web上で拾ったテキストをこそっと見られるようにする俺得Wiki



眠い、とにかく眠かった。カフェイン入りのミントキャンディを貪るように口にし、
目の下にメンソールが効いたリップクリームを塗っても、まぶたが勝手に閉じようとする。

「だめだぁ、蓄積した疲労が、抜けねぇ…」

そう、つぶやきながら、高須竜児は、頬をつねり、鼻毛を引き抜いたりして、
どうにか正気を保っていた。

風薫る5月だというのに。エアコンのない理学部旧館の教室には、眠気を催す気だるさが漂う。
竜児以外の学生も、まぶたを擦ったり、シャープペンシルの先端で、こめかみを突いたりして、
必死に睡魔と戦っていた。
線形代数学は、数学科の必修科目だというのに、何の因果か、土曜日の2時限目に行われる。
必修科目、その中でも、この線形代数学は、数学科の『鬼門』とされ、毎年、少なからずの学生が
赤点を喰らって留年の憂き目を見ることで恐れられていた。
学期末に行われる試験は厳しく、毎週、真面目に聴講していないと歯が立たない問題が出る。
そのため、土曜日にもかかわらず、数学科1年、プラス留年組の全員が、気だるい眠気をおして
出席していた。
加えて、竜児は、3、4年は、就活や資格試験対策を行うべく、1、2年で主要な単位をほとんど
取得する腹づもりであったため、日常的にかなりの無理をしていた。
帰宅すれば、家事もしなければならない。疲労が蓄積するのも道理である。

だから、高須竜児が、90分の講義を文字通り必死に聴講した後、机に突っ伏して惰眠を貪って
いたことを、誰が責められよう。ましてや、講義終了後に教室に入り込んできた他学部の学生に、
その腕をつかまれ、拉致同然に教室から連れ去られるに至っては、もはや、お気の毒様としか言い
ようがない。

「ほ?ら、高須くん、しゃんとしてよ。」

整った顔立ちに、意地の悪さをいくぶん含んだ笑みをたたえて、法学部1年の川嶋亜美は、
腕を組んだ竜児を引きずるように歩かせていた。睡眠不足で、朦朧とする竜児は、「ふへ?」
という、およそ生気が感じられない生返事しかできず、それが亜美を苛立たせる。

「麻耶がねぇ、どうしてもあんたの協力を必要としているの。だから、眠かろうが何だろうが、
来てほしいのよっ!」

亜美は、歩きながら、竜児の鼻をつまんで、左右に揺さぶる。

「何せ、あんたと、あたしは、麻耶に借りがあるんだからぁ、ほら、目ぇ覚まして」

?そうだった、川嶋が泥酔して殴り込んできた時、電話とはいえ、フォローしてくれたのが
木原だった…。
竜児は、どうにもはっきりしない思考で、その時のことを思い出す。
電車に乗って、大橋駅下車。向かうは、通称スドバ。須藤コーヒースタンドバーだ。

「あ?、亜美ぃ、ここ、ここ」

窓際の席に座っていた木原麻耶が、立ち上がって手を振った。傍らには何故か香椎奈々子まで居る。

「ごっめ?ん、高須くんを拉致るのに手間取っちゃった」

とか言いながら、右手拳で自分の額を軽く、コン、とばかりに叩き、ペロッと舌を出す。

朦朧とする意識の下、竜児は、川嶋め、よい子ぶるのは、相変わらずだなぁ、とぼんやり思う。

テーブルを挟んで、竜児は麻耶の、亜美は奈々子の正面にそれぞれ座らされる。

「さてと…」

いつになく真剣な麻耶の視線が竜児には痛い。

「話は、亜美から聞いていると思うけど、今回は、どうしても高須くんの協力が必要なの…」

竜児は、そういえば、電車の中で、川嶋が麻耶と北村祐作のデートのお膳立てとかなんとか…、
言っていたな、とまでは記憶しているものの、その詳細な部分が思い出せない。
スドバに集った、元大橋高校2‐Cの美女3人組に囲まれるのは、悪い気分ではないが、
「既に、説明済み」と決めつけられた事項を、「何でしたっけ?」と、率直に訊ける雰囲気
ではないのがツライ。
訊いたら、多分、左隣にいる亜美から、『高須く?ん、あんた…、いつもいつも、あたしの話を
聞いちゃいないんだから!』と、ヒスを起こされ、
麻耶からは、『高須くん、亜美ちゃんと、懇ろになっちゃって、色ボケ?』と、侮蔑の言葉を
投げつけられ、
奈々子からは、無言の冷笑を浴びせ掛けられるに違いない。

『もっと賢く臨機応変に』、今はアメリカにいるはずの狩野すみれの言葉ではないが、
正直であることがベストであるとは限らないのだ。
ここは、一つ、既に用件を完全に把握しているふりをして、彼女らの会話から、その要点を抽出
しよう、と、高須竜児は、睡眠不足の脳髄で思考する。

おそらくは、麻耶と北村のデートを、正攻法でセッティングするのは、現段階では時期尚早と
思われるので、竜児と亜美が、北村と麻耶を外出に誘うという作戦だったような気がする。
そして、当日は、竜児と亜美がドタキャン。待ち合わせの場所には、麻耶のみが居て、後は、
北村と麻耶とが2人きりでデートに出かけるという算段か。
その後、竜児と亜美、それに奈々子は、麻耶をサポートすべく、2人の後を追うというものの
はずである。

問題は、出かける先がどこで、いつ出かけるかだが、これがさっぱり思い出せない。
でも、まさか、明日ということもあるまい。
何しろ、明後日は、解析学のレポートを提出しなければならない。
明日の日曜日は、書きかけであるそのレポートの仕上げに充てるつもりなのだから。

「で、亜美、まるおの明日の都合は?」

恋する乙女、木原麻耶の問いに、亜美は、黒一色でシンプルな薄型携帯をいじり、

「万事、おっけぃ。今、メール見たんだけど、祐作は、『喜んで参加する。高須にもよろしく』
だってさ」

竜児は、飲みかけのブレンドコーヒーを思わず吹き出しそうになった。よりにもよって明日か!? 
さらに、亜美は、潤んだ瞳で、竜児の顔を覗き込み、

「高須く?ん、明日は、麻耶のサポート役、一緒に頑張ろうね。ほら、あたしたちは、麻耶に
恩があるしぃ?」

と、猫なで声で、寄りかかってくる。

?しまった、すでに用件を完全に把握しているふりをして、彼女らの会話から、その要点を抽出
しようという作戦は裏目に出た。
何よりも、大学からここまでの電車の中で、竜児が亜美の説明に適当に相槌を打っていたのが仇
になった。
電車での亜美の説明には、当然のごとく、北村×麻耶のデート・サポート作戦の決行日時、場所が
含まれていたに違いない。

冷や汗が吹き出してきた。解析学のレポート提出が危うい。
いや、待て、明日がダメなら、今日がある。レポートは今晩中に仕上げればいい、
とコーヒーをすすりながら、高須竜児は努めて平静を保とうとした。
だが、それも、

「明日の、ファザー牧場へのピクニックは、何といっても、高須くんオリジナルのお弁当がキモ
だよね。プロ顔負けのお弁当をもってすれば、まるおの心も麻耶になびくかもしれないよ」

という奈々子の一言で粉砕された。
?ファザー牧場? 他県で遠いじゃねぇか。ピクニック? 弁当? 俺が作るのか? それに、
いつも大学に持っていくようなお手軽な奴じゃなくて、特別なイベント用のスペシャル弁当を? 
いかん、あまりの事態に、体が震えてきた…。
隣に座った亜美が、「ほう?」という感じで、そんな竜児を面白そうに注視する。

その亜美が、

「そうだねぇ、今夜は、下ごしらえから始めて、明日の早朝にお弁当を詰めるから、高須くんを
手伝いたい人は、高須家に泊まり込みで頑張ろう。は?い、あたし、高須くんちにお泊まりぃ」

と、挙手。それに釣られるように、麻耶も奈々子も、「は?い、あたしも」と、手を挙げる。

「私も、もはや伝説の域に達している、高須くんの料理の腕前を、間近で拝みたいし」

と、3人組の中で一番控えめな奈々子までがはしゃいでいる。なんてこった…。
竜児は、おずおすと、美女トリオに尋ねる。

「な、なぁ、年頃の娘が外泊して大丈夫なのか?」

その問いに対し、亜美は、鼻に小ジワを寄せて、

「高須くんて、バカ? アリバイ工作なんて簡単じゃん。麻耶と奈々子があたしの家に泊まる
ことにして、あたしが麻耶の家に泊まることにすれば万事オッケイ!」

と、小馬鹿にするように言い、うふふ、と笑うのだ。

終わった…。
彼女らのテンションの高さを見ると、今さら、手伝いは要らないとは言い出せない。ましてや、
「俺、レポートがあるから、無理」などと言える雰囲気ではない。

?解析学はレポート未提出で赤点か? 奨学金はどうなる? ていうか、俺、留年?
ネガティブな蓋然性が次々と竜児の脳裏に浮かぶ。



?あれ? それにしても、川嶋は、泊まり込みで手伝うなんて、電車の中で言ってたか? 
川嶋が、この場の雰囲気で勝手に言い出したことではないか? 川嶋ぁ、お前は何を企んでいる?
そのことを指摘しようとした矢先、

「じゃぁさぁ、今からさっそく、スーパーかのう屋に行って、食材をgetしよう! 
高須くんの食材を選ぶ眼力も、見ておきたいしさぁ?」

という麻耶の一声で、うやむやに…。やられた…。機先を制された。
どっ、ばかりに冷や汗をかきながら、竜児は、頭の中でスケジュールを組み立てる。
?夕食を終えて、仕込みにかかれば、11時ぐらいには目処がつく。
その後の時間を、可能な限りレポート執筆に充てて、書き終えたら、翌朝5時まで仮眠。
これだ、これしかねぇ。何とかいけそうだ。
と、竜児はつぶやく。

「ねぇ、何、ブツブツ言ってるの?」

スケジュールを思案するのに気をとられ、亜美が顔を近づけてきたことに気がつかなかった。
すでに、麻耶と奈々子は席を立ち、居合わせるのは、竜児と亜美だけ。
亜美は、大きな瞳を、ちょっと意地悪そうに眇めて、竜児の顔を覗き込む。
亜美の吸い込まれそうな瞳。見る者を虜にしそうな、強烈な魅惑はモデルをやめても健在だ。

「なんか、高須くん、隠し事でもありそうな感じなんだけどなぁ?、独り言をブツブツ言ってると、
正直キモイよ。大丈夫?」

竜児は、亜美に、「俺は、何でもないって」とだけいい、『いらん、いらん』の意思表示のつもりで、
手をぶらぶらと振ってみせた。
亜美は、

「そう? 何か、高須くん、今週末に、やらなきゃならないことを抱えているような感じがしてさぁ。
でも、それを隠して、無理をしようとしているじゃないのぉ?」

と、「ふふん…」と、鼻先で笑うように囁き、髪をかき上げながら、立ち上がる。図星をさされて、
竜児は、どきりとする。
さらに、亜美は、

「高須くんの、そうした無理を承知で頑張るところ、あたしは嫌いじゃないよ。でも、ほどほどに
しておかないと、それがいずれ高須くんにとって致命傷になるんじゃないかなぁ」

竜児も、黙ってはいない。

「じゃ、何で、お前は、俺んちに泊まるとか、面倒なことを言い出すんだ? 俺が無理を承知で
頑張っていることが分かっているのなら、そんなことは言い出さないはずだ。矛盾してるぜ」

「矛盾? 矛盾なんかしてないわよ。あたしが高須くんの家にお泊まりするのは、高須くんを
サポートするため。たとえ微力であってもね。これは信じてほしいわね」

そう言いながらも、亜美は、素で持っている意地の悪そうな笑みを浮かべ、まだ座っている竜児の
手を引いて、立たせようとする。
その刹那、

「ただ、あたしは、高須くんみたいにはなれないから…」


「川嶋?」

謎めいた言葉とともに亜美の表情から笑みが消え、その表情が、硬直したように竜児には感じられた。
だが、竜児の視線を急に意識して、

「やだ、高須くん、そんなに見つめないでよ。恥ずかしい」

と、頬を両手で押さえながら、天使のように明るい笑顔。

「麻耶は今回の作戦に賭けているし、奈々子や、あたしも彼女のサポートをするのは、ちょっと
面白そうだし、それに高須くんが加勢してくれれば、鬼に金棒。
あ、高須くんは鬼みたいな顔してるもんね」

竜児が、『鬼』という文言に苦虫を噛み潰したような反応を示すと、「ごっめ?ん、怒った?」と、
ころころと声をあげて笑った。
店の出口付近では、麻耶と奈々子が既に待機しており、麻耶が「2人とも、おっそ?い!!」と、
抗議の声を上げている。
竜児は、亜美に手を引かれて立ち上がり、?無理は承知さ…。弁当作りも、麻耶のサポートも、
レポートの作成も。全力でやれば何とかなるかもしれない?と、自問自答する。
何よりも木原麻耶には借りがあった。


***
地域密着型スーパーであるスーパーかのう屋は、新鮮で品揃えが豊富なことで知られている。
その店内フロアを、カートを押しながら、竜児と亜美、麻耶、奈々子は、弁当に使う食材を物色
していた。

「なぁ、どんな弁当を作りたいんだ?」

麻耶は、「う?ん」と、言いながら、唇に左手の人差し指をあてがって、

「恥ずかしながら、イメージが貧困でさ、どんなお弁当がいいか、分からないんだよね。もう、
高須くんのセンスにすがるしかないかなぁ、と思ってるんだけど、ダメ?」

上目遣いで、竜児を見上げる。弁当作りを竜児に丸投げするつもりらしい。
しかし、高須竜児は、頼まれるとイヤとは言えない性分の男だ。「木原、ちっとは考えろ」とは、
言うものの、結局は、依頼者の期待に応えようとする。

「弁当は、三段重ねの重箱に入れることにしよう。一番下の三の重には、餅米と黒豆のおこわ、
真ん中の二の重には肉料理を入れよう。宮崎県産の地鶏の腿肉がうまそうだから、これを赤ワイン
で煮込んだ鶏のぶどう酒煮をメインにして、彩りにブロッコリやニンジンのグラッセ、ポテトサラダ、
オクラの輪切り、それと、鮮やかな黄色が欲しいから卵焼きも添えよう」

そう言いながら、竜児は必要な食材をカートに放り込んでいく。

「一番上の一の重はどうするの?」

麻耶の問いに、竜児は、「おいおい、木原、お前が作ったことにする弁当なんだぜ」
と、苦笑しながら、



「そうだな、一の重は魚介類になるだろう。お、ブラックタイガーじゃなくて、本物の車海老だ。
こいつは鬼殻焼きにしよう。それと、彩りがいいから、この小鯛なんか塩焼きにしたいけど、
小骨が多くて食べにくいからパスだな。何か代わりになるやつは…」

う?ん、と呻吟しながら、竜児は魚売り場の品々を吟味する。

「おっと、カジキマグロの切り身が良さそうだ。刺身では無理でも、竜田揚げにするといい。
こいつの竜田揚げは、下手な鶏肉よりも美味いからな。それと、厚揚げをだし汁で煮染めたものを
添える」

「あとは野菜の煮物が欲しいところだな。国内産の筍の水煮があるから、これとゴボウとニンジン
と大根の薄味の煮物を添えることにしよう」

竜児は、麻耶に向かって、「ざっとこんなところだけれど、どうかな?」と、いうと、麻耶は、

「もう、お任せ、文句なし。女の出る幕がないね」

と、言って、恥ずかしそうに小鼻を掻いた。

竜児は、「よせやい、俺だって、素人なんだぜ」と、謙遜する。しかし、

「高須くん、自分を、素人、素人って、凡人にはどんだけイヤミなんだか…」

背後から、いつの間にか、亜美が忍び寄っていた。無遠慮な亜美の一言に、さすがの竜児もカチン
と来る。

「川嶋ぁ、お前の、その一言の方が、よっぽどイヤミだぞ」

「そうかしら? 高須くんは、言葉では自分を『素人』と言っておきながら、本心では、
『半端なプロにも負けない』位の自負があるんでしょ? 実力を控え目に言うのは、一見、
美徳なようでいて、すっごくウザいんですけど」

つうーっと、白く細い指を竜児の頬に伸ばし、

「それに、ずいぶん、熱心なのね。日頃、亜美ちゃんには冷たいくせにぃ」

白磁のような頬を竜児の頬にすり寄せる。

「バカ、人目がある、離れろ!」

その抗議よりも一瞬先に、滑るように竜児の側から離れ、髪をかき上げながら、意地悪い笑みを
竜児に向けてくる。

「何なんだよ、今日のお前は変だぞ」

亜美は、竜児から視線を逸らし、髪をいじりながら、ふてくされたように「別に…」と、
言ってから、謎めいた一言。

「全力疾走ってのは、傍目ではかっこいいのかもしれないけど、間近で見ると、結構、痛いよね」

白い頬を、再び、竜児に近づけて、


「高須くんは、『手を抜く』ってことをおぼえた方がいいかもね。特に、今回の場合はぁ?」

全てを見透かすかのような、大きな瞳で竜児の顔をじっと見る。

「お前、やっぱおかしいぞ。電車の中や、スドバで話し始めていた時は、木原へ協力するように、
えらく熱心に俺を叱咤していたのに、何で、今になって、それとは反対みたいなことを
言い出すんだ?」

亜美は、額に人差し指を当てて、「う?ん」と、一瞬考えるようなそぶりをした後、
「亜美ちゃん、わかんな?い」と、無邪気を装った笑顔で、竜児の質問をはぐらかした。

そうしたやりとりを、ちょっと離れたところから見ていた麻耶と奈々子が、
「お?、お?、お熱いこって」と、冷やかしている。
亜美は、笑顔で、2人に、「は?い」と、軽く手を振り、

「いや?、高須くんってさ、祐作よりもいじり甲斐があるっていうかぁ、からかうと面白くてぇ」

と言って、あはは、と笑う。

「まるおをいじるのは私なんだから、亜美は幼なじみでも手出しは無用だからね」

という麻耶の突っ込みに対し、亜美は、「分かってるって」と、にやりとして、

「ねぇねぇ、今晩、高須くんちでお弁当の下ごしらえするとき、どんなエプロンを持っていく?
あたしは、黒で、前に大きなポケットが付いたシンプルな奴ぅ?」

と、言って、話題を、竜児や祐作から切り替えた。それに応じて、麻耶は「あたしは、白で、
刺繍がしてある奴かな?」、奈々子は「ピンクで、フリルが付いた奴」というと、亜美は、

「奈々子のは、イメージ通りだねぇ、いや、想像しただけで似合ってる様が目に浮かぶ…」

といって、本当に目をつぶって、半ば笑いながら瞑想するような仕草をするのだ。

「見ている分には飽きねぇな、川嶋は…」

これほど、態度や表情や仕草をめまぐるしく変化させる女もそうは居まい。

そういえば、『手抜き』なんていうきわどい台詞は、麻耶には聞かれなかったのか? と竜児は、
思った。
もっとも聞かれたところで、おそらく亜美は、『高須くんは、亜美ちゃんには、こ?んなことして
くれないからぁ、亜美ちゃん、ちょっと妬けちゃう。だから、手を抜け、とか言っちゃったぁ』
とかで麻耶たちを煙に巻くことだろう。
人心を掌握する術に長けた女、それが川嶋亜美だ。


***
第一志望の有名私大には合格できず、第二志望の受験も失敗に終わった能登久光は、『三流大学』と
自嘲する近隣の私大に通学する羽目になっていた。
講義のレベルも学生相応であり、はっきり言って面白くない。そこで、大学生という身分を
とりあえずキープしたまま、来年はもう一度、第一志望を受験する腹づもりであった。

いわゆる『仮面浪人』である。
受験に失敗した負け組であるという自覚が、能登を憂鬱にさせる。
家にいても受験勉強には身が入らず、気分転換のつもりで、町中をぶらついていたところ、
竜児と亜美の姿を認めた。

「ああ、高須の奴、亜美たんと出来ているってのは、本当だったんだなぁ…」

それに、2人とも第一志望に合格しているし…、ということを思い出し、鬱な気分に拍車がかかる。
さらに…、

「あ、何で、木原と香椎が高須と一緒なんだぁ」

2人の周囲に麻耶と奈々子の姿も認め、能登の思考は混乱する。

「高須の奴、亜美たんだけじゃ飽きたらず、木原や香椎まで…、ハーレムかよ!」

‐高須ばっかり、何で? 特に、木原麻耶が竜児と一緒なのが解せなかった。

「奴ら、いったいどういう関係なんだ?」

‐確かめてやる! とばかりに、能登は人混みに紛れて、竜児たちを尾行する。
4人がスーパーかのう屋に入ったことを確認して、能登は店の外で待つことにした。
店内に入って竜児たちの行動を見張るのも一興だが、店の中では、能登の尾行が竜児たちに
気付かれるおそれがある。
自炊でもしているのなら話は別だが、両親が健在で、文字通り『上げ膳据え膳』で日常を送っている
能登にとって、スーパーかのう屋は、疎遠な場所であった。そうした不案内な場所で、
竜児たちを尾行するのは難しい。

能登は、出入り口付近に設けられた自動販売機のコーナーのベンチに座って待つことにした。
ここは、出入り口から一段引っ込んだところにあって、出入りする客の注意が及びにくく、
逆にこちらからは、出入り、特に店から出ていく者を、当人に気取られずに注視できるという点でも
好都合だった。
竜児たちが入店してから40分程度が経過した頃、通学用のショルダーバッグを肩に掛けた竜児と
亜美が現れた。2人は、竜児手製のエコバッグを持っており、竜児がエコバッグの片側の取っ手を、
亜美がもう片方の取っ手を持って、1つのバッグを協力して運んでいる。
バッグは食材で膨らんでおり、かなり重そうだ。この2人に麻耶と奈々子が続く。
麻耶と奈々子は手ぶらだ。
竜児と亜美が先導するように歩き出した。それに従い、麻耶と奈々子もついていく。
能登も、4人とは十分な距離をとって尾行していった。
大橋を渡り、着いたところは、竜児が住む木造借家だった。
一同は、2階にある高須家に入り込み、約20分後に出てきた。出てきたのは、亜美、麻耶、奈々子
の美女トリオ。
竜児は、買ってきた食材の処理でもしているんだろう、と、能登は推測した。
その美女トリオの1人である亜美が、「じゃぁ、お泊まりの用意をしてぇ、またここに集合ぉ!」
と言うと、他の2人が「おーっ!」と、右手の拳を突き上げて応ずる様が確認できた。

「何だ? お泊まりって。高須の家にこの3人が泊まるのか? 泊まりがけでホームパーティー? 
何がどうなっている?」

能登の心には、嫉妬と羨望と猜疑心が芽生えてくる。
‐ちくしょう、一体何が行われようとしていやがる。


「こいつは、ちょっと無視できない状況だよな…」

と、能登は、楽しそうにはしゃいでいる3人を尻目に、そっとその場を離れるのだった。


***
水を得た魚の如く。陳腐な言い方だが、台所での高須竜児の立ち居振る舞いほど、この常套句が
当てはまるものはない。
時間がかかる鶏のぶどう酒煮は、タマネギなどの香味野菜を刻んで炒め、鶏のもも肉をソテーし、
赤ワインを注いで、煮詰める段階まで、映画のコマ落としを見るようであった。
同時に、車エビの下ごしらえをして、後は焼くばかりにして、
次には、煮物に使う野菜類の下ごしらえ、ゴボウなどは、十分に洗った後、表層の皮を剥いて、
斜切りに、大根や人参も適当な大きさに切りそろえ、だし汁に放り込んで、煮始める。
人参は、肉料理の付け合わせにも使うので、こちらは面取りして、塩と砂糖とバターを入れた湯で
煮て、グラッセにする。

「すごぉ?い、手八丁っていうか、千手観音みたいに何本も腕があって、それが同時に動いている
みたい」

奈々子が竜児の台所での動きを的確に表現する。

「でしょう? あたしはとてもまねできないから、皿を洗ったりとか、野菜を洗うのが精々。
でも、見てるだけでも参考にはなるね」

「おい、おい、お前だって、最初の頃は、台所に立つことすら嫌がったじゃねぇか」

と、いう竜児の突っ込みに、亜美は、「そうだったっけか?」と、無垢を装う笑顔ですっとぼける。
さらに、鶏を煮るために使った赤ワインの残りをめざとく見つけ、

「ねぇねぇ、高須くん、これ飲んじゃってもいいでしょ?」

と、チワワ目でおねだりする。しかし、竜児は、間髪入れず「却下」の一言。
亜美が舌打ちして抗議すると、竜児は、調理の手を休めることなく、

「だって、お前、酒癖悪いからなぁ」

の一言で、それ以上の、亜美の不平、反論を封じた。
頬を膨らませて、不満げな亜美は、奈々子に「まぁまぁ」となだめられる。

「海老だけは、今夜焼くが、カジキマグロの竜田揚げは、明日の早朝に揚げた方がいいだろう。その方が美味い」

そして、炊飯器に、研いだ餅米と適量の水、それに煮た黒豆をいれ、タイマーをセットする。
次いで、煮物の出来をあらかた確認して、今夜の下ごしらえは完了とした。

「明日は、朝、5時ぐらいから揚げ物等を始めて、弁当を詰める。7時までにここを引き払うことが
できれば、上出来だ。と、いうことで、今夜はここまで」

時刻は11時。ほぼ予定通り。
竜児は、不要な器具を片づけ、エプロンを脱いだ。

美女トリオは、泰子の寝室に布団を敷いて、寝泊まりすることになっている。
畳敷きの部屋に通された3人は、「なんか修学旅行思い出すね」「うんうん、畳敷きの部屋で、
こうしてみんなで枕並べるのって、そうないことだからねぇ」と、口々に言い合っている。
寝間着が、揃いも揃って、スウェットの上下とか、大橋高校のジャージとか、色気がないのも、
修学旅行めいていた。

「でも、あの修学旅行は、あたし的には黒歴史…」

と、亜美は、罰が悪そうに言う。

「そんなことないって、櫛枝とは喧嘩になったけど、今となっては、あれも青春の一こまだって」

奈々子がなだめると、麻耶が、

「悪いのは、能登、それでいいじゃん」

と、間髪入れずに言う。

「能登、嫌われているね。なんでかな?」

「カワウソみたいなんだよね、あいつの顔。とにかくキモイ」

と、麻耶は、寒気がするとばかりに、両腕を抱えて、震えてみせる。

「まぁ、ウザいことは確かだよね」

と、奈々子。

「顔か? 基準は? それだったら、あたしが言うのは何だけど、高須くんだって、相当アレだよ。
でも、あたしとか、実乃梨ちゃんとか、タイガーとか、気にしてなかったじゃん」

と言い、「まじで、何なんだろうね?」と、亜美は首を傾げる。

「まぁ、高須くんは特殊だから。あれだけ万能だったら、多少不細工でも、マニアには受けるって」

との麻耶の問題発言に、亜美は、あはは、と笑いながら「露骨に不細工とか、マニアとか、ゆーな!」
と、抗議する。

「まぁ、不細工とかマニアというのは言い過ぎだったけど、なんていうかなぁ、高須くんや、
まるおには、母性本能をくすぐるかわいげがあるけど、能登にはない感じがするんだよね」

の、麻耶に対して、

「ああ、それ、私も感じる。まるおとか、いじって楽しいっていうのは、かわいげがあるからなんだ
よね。能登なんか、そういうかわいげがなくて、逆になんか、構ってやりたくない、って思っちゃう
ウザさがある」

奈々子も容赦がない。

「なんかさー、私、かわいげのある男って、実はマザコンなんじゃないかって、
思うときがあるんだよね」


麻耶の意外な発言に、奈々子が「えー、どういうこと?」と、身を乗り出してきた。

「親戚に、決してイケメンじゃないけど、なんか、こう気になる人がいるんだよね。あ、誤解がない
ように言っておくけど、その人はもう、いい年をしたおじさん。もちろん、妻子持ち」

「なんだ…」

奈々子が、つまらなそうに零すが、麻耶は、

「だけど、すっげー、かわいげがあるんだよね。なんか、構いたくなるような。
なんなんだろう、って思っていたんだけど、その人と、その人のお母さんとの関係を見て、
なんか分かったような気がしたんだよね」

「どんなことが分かったの?」

亜美が、崩していた脚を正して、麻耶に向き直る。

「う?んとね、その人は、末っ子で、お母さんにものすごく大事にされてきたらしいの。
それで、その人も、お母さんのことを大事に思っている。典型的なマザコンなんだよね」

「マザコンっていうと、なんか嫌な感じだよね…」

奈々子は、ちょっとだけ眉をひそめる。

「マザコンのイメージは、世間的にはよくないけど、要は、その人が母親に大事にされる存在で
あって、かつ、その人が母親を大事にする関係なわけじゃない? これは、その人が、母親というか、
女から見て価値ある存在だということだし、その人も母親、ひいては女の人を大事にする存在って
ことなんじゃないかな」

「ああ、それはいえるかもねー」

と、亜美。

「ええ? 何が、何が?」

と言う奈々子に、亜美は、

「なんかさー、生まれて初めて接する他者が母親なわけでしょ。その母親に大事にされるのが、
他者に愛される最低限の条件じゃないかな? って思うんだよね。
逆に、母親にすら愛されなかった存在が、他者に愛されるわけがないとか…。
そんな気がする」

「うっわぁ?、残酷ぅ!」

と、奈々子は、顔をちょっとしかめた。

「でも、自然界は、もっと残酷なんじゃない? 母親に見捨てられた個体は、
絶対に生き残れないわけだし…。その点、人間は法律をはじめとする社会規範とか倫理とかがあって、
子捨て・子殺しは御法度だから、母親が愛せない子供でも成長しちゃうんじゃないかな?」



麻耶が、「さっすが、法学部生!」とヨイショしてから、

「で、能登なんだけどさぁ、あいつの家庭の事情なんて知ったこっちゃないし、
知りたくもないんだけど、あいつ、母親からはそれほど好かれていないんじゃないかな?
って感じはあるよね。その点は、まぁ、かわいそうなんだろうけど。
でも、キモイもんはキモイんだよね」

能登に矛先を向け、さらに、

「でもさぁ、能登自身は母親を憎からず思っているようだったら、さらにキモイよね。
一方通行のマザコンっていうか、こっちは想像しただけで、もう結構っていうか…」

容赦なく切って捨てる。

「マザコンでも片想いのマザコンは、不健全ていうわけね。
こっちは、麻耶が定義しているマザコンじゃないんだろうけどさ」

と、奈々子も納得したように言う。

「そういえば、高須くんなんだけどさぁ、お母さんの泰子さんっていう人が高須くんのことを
すっごく大事にしていて、高須くんも泰子さんのことをすっごく大事にしていたんだよね。
本人もマザコンだって自認しているみたいだし、やっぱ、健全なマザコン男は愛されるってのは、
正解かもね」

亜美は、思い出したように言う。「ただ、一時、進学問題で2人はもめたみたいだけどね…」と、
言いかけて、あわてて口をつぐんだ。

麻耶は、亜美が言いかけたことには気付かず。「いやいや、愛しているのは亜美だけだから…」と、
お約束の突っ込みをして、

「母親に愛されたという自覚というか自負のあるなしってのも大きいよね。誰かに愛されたってのは、
当人が自身の存在価値を自覚することにもなるだろうから、そういう人は、出世っつーか、
大物になるよね。ほら、暴君ネロとか、ヒットラーとか…」

「あ?っ、それ例えが悪すぎ」

との亜美や奈々子の批判にもめげず、

「まぁ、ワルでも、世界史に残るほどの奴なら、大したもんだって!」

と、結局は開き直る。

それぞれの発言に対して突っ込みを入れたり、あはは、と笑いながら、女のおしゃべりは、
際限なく続くかと思われたが、亜美が時計を見て、

「あ、もう12時回ってるじゃん」

驚いたように言う。一方で、麻耶と奈々子は、「え?っ、まだ宵の口だよ」と、不平を漏らす。

「でも、明日は5時起きだし、その頃には泰子さんが帰ってきて、この部屋で寝るから、
あたしたちは強制的に起こされちゃうよ」


「そっか、だったら寝るか、そういや睡眠不足はお肌の大敵だってか?」

「そゆことだねぇ…」

ようやく寝る準備を始めた2人を前に、亜美は、「ちょっと…」といって、部屋を出ようとした。

「何、何! 高須くんのところへ行くの?」

亜美が、ちょっと恥ずかしそうに軽く頷くと、麻耶と奈々子は、「きゃー!」と歓声を上げた。

「まぁ、ちょっと様子を見てくるだけ。2人とも、先に寝ててよ」

「するの?」

と露骨に訊いてくる麻耶に対しては、

「ノーコメント!」

と、憮然として言い切って、亜美は部屋から出て、襖を閉めた。

襖越しに麻耶と奈々子の「ノーコメントだってよ」「後で追求してやろう」という声が聞こえてくる。
後で2人が何かとうるさいだろう。

「ま、いいか…」

それよりも、気になるのは今の竜児の状態だ。
竜児の部屋からは、明かりが漏れていた。

「高須くん、起きてる?」

ノックしたが返事がない。部屋に入ってみると、竜児は、机に突っ伏して居眠りをしていた。
顔の下には書きかけの解析学のレポートと、亜美には意味不明な記号が羅列された解析学の専門書。

「やっぱりね…」

亜美は、台所へ行き、冷蔵庫から作り置きしてあるアイスティーのボトルを取り出し、
ボトルの中身を2つのグラスに注ぐ。

「眠気覚ましには、ちょうどいいか…。あたしもちょっとのどが渇いたし」

そのグラスを盆に載せ、竜児のところへ持っていく。

「高須くん、ほい、アイスティー」

といって、グラスを竜児の頬に押しつける。
竜児は、「う?ん…」とか言って、ちょっとむずかったが、机の上のデジタル時計の表示を見て、
びっくりしたように上体を起こした。

「しまった、俺、寝てた?」



亜美は、「うん」とだけ答えて、机の上にグラスを置く。

「すまん、川嶋」

亜美は、そんな竜児をあきれたように見据えて、

「スドバで、高須くんがキョドっているのを見て、高須くんが自分のスケジュールを考えずに、
明日、ていうか、もう今日か、のお弁当づくりと、デートのサポートを安請け合いしちゃったのが、
あたしにもわかっちゃたからねぇ。で、何? その書きかけのは」

竜児のベッドに腰掛け、膝に盆を乗せた状態で、亜美はグラスからアイスティーをすする。

「解析学のレポート。月曜日に提出する奴」

亜美は、アイスティーの残りを飲み干し、

「できるの? 解析学って、たしか必修科目でしょ? 提出できなかったら、ダメージでかいよね」

竜児は、痛いところを突かれた、とばかりに顔をしかめながら、「うん」と、力なく言った。

「だったら、何で、断らないのさぁ! 豪華なお弁当作って、さらには麻耶たちのサポートで、
丸々1日つぶれるんだよ。そんなことするより、レポート書いた方がいいって!」

「いや、寝ぼけ眼で、お前の説明聞き流して、適当に引き受けた俺が悪いんだって。
一度、引き受けたら、完遂しなきゃ。それに俺は…」

亜美は、腕を組み、険しい表情で竜児の顔をにらみつけた。

「それに、俺は? 何なのよ。そんな意地張って、元も子もなくなったらどうするの。
一度、引き受けたって、ちゃんと事情を説明すれば、麻耶だって分かってくれるって。
だから、明日は、お弁当づくりだけやったら、サポートは、あたしと奈々子に任せて、
高須くんは午前中ゆっくり休んで、午後は、そのレポートの仕上げに充てたほうがいいよ」

しかし、竜児は、眠気を吹き飛ばすつもりで、自分の頬を両手ではたいてから、

「いや、もうすぐ書き終わるから、明日は俺もサポートに回る」

と、力なく言った。どうみても、相当参っている。

「だから、そんなにバテた状態じゃ、ダメだって。もう、今日は休んで、
サポートもなしにした方がいいよ」

「いや、これしきでバテる俺が不甲斐ないのさ。数学科は実験がないけど、物理科や化学科は
毎週実験があって、そのレポート書くだけで大変だっていう。それに比べりゃ…」

亜美は、「へぇ?、そう?」と、竜児に冷笑めいた一瞥を浴びせると、ベッドの下に手を突っ込んだ。

「か、川嶋、待て!」

亜美は、凶暴チワワの本性むき出しで、



「もう、遅いって!」

と、吐き捨て、ベッドの下から書類の束を引きずり出し、それを床へ無造作に投げ出した。

「泰子さんとの約束で、バイトは禁止なんじゃなかったっけ? でも、これは何?」

竜児は、「うっ」と、息を飲み、亜美と、書類の束を直視できずに目をそらす。

「大学受験生向け数学の通信添削の答案だよね? これ」

その書類の束の一番上に添付されている『発注書』を手にとって、

「期限が、今度の水曜日じゃん。今やってるレポート書いても、これがある。むちゃくちゃだよ」

亜美は、その紙片を、目をそらしている竜児の目の前でヒラヒラと翻し、

「高須くんは、単位取得のために、かなり無理なスケジュールを組んでるよね? 朝から夕方まで
講義がびっちりでさぁ。しかも、家事全般もやった上でだよ。
こんなバイトなんかする余力はないって。いくら高須くんでも限界があるよ」

竜児は、口をへの字に曲げたまま、無言だ。

「奨学金と泰子さんの稼ぎで、学費は足りているじゃん。なのに、何でバイトなんかするの?」

竜児は、それには答えず、「何で、分かった?」とだけ、ふてくされたように言った。

「質問しているのは、あたしなんだけどなぁ。まぁいいか。
なんかね?、あたしがアポなしでここ来ると、部屋に入れてもらえる前に、いつもあわててドタバタ
してた感じがしてさ。で、先日、ベッドの下を調べさせてもらったら、分かっちゃった。
で、どうなの? 何でバイトなんかするのよ」

「そ、それはだな、ノ、ノートパソコンが欲しいなぁ、と思って、そのためなんだ」

竜児は、視線を亜美からそらしたまま、どもりながら、そう答えた。

「ふ?ん、ノートなら、この前、OSなしの奴を中古で買って、Open Solarisだっけか?
あたしはよく知らないけど、それインストールして使い始めたばっかじゃん」

そういって、机の脇に置いてあるB5サイズのノートパソコンを指さす。

「高須くんは、そのノートを『すげぇ掘り出し物。フリーで公開されているOS入れれば、
十分使える』とか言って、ご満悦だったよね。この上、またノート買うの?
言ってることに全然、説得力ねぇって」

亜美は、竜児の脇に立ち、そっぽを向いている竜児の首根っこをつかんで、
強引にその向きを変える。

「いてて、何すんだ!」

竜児の抗議は無視して、亜美は若干紅潮した頬を竜児の顔に近づけ、
琥珀色の瞳で竜児の目を見据える。


「白状しなさいよ! 高須くんがバイトをする理由を。その理由は、高須くんが無理して今のうちに
単位を取得しようとしていることとも関係があるんでしょ?」

「関係ねぇって、いてて、首の筋がおかしくなっちまう、
いや、本当に、遊ぶための金が欲しかったから、バイトしているだけだって、
だから、か、勘弁してくれぇ」

亜美は、「うそつき!」と、鋭く言い放ち、竜児の首根っこをガクガクと左右に揺さぶった。

「あんたが遊ぶ金欲しさなんて理由だけでバイトするなんて、おかしいじゃない?
高須くんはそういう人じゃない。本当の理由は別にあるんでしょ?」

竜児は、「べ、別に理由なんかねぇよ」と、苦痛で顔を歪めながら抗弁する。

「あ、そう、正直に言わないのなら、このことは泰子さんに報告するだけなんだけどぉ」

亜美の脅迫に、竜児はあわてて、

「川嶋、わかった、それだけは勘弁してくれ。言う、白状するから。
それと、これ以上、俺の首筋を痛めつけないでくれぇ」

亜美は、竜児の首根っこを押さえていた手を離し、琥珀色の目をちょっと眇めて、竜児を見る。
その視線を意識しながら、竜児は、

「し、資格試験の受験勉強のための学費稼ぎなんだ…。単位取得もそれに関係がある。
今のうちに単位と学費を稼いで、来年以降に受験勉強を始めるつもりだった…」

と、しどろもどろに答える。
亜美は、「ああ、やっぱり…」というように、にやりとした。

「最初から、そう言えばいいのよ。本当にバカなんだから。で、どんな資格なの?」

「まだ、はっきり決めてねぇけど、弁理士試験とか、考えている…」

「え?っ、弁理士試験? あの、すんげ?難しい奴? マジなの?」

亜美が、目を丸くしているのを見て、竜児は「いや、まだ確定じゃないって…」と、小声で言い、
「そうだよなぁ、俺なんかが受けちゃいけない試験なのかもな…」と、鬱になる。

「あれって、司法試験の次ぐらいに難しいんだよね。
法学部生もそのOBも、毎年かなり受けているけど、合格するのはほんの数人。
合格率は5%位だったかな?」

とにかく困難な資格試験であることは確かだ。そのため、「現状でも相当な無理をしているのに、
これ以上無茶なことはやめろ」、と、亜美に説教されるものと、竜児は覚悟した。

しかし、亜美は、




「ただし、弁護士はもう飽和状態だけど、弁理士は未だそうでもないから、法文系の学生も、
最近は司法試験ではなく、弁理士試験狙いが結構いるしね。
何しろ、司法試験はロースクール(法科大学院)出ないと受験すらできなくなるけど、
弁理士試験はそうじゃないから…」

意外にも肯定的な態度。しかも、やたらと詳しい…。

「何よりも、理系も文系も挑戦できる法律系の資格っていうのがいいよね。
社会的なステータスも高いしさぁ」

亜美は、右手の人差し指をこめかみにあてがい、瞑目して、「う?ん」と、しばし考えるような
素振りを見せた後、大きな瞳で竜児を見る。

「高須くんが受験したいなら、それでいいんじゃない? 正直、ものすごく大変だとは思うけど…。
あたしも、法学部生として、高須くんをサポートできるかもしれないし」

そして、亜美は、「ただし…」と、前置きして、

「あたしも受験する。高須くんを応援するだけじゃつまんないし、何よりも法律のド素人である
高須くんに一泡吹かせる、またとない機会でもあるし…」

と、わざと意地悪く笑ってみせた。

「それが狙いか?」

竜児は、痛めつけられていた首筋を自分でマッサージしながら、苦笑いすると、亜美は、

「高須くんて、バカ? あたしは、高須くんと一緒に頑張れるのがうれしいのさ。
それを察することができないんじゃ、やっぱ、鈍いね、あんたは」

冷笑し、白磁のような顔を竜児の顔に近づけて、

「この美人でかわいい亜美ちゃんが、一緒に勉強してやるんだよ。もうちょっと喜んでほしいな。
亜美ちゃんが居れば、弁理士試験だって、司法試験だって、パラダイスなんじゃない?」

そのまま目を閉じて、竜児にキスをおねだり。
竜児も、「そうだな…」と、つぶやいて、亜美と唇を重ねる。

しばしの沈黙後、唇を離した亜美は、ちょっと深呼吸。そして、目を開けた。

「そういうことなら、バイトの件は、泰子さんには秘密にしとく。
つーか、バイトなんかやめるか、ノルマをうんと少なくしても大丈夫なんじゃないかな? 
多分、高須くんが考えているほど、弁理士試験の受験勉強にお金は必要ないよ。
法学部には弁理士試験対策のサークルがあるらしくって、ここで勉強すれば、多分、
お金はかからない…」

そして、もう一度、竜児に顔を近づけて、

「だから、無理はしないで。もっと、楽な方法があるかもしれないのに、わざわざ苦しい道のりを行くことはないわ…」



と言い、今度は、竜児と抱き合い、その首筋をやさしく撫でる。

「さっきは、思いっきり高須くんの首根っこを掴んじゃってごめん…。
でも、何でもかんでも自分で背負い込もうとする高須くんを見ていられなくなったのも事実。
もう、あんまり無理はして欲しくない。だから、明日は、サポートは奈々子とあたしに任せて、
高須くんはゆっくり休んで…」

亜美が愛用しているトワレの香が竜児の鼻腔をくすぐる。
竜児にとって、もはや馴染みとなった花のような香り。

「分かった、明日は、無理せずに、ここでゆっくりしている…」

亜美は、「うん…」とだけ囁くように答えた。


***
「あれ?」

机の上に置いてある竜児の携帯が振動したことに亜美は気付いた。

「こんな時間に誰だろうね?」

竜児は、画面を見て、「能登からだ…」というと、亜美は、

「え?っ、さっき、女の子たちで、噂してたんだよね。そのせいかな?
ほら、言霊ってあるらしいし」

ちょっと顔をしかめて言った。その表情から、『噂』とやらが芳しいものではないことを竜児は
悟った。
竜児は、通話ボタンを押して、話しかける。

「能登か?」

『高須か? 久しぶりだな』

竜児は時計を見た、時刻は午前1時ちょっと前。

「こんな時間に、わざわざ何だ? 懐かしさから電話するには遅すぎる時間じゃねぇか?」

『じゃ、手短に言う。今、お前の家に、木原と、香椎と、亜美たんが来て居るんだろ?
いや、こっちは分かっているんだ。何で、あの3人が一緒なんだ? 亜美たんだけじゃなく、
木原や香椎までいるのは、どういうことだ? 」

能登の声に混じって、自動車が走り去る音が聞こえてくる。この音は、家のすぐ近くにある車道の
騒音だな、と竜児は判断した。

「お前、俺の家を張っているのか?」



『ああ、悪いがそうさせてもらっている。夕方、スーパーかのう屋で、お前たちを見かけたのさ。
どっさりと食材を買い込んでいるところをな。それで、ちょっと尾行をさせてもらった。
そうしたら、3人娘たちが、高須の家にお泊まりする! とか、大声で言ってるんだ、
誰だって気になるさ』

竜児は、携帯のマイクロフォンを手で塞ぎ、「おい、奴は、お前らがここに居ることを知ってるぞ」
と亜美に小声で耳打ちすると、亜美は、口を手で押さえて表情をこわばらせた。

『で、大量の食材をどうするんだ? 夜っぴてホームパーティーか? ハーレム状態での
パーティーとはうらやましいな』

電話の能登の声には、嫉妬と怒りがにじみ出ているように思え、竜児は口中が苦々しくなるような
気がした。

「そんなんじゃない。ただの高須流料理術の勉強会だ」

『何だそりゃ?』

「行楽用の、ちょっと豪華な弁当を一から作るプロセスを、3人の女子に公開する、
それだけのことだ」

『じゃ、何で、泊まり込みにする必要がある?』

「料理をしたことがなさそうなお前には分からないだろうが、弁当は、前の晩から食材を処理して
おく必要があるんだよ。彼女らは、その過程もつぶさに見ておきたいから、泊まり込みになったのさ」

『そういうことか…』

「そういうことだ、だから、お前が期待するようなことは何もない」

電話口では、しばしの沈黙。

『さっき、行楽用の弁当と言ったな…』

竜児は、しまった、と思ったが、努めて平静を装った。

「ああ、それがどうした?」

『で、あれば、明日は、その弁当を持って、どこかに出かけるんだな?』

ここは、否認して、すっとぼけるに限る。

「いや、あくまでも、作ってみるだけだ。試作した弁当は、彼女らがタッパー等に入れて自宅に
持って帰る。それだけのことさ」

電話口では、またも、しばしの沈黙。

『まぁ、お前の今の言葉が真実かどうかは、明日になれば分かる。
俺は、出かけるお前らの後についていくだけだ。じゃ、夜分に邪魔したな。
天気予報では、明日は行楽日和だそうだ。お互いに楽しみだな』



そう言って、能登からの電話は切れた。

「ねぇ、どうなったの?」

亜美が不安そうに尋ねてくる。

「まずいことになった…。能登の奴、明日は俺たちをストーキングするつもりだ」

亜美は、美貌を歪めて、「え?、キモイ!」と、吐き捨てた。

「ただし、狙いは、お前や香椎じゃなくて、木原だろうな。修学旅行でのトラブルのしこりが
解消していないから、その報復のつもりか、あるいは、未だに未練があるか、だな…」

「どうするの?」

「こうなれば仕方がない、俺も、明日はサポートに回る。川嶋と香椎だけでは万が一のときが
ヤバイだろ? それと、能登と冷静に話し合えるのは、俺たちの中で、多分、俺だけだ」

亜美は、先ほどの、麻耶と奈々子との会話で、能登が彼女らに蛇蝎の如く嫌われていることを
思い出し、「そうだねぇ…」と言った。

「というわけで、俺は、徹夜してでもこのレポートを仕上げて、明日は弁当作って、
木原のサポートに回る。そのため、明日は今日以上に睡眠不足で朦朧としているかもしれねぇ。
そのときは、川嶋、ひっぱたいてもいいから俺を正気に戻してくれ」

亜美は、「う?ん…」と、眉をひそめてから、

「分かったよ、あたしは、あんたをサポートするつもりでここに来たんだ。高須くんが望むなら、
何だってするよ」

「ありがとうよ、川嶋、頼りにしてるぜ」

「さて、あたしは、もう遅いから寝るね。高須くんも、少しでも仮眠とってよ。でないともたないよ」

部屋を出ていく亜美に、竜児は、「おう」とだけ答えて、机に座り直した。
時刻は1時20分。5時までにはレポートを仕上げたかった。


***
レポートは、結局、明け方の4時過ぎまでかかって、ようやく書き終えた。
このまま少しは仮眠がとれると思ったが、いつもは5時頃に帰宅するはずの泰子が、4時過ぎに
帰ってきてしまった。泰子の部屋には、亜美たちがいる。
やむなく竜児は、泰子を自分の部屋に寝かせた。結局、睡眠時間はゼロ。
ふらつく頭に渇を入れるべく、竜児は、シャワーを浴び、服を着替えた。目立たぬように、
学生にとってありふれた、ダンガリーのシャツにジーンズという出で立ちだ。
薄暗い台所へ行き、昨晩仕込んだ煮物の出来を確かめた後、ポテトサラダ用にジャガイモを
塩茹でし、ミックスベジタブルを塩とバターを加えた湯で煮る。
次いで、湯を沸かし、濃いめに茶をいれて、飲む。
1杯目を飲み終えようとする頃、「おはよう…」といって、亜美が起きてきた。
まだ、寝ぼけているのか、髪の毛はぼさぼさ、色気のないスエットの上下、当然にノーメイクだ。



「おう、しかし、寝起きの川嶋を見るのは、これが初めてだな」

亜美は、その一言に不満なのか、

「女がすっぴんを晒すのは、気を許した相手だけ…。だから、光栄に思いなさい」

と言って、竜児と向かい合わせに座る。
竜児の、「飲むか?」の問いかけに、亜美は軽く頷いて応答した。

「んじゃ、新しい茶碗をもってくる」

亜美は首を左右に振って竜児を制した。

「高須くんが飲み終わった茶碗でいいよ。わざわざ新しいのなんかいらない」

竜児が、空の茶碗を手にして、「これでいいのか?」と言うと、亜美は、「うん」とだけ答えた。

「夕べは、眠れた?」

「いや、仮眠しようと思ったら、泰子が早めに帰ってきちまって、しかたがないから泰子は
俺の部屋で寝てもらっている。それと引き替えに俺は完徹になっちまった…」

亜美は、ちょっと顔をしかめて、「うわ?、きっついねぇ」と言った。
竜児は、そう言う亜美の両目にも、いわゆるクマが出来ているのを認めた。

「川嶋だって、寝不足なんじゃねぇか?」

亜美は、茶碗のお茶を一口すすり、

「まぁね、夕べ、あんたの部屋に行ったのを、麻耶と奈々子に追求されてさぁ、
全然眠れなかったんだから」

と、嘆息する。

「まさか、能登がストーカーになるかもしれないことを言ってないよな?」

亜美は、一瞬、意地悪そうににやりとし、

「その点は、ご心配なく。適当にエロい話をでっち上げて、ごまかしておいたから」

と言って、竜児が困惑するリアクションを期待した。
竜児は、「ふ?ん」とだけ相づちを打つ。

「な、何よ、妙に落ち着いちゃって、つまんないわね。キスはしたじゃない、キスは!」

「ま、キスはしたな…、抱き合いもした。でも『エロい』っていったら、そんなもんじゃないだろう?
それに、聞き役は木原に香椎だぞ、連中は俺が甲斐性なしってのを、よく知ってるからな。
お前が面白おかしく話すのを、よくできたフィクションだと思って聞いていたんだよ」

亜美は、「けっ!」と、舌打ちして、「免疫がつきやがった…」と、ふくれっ面をする。



「ま、連中がまだ寝て居るんだったら、その間にシャワーでも浴びて、着替えてこい」

「うん、そうさせてもらう…。ちょうど、着替えに高須くんが着ているようなシャツとジーンズが
あるから、今日は、それを着るわ」

と、亜美は言い、

「ペアルックみたいだねぇ」

と、にやりとする。

「俺のは、所詮安物だけど、お前のはアルマーニとかのブランド品だろ? ペアじゃねぇよ」

「そういう、つまらない突っ込みは入れない!」

亜美は、着替えやタオルを取りに、一旦は泰子の部屋に戻っていった。
そして、浴室へ向かう際に、「高須く?ん、亜美ちゃん、一緒にお風呂に入りたいなぁ、2人で
裸のおつき合いをしましょうよぅ」と、竜児に抱きついてくる。竜児が、「こら!」と、一喝すると、
「あはは、怒った、怒った」と、笑いながら逃げるように浴室へ入っていった。

「さてと…」

カジキマグロの竜田揚げをするため、天ぷら鍋に油を入れ、適温になるまで加熱した。
水で溶いた片栗粉を1滴落とし、一旦、沈んでから浮き上がったことを確認して、油温を判断する。

「頃合いだな…」

たれに浸しておいたカジキマグロの切り身に片栗粉をまぶし、揚げていく。
「ジャー!」という揚げ物特有の小気味よい音が台所にこだまし、香ばしい匂いが漂ってくる。

「なんだ、もう始めちゃったの?」

シャワーを浴びて、竜児と似たようなシャツとジーンズに着替えた亜美が、タオルで髪を拭きながら、
台所にやって来た。

「おう、5時だからな。朝飯の支度とかも考えると、もう始めないといけねぇ」

「麻耶と奈々子はどうするの?」

「ギャルトークに熱中して、疲れてるんだろう。
それに、こんなに狭い台所じゃ、大勢が居てもしょうがない。寝かせとけ」

亜美は、髪をポニーテールに束ね、持参した黒いエプロンを着用した。

「あたしが手伝うよ。何からやったらいい?」

「そうだな、鶏のぶどう酒煮とか、その他諸々の煮物に一通り火を通してくれ」

「わかった」

竜児は、その横顔を眺めながら、


「しかし、川嶋、お前、変わったな」

感慨深げに言った。

「何が?」

「いや、一昨年の別荘では、台所仕事なんか見向きもしなかったじゃねぇか。それが、今は、
積極的に台所に立っている」

亜美は、「そんなこともあったねぇ…」と、恥ずかしそうにしてから、

「あたしは、今までの自分を変えたいし、変えようと思っている。
今は、自分が変わりつつある瞬間なんじゃないかな」

と、鍋の中の料理を見ながら呟き、傍らに立っている竜児に目を向けた。

「高須くんに出会って、あたしは変わったんだ。少なくとも私はそう信じている」

竜児は、「よせやい!」と、照れ隠しをするように、手を振った。

「変わりたいし、変わらなきゃいけないのは俺だ」

「弁理士試験も、その一環なの?」

「ああ」

「ふ?ん」

亜美は、そんな竜児を、琥珀色の瞳でじっと見る。

「何だ、今になって反対か?」

「私も高須くんと一緒に頑張ることにしたから、ちょっと気になっただけ。でも…」

「でも?」

「ううん、何でもない…」

「そっか…、おっと、川嶋、ちょっと火が強すぎないか?」

竜児の指摘に、亜美は、はっとして、火を弱めた。

「ごめんなさい、危うく台無しにするとこだった…」

「糖分が入っているから、煮物は大体が焦げ易いのさ」

「うん、でも料理って難しいね…」

竜児のようになるのは容易ではない、ということを思い知らされたのか、
亜美は鍋を見ながら悄然とする。


竜児は、そんな亜美の背中を軽く叩くように撫でて「気にするな」と慰め、揚げ物を終えると、
ポテトサラダを作り始めた。
タマネギとケイパーとキュウリのピクルスのみじん切りに酢とマヨネーズと塩を合わせ、
そこに茹でて皮を剥いたジャガイモを入れ、マッシャーで押し潰す。
さらに、塩とバターで茹でたミックスベジタブルを入れ、全体を混ぜ合わせて出来上がり。

「川嶋、ちょっと味見をしてくれ」

亜美は、竜児が小皿に取り分けて差し出したポテトサラダを一口食べた。

「おいしい! 酸味が効いてて、それが味のアクセントになってる。
こんなおいしいポテトサラダは食べたことないよ」

「これなら傷みにくいから、弁当に詰めるのにも適していると思ってな」

その他の煮物等の味見も亜美にしてもらっていると、「おはよう…」といって、
麻耶と奈々子が起きてきた。時刻は5時40分。

麻耶は、エプロン姿の竜児と亜美を見て、「仲睦まじいね、いいね、いいねぇ」と、
冷やかしを入れる。

「おう、お目覚めか。後は、重箱に詰めるだけだから、2人ともよかったらシャワーでも
浴びてきてくれ」

奈々子が、「覗かないよね?」と竜児に念押しすると、
亜美は「大丈夫、高須くんがそんなことしたら、亜美ちゃん、リンチにしちゃうから」と、笑う。

「ベタなこと言ってねぇで、重箱に詰めるぞ」

竜児は、昨夜洗っておいた黒塗りの重箱を手に取った。蒔絵も何も施されていないものだが、
プラスチックではなく木地に本漆が入念に塗られている。

「何の飾りもないけれど、あたしにも作りのよさが分かる。これ、結構したでしょ?」

その問いに、竜児は首を横に振って、

「浅草近くの合羽橋で安く買ったのさ、ま、結構な掘り出し物だな」

と、ちょっと、得意そうに、にやりとする。

「合羽橋って、何?」

「プロの調理人御用達の什器、調理器具の専門店街だ。今度、中華鍋を買いに行くんだが、
よかったら一緒に行くか?」

亜美は、わざと眉をしかめて、「それ、デートのお誘い?」と言うと、竜児は、

「まぁな…」

と、照れたように少し笑ってみせた。


「え?っ、どうせなら横浜の中華街で買おうよ。そっちの方がデートらしいって」

「そう言うと思ったよ。まぁ、考えとく…」

竜児は、炊飯器の蓋を開け、「おお、おこわも上出来だ」と呟くと、一番下の三の重に、
そのおこわを詰めた。次いで、二の重に鶏のぶどう酒煮等の肉料理を詰め、
最後に一番上の一の重に車海老の鬼殻焼きやカジキマグロの竜田揚げ等の魚介類を盛り付けた。

「川嶋、盛り付けは、こんな感じかな?」

「いいんじゃないの? 彩りもきれいだし。でも…」

「でも?」

「麻耶が作ったんじゃないことが、祐作に一発でバレそう」

竜児は、「大丈夫だ、あいつは細かいことは気にしないから」と、笑うと、
亜美も、「そうだった、なら安心か」と、言って、一緒になって笑った。

さらに、竜児、亜美、奈々子のサポート部隊用として、重箱に詰めた残りをタッパーウェアに
入れていく。

「量的には、3人分は十分にあるだろう。少し、余るから、これは朝食での試食用にしよう。
ただ、おこわは朝食分までは十分ではなさそうだから、冷凍してある普通のご飯だな」

竜児は、鍋に水を張り、頭とはらわたを取り除いた煮干しを10本ほど放り込んで火にかけた。
沸騰する寸前に火を弱め、さらに削り節を一掴み入れ、2分ほど弱火で加熱して、
鍋の中身をこし取った。

「出汁を取ったの?」

「ああ、味噌汁は、味噌の美味さも大事だが、出汁が決め手だな。
だが、いつもは手抜きして出汁の元を使ってる。今回は特別だ」

「あたしのため?」

という亜美に、竜児は、「まぁ、そういうことにしておけ」と笑う。

そのだし汁に味噌を加え、賽の目の豆腐を入れて、煮立つ寸前に火を止め、
小口切りにしたネギを散らす。

「あとは塩鮭を焼けば、十分かな? 何せ、昼と全く同じものじゃ飽きるだろうし」

弁当に詰めたものと同じおかずと、塩鮭、味噌汁それにご飯を卓袱台に配膳した頃合いに、
麻耶と奈々子がシャワーを終えて、やって来た。

「うちら、出る幕なかったね」

奈々子が、ふっ、と苦笑する。



「まぁ、取り敢えず飯だ。塩鮭とご飯と味噌汁以外は弁当に入れたおかずと同じだが、勘弁してくれ」

「私、高須くんの作った料理を食べるのは初めてなんだ」

の麻耶に、奈々子も、

「私もそうだけど、期待以上の出来だね」

と、感嘆する。

「どのおかずもおいしいし、お味噌汁もなかなかでしょ? 化学調味料使ってないし」

と、亜美も、竜児の料理を賛美する。

「さて、時間に余裕があるから、みんなはゆっくり食べていてくれ。俺はちょっと…」

と、言って竜児は、亜美に目配せする。
『能登が居るかもしれねぇから、辺りを見てくる』という竜児の意思表示が伝わったのか、
亜美は無言で軽く頷いた。

玄関を出た竜児は、家の周囲を一回りし、大河が住んでいたマンションと、近隣の車道の周囲まで
探った。しかし、能登の姿はない。
車道を渡った側のブロックも確認し、さらには、近くのコンビニ周辺まで足を伸ばしたが、
能登は居なかった。

「諦めたか?」

竜児は、少しほっとして、自宅に戻ることにした。


***
午前7時、一行は竜児の自宅を引き払い、大橋駅に向かった。
駅では、麻耶と奈々子が着替えなどの余計な荷物をコインロッカーに預け、麻耶は、大橋駅の改札口で北村祐作を待つ。
つばの広い白い帽子と、萌黄色のワンピースが似合っていたが、
弁当の重箱を包んだ紫色の風呂敷とのコンビネーションは正直言って微妙なところだろう。

その様子を、竜児と亜美それに奈々子が、売店の陰から見守る。

「ピクニックにスカートってのは、まずくないか?」

「あたしもそう思うんだけど、麻耶は何かテンパっていて、どうしてもフェミニンな感じで
行きたいみたいだったよ」

と、亜美。

「私みたいにキュロット・スカートとかの方が無難だよねぇ」

と、奈々子も言う。



時刻は7時30分。そろそろ北村が来る頃だ。このまま、能登が現れなかったら、俺は、
今日はゆっくり休めるな、と、竜児はぼんやりと思っていた。

「まるお、来たよ!」

バスターミナル方面からユニクロのポロを着た北村がやって来て、改札口で待っている麻耶に、
「やぁ」という感じで片手を上げて挨拶した。
麻耶は、その北村に歩み寄り、「まるお、久しぶり」とでも言ってるようだ。
北村は、竜児と亜美の姿がないことから、ちょっと周囲をきょろきょろと見渡したが、
麻耶からの説明で竜児と亜美がドタキャンしたことを納得したのか、
麻耶と2人で改札口を入っていった。

「よし、最初の段階はクリアだな」

これで、今日はゆっくりできる、と竜児が安堵した矢先、奈々子が、
「あれぇ? こんなところに能登がいるよ」と、言い出した。

「「何ぃ!?」」

と、竜児と亜美は思わず叫び、奈々子が指さす方向を見た。
眼鏡に茶髪の能登が、今しがた、麻耶と北村が入っていった改札口を通っていく。

「能登の奴、俺達じゃなくて、北村を張っていたんだな」

麻耶の相手は北村と推測し、それが能登にとってビンゴだったというわけだ。
もしかしたら、北村本人に電話でもして確認を取っているかもしれない。
その場合、警戒心の薄い北村は、行き先を含めて能登に何もかもしゃべってしまった可能性がある。
なんてこった…。

ピリピリした竜児と亜美のただならぬ雰囲気を察し、奈々子は不安気に、
「どういうことなの?」と、亜美に尋ねた。

「能登は、麻耶をストーキングするつもりなんだわ。昨夜、高須くんに能登が電話してきて、
そうするようなことをほのめかしたの。そのときはまさかと思ったけど、よもや本当に、
しかも祐作を尾行するなんて、完全に予想外ね」

「こいつは、厄介なことになったな。能登が現れなければ、俺はこのまま家に帰るつもりだったが、
そうもいかなくなった。北村と能登に気づかれないように、十分な距離を取ってついていくしかない」

3人は、能登を追うように改札口をくぐって、ホームへ向かった。


***
ピクニックの目的地であるファザー牧場は、丘陵地帯にあって、最寄り駅からはバスで行くのが
通例だった。この駅は、海岸沿いにあるテーマパークの最寄り駅でもあり、乗降客の大半は、
このテーマパークへ向かうバスに乗る。

「川嶋、木原にメールでバスではなくタクシーで牧場に向かうように言ってくれ。
バスだと、行く先がモロバレになっちまう」

「祐作が行く先を白状しているかもしれないけど、いいの?」


「それでもタクシーの方がいいだろう。バスで能登と鉢合わせするのは、いかにもまずい」

「わかった。理由は、バスが混んでいるからタクシーの方が2人の会話が楽しめる、
とか何とかにしとく」

亜美は、携帯のキーを左手の親指で器用に操作する。

「まるで私たちスパイみたい…。でも、能登はどこ?」

と、奈々子は、駅から降りた群集に目を凝らす。

「まずいな、見失った。しかたがない。俺たちもタクシーで北村たちを追うぞ」


***
ファザー牧場は、その敷地にある小山を中心とした一角が、ピクニック用のエリアとして開放
されていた。小山を含めてエリアの全域は元牧草地なので、樹木が小山の頂き等にわずかに点在
する以外は、所々が深い薮となっている草地であった。
竜児たちは、その小山の頂きから麻耶と北村の姿を見守ることにした。
小山の下、距離にして200mほど離れた場所に麻耶と北村はシートを広げ、
弁当を食べようとしていた。

「のっぺりした草地だから、傾斜があまりないように見えるけど、実際は結構急だな」

小山の斜面の斜度は30度くらいだろうか。うかつに真っ直ぐ駆け下ろうとしたら、
勢いがつきすぎて大変なことになるだろう。

奈々子は自宅から持ち出してきた双眼鏡で北村たちを観察する。

「香椎、用意がいいな」

「父が使っていたのを、ちょっと拝借してきたの」

「どう? 能登は居る?」

という亜美に、奈々子は、

「今のところ見当たらない。もしかしたら、牧場じゃなくてテーマパークへ行ったのかも」

と、双眼鏡で辺りを監視しながら答えた。

「こっちも、昼飯にするか…」

竜児は、適当に日差しを遮ってくれる楢の大木の下にシートを広げ、タッパーウェアを開ける。
重箱に比べて見てくれは冴えないが、味自体は、今朝試食した限りにおいては、文句なしであった。
それを亜美と奈々子は、「おいしいね」と言いながら、食べている。
竜児も、自身が作った料理の出来栄えを確認するかのように、食べ始めた。



薄曇りだが、柔らかな日差しは暖かく、座っていると、眠気を催してしかたがない。
麻耶と北村をサポートするというアサイメントさえなければ、このまま眠ってしまいたいところ
だった。それにしても、眠い…。

「高須くん、あの、草地にいる奴、もしかして能登じゃない?」

鶏のぶどう酒煮を食べながら、亜美は、竜児の脇腹を突ついた。

「えっ!?」

竜児は、失いかけていた意識を取り戻し、亜美の指さす方向を見た。
そこには、眼鏡をかけた茶髪の能登らしい姿があった。すかさず奈々子が双眼鏡で確認する。

「間違いないよ、確かに能登だ」

遅れてやって来たところを見ると、律儀に路線バスでやって来たのかもしれない。
能登は、草原の上で所在無くうろうろしていたが、そこかしこでシートを広げて昼食をとっている
人たちをあらためるように、歩き出しては立ち止まり、を繰り返している。

「木原たちを探しているようだな…」

「まずいじゃない。麻耶にはメールで知らせよっか?」

胸ポケットから黒い携帯を取り出した亜美を、竜児は、左手のひらを振って制した。

「せっかく、北村との昼食を楽しんでいるんだ。それに水を差すような真似はしたくない」

「そっか、そうだね。でも、もし能登が麻耶たちと接触しそうになったら、
高須くんは、どうするの?」

「そのときは、この斜面を駆け下って、奴の行動を阻止する」

亜美は、草地の急斜面を見て、

「え?っ、危ないって。やめた方がいいよ。絶対にこけるって。
それに高須くんは喧嘩なんか全然ダメじゃん」

眉をひそめて抗議した。

「阻止ってのは語弊があったな。能登を説得して、木原たちに接触するのを思いとどまらせる
つもりだ。木原たちが危ないっていうことに加えて、能登の保護も重要だな」

「どうして?」

「逆上した木原が相手では、能登も無事ではすみそうにないからだ。恋愛がらみのとき、
女ってのは怖いからな。俺も、誰かさんのおかげで、それを思い知った」

竜児は、亜美を見て鼻の頭をポリポリと掻いた。亜美は亜美で、「それ、あたしのこと?」と、
わざと表情を険しくしてみせた。

「2人とも、能登が動き出した」


双眼鏡から目を離さずに奈々子が言う。
能登が、北村たちのいる場所へ、身を屈めながら近づいていくのが竜児にも亜美にも確認できた。
能登は、北村と麻耶がそこにいることに気づいたようだ。
立ち止まって、そこに誰が居るのかを確認するような素振りをみせず、忍び足で、着実に距離を
詰めていく。

「どうやら、本当にヤバイ状況のようだな。奴を説得してくる。川嶋、香椎、後は頼んだ。
行ってくる」

亜美の、「高須くん!」という叫びを背に、竜児は斜面を駆け下った。

しかし…、

斜面の傾斜は竜児の想像を超えていた。最初のうちこそは、駆け足で自ら加速していったが、すぐにオーバースピードに達し、今度は減速するのに脚の筋力を総動員しなければならなかった。

「うおおおおーーーーっ!」

声にならない絶叫とともに、竜児は急斜面を下っていく。でこぼこの地面が恨めしい。
クッション性に富んだスニーカーであっても、脚にかかる衝撃はかなりのもので、
ちょっと気を許せば、即、転倒しそうだった。
あと少しで、能登に追いつくという寸前、竜児は深い薮に右足を取られ、大きくバランスを失した。
「あっ!」という短い叫びも虚しく、そのまま前につんのめり、柔道の背負い投げを喰らったように
草地の上を転がった。

二転三転して、竜児の体は草地に突っ伏して止まった。

「いてぇ…」

草地なので、怪我はなさそうだったが、それにしても体の節々が痛む。
竜児は、草地に突っ伏したままで顔を上げた。視界にスニーカー、黒いデニム。
さらに顔を上げると、横ストライプの長袖シャツを着て、目を丸くして驚いている能登の顔が
視野に入った。

「高須、だよな?」

竜児は、「ああ…」、と、うめき声のように答え、腕立て伏せのように両腕を突っ張って
立ち上がろうとした。

「高須、つかまれ」

能登は、そんな竜児に、右手を差し出した。


----------------
一方で、小山の上では、亜美と奈々子が、駆け下っていく竜児をハラハラしながら見守っていた。
そして、案の定、能登に追いつく寸前で、派手にひっくり返ったのを見て、亜美は、
「きゃー、高須くん!」と、悲鳴を上げた。

ひっくり返った竜児は、数秒間ほどだが、そのまま草地に突っ伏している。


「ね、ねぇ、高須くん、どうなっちゃったの? なんか、ひっくり返ったまま動かないみたい
なんだけど」

奈々子は、双眼鏡で竜児を見ながら、その様子を亜美に伝えた。

「首とか動かしているから、意識はあるみたい。
でも、あの分じゃ、どっか怪我しているかもしれない…」

「え?っ、だから、やめろっ、つーたのに…」

竜児は、両腕を支えにして、上体を起こそうともがいているようだった。
しかし、そのまん前には能登。
その能登が、竜児に対して手を伸ばしているのが、双眼鏡のない亜美にも確認できた。

「あ、今の、能登の奴が高須くんの胸ぐら掴んだんじゃないの?」

‐ヤバイ、能登は弱っている竜児にとどめを刺すつもりだ、と亜美は思った。

「う?ん、こっちからだと、高須くんと能登の姿が交錯して、双眼鏡でもよくわからないなぁ。
そうとも言えそうだし、そうでないとも言えるし…」

亜美は、部外者のように冷静そうな奈々子に苛立ちを覚え、「どっちなのさ!」と、思わず怒鳴る。

「なんか、能登がひっくり返っている高須くんを手助けしているように見えるんだよね。
胸ぐら掴んだっていうのは、違うかもしれない」

「そうなの?」


----------------
竜児は、差し出された能登の右手を掴みかけたが、
転倒のショックによる痛みで握力が思うようにならず、再び、草地に突っ伏した。

「大丈夫か? 高須」

「面目ねぇ」

「まさか、お前が、山の上から転がり落ちてくるとは思わなかった。ほら、もう一度、つかまれ」

「すまねぇな、能登」


----------------
「今の見た? 能登の奴、弱っている高須くんを地べたに叩きつけたよ!」

亜美は、怒りと、不安で目をまん丸にして、奈々子を見た。

「どうかなぁ、この角度からじゃ、何とも言えないけど…」

あくまでも冷静な奈々子に亜美は業を煮やして叫んだ。


「もう、いい! あたし、高須くんを助けに行く!!」

「ちょっと待ってよ、亜美。未だ、高須くんが能登にやられたことが、はっきりしたわけじゃ
ないんだし」

「でも、でも、こんな状況、目の当たりにして、見過ごせないよ! 高須くんをフォローしなきゃ」

「そうは言うけど、能登だって男だからね、奴が本気で暴力をふるったら、
女の私らじゃ手に負えないよ」

「だったら、不意打ちすればいいじゃない。このまま坂を下って、その勢いで、
能登に飛び蹴りをお見舞いしてやる」

奈々子は、「え?っ!」と、絶句して、

「無理だよ、亜美、そんな芸当ができるのは、特撮のヒーローくらいだよ。やめなよ。
それに、高須くんだって、派手にすっ転んだじゃない。危ないよ」

頭に血が上っている亜美を必死になだめようとした。

「でもさぁ、ほっとけないじゃん。あたしが助けなくて、誰が高須くんを助けるのさ」

亜美はスニーカーの靴紐を締め直し、ポケットのタブのボタンをしっかり止めて、

「奈々子、ごめん、行ってくる」

と、言い残して、斜面へ一歩踏み出した。


----------------
竜児は、能登からの二度目の助けを借りて、どうにか立ち上がった。
草地を転がったため、つま先から頭の上まで枯れ草がくっついていて、
見る者に哀れを催す情けなさが漂っていた。

そのせいか、面と向かっている能登は、「ぷっ」と、思わず吹き出し、次いで、
「すまん、つい…」と、竜児に詫びた。

「能登、お前なぁ…」

竜児も、笑いをこらえる能登の不謹慎さをなじるように、怒気を孕んだような言い方をしたが、
次の瞬間、「ふっ」と、息を抜くようにして、口元を歪めて笑った。

「すまん、すまん、まずはストーカー行為を謝らなきゃいけないよな。すまなかったな、高須」

「本当に、昨晩の電話はびっくりしたぜ。お前がストーカー行為を予告してきたんだからな。それで、俺たちは、ストーキングしているお前をさらに尾行していたんだ」

「そこなんだよな、結局、俺は、高須の掌で踊らされていた哀れな野郎だったってわけだ。
それをお前が、手違いからか、斜面から転がり落ちてきた瞬間に分かり、
急に自分のやっていることがバカバカしくなってきて、それで笑いがこみ上げてきちまった」


能登は、「もっとも…」と、前置きして、

「お前の今の格好が、結構、笑えるってのも否定はできないけどな」

と、言って、また、「ぷっ」と、吹き出すのだった。

竜児は、そんな能登を見て、安堵したように、嘆息をついた。

「なら、今、お前がやっていることのアホらしさも分かっているってわけだ。悪いことは言わない。
今日のところは、俺に免じて、引き下がってくれないだろうか。
何しろ、川嶋を通じて木原の気持ちをそれとなく確認したんだが、お前のことを木原は相当に
嫌悪しているらしい。ちょっかい出したら、お前の方も無事じゃすみそうにない」

能登は、「耳が痛いねぇ…」と、寂しそうに笑った。

「木原には、一発ガツンと言ってやりたいことがあるが、諦めるよ。俺も、恥ずかしながら受験に
失敗して面白くなかったし、その鬱憤からもこんなバカなことをしでかしたんだ。反省している」

竜児もそんな能登を見て、「そうか…」とだけ、言った。

「しかし、『俺たち』って、言ったよな?」

「おう、俺の他に。川嶋と香椎がお前を尾行していたんだ。今も、どこかで、俺たちのやりとりを
監視しているはずだ」

「いよいよもって周到だな。作戦はお前が立てたんだな?」

竜児が、「いや、完全に成り行きだよ」とだけ返事をすると、能登は、首を左右に振った。

「いや、高須竜児を敵に回した時点で、俺の敗北は決定的だったんだな。
お前ではなく北村をマークしたんだが、その上手をいかれたわけだ」

能登は、「参りました」とばかりに。自分の額に手をあて、その手で額をぺたんと叩いた。

その時だった、小山の上から、「た、か、す、く?ん!」という、悲鳴のような甲高い声が
聞こえてきたのは。

「お、噂をすれば、あの声は、亜美たんじゃないのか?」

能登の問いかけに、竜児は、「お、おう」とだけ応答し、声がする方向を見て、狼狽した。

「か、川嶋ぁ!」

よりにもよって、亜美が、竜児の名を絶叫しながら、小山の斜面を駆け下って来ているのだ。
竜児もそうだったが、きつい傾斜のために完全な暴走状態で、こちらに向かって突進してくる。

「あのバカ、何で突っ込んで来るんだ!」

亜美は、ほとんど泣きそうな表情で、ポニーテールを振り乱して突っ込んでくる。
竜児は、両手を広げて、暴走してくる亜美を受け止めようとした。

「川嶋ぁ! こっちだ、俺につかまれぇ!」

次の瞬間、どしん、という鈍い音と、激しい衝撃とともに、亜美が竜児の胸元に飛び込んできた。

「くそ…」

衝撃で崩された体勢を竜児は必死に立て直そうとしたが、その努力も虚しく、竜児と亜美は、
半ば呆然とたたずむ能登を置き去りにして、斜面のさらに下へと抱き合ったままの状態で
転がり落ちて行った。


----------------
万事において磊落な北村祐作にとって、来るべきはずの竜児と亜美が不在であることについて、
深く詮索するようなことはなかった。
したがって、自身のことを「まるお」と呼ぶ木原麻耶との2人だけのピクニックについても、
さしたる意義を認めることはできなかった。
ましてや、これが亜美たちの画策によるデート作戦であるとは夢にも思っていない。
その点において、すでのこの作戦は無意味なものであったようだ。

それでも、麻耶は、まるおこと北村に、重箱に詰めた弁当を甲斐甲斐しく食べさせ、
努めてデートであることを、北村に気づかせようとしていた。
だが…。風に乗って、かすかに聞こえたのは、「た、か、す、く?ん!」という女の悲鳴。

「おや、今のは、亜美の声みたいだな。しかも、『高須』と聞こえたような気がしたが? はて…」

と、北村が警戒心ゼロの優等生面で、呟いた。

「え、そ、そうかなあ?。私は何も聞こえなかったけど。まるおの空耳じゃないの?」

麻耶は、慌てて『空耳』と決めつけて、その場を取り繕う。
内心では、『亜美にしろ、高須くんにしろ、何をやってるのかしら、作戦がまるおに
バレちゃうじゃない!』と、毒づきながら。

さらに、今度は、もっとはっきりと、「か、川嶋ぁ! …川嶋ぁ! こっちだ、俺につかまれぇ!」
の声が聞こえた。

「おや、今度は高須の声みたいだな、さっきよりもはっきりと聞こえる。
なあんだ、高須と亜美も、こっちに来ているんじゃないのか?」

と、麻耶に笑いかける。
‐まずい、作戦が破綻しつつある。
どう取り繕っていいものやら分からず、麻耶は、「さ、さぁ…」とだけ、苦し紛れに答えるのだった。


----------------
「川嶋ぁ! しっかりつかまってろ」

竜児は、亜美を抱きしめ、彼女とともに急斜面を転がり落ちる。

「高須くん。あたし、め、目が回る」


「手を絶対に離すなよ! 下手に手を伸ばしたら、腕の骨が折れちまう。いずれ、傾斜が緩くなって、
自然に止まる。それまで、ちょっとの辛抱だ」

「で、でも、傾斜が緩くなる前に、何かにぶつかったら、どうなるの、あたしたち」

「そのときは、そのときだ、覚悟するしかない」

小さなギャップで、2人の体がバウンドする。

「きゃっ!」

竜児は、亜美の頭を覆うように抱きしめた左手に力を入れ、着地のショックに備える。
さらに、二度三度とバウンド。草と体が擦過する、ガサガサ、という音と、互いの声以外に
音のない世界。

不意に竜児と亜美は、背中と脇腹に鋭い衝撃と痛みを覚えた。
「きゃー!」という聞き覚えのある叫び声と、何かをなぎ倒したような音とショック、
それに草地ではなく、すべすべしたシートのようなものが下にあるような感触。

だが、世界は音を取り戻した。
止まった。回転しながら斜面を転がり落ちていた竜児と亜美は、ひとまず停止したのだ。


----------------
「やっぱり自爆したか…」

暴走した亜美が、竜児に抱き止められたものの、その勢いが止まらず、2人とも斜面を転がり落ち、
挙句の果てには。斜面の下に居た麻耶をなぎ倒して止まったことを双眼鏡を通して見届けた奈々子は、
シートや弁当を入れていたタッパーウェアを片付け、小山を降りる準備を始めた。
まとめた荷物を持ち、首から双眼鏡を掛けた奈々子は、未だ、斜面の中腹に能登が居ることを
確認した。その能登に向かって、奈々子は、ゆっくりと斜面を下り始めた。


----------------
「川嶋、川嶋! 大丈夫か?」

未だ視野が、ぐるぐる、と定まらない亜美は、竜児の声で、我に返った。

「た、か、す、く、ん…?」

目の前に意識が朦朧としているような竜児の顔があった。

「よかった…、川嶋、怪我はないか?」

亜美は、竜児を下敷きにしていたことに気づき、頬をちょっと赤らめる。

「う、うん、あちこち痛むけど、正直、よくわからないや…。それより、高須くんは、大丈夫?」

「俺のことはいいから…。そ、それより、ここは、どこなんだ?」



亜美は、竜児の体に馬乗りになったままで、上体を起こし、周囲を見渡した。
まず、視界に飛び込んできたのは、ピクニック用シートの上にひっくり返っている竜児、
次いで中身をぶちまけて散乱する重箱、さらには萌黄色のワンピースの裾がめくれ上がった状態で
うつ伏せに倒れている麻耶の姿だった。
おまけとして、シートに座ったまま、事態を飲み込めているのかいないのか、優等生的な表情から
は伺えない北村祐作の姿。

麻耶は、レースで彩られたピンク色のショーツを剥き出しにしたまま、ひっくり返っている。
いわゆる『勝負下着』で、決めてきたのだろう。

その麻耶の体が、ぴくぴく、と痙攣するように動き、瘴気のようなオーラが立ち上ったように
亜美は感じた。

そして、「う?っ…」という地鳴りのようなうめき声とともに、麻耶は上体を起こし、
めくれ上がった裾をおもむろに正して、北村との逢瀬を台無しにした亜美と竜児に向き直った。

「あんたら?っ!」

顔は真っ赤で、目は吊り上がり、こめかみの血管はちょっと突つけば血が吹き出そうなほどに
浮き上がっている。

「た、高須くん、こ、こわい…」

怒り心頭に達した麻耶に気圧されて、亜美は、未だ倒れている竜児にしがみつく。
竜児は亜美がしがみついたままの状態で、上半身を起こし、怒り狂っている麻耶を見た。

「ま、待て、木原。これは、ちょっとした手違いがあって、そ、そう事故…、事故なんだ。
わざとじゃない、わざとじゃないんだ。だけど、状況を台無しにして本当に悪かった、
すまん、だから、許してくれ」

しかし、麻耶は、「ふ?っ!」、という、うなり声のような吐息を漏らし、
竜児と亜美の前に立ちはだかった。

「ま、麻耶、落ち着いて。順を追って説明するから、実は、能登が…」

「ええい、うるさ?い! 本来、あんたらは、私のサポート役だったはずじゃない?
それどころか、全てをぶち壊しやがって!」

「ちょっと、気持ちは分かるけど、落ち着いて聞いてよ。実は、能登がここにも来ていて、
麻耶をストーキングしていたから、それを阻止しようとして…」

しかし、亜美の必死の釈明は、麻耶の怒号で中断された。

「ごちゃ、ごちゃとうるさいんだよ! 能登? いきなり、そんなこと言われても、
こっちは理解不能だって! とにかく、あんたらは、サポートどころか、作戦そのものを
滅茶苦茶にしたんだぁ!!」

麻耶に無用な不安を与えないようにと、能登の存在を伏せていたことが仇になった。

そこへ、ずれかけた眼鏡を右手人差し指で、くぃ! とばかりに持ち上げた北村が、



「木原、サポートとか作戦って何だ? 俺は、何だか蚊帳の外なんだが?
まぁ、たしかに、高須と亜美がどこからともなくやってきて、木原と、弁当が残っていた重箱を
ひっくり返したが、高須たちも悪気があってしたわけじゃなさそうだし、
ここは、広い心で許してやろうじゃないか」

と、調停者よろしく、麻耶をなだめにかかった。
しかし、北村は、今まさに修羅場が展開されようとしている空気を全く読まずに、
実に剣呑なことを言う。

「まぁ、何だ、木原も、ひっくり返ったときに、スカートがめくれて、パンツが丸見えになったが、
これもご愛敬だな、わっはっはっは…」

‐なんてことを言いやがる。竜児と亜美は、血の気が引く思いがした。

北村の一言は、麻耶をなだめるどころか、全くの逆効果。
しかも、当の北村は、そのことに全然気付いていない。

「ま、まるお、言っていいことと悪いことがあるでしょ! つか、見えたの? 見たの? 見ちゃったの?!!」

「ああ、ピンクでレースの付いた奴だったかな? 木原が、うつぶせになっているとき、
ほら、スカートがここまでめくれて…」

と、北村は、自分のウエストあたりを指さした。

「う、うううう、うぇ?ん! まるおのバカァ!!」

思い人である北村からのあまりの仕打ちに、麻耶は怒りで赤くなった顔をさらに赤く染めて、
大泣きした。

「祐作、最低!」

素の北村というものを理解している亜美にとっても、この言動は許しがたかった。
だが、最低云々は、今の麻耶にとって、より許しがたい存在は誰か?
ということを熟慮の上で言うべきではあった。

「亜美、あんたねぇ?…」

大泣きしていた麻耶の血走った目が亜美を見据えた。

「ひっ!」

怒りと憎悪がほとばしるような視線に、亜美は怯え、竜児に縋る。

「まるおを最低だと? 最低なのは、あんたらだ、川嶋亜美に高須竜児!!」

「ま、待って、麻耶、話を聞いてよ、これは能登が…」

「能登、能登って、面倒な話はどうでもいいんだよ。あんたらが、まるおを誘い出して、
私とまるおのデートをサポートするはずだったのに、
黒子であるはずのあんたらが、飛び出してきて、全てをぶち壊し…」


「高須くん、こわい…」

「しかも、私が、こんな仕打ちを受けているってのに、あんたら2人は、べったら、べったら、
いちゃつきやがって…」

‐こりゃまずい、とばかりに、亜美は抱き合っていた竜児から離れ、その背後に回ったが、
時既に遅し。麻耶の怒りは臨界点を突破していた。

「高須竜児、あんたもだよ、亜美との仲を私にフォローさせたくせに、今回のこの不始末。
むかつくんだよ!」

竜児が、「待て」と、弁解するいとまも与えず、麻耶の右フックが竜児の顔面に炸裂した。

「うげ…」

「高須くん!!」

痛打を浴びた竜児は、白目を剥いて、昏倒した。

「高須くん! 高須くん! お願い、しっかりして!!」

竜児は、亜美にもたれかかったままで、意識がない。
亜美は、「きっ!」と、ばかりに、涙目で麻耶をにらみつけた。

「やりすぎだよ、麻耶! あんたの行為は傷害罪! もし、高須くんが死んじゃったら傷害致死
だからね。この犯罪者!!」

「うるさーい! 法学部の1年坊主が、ちょっと法律かじっただけで偉そうに。
あんたが色気でたぶらかした男が、何だっつーの!」

「色気でたぶらかしたぁ!? ふざけんな、あんただって、髪の毛染めて男に媚び売ってる
じゃないか。この売女!!」

「黙れ、淫乱!!」

「なにおぉ!」

「なんだとぉ!!」

女同士の不毛で醜悪な戦いが始まろうとしていた。


----------------
特攻してきた亜美と、それをキャッチし損ねた竜児とが、一緒になって急斜面を転がり落ちていき、
北村とピクニックをしていた麻耶をなぎ倒して止まったことは、能登にも確認できた。

温厚とはとても言えない麻耶の性格を考えれば、一悶着あることは間違いない。

「どうする? 俺が連中の前に行って、土下座でもすれば、多少は事態が収拾するだろうか?」



竜児には、この場を立ち去るように指示されたが、これまでと、これから起こるであろう一連の騒動
の元凶が自分であることを思うと、この場を立ち去ることに、ためらいがあった。

そのとき、麻耶が竜児を殴打した。殴打された竜児は、亜美に体を支えられたまま、
ぴくりともしない。

「高須…、おれのせいで」

竜児がやられたとなると、亜美も黙ってはいまい。能登は、麻耶や亜美に謝罪すべく、
斜面を下ることにした。

「ちょっと待った!」

背後から呼び止められた能登は、振り返った。そこには、首から双眼鏡を下げ、バックパックに
ショルダーバッグ、手提げバッグを持った奈々子が立っていた。

「今、あんたがあそこに行ったら、麻耶と亜美に袋叩きにされるよ。それでもいいの?」

能登は、奈々子が一瞬、にやり、としたように感じた。それは錯覚であったかもしれないが、
少なくとも当事者の中で、奈々子だけが比較的冷静であるようだ。

「しかし、このままじゃ、木原と亜美たんが大喧嘩になっちまう。止めなきゃ」

奈々子は、「ふふん」と、せせら笑うようにして、

「その心がけは立派だけど、賢明じゃないね。まぁ、マゾだっていうんなら止めないけど…。
それよりも、2人の喧嘩を確実に止められて、あんたも怪我をしない方法があるんだけど、どう?」

と言って、奈々子は目を眇めた。
能登は、そんな奈々子に言いしれぬ圧迫感を感じ、「ごくり」と、生唾を飲み込んだ。

「わかった、お前の提案に乗ろう。であれば、俺はどうすればいい?」

「だったら、すぐに、ここから走って逃げてちょうだい。もう1つ、あんたが走り出してから
5秒後に、あたしが大声出すけど、決して振り返らないこと。この2つを守ってくれる?」

「わ、分かった…」

能登は、奈々子の真意を計りかねたまま、承諾した。

「それと…」

奈々子は、気恥ずかしそうに、言った。

「あんた、来週の週末はどうしてる?」

能登は、いよいよもって奈々子の狙いが不気味に思えたが、正直に答えた。

「たぶん、家で勉強している」

「暇なの?」


「正直なところ、そうだ」

勉強に身が入らないことを奈々子に見透かされたような気がした。

「そう、メルアドは変わってないわよね? さっき言ったことを忠実に実行してくれたら、
この埋め合わせは必ずする。だから、もう走り出して!」

「あ、ああ…」

能登は牧場の出口に向かって走り出した。その数秒後、奈々子が、斜面の下の方に向かって、
叫んでいるのが聞こえてきた。

「もう! 麻耶も亜美も、何やってんのよ!! ほら、喧嘩なんかしている場合じゃないでしょ。
能登が逃げちゃう。今回の騒動の原因は、あいつがストーカーやってたからだってばぁ!
早くあいつを追っかけなくちゃダメじゃん!!」


----------------
口汚い罵り合いから、つかみ合いになる寸前、奈々子の声で、亜美と麻耶は、我に返ったように、手を止めた。

「えっ!? 能登が逃げる?」

と、亜美。

「能登って、やっぱ居たの?」

しかし、亜美も麻耶も、つかみ合いはひとまず止めたものの、互いに対する敵意は消えてはいない。

そこへ、奈々子のさらなる絶叫。

「もう、麻耶も亜美も、いい加減、頭を冷やしてよ。特に、麻耶ぁ!
亜美と高須くんが転げ落ちてきたのは、能登が2人を突き落としたからなんだってばぁ!!
能登が諸悪の根源なんだよぅ」

‐え? あたしと高須くんは、突き落とされたっけ?
一瞬、亜美は怪訝に思ったが、すぐにそれが事態の収拾を図ろうとする奈々子の嘘と理解した。

‐やるな、奈々子。
ここは、一丁、奈々子の嘘に便乗させてもらうことにした。

亜美は、未だ憤怒の表情の麻耶に向かい、

「そうなんだよ、あたしと高須くんを急斜面から突き落としたのは、能登。
ストーカー行為をしていたところを高須くんが押さえ込もうとしたんだけれど、
あたしも高須くんも能登にやられちゃってさぁ…」

しかし、麻耶は、未だ半信半疑なのか、ぶ然としている。



「悪いのは、能登。あんたも、あたしも、高須くんも、あいつの被害者。
だから、あたしらが争うなんてバカげているんだよ」

亜美は、北村にも助け船を出してもらうことにした。

「祐作ぅ?、あんたからも何か言ってやってよ。さっき、あたしと高須くんに悪気はなさそうって、
言ってくれたじゃん。その調子で、もう一度、麻耶を説得してよ」

かつての生徒会長、北村は、壇上での演説を彷彿とさせる直立不動の姿勢をとった。
だが、どっかピントが外れているのが北村の常である。

「木原が不快に思うのはもっともだな。そうだ、うまい解決策がある。法的には相殺という手段が
ある。この考え方で、本事案の紛争解決を図ることにしよう」

‐相殺? いきなり何を言い出すんだ? そもそも、何と何を、おあいこにするんだろ?
亜美は、何となく嫌な予感がした。

「よって、こうすれば解決だ」

と、言うやいなや、北村は、ズボンをずり下げた。

「これで、おあいこだな、木原。こうすれば、パンツを見られた、お前の機嫌もなおるはずだ、
が…あれ?」

しかし、北村がはいていたブリーフはゴムが緩かったのであろう。

「きゃーっ! まるおが、丸出しぃ!!」

「祐作、あんた、本当に最低!!」

唐突に陰部を丸出しにした北村を前に、亜美と、麻耶と、奈々子は、パニックに陥るのだった。


***
頬に誰かの掌のぬくもりを感じ、高須竜児は、目を覚ました。
薄目を開けると、ぼんやりとした視野の中に、庇のように突き出た胸と、
ほっとしたような表情の川嶋亜美の顔があった。

「よかった、気が付いたようね…」

「川嶋、俺は?」

そう言いかけた竜児の額から頬を、亜美の右手が滑るようになぞっていく。

「あんたは、麻耶に殴られて、そのまま眠っていたんだから。殴られた直後は、救急車でも
呼ばなきゃならないかと思ったけど、何のことはない、あんたはすやすや眠っていただけ…」

その人差し指が、竜児の頬を、軽く突く。

「無理をしてきた疲れが出たんだよ。起こすのがかわいそうなくらい、本当に気持ちよさそうに、
あんたは眠っていたんだ」


亜美は、膝枕をしている竜児に微笑んだ。

「俺は、どのくらい眠っていたんだ?」

「そうねぇ、今が3時半だから、かれこれ3時間くらいかしら」

胸ポケットから取り出した携帯電話を見ながら、亜美は事も無げに言う。

「3時間も! そんなに寝ていたのか、俺は…」

竜児は、あることに気付き、はっとする。

「川嶋、まさか、3時間もすっと俺を膝に載せていたのか?」

亜美は、それには答えず、意味ありげに「うふふ」と、笑った。

「そうなんだな? すまねぇ、重かったろう、もう、俺は大丈夫だ」

と言って、竜児は起きあがろうとした。亜美は、起きあがろうとする竜児の胸に手をあてて、
それを制した。

「あたしが好きでやってることなんだ。あんたが、どうこう、気をもむことじゃないよ。
せっかくだから、もうちょっと膝枕をさせてちょうだい」

「膝枕なんて、小学校1年のときに、泰子に耳掃除をしてもらって以来だぜ…」

亜美は、「そう…」と、呟くと、前髪からヘアピンを抜き出した。

「じゃぁ、せっかくだから、耳掃除もしてあげるよ。ちょっと、横になって」

「いいよ…」

「遠慮しない。というか、あたしがやりたいのさ、だから横になりなよ」

竜児は、半ば観念して、亜美に背中を向けるようにして横たわった。

「OK、右の耳から始めるね…」

亜美は、竜児の頭部に覆い被さるようにして、耳の穴にヘアピンをゆっくりと挿入していった。
竜児の耳朶に、頬に、亜美の柔らかな吐息が当たる。

「痛かったら言って、手加減するから」

竜児の耳にヘアピンで引っかかれる「かり、かり…」という音が響く。

「いや、大丈夫。すごく気持ちいい」

竜児は、「何だか泰子にやってもらって…」と、言いかけて、「すまねぇ、妙なことを口走って」
と、亜美に詫びた。



「そう? 謝ることなんかないのに。母親と同じように見てもらえるなんて、あたしにとっては
最高の誉め言葉だよ」

「そうなのか? マザコン野郎はダメだろ?」

亜美は、うふふ、と笑う。

「昨晩、麻耶たちとも話したんだけど、少なくとも、あたしはマザコン男は嫌いじゃないよ」

「嘘だろ? マザコンってのは、嫌われるもんじゃないのか?」

「そんなことないって。マザコンってのは、一般に母親に愛されることが前提になるでしょ?
生まれて初めて出会う他者である母親に愛された人間は、
これから出会う他者にも愛されていくんだよ」

「言ってることが、よくわかんねぇ」

「高須くんは、泰子さんに愛されて来たじゃない? あたしは母親である泰子さんに愛されてきた
高須くんだからこそ、あんたのことが好きなんだ」

「そんなもんかねぇ…」

「そんなもんなんだよ」

半信半疑の竜児に、亜美は、笑いながらも、そう決めつけ、竜児の右耳から引き抜いたヘアピンの
先端に「ふぅっ!」と、息を吹きかけた。

「よっしゃ! 右はこれでOK。今度は左ね。高須くん、あたしの方を向いてくれる?」

「で、でも、川嶋、こっち向くと、あの、何だ…」

竜児は、首の向きを変えようとして、視線の先に亜美の下腹部があることに気付き、躊躇した。

「遠慮することなんかないよ。あたしは、高須くんに股ぐら見られたって、恥ずかしいなんて
思わないんだから。むしろ、変に恥ずかしがってる高須くんの方がおかしいよ」

亜美は、あはは、と声をあげて笑った。

「わ、分かった、俺は、目をつぶっている」

「うふふ、照れちゃって。やっぱり高須くんって、かわいいよ」

「う、うるせぇ…」

亜美は、再び竜児にかがみ込み、竜児の左耳にヘアピンを挿入する。

「ねぇ、耳掃除をしている間に、あたしの質問に答えてくれる?」

「どんな質問だ?」



「う?んとね、高須くんは、なんでいつも無理をするのか、なんで自己犠牲をいとわないのか、
これを知りたくてね」

「そんなこと…、俺は無理なんかしていないし、利己的で、自分を犠牲になんかしない。
お前の質問は不適切だ」

と、言った瞬間、「いてっ!」と、竜児は顔をしかめた。

「あ?ら、ごめんなさ?い。ちょっと、手元が狂っちゃった。でも、今のは嘘つきさんに罰が
当たったんだわ」

「お前なぁ?」

「ほら、ちゃんと正直に答えないと、また神様が罰を当てるわよ」

亜美は、意地悪そうに、うふふ、と目を眇める。

「べ、別に、俺は、無理なんかしてねぇよ。川嶋が勝手にそう思い込んでいるだけだって」

「そう、答えたくなければそれでもいいわ。ただ、高須くんは、レゾンデートルっていうのかしら、
自身の存在意義が不確かだっていう焦りがあるように思うんだけど、違う?」

亜美は、手にしたヘアピンで、竜児の鼓膜の周辺を突っついた。竜児は顔をしかめる。

「どうなの? 早く答えてくれないと、何だか拷問みたいで嫌なんだけどなぁ…。じゃぁ、いいや。
高須くんからの反論がないので、民事訴訟法第159条第1項の規定に基づき自白擬制が成立し、
自身の存在意義が不確かだという焦り故に、高須くんは無理をしているということになりましたぁ。
これでいい?」

竜児は、目をつぶったまま、口をへの字に曲げて、抗議する。

「川嶋ぁ、法律を引き合いに出して、嫌みったらしく言うな。第一、民事なんとか法なんて、
俺は知らねぇ」

「うん、ちょっとひどい言い方だったよね、その点は謝るわ。でもね、傍から見ていると、
高須くんは、自分の存在を卑下していて、それがために無理をしてでも他人に尽くそうとして
いるのが分かっちゃう。これは本当」

「う…」

「この上、すごく酷な言い方をするけど、高須くんは、もしかしたら、自分のことを
『いらない存在』だって思っていないかしら?」

竜児は、答えない。
亜美は、耳掃除を終えたのか、ヘアピンを竜児の左耳から引き抜いたヘアピンの先端を、
さっきと同じように「ふぅっ!」と、吹いて耳垢を飛ばし、それを元通りに自分の前髪に
セットした。

「でも、それは間違い。だって、さっきも言ったように泰子さんが高須くんを大事にしているし、
実乃梨ちゃんやタイガーがあんたのことを好いていた」



「泰子とは、進学するしないでもめたんだ。正直、今でも、しこりみたいなものを感じる」

「でも、泰子さんは、あんたのことを今でも大事に思っているよ。実の親子なんだから、
いつか高須くんのわだかまりも解消出来るときが来るよ」

竜児の頭部を両手で支え、潤んだ瞳で竜児の顔をのぞき込む。

「何よりも、あたしが高須くんのことを必要としているんだよ」

可憐さを装った天使の仮面でもなければ、酷薄な笑みでもない。
澄み切った水をたたえ、さざ波一つない湖面のような無垢な穏やかさ。

「だから…」

そう一言だけ呟き、うつむいて、竜児の唇に軽くキス。
唇を離して、再び、竜児に静謐で無垢な瞳を向けてくる。

「もう、自分を卑下しないで。
あんたが自分自身に価値がないと思い込むのは、あたしや泰子さんの思いを蔑ろにする。
あんたが自身の存在を否定することは、あたしや泰子さんの存在も否定すること…。だから…」

大きく見開かれた亜美の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。

「あんたはよくても、あたしは許さない…」

その涙が、竜児の頬に滴った。

「川嶋…」

亜美は、左手の甲で、涙をぬぐった。
そして、「あは…」と、笑いとも嘆息ともつかない吐息を漏らす。

「あたしは、高須くんの苦悩を直に癒すことはできそうもないけれど、理解だけはできるつもりだよ。
あんたも意地を張らないで、つらいときや苦しいときは、正直に言ってくれればいいんだ。
あたしには、それを聞くぐらいしか能がないけれど、あたしに話して、高須くんの気分が少しでも
晴れればいいな、と思ってる」

竜児は、亜美の膝枕から身を起こした。

「俺は、人にはあまり相談せずに今までやってきた。だが、例外的に川嶋には結構、
本音をぶちまけてきているからな。正直、これで、俺はだいぶ救われていたのかもしれねぇ。
だから、お前が、これからも俺の愚痴を聞いてくれるのは助かるぜ」

竜児は、「まぁ、何だ…」と、付け加え、

「だが、俺はだなぁ、お前が以前指摘したように、しょーもない奴で、バカだからな。
まぁ、バカの悩みなんてのは、知れている。それを延々聞かされるのは、結構、ウザイぞ、
その覚悟はできているのか?」

一見凶悪そうな面相の相好を崩して苦笑した。
知らない人には、夜叉がせせら笑っているように見えたかも知れない。


「あたしも、バカだからねぇ、お互い様だよ。
それに、バカの悩みは、バカにしか分からない場合だってあるんじゃない?」

「お前と俺とでは、バカのベクトルが違うような気がするけどな」

「そうかもしれない。でも、方向性が違うから、互いの違い、互いのことが分かるんじゃないかしら?
きっと、完全に同質なものだったら、互いのことはかえって分からないのかも知れない」

亜美は、「ベクトルなんて、大学入試以来だよ」と、苦笑する。

「川嶋が言う通りだな。方向性が違うから、どこかで交差する。
交差するから、互いが理解できるんだ」

「何か衒学的だね」

「そうか? 高校数学のレベルだぞ」

「亜美ちゃん、法学部だから、数学なんて関係な?いの」

亜美が、うふふ、と笑うと、つられて竜児も笑いだし、やがて、2人とも、あはは、と大笑いする。

「ほんじゃ、バカ同士、仲良く帰るとするか…」

「そうだねぇ…」

「ところで、他のみんなは、どうしたんだ?」

「先に帰ったよ。まぁ、祐作と麻耶はどうもねぇ…」

と、言いかけて、亜美は、「ぷっ」と、吹き出しそうになるのをこらえた。
‐その話は、帰りの電車の中ででもゆっくり聞こう、能登のことも気になるし…。
そう竜児は思い、「やっぱりダメだったか…」、とだけ呟いて立ち上がる。
そして、尻の当たりに枯れ草が付いていないか確認するように、慎重に手ではたいた。

「川嶋、立てるか?」

「何言ってんの、赤ん坊じゃあるまいし、ちゃんと、この通り…、あれ?
脚が、痺れちゃって、ダメだ…」

それを見て、竜児は、「ふっ…」と、嘆息してから、

「3時間以上も膝枕していりゃ、当然じゃないか。
お前だって、俺のことを言えた義理じゃないんだぞ。無茶ばっかしやがって…」

再び、しゃがみ込んで、亜美の困ったような表情を観察する。

「ねぇ、見てないで、肩貸してくれる?」

「少し休んでいった方がよくないか?」



「無理にでも歩いた方が、脚の血行が早く回復するんじゃないかしら。
それに、高須くんと肩を組んで歩きたいの、亜美ちゃんは」

竜児は、ちょっと面倒臭そうに「やれやれ…」と呟いて、亜美が差し出してきた右手をつかみ、
引き寄せた。
しなやかで華奢な亜美の右半身が、竜児の左半身に密着する。

「これは、軽いから、あたしが持つよ」

亜美は、風呂敷に包まれた重箱を持ち上げる。

「洗っといてくれたんだな」

「麻耶が、高須くんを殴った責任を感じてね。後始末はしてくれたんだ」

「じゃぁ、他の荷物は、俺が持つ」

荷物を持って、竜児と亜美は歩みだす。

「二人三脚みたいだねぇ」

「だとしたら、ゴールはどこなんだろうな…」

亜美は、整った面相を、一瞬、竜児に向けた後、正面を見据えた。

「あんたとあたしは、ずぅ?っと一緒に歩いていくのさ。これからも、一緒に頑張っていくんだ」

「ずぅーっと、なのか?」

亜美は、正面を見据えたまま、軽く頷いた。

「ねぇ、憶えている? 一昨年前の夏に、あの洞窟であたしが言ったこと」

「俺が、『月』だって話のことか?」

「そう、その話。さらに言うなら、あたしも『月』だから…、あんたとあたしは対等の存在
なんだってこと」

「ああ…」

「だから、あたしたちは、ずぅーっと一緒でいられるのさ」

そうして甘えるようにすり寄ってくる亜美の肩を抱き寄せ、

「そうだな…」

とだけ竜児は囁くのだった。

to be continued...?

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