web上で拾ったテキストをこそっと見られるようにする俺得Wiki


「博物館に喫茶室が併設されていて助かったな…」

竜児は、飲みさしのエスプレッソのカップをソーサーに置いた。
コーヒーの味わいはまずまず、と言うよりも、下手な喫茶店よりも上質なのではないかと思われた。
ロココ調の家具を意識したのか、有機的な曲線で構成されたフレームへ花模様をあしらったファブリックが張られた
座席に、傍目には唐草模様を連想させる曲線で構成されている脚部を持ったテーブルを挟んで、竜児と亜美は差し
向かいに座っていた。
ランプなどの調度品は、アール・ヌーヴォーを意識したものらしく、伸びやかな曲線で構成されたフォルムに、紫や緑
の中間色でレリーフ状の花模様が彩色されている。
部屋の明かりはハロゲンランプらしく、そのセピアを思わせる暖かな光が、ロココ調やアール・ヌーヴォーな調度品と
相まって、ノスタルジックな雰囲気を醸し出していた。

大粒の激しい雨がステンドグラスになっている窓を洗い、突風が窓枠をガタガタと揺らした。
博物館の建物は防音がしっかりしているので、さほどのようには感じられなかったが、実際には、傘を差すのもまま
ならないほどの風雨に違いない。

「天気予報では、夕方から天気は下り坂って言っていたけど、天気の崩れがちょっと早過ぎ。それも、ここまでひどい
なんて…」

「今どきに、こんなに激しいにわか雨は珍しいな。上空に冷たい空気が流れ込んで、大気の状態が不安定になって
んだろう」

「傘はないし、あったとしても今の状態じゃ役に立たないだろうし、もう散々ね…」

亜美は、カフェラテを一口すすり、そのカップをソーサーに戻す際に、口唇が当たっていた箇所をナプキンで拭った。
ほんのわずかだが、グロスがカップの縁に付いていたらしい。

「いよいよとなったら、タクシーだな」

竜児は、「そうね…」と、相槌を打つ亜美をじっと見て切り出した。

「それはそうと、川嶋、よかったら、そろそろお前が言っている『異分子』とやらについて、説明してくれねぇだろうか。
幸か不幸か、俺たちはこの悪天候で、ここに雪隠詰めだ。お前の長話を聞く時間は十分にある」

差し向かいで座っていた竜児が、身を乗り出すように迫ってきたことに気圧されのか、一瞬、亜美は「えっ…」と絶句した。

「そうね、これからあたしが話すことは、聞いててあんまり気持ちのいい話じゃないけれど、それでも話して構わない
かしら…」

喫茶室の客は竜児と亜美の二人だけだった。
博物館の館内には、未だ何人かの見学者が居るようだったが、他の多くは突然の悪天候に横浜を観光する意欲
そのものを削がれたのか、博物館から電話でタクシーを呼んで次々に帰ってしまった。
したがって、適度に薄暗いセピア色の照明で彩られた喫茶室は、貸切状態同然。鬱な話も、気が滅入る話も、
場合によってはグロな話も、何でもありだ。

「元より、お前の話を聞くつもりで、この博物館に雨宿りもかねて逃げ込んだんだ。どうしても話すのが辛いって言う
のなら、その限りじゃないが、話を振られた俺にも聞く権利ってもんがある。
よかったら、順を追って説明してくれねぇか」


亜美は、つん、と顎を持ち上げ気味で瞑目したまま、ふぅ〜っ、と肩の力を抜くように嘆息した。
眉間には、亜美が考え事をするときに現れる、小じわが刻まれている。記憶を手繰り寄せようとしているのか、
あるいは竜児に話すべき内容とそうでないものとを峻別しているのかもしれなかった。

「そうねぇ…、何から話そうかしら…」

「川嶋、ゆっくりでいいから、落ち着いて話してくれ」

その一言で、亜美も話すべき事柄がまとまったのか、眉間の小じわを和らげて、うっすらと目を開けた。

「そう…、高須くんは、高二のクリスマスのことを覚えているかしら? ほら、二人して、豆電球のケーブルに小さな
ベルを結びつける細工をしていたでしょ?」

「ああ…」

竜児も思い出した、あの時は、最初に手がけていた亜美の処置が正直不味く、結局、竜児が手助けしてやる羽目に
なったのだ。

「あたしがテグスでベルをうまく結べなくて困っていたところを、高須くんに助けてもらった、あの一件のこと…。
あの時に、最後の方であたしが言ったことを憶えているかしら?」

今度は、竜児が記憶の糸を手繰り寄せる。だが、亜美があれだけ過敏に反応する『異分子』なる文言について、
明確な記憶は思い当たらなかった。

「すまねぇ、川嶋、あの時は、いろいろあったからなぁ…。お前に、『幼稚なおままごと』って詰られた記憶ばかりが
鮮明で…、どうにも肝心な部分が思い出せねぇ…。恥ずかしいが、川嶋の相方失格だな」

亜美は、目をつぶったまま小作りな頭を左右に振り、「いいんだよ…」と、呟いた。

「あの時、あたしは、あんたに弱音を吐いたんだよ…。でも、それを、あんたに聞き届けられることが急にイヤに
なって、『今言ったこと、全部忘れて』って、あんたに念押ししたんだから、高須くんが憶えていないのは、
仕方ないこと…」

「弱音? 川嶋は、そんなことを言っていたか?」

「弱音っていうか、あたしの願望丸出しの恥ずかしい台詞。正直、高須くんには覚えていて欲しくないような一言…」

竜児は、再度、記憶の糸を手繰り寄せる。それは、あのベルを結びつけたテグスのように、細くて儚い、不確かなもの。
不意に脳裏に閃くのは、体育館で竜児と一緒にマットに座って、ベルを結び付ける作業をしていた制服姿の亜美の
姿と、竜児を食い入るように見つめていた大きな瞳。
そして、『今言ったこと、全部忘れて』と、亜美が無理に笑顔を装いながら否定した、あの言葉。

はっ、として目を見開いた竜児を認めた亜美は、竜児があの時の亜美の言葉を思い出したことを確信したのか、
頷くように微かに顎を動かした。

「そう、あの時、あたしは、高須くんに、『あたしのことも一から入れてよ、出来上がった関係の途中から現れた異分子
じゃなくて、スタートのそのときから、あたしも頭数に入れて』って、これはもう、お願いっていうか、ほとんど弱音だね…」

亜美は、うつむいて、ふふっ…、という笑いとも嘆息ともつかない、かすかな吐息を漏らす。それは自己嫌悪と自嘲の
発露なのか…。

「あの時は、ママ役の実乃梨ちゃんがいて、子供役のタイガーがいて、そしてパパ役の高須くんがいて、この三人の
関係がすごくがっちりしているように思えて、一学期途中から転校してきたあたしには、もう割り込む余地なんか全然
なくて…。で、高須くんは、ママ役の実乃梨ちゃんばっかり意識して、あたしのことなんか、あたしが真剣に高須くんの
ことを思っていることに、高須くんは全然気付いてくれなくて、でも、高須くんは、時々、気まぐれみたいに、
そんなあたしにもやさしくしてくれて…」

亜美は、両手を膝の上に組み、背中を丸めてうつむいた。

「そのやさしさって、実は、すごく残酷なんだよ…」

消え入るような声ではあったが、それは、いばらの刺のように、竜児の心に突き刺さる。
脳裏には、あの時の亜美の静かな眼差しが浮かぶ。少し冷たくて、どこまでも透き通るような瞳は、竜児の心を必死
に見透かそうとするものであると同時に、竜児に、求め、訴える姿ではなかったか。
そういえば、『スタートのそのときから、あたしも頭数に入れて』の後に、亜美は何と言っていたか?

『そうしたらあたしのこともっと…あたしも、…あたし、は、』

意味上の主語・述語の関係も定かでない、その場限りの感情の吐露。だからこそ、その言葉には、焼けつくような
亜美の焦燥感が顕わになっていたのではないか。

「高須くんが、時々、あたしに示してくれたやさしさは、明らかに実乃梨ちゃんたちへのものとは違っていて…、
そうした時は、いつも思い知らされたんだ。あたしは、途中から割り込んできた『異分子』なんだって…」

亜美の語り口は淡々として、表面上はあくまでも冷静だった。その感情を顕わにしない口調と、婉曲な物言いが、
かえって竜児の心を責め苛む。いっそ、亜美に対してぞんざいだったことを、面と向かって罵ってくれた方が、
どれだけ気楽だろうか。

「すまねぇ、川嶋。あの頃の俺は、櫛枝や大河のことばかりに気をとられていて、お前が俺に好意を寄せていることに
ついて、恥ずかしいほど鈍感だった。結果、無自覚にお前のことを苦しめていたんだな…。最低だ、俺って…」

「高須くんが、謝ることじゃないよ。あたしたちの出会いは、そんなに格好いいもんじゃなかったからね…。あんたは、
あたしの真っ黒な本性を早々に見破っていたし、あたしは、あんたのことをヘボいヤンキーと誤解していたし…。
その後、あたしはすぐに、あんたのことを見直したけど、あたしの素直じゃないところを知っている高須くんにしてみれば、
いくらあたしが真剣に告白したって、信じろ、という方が無理なんだよね…」

亜美は丸めていた背筋を心持ち伸ばして、「だから、これは、あたしの責任…」と、呟きながら、面を上げた。
頬は白磁のように白く、瞳は、あのクリスマスの飾り付けをしていた時と同じように、冷たくて静謐だ。

「だが、過去においては、そうだったかも知れねぇが、今、俺たちは、ここにこうして一緒に居る。それでいいじゃねぇか」

‐結果オーライでは、ダメなのか? 今という現実に満足し、それを享受すればいい、という割り切りはできないのか?
それとも、この件では未だに俺を赦せないのか?
竜児は、未だ過去に拘束されているかのような亜美の心情を正直なところ計り兼ねた。

「うん、そうね…。本当に、今こうして、高須くんと一緒なのは、ほとんど奇跡に近いんじゃないかしら。言いにくいこと
だけど、実乃梨ちゃんが、あんたのことを袖にして、タイガーが親に引き取られていったりして、そして、あたしは高須
くんと同じ大学に合格した。諸々の要素は、偶然に彩られた不確かなものばかりで、本当に、今、二人がこうして居ら
れる方が、不思議なくらい…」

「はっきり言って子供のような大河はともかく、櫛枝の代わりに、俺がお前を選んだと思っているんなら、
そいつはすまねぇと思う。全ては、俺が優柔不断だったからダメだったんだ」

竜児は、素直に詫びた。『そんなことはない』と、口先だけの否定をしても、洞察力に優れた亜美には通用しない。
だったら、正直に認めた方がはるかにいい。

「高須くんが優柔不断なのは確かだけど、結局は、後からのこのこやって来たあたしに方に問題があるのさ。だって、
実乃梨ちゃんもあんたのことを本心では好きだったんだから、本当だったら、あたしにお鉢がめぐってくることなんか
なかったはずなんだよね…。あの時は、本当にいろいろな事があって、結局、何だかよく分からないまま、
棚ぼた的に、今、こうしてあたしは高須くんと居る…。脆い偶然の連鎖の結果、まぁ、奇跡みたいなもんだよね…」

絶望的な状況から、事態が劇的に好転したような場合、人はそれを奇跡と呼ぶ。
しかし、その奇跡は、一歩間違えば全てが無に帰すような、脆い偶然の連鎖に裏打ちされている。だから、人は今が
あるという現実とは別に、過去における危うかった状況や、そのおぞましさに慄然とするのだ。
亜美は、過去に怯えているのかもしれない。『異分子』であったにもかかわらず、棚ぼた的に願望を叶えてしまった
という引け目が、その棚ぼた的な危うさが、亜美の心を脅かしているのだろう。そこには、ある種の罪悪感が含まれ
ているのかもしれない。

「奇跡じゃねぇよ。ここに、こうして俺たちが居るのは…。そりゃ、櫛枝や大河のことは、お前にしてみりゃ、偶然に裏
打ちされた不可抗力みたいなもんかもしれねぇが、お前だって、受験勉強を頑張ったじゃねぇか。その結果、お前は
俺と同じ大学に合格して、俺と一緒になっている。三年になってからの成績の伸びを見て、独身が驚いていたぞ。望
ましい結果を得るために、お前は必死で努力した。だから、今の状況は、奇跡でも偶然でも何でもねぇ。必然なんだ」

受験のみを引き合いにして必然を説いても、今の亜美に対して説得力はないだろう。それは、竜児が百も承知だった。
だが、何かを言わないと、息苦しくてしかたがない。
亜美は、そんな竜児を、静謐な瞳で物憂げに一瞥する。

「高須くんって、そういう考え方ができるところ、すごいよね。これは、今のあたしが言うと皮肉に聞こえちゃうかもしれ
ないけど、本心で言ってるつもり。高須くんは、自分はもちろん、他者と共有しているような過去の苦しいこと、辛いこ
と、それまでをすべて飲み込んで、今という結果を前向きに解釈できちゃう。ほとんどの人は、辛いことや苦しい記憶
は忘れることで解消しようとする。でも、高須くんは、過去から逃げないんだ…」

「そんなことはねぇ。俺だって無力で儚い存在だ。本心は、つらい過去の記憶はきれいさっぱり消去してしまいたい。
だけど、人の記憶ってのは、コンピュータのデータみたいに簡単に消去できねぇんだ。だったら、イヤでも過去を飲み
込んで、今という現実に対処するしかねぇ」

竜児なりに一応の気遣いのつもりだったが、ふさぎこんでいる亜美にはむしろ逆効果であったかもしれない。

「高須くんは、いつだって正論を振りかざすんだよね。そして、高須くん自身も、その正論通りの言動をする。
でも、あたしは、ダメだよう。高須くんみたいにはなれない。今回みたいなことがきっかけで、イヤな思い出が次々と
蘇ってきちゃう…。高須くんが知っての通り、あたしは腹の中が真っ黒な醜い子。その心の醜さで、多くの人を欺いて
きた。今は、その罰を受けつつあるのかもしれない…」

『その罰』とは、実乃梨や大河への罪悪感か。その罪悪感に起因する自己嫌悪と悔恨で、亜美の心はがんじがらめになっているかのようだ。

「何だか、話が支離滅裂なんだが。お前の言う『異分子』とやらの説明はどうなったんだよ?
例えば、お前が外人墓地を見て感じた『異分子』と、中華街で感じた『異分子』とは、意味合いが違うんじゃねぇか?」

竜児は、亜美の独白めいた発言を打ち切るようにして対話を軌道修正することにした。
亜美の本心を知る機会を無為にし、亜美の本当の悩みが解決できなくなるおそれはあったが、これ以上、自己嫌悪
のくびきに亜美が拘束されたままでいるよりはマシだろう。

「そ、そうだった…。そうね…」

亜美は、思い出したように、はっとした。竜児の指摘に気付き、論点を、『異分子』の意味するところに戻すつもりの
ようだ。
しばしの沈黙後、亜美は語り出した。

「中華街での一件は、単に『よそ者』というイメージでしかないんだけれど…、あたしにとって身につまされたのは、
外人墓地の方。不遜な言い方を許してもらえれば、明治時代での最先端の知恵や技術や学問を携えて日本にやっ
て来た『お雇い外国人』と、現役高校生モデルとして大橋高校に転校してきたあたしとが、オーバーラップしちゃった
んだよね…」

「ああ…、転校生として現れた川嶋は輝いていたよな。現役モデルって言う、並の高校生には無縁な属性を背負って
たんだからな」

亜美は、竜児の言葉に対して、「ふっ…」と、皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「肝心の高須くんには、全然、効き目がなかったけどね…」

それは、ファミレスでの大河との一件を北村と観察して、転校生として大橋高校に亜美が現れる前に、亜美の本性を
把握していたから…、というのを竜児は言いかけたが、自重した。このことは、今はまだ伏せておいた方がよさそうな
気がしたからだ。

「あたしと、歴史に名を残した『お雇い外国人』とじゃ、全然スケールが違うけど、一般人にはない属性っていう点だけ
は共通するかも…。で、いやらしい話なんだけど、あたしは、その現役モデルっていう属性を利用して、人気者として
大橋高校に君臨しようとした。表面上は、それはうまくいったような気がする。でも、結局は、他者との相違点を強調
すればするほど、『異分子』として浮き上がっちゃうのね…」

「そうかもしれないな…」

亜美の言う通りなのだろう。
自己が特別な存在であることを誇示すればするほど、周囲からは浮き上がってしまう。
だが、ここで亜美が言っている『異分子』と、冒頭で述べたクリスマスパーティーの準備で亜美が言った『異分子』とが、
どう関連するのかが、未だ分からない。

「なぁ、川嶋、話の初っ端で、お前はたしか、クリスマスパーティーの準備で『スタートのそのときから、あたしも頭数に
入れて』と、言っていなかったか? スタート時点云々であれば、本人の属性は二の次で、当事者であった川嶋に
機会が均等に与えられていなかったというだけの問題に還元されるよな?」

「機会均等? そうね、最初からあたしもみんなと一緒ならば、あるいは…」

「であれば、『お雇い外国人』を引き合いに出して、モデルという属性故に疎外感を味わったというのは、
ちょっと違うんじゃねぇか?」


亜美の言う、他者との相違点を強調した結果の『異分子』と、クリスマスパーティーの準備で亜美が言った『異分子』
とを一括して把握するには、何か別の要素が必要であるような気が竜児はしてきた。
そして、その要素を亜美は未だ明らかにはしていない。

「そ、それは…。そう、なのかな…?」

口ごもり、うつむいた亜美の姿から、竜児は、彼女が何かを隠していることを確信した。おそらくは、亜美にとって話し
にくい事柄なのだろう。

「なぁ、川嶋。お前が『異分子』であったことを今でも苛むことになった原因は、本当のところ、大橋高校とは別のところ
にもあるんじゃねぇか?」

竜児は、できるだけやさしい口調で、亜美に畳み掛けるように問い掛けた。
亜美は、背を丸め両手を組んで、暫くうつむいていたが、その姿勢のままおもむろに顔だけを上げた。

「うん、実は、そう…」

「やっぱり、他にも何かあったんだな?」

亜美は、顎を引くようにして軽く頷いた。

「これは、祐作や麻耶、奈々子はもちろん、高須くんにも内緒にしておきたかったんだけど、高二の三学期のゴタゴタ、
あれですっかり大橋高校がイヤになって、東京の高校に戻ろうかと思っていたんだ…」

「いや、それだったら、俺はお前から直に聞かされたし、みんなも勘づいていたよ」

あのときは、確かにひどかった。竜児自身も、進学するしない、で泰子や独身ともめた。それは、常に『いい子』であろ
うとしてきた竜児が、他者に対して悪意あるむき出しのエゴを放射した初めての出来事でもあった。
そして、亜美も、修学旅行で実乃梨と大喧嘩して、実乃梨から『とっとと前の学校に帰れや!』と罵られたのだ。

「うん、でも、重要なのは、こっから先の話。実はね、あたし、東京では劇団に入って、女優としての修行を始める
つもりだったんだ。これは、ママである女優川嶋安奈の希望でもあったわけで…」

「そんなんじゃないか、ってのは、北村も気づいていたし、能登や春田もそんな風に思っていたみたいだな。もっとも、
能登や春田の場合は、芸能人である川嶋亜美を欲していた、てなミーハーなもんなんだろうが…」

竜児の『ミーハー』という単語に、一瞬だけ、亜美は口元に淡い笑みを浮かべた。能登や春田のひょうきんな姿が
脳裏に浮かんだのだろう。だが、すぐに元の、瞳を大きく見開いているものの、静謐だが感情が伺えない、
さざ波一つない湖面のような表情に戻った。

「でも、結局は、あたしは劇団には入らなかった。
なぜかって言うと、演劇の基礎も出来ていない素人なのに、有名女優の娘で、現役高校生モデル上がりだっていう
だけで、役が付くって聞かされたから…。その劇団には、子供の頃から役者としての勉強を積んでいる子がゴロゴロ
居るところなんだよね。それを、あたしが役をもらうっていうのは、そうした人たちを蔑ろにすることなんだよ。
だからその劇団には入らなかった…。ううん、訂正、入れなかった…」

「そんなことがあったのか…」

俗に言う『親の七光り』。芸能界に限らず、どこの業界でも聞く話だ。


実力伯仲なら、何らかの後ろ盾や裏付けがある方が、より高く評価される。下手をすれば、本人に実力がなくても、
後ろ盾や裏付けがありさえすれば、デビューする機会はめぐってくる。
もっとも、実力不足でデビューしたとしても、評価されずにそのままフェードアウトする場合もあるのだろうが、それで
もデビューする機会が与えられないよりは、はるかにいい。
だが、亜美は…。

「そこの劇団で下積みやってる子なんて、みんな演技上手いんだよね。正直、あたしが彼女らの域に達するのは、
かなり難しいって思った。でも、彼女らは何ら後ろ盾がないから、よほどの実力者じゃないとデビューの機会は来ない。
そこへ、モデルではあるけれど、演劇ではズブの素人であるあたしが横滑りするように割り込んできたら…、
まずいよね…」

亜美は、苦しそうに眉間にシワを寄せ、唇を引き結んだ。何があったか竜児には分からないが、その劇団とやらで、
亜美はよほど思い知らされたようだ。
何の後ろ盾もないという点では、竜児の立場は、亜美の言う劇団の下積みの団員に近い。
竜児が、その劇団の下積みの一人だったとしたら、突如、現れた有名女優の娘に羨望よりも嫉妬、嫉妬よりも敵意を
抱いたかもしれない。

「その劇団でも、川嶋は『異分子』だったってことなんだな? まぁ、確かに『異分子』なんだろうな…。
モデルという形で既にある程度の名は知られていて、なおかつ、親は有名女優だからなぁ…」

‐なるほど、外人墓地を見て、気が滅入ったのはこのせいもあるんだな…。

「うん、モデルとかで実績があったとしても、本気で演劇やってる人から見たら、モデルなんて、多分、茶番だと思うん
だよね。でも、親の七光りで、いきなり好評価じゃぁ、周囲とは浮くよね。本来なら、もっと前から演劇の勉強をしておく
べきだったんだ。劇団に居た彼女らと同じように…。彼女らと同じスタートラインから始めて、女優を目指すべきだった
んだ…」

結局、亜美は、フェアじゃない割り込みを第一に忌避しているのかもしれない。大橋高校では、竜児と大河、実乃梨
の関係が出来上がっていたという不利な条件での割り込み、劇団では、親の七光りという有利な条件での割り込み、
双方に有利、不利の違いはあっても、フェアじゃない割り込みという点では共通する。

「なんかねー、自分の実力とか、自分の存在とかとは別の要素、さっき言った親の七光りとかで、優遇されちゃうのは、
正直、心苦しくなっちゃったんだよね。モデルだったっていう過去にこだわるのもバカバカしくなってきちゃったし…。
『私はモデルよ』なんて、鼻にかけても、結局は嫌われるだけだしね」

それに、途中から割り込んできた『異分子』だからこそ、自己のモデルという他者にはない属性に依存する。依存した
結果、ますます他者との乖離が激しくなる、という悪循環も断ち切りたかったに違いない。
亜美が外人墓地を見て、陰鬱な気分になったのも、日本人とは異なる属性を持つお雇い外国人たちが、当時の日本
に割り込んできて、その異なる属性に故に優遇されたことを、自己に重ね合わせていたのだろう。

「川嶋は、根が真面目なんだな…。俺が川嶋の立場だったら、どうなっていたか…。もしかしたら、
親の七光りやモデルでの実績をできるだけ利用して、その業界でのし上がってやろうとしたかもしれねぇ」

半ば冗談の慰めのつもりだった。
それに応えるように、亜美は、「ふつ…」と、軽く吐息し、引き締めていた口元と眉間のシワをほんの少しだけ和らげた。

「心にもないことを言うんじゃないよ。清廉なあんたに、そんな真似はできないって…。
でも、あたしの場合は、他の下積み団員の嫉妬や敵意の中で平然と過ごせるほど肝がすわってなかったからねぇ。
これは、あたしが根性なしだったってのもあるんだけど…」


「いや、そんな状況だったら、俺だって無理だ」

並の神経では務まりそうもない。
亜美は頷いて、

「そう、芸能人で『ジュニア』と呼ばれる二世、三世は、そんな下積み連中のことなんか、『ごまめの歯ぎしり』程度に
しか思っちゃいない。そういう普通じゃない感覚がないと、芸能界ではやっていけないんだ。あたしも性格悪いけど、
あたし程度の悪さじゃ、到底無理だね」

ちょっと自棄気味に、「へへっ」と、笑うように相好を歪めた。

「あたしってさぁ、本当は、ごまめみたいな小物なんだと思うよ。て、いうかチワワか…。チワワって、バカ犬でさぁ…、
自分よりもはるかに大きな犬に吠えかかっていくんだよね。バカだよね。まるで、かつてのあたしみたい…」

「川嶋は、賢い子だろ? ちゃんと分相応をわきまえたからこそ、その劇団には入らなかった…、違うか?」

「分相応か…。気遣いの高須にしては手厳しいね。でも、そうなんだよね…」

竜児は、瞑目して、ふぅ、と一息ついた。亜美は、本来は、竜児には打ち明けるつもりがなかった事柄まで話してくれ
たのだ。

「どうだ? 川嶋、話すべきことを俺に話して、少しは気持ちがすっきりしたんじゃねぇか?
だったらもう、くよくよするな。過去は過去だ。思い悩んだって、何も変わりゃしねぇ」

だが、亜美の表情は依然としてさえない。眉間の小じわもそのままだ。

「話が『異分子』云々からは外れるけど、劇団に入らなかったことでママとの関係は悪くなっちゃった。ママはカンカン
だった。娘であるあたしのために、裏では色々と手を回していたんだろうね。それがかえって仇になるとも思わずに…。
で、あたしは、ママとは暮らさずに、引き続き大橋の親戚の家で暮らしているというわけ」

「それで、川嶋は転校しなかったんだな」

亜美は、「うん…、そう…」と事務的に前置きして、カフェラテのカップに口をつけた。亜美は、中身が既に冷めている
ことで、一瞬、「うっ」と絶句して顔をしかめたが、そのままカップを傾けて中身を飲み干した。

「でもね、この劇団に入る入らないの一連の騒動で、ママを含めた業界の思惑が透けて見えちゃった…」

竜児が、「その思惑ってのは、どんなものだったんだ?」と、亜美に問い掛けたとき、
喫茶室のスタッフが、「お下げします…」と、言って、空になっている竜児と亜美のカップを片付けた。
そのスタッフは、「よろしければ、お代わりをお持ちしましょうか?」と、畳み掛けてきたが、
亜美が首を左右に軽く振ったことを確認して、竜児は「結構です。お勘定をお願いします」と、そのスタッフに告げた。

「ちょっと、河岸を変えた方が、川嶋も話しやすいかもしれないよな?」

「そうね、それに、この博物館の中を見学していないし…」

レジで釣り銭を受け取る。観覧車の料金は亜美が負担してくれたから、ここは竜児の奢りだ。


照明が薄暗い階段を上がって、上階の展示フロアへ行く。

「ここは、服飾関係の学校法人が公開している博物館なんだな…」

仄暗いハロゲンランプで照らされたフロアには、古代エジプトから現代に至るまでの衣裳シルエットが二分の一の
スケールで再現されて、回廊の左右にずらりと並んでいた。

「ファッションって反復性があるのね。廃れたはずのスタイルがもう一度復権することがある。この展示を見ていると、
それが実感できるわね」

「元ファッションモデルらしいコメントだな」

「そうね、でも、もうモデルであったことを、ことさら強調したくないの…」

亜美の憂鬱そうな態度で、竜児は己が軽率さを恥じ入った。

二人は、ガラス工芸品を展示しているコーナーに行き着いた。
ガラスケースの中には、アール・ヌーヴォーのガラス工芸品がいくつか収められていた。
館内には竜児と亜美の他には見学者が見当たらない。夕方といってもよい時間帯だったことから、帰ってしまったの
かもしれない。

「エミール・ガレの作品みたいだな…。川嶋の別荘にあった奴と似たようなものだな」

「うちの別荘にあるのはレプリカだと思うよ。それに、似たようなのは、ここの喫茶室にもあったよね?」

「あれこそレプリカだろうな…。不特定多数の客が利用する喫茶室に、貴重なオリジナルを、誰もがさわれるように
置いとくわけがねぇ」

「レプリカ…。複製品、クローンだよね?」

「ああ、そういう解釈もありだな。生物と無生物っていう違いはあるけどな」

竜児は、亜美が言う『クローン』の意味を計りかね、怪訝な表情で亜美を見た。
その亜美は、かつて大橋高校で自販機の隙間に座っていたように、通路の壁を背にして、膝を折り曲げてお尻を床
につけた。

「お前、その格好好きだなぁ…」

「どうせ、他に見学者は居ないみたいなんだから、いいんじゃない?」

そして、傍らに腰かけるようにと、竜児に手を振ってくる。竜児も、お付き合いで亜美の左隣に座った。正直、博物館
のスタッフに見つかったら面倒ではあるが、その時はその時だ。
腰かけた亜美は、暫く呆然とするようにガラスケース内の展示品を眺めていたが、そのまま竜児の方を向かずに、
出し抜けに言った。

「高須くんは、『新世紀エヴァンゲリオン』ってアニメ知ってる?」

「ああ、話題になった作品だから、DVDを借りて一通りは見た…」


アニメとは、また川嶋らしくないな、と竜児は思った。
アニメのようなヲタっぽい話題は、およそ亜美には似合いそうもない。

「ヒロインの綾波レイって、知ってる?」

「おぅ、赤い目をしたショートカットの女の子だよな?」

「そう、その子」

「その子がどうかしたのか?」

亜美は、数秒間の沈黙の後、囁くように話し出した。

「あのアニメのヒロインの綾波レイって、主人公の母親のクローンなんだよね」

「そうだったな。容姿が主人公の母親そっくりだった」

「うん、だけど不自然な出来損ないのクローン…。劇中で、綾波レイの殺風景な私生活が出てくるけど、決まって得体
の知れない内服薬が大写しになるんだ。それに、培養槽っていうのか、時々、LCLっていう特殊な液体に全身を浸し
てケアしてるんだよね。多分、アレを服用して、培養槽に定期的に浸からないと、綾波レイって、人としての形を維持
できないんじゃないかな?」

竜児にも思い当たるシーンがあった。たしか劇場版だったか、綾波レイの片腕が、腐敗した肉のように骨ごとごっそり
と肘から脱落した。あれは、亜美の言うように、必要なケアを怠っていたから、という解釈も成り立ちそうだ。

「そのクローンである綾波と、お前とにどんな関係があるんだよ?」

亜美が言わんとしていることは、竜児にも何となく察しはついていた。

「綾波レイはあたしと同じ、あたしは綾波レイと同じ…」

「バカ言え! お前にはちゃんと父親と母親が居るじゃねぇか。それも長者番付に載るような」

亜美は、ちょっとうつむいて、「そうなんだけどさぁ…」とだけ呟いて、膝を抱えた。

「あたしが言っている『クローン』てのは、生物学的なものじゃなくて、なんていうのかなぁ、比喩的なものなんだよね。
女優川嶋安奈を継ぐ者っていうか…」

「でも、それは周囲も認めていることだろ?
ほら、酒屋の稲毛のおじさん、あのおじさんだって、初対面で川嶋が川嶋安奈に似た感じだって言ってたじゃねぇか。
娘が母親の職業を継いだとしても、それは不自然でも何でもねぇ。それを『クローン』だって言うのは、どうかと思うな」

竜児は、傍らに居る亜美の横顔をじっと見た。雰囲気や小作りな顔貌は、確かに母親である川嶋安奈に似ている。
川嶋安奈が若い頃はこんな感じだったのかもしれない。だからと言って、短絡的に自身を『クローン』と揶揄するのは、
いささか自嘲が過ぎる。

「うん、自分でも『クローン』ていうのは、ちょっと何だとは思うけど、ママや業界が、川嶋安奈と類似するカテゴリーの
女優を欲しているのは確かなんだな、っていうのが分かっちゃって、ものすごく幻滅した…。
そこには、あたし、川嶋亜美のパーソナリティーは一顧だにされず、ただただ、川嶋安奈の将来の代替品という位置

付けだけが用意されているというわけ…」

「芸能界のことはよく分からねぇけどよ、社会に身を置くってのは、そんなもんじゃねぇのか?
自身が持ってるパーソナリティーを丸出しにして勝負できる奴は、そうはいねぇよ」

居たとしても、それは専制君主なようなものだろう。いや、専制君主だって、表の顔と裏の顔を使い分けている。
尊大で残虐な皇帝が、実は臆病な小心者だったというのは、よくある話だ。

「でも、多くの人たちは、別に全人格を否定されはしないでしょ? あたしの場合は、完全に川嶋安奈の将来における
代替品。代替品に独自の個性は要らないの。ただただ、オリジナルに忠実な『クローン』であればいいだけ…」

「川嶋の考え過ぎなんじゃないのか? さっきの話では、劇団に横滑りするのがきついから難しいとは思うが、仮に、
川嶋が女優とかになったとしたら、最初の頃は、母親のそっくりさんで売り出して、その後、徐々に自分の演技の幅を
広げて、独自の個性を出していけばいいんじゃねぇか?」

竜児は、慰めに、「もっとも俺は、川嶋が女優になったら、俺にとって遠い存在になっちまうから、困るがな…」と、
ちょっと照れたふりをしながら付け加えた。
亜美は、ほんの少し相好を緩めて淡い笑みを形作り、「ありがとう」と言った。

「でも、嘘の仮面をかぶり続けるのに疲れちゃったのも事実。
高二の頃、高須くんに、嘘の仮面がいずれ破綻することを指摘された時は、『プロだから、そんなヘマしない』って
意気がったけど、本音はやっぱきつかったんだよねぇ…」

「ああ、そんなこともあったっけなぁ…」

「で、堪えたのは、修学旅行での実乃梨ちゃんの一言。『ウソのツラでモデルでもなんでも一生してろ』。
売り言葉に買い言葉の応酬でのものだけど、これほどあたしの存在を言い当てているコメントはなかった…」

「櫛枝とのことは、もう考えるな。俺も、あいつのことはできる限り思い出さないようにしているんだ」

亜美は、竜児をじっと見た。気のせいか、その眼差しには竜児への淡い疑惑と不信が込められているような気がした。

「そうね…。で、話をママや業界と、あたしとの関係に戻すけど、モデルとしてのあたしは、綾波レイと同じようなもの
だった。劇中で、綾波レイって、主人公の父親で、特務機関で一番偉い人に贔屓にされていて、綾波レイも、その人
の言うことには素直に、むしろ喜んで従っているんだよね。例えば、ほとんど人体実験に等しいものにさえも…。
あれって、ママの言いなりになってきたあたしのカリカチュアみたいで、すっごくイヤだった…」

「川嶋は、根が素直な子だったから、おふくろさんの言うことに従っただけじゃないのか?」

亜美は、竜児の慰めのつもりの一言を一蹴するかのように、「ふん」と鼻を鳴らした。

「従うにしても程度ってものがあるんじゃない? なんかねー、ジムのプールは培養槽だし、サプリメントは綾波レイの
内服薬みたいなものだし、とどめは永久脱毛とかの処置。年端もいかない子にレーザーを照射して、体毛の毛根を
破壊するんだよ。照射されているときは、焼けるような痛みがある。でも川嶋安奈の『クローン』であるあたしは、
甘んじて受けなきゃいけない。これって、どんだけ残酷?」

「そんなことをされていたのか…」

ジムのプールやサプリメントは、亜美の被害妄想と言ってもよさそうだが、『体毛の毛根を破壊』の一言に、竜児は

ちょっと背筋が冷たくなった。そんな処置を亜美に施した、母親をはじめとする彼女の周囲の人間は、一体、どんな
人種なのだろう。

「劇団を見学して自分の無力さを思い知らされた時、エヴァンゲリオンのDVDを見直したんだけど、それで自分の
立場が綾波レイとさほど変わらないような気がして、ママや業界の思惑通りにはなりたくないって思ったんだよね…」

「あの作品は、正直なところ救いがないから、鬱な時に見るもんじゃないけどな…」

「でも、あたしが、川嶋安奈の『クローン』であることから決別する機会を与えてくれたのも事実。ちょうど、高須くんも
進学を決意した頃だったし、高須くんと同じ大学に行って、芸能界とはすっぱり縁を切ろうと思ったの…」

「木原からは、川嶋が俺と同じ大学へ行きたかった、ということしか聞いてなかったがな…」

竜児は、ちょっとだけ気落ちしたような気がする。亜美が酔って竜児の家に乱入してきたとき、それをフォローした
麻耶の『亜美は竜児目当てで、今の大学に進学した』という電話でのコメントは、その場限りの方便だったのか、
と思った。

「あたしがあんたを追っかけて、同じ大学に進学しようとしたのは本当だよ。でも、裏にはこういう事情もあった…。
ママは、芸能人の子弟が通う、どっかの私大へ進学させるつもりだったし、ママの思惑を挫くには、
芸能人には無縁な、どちらかと言うと地味な国立大学に進学するのが一番でしょ?」

亜美の顔には『してやったり』のつもりらしい、性悪そうな笑みが一瞬だけ浮かんだ。

「同意を求められても困るけどよ…。で、今の川嶋は、おふくろさんの思惑からは外れた生き方ができている。
もう、これでめでたし、万事がOKなんじゃねぇか?」

「それがねぇ…」

亜美は、憂鬱そうに目を閉じた。

「何だ、まだ何かあるのかよ?」

「うん、今度は局アナになれ、なんて言ってきているんだよ。高須くんも知っての通り、うちの大学、結構、大手新聞社
やテレビ局への就職が多いでしょ? だから、アナウンサーになれって…。演劇やモデルをやめるんだから、それに
代わるものをやれってんだよね。何が何でも芸能界への接点を持たせるつもりみたいだね」

「いや、俺だって、川嶋は局アナ狙いだと勘違いしていたからなぁ。これ言って木原に怒られたけど…」

亜美は、不満そうに頬をちょっと膨らませた。

「そうなんだよね。祐作だってそう思っていたし、あたしとしては心外…。
でも、局アナになることを阻止できるような打開策がなくってさ…、正直、ちょっとイラついていたんだよね。
司法試験に合格すれば、ママの思惑を完全に粉砕できるだろうけど、
法科大学院を卒業しないと受験すらできなくなっちゃったからねぇ。でも…」

竜児には、亜美が弁理士試験を受験することにした真の動機がようやく分かってきた。

「それで弁理士試験か…」


憂鬱さに支配されていた、亜美の茶色い瞳がほんの少しだけ輝いたように見えた。

「そう、法科大学院を出なくても受験できて、司法試験に準ずる難易度の弁理士試験に合格すれば、もうママは何も
言えなくなる。
高須くんが受験するっていうのも渡りに船だったし…。
高須くんの相方として頑張るには、これ以上のものはないでしょ?」

「そいつは、光栄だな…」

「だから、リミットは三年。在学中に弁理士試験に合格しなきゃいけない。困難だけど、不可能じゃないと思う。
特許庁の統計では、合格者の平均受験回数は四回弱だっていうから、社会人に比べて時間に余裕がある学生時代
に頑張れば、三回以内の受験で合格できる可能性はあるんじゃないかしら」

それだけ言うと、亜美は、膝を抱えて黙り込んだ。
竜児も、「弁理士試験か…」と反芻するように呟いて、考え事をするかのように沈黙した。
亜美の言うように、頑張れば三回以内の受験で合格できるかもしれないし、竜児自身もそのつもりである。
だが、亜美とその母親である川嶋安奈との反目が気になる。
母親からの影響下から脱したいがための弁理士試験の受験。
弁理士試験を目指すといっても、動機が後ろ向き過ぎはしないだろうか?

「なぁ、おふくろさんと、仲直りするつもりはねぇのか?」

「仲直りも何も、とりあえず表面上は仲良くやってるよ。ただ、あたしの方にママへの抜き難い不信感が生まれただけ。
ママも、あたしのことを急に手に負えなくなったわがままな娘、ぐらいには思っているでしょうね。
ただ、ママの最後の思惑を粉砕すべく弁理士になろうとしていることまでは把握していないと思うけど…」

「そうか…」

これ以上は、よその家族の事情だった。部外者である竜児に立ち入る権限はない。
動機が多少は後ろ向きでも、亜美は自分なりに考えて、今後の目標を設定したのだ。それ自体は悪くない。
だが、

「なぁ、川嶋。こんなことを俺が言うのも何だが、お前は、女優川嶋安奈の娘であり、現役高校生モデルとして、
ひとかどの実績を挙げた。それを、すっぱり捨ててしまうつもりなのか?」

これだけは訊きたかった。
亜美は、物憂げに小首を傾げるようにして竜児の方を向いた。

「捨てるってわけじゃないけど、さっきも言ったように、ママには抜き難い不信感が生まれちゃった。だから、表面上は
ともかく、内心では以前のようにはいかないと思う。モデルとしても、あれを実績といえるのかどうか…。演劇の世界
から見たら子供だましもいいところだし、何よりも、上っ面の美しさでどうにでもなるっていういい加減さが、今となって
は恥ずかしい…。それをよしとしていた、あたしって、どんだけバカなんだって…」

「まぁ、俺にはよく分からねぇけどよ…」

亜美は、今日、横浜赤レンガ倉庫に立ち寄った際に、亜美はファッション雑誌の撮影で訪れたことを思い出し、『ここ
で、ポーズとって、写真撮ってもらったんだ、たしか…』と、その時を懐かしむかのように言ったはずではなかったか。

「川嶋には、今は不仲とはいえ、両親が健在で、親の七光りがあって、それなりの資産があって、川嶋自身にも実績
がある。そのほとんどに縁がない俺は、どうすればいい? どう、お前に共感すればいい?」

亜美は、はっとっして、竜児を見た。瞳は不安そうに大きく見開かれている。

「どうした? 川嶋…」

「高須くんは、そんな風に、あたしを見るんだ…。違う、ごめん、あ、あたしは、そんなつもりで言ったんじゃない。
そんなつもりなんかじゃない…」

「川嶋、気を悪くしたんなら、すまねぇ。ただ…、せっかく一般人にはないものが手元にあるのに、
それを全く顧みないってのは、ちょっとどうかと思っただけだ」

亜美は、悪寒を感じたかのように、ぶるっ、と身を篩わせた。

「あたしって、本当に勝手だよね…。高須くんも不愉快になって当然だよ…。
でも、正直、女優の娘であるとか、モデルやっていたっていうレッテルが重いんだ…。
下手にこんなレッテルがあるから、周囲から変に見られて『異分子』になっちゃう。
大学でも、地味な服装で目立たずに居るのも、変に周囲から浮かないようにしたいから…」

「だが、大学にだって、川嶋のファンだった奴は居る。少なくとも、そういった連中は、川嶋には好意的なんじゃねぇか?」

亜美は、瞑目して左右に頭を振った。

「うちの大学、結構お堅いでしょ。モデルとかの浮ついたものを極端に嫌う女子が少なからず居るから、身なりや言動
にはこれでもかなり注意しているんだ。男子は、かつてのストーカーを彷彿とさせるようなキモイ奴ばっかだし…。
もう、うんざり…」

そういえば、先日の土曜日に線形代数学の講義を終えた竜児を待っていた亜美が、数学科の陰険そうな女子学生
数人にからまれていたことを竜児は思いだした。

『あなた、モデルやっていたのよねぇ?』

『で、なんで、そのあなたがこの大学に来たの? ルックスがいいだけじゃなくて、お勉強もそこそこできますってこと?
なんかイヤミね』

『親は女優なんでしょ? そっち方面にでも行けばいいのに』

その言動には、嫉妬と侮蔑と嫌悪と敵意と、少しばかりの羨望に入り交じっていた。
竜児は、彼女らの輪の中に飛び込んで、

『話し中悪いけど、俺、こいつと同じ高校の出身。よろしくな!』

と、極悪フェースで数学科の陰険女子を退散させ、唇を噛んで屈辱に耐えていた亜美を救出した。
亜美が、キャンパスではグレーやブルーを基調とした地味な服装で大人しくしていることが多くなったのは、それ以降
ではなかったか? あれは、亜美なりの予防策というわけなのだろう。
目立たずじっとしていることで、小うるさくて陰険な女子や、ストーカーもどきの男子を避けようとしていたのだ。
加えて、キャンパス内では、可能な限り竜児や北村と一緒にいるというのも、その予防策の一環か。

「川嶋、すまねぇ…。いろいろ辛かったんだな。俺が『共感できない』と言ったことは忘れてくれ…」


亜美は、力なく竜児に寄りかかり、うっすらと目を開けた。

「いいんだよ、あたしは客観的に見れば恵まれ過ぎているのに、その恵まれた施しに自分自身が耐えられなくなって
いたんだ。だから、あたしは、自分を変えたいと思って、高須くんと同じ大学に行き、弁理士試験も受験するつもりで
いる。それだけのことなんだ…」

『異分子』であったことに端を発した亜美の懊悩は、竜児が想像していたものよりも深かった。親子の確執や、大学で
のこと、特に母親との不仲は竜児には全く解決不可能な問題だ。
亜美自身が、その心の裡で解決を図らなければならない。
そのために竜児は思う。『川嶋、何を意固地になっているんだ』と…。


***
気抜けして脱力した亜美の肩を支えながら、竜児は博物館から出た。受付のスタッフからの視線が妙に痛い。
そのスタッフには、人相のよくない男が、顔色の悪そうな女の子の肩を抱き、その子を引きずるように無理に歩かせ
ているように見えたに違いない。
もしかしたら警察に通報されるかも知れなかった。その時は、亜美が弁護してくれるだろうか…。

にわか雨は過ぎ去り、濡れた路面が赤い夕日を照り返している。北と東の空には、にわか雨を降らせた積乱雲が
渦巻いていたが、西の空は晴れ渡り、オレンジ色の太陽が洋館の建ち並ぶ街並みの彼方に見えた。

心の裡を全て吐き出せば、心理的には楽になる、よく聞く話だが、真実ではない、と竜児は思う。
亜美は、おそらく全てを竜児に打ち明けたに違いない。しかし、打ち明けたからといって、心の裡の懊悩が解決する
わけではないのだ。むしろ、亜美自身ですら認識していなかったような心的外傷が露呈し、
結果、彼女をさらに精神的に追いつめることになってしまったのではないか。
竜児の傍らの亜美は、双眸を物憂げに半開きにして、夕日で赤く染まっている外人墓地の門をぼんやりと眺めている。

「なぁ、川嶋。墓ばっか見ててもしょうがないから、港の見える丘公園に行ってみよう。こっから目と鼻の先だし、一応は、横浜のデートスポットの定番だしな…」

公園は、岩崎博物館から100メートルほどしか離れていない。山手本通りを突き当たりまで行けば、
そこはもう港の見える丘公園だ。
雨上がりといっても、大荒れに荒れた天気の後だっただけに、公園には竜児と亜美の他には誰もおらず、先ほどの
豪雨でずぶ濡れになった哀れな野良猫が二、三匹ほど、うろちょろしているだけだった。
竜児は、高台からバルコニーのように扇状に張り出しているような展望台のベンチに亜美を座らせ、
自らも、その右隣に腰掛けた。
ベンチは、にわか雨でびしょびしょだったから、竜児は、持参したタオルで如才なく拭く。

だが、肝心の眺めは…。
展望台からは、灰色の煤けたような壁ばかりが目立つ倉庫群が、無愛想に拡がっていた。
雨に濡れたせいで、かえって、壁の色が濃く見え、煤けてうらぶれたような感じがいっそう強調されていた。
その上を、首都高速道路の高架がループ状に伸び上がり、横浜ベイブリッジにつながっている。
さらには、それらの光景に赤い夕日が、どぎついアクセントを添えていた。
SF映画に出てくる近未来の都市といった感じはしたが、鬱な気分の時に見て気持ちが落ち着くという類の光景ではない。

「雨上がりって、いうのに、薄汚れてて、気が滅入るわね…。夕日を浴びていても、ちっともきれいじゃないし…」

亜美が、今にも眠ってしまいそうなほど、儚げな囁きで、目の前に広がる景観が期待はずれであることを告げた。

その亜美の横顔を、夕日が赤々と照らす。
横合いからの光で立体感が強調された様は、憂いを帯びた表情と相まって、息を飲むほど美しかった。
特に、その憂いを帯びた表情は、亜美の姿を見慣れているはずの竜児にとっても新鮮だった。単に目鼻立ちが綺麗
というレベルではない、何かを感じさせる…。

亜美は、そんな竜児の視線を感じたのか、きょとんとして、竜児の方を向いた。

「どうかしたの? あたしの顔、何か変?」

「違う、違う、その逆だって…。やっぱり、川嶋って、すげえ美女なんだなって思って見とれていただけさ」

亜美は、はっとしたが、すぐに疑い深そうに目を細めた。気落ちしている自分に対する竜児の作意を感じたのだろう。

「高須くんが、あたしの容姿を誉めたのは、これが最初だね…。だから、ちょっと信じられなくってさ…」

そう言えばそうだったかも知れない。竜児だって、亜美が特別美しいということに異論はない。そのことが、あまりにも
常識的な事柄となってしまったのだろう、敢えて亜美の美貌を褒め称えたりはしなかった。

「川嶋がかわいいとか、美しいとかってのは、誰もが認めることじゃねぇか。だから、俺如きが改めて言うまでもねぇと
思ってな…」

これは、亜美に値する弁解めいたものでもあったのかもしれない。
竜児自身、さすがに今まで一回も亜美の容姿を誉めなかったのはまずかったと思ったからだ。

「そうね、それは正論かもしれないわね…」

−おや?
蒼白に近かった亜美の頬に血色が戻ってきた。ただし、眉を心持ちつり上げ、眉間には微かに小じわが寄っている。
喜色ではなく、僅かながら怒気を孕んだもののようにも思えた。

「でも、大学にたむろしているようなストーカー紛いの連中に、『きれいだよ』なんて言われても、亜美ちゃん、ちっとも
うれしくないし、逆に気持ち悪いんだけど? その辺は理解してる?」

不愉快そうに竜児を大きな瞳で一瞥する。
先ほどの憂いを帯びた表情はたしかに美しかったが、怒りとはいえ、ストレートな感情が織り込まれた表情も悪くない。

「でも、言われねぇよりはいいんじゃねぇか?」

色恋沙汰に鈍い男を演じて、わざと亜美の神経を逆なでするつもりだった。これで、少しでも亜美が元気になってくれ
るのなら、竜児は喜んで愚者を演じる。

「はぁ? 高須くんて、バカ? 不特定多数のわけの分からない連中にいくら誉められても、うれしくねぇっつぅの!
そんな連中に誉められるよりも、特定の誰かに誉められたいじゃない! 違うの?」

眉を大きくつり上げて竜児を睨む。『いいぞ、これでこそ川嶋だ』と、竜児は内心ほくそ笑む。

「なぁ、川嶋にとって、特定の誰かってのは、誰なんだ?」

「もう、本当に、あんたって人はぁ! あたしにとって特定の人っていったら、言うまでもないでしょ!
それを、あたしに言わせるような無粋なことをさせないでよ!!」

くわっ! とばかりに双眸を見開いて、頬に血の色みなぎらせ、亜美は竜児に詰め寄っていた。
その迫力に、竜児はちょっとたじろぎながら、最後の一押し。

「な、なぁ、川嶋。ちょっとは、元気になったようだな…」

「え?」

竜児を、ポカポカ叩こうと、肘を曲げて構えていた両の拳の動きを止めて、亜美は一瞬、硬直する。
そして、竜児に一杯食わされたと悟るや、耳まで真っ赤に染め上げて、

「ばかぁ〜っ!!」

竜児のデコに右ストレートをお見舞いした。

「「いてて…」」

竜児は額に手を当て、亜美は右手を指先を下に向けてぶらぶらと振って、それぞれの痛みを癒す。

「もう、鈍感で石頭のくせに、あたしを謀るなんて、生意気なんだから!」

観覧車で半ばふざけて叩かれたことを別にすれば、亜美から本気で殴られたのは、久しぶりだ。

「川嶋、効いたぜ…。だがなぁ、鬱になって落ち込んでいるお前よりも、嫉妬深くて、ちょっと性悪だけど、
元気があって、俺と一緒に居てくれる、いつもの川嶋が俺は好きなんだ」

竜児は、亜美のパンチが炸裂した額を押さえながら、にやりとした。

「あんたが心にもないことを言うからよ!! それに、あたしのことを、あんたに真っ先に誉めて欲しいってことを、
あたしの口から言わせようとした小賢しさは、もう、勘弁できないんだから!!」

「川嶋が怒っている二番目の理由は、たしかにその通りだ。そいつについては謝るよ。済まなかったな…。
だが、一番目の理由については謝罪できねぇ」

「な、何よ…、何なのよ! それに、亜美ちゃんのことを、嫉妬深いとか性悪とか、いろいろ言ってくれるわね」

つんと澄ましてはいるが、紅潮した頬が小刻みに震え、口元がちょっと緩んでいる。
照れていることを隠している時に亜美がよくやる仕草だ。

「なぁ、川嶋。俺がお前のことを美女だって言ったのは本当だ。これには、お為ごかしや嘘は一切ねぇ。それどころか、昔よりも今の方が、ずっとずっと綺麗になった。改めて惚れ直したぜ…」

純朴な竜児にしては、精一杯の賛辞なのだろう。言い終える前に、今度は竜児がちょっと赤面し、神経質そうに、
前髪に指を絡ませた。

「本当? あたしって綺麗になった? 惚れ直したって、本当!?」

亜美は、竜児の言葉に、豆鉄砲を喰らった鳩のように、目を丸くした。


「ああ、今が一番綺麗だよ」

「本当に、本当? あたし、もう、エステもろくに行ってないし、ジムもやめちゃって、近所をジョギングしてるだけだし、
イヤなことの連続で、表情も冴えないんだけど…」

「容貌が整っているとか、スタイルがいいとか、肌が綺麗とかの上っ面だけじゃないよな、今の川嶋の美しさは。
なんつぅか、半人前な俺じゃうまく言えねぇけどよ…」

「どういうことよ?」

疑い深げな口調でそう言いながらも、亜美は、紅潮した頬が火照るのか、それを冷ますかのように両手で押さえている。

「お前にもいろいろなことがあって、それは今もお前を苦しめているかも知れねぇ。だが、そういった苦しみと向き合う
ことで、お前も多少は成長した。それが、さっきの横顔に現れていたような気がするんだ」

「え? 成長? どこが?」

「川嶋の全部というか、特に内面だな」

亜美は、頬を紅潮させたまま、目を細めて、ちょっと性悪そうな笑みを浮かべると、「そうか、ここなのね?」と、言って、
両手で乳房を支えて揉むように揺さぶった。
竜児は、「ふはは…、そっちじゃねぇよ」と、苦笑する。

「おう、いつもの川嶋が戻ってきたな。モデルだったこととか、おふくろさんとの確執とか、大学での変な連中とか、
イヤなことや気に入らないことはいろいろあるだろうが、少しずつ解決していこうや。今すぐは無理でも、きっと、
いつかは何とかなるさ」

亜美は、「うふふ」と、竜児に対して悪戯っぽい笑みを返す。

「そうね、今はちょっと厭世的な気分になっちゃってるけど、あたしなりに戦ってきたのもたしかなんだわ…。
本気で受験勉強したのも、今となってはいい思い出ね。ああしたことが一種の通過儀礼になって、
あたしという存在を成長させたことは認めるわ」

「そうだな…」

熟した杏を思わせる夕日が、山手の街並みの彼方に没しようとしていた。
公園には、竜児と亜美の二人きりだ。そのまま肩を寄せ合って、お互いの存在を確かめるような軽いキス…。
今、この瞬間にも誰かがやって来そうな気配がして、竜児も亜美もドキドキする。
触れ合っていた口唇を、そっと離して頷き合う。
事件というか、ハプニングというか、アクシデントに彩られた、初デートはフィナーレなのだ。

夕日を真正面から浴びながら、二人は山手本通りを無言のまま並んで歩く。
初夏の夕日は意外なほどに眩しく、竜児は例の黒眼鏡を掛けた。
そのミラーレンズには、夕日で赤く染まっている山手の街並みと、傍らを歩く亜美の姿が写っている。
亜美も、お揃いの黒眼鏡を掛けようと思ったが、バッグの中からその眼鏡を探すのが億劫で、
裸眼のまま目を細めて沈み行く太陽の方角へ向かっていた。

道は、公園と教会の前を通った後、女子高が密集している地域にさしかかった。

どの学校も、お嬢様学校として有名なところで、そうしたものに疎い竜児でもそれらの校名には聞き覚えがあった。
そのうちの一校から、ラケットを入れたバッグを肩に掛け、スポーツバッグを手に提げた影が三つ、
山手本通りに現れ、竜児と亜美の方に向かってくる。
日曜日だというのに、部活だったのだろう。ラケットが小作りなことがバッグの上からも伺えることから、バドミントンの
練習をしていたらしい。長い手足に引き締まった体つきであることを、それらのシルエットが主張する。
中学時代にバドミントン部だった竜児には、彼女らが、かなりの腕前であろうことが察せられた。

竜児たちと、その三人との距離が縮まってくる。

「あれ?」「ねぇ、あの人…」「うん、うん…」

逆光なので、彼女らの表情は、はっきりしないが、何かを言い合いながら竜児たちをじっと凝視しているかのようだ。

「あんた、サングラスかけてても、何か、雰囲気がまずいのかしら…。やっぱヤンキー風味?」

「おい、それはあんまりだろ…」

三人が間近に迫ってきた。だが、彼女らは、竜児ではなく、亜美に視線を集中させている。
そのまま、亜美を見つめたまま、三人はその場に立ち止まり、何やらひそひそ話を始めている。

「ねぇ、あの女の人、やっぱ、あのモデルさんだよね」「うん、うん、川嶋亜美さん」「やっぱり?」

竜児は、亜美の右脇腹を肘で軽く触れ、「おい、お前のファンみたいだぞ…」と、囁いた。

「あの〜、すいません、ちょっと宜しいでしょうか?」

三人のうち、最も背が高いボブカットの子が声を掛けてきた。

「はい?」

内心では、ちょっと動揺しながら亜美は立ち止まって、その子たちを見た。白い夏服の半袖と、ちょっと丈が短めの
スカートから伸びる贅肉のない健康そうな腕と脚、そして何かを期待するかのように夕日を映して輝いている六つの
瞳があった。

「あの〜、川嶋亜美さんですよね? モデルの…」

おずおず、といった感じで亜美の前に歩み出たボブカットの子は、亜美をまっすぐに見据えてはいるものの、体の前
で組んだ手を、ちょっと落ち着きなさそうに、すり合わせるように動かしている。
それが、思いがけないものを目にした時、又は緊張している時に、その子がよくやる仕草なのかも知れなかった。
そこには亜美を咎める邪険な雰囲気はみじんもない。

「はい、川嶋です。でも、正しくは、『元モデル』だけど…」

にっこりと、とっておきの営業スマイル、天使のような笑みを彼女たちに向ける。

「「「うわぁ! やっぱり」」」

まるでソプラノとメゾソプラノの合唱のように、三人の歓声が通りにこだました。


「私たち、雑誌に出ていた川嶋さんをお手本に洋服選びをしていたんです。川嶋さんは、私たちにとって、あこがれの
存在そのものです!!」

セミロングの髪をポニーテールにまとめた子が、喜色満面といった感じでそう言った。
亜美は、改めて三人の体型を観察した。亜美と同じく手足がすらりと長い彼女たちであれば、
亜美が着ていた服も似合ったことだろう。

「ありがとう、こんなところで私を覚えてくれている人たちに会えて、うれしいわ…」

亜美は、涼やかな笑みを絶やさずに、三人の顔を見比べるように、視線を移動させた。亜美に見つめられた子は、
それぞれ頬を朱に染めて、ちょっと恥ずかしそうにうつむいた。
見る者を男女の別なく魅了するモデルとしての瞳の威力は、今もって健在なのだな、と竜児は思う。

「あ、あのぅ…、あたしたち、川嶋さんがモデルをやめたと聞いたときは、本当にがっかりしたんです。もう、モデルを
やることはないんですか?」

ロングヘアを、今日の亜美のように一本の三つ編みにした子が、おずおずと尋ねてきた。
亜美は、その子の髪を、「今日のあたしと同じね…」と、前置きして、その子が赤面する反応を楽しむかのように
一拍置いてから、話し始めた。

「ええ、受験勉強に専念するため休業したんだけれど、ちょっと長く休みすぎたみたい。
だから、もう、モデルには戻れないわ」

三つ編みの子は、「そうですか…」と、さも残念そうに、語尾が消え入るように言い、他の二人と目を交わす。

「今は、大学生なんですよね?」

亜美よりも少しだけ背の高そうなボブカットの子の問いに、亜美は頷いて大学名と学部名をを告げた。
三人の「「「すご〜い」」」というどよめきが波紋のように広がっていく。

「ええ、でも、本当に猛勉強して、何とか合格。だから、今後は、大学生らしくちゃんと勉強していこうと思っているの」

三人は口々に、「川嶋さんかっこいい!」「やっぱ、見た目通り頭いいんだ」「才色兼備だよね」と、かしましい。
亜美は、そんな三人を微笑ましく思うのか、淡い笑みで、それでいてちょっと眩しそうに見る。

「なぁ、やっぱりモデルだった過去ってのは、そう悪いもんじゃねぇだろ?」

竜児の耳打ちに、亜美は微かに頷いた。
そうした二人のやり取りに気付いたボブカットの子が、ちょっと頬を引きつらせて、亜美の方を向いている。

「か、川嶋さん、すいません、一緒の人は、川嶋さんの何なんですか? ひょっとして彼氏なんですか?」

ボブカットの子が、どもりながらも勇を奮うようにして亜美に問うた。
その問いに、竜児はもちろん亜美も一瞬、「え?」と、たじろいだが、亜美はすぐに笑顔を取り戻し、ちょっと誇らしげ
に胸を張った。

「そう、私と同じ高校の出身で、今は同じ大学に通っている高須くん。この人と一緒に勉強して、二人そろって合格したの」

「「「お、おぉ〜!!」」」


今までよりも一段と大きなどよめきが辺りにこだました。閑静な文教地区には不似合いな歓声が、
その後も「きゃぁ、きゃぁ…」と余韻のように尾を御引いている。
何の邪気もなく礼賛する少女たちに囲まれてまんざらでもなかった亜美も、ちょっとまずいと思うほどに、
彼女らのはしゃぎようは弾けていた。

「あ、あの、あんまり道端で騒いでいると、近所の人に迷惑だろうし、それにあなたたちの学校の近くだから、
先生方に見つかったら大変…」

三人は、亜美の言葉に「もっともだ」と頷いたが、一瞬、企み事がありそうに、にやりと笑って互いに目配せした。

「じゃ、じゃぁ、川嶋さん、それに川嶋さんの彼氏さん。よかったら、どっかで何か食べながらお話ししませんか?
この近所に、私たちが部活の帰りにいつも立ち寄るベーグル屋さんがあるんです。もし、時間があるんでしたら、
ぜひ!」

竜児も亜美も、今日は山下公園でソフトクリームを食べたっきりであることを思い出し、
空腹であることをいやが上にも意識させられる。
「行くか?」「そうね」と、言葉少なに了解し、竜児と亜美は彼女らの先導で、そのベーグル屋を目指す。
その店は、元町側とは反対の本牧側に下る坂道の中腹にあった。
元々は一般の民家だったものを店舗に改築したのだろう。スレート葺きの屋根と、白くペイントされた木の壁は、
洋館めいた風情があったが、店内は狭く、カウンターに竜児たち5人が座れば、もう満席だった。
カウンターの奥では、ごま塩の口ひげを生やした店主とおぼしき中年男性が、水に晒していたレタスを笊に入れて
水切りをし、玉ねぎを輪切りにしてオニオンスライスを作っていた。
その一連の所作から、竜児は、この店のベーグルの美味さを直感した。

「おすすめは何かしら?」

亜美の問いに、彼女たちは、「何でもおいしいですよ。でも、私たちは、いつも同じ物を注文していますから」

亜美は竜児と頷き合って、「じゃ、あたしたちも、あなた方と同じ物をいただくわ」と、告げた。

注文した物が来るまで、彼女たちは亜美に、服のこと、化粧品のこと、それにモデルをやっていた時の思い出話など
を矢継ぎ早に訊いてくる。亜美もイヤな顔ひとつせずに、彼女らの質問に笑顔で答えていた。

そうこうするうちに、注文したものがカウンターに並べられた。
一人前は、ベーグル二つに、一杯のコーヒー。
だがベーグルは、一つにはクリームチーズとスモークサーモンとトマトとオニオンスライスが、もう一つにはパストラミ
のスライスとクリームチーズとトマトとオニオンスライスが、ぎっしりと詰め込まれている。
そして、コーヒーは、500ミリリットルは入りそうなカフェオレカップに並々と注がれていた。

「すごい量ねぇ…」

「メニューにはない、ここのお店の特盛りです。部活やってる私たち限定なんです。川嶋さんたちは大丈夫ですか? 食べきれますか?」

「大丈夫、あたしたちは、お昼抜きだったから、好都合だわ。ありがとう」

亜美は、ちょっと驚いたような相好を、淡い笑みに変えて言った。


「豚肉じゃなくて牛肉だ。本物のパストラミだな…。オニオンスライスも変なえぐみが全くない。クリームチーズもいいも
のを使っている…。おいしいよ」

ベーグルを口にした竜児が、いつものクセで、料理に対するコメントを述べると、彼女たちは、意外なものを発見した
かのように竜児に注目した。

「彼氏さんって、グルメなんですか? 男の人で、お料理をこんなに的確に言い当てる人なんて、初めて見ました!」

ボブカットの子のコメントに、他の二人も頷いている。

「女子高だからサンプルが少ないってのはあるけれど、家族にも学校の先生にも、彼氏さんみたいな人はいないです」

「いや、お、俺は、別に…。思っただけのことを、何となく口にしただけで…」

好奇心が込められた六つの瞳が照準され、竜児は、ちょっと動揺する。そういえば、未だサングラスをかけたままだ。
亜美は、そんな竜児を例の性悪笑顔で眺めている。

「この人はね、お料理がとっても上手なの。それに、お掃除にお裁縫もプロ並。それに頭もよくて、何でもできちゃうすごい人…」

「お、おい、川嶋…」

「川嶋さん、それ本当なんですか!?」

という彼女らの問いかけに、亜美はにっこり笑って頷いた。

「いいなぁ〜、うちのパパやバカ兄貴に彼氏さんの爪の垢でも煎じて飲ませたい…。
本当に、あの二人ときたら、生活能力ゼロ。ゆで卵すらできないんだから…」

亜美と同じ髪型の子が、ため息混じりに呟いた。それに他の二人も「そうだよね、うちもそう…」と、相槌を打つ。
その亜美と同じように髪を三つ編みにした子が、じっと竜児の顔を見ている。
亜美と似たようなスレンダーな体型であるせいか、どことなく雰囲気も近い。

「そういえば、彼氏さんは、どうしてサングラスをかけたままなんですか? もう、薄暗いから必要ないですよね?」

「あ、いや、これは…」

助け船を求めるつもりで竜児は亜美を見た。しかし、亜美は意外にも、

「そうね、高須くん。暗いから眼鏡は外しましょうよ。もう、目を守る必要ないし…」

白く繊細な指先を竜児の前に突き出して、サングラスを奪い取ろうとする。

「お、おい、ちょっと待ってくれ!」

竜児はのけぞって、眼前に迫る亜美の指先を避けた。

「大丈夫、彼女たちなら。もう、あんたが家事万能で、やさしいお兄さんだって分かってるし、それに…」

「それに、何だ?」


「外してみれば、分かるかもしれないわね…」

竜児は不承不承ながらも、半ば観念してサングラスを外した。前髪越しに眼光鋭い三白眼が覗く。
それには、六つの瞳が向けられている。そして、しばしの沈黙。

「何ていうか、目つきは鋭そうだけれど、本当はすごくやさしい人なんだなっていうのが、分かります。
全体の雰囲気が、すごく柔和な感じで、素敵です」

三つ編みの子のコメントに、ボブカットの子も、ポニーテールの子も、「うん、うん」と頷いて賛意を表明している。

「頼り甲斐のある、お兄さんって感じですよね…、私らから見れば」

ポニーテールの子が言えば、

「そうそう、そんな感じ。でも、素敵なお姉さんである川嶋さんの彼氏さんなんだから、私たちから見れば、
当然に素敵なお兄さんか…」

と、ボブカットの子が「うふふ」と笑い、他の二人も「そりゃ、そうか…」と一緒になって笑った。

一方の竜児は、予想外の事態に混乱していた。

「なぁ、川嶋、これはどうなってるんだよ?」

その亜美は、目をつぶったまま微笑して、

「あたしが変わったんだとしたら、あんたも当然に変わっていたんだわ。望ましい方向、よい方向にね…。変な言い方
だけど、この子たちの学校って、名門校でしょ? この子たちも賢いのね。だから、皮相なものに騙されない。
そういうことじゃないかしら」

そうした竜児と亜美のやりとりを、三人は見咎め、物言いたげにじっと見ていた。

「あ、あら、どうしたの? みんな、お話もせず、かといってお食事もしないで、どうしてあたしたちをじっと見ているの?」

彼女らの、『皮相なものに騙されない』視線を受けて、亜美もちょっと狼狽気味だ。

「あの〜、さっきから川嶋さんと彼氏さんを見ていると、何だか、普通の恋人っぽくないなぁ、って思っちゃって…」

と、ポニーテールの子が口火を切ると、
三つ編みの子は、亜美の「ええっ? どうして?」という抗議にも似た応答を遮るように、

「そうそう、単純に惚れた腫れたとかだけじゃない感じですよね。変にデレデレしてないっていうか、お互いを尊重しあっ
ているというか…」

と、付け加え、
そして、ボブカットの子は、

「何ていうか、すいません、怒らないでくださいね。もう、お互いに遠慮がないご夫婦みたいな感じなんですけど…。
あ、す、すいません!!」


安直に結論付けたことを、さも後悔するかのように、耳まで赤く染め、さっと素早くお辞儀をした。
その子に代わって、今度は三つ編みの子が、好き放題に言われて頬を赤らめて困惑している亜美と竜児を
じっと見つめている。

「でも、川嶋さん。川嶋さんはその人のことを、すっごく信頼しているし、彼氏さんも、川嶋さんのことを大事に思って
いることが、私たちにも伝わってきます。失礼を承知で、お伺いしますけど、結婚されるんですよね?」

彼女らの大胆な問いかけに、竜児はもちろん亜美も絶句したが、亜美は、落ち着くためにナプキンで口元を拭ってから、
彼女らの方に向き直った。
そして、「お、おい、川嶋…」と、言いかけている竜児の足を思いっきり踏んづけて牽制し、

「そう、大学を卒業したら、あたしたちは結婚するつもり…」

と、表情を崩さずに、凛とした声で言い放った。
「ああ、やっぱり」「すごくお似合いです」「おめでとうございます、ってちょっと気が早いですね」と、三人は歓声を上げる。
しかし、亜美は、引き締めていた表情を、目を細め口元を少し歪めた、竜児にとってお馴染みの性悪笑顔に豹変させると、
こう言ってのけたのだ…。

「嘘だけどぉ…」


***
「騙されたと思って、ついてきてくださいよぅ」

具がみっちり詰まったベーグル二つを、たっぷりのコーヒーと一緒に平らげた竜児と亜美は、部活帰りの女子高生
三人に先導されて港の見える丘公園に戻ってきた。
竜児も亜美も、夕刻に訪れたときは、灰色の建築物ばかりが目立って、興を削がれた旨を告げ、消極的だったのだが、
『この時間なら保証します。ですから是非!』という自信たっぷりな態度に負けて、彼女らに引っ張られるようにして、
この公園の展望台を再訪したのだ。

「見てください。どうですか? 明るいうちとは全然印象が違っていませんか?」

三人のうちのリーダー格らしいボブカットの子が、展望台から眼下に広がる光景を指さした。
そこには、光の海が広がっていた。
夕日に照らされて、煤けた姿を晒していた倉庫群は夜の帳に沈み、代わって色とりどりの照明が闇を彩っていた。
視界を寸断するかのように伸びていた首都高速道路も、まばゆい光の帯となって、輝くようにライトアップされている
横浜ベイブリッジにつながっている。

「きれいねぇ…」

「明るいうちとは、全然印象が違うな…」

「でしょう? この公園は、昼間はダメなんです。昔は昼間も眺めがよかったらしいですが、首都高速道路が開通して
からは、夜景を見るためのスポットになっちゃいました。
でも、その首都高速道路が、夜景ではけっこう綺麗なアクセントになっているんですよ」

ボブカットの子が、ガイドよろしく解説してくれた。


「いつもなら、アベックでごった返しているんですが、やっぱり夕方までの嵐で、みんな退散しちゃったんでしょうね。
この時間帯に人が居ないなんて、ものすごくラッキーですよ」

と、ポニーテールの子が、小手をかざすようにして、辺りを見渡した。

「本当にありがとう。こんな素敵な夜景があることを教えてくれて。それに、さっきのベーグルもおいしかったし…。
あたしたちにとって、本当にいい思い出になるわ」

亜美は、その三人の女子高生の手を一人ずつ両手で握りながら礼を述べた。三人は、頬を赤らめながらも、
亜美の視線を真正面からにこやかに受け止め、お辞儀をした。さすがは名門校だけのことはあるのか、
躾がしっかりしているな、と竜児は思う。

「じゃあ、私たちは、これで帰ります。川嶋さんに彼氏さん、失礼致します」

そう言って、三人揃ってお辞儀をすると、薄暗い街路灯に照らされた石畳の道を戻っていった。
風に乗って微かに聞こえてくる、元町や山下公園方面の喧騒、首都高速道路を行き交う自動車の騒音を別にすれば、
他には人為的な音が聞こえて来ない静かな夜だった。

「立っていても何だから、座るとするか…」

二人は、1時間ほど前に座っていたベンチに再び腰かけた。
その位置からは、光の帯となった首都高速道路と横浜ベイブリッジがよく見えた。その光の帯は、横浜ベイブリッジに
向かう車の赤いテールランプと、逆に横浜ベイブリッジからやって来る車の白いヘッドライトとが、コントラストをなして
いた。

「二面性、とでも言うべきなのかしら…」

竜児は、亜美が出し抜けに言った内容がとっさには理解できず、「何だ、どういう意味だ?」と、亜美に訊き返した。

「別段、深い意味はないのよ。ただ、夕方見た状態が、ここの景色の全てではなかったということ…。
明るいうちの景色が一方の面だとしたら、もう一方の面は、今のような綺麗な夜景ということになるわね」

「ちょっと見ただけで、ダメ出しはよくないってことか…」

「そうね…、一面ではなくて、他のところもちゃんと見なくちゃいけないわね。
今日は、いろいろとそれについて思い知らされたような気がするわ…」

そう言って、背を丸め、膝の上で組んだ両手の上に顎を乗せた。
竜児は、街灯の青白い光に照らされた亜美のうなじに目をやった。

「なぁ、川嶋…」

「なぁに?」

亜美のうなじが微かに揺れる。

「今は無理かも知れねぇけど、いつかきっと、モデルやっててよかったと思えるような時が来るんじゃねぇかな…。
いろいろ辛いことはあったし、今もそれは続いているのかも知れねぇけど、だからといって、全部なかったことにする
のは、正直、もったいねぇ、と思うんだ…」


亜美は、「う〜ん、そうねぇ…」と、興が乗らないのか、鼻声っぽい物憂げな返答をして、しばらく押し黙った。
竜児も、モデルについてあまり話したくなさそうな亜美の空気を読んで、それ以上の突っ込みはやめる。
風に乗って汽笛が聞こえてきた。会話が途切れると、街や道路からの微かな騒音も、ざわざわと聞こえてくる。

「でもねぇ、さっき、あの三人と話して、モデルだったという過去を完全に捨て去るのは間違いかもしれないって
思えたのも事実…」

亜美の大きくはないが、よく通る声で、微かに聞こえていた騒音が打ち破られる。

「そっか…」

「まだ、あたしを覚えてくれている人が居るんだもの…。それなのに、あたしの方から一方的にモデルであったことを
無視することはできないわね…」

「そうだな…」

「それに…」

亜美は、丸めていた背筋を伸ばし、膝の上で組んでいた腕を解くと、姿勢を正すようにしてベンチに座り直した。

「あたしってさぁ…、結局、モデルとかの過去を単に重たいレッテルだって思っていたんだよね。でも、それはレッテル
にそぐわない自分の中身のなさに怯えていたのかもしれない」

「どういうことだよ」

「モデルってさぁ、一生続けられる仕事じゃないからねぇ。若くて綺麗なうちだけしかできない。
何せ、見た目だけが評価される仕事だから…」

亜美は、おもむろに立ち上がり、腕を腰にやったり、胸を張ったりしてポーズをとった。
モデルを廃業したといっても、一つ一つのポーズは的確で、指先にまで神経が行き届いていることが竜児も分かる。

「川嶋は、見た目だけとか言うけど、今、俺が見せてもらっている限りでも、川嶋はモデルとして高い技量を持って
いるってのが分かる。それに、中身がないってのは、何なんだよ…」

亜美は、ひとしきりポーズをとると、再び竜児の傍らに腰掛けた。

「モデルってのは、美が全てなんだよね。でも、その美ってのは皮相なもので構わない。ウソのツラで十分なんだよ。
でも、加齢ってのは残酷で、そのウソがつけなくなる。そうなったときの、あたしって、本当に何もない、単に昔モデル
だったっていうだけの、おばさんになっちゃうんだろうね…」

亜美は、ストレッチングのつもりなのか、ベンチに座ったまま、左右の指を組み合わせ、その状態で両腕をまっすぐに
突き出した。同時に、両の脚も、つま先までピンと伸ばす。

「そのためにママはあたしも女優にしようとしたんだろうね。モデルに比べたら、女優には桁違いに大きな演技力が
求められけど、それができれば、ママのような歳になっても活躍できる可能性が出てくる…」

竜児の「ああ…」という相槌に、亜美は口元をちょっと歪めるように引きつらせて、自嘲気味な笑みを浮かべた。


「でも、高須くんにも言ったように、モデルとしてちょっとポーズをとる程度じゃ、演劇ではド素人もいいところ…。
モデルだっていうだけで、役者としての中身がない自分を認めるのが怖かったのかもしれない。
それで、逆に、モデルだったっていうレッテルが邪魔な物に感じられてきたんだろうね…」

「でもよ、さっきの子たちとのファッションや化粧品やブランド品に関する会話、あれは普通の奴にはできないレベル
だよな。彼女らも、単にあこがれていた人と話ができたっていうもんじゃなくて、本当に川嶋の知識やセンスに感銘を
受けていたみたいだし。まぁ、男の俺には、正直よくわかんねぇけどよ…。
そういった、知識やセンスを何かに生かせるんじゃねぇのか?」

亜美は、うふふ、と淡い笑みを竜児に向けた。その笑みは「我が意を得たり」と言いたげだ。

「そうね、だから弁理士試験なんだわ…。ママの思惑通りにはならないための弁理士試験だったけど、今日、
彼女たちとお話しして、高須くんともお話しして、そう思うようになったの。あたしにできるかどうか分からないけれど、
もし弁理士になれたら、デザイン、つまりは意匠とか、ブランド、つまり商標とかの関係の業務で、
その感覚が生かせるかもしれないっていう気がしてきた…」

そうして、「経験を飯のタネにする…、言うなれば実利主義丸出しで、ちょっと恥ずかしいけどね…」と、笑った。
竜児も、「別にいいんじゃねぇか? 実利主義丸出しでさ」と、笑みを返す。

「どのみち、川嶋がモデルだったということは、第三者に意味なく吹聴したってしかたないわけで、それよりも、
飯のタネにでもして有意義に活用した方がはるかにいいさ…」

不意に竜児は、亜美の顔から目をそらし、顎を上げて夜空を見上げた。別に、夜空を見上げたかったわけじゃない。
ただ、夢を語る亜美の表情がまばゆいばかりに美しく、その瞳で凝視されると息苦しさすら覚えたからなのだ。
テラスの骨組みの隙間からは、星がいくつか、地上の明るさに負けまいと健気にも瞬いているのが辛うじて確認できた。

「在学中に弁理士試験に最終合格して、卒業したら、どっかの事務所で修行して、何年かしたら、そこから独立して、
高須くんと、あたしとで事務所を共同経営する。それが、今のところのあたしの夢であり、目標ね…」

「鬼が笑い死にしそうなほど遠大な計画だな…。だが、俺も、そうなったらいいとは思う」

竜児は、夜空を見上げるようなふりをしたまま、亜美に応じた。顎を上げたため、無防備に伸び上がっている首筋に
亜美の熱っぽい視線を感じる。今、その瞳と対峙したら、亜美のなすがままになってしまいそうだ。

「理系の高須くんが所長で特許・実用新案の担当、文系のあたしが副所長で意匠・商標の担当、こんな感じかな…。
これって最強タッグかもね。ねぇ、高須くん、聞いてる?」

「お、おう…」

亜美の視線を受け付けようとしない竜児に、苛立ちを覚え始めたのか、亜美の語気が、ほんの少しだけ険しくなる。

「ねぇ、亜美ちゃんの夢って、聞いててつまんない? なんだか、高須くん、上ばっか見ていて、文字通り『上の空』で
亜美ちゃんの話を聞き流しているみたいだし…」

竜児は、「いやぁ、そんなことはねぇよ…」と言って、観念して亜美の視線を受け止めた。先ほどの竜児の態度の
悪さからか、ちょっと不機嫌そうに頬を膨らませ、目をちょっと細めている見慣れた亜美の姿があった。
きらきらと輝くように美しい亜美もいいが、こっちのちょっとブスッとした顔か、どこか性悪そうな顔の方が
何だか落ち着く。もっとも、正直にこのことを本人に告げたら、竜児がどんな目に遭うのか微妙だが…。


「それでぇ〜、事務所の名称は『高須特許商標事務所』、語感も悪くないし、いい感じじゃない?」

「おいおい、もう事務所の名前まで決めてるのかよ…。気が早すぎるぜ」

「長期的かつ全体的展望に立った戦略的な計画と言って欲しいわね」

「お前の言う『戦略』は、なんか一般常識とは違うような気がするんだが…」

「そうかしら?」

亜美は、それほど高くはないけれど整った鼻先を、つん、と上に向けて、目を閉じた。

「第一、特許事務所の名称ってのは、経営者である弁理士の名前を全部入れるのが筋なんだろ?
だったら『高須・川嶋特許商標事務所』だよな? 普通…」

亜美の頬が、ぴくん、と痙攣するように震えた。
−何かまずいことを言ったかな? 竜児はちょっと不安になる。
無言で頬をひくつかせた亜美との気まずい沈黙の中、竜児はしばし黙考する。
おそらくは、事務所の名前で、自分の名字が先頭に来ないことを不満に思っているのだろう、ということで、
事務所の名前を言い直した。

「そっか、『川嶋・高須特許商標事務所』か、これなら名前が五十音順だしな…」

亜美は、竜児のその言葉で、目をつり上げ、こめかみには青筋を立てんばかりの、般若顔で竜児を睨んだ。
しかし、それもほんの一瞬で、すぐに穏やかな淡い笑みをたたえた柔和な表情を浮かべた。

「…、高須くぅ〜ん、そういう気遣い、亜美ちゃん、うれしいな。さっすが、『気遣いの高須』」

亜美は、「お、おい、川嶋…」と言う竜児を尻目に立ち上がり、ベンチの後側から竜児の背後に回って、その後頭部に
もたれかかった。

「お!」

竜児の後頭部が、弾力に富んだ2つの物体の狭間に置かれ、亜美の体温が伝わってくる。

「うふふ、気遣い上手の高須くんに、これは、あたしからのご褒美」

亜美は、竜児の後頭部に胸を擦り付ける。それも、両の乳房を両手で支えて、時にはそれを押しつけ、時には乳首
がある先端でなぞるように竜児の後頭部を翻弄するのだ。

「か、川嶋、な、何か当たってる…」

「うふふ、何って、なぁ〜に? ほぅら、高須くんが教えてくれないと、亜美ちゃん、わかんな〜い」

谷間から乳首の辺りまでが、まんべんなく竜児の後頭部に擦り付けられてくる。特に、ブラ越しでも感じられる亜美の
乳首が、首筋辺りに触れてくると、ぞくぞくするような不思議な感覚に襲われ、竜児の意に反し、その分身が、むくむく
と鎌首をもたげる。
その様は、竜児の背後に居る亜美にも丸見えで…、


「ねぇ〜ん、高須くんも気持ちいいでしょ〜? もっと、気持ちいいことしたくなぁ〜い?」

「い、いや、俺は…」

「そうぉ? 亜美ちゃん、高須くんに、おっぱいくっつけていると、なんだか気持ちよくなってきちゃったんだけどぉ〜。
高須くんは、気持ちよくないのぉ〜? だってぇ、高須くんの股間の辺りが、何だかとっても元気良さそうなんだもぉ〜ん」

「あ、こ、これは…」

竜児は、反射的に、太ももの筋肉を引き締めて内股になり、股間の怒張をごまかそうとする。

「うふふ、無理しちゃってぇ。やせ我慢は、体に悪いわよぉ。ねぇ、高須くん、もっと気持ちいいことしようよぅ」

亜美は、両の乳房を竜児の背中に擦り付けるようしながら、竜児の肩越しに囁きかける。
亜美の体から立ち上る甘い匂いと、耳朶に吹き込まれる亜美の吐息が目眩を誘う。

「ねぇ、気持ちいいこと、し・よ・う・よ…」

とどめのつもりか、亜美は、竜児の耳朶からうなじにかけて、つぅー、とピンク色の小さな舌を這わせてきた。
もう、だめだ…、とばかりに、竜児は、あいまいに「お、おう」と返答した。
その直後、亜美の乳房の柔らかな感触も、甘い匂いも、かすかな吐息も、亜美の舌が耳朶から首筋に這う感覚も、
それらの全てが、両こめかみに電撃のように走った激痛で無慈悲にも遮断された。

「う、うわぁあああああ! い、いてぇ、いてぇよ!」

竜児の両こめかみには亜美の拳が、ぐりぐり、とねじ込まれていた。それも、渾身の力を込めて。

「川嶋ぁ、やめろぉ! やめてくれぇ!!」

「やめないよ! あたし本気でむかついたんだからね。もう、この鈍感!!」

亜美は、それこそ鬼か般若の形相で、なおも竜児のこめかみに両の拳を力一杯ねじ込んでいく。

「な、なぁ、川嶋。な、何で、お前は、そんなにもむかついているんだよ…」

息も絶え絶えに言う竜児に哀れを催したのか、亜美は拳のねじ込みを止めた。

「全然、心当たりがないの?」

竜児が、「全然ねぇ…」と、か細く言うと、亜美は般若の形相をいっそう険しくして、再び、竜児のこめかみへドリルの
ように両の拳をねじ込んでいく。竜児の絶叫が展望台にこだまする。

「か、川嶋ぁ、わけが分からねぇ! なんで、お前がそんなにも怒るのか、た、たのむよ、気ぃ悪くしたんなら、
あ、謝るから、お前がむかついている理由を、お、教えてくれぇ…」

「あんた、さっき自分が何を言ったのか憶えてないの? あんたは事務所の名前をなんつったの?」

そう言いながらも、亜美は両の拳に込めた力を緩めない。


「『高須・川嶋特許商標事務所』、いや、『川嶋・高須特許商標事務所』だぁ!」

二番目の事務所名を言った瞬間、亜美はよりいっそうの力を込めて、拳を竜児のこめかみにめり込ませた。

「あんたは、女心の機微ってもんを、もうちょっと学習しなさい! 『川嶋・高須特許商標事務所』? ばっかじゃね〜の」

「うわぁ、いてぇ、いてぇよう。川嶋ぁ、勘弁してくれぇ! それに女心の機微って何なんだよぉー」

「うるさい!! 鈍感なあんたはこの程度じゃ死にゃしないから、ぎゃあぎゃあ喚くな!
で、あたしが言った事務所名は?」

「わ、分かった、こ、答えるから、ちょっと、この拷問みてぇな責め苦を何とかしてくれぇ!!」

亜美は、ひとまず竜児のこめかみから両の拳を引き離した。しかし、事と次第によっては、いつでも再開できるように、
竜児のこめかみの両側から3センチほど離したところで拳骨を握ったまま待機しているのだが…。

「『高須特許商標事務所』だ…。たしか、お前は、そう言った」

「そうね…、何で、あたしがそう言ったのか、理解できている? あたしも弁理士になって、事務所を一緒にその名前
でやっていくっていうことが何を意味するのか…」

亜美は、ベンチにへたり込んでいる竜児を憮然として見下ろしている。その仏頂面には、竜児がまたぞろ空気の読め
ない事を言い出すであろうという苛立ちが表れていた。

「え、と、いや、しかし、そうなのか? でも、お前さっき、あの子たちの前で、嘘とか何とか…」

歯切れの悪い竜児の言動にキレそうになるのを堪えながら、亜美は押し殺した声で、答えにも等しいヒントをくれてやる。

「あんたねぇ…、あたしがいつまでも川嶋姓でいるとでも思ってんの? こんだけ言えば分かるでしょ」

「か、川嶋、つまりは俺たちは結婚してるってことなのか? でも、お前は、さっき、あの子たちの結婚するかっていう
質問には嘘だって言ってたじゃねぇか…」

亜美は、目を細めて、唇の右端を引きつらせ、頬を痙攣させて竜児を見た。
どうして、こいつは、想定問答集の悪い回答例みたいなことばかり言うのだろう、と思いながら。
−これは、お仕置きが足りなかったようね。
再び、亜美の拳骨が、無慈悲にも竜児のこめかみにめり込んでくる。

「うぎゃ〜っ!! ちゃ、ちゃんと答えたじゃねぇか」

「質問に質問の形式で回答しない。自分の意見は確信を持って言い切ること! これは口頭試問の鉄則でしょ?
それに、何であたしが、会ったばっかのあの子たちに、あんたとの将来を正直に言わなきゃならないのよ!
それぐらい察しなさい!!」

最後に、ぐぃっ! とばかりに出せる限りの力を込めて両の拳を竜児のこめかみにねじ込んだ。
激痛から解放された竜児は、三白眼から涙を流して、ぼろ雑巾のようにベンチにもたれかかっている。
亜美はそんな竜児の傍らに腰掛け、その涙をハンカチで拭ってやった。

「あたしがさっき言ってた『二面性』というものを、あんたは理解できていなかったようね。

あんたから結婚について何も言ってこないうちに、今日会ったばかりの第三者に、あたしが簡単に本心を言うわけが
ないでしょ? あんただったら、あたしの日頃の態度や、『高須特許商標事務所』と言ったことで、その辺の機微
は分かっていると思っていたのに…」

ハンカチをバッグに仕舞うと、「まぁ、バカ正直なあんたらしいって言えなくもないけどさ…」と、嘆息した。

「あんたの回答は赤点もいいところなんだけど、まぁ、あたしも鬼じゃないから…。追試で勘弁してあげよう」

亜美は、「つ、追試って何だ」と、うわごとのように呟く竜児の顎をつかみ、未だ痛みから朦朧としているような
その双眸を覗き込んだ。

「簡単よ。あたしの言うことを、一言一句違えずに復唱すること。いい?
ひとーつ、高須竜児と川嶋亜美は、今後、勉学に精励し、大学在学中に弁理士試験に合格することを誓います」

竜児も、不承不承ながら、亜美の言葉をなぞるように言った。

「う〜ん、もうちょっと大きな声で!
ふたーつ、高須竜児と川嶋亜美は、将来事務所を共同経営し、当該事務所の名称は高須特許商標事務所と致します」

「ふたーつ、高須竜児と川嶋亜美は、将来事務所を共同経営し、当該事務所の名称は高須特許商標事務所と致します!」

また、例の責め苦を受けるのは勘弁なので、竜児は半ばやけくそ気味に声を張り上げた。

「みーっつ、高須竜児は、川嶋亜美との永遠の愛を誓い、彼女に求婚することを宣言いたします。以上」

言い終えた亜美は、ちょっと頬を紅潮させて竜児の宣誓を待った。
しかし、竜児は、しばらく考え事をするかのように黙り込み、亜美の「何やってんの、早く復唱!」
と、詰られてから切り出した。

「なぁ、川嶋。俺は、こう言いたいんだが、いいか?」

さらには、亜美の、「ちょっと、ちょっと、一言一句違えずに復唱っていう約束でしょ?」という咎めを遮って、竜児は言った。

「川嶋、おれが弁理士になる本当の理由を、お前は薄々感づいているんだよな?」

亜美が、「え、ええ…」と、ちょっと曖昧そうに頷くと、竜児も、「よし、なら、回りくどいことはやめにする」と頷いた。

「俺は川嶋を幸せにしてやりたい。そのために弁理士として、それなりの社会的なステータスを得る。社会的にも川嶋
にふさわしい男になって、お前と結婚するんだ。そして、永遠の愛を誓う! これでどうだ?」

亜美は、一瞬ぽかんとしていたが、すぐに「うふふ…」という淡い笑みを浮かべた。その笑みは次第に増幅され、
やがて「あははは!!」という大笑いになり、亜美は涙を浮かべながらも腹を抱えて笑い転げた。

「お、おい、川嶋…」

亜美はひとしきり笑い転げると、笑いすぎて乱れた呼吸を整えながら、ハンカチで目頭を拭った。

「お前、泣いていたのかよ…」


亜美は、それには答えず、涙をハンカチで拭い終えると、幾分腫れぼったくなったまぶたを開いて、竜児を見た。

「模範的な回答じゃなかったけれど、及第点…。バカ正直でまっすぐなあんたらしい答えよね。あたしは、高須くんの
社会的な地位がどうであろうと関係ないのに、それに拘っているのがかわいいっていうか、古くさいっていうか…」

そうして、また、「うふふ」と、まんざらでもなさそうに微笑するのだった。

「川嶋には笑われると思っていたよ…。でも、言っちゃあなんだが、父親が居なくて、社会の底辺にいるような泰子が
唯一の肉親である俺と、セレブな両親が健在で、本人にもモデルだったというステータスがある川嶋とが一緒になる
には、何らかの仕掛けが必要なのさ」

「だからぁ、あたしは、そんなの全然構わないってのぉ!
ただ、高須くんが、亜美ちゃんと結婚する意思があるってだけで十分なんだから」

「俺たちの間では、それでもいいだろうな。だが、俺たちがよくても、周囲、特に川嶋の家の方が黙っていないだろう。
弁理士になっても、正直、川嶋との結婚を祝福してくれるかどうかは疑わしい。
しかし、非力な俺でも川嶋と結婚するために、できる限りのことをする。その一環としての弁理士試験合格なんだ…」

「あんたって、本当に古風で、変なところが頑固だねぇ…」

亜美は、そんな竜児に呆れたように言いながらも、うふふ、という微かな含み笑いを浮かべた。

「そうか? そういう頑固者と結婚しようとしている川嶋も相当に変な女だぞ」

亜美は、「ほほう、相当に変な女ときたか…」と、呟くと、目を細めた性悪笑顔で竜児を見つめた。

「どうした? 川嶋…」

「う〜ん、ちょっとねぇ…」

無意味に色っぽい鼻声で囁くと、亜美は白く繊細な指先を、竜児の股間に這わせていく。

「か、川嶋、な、何を!」

「亜美ちゃん、最愛の高須くんに『相当に変な女』なんて言われて傷ついちゃったのぉ〜。だから、高須くんに慰めて
ほしくてぇ〜。それにぃ〜、高須くんだって、さっき、気持ちいいことしたいって、言ってたじゃなぁい?
だからぁ、これはぁ、その続きよ、つ・づ・き…」

亜美は、竜児の股間の膨らみを、掌と白く繊細な指で包み込むようになで回した。
拷問まがいの責めの前に怒張した余韻もあってか、亜美のちょっと不器用そうな愛撫でも、
すぐにむくむくと鎌首をもたげ始めた。

「おま、ちょっと待て、ここは、公園だぞ。キスならまだしも、これはまずいって…」

「見たとこ、誰も居ないんじゃなぁ〜い? ここで、雰囲気出して、そのままホテルでも行きゃいいんだしぃ〜。
それにぃ、あたしたちはぁ、いずれ結婚するんでしょぉ? 今時、婚前交渉なんて、普通よ、ふ・つ・う…」

目を潤ませて迫ってくる亜美の吐息が荒い。女がマジで発情すると、こんな感じになるのか、と竜児は思った。
今までに亜美は何度となく竜児に迫ってきて、いずれもそれなりにエロかったが、

今度のは、これまでとは比較にならないくらいエロい。

「結局、何だよ、俺が言った『相当に変な女』で難癖つけて、エッチしたいだけじゃないか。
いや、もう理由なんかどうでもいいんだろ?」

亜美は、「そうね、どうでもいいかしら、そんな理由…」と興味なさげに言い放ち、狼狽する竜児に構わず、
その上に馬乗りになった。そして、自らの股間を、竜児の怒張したそれに押し付ける。

「第一、高須くんのこれって、こんなに元気…。で、亜美ちゃんのあそこも、もう疼いちゃてぇ。パンティライナー敷いて
なかったらぁ、今頃は大変なことになってんだからぁ〜。
ね、だからぁ、高須くんが責任とって、亜美ちゃんの疼きを鎮めてちょうだぁい」

竜児は、「知るか!」と、一喝したが、亜美が股間を押し付けたまま腰を妖しく動かすと、「おっ!」と、吐息を漏らし、
その快感に身もだえる。このままでは、下手したら射精してしまいそうだ。

「それにぃ…」と、亜美はじらすように前置きして、

「今日は安全日だからぁ、中出しおっけい! だからぁ、この勢いで、あたしたちは、一つになろぉう…」

紅潮した頬、潤んで熱っぽい瞳、甘い吐息とともに、密着している亜美の華奢な体からは、どくどく、という早鐘のような
鼓動まで伝わってくる。そして、同様に激しく脈打っている竜児の鼓動も亜美には伝わっているに違いない。
竜児は、逃れられない何かを感じ、ぎゅっと亜美を抱きしめた。
二人は、互いに見つめ合ったまま、唇を重ね…。

「あ〜っ、バカ、押さないでよぅ!」

「しっ、クライマックスなんだから、静かにしなさいよ」

「あ、あ、あ、もうだめぇ!」

エロスに満ちた甘いムードは、少女のものと思しき甲高い声で中断された。
ベンチの横に生えていたツツジの植え込みからは、三つの影が転がり出てくる。白い夏服に短めのスカート、
それにラケットとスポーツバッグ。

「誰? 誰なの?」

亜美は馬乗りになっていた竜児から、飛び跳ねるようにして離れ、誰何した。
とは言え、亜美はもちろん竜児にも、その三つの影が何者であるか察しはついていたのだが…。

「あ、あなた達、何でここに?」

覗いていたのは、例のお嬢様学校の三人。

「あ、ああ、す、すいません!!」

尻餅をついていたボブカットの長身の子が、飛び上がるように立ち上がって、バネ仕掛けのように、ぴょこん、と頭を
下げた。
残る二人も、口々に、「川嶋さんに彼氏さん、本当にすいません」と、亜美と竜児に謝罪した。基本的に躾は良くても、
好奇心には勝てなかったらしい。この点では、思春期の少女らしい、が…。


公園には誰も居ないだろうと思い込んでいた竜児と亜美は、突然のことに、まず驚愕し、覗き見られていたことに
気付いて羞恥し、狼狽した。
覗きは、軽犯罪法か迷惑防止条例に違反する可能性がある。しかし、ここは屋外の不特定多数の者が集う公園であ
り、むしろ猥褻な行為に及んでいたのは、亜美と竜児に他ならない。

「ま、まぁ、ここは公園だし、誰かが、い、居ても不思議じゃなかったわよねぇ…」

平静を装ったが、一部始終を見られていたかも知れないことで、亜美の語尾は微かに震えていた。

「すいません、悪気はなかったんです。ただ、大人の川嶋さんと彼氏さんが、どんな恋愛をするのか確かめたくて、
将来、私たちが恋愛する時のお手本にしようかと思いまして…」

三つ編みの子が、申し訳なさそうに消え入るような声で釈明した。

−見られていた? 一部始終を?
竜児とのきわどい行為で火照っていた亜美の頬の血の気が引いていく。

「お手本? あの、まさか、あたしたち二人がここでやっていたことの一部始終を見ていたの?」

「「「はい…」」」

「あたしが、高須くんの背後から、胸を擦り付けていたのも?

「「「はい…」」」

「あたしが拳骨で高須くんを懲らしめているのも?」

「「「はい…」」」

「あたしと、高須くんのプロポーズも?」

「「「はい…」」」

「あ、あたしが、高須くんに馬乗りになって迫ったのも?」

「「「はい…」」」

「そ、そのときの会話は、聞こえてないよね? ね、ね?…」

亜美は、今にも泣きそうな顔で、念押しするように三人の顔を見比べた。
ボブカットの子と、三つ編みの子は、そうした亜美への情けなのか、正直に言うことをためらっているのか、
沈黙している。
しかし、空気の読めない奴は、どこにでも居る。

「え〜と、たしか、『安全日』とか、『中出し』とか、『この勢いで、あたしたちは、一つになろう』とか、
聞こえちゃったんですけど…」

ポニーテールの子が、首を傾げながら、何の邪気もない表情で、呟いた。他の二人が、「あ、バカ、空気読めよ!」と、
言ったが既に遅し…。



「ああああっ〜、あ〜っ!!」

亜美は絶叫し、頭を抱えて、ベンチにうずくまる。そして、

「も、もう、お嫁に行けないよう…」

と、消え入るように呟いて、泣き出した。竜児は、やれやれとばかりに、亜美の肩を抱いて、そっと耳元で囁いてやる。

「な、なぁ、川嶋、大丈夫だって、冷静になれ。お前は、誰のところに嫁入りするんだよ?」

「う、うう、た、高須くんのところ…」

「だったら、何の心配もねぇ。俺も覗かれていた当人なんだから…。だから気にするな、な?」

「う、うん…」

亜美は、幼子のようにむずかっている。竜児は、このまま、そっとしておくことにした。
何よりも、これに懲りて、場所を選ばず劣情をむき出しにする亜美の悪い癖が、多少はマシになるかも知れない。

「さてと…」

竜児は、ベンチから立ち上がって、三人の少女たちに向き直った。
三人は、覗きと、竜児との睦言を盗み聞きされたショックとで、亜美が泣いてしまったことを深く反省しているのか、
うつむいたままで竜児に視線を合わせてこない。

「まぁ、俺は法学部じゃないから詳しいことは分からないけどよ…。お前らがやったことは、明らかに誉められたことじゃない」

竜児の言葉に、三人は、「はい、すみません」と、一段と深く頭を下げて謝罪した。

「川嶋も、あの通りだ。大人っぽく見えるけど、あいつは、結構、子供みたいなところもあってな…。
今回みたいに、泣き出すことも、そうは多くないけど、実はあるんだ」

「すいません、あたしが余計なことを言ったばっかりに…」

空気を読めなかったポニーテールの子が、申し訳なさそうに深々とお辞儀をした。

「いや、いいんだ。川嶋は、それでいて結構タフだから。凹んでいても、ちょっとしたことで立ち直るから、
そのことは気にしなくていい…。ただし、これだけは約束してくれ。ここで、見聞きした俺と川嶋のことは、
誰にも言わねぇでもらいたい。それだけだ、約束してくれるかな?」

「「「はい」」」

「いい返事だ。じゃあ、もう帰った方がいい。いくら三人とはいえ、女子だけで暗い夜道は危険だ。
俺たちのことは気にせずに早く帰ってくれ」

「「「はい」」」

しかし、先ほどのポニーテールの子が、おずおずと竜児の前に歩み出てきた。



「何だ?」

「あのぉ〜、川嶋さんの件は本当にすみませんでした。でも、これだけは言わせて下さい。
お二人のやり取りを見ていて、単純に好きっていうだけじゃなくて、互いに何でも言い合えて、遠慮がない関係って、
すばらしいと思いました。それに、こんなことをしでかした、あたしたちにも寛容な彼氏さんは、やっぱりすごくいい人
だって分かりました。あたしも、将来、彼氏さんのような人と巡り合えたらいいなって、思います」

それだけ言うと、竜児にさっと一礼し、他の二人のところへ戻っていった。
そして、三人そろって、「本当にすみませんでした」と、一礼し、回れ右をするようにきびすを返して、公園の出口に向
かって歩いていった。

「あんたが、いらんこと言うから、川嶋さん泣いちゃったじゃん…」「でも、でも、川嶋さん、すっげぇ〜。彼氏さんにのし
かかって、圧倒していたよ」「ああ、私も好きな男の子に川嶋さんみたいに迫ってみたいよう〜」「あんたじゃ無理で
しょ、ルックス的に。てか、それ以前に女子高でどうやって男作って、そいつに迫るのさ…」

という、彼女らの会話が風に乗って微かに聞こえてくる。竜児は、「やれやれ…」と嘆息した。
守秘義務は、どうやら反故にされてしまいそうだ。

−そういえば、川嶋は?
泣き疲れたのか、亜美は、腫れぼったいまぶたのまま、膝を抱えて、ベンチにうずくまっていた。
半ば放心状態なのか、瞳には輝きがなく、頬は血色が乏しい。

「よう、川嶋。あの子たちなら、大丈夫だ。今日、ここで見聞きしたことは他言無用だと念押ししておいた。基本的に、
正直ないい子たちだから、心配はいらねぇよ」

本当のところは怪しかったが…。
亜美は、「そう…」と、無気力で事務的に呟いた。

「なぁ、川嶋。今日のところは、俺たちも退散しよう。立てるか?」

「う、うん…」

亜美は、バッグを持ってよろよろと立ち上がり掛けたが、はっとしたように股間を押さえて頬を赤らめ、
再びベンチにしゃがみ込んだ。

「どうした?」

亜美は、真っ赤な顔をして、「何でもない、何でもない…」と、首を左右に振っている。それでいて、股間を押さえて、
脚は内股にすぼめていたのだから、男の竜児にも事態が飲み込めてしまう。
尾籠な話だが、先ほどの劣情で催したものが、パンティライナーの吸収量をオーバーしたのだろう。
あそこが、ぬるぬるのべたべたで、それが冷えてきているとしたら相当に気持ち悪いに違いない。
さりとて、竜児に、それを正直に告げることができないとは、淫乱なのか純情なのか、どうにもよく分からない女ではある。
しかし、ここは、竜児が騎士道精神を発揮しなければなるまい。

「あ、そうだ、川嶋。ちょっと、喉が渇いていねぇか? 俺は、ちょっと、飲み物を買ってくるよ。
たしか、あっちの方に自販機があったような気がするな…」

そう言って、洗面所がある方角とは反対の方を指さした。



「川嶋は、ミルクティーで良かったんだよな? 他に希望がなければ、それにするが…」

亜美は、「う、ううん。それでいい…」と言い、自販機を探しに行こうとする竜児に、「ありがとう…」と、
消え入るような声で付け加えた。

十五分ほどして竜児が戻ってみると、亜美は、泣き崩れて腫れぼったくなっていた面相を自然な状態に戻し、
落ち着いた風情でベンチに腰掛けて待っていた。
きっと、大慌てで、トイレでパンティーライナーを交換し、メイクを整えていたのだろう。
竜児は、その亜美に、缶入りのミルクティーを手渡した。

「おっそっ〜いっ!!
こんな暗いところに亜美ちゃん一人を置いてきぼりにして、高須くんは、女の子の扱いがなってない!!
こんなんじゃ、寛容な亜美ちゃんぐらいしか、高須くんは相手にしてもらえないよぉ。
だから、亜美ちゃんだけがぁ、高須くんのことを一生、相手にしてあげるんだからぁ〜、感謝なさぁ〜い」

亜美は、茶色い瞳を輝かせながらも、頬を不満げに膨らませる。
竜児は、苦笑しながら、缶コーヒーに口を付けた。そうとも、川嶋に凹んでいる姿は似合わない、と心の中で呟きながら。

「一生も何も、俺たちは永遠の愛を誓ったんだろ? もう、それだけで十分じゃねぇか…」

亜美も、缶入りのミルクティーを一口飲んで、

「そうね、でも、心の結び付きも不確かだし、体の結び付きはキス止まりよね、だから…」

「結局、そこかよ…」

亜美は、口元の両端を軽く引き締めるようにして淡い笑みを形成し、「ふふふっ…」と、脱力したように笑った。

「ううん、今日は、もうなしね。またの機会…。彼女らに覗かれて、完全に興ざめしちゃった」

竜児は、さらに一口コーヒーを飲み、「そうだな…」と、同意した。

「何だかねぇ、あたしたちの逢瀬って、こんなのばっか…。初めてのキスのときは、いいところで泰子さんに目撃され
ちゃうし、この前のピクニックでは、あたしが長いこと高須くんに膝枕をしてあげていて、脚が痺れて立てなくなったし、
今日は、これからってところで、彼女らに覗かれているのが分かっちゃったし…。何だか、相当格好悪いよね…」

笑ってはいるが、内心は相当に堪えているのかも知れない。
亜美の頬は、血色は戻ったものの、未だ小刻みに痙攣している。

「そうだなぁ…。でも、現実ってのはこんな格好悪いことの繰り返しと積み重ねなんじゃねぇかな」

「にしても、格好悪すぎ。亜美ちゃん、なんか釈然としない…」

「理想の相手と、一世一代の大恋愛をして結ばれるってのもありだが、言っちゃあなんだが、俺たちみたいに間抜け
な出来事に彩られた恋愛ってのも結構おつなものかもしれねぇ。
ほら、彼女たちが、俺たちのことを、『普通の恋人っぽくない』とか、『お互いに遠慮がない夫婦みたい』って、
言っていたよな? ああいう風に見られているってのは、それだけ俺たちの絆が、他人から見たら、
しっかりした物だってことなんだろうな」



「言ってる意味が分かんないわ…」

亜美は、缶の中身を飲み干すと、怪訝そうに竜児を見た。

「なんつーか、うまく言えないけどよ…。理想ってのは、何か、問題があったらそれだけで理想じゃなくなるけど、
現実ってのは、問題点があることが折り込み済みで、その問題点を克服していくもんだよな。だから、最初は問題点
が沢山でも、それを少しずつ解決してきた方が、なまじの理想よりも価値があるんじゃねぇか?」

「雨降って地固まる、って言いたいの?」

未だ釈然としないのか、亜美は、疑わしげに目を眇めている。

「月並みだけど、そうなるか…。トラブルがない現実なんてのは存在しない。なぁに、トラブルなんてのは、
現実のスパイスだと思えばいいのさ。そう割切っちまおう」

「あんたは、料理に例えるのが好きだねぇ」

「おう、お前のエロネタよりは健全だぜ」

亜美は、笑いながら、「高須くんも、言うようになったじゃん」と言い、二人は、目と目を合わせて、忍び笑いとも苦笑と
もつかない笑みを浮かべた。

「でも、トラブルというスパイスがまぶされた現実か…。そうね、現実って、そんなものなのかもしれない…」

「そうさ、現実ってのは、苦くて、しょっぱくて、辛くて、それでいて、ほんの少し甘い。塩と胡椒をまぶした
ビターチョコレートみたいなものかもしれないな」

「何それ、想像もできない代物ね…。それにしても、中華鍋は買えなかったし、いろいろあって大変な初デート…」

亜美は、竜児の言う『塩と胡椒をまぶしたビターチョコレート』に呆れたのか、いろいろなことがあっての疲労感から
なのか、ふぅーっ、と大きく嘆息する。

「だがよ、一生の思い出になることは請け合いだな」

「そうね、間違いなく一生の思い出だわ…。本当に…一生の…」

そう囁き、寝顔のように穏やかな表情で、そっと竜児に寄り添った。

いつしか、地上の星と輝きを競うかのように、上弦の月が雲間から現れ、竜児と亜美だけが佇む公園に青白い月光
を投射していた。





(終わり)

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