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きすして3 Thread-B 356FLGR sage 2009/09/23(水) 00:00:02 ID:8mCKtGXc

 あきらめの境地に達し、悟りでも開いたかのような心境だった。
 木原麻耶は期末テストの結果が印刷された紙を半分に折り畳んで鞄にしまった。そこ
に記された自分の順位はまさしく平凡にして並であり、偏差値で言えば五十よりほんの
すこしだけ上って感じだった。それでも、前のテストより順位は上がっているし手応え
だってあったのだ。そう、麻耶は結構頑張ったのだ。それが結果に結びついたのは素直
に嬉しい。嬉しいのだけれど、やっぱりこのレベルでは何をどうしたって北村祐作と同
じ大学には通えない。なにせ北村祐作は学年トップレベルなのだ。進学先だって国立か
一流私大にきまってる。さらにアメリカ留学という可能性もあるけれど、それは考えた
くない。本当にそうなったらどうにもならない。

 ホント、マジでタイムリープできたら昔の自分に伝言の一つも託すのに。
 そんなバカバカしい事を本気考える程、麻耶は真剣であり、それゆえに失望は深かった。
そんな麻耶が、この夏に彼と特別な関係になれれば同じ大学に行けなくたって…という、
楽観的な希望を抱くのは極めて自然なことだった。

 その日の放課後、木原麻耶と香椎奈々子そして大橋高校のアイドルにして失恋大明神
弐号機である川嶋亜美の三人は例によって須藤バックスでお茶とおしゃべりに興じてい
た。アスファルトにくっきり描き出される影は夏の日差しの強さを感じさせ、事実、店
の外は三十度を楽に超える暑さだった。

「ねえ、亜美ちゃん。去年さ、まるおたちと別荘に行ったよね」
「あー、そんなことあったっけねー」亜美は軽〜く答えた。
「そうそう、私たちは連れて行ってもらえなかったのよね」
 涼やかな目で亜美を見つつ奈々子はぽそりと言った。
「今年はさ、私も連れてってほしいんだけど」
「私『たち』ね」
 奈々子はきっちり付け足した。
「悪いけどさ、今年は何にも決まってない。って言うかそういう話しもして無いし…」
「そうなんだ…」
 麻耶は沈んだ声で言った。
「だってさ、理系選抜の一位と二位が夏休みに泊まりがけで遊びに行くとか思う?」
「そうよね。それにしても、高須君が一位か…。すごいわね。二年のときから成績は良
かったけど」
 奈々子は亜美の横顔を眺めながら言った。
「ま、高須君は祐作が変なところでミスったからだ、なんて言ってたけどね」
 亜美はちょっと優しい目をして、でも押さえた口調で話した。
「でもさ、いくら受験でもちょっとぐらいは遊びたいよね。まるおだって」
「まあ、そりゃそうだろうけどさ」
「私ね…、もうハッキリ告白しようと思うんだ」
「あら、ダメもとで?」と奈々子。
「ダメもとって酷くない?」
「ごめんごめん」

「ま、確かにね。あの朴念仁には小学生でも分かるぐらいはっきり言ってやんねーと…」
「そうよね。見事なぐらいに伝わってないもの」
 奈々子は顎に人差し指を当てて、これまでの麻耶の戦いの歴史を思い出しながら言った。

「やっぱさ、なにか、こう、雰囲気みたいなのが大事だと思うんだよね」
「雰囲気ねぇ」
「どんな?」
「やっぱ、夏でしょ。海でしょ。単純だけど。だからね、亜美ちゃんの別荘に…」
「ふぅん、そういうことね」
 麻耶はウンウンと頷く。
「ま、使わせてもらえるとは思うけど」
 頬杖をついて亜美は言った。
「ありがと。亜美ちゃん」
 そう言って麻耶は亜美の手を両手で握りしめた。 
 
「あとは、まるおをどうやっておびき出すかが問題ね」
 アイスティーをストローでかき回しながら奈々子が言った。
「大丈夫。あいつはバカだから来いって言えば来る」
「でも、一対三じゃ不自然すぎるし、いくらバカでも来ないんじゃないかしら」
 哀れ、北村祐作。学年トップクラスなのにバカ扱い。
「そうだねぇ。じゃあ、能登君と春田君を入れて三人にする?」
 三人は百ミリ秒だけ考えた。
「…ないわ」「…ナシ」「…ありえない。つか、キモい」

「やっぱり高須君よね」奈々子が呟く。
「まあね、高須君がいれば食事の心配しなくていいし。もれなくタイガーが付いて
くるけど一対三より二対四のほうがマシだね」
「日程調整が大変そうね」
 亜美は鞄からスケジュール帳を取り出して八月のページを開いた。
「八月七日までのどこかってのがいいんじゃないの。それより後ろになると大人の夏休
みとバッティングするし、私も八月の後半に仕事入ってるし」
「なるほどね。私もそれでいいわよ」
 そう言って奈々子は微笑んだ。
「私も大丈夫。明日、まるおを誘ってみるね」
「高須君とタイガーは?」奈々子は亜美の顔を眺める。
「タイガーはあたしが誘ってみる。タイガーが来るなら高須君も絶対にくるし」
「ふふ、そうよね」
「まあ、ダメでも恨みっこ無しだからね」
 亜美は釘を刺す様に麻耶に言った。
「大丈夫だと思うわよ」
 奈々子は楽観的だった。たまには息抜きは必要だし、高須君だって、タイガーだって
二人で海に行きたいだろうし。それにこのメンバーならまるおが来ないと高須君も参加
しにくい。でも…

「亜美ちゃんはいいの? 高須君とタイガーと一緒で」
「な〜んも問題無いけど」
 亜美はあっけらかんとそう言って奈々子の耳元に口をよせて、
「奈々子はどうなのよ?」と聞いた。
「私も問題ないわよ。どっちかって言うと一緒にいる二人を眺めたいし」
「倒錯だねぇ」
「そうかしら」

「何を二人でコソコソ話してるの?」
 麻耶のちょっとムッとした声に、二人は顔を見合わせて苦笑した。

***

「つーわけでさ、タイガー。海に行かない?」
「なにそれ。わかる様に説明しなさいよ」
 翌日の昼休み、亜美はさっそく行動を開始した。祐作を引っ張りだすには高須竜児を
連れて行くのが得策なのだが、先に竜児に聞いたところで大河に聞いてみるわ、と言わ
れるのが関の山であり、つまり竜を射んと欲すればまず虎を射よ、というのが亜美の作
戦である。

「海ねぇ…。行きたくないわ」
「げっ」
「だって、日に焼けるし、髪の毛痛むし、暑いし。大体、夏なんてのはね、ばっちりエ
アコンの効いた部屋でゲームでもやってやり過ごすべきなのよ。それこそが現代日本人
の正しい姿だわ」
「うわ〜、年寄りクサ。高須君だって高校最後の夏の思い出ぐらい作りたいだろうに、
彼女がこの調子じゃねぇ」
 その言葉に大河の耳がぴくっと動いた。
「ほ、他には誰が行くのよ」
「あたしと奈々子と麻耶は確定。祐作と高須君とあんたは調整中」
「みのりんは?」
「合宿とダブってていけないってさ」
「そっか。忙しそうだもんね」
「部長だもんね。夏が終わったら三年は引退だし、今が一番忙しいのかもね」
 奈々子は顎に人差し指を当てて言った。

「亜美ちゃん。まるおの返事聞いて来た」
 教室に戻った麻耶が声を弾ませた。それだけで返事は分った様な物だった。
「来るって?」
「高須君が行くなら行くって」
「で、高須君は」
「タイガーが行くなら行くって」
「やっぱりね」
 ちょっと呆れた様な表情で亜美は言いながら、まあ、大事な彼女をほっぽって他の女
の子達と海に行くわけないか、と思った。
「タイガー次第ね」
 奈々子がちょっと緩んだ大河の顔を見て笑った。
「りゅ、竜児と相談して決めるわ」
 不機嫌な言い方は照れ隠し。亜美も奈々子もお見通し。
「じゃあ、夜にでもメールして」
「わかったわよ」
「さてと昼休みも終わりだねっと」
 亜美は立ち上がり、奈々子と麻耶も自分の席に戻っていった。

 その日の夜、大河は竜児と二人で参加することを亜美に伝えた。
 そして高校最後の夏休みが始まった。

***

 南に向かう電車のボックスシートに生徒会長にして失恋大明神初号機こと北村祐作と
木原麻耶、香椎奈々子が座っていた。三人を乗せた電車は山間部を抜け入り組んだ海岸
を見下ろしながら走っている。

 麻耶と祐作の会話はそれなりに盛り上がっていて、奈々子は時折会話に参加しながら
その様子を眺めていた。それは亜美の計画の成果だった。この電車に高須竜児は乗って
いない。逢坂大河も川嶋亜美も乗っていないのだ。
 
「おっと!」
 祐作は不意に声を上げて、ポケットから携帯電話を取り出した。
「亜美からだ。木原と香椎にもメールが行ってるんじゃないか?」
 そう言われて奈々子がバッグの中の携帯を見るとメール着信を告げる青い灯りが点滅
していた。麻耶の携帯にもメールが来ていて二人はほとんど同時に携帯電話を開いた。
「これって買い物リスト?」麻耶が言った。
「どう見てもそうね」
「結構な量だな。楽しみだ」祐作は長文のメールを眺めて微笑んだ。
「えー? こんなに買うの大変じゃん」
「そうね。かなり本格的な感じだわ」
「ああ、いかにも高須らしいよ。なんせあいつの料理は美味いからな。何を作るのか今
から楽しみだよ」
「へぇ。そんなにすごいんだ。高須君の料理って」
 麻耶は半信半疑という顔で祐作を見ながら言った。それを聞いて奈々子は小さく笑った。
「どうしたの? 奈々子」
「ううん、なんでも。本当に美味しいのよ。高須君の料理」
 あの味を思い出してつい笑ってしまったのだ。
「食べたの?」
「卵焼き一つだけね。タイガーのお弁当をくすねて」
「うわー。大胆。怒ったでしょ、タイガー」
「まあね。でも、褒めたら喜んでたわよ」
 そう言いながら奈々子はメールを読んでいた。
「ねえ、まるお。駅の近くにスーパーとかあるの?」
「ん? ああ、確かあったな。それに小さいけど商店街もある」
「じゃあ買い物は問題無いわね」
「えー? そうかな。結構な量だよ」
「量はそうだけど、野菜とか肉類とか魚介とか分けて書いてあるからこのメモの通り回
ればいいのよ。多分、このメモ、元は高須君が書いてそれを亜美ちゃんが打ち込んだの
よ。きっと高須君は私たちが買い物をしてまわるルートまで考えてメモを作ってくれて
ると思うわ」
「なるほど。それにしても高須は大活躍だな。掃除もしてくれてるんだろ」
「そうよ。亜美ちゃんとタイガーも昨日から行って準備してくれてるわ」
 奈々子は携帯を閉じながら言った。


 ―― 一昨日の夜の事だった。

 奈々子が自分の部屋でくつろいでいると、携帯電話が着信メロティを奏で始めた。携
帯電話を開くとディスプレイには川嶋亜美の表示、すぐに着信ボタンを押した。
「あ、奈々子?」
「亜美ちゃん、どうしたの?」
「旅行の件なんだけどさ、あたし、明日から別荘に行くのよ。ちょっと掃除しとかない
とマズい感じなのよね」
「え? 大変じゃないの」
「あー。それは大丈夫。援軍を頼んだから」
「援軍って、ひょっとして高須君?」
「そ、高須夫妻。三人いれば全然オッケーだから。それに高須君がいると祐作が麻耶と
話さないでしょ」
「それは、そうかもしれないわね」
「まあ、そう言う事だから、明後日は麻耶のフォローお願い。それにさ、買い出しは
奈々子が頼りだから。高須君も奈々子をあてにしてるし」
「そうなの?」
 確かに、このメンバーならそうかも知れない。
「とにかく、そういう事だからよろしくね。祐作と麻耶にも電話しとくから。じゃあね」
「あっ」と言った時にはもう電話は切れていた。

 ―― ともかく、今のところ亜美の思惑通りに事は運んでいた。

「うーむ。なんだか申し訳ないな…」
 祐作は腕組みをして目をつぶって言った。
「そんなことないわよ。高須君、掃除好きだから。きっと、そうね、
『お、おぅ、川嶋、腕がなるぜ』とか言ってたんじゃないかしら」
 奈々子は腕組みして顔をしかめて竜児のモノマネをして言った。
「ぷっ…、いやだ、奈々子。ちょっと似てるし…」
「あら、そう?」
「おお、なかなか、似てたぞ。言い回しなんか、そっくりだ」
「…全然嬉しくないわ」
「いやいや、芸は身を助けるっていうからな」
「そうそう。タイガーに見せてあげなよ」
「だめよ。これは今やるから面白いの。後でやっても面白くもなんともないわ。そうい
う経験ってない? すごく面白い話しだと思ったのに友達に受けないことって無かった?」
「あー、それ、あるある」
「そうでしょ。これはそういう類いの芸なのよ」
 奈々子は落ち着いた口調で言った。
 もともと芸なんかじゃないのよ。ベッドの中で色々妄想していた成果なんだから。
 奈々子は心の中でそう呟いた。
 
 車窓からは夏の日差しに輝く海が見えていた。

***

「亜美ちゃん。すごい、すごいよ」
 リビングの窓からの景色を見た麻耶は興奮ぎみに「すごいよ」を連発した。
「奇麗な景色ね。本当に素敵だわ」
 奈々子は麻耶の隣に立って窓の外を眺めていた。海に来たのはもちろん初めてでは無
いけれどプライベートビーチは初めてだった。こんなに奇麗な砂浜に人っ子一人いない
というのはちょっと斬新な景色だった。
 
「おぅ、準備できたぞー」キッチンでちょっと遅い昼食の用意をしていた竜児が言った。
 ダイニングテーブルの真ん中にはスパゲッティが山盛りに乗った大皿。そして鍋が二つ。
「スピード重視でこんな有様だが味は保証する。ソースは二種類。そっちの黄色い鍋が
普通のトマトソースでこっちの赤い鍋がアラビアータ。あとはセルフサービスだ」
「おお、美味そうだな。では、早速」
 祐作はトングでパスタを皿に取ってアラビアータソースをかけた。
「じゃ、私も」
 麻耶も祐作にならってパスタをとりアラビアータソースをかけた。奈々子はトマト
ソース。亜美はアラビアータ。大河はトマトソース。最後に竜児がパスタにトマトソースを
かけて全員準備完了となった。
「おぅ、食ってくれ」
「いただき」大河は待ちきれずにフォークで巻き取っていたパスタを口に入れた。
「んー、辛くておいし」感想を漏らしたのは亜美。
「おお、美味いな。やっぱり高須の腕前はプロ並みだな」
「んなことねぇって」
「ホントだ。美味しい」麻耶はしきりに感心。
「茹で具合もいいわね。こっちのトマトソースもいいわよ」と奈々子。
「え? マジ。ちょっと分けて。奈々子」
 亜美に応えて奈々子は自分の取り皿を亜美に渡した。
「じゃあ、亜美ちゃんのを分けて」
 亜美の皿が奈々子のところへ。

 山ほど茹でたパスタも高校三年生六人の前にみるみるうちに減っていきあっさり完食
された。
「さすが高須だな」祐作はしきりに感心していた。
「そんなことないわよ。手抜きよ、手抜き」と大河。
「お前、余計な事言うなよ。本当に手抜きなんだから」
「いいじゃん。美味しいんだからさ」そう言って亜美は竜児を見た。
「おぅ、ありがとよ。さて、片付けちまおう」
 竜児は立ち上がって取り皿を重ねていく。
「あ、高須君。手伝うわ」
「あー。奈々子。いいの、いいの。ここは夫妻にお任せで」
「え? でも」
「あぁ。かまわねぇぞ。これぐらいならすぐ片付く」
「てことで。先に行ってるわよ。麻耶、奈々子、こっちこっち。部屋、教えるから。
あー、祐作もついでに来て。後で教えるのもメンドーだし」
「わかったよ。すまないな、高須。任せっぱなしで」
 祐作が申し訳なさそうに言った。
「おぅ、気にすんな。晩飯の片付けは手伝ってもらうからよ。そんじゃ、大河。
ちゃっちゃとやっちまおうぜ」
「しょうがないわねぇ」
 カチャカチャと音を立てながら大河は重ねた皿をキッチンに運んでいく。キッチンに
並んで立つ竜児と大河を祐作はまぶしそうに眺めていた。

***

 真夏の強い日差しが白い砂浜を照らしていた。まるでイラストの様な青い空と遠くに
浮かぶ入道雲。白く輝く砂浜はゴミ一つ無い完璧な美しさでリアリティがまるでない。
当然、私有地だから六人以外は誰もいない。もっと言えば、視界の届く範囲を見回し
たって六人以外の人間は目に入らない。出来過ぎなぐらいにプライベートビーチに最適
な地形なのだ。

「亜美ちゃん、遅い!」
「ごめんごめん」言いながら亜美は砂浜を走り波打ち際を駆け抜けて膝までぬるい海に
浸かり麻耶と奈々子の傍に立った。それは春田が泣いて喜びそうなビジュアルだった。
いや、春田に限らず男子なら誰だって喜ぶ光景だった。

 亜美の水着は白地にブラウンのドットがプリントされただけの装飾がないシンプルな
ビキニで、そのシンプルさゆえに彼女のスタイルの良さを際立たせていた。麻耶の水着
も白地のビキニで柄はグレーのボーダー。色合いの割に華やかに見えるのはプリントに
ラメが入っているから。奈々子はちょっと大人っぽく黒地にリーフ柄がプリントされた
ビキニに同じプリントのパレオをセット。
 これが普通のビーチだったらナンパがウザくて堪らないだろうがここは完璧なプライ
ベートビーチ。そんな心配は一つもない。三人はお互いの水着を見せ合い、カワイイと
ヤバイを連発していた。

 そんな三人の盛り上がりとは無関係に、祐作は一人で夏の海を堪能するように泳いで
いた。

 
「おお、やっぱ盛り上がってんなぁ」
 昼食の片付けを済ませて一足遅れで着替えた竜児は盛り上がる三人娘をウッドデッキ
から眺めながら大河を待っていた。
「ごめん、待った?」
 ウッドデッキに出て来た大河は水着の上からパーカーを着てビニールバッグをぶら下
げていた。
「いや。気にすんな。それよか日焼け止めは?」
「ちゃんと塗ってきたわよ。けど…」
「けど?」
「背中とかできないから、後でさ…」
「お、おぅ」ぽりぽりと頬を掻いた。
「じゃ、いこっ」
「よっしゃ」
 竜児は足下に置いてあったクーラーボックス持ち上げストラップで肩から下げた。
飲み物がたっぷりと入ったクーラーボックスはずっしりと重くストラップが肩に食い
込んだ。二人はゆっくりとした足取りで砂浜に降りていき、竜児は砂浜に立てたパラ
ソルの下に敷いたレジャーシートの上にクーラーボックスを下ろした。
「おつかれ」
「おぅ、雑作もねぇ」
「あっち向いてて」大河はそう言って海の方を指差した。
「あいよ」と言って竜児は海の方を向く。
 大河はビニールバッグをシートの上に置いて、着ていた白いパーカーを脱いでバッグ
に押し込んだ。胸元を覗き込む様にしながら水着の具合を確かめた。この日の為に買った
真新しい水着。ちょっとだけ上げ底。

「いいわよ」
 竜児は振り返って大河を見た。
「ど、どうよ?」相変わらず自信なさげだった。

 大河のビキニは白地に黒のチェック柄で彼女の身体のラインの美しさと可愛らしさを
引き立てていた。ウエストの細さが際立つから細身の身体でもバランスが取れて見える
し、モノトーンはちょっと大人っぽい感じで今の大河によく似合っている。

「いいよ、似合ってる…」
 何回も裸を見ているのに水着はまた違った感じでちょっとドキッとする。
「なんつーか、ちょっと大人っぽくて、可愛い感じで…良い感じだ…」
 竜児はそっぽを向きながら言ってから、ちらっと大河を見た。
「そ、そう。良かった」
 大河は竜児に微笑んで、そして波打ち際へと走った。夏の日差しに光る海と青い空を
背景に踊る様に波と戯れる大河の姿に竜児は見蕩れた。大河は膝下まで波に洗われなが
ら竜児の方に振り返った。

「竜児! 早く!」
「お、おぅ」と、応えて竜児は走り出した。

 波打ち際を超えて足が海に浸かると日差しで灼かれた身体がゆっくりと冷やされてい
くようで心地よかった。竜児が駆け寄るタイミングを狙って大河は水面を削り取るみた
いに腕を振って竜児に水しぶきをかけた。竜児はそれを頭から被ったが、大河が小さい
手で浴びせる飛沫は僅かなものだった。

「お前、髪の毛まとめるとかしなくていいのかよ?」
「あ、ああ、そか。忘れてた」
「ったく、とりあえず三つ編みにしてやっから…」

「そこの夫妻! イチャついてんじゃないっ」
 言いながら亜美は竜児を狙ってフルパワーでビーチボールを投げた。亜美の声に
「かわしま〜」っと言いながら振り向こうとした竜児の視界に一瞬だけ三人娘の姿が映
り、次の瞬間にビーチボールは竜児の顔面にモロに直撃した。バフッと間の抜けた音を
立ててボールは空を舞い、そこにちょっと強い波が来て竜児の足下をすくった。振り
返った拍子とボールの破壊力と波の絶妙なコンビネーション攻撃で竜児はバランスを崩し
「のわぁっ」と妙な声を上げみっともなくコケて大きな飛沫をあげた。上がった飛沫を
頭から被った大河がクスクスと申し訳なさそうに笑った。勿論、亜美は大爆笑。奈々子も
声を上げて笑ってから「ごめんね、高須君」と言って、また笑った。そして、麻耶は泳
いでいる北村を眺めていた。

***

「次! 十本目、いくわよ」
「まだやんのかよ?」
「情けないぞ高須。もうギブアップか?」
「ぬかせ、俺のが一本リードしてるっての」

 謎の水泳対決に興じる竜児と祐作の姿を麻耶と奈々子は眺めていた。水泳対決、と
言っても実際は大河が沖に向かってカラーボールをノックしてそれを先にとって来た方
が勝ちという、要するに犬の遊びみたいなゲームだ。なぜ、金属バットが置いてあった
のかは分らないが、とにかく物置にそれはあった。

「そーれっ」大河は左手でピンク色のボールを軽く放り上げバットを握ると奇麗な
フォームでコンパクトに振り抜いた。スパーンという音が響いてボールは青空に吸い込
まれる様に飛んでいき海面に落ちた。
「レディ、ゴーッ! それっ、走れ犬ども」スタートの合図をしているのは亜美だった。
「ぬおぉ」「うおぉ」竜児と祐作は同時に砂浜を蹴って海にダッシュ。バシャバシャと
波を蹴り、飛び込み、ボールに向かって泳でいった。

「奈々子。高須君ってさ…意外とスペック高くない?」
「へえ、気になるの?」奈々子は意地悪そうに言った。
「私はまるお一筋だもん!」
「ふふ、そうよね。でも、凄いわよね。まるおと互角だもの」
「あ、戻って来た」

 ボールを持って戻ったのは竜児だった。よたよたと亜美にボールを渡してその場にへ
たり込んだ。すぐ後に祐作が戻り竜児の近くに座り込んだ。二人とも息を切らせて苦し
そうに酸素を貪る。
「勝者、高須君!」
 亜美が告げると竜児は拳を小さく突き上げガッツポーズ。祐作は万歳してから砂浜に
寝転がった。

「麻耶、まるおに飲み物持っていってあげたら」
 奈々子はそう言って目配せした。その方向にはペットボトル片手に竜児の元に歩く
大河がいた。
「そ、そうだよね」
 麻耶は砂浜に立てられているパラソルの元に小走りで向かった。麻耶はクーラーボッ
クスからスポーツドリンクのペットボトルを一本取り出して、祐作のところに向かって
歩き出した。
 
 いちいち気が利かないんだよね…。麻耶は思った。

 あれだけ激しい運動をしたらどうなるか、何が欲しいか簡単にわかるはずじゃない。
それなのにボケッとしちゃって、ちゃんとタイガーには分ってたのに、私はちっとも
気付けない。まったく、しっかりしてよ。ほら!

 麻耶は祐作の前に立って笑顔でペットボトルを差し出した。
「まるお! お疲れ」
「おお、サンキュ」
 祐作はボトルを受け取った。輝く様な爽やかな笑顔だった。キャップを開けて口を付
けると一気に四分の一程を飲み干した。
「ふぅ、うまい。生き返る」
 笑顔も素敵、真顔も素敵、思わず見蕩れてしまう麻耶だった。
「ふふ、良かった。でも、負けちゃったね」
「ああ、こんなゲームでも負けると悔しいんだよな。敗因を考えないと」
「えー、そんなマジになんなくてもいいじゃん」
「いやいや、こういうのは真剣にやるからこそおもしろいんだ」
 そう言って、祐作はスポーツドリンクをもう一口飲んだ。
「そうなんだ。うん、男の子ってそういうところあるよね」
「女子は違うのか?」
「アレを一生懸命やる娘はいないと思うけど…」
「そうか? 櫛枝ならやってくれると思うんだが」
「そうかもしれないけど…。でも、普通の女の子はやんないと思う」
「ふむ、勿体ないな。面白いのに…」
「私は見てる方が好きだな。なかなか面白かったよ。まるおと高須君の対決」
「そうか。高須は水泳が得意なんだよな。何でも小さいころに…」

 ふと、麻耶は竜児と大河の方を見た。スポーツドリンクを飲んでいる竜児に大河が何
かを話しかけた。竜児はペットボトルを差し出し、大河はそれを受け取ると躊躇しない
でそれに口をつけて飲んだ。ふぅ、と言う感じで息を吐いてからペットボトルを竜児に
返し、受けとった竜児も当たり前のように口をつけて飲んだ。一本のボトルをシェアす
るなんてことは二人にとってはとっくに当たり前のことで意識なんて全然しないで自然
とそうなっていた。

『そうか…。ああいう風に自然な感じで行けばいいんだ。よし』麻耶は勝手に納得。

「…分析するに敗因は視力だな」
「ま、まるお。それ、美味しい?」
 麻耶は祐作の顔を覗き込むようにして聞いた。
「ん? ああ、美味いぞ」
「あ、あのさ、私も喉乾いちゃって。ちょっと…」
「おお、そうか。じゃあ、もう一本取って来よう」
 祐作はさわやかにそう言ってさっと立ち上がった。
「え、あ、いや、そうじゃ…」
「はっはっはっ、水分補給は大切だぞ」
 さわやかに語ってから祐作はパラソルの下に走り、クーラーボックスからペットボト
ルを取って小走りで麻耶のところに戻った。
「お待たせ」と言って、祐作は麻耶にスポーツドリンクを渡した。もちろん、未開封の
方だった。
「あ、ありがとう…」

 麻耶はちょっとヤケ気味に勢い良くキャップを外して一気に飲んで、そして咽せた。
苦しげに咳き込む麻耶に祐作は「大丈夫か?」と声をかけた。麻耶は苦しそうにしなが
ら頷いたが咳はなかなか収まらなかった。
「あーっ、もう。麻耶、大丈夫?」
 駆け寄った亜美が麻耶の背中を擦った。しばらくすると麻耶の呼吸は落ち着いて咳も
収まった。
「ありがと、亜美ちゃん。もう大丈夫。ちょっと休むね」
「うん、そうしなよ」
 麻耶は奈々子に手を引かれてゆっくり立ち上がるとパラソルの下に歩いていった。

「祐作、あんたバカ?」
 亜美は目一杯の不機嫌を照射するみたいな目つきで祐作を睨んだ。
「なんだよ、一体?」
 祐作はちょっとムッとする。
「…ほんとに分ってないんだから。あーあ、だねぇ。ったく」
 亜美はそっぽを向くと麻耶と奈々子の方に歩いていった。

 ぽつんと残された祐作はやっぱり良くわかっていなかった。
 彼は本当に分っていなかったのだ。

***

 太陽が沈みかけていた。
 竜児と大河、それに奈々子は一時間半程前に夕食の支度のために別荘に引き上げてい
た。麻耶は「ちょっと休むね」と言って自室に戻り、残っているのは祐作と亜美だけ
だった。
 亜美は麻耶と祐作の仲を取り持つつもりなんてなかったけれど、麻耶に対する祐作の
態度については前々から腹に据えかねるところがあったのだ。水着とセットのキャミ
ソールと裾フリルのショートパンツを身につけた亜美は砂浜に胡座をかいてぼんやりと
海を眺めている祐作に近づいていった。そして軽く腕を組んで祐作を背後から見下ろし
て話しかけた。

「祐作、何やってるの?」
「…亜美か…。何もしてない。ボケッとしてる」
 祐作は振り返らないで答えた。

「おもしろい?」
「これはこれで面白い…」
「そう…。ねえ、あんたさ…」
 麻耶の事、どう思ってるの? そう聞きそうになって、口を噤んだ。
「…狩野先輩のこと、まだ好きなわけ?」
 祐作の首が僅かに動き、でも祐作が亜美の方を向くことはなかった。
「どうして、そんなこと聞くんだ?」
「んー、そうね。祐作がどうしたいのか分んなくってね」
「…どうしたいって」
「そんな難しい事聞いてないでしょ。三択だもの。あきらめる、追いかける、こっちで
待つ、以上三つ。ああ、あともう一つ。もう諦めたってのもあるか」
 それは祐作の自由だから、もし、祐作がすみれを待つというならそれもアリだし、
追いかけると言うならそれもアリだ。どちらかなら、亜美は麻耶の気持ちを祐作に伝え
て、自分がどうするつもりか麻耶に言ってあげなよ、そう言うつもりだった。

 祐作は答えなかった。
「ふうん、答えられないんだ」
「亜美には関係ないだろ。余計な詮索だ」
 亜美の眉間に皺がよる。ちょっとキレた。
「そうだねぇ。あたしなんかには関係ないもんね」
 亜美は祐作の背中を見下ろして冷たい視線を投げる。
「…」
「じゃあ、もう一つだけ。ずっと分んなくて引っかかってたことがあんのよ」
「なんだ?」
「なんで選挙の時にコクったの。あれは、あんた的には男らしくてカッコ良かったわけ?」

 それが亜美には分らなかった。

 なにも全校生徒の前でやらかす必要があったとは思えない。自分に想いを寄せている
女の子の目の前でそうしなければならない事情があったとも思えない。そんなもの無い。
あるはずがない。

 狩野すみれとサシで向き合えばよかっただけの話しではないか。
 だから亜美には、あれが告白だとは思えなかった。もっと違う意図がある様に思えて
仕方が無かったのだ。

「わからない」
 祐作は振り向かないで呟いた。
「わからない? そう、もう随分前のことだからねぇ。わかんなくなっても仕方ないわ
よねぇ」
 亜美は完璧に厭味だけで構成された言葉を芝居じみた口調でぶつける様に吐いた。
「すまない…」
「すまない? 適当な事を…」
 ムカついた。何が『すまない』のか。『わからない』のが『すまない』のか、それと
も他に『すまない』事があるというのか。適当にあしらわれているような気がしてムカ
ついた。でも…
「もういいわ。夕食を台無しにしたくないから」
 亜美は祐作に背中を向けて別荘に歩いていった。歩きながら気分をリセットすること
に集中した。皆の喜ぶ顔が見たくて使い慣れないキッチンで奮闘している奴がいるのだ。
それを台無しになんてできやしない。
「祐作、あんたもそろそろ戻ったら。もうすぐ晩ご飯だと思うから」
 亜美が祐作の方を振り返って少し大きな声でそう言いうと祐作は海を見たまま右手を
上げて応えた。

***

 竜児の料理は多少の人間関係の痼りぐらいなら吹き飛ばすぐらいの出来だった。本日
のメニューはパエリアとトルティージャ。どちらも好評で、竜児はちょっと余るかも、
と思うぐらいの量を作ったのだがそれでも料理はキレイに無くなって六人の胃袋に収
まった。

 料理の出来に一番感動していたのは奈々子だった。竜児に「レシピを教えて」とお強
請りしてメモを作ってもらう約束を取り付けたほどだった。奈々子も竜児を手伝ってい
たのだがその手際に圧倒され、とにかく竜児に言われた事をやるだけで精一杯でレシピを
憶えるどころではなかったのだ。

 そんなわけで、夕食の片付けを済ませた竜児はダイニングでパエリアのレシピを書き
出しているところだった。竜児の正面に奈々子が座りレポート用紙にレシピが書き込ま
れていく様子を眺めていた。竜児の隣にはちょっと退屈そうに頬杖をついた大河が座り
竜児が書いている文字を眺めていた。
「別に今やんなくてもいいじゃない」と大河は言い、奈々子も「帰ってからでいいよ」
と遠慮したのだが、奈々子がぽろっと漏らした「お父さんにも食べさせてあげたいな」
という言葉が竜児には堪らなかったのだ。

 十分とかからずにレシピは完成し竜児はレポート用紙のページを剥がして奈々子に渡
した。
「ありがとう、高須君。なにかお礼しなきゃね」
 奈々子はそう言って丁寧にレポート用紙を畳んだ。
「お礼なんていいわよ」大河が言う。
「ああ、大した事じゃない。これで礼なんかされたらかえって困る」
「でもね、何もしないってのもね」
「おぅ、じゃあお茶でも入れてくれよ」
「お安い御用よ」奈々子は微笑んだ。

 奈々子はケトルをコンロにかけた。お茶と言ってもティーバッグの紅茶と緑茶、それ
にインスタントコーヒーぐらいしかない。だからそれは本当にお安い御用だった。

 竜児がコーヒー、大河と奈々子はミルクティーを飲みながらとりとめの無い話しをし
ているとリビングのドアがゆっくりと開き麻耶が入って来た。麻耶は何かを探す様な仕
草で視線を動かしダイニングでまったりとお茶を楽しむ三人を見つけた。

「あーっ。何コソコソやってるの?」
「別にコソコソなんてしてないわよ。お茶してるだけ」大河はさらっと言った。
「私もいいかな?」
「かまわないわよ」
「ああ、但しセルフサービスな」
「えーっ。奈々子、お願い」
「しょうがないわね。コーヒー? 紅茶?」
「紅茶お願い」
 奈々子は腰を上げると食器棚からカップを一つ取り出した。

 四人の話題は料理のレシピだったり、昼間のちょっとバカなゲームについてだったり、
そんなとりとめの無い話だった。それがちょっと一段落したところで麻耶は竜児の方を
向いて小さな声で話し始めた。

「あのさ、高須君…教えて欲しいんだけど…」
 竜児の小さな黒目が少し揺れて麻耶を見た。
「まあ、知ってる事なら」
「もしかして、まるおって私のこと嫌ってる?」
 普通なら四人で話す様なことじゃないのだろうが、麻耶の片思いはここにいる全員が
知っている。
「キライってこたぁないだろう」竜児は間を置かずに応えた。
「迷惑だとか…聞いてない?」
「ねぇよ。北村はそんなこと言ってねぇし、思ってもいないさ。木原が来てくれると文
系クラスの様子が分かって面白いなんて言ってるぐらいだからな」
「本当に?」
「ああ、ウソなんかつかねぇよ」
「まだ、狩野先輩のこと、好きなのかな」
「どうだろうな」
「そういう話しはしないの?」
「しねぇな」
「本当にしないの?」奈々子が怪訝な表情で聞いた。
「ああ。してねぇ。いいだろ、狩野先輩のことは」
 竜児は眉間に皺を寄せて奈々子を見た。素でも凶悪な表情がさらに酷い事になっていた。
 奈々子の表情は強ばり、それに気付いた竜児は低く唸って目を逸らした。

「あ…、ご、ごめんなさい」
 奈々子はその名前が彼の苦い記憶と結びついていることを思い出した。
 大河の手が竜児の手にそっと触れ、それに気付いた竜児は大河を見た。
「気にしないで」大河は呟く様に言った。
 竜児は小さく頷き表情を緩めた。
「悪いな。本当にしねぇんだよ。つーか、あいつは俺に狩野先輩のことは話さねぇんだ」
「そうなの…」
「あいつだって俺には話しづらいだろうさ」
 全員が沈黙をもってそれに同意した。

「そうだよね」麻耶は言った。
「…私が聞いてもいいのかな? まるおに、先輩の事」
「…いいんじゃないの」そう言ったのは大河だった。
「そうだな、木原が思った通りにすればいい」
「うん…。そうだよね。まるおの部屋に行ってみるね」
「お茶ぐらい持ってった方がいいんじゃない」奈々子が言った。
「ま、北村にはコーヒーだろうな」
 竜児はケトルに水を入れてコンロにのせた。

***

 大いなる勇気をもって麻耶は祐作の部屋のドアを叩いた。
「まるお。入っていい?」
 すぐにドアが開いて祐作が顔を出した。
「コーヒーもってきたんだけど」
 祐作は怪訝な表情を見せたけれど、
「…そうか。入れよ」と言って麻耶を招き入れた。
 よし、第一関門突破。麻耶は心の中でガッツポーズ。
 小さなテーブルの上にトレーを置いた。
「いただくよ」
 祐作はマグカップに指をかけて口を付けた。
「インスタントだから…たいしたことないんだけどね」
 麻耶は砂糖を半分だけ入れてスプーンでかき混ぜた。マグカップに口をつけて一口
飲むと香りも味もインスタントコーヒーだった。
「やっぱ、インスタントだったね」
「そうだな。でも、何か飲みたかったから丁度よかったよ」

「あのさ、まるお…」
 いきなり本題に入るのもどうかと思い、手近な共通の話題をふってみることにした。
「えと、ご飯美味しかったよね」
「おお、美味かったな。あいかわらず高須の料理はうまいよ」
「私は初めてだったから驚いたよ。あんなに本格的だとは思わなかったもん」
「だろ。普通驚くよな。女子でもあそこまで出来る娘は珍しいんじゃないのか?」
「いないよ。奈々子も驚いてた。っていうか感動してた」
「だろうな」

 それからしばらく夕食の感想を話した。

「高須君、お母さんと二人で暮らしてるんだよね?」
「ああ。ずっと二人暮らしだって言ってた。お母さんが働いて、家事も家計の管理も
全部高須がやってる」
「そうなんだ。凄いな。私なんか何にもできないよ」
「ああ。あいつは、高須は凄いよな」
「そうだね。けど、私から見れば、まるおだってすごいよ」
「俺が?」
「勉強できるし、スポーツ万能だし、生徒会長だし。十分スゴイよ」
「そうかな」
「そうだよ」

「ねえ、まるおは、まだ狩野先輩の事、好きなの?」
「え?」
「あ、ゴメン。言いたくなかったら、いいから」
「…どうかな。好き、なんだろうな」
「そうだよね」麻耶は寂しそうに言った。
「元気でやってるのかな?」
「…元気で…やってるよ」
「…そっか。さすがだね」
「そうだな」祐作は寂しげに微笑んだ。

「でも、なんでそんなこと?」不思議そうな目をして祐作は言った。

「うん…あのね…」
 麻耶は迷った。『A:えっ、なんとなくね』『B:まるおが好きだから』無難なのは
間違いなくA。Bでコケたら話す事さえ難しくなりそう。そう、とりあえずAで間を繋
いで…、なんて調子だからダメなんだ、私はいつまでたっても、いつまで待っても気付
いてもらえないんだ。もう、言っちゃえよ!>私

「…すきだから」俯いて呟く様に言った。言ってしまった。
「え?」
「まるおが好きだから…」そう言って麻耶は祐作を見た。
 
 祐作は麻耶の目を見た。中途半端に口を開けて、瞬きを忘れて。 

「き、木原?」
「驚いた?」
「お、驚いた」
「やっぱり…、まるお、鈍感すぎ」
 呆れて突き放す様な口調で言った。
「え、ああ、でも、何で?」
「…何でって、好きになるのに理由が無きゃダメなの?」
 頬を染めたまま、口を尖らせて麻耶は言った。
「あ、いや…」
 曖昧な言葉を返す祐作に麻耶は、本当に驚いているんだ、と思った。あれだけアタック
したつもりなのに、ちっとも伝わってなかったのが悔しいというよりおかしかった。
「まるおのね…話し方が好きだったりさ、一生懸命な感じがよかったり。でも、やっぱり
理由なんて分かんない。私は単純にまるおが好きになったの。それだけ…」
 
「それじゃ、ダメかな?」
「いや、ダメだなんて」
「じゃあ、まるおはどうして狩野先輩が好きなの?」
「俺は…」
 最初は憧れだった。

「あの人に憧れて…」
 憧れが好きという気持ちに変わった。良く有ることだと思う。

「そうだよね。狩野先輩、すごかったもんね。いろんな意味で…」
「ははは。そうだな」
「でも、その凄い人に信頼されてたんだから、やっぱりまるおも凄いんだよ」
「そうかな…」
 祐作は口元に小さな笑みを浮かべて呟いた。胸をくすぐるのは…優越感だった。
 それはまだ彼女が会長で自分が副会長だったころ、毎日の様に感じていた感覚だった。

『ソウダヨ、オレッテ ケッコウ スゴインダ。ミンナヨリモ スゴインダヨ』

 ああ、そうか…。そうだった。
 俺はあの『凄い』人に必要とされて、褒められたかったんだ。
 貧弱な自分のプライドを補強するために俺には彼女が必要だった。
 だから彼女が夢に向かって旅立つ事が喜べなかったんだ。

『なんで選挙の時にコクったの。あれは、あんた的にはカッコ良かったわけ?』
 
 あの日、自分は何を望んだ?
 自分の事を好きだと言ってくれる事か? 
 彼女の留学の延期か? 本当に?

 違う。そうじゃない。
 俺が何を言っても彼女は止められない。それは分っていた事だ。
 それ以上に、それ以前に、俺が何かを言ってそれで夢を諦める様な人だったら、彼女
は全然凄くない。そんなのは狩野すみれではないのだ。俺は行かないで欲しいと泣きな
がら、それでいて彼女が考えを変える事も望んじゃいなかった。それに…

 俺には彼女を追いかけるという発想も無かったのだ。本気になった彼女に俺なんかが
付いていける筈が無い。いや、付いていけてはいけないのだ。

 それでも好き『だった』のは事実だ。だから、俺は告白をした。 

 それで状況が変わるとは思わなかった。だって、変わって欲しくないんだから。
 ただ、『北村祐作は狩野すみれに捨てられて傷ついた』という事実だけを突きつけた
かった。自分を見捨てて夢に向かっていってしまう狩野すみれを少しだけ傷つけたかっ
た。だから、彼女が追い込まれる状況で、大勢が注目する中で告白したのだ。みんなの
前で、『お前のような凡人に興味はない』そう言わせたかったのだ。

 最後まで彼女は素晴らしかった。『面白い奴だろ』そう言ってくれたのだ。あれは間
違いなくあの人の優しさだ。俺にとっては期待した通りの展開だった。衆目の中で俺は
失恋しみっともない程に泣いた。俺は傷つき、彼女は傷つけた。否、俺は傷つけ、彼女
は傷ついた。

 あの時、俺は本当に自分のことしか考えていなかった。俺の事を真剣に心配してくれ
ていた友人達のことをまるっきり忘れていた。
 そして、狩野すみれはあまりにも狩野すみれだった。多分、彼女は俺に失望してムカ
ついていたのだろう。
 
 そして、事件は起きた…。否、俺が起こしたのだ。

 狩野すみれを失望させ、傷つけた。
 逢坂大河を傷つけた。
 そして、親友を、高須竜児を傷つけた。

 自己満足のために大切にしなければならない人を傷つけた。
 それなのに…、俺は優等生ヅラして生徒会長様なんてものをやっている。

『サイテーダナ』
 否定出来ない。北村祐作は最低である。

 でも、彼女に対する想いは本当だった。
 それは本物だった筈だ。 
 なのに、どこかで、いつ頃からか、変質してしまった。させてしまった。
 好きだったのに…。本当に単純に好きだった筈なのに……

「え? まるお?」
 祐作の目から涙が溢れた。
「俺は…最低だ…」
 胸を押しつぶされるような痛みに喘ぐ様に、祐作はやっとの事で言葉を吐き出した。

「ごめんなさい。辛い事、思い出させて」
 麻耶は手を伸ばしながら、でも祐作に触れられず、ただ謝った。謝りながら麻耶も泣
きそうだった。北村が彼女の話で泣くと言う事は、つまり彼は彼女を好きで忘れられな
い、そう思ったから。

「ちがうんだ…。きはらの…せいじゃ…ない」
「でも…」
「ちがうんだ…。おれは…」
 そう言ったきり、祐作は言葉を詰まらせた。嗚咽がもれるばかりで何も言葉にならな
かった。俯いたままで落ちていく涙を見ていることしか出来なかった。祐作は自分が泣
いていることが情けなかった。自分が情けなくて泣き、そして泣いていることの情けな
さを吐き出すようにさらに泣いた。

 祐作の肩に暖かいモノが触れた。
「きはら?」
 麻耶は祐作を抱いていた。柔らかい胸で祐作の額を受け止めるみたいに、包み込む様
に優しく抱いていた。麻耶には祐作が何を悲しんで、なぜ泣いているのか分らなかった。
何ヶ月も前の失恋を思い出して泣いているとも思えなかったし、離れ離れの現状を悲しん
でいるのだとも思えなかった。

「ごめんね。私にはこんなことぐらいしかできないし、これしか思いつかないから。
でも、イヤだったらそう言って」
 祐作は何も言えなかった。それが嫌じゃなかったから。どす黒い澱のような感情に溺
れている自分にとって、それが救いに思えたから。

「おれは…、さいていだ…」
 己のあまりの幼稚さと犯した過ちの酷さに泣き、泣いている事の情けなさに更に泣く。
女の胸を借りて泣いているのも情けなかったが、抱かれていることの暖かさを心地よく
感じてしまっているのはもっと情けなかった。

「そんな事、言わないで。…好きな人からそんな事聞くのは悲しいよ」
「…ごめん…」
「まるお。私にはまるおが泣いてる理由、わかんない。知りたいけど、言わなくていい
よ。私なんかじゃ、なんの助けにもなんないだろうし…」
「そんなこと…」
 呟く様にいって祐作はそれきり黙りこくった。真っ黒な自己否定がぶり返してきて、
それを吐き出す様に嗚咽がもれた。麻耶はそんな祐作の頭を顎の下にしまい込む様にし
て抱き続けた。

***

「stupid」可愛らしい唇から罵り言葉。
「愚かな、つまらない、バカ」低い声が答える。
「はい、正解」

「あれ、あんた達だけ?」
 リビングに入って来たのは風呂上がりの亜美だった。竜児はソファに身体を預けて
ちょっとだらし無く座っていた。大河はそんな竜児の太腿を枕にしてソファに寝転がって
いた。手にしているのは試験に良く出る英単語をまとめてあるっぽい有名な本だ。
「おぅ、そうだけど」
「何やってんの?」
「英単語クイズ」寝転がったまま大河が答えた。
「真面目だねぇ。こんな時ぐらい勉強なんて忘れりゃいいのに」
「貧乏性なんだよ」
「あ、そ。皆は?」
「麻耶は北村君のとこ。奈々子は外。星、観るって」
「そう、星ねぇ…」つまらなそうに亜美は言った。
「凄いんだよ。っても、ばかちーは何度も観てるのか」
「俺なんか普通に感動したけどな」
「え、そう……ちょっと見てこよっかな。奈々子の様子」
「おぅ、デッキにランタンあるから持ってけよ。暗いからな」
 竜児はデッキに出て行く亜美の背中を見送った。
「意地張んなくてもいいのにね」
 そう言って大河はちょっと笑った。
「だよな」
 竜児もちょっと笑った。

 亜美はランタンを手に浜へ降りていった。空を覆い尽くす星に立ちすくむ。
「すご…」
 暗闇に眼を凝らすと、砂浜に足を伸ばして座り反らした上体を腕で支えるようにして
空を眺めている人影が見えた。
「奈々子?」
「…亜美ちゃん?」
「そこに行ってもいい?」
「いいわよ」

 亜美はランタンの明かりを明るくして砂浜に降りていった。奈々子の傍に腰を下ろし、
ランタンの明かりを消して奈々子と似たような姿勢で空を見上げた。二人は空に見入った。
降ってくる様にも、吸い込まれていく様にも思える満天の星空を言葉もなく眺めた。
どのぐらいの時間そうしていたのか分らない。ほんの数分かもしれないし数十分かもし
れなかった。

「綺麗だね」亜美が言った。
「そうね。本当に綺麗。タイガーがね、言ってたの。怖いぐらいだよって」
「星空が?」
「そう…星空が。なんか分かるわ」
「怖いの?」
「怖いわ」
「ふぅん」
「みんなすぐそこに居るのにね、なんだか独りぼっちになったような気がする」
「独りぼっちか…。本当はそうなのかもね」
「亜美ちゃんは…独りぼっちじゃないわ」
「そだね。亜美ちゃん人気者だから」
「そうじゃなくて」奈々子は少しとがった口調で言った。
「わるい、わるい」
「…高須君がいるもの」
「あれはタイガーのもち物じゃん」
「けど、亜美ちゃんの気持ちも知ってるでしょ。高須君は」
「そりゃね。言ったもの」
 おかげで失恋大明神弐号機の異名まで頂いてしまった。
「私が…いちばんダメね」
「言っちゃえば。奈々子も」
「言えないし、言わない。それが私のルールだから」
「そう」
「そうよ」
「ま、その気になったら言ってよ。付き添ってあげるから」
「ふふ、そうね。その時はお願いするわ」
 その時は来ないけどね、と奈々子は思った。
 
 亜美はランタンを点けて奈々子を見た。
「ねぇ、奈々子。あたしが一人じゃないなら奈々子だってそうだよ」
 そう言って奈々子の首に腕を引っ掛けて抱き寄せた。
「あたしは知ってる。奈々子のこと。ちょっとだけかもしれないけどね」
 奈々子は目を閉じて「そうね」と囁くようにいった。 

***

「木原。ありがとう。もう、大丈夫だから」
 祐作は静かな声で言った。
「うん」
 麻耶はゆっくりと腕をほどいて祐作から離れた。
「いや、本当に申し訳なかった」
 麻耶は小さく首を振った。
「ぜ、ぜんぜん」
 平静を取り戻した祐作を前にすると、麻耶は自分が随分大胆なことをしたように思え
て来た。だったらいっその事ここでもう一押し、とも思うのだが明らかに凹んでいると
ころにつけ込むのもどうかとも思った。それで嫌われた元も子もないし、そもそも、
それじゃあまりに自己中じゃない? と思ったり、

「まるお、返事はさ…明日でいいから」
 また先送りかぁ…でも仕方ないよね、と麻耶は思った。ところが…
「え? あ、何の?」
 祐作の言葉は麻耶の予想の三万メートル上空を斜めに飛んでいたのだ。
 麻耶は肩を落として溜息をついた。
「まったく、どんだけ?」
 どんだけの決意でコクったと思ってるのよ! 一気に感情に火がついて爆発した。
 麻耶は祐作の肩をがっちりと掴んで彼をベッドに押し倒した。動揺する祐作を無視し
て、麻耶は顔を近づけてキスをした。言って分らないなら身体に言い聞かせてやる、そ
れぐらいの勢いで唇を押し当てた。ぼうっとするほどの熱が伝わって、胸が締め付けら
れる様に痛んだ。
 祐作は何も、本当に何もできなかった。彼女を振りほどくことはおろか、声を出す事
も、息をすることも瞬きする事もできなかった。完璧にフリーズしていた。
 何秒たったのか、麻耶は唇をはなして息を吐いた。麻耶がゆっくりと身体を起こすと
彼女の長い髪が祐作の頬を撫でた。

「き、き、木原? き、きすした?」
「したよ! これぐらいしないとまるおには分んないんでしょ」
 そう言われて祐作は麻耶に告白されていたことを思い出した。
「ご、ごめん」
「ほんとに、まるおは私の事、全然見てくれない…だね…」
 麻耶の目から溢れた涙が祐作の頬を濡らした。
「…気にも留めてくれない。ほんとにひどいよ」
 そう言って、麻耶はゆっくりと立ち上がった。
「もういい、わかったから。もういい」
 俯いたまま、麻耶は祐作に背中を見せて、「おやすみ」と呟くように言ってから、
祐作の部屋を出て行った。麻耶が歩いた軌跡を示す様に床には点々と水滴が落ちていた。

***

 奈々子は勝手の分からないキッチンにちょっとばかり苦戦していた。朝食の支度は
任せて、そう竜児に言ったものの自分の家とは勝手が違って思っていたほど捗らない。
いつもなら考えないでも出来る事、調味料を取るとかお玉やらフライ返しを手に取るとか、
そんな些細なことに気を取られてしまってリズムが狂う。

「高須君の言ってた通りだわ。慣れない台所ってイライラするのね」
 奈々子は誰に言うでもなく呟いた。
「高須君に来てもらったら。もう起きてると思うし」
 奈々子の様子をダイニングから眺めていた麻耶が言った。
「大丈夫よ。あとは卵焼きだけだから」
「そう。じゃあ、そろそろ皆を呼んでくるね」
 あまり刺激しない方が良さそう、と思った麻耶が立ち上がった瞬間にリビングのドア
が開いた。

「おぅ。おはよう」
 リビングに入って来たのは竜児だった。
「おはよ。タイガーは?」
 麻耶は冷やかす様な調子で言った。
「すぐ来るだろ」
 実は空腹ですでにご立腹なのだ。
「香椎、手伝おうか? いや、手伝わせてください。いや、手伝わせろ」
「え、え、え?」
 竜児は持って来たエプロンをさっと身につけて奈々子の隣に立った。
「大体、終わってるんだな」
「ええ。あとは卵焼きだけ」
「じゃあ、それは任せてもらおう」
「え? そんな、いいわよ。私がやるから」 
「いいから。ちょっと作りたいものがあるんだよ」
 そう言って竜児は冷蔵庫から小振りなトマトを二つ出した。それをフォークで突き刺
してガスレンジであぶって、冷水を入れたボウルに投入。トマトの皮がぺろっとむける。
「へえ、そんな方法もあるのね」
「まあ、普通は湯剥きするんだけどな。どうせ炒めるから気にしない」
 トマトをザクザクと切ってスプーンでさっと種をとる。フライパンに油を馴染ませて
トマト投入。
「えっ?」という奈々子の声は無視。トマトを軽く炒めてからボウルに移し、フライパ
ンをキッチンペーパーで軽くふいて再び油を馴染ませてから溶いて塩をした卵を導入。
そこにさらにトマトを投入してかき混ぜる。卵がとろっとしてきたところで火を止める。
あとは余熱で丁度いい感じに。
「おし、出来た」
 言いながら竜児は出来上がった料理を皿にうつした。
「早っ!」としか麻耶には言いようが無い。
「はぁ…嫌になるわ」と奈々子。
「さてと、じゃあ大河を呼んでくるわ」
「あ、いいよ。私が行くからさ」
 麻耶がそう言った直後にリビングのドアが開いた。

「あ…」とほぼ同時に祐作と麻耶は小さく声を上げた。
 麻耶は祐作から目をそらして、すぐに視線を祐作に戻した。
「おはよう、北村君」明るい声で言った。
「ぉ、おはよう」
 祐作は気が抜けたような挨拶しか出来なかった。
「じゃあ、みんなを呼んでくるね」
 麻耶は祐作の脇をすっと通り抜けてリビングを出て行った。
 
 その様子を見ていた竜児と奈々子は同時にちいさく溜息をついて顔を見合わせた。

「えーと、高須君。これで準備完了よね?」
「お、おぅ。そうだな」
 竜児と奈々子は出来上がった料理をダイニングテーブルに並べていった。
「ねぇ、高須君。これは初めて見る料理なんだけど…」
 テーブルに置かれた皿を奈々子はまじまじと眺めていた。
「ふむ、俺もだ」
 祐作も皿を覗き込む。
「そうか? 美味いんだよ。ミスマッチっぽいんだが実は絶妙ってやつだ」
 
 ぱたぱたという足音が聞こえてきた。リビングに姿を現したのは大河だった。
「おはよ。ご飯できた?」
 続いて亜美。
「ちーす」
 亜美に続いて麻耶が戻って来た。
「そろったね。じゃあ、いただきましょう」
 奈々子はちょっと空回りしそうなぐらいに明るい口調でそう言った。 

***

 朝食を済ませた竜児は自分の部屋で軽く勉強していた。参考書を眺めつつレポート用
紙にメモを取っていく。遊びに来ているとはいえ何もしないと却って落ち着かないので
一時間ちょっとだけ勉強するつもりだったのだ。ベッドの上にはちょこんと大河が座って
いて、竜児につきあって参考書をめくっていた。部屋の窓とドアは開け放たれていて心
地よい海風が部屋を通り抜けていく。

 開けっ放しのドアを叩く音がして竜児と大河はほとんど同時に入り口の方を見た。
「あ、北村君…」
「おぅ。どうした?」 
 入り口には冴えない顔をした祐作が立っていた。
「高須。ちょっと話せないか」
「ん、かまわねぇけど…」
 祐作はちらっと大河の方を見て右手で小さく拝むような仕草をした。 
「竜児、これ借りてくわね」大河は参考書を片手にベッドから降りた。
「おぅ」
「悪いな、逢坂」
 大河は「気にしないで」と言って、パタパタと足音をさせて部屋を出て行った。
 竜児は立ち上がって椅子を空けてベッドに腰を下ろした。祐作はドアを閉めると竜児
が座っていた椅子に腰掛けた。

「で、話ってのは?」
 竜児は少し砕けた感じで言った。祐作は少し考えて、それから開けっ放しの窓の方を
眺めて話した。
「昨日、木原に告白された」
「そうか…」竜児は当たり前の事の様に応えた。
「驚かないんだな」
「まあな。想定の範囲内ってやつだ。で、どうした?」
「いや、それがな…動転してしまって答えられなかったんだ」
「お前なぁ。そりゃないだろ」
 竜児はちょっと呆れた口調で言った。今朝の二人のなんとも気まずい雰囲気の原因は
それなのだろう。竜児はそう思った。
「すまん」
「俺に謝ってもしょうがねぇだろ」
「そうだな。いや、実はな、とんでもない勘違いをしてたんだ」
「勘違い?」
「ああ。俺はてっきり木原は高須が好きなもんだとばっかり…」
「はぁ?」
「そんな顔するなよ」
 竜児はそんな顔をしていたのだ。何をどう勘違いすればそうなるのかさっぱり分らな
かった。
「どんな勘違いだよ。木原はずっとお前を追いかけてたじゃねぇか」
「ああ。言われてみればそうなんだが、木原の話しに高須が良くでてくる物だから…」
「そりゃ、お前…話しのネタだろ」
 竜児は膝に頬杖をついて祐作を見て、そして溜息をついた。
「それに、俺はド派手に失恋してるから女子からはさぞ引かれていることだろうと…」
 竜児は唸った。確かに、それは否定出来なかった。
「とにかく、俺は木原を泣かせてしまった」
 祐作は顔を上げ、二人は顔を見合わせた。
「それで?」
「いや、どうしたものかなと」
「どうするもこうするも…。とりあえず勘違いしてたことを正直に話すしかないだろ。
それで木原の気持ちにどうこたえるかはお前次第じゃねぇのか」

「そうだよな」
「それ以外ねぇよ」
 ちょっと呆れた感じで竜児は言った。
「でよ。どうすんだよ?」
「ん? ああ」
「付き合うつもりが無いんだったら、はっきりそう言った方がいいんじゃねぇか?」
「そうだな…」
 祐作の表情はまるで冴えなかった。どう見たって気持ちが決まっているようには見え
なかった。だからといって、竜児にはどうすることも出来なかった。ただ、木原の気持
ちを考えれば、彼女の不器用な必死さを思うと、このまま放っておく事も竜児にはやっ
ぱり出来ない事だった。

「狩野先輩の事が好きなら、そう言ってやりゃあいいんだ。悩む様な事じゃねぇ」
「ああ、そうだな…」
 まったくピリッとしなかった。北村らしくない、と言えばそうなのだが、でも、生徒
会長選挙の直前にもこんな風に煮え切らない、自分で結論を出す事を避ける様な態度を
見せていたのを竜児は思い出した。

「北村…。お前、木原のこと好き…だったりして…」

「それが…わからないんだ。いや、わからなくなった」
「はぁ?」
「正直言って、混乱してる」

「じゃあ狩野先輩はどうなんだよ?」
「俺は…諦めたんだ。あの人の力になれないし、傍にだって行けやしない」
「いいのかよ? なんか、北村にしちゃあ前向きじゃねぇな」
「冷静に考えてみたんだよ。やっと、それが出来る様になった」
 祐作は竜児の目を見ながら言った。 
「それで分ったんだ。俺が向こうに行ったって、先輩を支えることは出来ないし、邪魔
になるだけだ。俺もそんな状況には堪えられない。それに、俺はあの人が俺を支えてく
れることを望んだけど、彼女はそれを望まないし選ばない」
「そういうことなら、しょうがねぇな」
 竜児にはそれしか言いようが無かった。
「ああ。先輩のことは今でも好きだけど、それは彼女のファンとして憧れているっての
が本当のところだよ」
「ファン…か」
 竜児はなんとなく残念なような気がしたけれど、祐作が出した結論には納得出来た。
たとえ相思相愛でも、生き方が重ならないことなどいくらでもあるのだろう。その時、
どちらを選ぶのかは人それぞれだ。自分の場合『大河と生きる事』が最初にあり、狩野
すみれや北村祐作にとっては『実現したい自分』が最初にある。そういう事なのだろう。

「ただな…、先輩を諦めることに罪悪感があるんだ」
 祐作は目を伏せて言った。
「なんだ、そりゃ? そんなの、お前の自由だろうよ」
「ああ。でも、逢坂と高須のおかげで先輩の本心を知る事が出来たのに…」
「お前はバカか?」
 竜児は不機嫌そうな表情を見せて僅かに語気を強めて言った。
「え?」

「大河がそんなこと気にするかよ。俺もそんなこと気にしねぇ」
「いや、だけど…」
「お前、俺らのせいで先輩のこと諦められねぇとでも言うつもりか?」
「そんなつもりは…」
「つもりがねぇなら、そんなつまんねぇこと、気にすんな」
 竜児は話しながら口調を和らげていった。
 祐作は顔を上げ、
「そうだな。すまない」と言い、また俯いた。
 
 祐作は俯いたまま何かを考えている様子だった。竜児は黙ってそれに付き合っていた。
 一分程の静寂のあと、祐作は顔を上げて竜児を見た。

「…決めたよ。先輩のことはきっちり諦める。留学もナシだ」
 祐作の表情には迷いは無かった。いつもの北村らしい表情だった。
「…お前の好きにしろよ」
 そう言って竜児は微笑んだ。

「で、木原はどうするんだよ?」
「あ…、どうすればいい?」
 一転して祐作は如何にも困ってます、という表情を浮かべて竜児に聞き返した。
「どうすりゃいいって、俺に聞くなよ」
 呆れ顔で竜児は答えた。
「そうだよな…」と言って祐作は溜息をついた。

「木原の事を知りたいんだったら、そのための時間をもらうしかねぇだろうな」
「…そう、だな。頼んでみるよ」 

「高須、聞いてくれて助かったよ」
「ま、俺は聞いてただけだけどな」

***

 じりじりと照りつける真夏の太陽の下で、竜児は三メートルほどの長さの竹竿二本を
担いで亜美の後ろを歩いていた。

「で、なんでビーチバレーなんだ?」
「こないださ、夜中にトップガンをやってたのよ」
「トップガン? ああ、映画か」
「イケメンさんたちが無駄にビーチバレーをやってたなーと思ってさ」
「ふーん。それで、これね」
 この竿とビニールひもをネット代わりにしてバレーボールねぇ。
「そう言う事。北村祐作 vs 高須竜児、ラウンド2って感じでさ…」
「二人じゃバレーにならんだろ」
「だからさ、混合ダブルス。つーか、高須夫妻 vs 北村・木原組ってこと」
「大河はともかく、木原がやるかねえ?」
「ま、それは祐作がなんとかすんじゃね。きっかけが欲しいって泣きついて来たのは
あのバカなんだし。ああ、このへんでいいんじゃない?」
 竜児は竹竿を肩からおろし、一本を手に取って砂浜に突き立てた。

 と、いうわけで…
 急造のビーチバレーコートに全員集合となった。

「祐作、誰と組む? ちなみにタイガーはデフォで高須君と組むことになってるから」
「ううむ」
 祐作は腕を組み俯いて思案している。
「じゃあ、立候補する人」
 亜美は麻耶の顔を見ながら言った。でも麻耶は手を挙げなかった。
「しょうがないね。じゃあ推薦」
 今度は奈々子の顔を見ながら言った。
「木原さんがいーとおもいます」
 奈々子がさっと手を挙げて棒読み口調で言った。
「な、奈々子!?」
「はい、それでは多数決をとります。賛成の人は挙手」亜美も棒読み。
 さっ、と亜美と奈々子が手を挙げる。
「賛成二、反対一で木原さんが選ばれました。おめでとーございます」
 パチパチと亜美と奈々子はテキトーに拍手。
「もうっ、なによ! 私、ぜーったい、やんないか…ひあっぁぁ!」
 背後から祐作にいきなり肩を掴まれて、麻耶は素っ頓狂な声を上げた。
「木原、すまないけど。俺と組んでくれないか」
 麻耶の後ろに立っていた祐作は麻耶の肩を掴んだまま言った。
「え?」
「たのむ! 今日は勝ちたいんだッ!」
 祐作の目は無駄に燃えていた。
「へ?」
「この通りだ! 頼む!」
 そう言って祐作は熱々に焼けた砂浜に土下座をかました。
「わわ、やめてよ! まるお。顔が焦げる」
「なんのぉ、これしき」ずりずりと額を砂に押し付ける。
「ひえーっ」
「ふろしき〜、ぴろしき〜」
 暑さと熱さで北村祐作が壊れていく。

「もうっ、わかったよ。やるよ、やります。やらせてください!」
 それを聞いて祐作はばっと顔を上げた。
「おおっ。嬉しいぞ」
「もー。なんだかなー」麻耶はすっかり呆れ顔。
 祐作は竜児の方を向いてすっくと立ち上がった。
「ふはははは。高須! このときを待ちわびたぞ」
 どん引きの竜児をスルーして、祐作は麻耶の正面に立ち両手で麻耶の左右の肩をがっ
ちりと掴んだ。  
「いいか、木原。俺達は小さな火だが…二人合わせて炎となる。そして、炎となった俺
達はムテキだッ!」
「へ?」
「ちがう! ここで言う台詞は『コーチッ!』だ」
「こ、こーち!?」
 完全に全員おいてけぼり。
 亜美と奈々子は気の毒そうに麻耶を眺めていた。

「ねぇ、竜児」
「なんだ?」
「やるの? これ」
「しゃーないだろ。北村がやる気満々なんだから」
「ま、しかたないわね」
 大河はコキコキと首を動かしてから軽く屈伸。
 竜児はTシャツを脱いで大河に差し出した。
「大河。これ着とけ。その水着じゃ遺憾なことになりかねねぇ」
 大河は胸を包む水着に触れた。
「…確かにそうね」
 そう言って竜児からTシャツを受け取った。
「匂うなよ」
「まあ、これぐらいなら我慢出来なくもないわ」

 ともあれ…
 試合開始である。

「よしっ! 木原、たのむぞ」
「いっくわよ!」
 バスッという気合の入らない音を残してビーチボールは放物線を描いて飛んでいく。
竜児は数歩走って落下点につくと大河に向かってレシーブ。すぐさま身体を沈めて
ダッシュの体勢に入る。軽く膝を落とした大河は伸び上がりながら綺麗なフォームで
トスを決める。浮き上がったボールにタイミングを合わせてジャンプした竜児が強く
腕を振る。打ち出されたボールがブロックに入った祐作の手に当たり浮き上がる。浮き
上がったボールはゆっくりと北村・木原組のコートに落下。麻耶は必死に走ったが落下
点に届かなかった。
「よっしゃ!」
 竜児と大河はハイタッチ。
「ごめん、まるお」
「いや。俺のミスだ。よし、次は止めるぞ」
「うん!」いつの間にか麻耶も真剣だった。

 審判兼ギャラリーの亜美と奈々子は予想外の盛り上がりを見せるバレー対決をコート
の脇で眺めていた。
「以外と…見られるもんだね」
「そうね。結構おもしろいわ」
「でもさ、さすがに厳しいね。北村ペアは」
「タイガーと麻耶のフィジカルの差がそのまま出てる感じよね」

 サーブ権は高須ペアに移りサーバーは大河。全身をバネのように使って鋭いサーブ。
なのだがボールがボールなものだから途中で失速してふわっと麻耶の手元に落ちていく。
麻耶は丁寧にレシーブして祐作に繋いだ。
「もらったぞ!」祐作がジャンプしてアタック。
「なんの!」竜児もジャンプしてブロック。
 竜児はボールを手に当てることは出来たがブロックは失敗。勢いの落ちたボールが竜
児たちのコートにゆっくり落ちてくる。
「ぬぅおおぁ」
 砂を蹴って大河が落下点に駆け込み右手一本でレシーブ。
「竜児!」
 絶対に拾えないと思っていた祐作と麻耶の動きは完全に止まっていた。竜児はがら空
きのコートの角をねらって軽くボールを打ち込んだ。
「よし!」
 そしてハイタッチ。祐作が竜児にボールをパス。竜児は大河にボールをパス。
「大河。一発かましたれ」
「まぁかせなさいっ!」
「せーのっ、どりゃあ」ボールは放物線を描いて北村組のコートに飛んでいく。 


 勝負は決しようとしていた。
 やはり麻耶と大河の運動能力の差は大きく、スコアは十八対十一。祐作のおかしな
テンションに当てられたというか、とにかく四人は真剣だった。麻耶も大河も竜児も
大マジで勝負に熱中していた。

「なかなか見応えがあったけど。タイガー相手じゃ無理か」
「確かにタイガーの動きは凄いけど、やっぱり息が合ってるのよね。あの二人」
「まあ、善戦したんじゃね」
「そうね。麻耶、必死だもの。あんなに走って大丈夫なのかしら?」

 奈々子が心配するのも無理はなかった。麻耶はすっかり汗だくで、顎の先から汗が
滴り、Tシャツは肌にぺったりと貼り付いていた。

「いくぜ」「やっちゃいなさい!」「おぅ」
「木原! まだ負けたわけじゃない」「わかってる!」
 ボールを持った竜児がサーブを打った。
 麻耶がボールを追いかけようと砂を蹴った。その瞬間…

「いたっ!」大きな声を上げて麻耶が転んだ。

「どうした? 木原」祐作はのたうつ麻耶の元に駆け寄った。
「いてて、ごめん。足、つっちゃった」
 祐作が見ると麻耶の左の脹脛がひくひくと痙攣していた。
「木原! 具合は大丈夫か? 頭痛とか、吐き気とか、大丈夫か?」
「え? そういうのは…無いけど」
 苦しげに麻耶は言った。

「亜美! 中止だ。高須、手を貸してくれ」
「なんだなんだ」竜児は祐作の近くに走った。

「木原を別荘に運ぶ。手伝ってくれ」
「どしたんだ?」
「多分、軽い熱中症だ」祐作は小声でいった。
「そいつは不味いな」竜児も小声で答えた。

「木原。掴まって、立てるか?」麻耶は祐作が差し出した手に掴まって立ち上がった。
「ごめん、歩くのはムリ」
「肩を貸すから。高須も頼む」
「おぅ。でもよ、北村。お前が背負っていった方が速くねぇか?」
 ちょっと離れたところで亜美と奈々子が竜児にサムズアップを送っていた。
「え? でも。木原が…」
「あ、あの。歩けないからさ。悪いんだけど…おんぶしてよ」
「決まりだな。北村。とりあえず、エアコンで室温下げておくから。あとソファーにバ
スタオル敷いとけばいいか? 他に必要なもんは?」
「そうだな、タオルを冷やしといてくれると助かる」
「おぅ。お易い御用だ。じゃ、後は頼む」竜児はさっと手を上げて別荘に走っていった。
 祐作は麻耶の前で屈んだ。麻耶はその背中に身体を預けて肩につかまった。祐作の背
中に二つの胸のふくらみが押し付けられて北村のパトスは迸りかけたのだが今はちょっと
した非常事態。それに身を任せる様な北村祐作では無いのだ。祐作は麻耶の太腿を抱え
て立ち上がると重さを感じていないみたいに自然に歩き始めた。

***

 祐作に背負われて別荘のリビングに戻った麻耶はバスタオルを敷き詰めたソファーに
座らされ、祐作にとにかく飲めと言われてスポーツドリンクを飲んだ。その後、汗に濡
れたTシャツを脱いで奈々子が麻耶の部屋から持って来たTシャツに着替えた。

「北村、これで良いか?」
 竜児は冷水で冷やしたタオルを持っていた。
「オッケー。これでいい。木原、横になれ」
「え? うん」
 麻耶はゆっくりと横になった。祐作は麻耶の額にタオルを乗せた。
「冷たっ。何? これ。別に熱なんてないよ」
「いや、自覚がないだけなんだ。軽い熱中症でもああいうふうになるんだ」
「そうなの?」麻耶は半信半疑で聞いた。
「ああ、熱痙攣だな。ミネラル欠乏だよ」
「流石に詳しいな」竜児が言った。
「ああ、これでも元ソフトボール部だからな」
「なるほどね」心配そうに見ていた亜美が言った。
「頭痛とか吐き気は?」
「それは大丈夫、ちょっと怠いだけ」
「それなら涼しくして休めば大丈夫だ」
「よかった」という奈々子の言葉はそこにいた全員の気持ちを表していた。

「てことでさ、私は大丈夫だからさ、みんなは遊んで来てよ」
 麻耶は横になったままで言った。
「そんじゃ、ここは専門家にお任せってことで」
 腕組みした亜美は奈々子と顔を見合わせてニヤッと笑った。
「そうね。その方が麻耶も落ち着くでしょ」
「あだだだ。こら、大河、引っ張るなよ」
「行くわよ、竜児」
 大河は竜児の耳を引っ張って窓際に連れて行く。
「てことで、北村。後は頼む」
「え? ああ」

 四人が砂浜に行きリビングには麻耶と祐作だけが残された。冷気を吐き出すエアコン
の静かな動作音だけが聞こえていた。

「置いていかれちゃったね…ゴメンね、迷惑かけて」
「迷惑だなんて」
「もう平気だからさ。まるおも行ってよ」
「いや、ここにいるよ。ダメかな」
「ううん。いて…欲しいな」
 祐作は麻耶が横になっているソファーと向かい合わせに置かれた一人掛けのソファー
に座った。

「木原。昨夜は…ごめん」
 さすがに告白スルーは不味かった…と思った。
「え? うん。私も、その、やりすぎたって言うか…とにかく、ごめんなさい」
 さすがにいきなり押し倒してキスしたのは不味かった…と思った。

「迷惑だったよね。あんなこと」
 麻耶は少し身体を傾けて祐作の方を見た。
「迷惑だなんて…ただ…、ごめん、俺はずっと誤解してたんだ」
「誤解?」
「俺はてっきり木原は高須のことが気になってるもんだとばっかり…ごめん」
「は?」
 あまりに予想外な言葉に麻耶の口は中途半端に開きっぱなし。瞬きも忘れていた。
「本当にすまん。昨日までずっとそう思ってた」
「はは、そう、なんだ…」麻耶は力なく笑った。
「去年の暮れ辺りから高須とよく話してただろ。まあ、それで勘違いしたと言うか…」
「あー、あれか」確かにそんなことがあった。
「変な話だけど、もし俺が女だったら絶対高須に惚れてると思う。あいつはそれぐらい
良い奴なんだ。だから木原も高須に好意を持ってるんだろうって」
「そりゃ高須君はいい人だけど…そんな風に思われてたなんて…」
「もう、完璧にそう思い込んでた」
「じゃあ、避けられてるわけじゃないんだ」
「避けるなんて…。いや、避けてたのかな」
「そう…」声が沈んだ。
「あ、違うんだ。なんと言うか…。見ない様にしてたんだ。くやしいから」
「え?」
「自分の友達がモテたら嫉妬ぐらいするだろ」
「嫉妬? まるおが高須君に?」
「ああ。みっともないけど」
「みっとも無いなんて…。意外…だけど、普通だよ。私もみんなに嫉妬してるから」
「木原…」
「亜美ちゃんにも、タイガーにも、奈々子にだって。まるおがみっともないなら私なんて
みっともなさの塊だよ」
「そんなこと…無いよ」
「じゃあ、まるおだってみっとも無くないんだよ」麻耶は微笑んだ。

 いつの間にか、見つめ合っていた。それに気付いて、二人は視線をそらした。
「初めてだよね。こんなにちゃんと話したの」
「確かにそうだな」
 不思議だった。こんなにも素直に普通に話せるのは何故だろう。自分のみっともなさを
彼女にさらけ出せてしまうのは何故だろう。それが分らないのに彼女との関係を決める
のは無理だった。

「その、昨日の答えだけど」
「うん…」
「卑怯だけど…保留ってことでどうかな?」
「え?」
「俺は木原の事、良くわからないし、もう少し時間をくれないか」
「ずるいんだ。優柔不断…」
「そうだな」
 卑怯だな、と思う。
 でも、もっと彼女を知るべきだと思う。それから結論を出すべきだと思う。
 けれど、もう答えは出てしまっているのかもしれない。
 こうしている今が心地良いのは事実なのだ。

「…いいよ。待ってあげる。その代わり夏休みの間に一度でいいからデートして」
「え?」
「ダメ…かな」
「…ああ、いいよ。約束する」
「ありがと…まるお」
 麻耶は目尻にうっすらと涙を浮かべて微笑んだ。

***

 夕食はカレーだった。手間をかけて作ったオニオンペーストと竜児が持参したスパイ
スを使ったカレーは普通の『おうちカレー』とは次元の違う出来だった。ベースは市販
のルーだが味の厚みと深さが段違いなのだ。

「ヤバい、美味すぎ。あんた天才だわ」と亜美が言えば。
「美味い。実に美味いぞ。ふんどし一丁で海の上を走ってしまいそうだ」と祐作もその
味を絶賛?
「マジ信じらんない。激ウマだよ」麻耶はちょっとした感動を味わい、しかしその一方で
奈々子は「はぁ〜っ。こんなのって信じられないわ」と落ち込んでいた。

 そんな中、「まあ、美味しいけど…。いつものカレーの方いい」と大河だけはカレー
以上に辛口だった。『それは、まあ、そうなんだけどよ』と竜児も思うのだが、
「まあ、そう言うなよ。アレは手間もかかるし、六人分となるとちょっとシンドイ」
 そう言われて大河は『いつものカレー』が結構な重労働だったことを思い出した。
 竜児の『いつものカレー』は小麦粉とスパイスを炒って油で練って、つまりルーまで
手作りなのだ。だから三人前でも結構大変なのだ。
「しょうがないわね…」
 言いながら大河はちょっと申し訳なさそうに竜児を見た。
 
「あんた、これに文句つけるなんて、どんだけ我侭?」
 呆れ顔で亜美が言った。大河の頬がぴくっと動いた。
「あたしは正直に感想を言っただけよ。厳しい批評が作家を育てるのよ」
「なーるほど。そういうこと」
「どういうことよ?」
「評論家ってのは自分じゃ出来ないくせに偉そうにケチつけるんだよねー」
「別に偉そうになんてしてないじゃない」
「してるわよ。ねぇ、高須くぅん、どう思う?」
「そんぐらいにしとけ」あっさりと竜児は言った。
「ちぇ…。つまんなぁい」と亜美が言えば。
「ふーんだ」と大河はそっぽを向く。
「もう、亜美ちゃんも、タイガーも、子供じゃないんだから」
 呆れ気味に麻耶が言った。
「ほっとけ。こういうコミュニケーションなんだから」
 竜児はさらっと言った。慣れたものだった。
「いや、高須。そうはいかんぞ。やはり二人には仲良くしてもらわないと…」
 そう言って、祐作は顔を伏せた。
「仲良くしてもらわないと…」
「してもらわないと?」麻耶は不思議そうに祐作の顔を覗き込む。
「悲しくて脱がずにはいられない!」祐作は言いながらTシャツを脱ぎ始めた。
「うわ、このド変態!」
「北村! 頼むから食ってからにしてくれ」
「ま、まるお〜」

 バカ丸出しの賑やかで楽しい夕食だった。幸いにして丸出しになったのはバカだけで、
北村のあんなところやこんなところが丸出しになるようなことは無かった。

 そんな夕食を終えて皆が一息ついた頃、窓の外の暗闇を眺めて大河は言った。
「竜児。星、観に行こうよ」

***


 砂浜に敷いたレジャーシートに寝転んで竜児と大河は空を眺めていた。 
「真上に見えてるのがこと座αベガ、で下の明るい星がわし座αのアルタイル」
「ベガが織姫でアルタイルが彦星だよね。その左側の明るいのが白鳥座のデネブだよね」
「おぅ。そうだ」
「でも、ホントによく見えるね」
「七夕ってのは本当は今の時期なんだよな」
「そっか。仙台の七夕まつりって八月なんだよね」
「ああ。北海道も七夕は八月七日ってところが多いらしい」
「へぇ、そうなんだ」

「ねぇ、織姫と彦星って遊び呆けて働かなくなったせいで逢えなくなっちゃうんだよね」
「ああ、そんな話しだったな…」
 その後、ちょっと間があって、
「溺れるなってことかしらね」
「ん? まあ、程々にしとけって事だろ」
 二人は少しだけ顔を傾けてお互いの顔を視界に入れた。

「何を程々にするのかしら?」
「いやいや、何に溺れるのかを是非とも語っていただきたいねぇ」
 奈々子と亜美が二人を見下ろす様に立っていた。

「お前ら、盗み聞きか? 趣味悪いぞ」
「祐作のガイド、つまんないんだもん。小惑星探査機がどうしたとか国際宇宙ステー
ションがどうのとか、そんなのばっかでさ、ちーとも面白くねぇっての。ほら、つめて
つめて」
 亜美は大河のとなりに腰を下ろして大河の身体を竜児の方に押し付けた。
「うわっ。なにすんのよ、ばかちー」
「狭いんだから。ほら、奈々子も突っ立ってないで」
「ふふ、おじゃまするわね」
 奈々子は竜児のとなりに腰を下ろした。竜児はもぞもぞと身体を大河に寄せる。腕は
重なり合ってほとんど密着しているような状態だ。
「ありがとう。高須君」奈々子は竜児の隣に横になり空を見た。
 竜児の肩に奈々子の肩が触れた。
「うぉ」
「なによ?」と大河。
「あ、いや。なんでもねぇ」
「さてと、じゃあ高須君。解説よろしく」
「ったく。しょうがねぇな…」
 竜児はどこから話すかちょっと考えて、やっぱり夏の大三角から始めるのが良いだろ
うと思った。天頂に煌々とベガが輝いているのだから、やっぱりそれが自然だろう。

「夏の大三角ぐらいはわかるよな」
「名前はね…で、どれよ?」
「うわ、ありえない。さすがばかちー」呆れた口調で大河が言った。
「ふーんだ」
「真上に明るい星があるだろ。あれがこと座のベガ、で、その左と下に明るい星がある
だろ」
「ああ、あれと、あれね」
「下の明るいのがアルタイル。で、ベガの左の明るいのがデネブな。この三つの星をつ
なげた三角形が夏の大三角。見つけやすいから良い目印になるだろ」
「なるほどねぇ」

 デネブから南の水平線に向かって流れる天の川。
 ベガを囲むヘルクレス、鷲、白鳥、竜。
 竜の傍らに小熊。その尻尾に輝くのがポラリス。星空の中心点。  

 竜児は夜空を気ままに散歩でもするように話す。こっそりと大河の手を握り、抱き合
う様に指を絡めながら。


 竜児達からちょっと離れたところにシートを敷いて祐作と麻耶は空を見上げていた。
 亜美と奈々子に逃げられた祐作は憤慨していたのだが、それはもうどうでも良くなって
いた。

「すごいな…本当に」
 もう、何度そう言ったか分らなかった。それぐらい祐作はシンプルに感動していた。
「まるお、そればっかり」
「いや、だって本当に凄いだろ」
 まるで子供みたい、と麻耶は思った。思って、つい吹き出した。
「なに?」
「ううん、なんでもないよ。ちょっと思い出しただけ」

 ママ曰く。『パパはほんと子供みたいで困るわ』
 それはつまりママも子供みたいな男が好きだってことで…

「なんとなく見下されているような気がするぞ」
「そんなことないよ」
 …自分もそういう男の子が好きなのだ。 
 ふと麻耶は思った。もう一度、ちゃんと言っておこう、と。

「ねえ、まるお」
「なに?」
「もう一回、言っておくね」
「え?」
「私はまるおが好き。ちゃんと憶えておいて」
「…ああ。忘れない」
「ありがと。それと約束も忘れないでよ」
「デートだろ。忘れないよ。夏休み中に木原とデートする」
「よろしい」

 なんだか、すっかり木原のペースだな、と祐作は思った。もっとも、それが気に入ら
ないなんてことは全く無かった。ずっと狩野すみれのペースに付き合っていたのだ。
驚かされることにも振り回される事にもとっくに慣れている。

 それよりも、ぶっちゃけ、木原とデートって何をどうすれば良いのだろう。兄には
ちょっと聞けない。どうせ冷やかされて弄られるのが関の山だ。
『う〜む、やっぱり、高須に聞こう』なんて事を祐作は考えていた。

***

 バイトから帰って来た狩野すみれは自室でベッドに寝転がりぼうっとしていた。
 枕元には日本から届いたエアメールの封筒。送り主は北村祐作。収められていた便箋
に自筆で書かれていたのは今の祐作の真摯な気持ちだった。内容は過去の自らの過ちに
ついての謝罪とすみれへの恋心の収束宣言だった。それはどちらかと言えばすみれに宛
てたものと言うよりは、祐作が自分のケジメのためにすみれに送った物なのだろう。
すみれはそう思った。

 手紙を読み終えたすみれはほんの僅かな寂しさを感じていた。それは彼が寄せてくれ
ていたガキっぽい恋心が離れていったせいなのだろう。それはちょっと甘くて、すみれ
にしたって満更でもなかったのだ。でも、彼より夢を選んだ自分にそれをどうこう言う
権利が無いのも分りきった事だった。

 それに、自分にとっても北村にとっても、これでいい、そう思えた。

 北村祐作はいつまでも誰かの後ろを歩いていてはいけないのだ。彼には彼の夢がある
のだから。それを支えることが楽しくてたまらないっていう女だってこの世に一人ぐら
いはいるだろう。そして、狩野すみれにはそれが楽しいとは思えない。自分にそういう
才能が無い事は良くわかっている。そして、多分、北村祐作にもそういう才能は無いの
だと思う。

 そうは言っても、ちょいとばかり寂しいのも事実だ。それは認めよう。
 つまり、これは失恋だ。今更だが微かに胸が痛むのはそういう事なのだろう。

 すみれはベッドから起き上がると机の引き出しを開けて一枚のはがきを取り出し、
それをじっと眺めた。フッと口元で笑い、「確かにそうだな」と一人呟く。それは
ちょっとしたマジックアイテムみたいなもので、すみれは落ち込んだ時や寂しい時に
それを見る。そうするとなんとなく元気が出てくるのだ。

「どうしたの? ステラ」
 ルームメイトが聞いた。ステラはすみれの愛称だ。米国人的にすみれという名前は
かなり呼びにくいらしく、彼女がいくつか上げた候補のなかからすみれが選んだのが
ステラだった。

「変わり者の友達を思い出してた」
「へえ。ねぇ、そのポストカード、なんて書いてあるの? 日本語?」
「そう。日本語。書いてあるのはね…」
 すみれは言葉を選んだ。バカにもいくつかあるのだ。
「Stupid」
「それだけ?」
「そう。それだけ」
「そりゃ変わりもんだね」
 ルームメイトはケタケタと笑い、つられてすみれもクスクスと笑った。

(きすして3 Thread-B おわり)

***

※概要
 「きすして2」の続編です。前作の既読を前提に書いています。 
 基本設定:原作アフター。よって、シリーズ基本カップリングは竜児×大河です。

 本作はThread-BとThread-Aの2パート構成です。
 
 Thread-Bはエロなし。木原→北村メインです。
 Thread-Aはエロあり。竜児×大河。

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