web上で拾ったテキストをこそっと見られるようにする俺得Wiki

 降り始めた雨が勢いを増すのに、時間はかからなかった。
 夕立にしては強い雨が、奈々子の制服にどんどん染み込んで行く。色を濃くした制服のスカートを翻して、奈々子は自転車を漕ぐ力を強めた。
「傘持ってくるんだったわ……」
 学校が終わってから一度帰宅した奈々子は、冷蔵庫の中に夕食の材料が無いのに気づいて制服のまま家を出た。
 冬の冷たい雨が、長い髪に染みていく。分厚い曇天は、立春を過ぎた後の太陽を遮り、街を薄いグレーで塗り潰した。
 
 最悪。

 そう呟いて、奈々子はスーパーを出て自転車を漕ぐ。
 前カゴの中に入れた卵が割れてしまわないかと心配だったが、それよりも雨に濡れるのが嫌だった。
 このままでは髪が痛むし、風邪をひいてしまうかもしれない。
 商店街を出て、車道の脇の歩道へ入ろうとした時だった。
 速度を落とすためにブレーキをかけた途端、視点が急に低くなった。
「えっ?」
 小さな声が出た瞬間に、奈々子の体がアスファルトの歩道の上に放り出される。
 瞬きすらできないほどの短い時間の間に、奈々子の体が地面に叩きつけられ、数回体が転がった。
 奈々子には何が起こったのかが理解できなかった。ブレーキをかけた瞬間に、自転車がずるりと滑って転びそうになっていることに気づき、何もできずに転んだ。
 アスファルトの上に叩きつけられて、顔面が歪む。奈々子の長い髪は濡れたアスファルトの上にびったりと張り付き、制服からはじわっと冷たいものが染み込んで来た。
「うぅ……」
 周りの目が、自分に注がれているのが奈々子にはわかった。自転車で転び、アスファルトの上に横たわる自分があまりにも惨めで、奈々子が歯を噛み締める。
 今頃になって、体のあちこちに痛みが走り、奈々子は眉を寄せた。

「おいっ、大丈夫か?!」
 急に声がして、奈々子は咄嗟に大丈夫です、と答えようと近くに寄ってきた男を見た。
 その顔を見た瞬間に、奈々子は背筋が冷たくなった。そこには、弱って身動きのできない少女に襲い掛かって犯そうとする凶悪な顔面の、
「って、高須くん?」
「大丈夫か香椎、派手に転んで、怪我は?!」
 自転車で転んだクラスメイトに近寄り、竜児は、濡れたアスファルトに躊躇うこともなく膝をついて奈々子の手を取った。
「……大丈夫よ」
 奈々子は竜児の顔から視線を逸らして、竜児の手を払った。転んだとはいえ、少し擦り剥いたくらいだろう。
 そう思って奈々子はアスファルトに手をついて立ち上がろうとした。だが、立ち上がろうと左足をついた瞬間に、その体が崩れる。
 足首から、鋭い痛みが走って奈々子は再びアスファルトに倒れこみそうになった。それを防いだのは、竜児の左手だった。

「全然大丈夫じゃねぇだろ。お前、なんか横に三回転くらいしてたぞ。いやマジで、あれは痛いって」
「そこまで見てたの?」
 痛みよりも、そんな醜態を晒していたことに奈々子は眉を寄せた。自転車で転ぶ姿なんて、どう考えても間抜けだろうと思えた。
「とりあえず、肩貸してやるから、ほら掴まれ」
「ごめんね高須くん」
「いいから、ほら」
 雨がさらに強くなり、竜児の体を濡らしていく。奈々子は、竜児の首に左腕をまわして、そこに体重をかけた。
 膝をついていた竜児が立ち上がり、竜児の体に寄りかかるようにして奈々子もどうにか立ち上がる。
 左足をついてみると、やはり鋭い痛みが走り、奈々子は目を強く閉じた。

「もしかして足捻ったんじゃないのか?」
 心配そうな表情で、竜児は奈々子の顔を間近で覗き込む。
「ん、大丈夫だから、心配しないで」
 奈々子はつい、竜児の顔から視線を逸らしてしまう。自分の顔がみっともないことになっていることくらい、理解できた。
 濡れた髪が、頬や額に張り付いているのを実感できたから。

「とりあえず、ほら、こっちに来て、そこに掴まってろ」
 竜児は、すぐ傍のパン屋の庇の下へ奈々子を誘導した。そして、外に出ていた看板に掴まらせる。
 奈々子をそこに置いてから、竜児はようやくほっとした表情を見せた。

「ごめんね、高須くん」
「いいからちょっと待ってろ」
 竜児は、雨の中で倒れている自転車を引き起こした。サイドスタンドをかけて端に寄せた後、前カゴから飛び散った商品を拾い集める。
 スーパーの袋から飛び出していた卵のパックは、いくつかが割れてしまっているようで、黄身が透明なパックの中で溢れていた。
「うわぁ、割れちまってるな。もったいねぇ」
 竜児は雨に濡れながら、牛乳や豚肉のパックをスーパーの袋の中に放り込んでいく。
「やっぱりこういう袋じゃなくて、丈夫な、そう、俺の使っているエコバッグのようなものにするべきだな。って、あれ? 俺のバッグどこいった?」
 一人でうんうんと頷いていた竜児が、辺りを見渡す。奈々子がふと視線を向けると、少し離れた場所にそれらしきバッグが転がっていた。
「高須くん、あれじゃないの?」
 奈々子が指を向けた先に、竜児も目を向ける。そこに転がっているお手製のエコバッグを見て、竜児は慌てて駆け寄った。

「うおおお、なんてこった……。そうだ、俺自分で放り出したんだっけ」
 自慢のエコバッグを拾い上げて、雨に濡れた場所を軽く叩く。それから中身を検品して、溜め息をついた。
「犠牲になったのは泰子のプリンか……。まぁ、いいか。ああ、そうだ、俺、傘も放り出したんだっけ」
 閉じたままの黒い傘を拾い上げて、竜児はそれを開いた。雨がとつとつとナイロンの傘に落ちて軽い音を立てる。
 雨粒は小さく、そして冷たかった。

「さて、大丈夫か香椎?」
「……膝をすりむいたみたいね」
 髪が気になって、奈々子は無理矢理長い髪を後ろに束ねる。
 前髪やトップがどうなっているのかがわからず、さっきからパン屋のガラスを睨んでいたのだが
 竜児が寄って来て、奈々子の体を眺める。
「血が出てるじゃねぇか!」
 しゃがみこんで、竜児は奈々子の膝に目を眇めた。そして、竜児はなんの気も無しに奈々子の膝の裏に手を添えて、まじまじと見る。
 冷たい手に触れられて、奈々子の体がびくっと震えた。
 竜児は学ランのポケットからポケットティッシュを取り出すと、奈々子が擦り剥いた箇所の周りを軽く拭いた。
 それから、ちょっと痛むぞ、と声をかけてから、ポケットティッシュで出血を拭く。
「痛くないか?」
「平気よ」
 見上げてきた竜児に、奈々子がそっけなく声を返す。
「よし、とりあえずハンカチ巻いとくからな」
 紺のハンカチで、奈々子の膝をぐるっと巻き、竜児からは直接見えない膝の裏で軽々とハンカチの端を結ぶ。
「とりあえず、これでいいか……。他は大丈夫か?」
 ふっと竜児が奈々子の顔を見上げる。奈々子は竜児の心配そうな顔を見下ろしながら、顔が赤くなるのを感じていた。
 あんまり触らないでよ……。そう言おうとして、奈々子は口をもごもごと動かした。言葉が出てこなくて、つい視線を自転車に向けてしまう。



 
「そうだ、足挫いたんじゃないのか? お前、転ぶ前に思い切り左足着いただろ」
「そうなの? 覚えてなくて」
 道理で足首が痛いわけだ。奈々子は左足に体重をかけて、足がどのくらい痛むのかを確かめてみる。
「ダメだダメだ! 無理すんなって」
 奈々子の足を左足を掴んで、奈々子の行動を止めにかかる。
「……そうね、無理しないほうがいいわね。それより高須くん、足、離してほしいんだけど」
「ん? ああ、悪い悪い」
 まったく悪びれる様子もなく、竜児は奈々子のふくらはぎから手を離した。

 まったく、情けないところを見られたわね。
 そう心の中で呟いて、奈々子は溜め息を吐き出した。白く濁った息は、雨粒の中に溶けて消えていく。
「どうすっかな。とりあえず、怪我してるしなぁ」
「大丈夫よ、なんとか家まで帰ってみせるから」
「その足でどうやって歩くんだよ。自転車乗るとか言うつもりじゃないだろうな。そんなことは許さんぞ」
 立ち上がった竜児が真剣な表情で言い放つ。竜児の言葉に、奈々子は唇の端をひくつかせた。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。一人で帰れるわ、放っておいて」
 そう言って、奈々子は雨の中へ歩き出した。途端に、左足首が痛み、すぐに右足にすべての体重をかける。
「ああ、ほら見ろ。全然歩けないじゃないか。こんな雨の中、その足でゆっくり歩いたら足は悪くなるし風邪引くかもしれないし大変だぞ」
「……大丈夫よ、しばらくしたら落ち着くわよ」
 歩けないことを悟った奈々子は、再びパン屋の庇の中に引っ込んで、看板に手をついた。
「おまえ、意外と意固地なんだな」
 呆れたように竜児ははぁ、と息を吐き出す。
「仕方ねぇ……」
 竜児は、奈々子の自転車を持ち上げて、奈々子の前まで持ってくると、荷物をすべて前カゴに突っ込んだ。
 そして、傘を奈々子に向かって差し出す。
「ほら、乗れ。とりあえず、俺の家に行くぞ。近いしな。まずは、怪我なんとかしないと」
「そこまで、してくれなくったっていいのに……。高須くんって、本当に世話焼きなのね」
「世話焼きって……、別に、クラスメイトが転んで怪我してたら誰だって手を貸すだろ」
 なんの衒いも無しに、竜児は半ばきょとんとした表情でそう言い切った。
 奈々子が竜児の言葉を聞いて俯く。

 自分が転んで助けるのが当然だと言い切った竜児が、奈々子には少し眩しく思えた。
 本当に、世話焼きね。
 奈々子は、唇にわずかな笑みを浮かべて声を漏らした。
 転んだ後、エコバッグを放り出して駆けつけてくれて、雨に濡れるのも厭わずに地面に膝をついて助け起こしてくれる。
 雨に打たれるのもまったく気にしないという様子で、今は奈々子の自転車のサドルに跨っていた。
 こんなことが、高須くんにとっては当然なんだ……。

「じゃあ、高須くんの好意に甘えさせてもらうわね」
「おう、気をつけろよ、大丈夫か?」
「大丈夫だって」
 奈々子は自転車の後ろの荷台に手をついてから、ゆっくりとそこに腰掛ける。
「いや、横になるより跨ったほうがいいんじゃないのか?」
「足が痛いから無理ね。とりあえず、このままでいいでしょ」
「そうか、まぁいいけど。落ちないように掴まってろよ、ゆっくり走るから。後、濡れないように傘差しといたらどうだ?」
「そっちのほうが危なくない? もういいわよ、これだけ濡れたらもう一緒でしょ」

 分厚く空を覆った空からは、砂粒のように小さな雨が間断なく降り注ぐ。
 雨に濡れながら、竜児はゆっくりと自転車のペダルに力を込めた。

 竜児の家の前に辿り着くと、奈々子はゆっくりと自転車から降りた。
 足の痛みは転んだ直後よりも酷いものになっていて、今では軽く体重をかけるだけでも痛みが走る。
「大丈夫か香椎」
「……ちょっと大丈夫じゃないかも」
「ようやく弱音吐いたか。辛いなら最初から辛いって言っとけよ」
 竜児は自転車を階段の下にもぐりこませて、スタンドをかけた。前カゴに乗っていたバッグと奈々子の買い物袋を腕に通す。
「俺の家、ここの上だから」
「階段昇るの?」
 奈々子の表情が暗くなる。大した階段でもなかったが、今の奈々子には針の筵を裸足で歩けと言われているような気分だった。
 不安な顔を見た竜児は、奈々子の前に来て腰を落とした。
「ほら、背負ってやるよ」
「大丈夫よ、このくらい」
「いいから、乗っとけって。足痛いんだろ」
 奈々子は困ったように眉をしかめ、そして竜児が片膝をついている箇所を見た。
 竜児のズボンの膝あたりが、雨と泥で汚れてしまっている。

「重いとか言わないでね」
「言わねぇって」
 奈々子が竜児の肩に手を回し、ゆっくりと体を竜児の背中に預ける。
 あまり体格がいいようには見えなかったが、奈々子にはその背中が広く感じられた。
「おっし、行くぞ」
 奈々子の太ももの下に手を回した竜児が、奈々子の体を持ち上げる。
 そして、間借りしている部屋に向かって階段を登った。一人を背負っているとは思えないほど、竜児の足取りは軽い。

 このままだと、すぐに上の階に辿り着く。奈々子がそう思った時、口から言葉がこぼれていた。
「ねぇ高須くん、もっとゆっくり」
「あ、すまん、痛かったか?」
「え? うん。ゆっくりでいいから……」

 あたし、何言ってるんだろ。
 竜児の背中に体重をかけながら、奈々子は顔面が紅潮していくのを感じていた。
 羞恥の感情が奈々子に芽生える。もう少しの間だけ、竜児の背中に体を預けていたいと思ったのだ。
 突然こんなことを考えてしまい、さらに口に出してしまった自分に驚いてしまう。

「大丈夫か?」
「……うん」
 奈々子が、竜児の首に腕を回す。体重は、竜児の背中と太ももの下で支えられている。
 体を竜児の背中に押し付け、バイク乗りのニーグリップのように両脚で竜児の腰を軽く挟んだ。

「頭とかは打ってなかったように見えたけど、大丈夫か?」
「高須くん、さっきから大丈夫かーって、そればっかりね」
 くすくす笑いながら、奈々子は竜児の背中に体を預けた。
「いや、お前なんかさっきから大丈夫とかそんなことしか言わないからな。無理すんなよ、痛いときはちゃんと痛いって言えよ」
「……痛いとか言っても、誰も助けてなんかくれないよ」
「今は俺がいるだろ」
「ずっといてくれるわけじゃないじゃない」
 言ってから、奈々子は目を見開いた。言葉を選別する箇所が壊れてしまったのではないのかと思えるほど、するりと口をついて出てしまう。
 訂正する言葉を捜しても、乱雑に散らかった頭の中から欲しいものを選ぶのは困難だった。
「ん? ああ、大丈夫だって、心配しなくてもいい」
「えっ? それって」
「このくらいの怪我だったら、ちゃんと治るって。もちろん、静養しなきゃダメだぞ。無理せずにな」
「そ、そうね……」
 奈々子の胸の中で、竜児に対する期待のようなものが膨らみ、一瞬にして萎んでしまった。
 なにを期待していたのだろう。そう考えると、頭に血が昇った。

 頭の中に、欲しい言葉が浮かんでしまった。

 階段を昇り終えた竜児は、ドアノブを回そうとして首を小さく捻った。
「なんだよ、泰子の奴出かけてんのか。くそっ、こんな時に」
 そう言ってから、竜児は一端奈々子を下ろし、ポケットの中から鍵を取り出して扉をあけた。
 奈々子を先に玄関に入れてから、竜児が入り、扉を閉める。
「ちょっと待っててくれ」
 竜児は靴を脱ぎ、それから靴下も脱いで台所の前を通り、洗面所へかけこんで行った。
 戻ってきた時には、2枚のバスタオルを持ってきて、奈々子にひとつを渡す。

 奈々子は初めて訪れる竜児の家を、まじまじと眺めていた。
 人の家に呼ばれるのは初めてではなかったが、同級生の男子の家に二人きりで訪れるのは初めてのことだった。
 視線は、玄関からすぐ見える台所に向かってしまう。

 調味料が小窓の傍に綺麗に並べられていて、立てかけられたまな板には黒ずんだ汚れも見当たらない。
 コンロも掃除されているのか、油汚れは見当たらなかった。
「随分綺麗にしてるのね」
 玄関で髪を拭きながら、奈々子がそう口にする。
 乾いたバスタオルは、それ自身が熱を持っているかのように暖かく感じられて、奈々子はつい顔に当ててしまった。
「そりゃそうだ。掃除は俺の趣味だからな」
 誇るように胸を張る竜児に、奈々子の表情に笑みが灯る。
「趣味なんだ」
「まぁな。それより、まぁ上がってくれ。狭いところだけど。とりあえず洗面所で服脱いで着替えろよ。泰子の服なんか適当に持ってくるから」
「ねぇ高須くん。ひとつ訊きたいんだけど」
「ん、なんだ?」
「もしかして、いやらしいこととか考えてない?」
 奈々子の言葉で、竜児は慌てたように言葉を連ねる。
「ば、ばっか、そんなこと考えてねぇって!」
「そう、よかった。女の子家に連れ込んで、何かしようとしてるってわけじゃないのね」
「当たり前だろ、っていうかそんなふうに思われてたのか俺……」
 肩を落として、竜児が溜め息を吐く。
「うふふ、冗談よ。高須くんは、そんなこと考える人じゃないものね」
 うろたえる竜児が、ついかわいく見えて奈々子は目を細めた。

 竜児に肩を借りて、洗面所へ入った奈々子は、言われた通りに制服を脱ぎ去った。竜児が膝に巻いたハンカチも外しておく。
 ポケットに入れたままだった携帯と財布をとりあえず近くの棚の上に置いた。
 人の家で服を脱ぐのに抵抗はあったが、濡れた服をずっと着ているのは苦痛に感じられる。
 先に竜児が用意してくれた服を見ながら、奈々子は溜め息を吐いた。

 自転車で転ぶなどという失態をしてしまった後、竜児はすぐに助けに来てくれた。
 痛みと羞恥に呻いていた自分に、肩を貸してくれた。
 奈々子が、洗面所の鏡に映っていた下着と靴下だけの自分を見て、もう一度深く息を吐く。
「どうしよう……」
 すでに下着も濡れていた。このまま下着を身に付けているのも、気持ちが悪い。
 しかし、同級生の男子の家で、裸になってしまうのには抵抗があった。
「……気にしても、仕方ないわよね」
 大きな胸を支えるブラを外し、奈々子はショーツも脱ごうと手を伸ばし、そして固まった。
 左足が痛くて、右足が上げられない。
 右足を下着から抜くためには、左足一本で立つ時間がどうしても必要になる。だが、左足だけで立つことができない。
 足首にショーツをぶらさげて、奈々子はどうにかしようと頑張ってみるが、どうしても左足に体重をかけることができなかった。


「だったら、座ればいいじゃない……」
 すぐ解答に気づいて、奈々子は床にぺたりとお尻を落とした。
 そうすればすぐにショーツも脱いでしまえる。さらに奈々子は濡れた靴下も脱ぎ去った。
 左足の靴下を脱ぐ時には痛みもあったが、どうにか耐えられるものだった。

 どうにか右足一本で立ち上がる。そして、奈々子は全裸になった自分に唇を噤み、眉を寄せた。
「まさか、高須くんの家で裸になるなんて思わなかったわ」
 足の痛みは鼓動に合わせるようにずきずきと痛む。内出血があるのかもしれない。
 この足で家まで帰ろうと思ったら、相当な時間がかかるか、途中で倒れるかのどちらかだっただろう。
 少なくとも、まともに歩けるものではない。右足を前に出すためには、当たり前のように左足に体重を乗せる時間が存在する。
 けれど、その時間さえ左足首の痛みは許してくれない。本当に、一歩も歩けないのだ。

 裸のままでいた奈々子は、ふぅ、と息を吐いてから濡れた体をバスタオルでくまなく拭いた。
 それから、竜児が用意してくれた服を手に取る。レギンスと、パーカーだった。
「泰子って、お姉さんなのかしら」
 そう呟いてから、奈々子はレギンスに足を通すためにもう一度床に座り込んだ。下着もつけずに服を着ることになるとは。
 パーカーを着込み、それから使ってくれと竜児に言われたドライヤーで髪を乾かす。
 家に帰ったら、ちゃんと髪を洗ってケアをしなければと思いながら、奈々子は髪にドライヤーを当てた。
 少し湿っているくらいで奈々子はドライヤーを止める。あまり長く使うのは電気代が、というのと、いつまでも洗面所にいたいとは思わなかったから。
 それから、脱いだ制服を畳み、スカートとブレザーの間に下着を挟んで外からは見えないようにした。
 パーカーのポケットに、財布と携帯を突っ込んでおく。少し迷ってから、竜児が貸してくれたハンカチもポケットに入れておいた。

 もう一度だけ、鏡を見て、自分の髪が崩れていないかを見てしまう。
 できるだけ、いい顔で竜児の前に現れたかった。
 そんなことを考えている自分が、奈々子にとっては驚きだった。

「どうしようかな」
 自分で歩いてここから出て行くことができそうにない。
 そうなると、竜児の肩をもう一度借りなければいけない。わずかに気が引ける。
 さっきの竜児の言葉が耳に蘇った。痛いなら痛いって言えよ、と何の気も無しにそう言った。
 わずかに腹に力を込めて、奈々子は声をあげる。

「高須くーん、ちょっと来てー」
 声をあげてから、わずかに恥ずかしくなる。あまり大きな声を出すことには慣れていない。
「おう、今行くぞ」
 すぐに声が返ってきて、奈々子はつい頬を綻ばせてしまう。
 助けを呼んで、そこに声が返ってくるのが嬉しかった。

 とたとたと足音がして、洗面所の扉の前で止まる。
「開けていいのか?」
「……うん、いいよ。大丈夫」
 もう一度だけ鏡を見てしまう。大丈夫、問題ないわ。
 竜児が洗面所の戸を横に引く。
 すでに着替えたのか、竜児は上にTシャツと、下にナイロン地のズボンを着ているだけだった。
「ごめんね高須くん。ちょっと歩けそうにないの、肩貸して」
「ああ、いいぞ」
 頼みごとに対して、竜児は嫌な顔ひとつせず奈々子の左側へ回った。
 少しだけ膝を屈めた竜児の首に、奈々子は左腕を回す。そして、体重を竜児にかけながら、右足をゆっくりと前に出した。

 居間には、一脚の椅子が置かれていた。
 竜児はそこに奈々子を座らせると、テーブルの上に置いた救急箱に手を伸ばす。
 奈々子はというと、つい部屋のあちこちを眺めてしまう。古い建物のようだったが、目につく場所すべてが綺麗にしてある。
 壁にはカビなども見当たらないし、テレビの上も埃ひとつ積もっていない。

 畳敷きの部屋には似つかわしくない椅子だと思った。
 キャスターつきで、背もたれのある椅子。他の部屋から持ってきたものかもしれない。
「よし、じゃあとりあえず膝な」
「……痛くしない?」
「いや、さすがにちょっとは痛むだろ」
 消毒液を片手に持った竜児が、奈々子の前に跪いて膝を見る。
「痛いのはやだ」
「やだとか言われてもなぁ……、ちょっと染みるかもしれないけど我慢してくれ」
「うん」
 スプレー型の消毒液を、膝のやや外側のあたりに出来た傷に、しゅっと吹きかける。
 途端に、引き攣るような痛みに襲われて奈々子は顔をしかめた。
「い、痛いじゃないもうっ!」
「んなこと言われても……」
 竜児が悪いわけじゃない。そんなことはわかってる。
 けれど、奈々子の口からは文句がこぼれた。こんなことを言っても、さらっと受け止めてくれる。そう思えた。

「とりあえず、絆創膏貼っとくからな」
 膝に手を伸ばした竜児が、新しい絆創膏をぺたりと貼り付ける。
 まるで子どもになったみたい。奈々子はそんなことを考えていた。
 膝を擦り剥いて、そこに絆創膏を誰かに貼ってもらう。そんなことがあったのは、本当に昔のことだった。
 
 窓の外では、未だに雨が降り続いている。静かな部屋だった。
 もう日が地平へ落ちようかという時間だった。わずかな眠気を感じて、奈々子が小さくあくびを漏らす。
 時計の音が、まるで耳の傍で鳴っているのではないかと思えるほどはっきりと聞こえた。
 そこに雨の音が加わる。時計の刻むリズムに、雨どいから落ちる大きな雫がオブリガードを入れた。
 暖房がつけられているのか、風がこすれるような音が聞こえてくる。

「さて、あとはこっちだな」
 左足首を指で触りながら、竜児が目を細めた。
 もう、肌を触れられていることに何も違和感を覚えない。
 男子にここまで触られるのは初めてだったけれど、奈々子は竜児になら任せられると思った。
「捻挫かもな。やっぱ病院行かないとあれか……」
 指先で踝の周りを押しながら、竜児が呟く。それから、奈々子のアキレス腱を摘む。
「ここは痛くないか?」
「ううん、平気」
「そうか……。アキレス健切ったとか伸ばしたとかじゃないのか。ならまぁ、靭帯が伸びたくらいか……」
「そういうの詳しいの?」
「いや、別にそういうわけじゃねぇけどな。とりあえず、湿布貼って包帯だな」
 救急箱の中から湿布の入った袋を取り出す。チャックを開けて湿布を一枚取り出して、奈々子の足首に回すようにして貼り付けた。
「それにしても、足細いな……」
「あら、そうかしら」
「湿布一枚で簡単に一周しちまったぞ。こんな細い足に重みが加わったから痛めたんだろうな」
 竜児は包帯を取り出すと、奈々子の足首と足の甲に交差するように巻きつけていく。
 最後にテープで止めて、竜児は立ち上がった。
「よし、これで大丈夫だからな」
 そう言ってから、竜児は奈々子の頭に手を伸ばした。その手で、奈々子の頭の天辺を、軽く撫でる。
「えっ?!」
「ちょっと待ってろ、暖かい飲みもん持ってきてやるから」
 竜児は何事も無かったように台所へ向かう。

 撫でられた奈々子は、急激に暴れ始めた心臓に驚きを感じた。
 顔が火照り、息が浅くなる。竜児に頭を撫でられた途端、頭の中が沸騰したかと思った。
 思わず顔を手で覆ってしまう。撫でられた頭が、熱を持っているような気がした。

 うそ、なんでこんなに……。

 まるで子どもの頭を撫でるかのような手つきに、今まで生きてきて感じたこともないような胸の高鳴りを感じている。
 心臓の早鐘は全身に血を巡らせて体温を上げた。瞬きの回数が増えて、止められない。
 ぎゅっと目を閉じて、自分の体を抱き締めるように体を小さくさせた。

「ほら、とりあえず暖かいもの飲んで体も暖めないとな。熱いから気をつけろよ」
「う、うん……」
 カップを差し出してくる竜児の顔がまともに見られなくて、奈々子は俯いたままカップを受け取った。
 女の子に出すからか、カップにはかわいらしいクマのイラストが描かれていて、それが奈々子の好みとも合致した。
 ちらりと、一度竜児のほうへ視線を向けると、その視線がぶつかる。慌てて奈々子は視線をカップに落とした。
 カップの中に入っているのは、ホットミルクらしい。
 慌てて口をつける。
「熱っ」
 思ったよりも熱くて、奈々子が舌を出す。
「おいおい、大丈夫かよ。熱いって言っただろ」
 竜児が身を乗り出して、奈々子が出していた舌を真正面から覗き込んだ。
 眼前に竜児の顔が躍り出て、奈々子が慌てて体を引く。
「だ、大丈夫だから、心配しないで」
「そうか? ならいいんだけど」
 訝しげに首を捻って、竜児が離れる。

 奈々子の胸の中で、御し難い何かが暴れまわっていた。それが何なのか、奈々子は考えたくなかった。
 検討はついている。それの正体を知っている。けれど、それを認めてしまうのが怖い。

「しかし、香椎って意外とドジなところもあるんだな。自転車で転んだり、熱いって言ってるそばから舌火傷しそうになったり」
 苦笑している竜児の顔がまともに見られず、奈々子はつい髪の毛を自分の顔の前に持っていく。前髪をおろして、まともに顔が見られないようにしてしまう。
「あら、酷い言い方ね」
 ちゃんと声を出せたことに、つい安堵してしまう。
 ふーっとホットミルクに息を何度か吹きかけた。
「いや、なんか香椎ってしっかりしてる印象だったから、ついな」
「そんなこと言ったら、高須くんなんてヤンキーじゃない。その顔で、こんな優しいことしてるほうが変よ」
「うっ、いや、それを言われるとまぁ、な。はは、やっぱり、話してみないとわかんねぇってことで」
 畳の上に座った竜児が、頬を掻く。
 奈々子は、そろそろホットミルクも冷めただろうと口をつけた。途端に、甘いものが口内に広がっていく。
 わずかなとろみと甘さ。
「あら、おいしい。これって蜂蜜入ってるの?」
「ああ、甘いものは体力回復にいいしな。それに甘いのは大丈夫だろ」
「いいわねこれ。今度家でも作ってみるわ」
 これにウィスキーを少し混ぜれば、冬の凍えた体にはいいかもしれない。奈々子はそんなことを考えていた。
 一度飲んでしまえば、次々と喉の奥へ流し込んでいける。体の中に入ったホットミルクが、内側からゆっくりと体を暖めてくれた。

「さて、とりあえずこれからどうするかだな」
 竜児が突然そう言い出したので、奈々子はわずかに首を傾げた。
「やっぱ、タクシー呼ぶか。その足じゃ帰れないだろうしな。そんで、家の人に病院まで連れてってもらえよ」
「……家は、誰もいないわね。お父さんは仕事で、帰ってくるのは十時過ぎだし」
「母さんは?」
「いないわ」
「……すまん。そういや、そうだっけか」
「変に思わなくていいよ別に」
「まぁ、俺の家も片親だしな。母親しかいねぇ。親父なんか、生きてんだか死んでんだかもわかんねぇ」
「そうなんだ……」
 家の事情なんて、学校でいちいち話すようなことはない。
 竜児の家が片親だということは知っていた。けれど父親については聞いたことがない。
 あまりお金があるような住まいには見えない。随分と、苦労をしてきただろう。
 そんな生活でも、奈々子には竜児がまっすぐ育っているように見えた。



「ねぇ、高須くん。ちょっと肩を貸してくれないかしら」
「ん、ああいいぞ。なんだ、トイレか?」
「違うわよ。ちょっと、床に座ったほうが楽かなって。足を伸ばしたいの」
 竜児は、奈々子の左側に回って屈み、奈々子が竜児の首に手を回す。奈々子の持っていたカップを受け取った竜児が、テーブルの上にカップを置く。
 それから、竜児に体重をかけながら、立ち上がった。
「そこ、その箪笥のところでいいわ。もたれるところは欲しいから」
「こんなとこでいいのか」
 至近距離で竜児が覗き込んできて、奈々子はつい視線を逸らしてしまう。
 これでは駄目だ。奈々子は竜児の首に回す手へ力をかけて、ゆっくりと膝を折って箪笥にもたれかかった。
「高須くんも座って」
「え?」
「ほら、隣に座ってよ」
 奈々子が座り込んだすぐ左隣に、竜児を座らせる。
 畳の上に座って足を伸ばしてみたら、すぐに左足から痛みが走った。どうやら、踵をつけると痛いらしい。
 奈々子は少しだけ足をくずして横にして、竜児の肩によりかかった。

「お、おい……」
「あら、こっちのほうが楽なの。ちょっと付き合って」
 竜児が前髪に触れながら、ちらりと奈々子の体を見る。
「少し、お話しましょ。高須くんのこと、もう少し知りたいし」
「知りたいとか言われても……。別に語るようなこととか全然ねぇよ」

 左肩に、竜児の体が触れている。こんなすぐ傍に異性がいることに、奈々子の鼓動が速まった。
 宵の口に入ろうかという時間に、長く降りそうな雨の音が響く。肩越しに、竜児の体温が伝わってきた。
 その熱が、奈々子の肌に染みていく。心臓は酷使されて悲鳴を上げているのに、その奥にある心には安らぎが広がった。

「そうねぇ。じゃあ、タイガーとの関係についてとか」
「……あいつのことかよ」
 竜児が唇を舌で湿らせる。それを見て、奈々子は竜児が言いづらそうにしていることに気づいた。
「付き合ってるの?」
「いや、だから付き合ってねぇって本当に。木原に、何か言われたのか?」
「ううん、そうじゃないわ。ただの興味……。それじゃ、高須くんは他の誰かと付き合ってるのかしら」
「いや、誰とも」
 わずかに目を細めて、竜児は視線を遠くした。
 その視線の先に誰を思い浮かべているのか、奈々子は知っている。
 急に胸を締め付けられたような気がして、奈々子はそれを振り払うように声を絞る。
「……櫛枝は?」
 付き合ってるの? とは訊けなかった。
「うっ、な、それは……。いや」
「付き合ってるわけじゃないんだ。そっか」
 さきほどから、竜児はずっと自分の前髪をいじってばかりだった。視線を向けることもない。
 瞬きの回数は多く、口元は言葉を生まないのにもごもと動かしている。

「実はさ、修学旅行で亜美ちゃんに聞いたんだ。高須くんが、櫛枝に振られたって」
「あれは振られたというか、なんつーか」
「まだ、諦めきれない?」
「……わ、わかんねぇよ。つーか、こんな話はあれだ、やめようぜ。もっと他に楽しい話題があるだろ」
 強引に話題を変えにかかる竜児に、奈々子がくすりと笑みを漏らす。

 今のところ、竜児に恋人はいないらしい。
 それを知って、奈々子の胸中にわずかな喜びが生まれた。
 しかし、その喜びが奈々子の心を苛む。

 いま、高須竜児に、香椎奈々子は惹かれている。
 それを自覚してしまった。
 けれど、自分の中に芽生えた恋を、振り払うかどうか迷っていた。
 本当にこの人を好きになってもいいのか。まだ自信は持てない。


「ねぇ高須くん……。実はね、あたし、今この下に何も着てないの」
「はぁ?!」
「下着も濡れちゃってて、全部脱いで、その上からこれ着てるだけ」
 奈々子は着ているパーカーの胸元を数回引っ張って見せた。
 竜児の視線が、奈々子の胸元に注がれる。胸の大きさには自信があった。
 そして、この胸がいたずらに注目を浴びる元であることも知っている。

 中学生の頃にはもう他の女子よりも大きいことには気づいていた。
 そのせいで、男子生徒からはいやらしい視線を向けられたことが何度もあった。
 こんなものしか見ない同級生の男子には何度も辟易した。好奇の視線を向けられ、その度に軽蔑の感情が広がる。
 子どものように幼い同級生ではなく、自分のすべてを優しく受け止めてくれる人が現れるはずだ。
 奈々子はそう信じていた。そんな人を好きになろうと思っていた。

「高須くん、あたしね。高須くんにこれだけしてもらったから、お礼がしたいの」
「な、なんだよ、別に気にしなくていいって」
 奈々子は竜児の太ももの上に、そっと手を置いた。さらに肩に寄りかかり、頭を竜児の肩に乗せる。
 胸郭の中身がすべて心臓になってしまったのではないかと思うほど、鼓動が全身を駆け巡った。
 もしかしたら、この鼓動が伝わってしまっているかもしれない。そう思うと、奈々子の顔が熱くなる。
 口の中が渇き、舌の上に乗っていたわずかな唾液を飲み込んだ。

「あのね、あたしの体で、高須くんの好きなところ、ひとつだけ好きに触ってくれていいよ」
 力を入れてそう言い切った。
 雨の音がわずかに強くなったように感じられた。時計の針の刻む音がうるさくて、何よりも自分の鼓動が痛々しかった。
 竜児がちらりと奈々子の顔を見る。ふぅ、と溜め息をついた。
 そして、竜児が手を伸ばす。奈々子の頭の上にぽんと手を置いて、数回撫でた。

「……これで、いいだろ」
 そう言って、竜児は奈々子の頭から手を下ろす。
 再び、高須家の居間に静寂が訪れた。

 奈々子がゆっくりと目を閉じて俯く。
 こんなのって、ないわ。

 竜児の腿の上に置いた手で、奈々子は竜児の腿をつねりあげた。
「いたたたた、な、なにすんだよいきなり」
「ごめんね。つい、こうしたくなったの」
 奈々子は竜児の肩に頭を寄せながら、悪びれることもなくそう言った。
「絶対、胸に触ると思ってた」
「んなことしねぇよ……」
「もし触ってたら、叩いて引っ掻いて、最低だって罵ろうと思ってたのに」
「おいおい……さらりと怖いことを」
 奈々子の言葉に、竜児の頬が二三度ひくついた。
「ごめんね。高須くんは悪くないから」
「じゃあ、つねんじゃねぇよ」
「やっぱり訂正。高須くんも悪いわ」
「俺が一体なにを……」
「言わない」
 言ったら、格好悪いから。

 もし、胸に触ってくるようだったら、奈々子は本当にひっぱたこうと思っていた。
 それでおしまい。竜児のことは、忘れるつもりだった。所詮、いやらしいことしか考えてない男だと割り切ってしまえた。
 そうしたら、好きになろうとしていた自分が間違いだったのだと諦めることができる。

 なのに、竜児は好きなところを触っていいと告げられて、ただ頭を撫でた。
 奈々子にとって、竜児の存在が、特別なものになった瞬間だった
 雨に濡れるのも厭わずに自分を助けに来てくれて、それになんの下心もないなんて。
 ほとんど、誘うような言葉にも流されずに、頭をそっと撫でてくれた。

 嬉しかった。
 なのに、嬉しさを感じた瞬間に、胸に触ってこなかったことに対しての怒りが沸いてきた。
 あたしってそんなに魅力がないの?
 あまりにも自分勝手な思いに、奈々子が苦笑する。
 
 もう、認めるしかなかった。
 あたしは、高須くんのことが好き。

「ごめんね、ついからかっちゃった」
 つとめて明るく言った。そして、ゆっくりと体を起こして、竜児の肩に預けていた頭をあげる。
「なんだよまったく……」
「うふふ、ドキドキした?」
 竜児の顔を下から覗き込みながら、奈々子が息混じりに声を出す。
「し、してねぇよ」
 頬を赤くしながら、竜児が視線を逸らす。
「あたしはドキドキしたわ」
 体を起こしながら、奈々子はそう呟いた。
 明日になったら、心臓が筋肉痛になっているかもしれない。
 今だって、足首よりも、胸の痛みのほうが強く感じられたから。


 さざなみのように、静かな時間が訪れて奈々子はゆっくりと目を閉じた。
 眠気を感じて、小さく欠伸を漏らす。隣に、竜児がいた。それだけで、心に安らぎが広がる。
「色々あったから、ちょっと眠くなっちゃったわ」
「すぐに寝ると、足が腫れるぞ」
「そうなの?」
「あと、今日は風呂も入れねぇぞ。ちゃんと冷やしとかないとな」
「お風呂、入れないの? はぁ……」
 捻った場所を暖めるのはよくないと聞いたことはあったけれど、お風呂にも入れないとなると心が落ち着かない。

 落胆したところに、ふと玄関で物音がして奈々子は首をあげた。
「おっ、泰子の奴帰ってきやがった。どこ行ってたんだか」
「たっだいまー。あれー、お客さん? あっ、なんかおうち暖かーい。暖房入れてるの?」
 若い女の人の声がしたかと思えば、居間の引き戸が開かれた。
 そこに現れた女性を見て、奈々子が挨拶するのも忘れて瞬きを繰り返す。

「あら、竜ちゃんどしたの。お客さん?」
「ったく、どこ行ってたんだ泰子。お前の力を借りようと思ってたのによ」
「どしたの?」
「クラスメイトが怪我して、それで家に連れてきたんだよ」
「えーっ、そうなんだ! うわぁ、足怪我したの?」
 泣きそうな表情の泰子が奈々子の足を覗き込む。
 学年とクラスの記載されたジャージの上に、黒のダウンジャケットを羽織っている泰子の姿に、奈々子はわずかに声を失った。
 泰子は腕にコンビニの袋をひっかけていて、そこから雑誌がはみ出ていた。

「いえ、高須くんが助けてくれたんで大丈夫です……。あの、はじめまして」
「はじめましてー。やっちゃんだよ」
 やっちゃんだよ、と言われても困る。
「香椎、こいつが俺の母親」
「母親?!」
 再び声を失った。
 どう見ても二十代の後半というところだ。高校生の子どもを持つ母親には見えない。
「そうなんだよー。やっちゃんはね、竜ちゃんのお母さんなの。とっても若いんでがすよ。永遠の23歳なんでヤンスよ」
 がす? ヤンス?

「やめろ泰子。頭の底が見えるぞ」
 呆れた様子で、竜児が立ち上がる。
「えーっ、若い子だから若い子の話し方にあわせないとぉ」
「お前は間違ってる。つーか、いい加減気づけよ」
 立ち上がった竜児が、テーブルの上にあった救急箱を持ち上げて、箪笥の中に仕舞いこむ。

「あっ、そうだ。お名前は? やっちゃんは高須泰子っていうんだよー。やっちゃんって呼んでね」
「えっと、はぁ……。あたしは、香椎奈々子です。あの、自転車で転んだところを高須くんに助けられて……」
「奈々子ちゃんっていうんだ。奈々子ちゃんかわいいねー。なんか竜ちゃんて家に連れてくる女の子みんなかわいくてやっちゃん困っちゃう」
 女の子を、家に連れてくる?
「おい泰子、人聞きの悪いこと言うなよ。連れてきたって、せいぜい大河と川嶋くらいだろうが」
「そうそう、川嶋亜美ちゃん、亜美ちゃん。かわいいよねぇ」
 亜美ちゃんも、来たことがあるんだ。
 そんな話は聞いたことがなかった。

「ねぇ竜ちゃん。今日の晩御飯なに?」
「ん? ああ、いけね、忘れてた! メシ炊かねぇと」
 確かに、夕飯の支度をしなければいけない時間のようだった。
「そうだ! やっちゃんいいこと思いついた。奈々子ちゃんも食べていったら?」
「えっ? いいんですか」
「全然いいよー。ねー竜ちゃん」
「俺は別に構わねぇけど。香椎はどうなんだ? なんだったら泰子の出勤と一緒にタクシー呼べばいいだろうし」
「竜ちゃんかしこーい。そうしたほうがいいよね」
 二人の会話のペースについていけず、奈々子は箪笥に凭れたまま二人を交互に見返すことしかできなかった。
 片親とはいえ二人の関係は良好だということが伺える。この人が、高須くんを育てた人なんだ。
 ついつい、泰子の顔を見てしまう。

「ねぇねぇ、一緒にご飯食べようよ。奈々子ちゃんのことも知りたいしー」
「えっと、じゃあその、お言葉に甘えます」
「わーい。やったぁ」
 コンビニの袋を持ったまま、泰子が両手を上げる。こら、振り回すなと竜児が声をかけながら、炊飯器の釜を取り出していた。

 夕飯ができるまでの間、奈々子はテーブルの前で足を伸ばして座っていた。
 テレビを点けたのもあって、竜児と二人きりだった時に訪れていた静寂はどこかへ出払ってしまったらしい。
 ずっと泰子が奈々子に話しかけていたのもあって、奈々子は退屈することがなかった。
 話しているうちに、二人の暮らしの一部が随分わかってきた。
「それでねー、やっちゃんわぁ、ちっちゃな竜ちゃんを抱えて家を出てね、がんばったの」
「へぇ、そうなんですか。でもそれって大変じゃないですか」
「うんうん、大変だったんだよー。でもね、竜ちゃんがかわいいから頑張ったの」
 身振り手振りを交えて話す泰子に、奈々子はつい表情を緩ませた。
 片親だという悲壮感はどこにもない。二人は、幸せで、仲良く暮らしている。

 あたしの家とは大違いね。

 幸せそうな二人の話に、奈々子はテーブルの下で拳を握った。
 自分も、こんな幸せな家庭で生活できていたら……。そう思えてしまう。


 夕飯ができあがると、再び賑々しく泰子が奈々子に話しかける。
 時々竜児が合いの手を入れて、騒がしい食卓ができあがった。
「ねー竜ちゃん。やっちゃんのプリン買った?」
「食事中におやつの話なんかすんなよ。ああ、ちゃんと買ってあるから安心しろ。崩れてるけどな」
「えーそうなんだ。でも食べたら一緒だよね」
 会話の絶えない食事が、奈々子には羨ましかった。
 父親とは仲が悪いわけではないが、それでもこんなに楽しい会話をすることはない。

「ねぇねぇ、奈々子ちゃん。竜ちゃん、学校でちゃんとお勉強してる?」
「えっと、ちゃんとしてますよ」
「そうなんだー。あっ、大河ちゃんは?」
 自分はあまり口数の多いほうだとは思っていなかったが、泰子にかかるとついつい言葉が出てしまう。
 スナックで働いているというだけあって、泰子は話を聞くのが上手いのかもしれない。
 ひとつひとつの話題に対する反応がよくて、ついついこっちも次々話してしまう。

 竜児の作った料理も美味しかった。
「ねぇ高須くん。この煮物おいしいね、どうしたらこんな照りが出るの?」
「ん? そりゃ、みりんを入れるタイミングだな。煮切りも使うのがポイントだな」
「でも最初にみりん使うものじゃないの? 全部煮切りでするの?」
「いや、最後に砂糖代わりに煮切りを使うんだって。砂糖も使うけど、ちょっとだけだな。あんま使うと濃いし」
「ふーん……。ニンジンの苦味とか匂いとかも控えめで、おいしいわ」
「本当はいっぺん冷ましたかったんだけどなぁ。時間が……」
 料理談義に華を咲かせていると、泰子が唇を尖らせた。
「うぅ、やっちゃん話についていけない」

 足さえ痛めてなかったら、後片付けくらいは手伝えたのに。
 奈々子は台所に立って洗い物をしている竜児の背中に視線を送った。
 エプロンをした竜児が、慣れた手つきで食器を洗っている。泰子は、店に行く準備があるので、自分の部屋に戻っていた。
 暇になった奈々子は、しばらく竜児の背中を眺める。見ているうちに、つい頬が緩んでしまう。
 だらしなくテーブルに肘をついて、首を傾げながら竜児を見ていた。

 こうやって、見ていると、本当に今まで竜児のことを知らなかったんだと実感してしまう。
 最初は、どう見たってヤンキーで、怖い人だとばかり思っていた。
 同じクラスにいるうちに、そういった誤解もなくなったけれど、ここまでいい人だとは思ってもみなかった。
 本当に、見る目がないわね。

 そう思って溜め息を吐く。
 この優しさに、良さに、気づいた人もいるのだろう。
 奈々子の脳裏に、大河と亜美の姿が浮かぶ。おそらく、この二人は竜児のことが好きだろう。
 
 亜美も、竜児の優しさに触れたのかもしれない。だから、意識している。
 けれど亜美は竜児と付き合おうとは考えていないのかもしれない。付き合うつもりがあるのなら、もうモーションをかけているだろう。
 亜美の美貌があれば、事は簡単に済んだはずだ。それをしないのは、何か理由があるのか。

 大河との関係も、よくわからなかった。二人は付き合っているのかと思えば、そうではなかったらしい。
 けれど、大河も竜児のことをきっと好きになっているはずだ。単なる勘だったけれど、間違ってはいないと思う。

 そして、竜児は櫛枝実乃梨のことが好き……。
 大河も亜美も、このことを知っている。だから、竜児に対して迫ることができないのかもしれない。


 再び、竜児の背中を目で追った。
 好きになってしまったことは、もう認めざるをえない。
 できることなら、さっきみたいに寄りかかって、手を繋ぎたかった。また頭を撫でてほしかった。
 付き合ってもいないのに、ただ隣にいるだけで安らぎを感じられる。そんな相手に、自分を好きになってほしい。

 そうすれば、きっと幸せになれるだろうから。

 竜児に肩を借りながら、奈々子は借家の階段をゆっくり降りていた。
 暗くて足元がよく見えないせいもあって、一段一段を降りるのに随分時間がかかる。
 雨は随分弱くなっていたが、すぐ隣で泰子が傘を差して奈々子が濡れないようにと気をつけていた。
 すぐ表の道では、タクシーが待っている。泰子が呼んだのだ。
 泰子と同乗して、まずは奈々子の家に行く。そこで奈々子を降ろして、それから泰子が職場に向かうことになっていた。

「ありがとう高須くん」
「おう、気をつけてな。一応、家の人に伝えるんだぞ」
「……そうね」
「病院行くなら行くでちゃんとしといたほうがいいしな」
 ようやく下まで降りたところで、奈々子ははぁと溜め息をついた。


 奈々子は泰子に借りた服のまま、腕に今日の夕方に買った牛乳などが入ったビニールの袋を提げていた。
 すっかり忘れていたのだけど、竜児が先に冷蔵庫にいれておいたらしい。
「自転車は、また取りに来るわ」
「ん、今度持ってってやろうか?」
「ううん、いいの。そこまでしてもらったら悪いし」
 そうか、と返事した竜児が、ゆっくりとタクシーの後部座席に向かう。
 奈々子が、片足で跳びながら後部座席に辿り着いて、手をついた。泰子が手伝って、なんとか乗り込む。

「それじゃ竜ちゃん。行ってくるね」
「おう、気をつけてな」
 竜児が少し屈んで、車内の泰子に声をかける。
「高須くん、ありがとう。このお礼はちゃんとするから」
「別にそんな気にすんなよ。とりあえず、養生してちゃんと治すんだぞ。こういうのは日にち薬だからな」
「うふふ、本当に世話焼きなのね」
 ついつい、奈々子は竜児のことを見てしまう。なのに、見ていると時々恥ずかしくなる。

 タクシーが走り出してすぐ、後ろを振り返るかどうかでつい迷ってしまう。
 竜児の元から去っていくのは、少しだけ寂しい。思わず肩越しに振り向くと、小さく手をあげている竜児が見えた。
 角を曲がるまでは見送るつもりだったらしい。そんな律儀な姿に、つい笑みがこぼれてしまう。
「ねぇねぇ、奈々子ちゃんの家ってどっち?」
「えっと……、まずは」
 道を教えながら、泰子にも世話になったと奈々子は感謝の気持ちを覚えた。
 いつかきちんとお礼をしないといけない。

 家に向かうまでの間、ずっと泰子と談笑をしながら、奈々子は今後のことを考えていた。
 自分が、竜児に好意を持ってしまったことについては、もう認めざるを得ない。
 年上趣味だとばかり思っていたが、同級生の男子に惚れてしまうことがあるとは……。
 それだけ竜児が、魅力的に思えた。自分を助けるために、雨に濡れても、制服を汚しても気にしない。
 治療をしてくれて、それからそっと頭を撫でてくれた。
 つい、奈々子は自分の髪を触ってしまう。
 夕食をご馳走になった。困った時には肩を貸してくれた。
 自分の色仕掛けにもひっかからずに、そっと髪を撫でてくれた。

 竜児と、もっと一緒にいたい。
 今まであまり知らなかった彼のことを、もっと理解したい。

 そのために、自分が何をするべきなのかを考えないといけなかった。
 奈々子はふぅと息を吐いてから、タクシーの座席に深く凭れた。
 竜児自身の気持ちは、自分には向いていない。そんなことはわかっていた。
 櫛枝実乃梨に対して好意を持っているらしい。振られたらしいけれど、詳しいことはわからなかった。
 今でもまだ好きなのかという問いにも、きちんと答えてくれたわけではない。

 亜美や大河も、竜児のことが好きなのではないかと思っている。
 特に亜美は、竜児に対して明らかに好意を抱いているような気がした。きっと、亜美も、あの優しさに触れてしまったのだろう。
 どうすればいい?
 亜美は友達だった。その子が好きな相手を、自分も好きになってしまった。
 
 亜美は竜児と付き合う気があるのだろうか。誰がどう見たって、自分と亜美では亜美のほうが容姿が優れているのは明らかだ。
 もし竜児がただの凡夫だったら、今頃亜美に傾倒していたかもしれない。
 そうじゃないのは、やっぱり他に好きな人がいたからか……。

 自宅の前につくと、泰子が肩を貸してくれてなんとか玄関まで辿り着くことができた。
 もう雨はあがっている。明日になれば、晴れるかもしれない。冷たい空気に身を震わせながら、奈々子は泰子に礼を述べた。
「気にしなくていいよー。ちゃんと治してね」
「はい、ありがとうございます」
 父親はまだ家に帰っていないらしい。いつものことだ。
 去っていくタクシーに小さく手を振りながら、奈々子は心の中にわずかな寂しさが広がるのを感じていた。

 一人になるのが、こんなに寂しかっただろうか。
 玄関のドアに鍵を差し込んで、ゆっくりと回しながらそんなことを考えていた。
 誰もいない家に、片足でぴょんぴょん飛びながらあがりこんで、靴を脱ぐ。
 ローファーを端に寄せて、自分の部屋へケンケンで移動してベッドの上に倒れこんだ。

 ベッドの柔らかさに体を委ねながら、奈々子は枕に顔を埋めた。
 竜児ともっと近づきたい。

 優しくされて、ころっと参った自分の単純さにも少しだけ笑いがこみ上げてくる。
 けれど優しいだけじゃなくて、彼の中にはもっと沢山の魅力があるという確信もあった。
 それが知りたい。そして、竜児の優しさにもっと触れていたいと思った。

「ごめんね、亜美ちゃん」

 そう呟いてから、奈々子は決意した。
 竜児の一番になる努力をしよう。そう思った。
 だから、決意を口にしようと思った。
 本人にはまだ言えない。わずかな躊躇いが生まれた。本当にいいのだろうか。
 失敗すれば、自分は傷ついてしまう。それがわかっていても、言わずにはいられなかった。

「高須くん、好きだよ」

 誰も聞いてなんかいないのに、奈々子は恥ずかしさでつい悶えてしまう。
 言葉は部屋の中でかききえて、誰にも届かずに霧消した。
 好きになってしまった。竜児と一緒にいたい。あの優しさをもっと感じたい。

「ぜったいに、高須くんと、一緒になるんだから……」

 彼を手に入れるための努力をしよう。今はいい案が思い浮かばなかった。
 自分の望みに近づくための壁はいくつかあった。

 竜児は自分ではなくて、他の人が好き。
 彼のことを好きな人は他にもいる。
 そもそも彼が振り向いてくれるかどうかもわからない。

 けれど、今は諦めようと思わなかった。障害があるのなら、なんとかすればいい。
 竜児の気を引くために、何か行動を起こしていけばいい。

 すでに、奈々子はひとつの案を思いついて、実行していた。
 爆弾の仕掛けはもう終わっている。その反応は、まだわからない。

「うふふ、逃がさないんだから」
 奈々子は、一人で笑みを漏らしながら、竜児を手に入れるための算段を練り始めた。

このページへのコメント

この作家さんの他の作品も読みたいです。
誰かご存じないでしょうか…教えてください…お願いします!!
(>_<)

Posted by たにし 2010年06月27日(日) 02:32:17

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