけど、大河のやつ『じゃあこっち向きなさいよ』って言うもんだから、
 だから仕方なく体だけは大河の方に向き直したら、あいつ裸で抱きついてきやがって、そんな格好で『ちゃんと見て、私のこと、ちゃんと』って・・・
 俺どうしたらいいか分かんなくなって、とにかく大河になんか着てもらってからじゃねぇとって、もみ合ってる内に足縺れちまって、
 大河と一緒にベッドに倒れこんじまって」

ねぇそれさぁ押し倒したって言わないんじゃないの。
ていうか、えっと、それって、どっちかっていうとなんか・・・押し倒された?
あんのえぐれ胸・・・こんなことがいつか起こるんじゃないかと危惧してたけど、まさか本気でやりやがるなんて・・・
一体どうしてくれようかしら。
いや、けどちょっと待って。竜ちゃんは「押し倒した」って言うけど、話聞いてる限り偶然そうなっただけっぽいし。
それなら、いくらむっちちが裸っていっても、竜ちゃんがそこでしっかり自制をかけていればいいだけの話だよね。
ううん、かける必要だってないか。
あんな見てて可哀想になるくらいぺったん娘なむっちちの誘惑なんて、想像するだけで失笑物だもん。
なんにもなかったに決まってるよね。

「気が付いたら俺・・・大河を・・・・・・・・・」

うん、その間はおかしいよね。
それじゃあその後むっちちと何かあったみたいになっちゃうよ、竜ちゃん。
そこはきっぱりはっきりむっちちを拒絶したって言って、わたしの取り越し苦労だって笑わせてちょうだい。
はりあーっぷ。

「・・・それなのに大河、うれしいって・・・泣いてたくせになに言ってんだよあいつ・・・」

あはは、ぜんぜん笑えないや。
むっちちはとうとう竜ちゃんを・・・そりゃ嬉しいでしょうよ、狙いどおりに竜ちゃんをその毒牙にかけられたんだから。
さぞかしお楽しみなさってたんでしょうねぇ、こんな時間になるまで離さなかったくらいなんだし。
だから肉食は嫌いなのよ、がっつきやがって、くそったれ。

「俺、明日大河になんて言えば・・・あ、インコちゃん、どこに」

こんなの絶対認められないよ、もう一回やり直そうよ。
大丈夫、できないことなんてないよ。
大切なのはやれるやれないじゃないの、やるっていう確固たる決意をした自分自身なの。
こないだだっていい感じにやれてたんだから、心配しないで。
できることならあのむっちちに関する思い出なんてぜ〜んぶ忘却の彼方へぶっ飛ばしてやりたいとこだけど、
それはそれでむっちちがこれ幸いと竜ちゃんにあることないこと吹き込んだりとか色々してきそうだからやめとこうっと。

「───どうしたんだよ大河、顔真っ赤だぞ」

「うん、ちょっと・・・ね。それよりも竜児、昨日は、その」

「風邪でも引いたんじゃないのか。気をつけろよ」

「そ、そうねよ、気をつけなくっちゃ。昨日だってあんなに」

「長風呂でもしたのか? ほどほどにしとけよな、のぼせるぞ」

「えっと、りゅ、竜児? 私の話聞いてよ、昨日のことなんだけど」

「昨日昨日って、何かあったっけか、昨日」

あの時のむっちちの顔ったらなかったわ。
ざまぁみさらせこの泥棒猫、いいえ泥棒虎。

「ぐぇっぐぇっぐぇっぐぇっぐぇ」

「竜ちゃ〜ん、インコちゃんがなんかへーん。やっちゃんちょびっとこわい〜」

さすがにあの場はあれ以上竜ちゃんになにか言うことはなかったけれど、むっちちは不幸なおっぱいの代わりに幸せな脳みそを持ってるみたい。
あれは照れてただけ、やっちゃんも居たし隠そうとしてたのね、そうよ、そうに違いないわ。
もう、それならそれで一言くらいあってもいいのに、あんなにムキになって知らないフリしちゃって、しょうがないんだから。
私は知られたって、べつに・・・でも、竜児は恥ずかしいのよね? なら、私も合わせてあげる。
やっちゃんにはキチンとした形で報告したいしね。
みたいな感じに都合よく解釈できる、素敵な頭。能天気すぎてちょっと憧れちゃう。
竜ちゃんはむっちちがそんなこと考えてるだなんて知る由がないから、たまにそういう空気を出してくるむっちちをナチュラルにシカトしてたけどね。
むっちちも、一発かましたくらいで安心したのか、今日はそんな気分じゃないんだろうと誤解して勝手に引っ込んでったの。
一人相撲ほど見ていて滑稽で無様で面白い物ってないよね、ほんと。
でも、大変だったのはそんなむっちちの一人相撲を縫うように、竜ちゃんは次々と・・・・・・
ある時は、こんな風に。

「櫛枝が、俺にしか頼めないことがあるっていうから放課後残ってたんだよ、部活が終わるまで。
 それで人気がなくなってから部室まで行ったら中が真っ暗で、目を凝らすと奥にぼんやり人影が・・・
 そう思った途端その人影が近づいてきて、やっぱり櫛枝だったんだけど、俺の横素通りして、何故か部室のドアに鍵かけたんだ」

櫛枝・・・聞き覚えのあるようなないような・・・ああ、むっちちが来る前まで竜ちゃんが入れあげてた。
今もたまに晩御飯中に話に上ったりもしてる。
それで、竜ちゃんにしか頼めなくって、二人っきりで、しかも鍵までかけて。
へぇ、一体なんだろうねー、その頼みごとって。

「様子が変だからどうしたんだって聞いたんだ、あと頼みって何なのかも。
 そしたら櫛枝、いきなり突き飛ばしてきて、背中から床に倒れちまったんだよ俺。
 でも起き上がる前に何かが覆い被さってきて・・・それ、服脱いだ櫛枝で・・・『ごめんね、けど明るいと恥ずかしいから』って・・・
 なんとか話し聞こうにも、櫛枝は『大河には内緒にして』の一点張りで・・・」

頼みごとって言わないんじゃないかなぁそれ。
ああ、けどもういいや、大体わかったから。
これ以上聞いてるとどうにかなりそう。

「どうしたんだインコちゃん、そんなところなんにもないだろ、早く降りておいで」

優しく抱きとめてね、渾身の力振り絞っちゃうから。

「───あれ、そんなことあったか。俺、全然思い出せねぇんだけど」

「だって竜児、みのりんに用があるって・・・まぁいいわ、もう。ね、それよりも今夜、あの」

「ぐぇっぐぇっぐぇっぐぇっぐぇ」

「・・・竜児、ここんとこブサコの様子おかしくない?」

「そうか? 普通だろ」

だよねー、やっぱり竜ちゃんが一番わたしのことわかってる。
あとむっちち、朝っぱらからなに誘ってんの? 貶されたことよりもよっぽどそっちの方がうざいんですけど。
またある時は、こんな風に。

「自販機の間に挟まってて、なんか、思いつめた顔してたんだ、川嶋のヤツ。
 気になって話聞いたら、もう疲れたっつってよ。時々作った外面とかがどうしようもなく嫌になるって。
 俺は川嶋の好きにすればいいんじゃないかって言ったんだ。けど川嶋、相当気にしてたんだろうな。
 勝手なこと言うなって泣き出しちまって」

この名前にも聞き覚えがある。というよりも、むっちちの次にキライな名前。
決して多いとはいえない竜ちゃんがお家に上げたことのある女の一人。
それだけでも憎々しいのに、あまつさえあの女は上がった早々竜ちゃんを誘惑してた。
しかもちょっと良い体つきしてた。比較がやっちゃんかむっちちしかないわたしから見ても。
哀れなくらい貧相な体したむっちちが過剰なほど危険視するのも頷けちゃう。そこだけは珍しく意見が合う。

「だけど川嶋、今度は『一体誰のおかげでこんな悩んでると思ってんのよ』って怒鳴ると抱きついてきたんだよ。
 それで、そのまま小さな声で『少しはホントの亜美ちゃんのことも見てよ・・・タイガーだけじゃなくって・・・』って・・・お、おいインコちゃん?」

届けわたしの思い。わたし以外の思いを蹴散らして。

「───ただの気のせいだろ」

「そんなはずないわ、竜児から鼻が曲がりそうなくらいばかちーの臭いがする。
 昨日帰ってくるの遅かったし、一体ばかちーとなにしてたのよ、正直に白状しなさい」

「だからそんなこと言われたって知らねぇって。なんで朝からそんな目くじら立てられなきゃならねぇんだよ」

「だ、だって、竜児がいけないんじゃない! わたしのことほったらかしてばかちーなんかと・・・」

「ぐぇっぐぇっぐぇっぐぇっぐぇ」

またまたある時は、こんな風に。

「かのう屋で買い物してたら妙なことに巻き込まれて、べつにそれはよかったんだよ、俺が特に何かされたわけじゃなかったから。
 ただ、その後上機嫌な会長に無理やり家の中に上げられて、とりあえずこれでも飲んでろって出されたのが酒で・・・
 見た目がジュースと大して変わんなかったから一口飲むまで気付かなかったんだよ。
 気付いた時には会長はそれ一気飲みしてた後で・・・しかも飲みきった直後に前のめりに倒れたんだ、あの会長が」

お酒、ねぇ・・・間違えたりしちゃったのかもしれないね。
まぁなんでもいいや、済んだことなんて確認の取りようがないし。
それよりも、なーんかもう先の展開読めちゃったから、準備運動でもしとこっかな。
いい加減コツ? みたいなものも掴めてきたから、今日はとりわけ気合入れてみようかしら。
べつに名前だって聞いたこともないヤツが出てきたからってわたし嫉妬してるわけじゃないからね、勘違いしないでよ。
単純にはらわた煮えくり返ってるだけなんだから。それだけなんだからね。

「ビックリして揺すり起こしたら会長スッゲー据わった目してて、くだを巻くっていうか、なんか説教し始めて、それがまた支離滅裂でさ。
 帰るに帰れないし、離してくれないし、仕方なく延々話聞いてたら段々愚痴に変わってって、最後なんて涙混じりになってたんだよ、珍しく。
 『兄貴兄貴って人をなんだと思ってんだ、私だって・・・なぁ、私はそんなに女らしくないか? 魅力がないか?』とか聞かれて、
 否定したらしたで、『そう思うんだったら態度や言葉じゃなく行動で示せ』とかとんでもないことを言い出し・・・あ、インコちゃん、ちょっと」

飛んでっけ───! 銀河の果てまで!


「───・・・頭痛ぇ・・・それに胸がムカムカして吐き気までする、気持ちわりぃ・・・」

「なんだかそれって二日酔いしてるときみたいだねぇ。もぉ〜だめだよ竜ちゃん、お酒なんて飲んじゃ」

「どこでそんな物飲んできたのよ。大体竜児、昨日どこまで買い物行って」

「あーだめだ、そこどいてくれ大河、ちょっとトイレ・・・う・・・」

「ぐぇっぐぇっぐぇっぐぇっぐぇ」

二日酔いに見舞われるくらいお酒を飲んでたのか、それともわたしのお灸がそんなに効いたのか。
原因は定かじゃないけど、その日調子を崩した竜ちゃんを見てほんのちょこっとだけ胸がスッとした。
世話ばっかりかけちゃって、少しは痛い目を見て懲りてねって、ほんとそれだけだよ?
わたしどっかのむっちちと違って人をイジめて喜ぶ嫌なシュミなんてないし、竜ちゃんのこと大好きなんだから。
けれど、事態が急転直下したのはこの後のことだった。

「木原と香椎がケンカしてるとこに居合わせて、宥めてる内に『高須くんどっちの味方なのよ』って矛先が俺に変わってよ。
 二人してハッキリしなよとかそういうところが男らしくないとか言い出して・・・
 次第に俺の方もちょっとムッとしてきたっていうか・・・我に返ったときにはもう二人とも裸で寝てて・・・俺も・・・・・・」

あろうことか、今まで完全に受身オンリーだった竜ちゃんが初めて自分から・・・
ど、どどどどうしてそんなことに!? 見た目を裏切りまくるガチンコ草食系な竜ちゃんがなんで、なんでなんで!?
わたしや、それに一億歩譲ってむっちちならまだしも、そんな路傍の石っころみたいな娘を相手にするなんて。
し、信じられない。竜ちゃんに一体全体何が起こったっていうの・・・ハッ!? ひょ、ひょっとして・・・わたし、やりすぎちゃったり・・・した?

「それに不思議なんだ、今までそんなことしたことないのに、なんていうか思ったよりも落ち着いてたっていうか、体が勝手に動くみたいな感じが・・・
 それだけじゃなくてけっこう調子のいいことまで口にしたりして・・・俺は一体どうしちまったんだ・・・
 木原と香椎にだってあんなことするつもりじゃなかったんだよ、本当なんだ」

体が勝手に・・・?
それってまさか、頭では覚えてなくても体の方は覚えちゃってるってこと?
なんてこと。受身とはいえ回数を重ねる度に竜ちゃんは体で学習していってたんだ。
本人からしたらまったく与り知らないようなものででも、着々と女の子のことを勉強してたなんて。
えっと、最初がやっちゃんで、次がむっちちで、その次が昔竜ちゃんが入れ込んでた女で、その次の次が竜ちゃんを誘惑したヤツで、
その次の次の次がかいちょーとか呼ばれてる女で、その時点で・・・っ、ご、五人!?!?!?
しかも一気に二人増えたから・・・七人・・・経験値に直したらどこまで行ってるんだろう。
ハーレムでもできそう。ってだめだめだめ、それじゃ今まで頑張ってきた意味がないじゃない。
竜ちゃんはわたしだけの竜ちゃんなんだから。

「俺、やっぱり今から二人のとこに行ってくる。とにかく話を・・・なにしてるんだインコちゃん、危ないからこっちおいで」

ごめん、ごめんね、許して竜ちゃん。
こんなことしても泥沼だってわかってるの、なんの解決にならないってちゃんと理解できてるの。
でも他に方法が見つからない。だからこうするしかない。
そう、これしか知らないわたしにはこれしかできないの。
無力なわたしを許して。

「あれ・・・なんか前にもこんなことがあったような・・・」

それは夢だよ、甘い夢。そしてこれも。早く夢から覚めてね、竜ちゃん。

「───櫛枝が?」

「そう、アルバイトしてるお店で奢ってくれるんだって」

「よかったな」


「うん、せっかくだから楽しんでくる。でもなんでだろ、いきなり・・・そういえば、ばかちーもこの頃変なのよ。
 優しくなったっていえばそうなんだけど、ふとした時とかに私を見て勝ち誇ってるような顔して・・・なんなんだろ、二人とも」

「ぐぇっぐぇっぐぇっぐぇっぐぇ」

だけど、結論から言えば、竜ちゃんが夢から覚めることはなかった。

「進路相談のはずが、いつのまにか先生の一方的な恋愛相談に付き合わされてて・・・この間フラれたらしいんだよ、また。
 めちゃくちゃ落ち込んでて、聞き手に回ってるだけなのに生返事する暇も相槌打つ暇もないくらいでさ。
 他の先生だって帰っちまったのに一向に終わる気配が来ないんだ、あれ。
 さすがに付き合いきれなくなってきた辺りで『高須くんもこんな面倒な女イヤよね、どうせ地雷だって思ってるんでしょ』とか言われて、
 ポロっと面倒だって地雷だって先生のことは俺が貰ってあげますよ、って・・・そ、そんなこと言う気なんて全然なかったんだよ」

それどころかむしろ酷くなってる!?

「俺はただ元気出してくださいよとか当たり障りないこと言おうとしてただけで、すぐに言い直そうとしたんだ。
 なのに被せるように『も、もう高須くんたらお上手なんですから、冗談でもそんな・・・先生本気にしちゃうじゃない』って先生が言った直後に、
 していいですよ、なんて思ってもなかったことを、それも軽々しく・・・一瞬で先生が目の色変えたのが見えたんだ。
 ヤバイって思って大慌てで職員室を出ようとする前にはもうガッチリ肩掴まれてて、その後は・・・無理やり・・・
 お、おいインコちゃん? どうしたんだ血相変えて」

こ、今度は大丈夫だよね。これ以上酷くなるなんてことあるわけないもんね、そうだよね。

「北村に急な用事ができたから、生徒会の会議に出席できなくなったことを伝えに言ったんだ。北村に頼まれて。
 生徒会室には女子が二人いて、そういえば俺の身近にはこういう大人しいのがいないなって考えてる内に」

こ、今度こそ! 今度こそ本当の本当に大丈夫!

「メイドが」

もういい加減にしてぇ・・・・・・



               ・
               ・
               ・



あの日々のことは、今思い出しても背筋を嫌なものが走り抜けていく。
戦慄と言っても過言じゃない。
もっと素直に言えば、怖かった。
ひとえに竜ちゃんのためにとやっていたことが、こんな結果をもたらすなんて。
因果応報とはよく言ったものだよ。
後悔してるわけじゃないんだけど、それでもこんな本末転倒っていうか、残酷な道を歩むはめになるだなんて夢にも思ってなかったわたしに、
あのいつ終わるともしれない日々は緊張と恐怖しか与えなかった。
竜ちゃんはまた今日も、なのかなって。
だけど、何かにとり憑かれたかのように無節操に別々の女と関係をもっていった竜ちゃんは、あのメイド云々を境に元の竜ちゃんに戻った。
思い当たる原因はあれしかない。
いつものように頭をぶっつけた後、フラフラと倒れた先がよりにもよってテーブルで、そのまま頭を打っちゃったの。
それも角っこに。
メコっていう鈍いんだか鋭いんだか、硬いんだか柔らかいんだか、とにかくとっても痛そうな音がした。
いやーな雰囲気漂う中、竜ちゃんはそれまでに比べてずいぶん早く意識を取り戻すと、何事もなかったかのように自分のお部屋へ。
それからは次の日も、その次の日も、そのまた次の日になっても、竜ちゃんは誰それになにかした、なんて話をしなくなった。
もしかしたらわたしに内緒にしてるのかもしれないって疑ったりもしたよ、当然。
でも仕草や表情は至って普段のそれで、なにか悩みを抱えているようには見えなかった。


とうとう竜ちゃんがまともになってくれた。
寄り道も沢山したけど、でもしっかり実を結んだ。
わたしのやってきたことは間違ってなかった。
二ヶ月前のあの日ほど胸が躍ったことはそれまでなかった。
それも今朝までのことなんだけどね。
え? なにかあったのかって? ふふ、どうしよっかなぁ。そんなに知りたいの? う〜ん、しょうがない、じゃあ特別に教えてあげちゃう。
ほら、見える・・・? わたしと竜ちゃんの愛の結晶。
胸が躍るなんてものじゃない、気分はまさに天にも昇るよう。

「うふふ・・・こ、こここれっはりゅ・・・っりゅりゅうちゃんんと、い〜いん・・・い、いんっぽちゃんの・・・」

そう、わたし産んじゃいました、大切な人との間にできた、大切な卵。
近頃お腹に違和感を感じてたんだけど、まさかこんな素敵なことになるだなんて。
幸せの絶頂っていうのは、気付いたときには通り過ぎてるんだってしみじみ思う。
一瞬太っちゃったかと思った自分がばかみたい。
きっと神様も見てたんだよ、一途にがんばるわたしを。
だからご褒美に最高のプレゼントを届けてくれたんだ。
竜ちゃんも、すっごくビックリしてたけど、それよりもずっと喜んでくれた。
この卵は一生物の記念にする、な〜んて浮かれちゃったりして、子供みたいなんだから、もう。
やっぱり生まれてからじゃないとお父さんの自覚って芽生えてこないのかな。
わたしなんてもう四六時中一緒にいて、早く生まれておいでって温めてあげてないと落ち着かないんだけどな。
早く自覚を持ってほしいけど、ま、焦る必要もないか。
これでわたしと竜ちゃんの障害になるものもなくなるもんね。
だって赤ちゃんなのよ、赤ちゃん。
いくらむっちち達が既成事実だなんだってぴーちくぱーちく騒いでも、こっちには赤ちゃんがいるんだから。
責任感の強い竜ちゃんがどっちを選ぶかなんて火を見るより明らか。
たとえそうでなくても竜ちゃんがわたしをポイしちゃうなんてあるはずない。
要は、これこそ勝利の女神がわたしに微笑んでる証拠。
運命なんだから、運命。

「お、おい、大河? どうしたんだ? 飯なら今作ってるとこだから、そんなに慌てなくても」

あ、噂をすればなんとやら。
むっちちがわたし達のお家にやって来た。
今さら来たってもうなにもかも遅いのよ、これ以上竜ちゃんをその洗濯板よりも哀れな貧乳で誘惑しようとするの、やめてくれない?
・・・帰ってって言ってるの。わたし達の幸せを邪魔しないで。

「・・・・・・・・・」

・・・な、なに、このかつてない悪寒。全身総毛立っちゃってる。
それになんなの、むっちちのあの竜ちゃん並に鋭く尖ったギラつく目。
虎を背負うむっちちに睨まれたわたしは、まるで蛇に睨まれた蛙そのもの。
目を逸らそうものなら獲って食べられる。羽一本動かそうものならカラリとおいしそうに揚げられる。
震えることすらできずにいたわたしは、ただただ死んだフリならぬ剥製になった気になって微動だにせず、
目の前の脅威が何もしないで過ぎ去るのを祈った。
すると突然お部屋の扉が開き、竜ちゃんのよりは小さな、だけどわたしにとっては十分巨大な手が侵入してくる。
無造作に向かってくるむっちちの手。今までで一番恐い。
な、なにをしようっていうの、一体・・・わたし、豊満なばでーしてる方だけどおいしくないよ・・・?
え・・・ちょっと、うそ・・・うそでしょ? そんな・・・ま、待って!? だめだめだめ、だめったらだめ!?
そんなの・・・それだけは、それだけはイヤなの、お願いだからやめて!?
もうおっぱいが無いからってむっちちなんて呼んだりしないから、だから・・・だからやめてえぇ!!

「そぉいっ!」

                              〜おわり〜





198 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2010/03/22(月) 11:15:34 ID:SM95Xp8B
おしまい

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