web上で拾ったテキストをこそっと見られるようにする俺得Wiki

 築二十年の、いささか老朽化した賃貸マンショに籠もっての肉体労働は、四日目になろうとしていた。
 最初の頃は、重たい建材の運搬やら、出てきた廃棄物の撤去やら、何ら技能を要しない仕事ばかりだったが、それも
風向きが若干だが変わってきた。
 丁寧な建材の置き方や、作業用のブルーシートを展開し、撤収する時の作業の的確さに職人のリーダー格である
サブが注目し、戯れ半ばといった感じだったが、竜児にクロスの張替えをさせてみたのだ。

「タカ、おめぇは手先が器用そうだし、何より、やることが丁寧だ。仕事は何でもそうだが、雑なのは一番いけねぇ。その
点、丁寧なおめぇは、掃除や建材運びのような単純作業よりも、多少は手先を使うような仕事を、ちょっくら試しにやって
もらうぜ」

 サブの言葉に竜児は、三白眼をきょとんとさせて、面食らったが、作業場ではサブには従わねばならない。
 竜児は、「へい!」と、声だけは威勢よく応答した。

「いい返事だ。取り敢えず、あそこの壁のクロスを貼り替えてみろ」

 サブが指差した箇所には、薄汚れ、所々が擦り切れたクロスが貼られたままだった。

「あそこですかい? てぇことは、あの古いクロスを剥がさにゃなりませんぜ」

 演技のつもりであったが、何だかサブの物言いにシンクロしているのか、バイト中は、任侠物のキャラクタのような
口調になってしまっている。それが、竜児本人にとっても、可笑しかった。

「おう、そうだったな。古いクロスはリムーバーで剥がすんだ。それには、あれが要る。タカ、ちょっと、俺についてきてくれ」

 サブは思い出したように機材を格納しているワゴンへ向かった。竜児もそのサブの後を追う。

「え〜と、お前の顔に合いそうな面は、っと…」

 その大型ワゴンの、本来なら最後部座席があるべきところに据えられた棚から、サブは鼻と口元だけを覆うマスクを
いくつか取り出した。マスクはゴムかプラスチックかでできているようで、先端部分には、フィルタをねじ込んで取り付け
るためらしい螺旋が設けられている。
 サブは、そのうちで、一番大きそうなマスクを選ぶと、アルコール系らしい匂いがするスプレーを顔面が接する部分
からマスク内部に吹き付けた。洗浄と滅菌のつもりらしい。

「これを着けてみろ」

 洗浄されたマスクが竜児に手渡された。そのマスクには、ゴムのベルトが取り付けられており、そのベルトを後頭部に
巡らせてマスクを鼻先に固定するものらしい。
 今までの作業では、不織布に活性炭を挟み込んだ簡易マスクが渡されていたが、このようにフィルタが交換でき、
顔面に密着する防毒面は初めてだ。それだけに、リムーバーに含まれる有機溶媒には、相応の毒性があるのだろう。
 竜児は、消毒されたばかりのマスクを口元に当てた。アルーコール特有の匂いと、それを不快なものとさせないため
なのか、ほんの少しばかりミントのような人工的な香りがする。そのまま、ゴムのベルトを後頭部に回して、マスクを固定
した。

「こんなもんですかい?」

「どれ…、ちょっと、見せてみろ」

 サブが、竜児のマスクの装着具合をチェックすべく、マスクを掴んで軽く揺さぶった。

「どうだ? こうしてマスクを揺すられた時に、鼻でも、頬でも、顎でも、何でもいいから、どっか隙間ができているような
感じはしねぇか?」

「大丈夫みたいですぜ」

 マスクは、竜児の鼻先をすっぽりと覆い、顔面に接するゴムのスファスナー状の部分も、肌にぴったりと密着しており、
隙間などはなさそうだ。

「そうか、じゃぁ、これからこの面は、お前専用ってことにしておく。あとは、こいつに吸収缶を取り付けるんだ」

 サブは、別の棚からマスクに取り付けるフィルタである新品の吸収缶を一個取り出した。その吸収缶は、ビニール袋
で密封されていたが、サブはそのビニール袋破って、吸収缶そのものを露わにする。
 破られたビニール袋には、『有機溶剤用吸収缶』と言う文言が記されていた。

「お〜し、タカ、こいつを取り付けるから、ちょっくら面を外してくれぃ」

「へぃ」

 サブの塩辛声に命ぜられるままに、竜児はマスクを取り外した。束の間、それもフィルタなしで装着していただけだが、
夏場だけに蒸れそうな感じは否めない。

「吸収缶は、開封しちまったら、もうダメなのさ。使いきるしかねぇ。面に付けて息をしなくたって、空気中の汚れを吸って
寿命が来ちまう。だから、吸収缶は毎日交換するんだ。
でねぇと、肝心の作業の時にリムーバーに含まれている有機溶剤をこっちが吸わされるはめになるからな」

 そう言いながら、サブは竜児専用となったマスクに手にした吸収缶をねじ込み、吸収缶を保護するためのカバーを
取り付けた。

「着けてみろ」

 サブから手渡されたマスクを竜児は装着してみた。
 吸収缶が取り付けられると、それが抵抗になって、心持ち息苦しいような感じになる。しかし、それは想像していたよりも
軽く、この程度であれば、さほど不快なものではない。
 それよりも、蒸れる感じの方が問題だった。

「ちょっと、暑苦しいですぜ…」

 マスク越しにくぐもった声で、竜児はサブに忌憚ない意見を述べた。吸収缶と弁が付いた排気口以外は外界と隔絶
されている防毒面だから当然である。

「まぁ、有機溶剤を直に吸わされるよりは遥かにましだ。その点は、我慢しろ」

 職人のリーダー格のサブは、意外にも理をわきまえた人物であるらしい。当たり前のことを不服として言われても、
少なくとも竜児に対しては、頭ごなしに怒鳴りつけるようなことはしない。

「面を着けたなら、さっそく、古いクロスを剥がして、新しいクロスに貼り替えだ。まずは、リムーバーを古いクロスの上に
塗ってみろ」

 現場に戻った竜児は、サブの指示で、浸透性がよさそうな透明な液体を古いクロスの部分に刷毛で塗りつけた。
 本来ならその液体に含まれている有機溶剤の強烈な臭いがすることだろう。しかし、有機溶剤専用と銘打たれた

吸収缶の威力は絶大だった。

「塗ったら、古いクロスが浮き上がってくる。そいつを丁寧に剥がすんだ。部分的に固着しているような箇所があったら、
そこには改めてリムーバーを塗り付ける。力任せに引っ張るのは絶対にダメだ」

 マスクのせいで、サブの塩辛声がいっそうひび割れて聞こえる。
 それにしても、内装業も家事に相通ずるものがあるようだ。炊事でも、掃除でも、裁縫でもそうだが、とりわけ、裁縫で
は丁寧な作業が求められる。
 裁縫では、縫い合わせるべき部分を正確に合わせ、糸が絡まないように、慎重に針を運ばなければならず、
糸の滑りが悪いからといって、力任せに引っ張るのはご法度である。

「よし、綺麗に剥がせたな。ほんじゃ、リムーバーをもう一回塗って、壁面に残っている古いクロスのカスや、
糊を溶かし出して、布切れで拭き取れ」

 再び壁面にリムーバーが塗られた。壁面に残っていたクロスの糊が浮き上がってきたところを見計らって、
竜児は布切れで拭き取った。

「どうにか綺麗になったようですぜ…」

 竜児の言葉にサブも頷いている。ここまでの一連の手際は及第点らしい。

「それじゃ、このまま数分間放置して、リムーバーが完全に揮発するのを待つんだ。その間に、そこへ貼るクロスを切る」

 サブは、専用のカッターにクロスをセットし、竜児に、そのカッターの前に来るように手招きした。

「見ての通り、このカッターは、作業台と定規とカッター本体とが一体となっている。カッターは、所定の幅でクロスを
切断できるようにガイドに沿って動く。後は、そのガイドから外さねぇようにカッター本体を動かすんだ。できるか?」

 竜児は、そう言われて改めて専用のカッターを見た。なるほど、カッターというよりも、一定の寸法でクロスを切断する
ための治具と呼んだ方がふさわしいかも知れない。ガイドレールに従って刃が動くのだから、バカでもチョンでもでき
そうに見えたが、その実、こうした物は意外に扱いが難しい。力の加減を間違うと、カッター本体があらぬ方向へ逸れて、
大変なことになるだろう。

「できやす、やらしていただきやす」

 クロスがやわな素材だから扱いが簡単ではないのだ。
 だが、竜児であれば、裁縫を通して、布地などの軟質な素材の扱いには長けている。

「やってみろ…、うまくいったらお慰みだ」

 いつしか、春田やノブオやテツも作業の手を止めて竜児の一挙手一投足に注目していた。
 鮫のように感情が窺えないテツの目は相変わらずだが、春田の目には驚きの色が、ノブオの目には、一種の嘲りにも
近い、悪意の色が浮かんでいた。
 どうやら、見た目以上に難しい作業であるらしい。

「じゃ、いきやす…」

 竜児は、刃先がクロスと干渉する微細な感触を捉えることに神経を集中させた。
 カッター本体の刃先が、樹脂製のクロスに接触し、それを切り裂いていく感触が指先に伝わってくる。
 竜児は、その感触が絶え間なく指先に入力されるように、一定の速度でカッター本体を動かすことを心がけた。

 カッター本体の移動速度にムラがあると、クロスが歪み、所定の寸法で切断できないに違いないからだ。

「あと、一息…」

 曲がりなりにも建材の一種なので、貼るべきクロスの寸法は、かなり長い。
 その長い距離を、竜児は、ペースを一定に保持したまま、カッターを最後まで引き切った。

「できやした…。どうです? サブ兄ぃ」

 そう言いながら、竜児は、自身の額に玉のような汗が吹き出ていることに気付いた。
 精神を集中していたためなのだろう。その汗を首に巻いていたタオルで拭う。

「ふ〜む、こいつぁ…」

 サブが、竜児が切断したクロスを前に唸っている。
 ミスをした覚えはなかったが、やはり素人では職人の目に適う切り方はできなかったのか、と竜児は思った。

「てぇしたもんだ…」

 その声に春田も、ノブオもテツも驚いたが、何より驚いたのは竜児本人だった。

「サブ兄ぃ、今、何て言いやした?」

 竜児は、迫力のある三白眼を丸く見開いてサブを見た。その竜児の三白眼が、敵意のない無害なものであることを
既に承知しているサブは、にやりとしながら竜児に向き直った。

「タカは器用な奴だとは思っていたが、ここまで出来るとは俺も正直思っていなかった。大概の初心者は、簡単だろうと
嘗めてかかって、いい加減に刃先を動かして、まっすぐ切れないってのが普通なんだが、お前はそういうスットコドッコイ
とは違うらしい」

 そう言って、サブは春田、それにノブオとテツを一瞥した。
 その一瞥で、春田とノブオは恥じるように首をすくめたが、テツは鮫のように冷たい眼で、サブと竜児を睨んでいる。
 その剣呑な雰囲気に、竜児は息が詰まる思いだった。職人は三人居るが、その存在は一枚板ではないらしい。
 雇い主である春田の親父に忠実で、技量があり、人格もそう悪くないリーダーのサブと、技量はあるようだが、陰険な
性格で、潜在的にサブや春田の親父、それに竜児を敵視しているテツ、ガタイはでかいが、気弱で、テツに引きずられて
いるようなノブオといったところのようだ。
 テツは、ひとまずは大人しくしているが、何かのきっかけで突発的に造反するような危うさが感じられる。
 やはり、この男、かなり危険な存在であるようだ。

「うわぁ〜、高っちゃん、初めてなのにこんなに綺麗に切れるなんて、大したもんだよ」

 そして、『ボン』と呼ばれる春田は、そうした職人たちの険悪な対立など意に介さぬように、実に脳天気に竜児の仕事
を称賛している。やはり春田は春田なのだ。

「ボンの言う通りだ。初めてとは思えねぇほど完璧な切り方だ。よし、タカ! こいつをさっきの場所に貼り付けるんだ。
きっちり所定の寸法に切られているから、後は、最初に貼る位置をきっちり決めておくことに注意するんだ」

 竜児は、切断したクロスを所定の場所に位置決めして、壁の上から下へ徐々に貼り付けていった。クロスの裏側には
糊が付いているので、貼るのは簡単だが、ちょっとでもいい加減に作業すると、気泡を取り込んだり、シワになりやすい。
竜児は、障子や襖の張り替えのコツを思い出しながら、丁寧な作業を心掛け、慎重に貼り終えた。

「どうですかい?」

 作業を終えて、額に浮き出た汗を拭いながら、竜児はそう言って、サブの評価を待った。
 そのサブは満足そうに頷いている。

「上出来、というか完璧と言ってもいい。親父さんは、お前を下働きとして雇ったのかも知れねぇが、俺は、職人に近い
技量を備えた奴として、仕事をしてもらいてぇと思っている。何せ、これからもっと大きな部分のクロスを貼り替えなきゃ
なんねぇ。それには職人が二人一組になる必要があるんだが、あいにくとボンにはそうした技がねぇ…。
だが、お前が居るなら、ちょっとばかり話が違ってくるってもんだ」

「へ、へぃ…」

 意外な展開に竜児は戸惑った。そりゃ、単純な肉体労働よりも、技能を要する仕事の方が面白い。しかし、つい数日
前にこの仕事にかかわったばかりの竜児が、職人たちと同じような仕事を任されるというのは、作業場の雰囲気を考え
ると、素直には喜べない。

「お前は、俺と一緒になって、クロスの貼り替えや位置決めをして貰おう。もちろん、クロスの切断もやってもらう。お前が、
職人並に働けるとあれば、俺とお前で一組、ノブオとテツとで一組が出来上がる。こうすれば、作業の効率が予定よりも
上がるってもんだ」

 案の定、ノブオが不満丸出しの仏頂面を浮かべ、テツが鮫のように無感情で不気味な眼を竜児に向けている。
 竜児がここに来る前の、サブ、ノブオ、テツの関係がどういったものなのかは分からないが、元々、サブと残り二人の
職人、とりわけテツとはあまり相性がよくなかったのかも知れない。

「その相性の悪さを、俺がさらに悪化させちまったのかも知れねぇ…」

 サブが自分を評価してくれるのは嬉しかったが、あと六日、無事に作業を終えることが出来るかどうか、
竜児はますます不安になってきた。

 その後はサブとペアになって、竜児はクロスの貼り替えや、フロアシートの貼り替えに専念することになり、資材運び
や掃除は、竜児も行うが、専ら春田の役目になった。春田は、「高っちゃんはいいよなぁ…」というぼやきを漏らしたが、
それだけだった。社長の息子とは言え、リーダーであるサブには絶対服従ということらしい。

「よぉし、今日は仕事がはかどったから、予定よりも早めに撤収するぞぉ!」

 午後四時、テツの塩辛声で、その日の作業は終了となった。サブも含めた一同は機材や資材を片づけ、ワゴンへと運
んだ。そして、事務所である春田の家に戻って、その日の進捗状況の報告を終えて、いつものように解散となった。

「ほんじゃ、お先に失礼します」

 竜児は、職人たちが全て帰り、最後の一人になってから、春田の親父に会釈し、居合わせた春田に、
「明日も頑張ろうぜ」と言って帰宅した。
 初日は解散したのが六時近かったが、今は未だ五時前だ。これならスーパーかのう屋に寄って、
夕食の食材を買って帰ることができるだろう。
 Tシャツからは塩を吹き、全身は埃で薄汚れていたが、銭湯に寄っていくのは控えることにした。
 何よりも腹を空かせた泰子のために夕食の支度をすることが先決だったし、帰宅したら、そのまま浴室に飛び込んで
シャワーを浴びてしまえばよい。

 亜美が居ない、泰子と二人きりの夕食を終えると、竜児は、机に向かい、通称『青本』と呼ばれる法律の解説書を開

いてみた。法律への理解力が未だ乏しい竜児にとって、その記載が意味するところを正確には把握できないが、
そうした箇所は『特許法概説』といった別の専門書を辞書代わりにして理解することにした。

「しかし、やっかいなことを始めちまったもんだ…」

 今さらながら、大変な試験に手を出してしまった、とは思うが、亜美とのことを思うと、何としても合格しなければなら
ない。不慣れな法学書を読むのは、苦痛そのものであったが、そこは並はずれた集中力を持つ竜児である。午後九時
に開始したと思ったら、あっという間に三時間以上が過ぎていた。

「今日はここまでにしておくか…」

 この日は、特許法第七十七条から同第八十二条までの規定にある実施権、巷でよく言われるライセンス関係の
項目を勉強できた。亜美が居ない一人きりでの勉強だったが、それなりに捗ったようだ。
 竜児は、本を閉じ、机の照明を消し、室内灯も消すと、携帯電話機を手にベッドにごろりと横になった。

「どうしているかな、あいつは…」

 メールを確認してみると、つい今しがたの午前零時頃に亜美から届いたメッセージがあった。それを選択して、早速、
読み始める。

『我らが同志へ 定時連絡その3
 今夜は、家族三人が顔を合わせることができたので、フレンチのフルコースを晩餐でいただいてきた。レストランは、
いわゆる業界人が多数出入りしているところで、何でそんな俗っぽいところを選んだのか理解に苦しむけど、料理は
それなりに美味しかったと言っておく。まぁ、正直、あんたの作った料理には及ばないけどねぇ。
 しかし、特記すべきは、ママである川嶋安奈が妙にやさしかったこと。
 本人が言うには、今までの親子の確執をなかったものにして、今後は、和やかにいこう、ということなんだけどぉ〜、
嘘臭さ丸出し。聖母のような笑みの裏で、どす黒い陰謀を企てているのは見え見えっぽい。近日中にも何かを仕掛けて
きそうな感じがするから、こっちは油断なく、面従腹背を貫き通すつもり。
 そうそう、明日は、ママからショッピングに誘われてる。注目度が高い川嶋安奈だから、クルマで直接ブティックや
有名ブランドの直営店に行って、何やかや買い漁るんだろうけど、これもどういうつもりなのか…。
 あたしは、冷静に彼女の言動を観察し、その真意を探るつもり。
 あたしの方から定時連絡は以上。
 あんたの方はどう? バイトはうまくやっている? とにかく、ただでさえオーバーワーク気味なんだから無理は
しないで。
 同志亜美より』

「相変わらずだな…。お袋さんに全く気を許しちゃいねぇ」

 それでいて、元モデルで表情を作り上げるのが巧みな亜美のことだ。川嶋安奈に対しても面従腹背に徹することだ
ろう。対する川嶋安奈も業界では海千山千の食えない存在だから、亜美の皮相とも言える作られた表情がどこまで
通用するかは疑問だが、お手並み拝見というところである。

「それにしても、動き出したな…」

 亜美が実家に帰った初日は、母親である川嶋安奈がスタジオでの収録が長引いたとかで、家族揃っての夕食は
ままならなかった。その翌日、現時点から起算すると昨日に相当する日には、今度は父親も不在。亜美は、『こんなこと
なら、あんなに急に呼び付ける必要なんてなかったじゃない!!』という怒りのメールを竜児に送ってきたものだ。
 だが、今日になって、ようやく家族揃って豪華な食事をしたことで、川嶋安奈の思惑通りに事態が進みつつあるような
気がした。

「物量作戦かな?」

 明日は高級ブティックでショッピングだという。竜児は、一瞬、実家で亜美に贅沢三昧をさせて、大橋でのつつましい
暮らしに見切りをつけさせるつもりかとも考えた。しかし、そうした陳腐な策が亜美には通じないことを、川嶋安奈なら
竜児同様によく知っているだろう。

「だとすれば、どう出てくるか…」

 亜美は、川嶋安奈が竜児の存在を知っているか否かは微妙だ、と思っているようだ。竜児も、その点では、亜美と
ほぼ同意見だが、警戒するに越したことはない。そのため、川嶋安奈は、竜児の存在を把握しているという前提で、
事態に対処すべきなのだ。
 川嶋安奈の思惑は謎だが、その思惑の一つには、竜児と亜美を別れさせることも含まれていると見るべきだろう。

「昔から、男女の仲を取り持つのも、御破算にするのも、既成事実が決め手だよな」

 既成事実と一口に言っても、いわゆる『できちゃった婚』から『見合いで婚約』といった古典的なものまで、実に様々だ。

「しかし、見当がつかねぇな…」

 聡明な竜児ではあったが、こうしたテーマを考えるには、少しばかり、年季が足りないようだし、そもそも、色恋沙汰の
駆け引き、それも、一筋縄ではいかない川嶋安奈が相手では、竜児の手に負えるような事態ではない。
 だが、食えない性悪女である亜美ならば、川嶋安奈の企てを見抜いてうまく対処してくれるかも知れない。
 竜児は、その亜美へのメールで、手先の器用さを職人のリーダーに認められて、単なる下働きではなく、職人と同様
の作業を任されるようになったことを報告し、最後に『海千山千のお袋さんにしてやられないように、十分に注意してく
れ』と、ありきたりな文言で締めくくった。
 良くも悪くも、竜児よりも世間ずれしている亜美のことだ。竜児ごときがあれこれ言うよりも、彼女の勘と判断力に
任せるべきなのだろう。
 竜児は、メールを送信すると、携帯電話機を枕元に置き、タオルケットを掛けて瞑目した.。重い資材運びや、ゴミの
片付けだけという、面白くもない単純作業ばかりではなくなったが、それなりに神経を使う作業を任されるようになった
ため、却って気苦労が絶えなくなった。明日も、そうした精神的にもきつい仕事が待っているのだ。


 翌日も、竜児は、リーダーであるサブに付き従って、クロスの貼り替えに従事した。
 サブは、思いの外、竜児が器用で、しかも指示されたことを的確に理解して行動することに気をよくしているようだ。
 その半面、他の職人たちは心中穏やかではないらしく、特にノブオは、竜児に対する怒りと嫉妬が交錯しているよう
な険悪な面持ちを隠さない。

「お〜し、昼になったから、飯にしようぜ」

 そうした険悪な空気を意に介さないのか、例によってサブは塩辛声での号令を張り上げた。一同はコンビニで買って
きた弁当を広げ、昼食にする。
 郷に入りては郷に従え、ではないが、竜児も自前の弁当は持参せずに、他に倣ってコンビニ弁当に箸をつけた。

「高っちゃん、すげぇじゃん。もう、いっぱしの職人みたいだよ。あの、自分にも他人にも厳しいサブ兄ぃが、あそこまで人
を誉めるのを初めて見たぜ。やっぱ、高っちゃん、大したもんだよ」

 焼きそばパンを頬張りながら、春田が竜児に話し掛けてきた。その春田をノブオが鬱陶しそうに睨め付けている。
 竜児だって、誉められるのは悪い気分ではない。しかし、場をわきまえるべきなのだ。
 それでもなお、「高っちゃん、すげぇ」を連発する春田に対し、「お、おぅ、ありがとよ…」とだけ言って、適当にあしらった。
結局のところ、春田の本質的な部分は、何も変わっていやしない。相変わらずKYなままなのだ。

 昼食後から午後一時までの数十分は、束の間の休息である。春田や職人たちは、作業の現場であるマンションの
一室に雑魚寝して、惰眠を貪っている。竜児も、暫し横になって、午後の厳しい作業に備えることにした。
 午後一時五分前、それまで死んだように眠っていたサブがやおら起き出し、目をしょぼつかせながら腕時計で時刻を
確認した。

「お〜し、もうすぐ一時だ。そろそろ起き上がって弁当殻を片付けて、午後の仕事に備えにゃならねぇ」

 竜児と春田が、ゴミ袋として用意しておいた大きなビニール袋を持って、職人たちの弁当殻を回収して回る。
 弁当殻やペットボトルで膨れたビニール袋は、ひとまず作業場になっているマンションの一室の玄関に置いておく
ことにした。

「タカ、作業を始めるから、早いとこ面を着けてくれ」

 サブに促されて、竜児は自分専用のマスクを着用した。マスクのスカート部分を顔面にあてがい、ゴムのベルトを
後頭部に回してマスクを固定する。有機溶剤をくまなく吸着してくれるであろう吸収缶は活性炭や不織布がきっちりと
詰まっているためか、息を吸い込む際には、少しだが息苦しい抵抗感があった。

「サブ兄ぃ、準備オーケイです」

 マスク越しでのくぐもった声でそう告げると、同じくマスクを着用しているサブは、リムーバーの缶と専用の刷毛を
指差した。午後も、これを使って古いクロスを剥がし、新しいクロスに貼り替える作業が続くのだろう。
 缶を開け、専用の刷毛を中の液体に浸し、それを古いクロスの上に塗り付けた。リムーバーから溶剤が揮発し、周囲
には異臭を伴う瘴気が充満する。それでも、マスクがあれば、その瘴気も問題ではないはずだ。
 しかし…、不意に、鼻腔と喉を刺すような感覚に、竜児は思わず咳き込んだ。マスクを着用しているにもかかわらず、
シンナーのような刺激臭がする。

「タカ、どうした?」

「兄ぃ、マ、マスクが効きやせん!」

「面が効かない? お前、吸収缶をちゃんと交換しなかったのか?」

 サブが、マスク越しに詰るような口調で言った。寿命が尽きた吸収缶で竜児が作業していたと思ったのだろう。
 だが、竜児は、今朝、たしかに吸収缶を新品に交換していた。午前中も、使用したが、それだけで急激に効力が落ちる
とは考えられない。

「とにかく、ワゴンへ行って、吸収缶を新しいのに交換してこい!」

 サブが、舌打ちしながら、ワゴンのキーを寄越してきた。完全に竜児の失態だと思っているらしい。

「すんません…」

 理不尽な思いではあったが、竜児は、素直にキーを受け取り、吸収缶を交換すべく、サブに一礼して、その場を離れた。
 ワゴンの後部ドアを開け、棚から新品の吸収缶を取り出す。
 そして、その吸収缶を取り付けるべく自身のマスクの吸収缶を覆うカバーを取り外した。

「何だこりゃ?!」

 吸収缶が取り付けられているべきところには、丸めたティッシュが詰め込まれていた。これで、吸気に適当な抵抗が

あるようにして、着けた直後は、吸収缶が付いていると誤認させたのだ。
 食事中とその後の休憩で、マスクを作業場に置きっぱなしにしていた隙にやられたのだろう。

「悪質だな…」

 すぐに気付いたからいいようなものの、気付かずにそのままだったら、リムーバーに含まれる溶剤で中毒したかも
知れない。

「犯人は、ノブオかテツか…。そんなところだろうな…」

 単なるアルバイトに過ぎない竜児が、リーダーのサブから職人がすべき仕事を任されているのが面白くないのだろう。
それに、事務所での初対面で、連中と睨み合ったのも今となってはまずかったのかも知れない。

「憎まれ役ってぇ訳か…。それにしても油断も隙もねぇ…」

 鬱陶しそうに呟くと、竜児は新品の吸収缶を自分のマスクに取り付けた。今日が終わればあと五日。
 とにかく、気を引き締めて頑張るしかない。


 ちょっとした事件があったその日も、就寝前の午前零時に、竜児は亜美に定時連絡をした。
 もちろん、職場の雰囲気が険悪であり、あろうことか竜児のマスクに吸収缶ではなくティシュが詰められていた、
なんてのは報告しない。当たり障りのないことを書き綴って、送信した。

「あいつからも来てるな…」

 その亜美からのメールには、川嶋安奈とのショッピングの様子がかいつまんで認められていた。
 川嶋安奈は、妙に気前がよく、亜美のためにドレスや、宝飾品を色々と見繕い、購入したらしい。何のつもりかは不明
だが、そうして亜美に買ってやった品々で、亜美をドレスアップさせて、パーティー等に出席させるのではないか、と亜美
は推測している。これについては竜児も同意見だ。
 しかし、今日のところは、川嶋安奈は亜美のためのショッピングを終えると、早々にテレビ局のスタジオに行って
しまったという。そのため、亜美も川嶋安奈が何を企んでいるか、掴みあぐねているらしい。

『さすがに、芸能界で長年君臨するだけのことはあるのか、本当に食えない女。あたしも、この血を受け継いでいるのか
と思うと、何か嫌な気分になる。
 ママは、事務所からクルマを回して、それであたしを帰宅させようとしたけど、それは辞退した。新宿で買い物をした
かったし、もうモデルでも何でもない、ただの女子大生に過ぎないあたしが、そこままでの特別扱いを受ける理由はない
からね。でも、ママが色々と買い込んだものを持って、電車に乗るのだけは勘弁してもらいたかったから、買った物は
すべて配送してもらうようにした』

「亜美の奴も、お袋さんに負けてねぇな…」

 川嶋安奈は、そんなささやかな亜美の抵抗を鼻先でせせら笑っていることだろうが、何でもかんでも唯々諾々として
いるのは、亜美の矜持が許さないのだ。

『帰宅途中、新宿三越の地下にある、製菓・製パン用の材料や器具を売っているお店で、イーストと、小麦の全粒粉と、
ライ麦の粉と、強力粉と、長さ二十センチのケーキ型を買ってきた。これで、パン作りを始めることができる。
 あいにく、黒パンに必要なサワー種はなかったけど、あれは乳酸菌と酵母の混合物だから、プレーンヨーグルトの
上澄みとドライイーストで代用できそうな気がする。
 取り敢えず、実家に戻った午後は、試しに、基本的な白パンを試作してみた。レシピは、ベルリン職業訓練校のものを
援用した。小麦粉と水と塩だけの簡単なパン。

 しかし、こうした基本的なものこそ、難しいのかも…。どうにか形にはなったけど、ちょっと一次醗酵をさせすぎたのか、
すかすかになっちゃった…。でも、生まれて初めて自分でパンを作ることができた。
 出来上がりは、ちょっと、すかすかなのを除けば、フランスパンに似ている。おやつとして試食したけど、二百グラムの
粉を使ったのに、ぺろりと完食。美味しかったが、しめて、七百キロカロリーは食べてしまったことになる。手作りパンは、
ダイエットの敵かも知れない。
 明日は、今日と同じ白パンを作るか、ライ麦を使った黒パンを試作するか、未定。白パンを作るなら、粉の分量を今日
の三倍くらいにして、家族の分まで焼いてみようと思う。あたしがパンを焼くなんてのを知ったら、パパやママ、特にママ
はどう思うだろうか。ちょうどいいから、大橋で一緒に勉強しているお友達に教えてもらった、とか適当なことを言おうと
思う。その友達を女子と誤認するだろうから、あんたの存在をちょっとばかりは隠蔽できるかも知れない。
 定時連絡は以上。
 同志亜美より』

「すげぇな、初回で何とか焼けたんだ…」

 パン作りは醗酵が難儀なのだが、夏場ということが幸いして、うまくいったのかも知れない。
 だが、それを割り引いても、初めてで、ちゃんと食べられるものができたのは、驚きだ。

「結局は、思考力の問題なんだろうな」

 レシピはドイツの標準的なもののようだが、単にそのレシピをトレースするだけでは、うまくいかないのだろう。
 なぜ、粉と水を十分にこねるのか、醗酵に最適な温度は、ということを考えながら行う必要がある。経験もなければ
勘もない初心者が成功するには、科学的とも言うべき思考力こそが重要なのだ。
 現に、竜児はそのように考えながら調理しているし、亜美もそうなのだろう。

「モデルとしてそこそこ成功したのも、あいつには他にはない思考力があったからなんだろうな。何かを考え、行動して
いる奴と、そうでない奴とでは、どんな分野であっても、差がつくもんだ」

 それに、亜美は直感にも優れている。この直感と思考力をもってすれば、あの川嶋安奈も出し抜いて、別荘の鍵を
もらって大橋に戻ってこられるかも知れない。

「しかし、あいつがお袋さんをどうやったら出し抜けるのか、俺にはさっぱり見当もつかねぇ…」

 攻守の別を言うとすれば、川嶋安奈は攻め手であり、亜美は守り手だ。相手の攻撃をかわしながら、反撃に転じる。
柔道で言えば、巴投げのような捨て身の攻撃をしなければならない。

「受け身を取りながら反撃する…。言うは易しだが、行うは難しだな…」

 少しでもしくじれば、自滅する危うさを孕んでいる。
 竜児は、大きくため息をついて、照明を消してベッドに横たわった。
 亜美のぬくもりが恋しかった。竜児には、その亜美が無事に戻ってきてくれることを願いつつ、深い眠りに落ちていった。


 油断も隙もない剣呑な雰囲気の中で、竜児はサブに付き従って黙々と作業をこなしていった。
 もう、マスクは肌身離さず持ち歩くようにし、靴を脱いだら、再度履くときには、逆さに振って画鋲とか釘片とかの鋭利
な物が仕込まれていないかのチェックを徹底した。疑心暗鬼にかられているとも言うべき状況であったが、再び何かが
起こってしまうよりも、それを警戒して対処する方が賢明だ。

「タカ、本当におめぇは手先が器用だな」

 クロスを手際よく、正確に切断し、それを的確に壁面へ貼り付ける竜児を見て、サブが感嘆するように唸った。

 家事万能であることが、経験上生きているのだろうが、元を正せば、思考力の問題なのだ。亜美の初めてのパン作り
ではないが、経験も勘もない初心者は、考え抜いて解決を図るしかない。そして、自らの思考力で問題解決ができれば、
それを糧に更なる上達も見込める。これは、勉強や研究における法則のようなものだが、それらに限らず、広く技術や
技能に係るものにもあてはまるのだろう。

「タカのおかげで、だいぶ作業がはかどったぜ。この分なら、期日中に作業を完了できそうだな」

 作業六日目は、こうして平穏に終わった。


 いつものように、青本と条文集での勉強を終えると、竜児は、ベッドに横たわって、亜美への定時連絡を行った。
 亜美からの連絡も実家に戻って五日目は特に警戒すべきことはなかったようだ。
 川嶋安奈に引っ張り回されるようなこともなく、一日中家に籠もっていたらしい。そのため、パン作りを試すには絶好
の機会であったようだ。

『我らが同志へ 定時連絡その5
 今日は、ママも私を連れて出かけることはなかったので、じっくりとパン作りをすることができた。
 まずは、昨日、醗酵させ過ぎで、ちょっとすかすかになっちゃった白パンを作った。材料も昨日の三倍量とし、パパや
ママにも食べてもらえるようにした。粉が多いとこねるのが大変だったけど、これなら前腕や大胸筋を鍛えられそう。
ジムでマシントレーニングをするよりも何倍も楽しいし…。その後は、昨日失敗した一次醗酵の温度と時間に留意して、
適温のオーブンで焼き上げた。結果は、大成功。これなら、お店で売ってるパンにもそれほど見劣りはしないと思う。
 これに気をよくして、さらに黒パンであるミッシュ・ブロートも試作した。
 サワー種がないのが難点だったけど、ドライイーストとヨーグルトの上澄みを混合したもので代用したら、それなりに
納得のいくものが焼き上がった。技術的には、白パンよりも黒パンの方が難しいらしいけど、サワー種を使わない簡易
な方法をとったこともあって、あたしにはそれほどでもなかった。これなら、別荘でも焼けそう。
 で、夕食では、あたしが作ったパンをパパとママに試食してもらった。
 外交辞令って感じもしたけど、二人とも、おいしい、とは言ってくれた。ただ、パパは黒パンを特に好んだけど、ママは
黒パンをセレブにふさわしくない貧乏くさい代物と感じているみたい。“ちょっと、素朴過ぎるわね…”、とか言っていた。
 この言動にママの経歴がにじみ出ているような気がする。ママは過去を話したがらないし、あたしも詮索しないように
しているんだけど、女優として成功する前のママって、決して裕福じゃなかったんだと思う。
 で、セレブになった今は、その反動で、きらびやかなものばかりに執着し、そうでないものは貧乏くさいから、我が身か
ら遠ざけているみたいな気がする。
 そんなママだから、あたしを劇団に横滑りさせて、親の七光りで女優として成功させようとしていたんだろうね。
 小娘が何の援助もなく、徒手空拳で頑張ることがいかに大変かを身をもって経験しているママだからこそ、そうする
ことが娘であるあたしにとって最良だと思ったんだ。
 そうなると、そのママの思いを踏みにじったあたしって、本当に親不孝だな…。
 ごめん、なんか書いていて鬱になっちゃった…。今日はここまでにしておく。
 定時連絡は以上。
 同志亜美より』

「う〜ん…」

 亜美からのメールを読み終えて、竜児は暗い天井を見上げて、しばし考え込んだ。
 川嶋安奈のパンの好みから、そこまで分析できる亜美も大したものだが、川嶋安奈の過去というか深層意識という
ものが、今回は重要なファクターになりそうな気がしたからだ。
 川嶋安奈は、『きらびやかなものばかりに執着する』と亜美は書いてきた。テレビで見る本人は、あくまで芸能人に
してはだが、比較的地味な装いであることを鑑みると、『付加価値があるものに執着する』と言い換えてもよさそうだ。
 付加価値がどういうものかの定義は難しいが、社会通念的にその存在が一般に認められているものと考えていい
かも知れない。物であればブランドであり、人であれば資産の有無や地位の高さということになるのだろう。

「俺には、そのどれもが無縁だからなぁ…」

 竜児は、目をつぶって、深くため息をついた。今の竜児では、川嶋安奈の眼鏡にかなう存在とは言い難い。
 だが、それが何だというのだ、といった敵愾心にも似た気持ちが、むくむくと湧き上がってくる。
 川嶋安奈が認識している付加価値が、物であればブランドで、人であれば資産や地位であるとするならば、何と俗な
価値観であることか。
 いみじくも亜美が指摘したように、己れの出自の卑しさをことさら否定するために、富や名声に固執しているとしたら、
かなり救いのない女であるに違いない。
 その瞬間、竜児は、あることに思い至り、携帯電話機を再び手にして、亜美に対して再度のメッセージを送信した。


 竜児にとってバイト七日目のその日は、特に不穏な動きはなく、終止平穏であったが、亜美にとって実家での六日目
に当たるその日は大きな動きがあった。
 その日、昼食後の昼休みにメールを確認していると、『緊急連絡』と銘打たれた亜美からのメッセージが届いていた。
暗黙の了解と言う訳ではないが、互いに『定時連絡』として、午前零時頃にメッセージを交換するのがここ数日のお約
束になっていた。例外的に、相手のメッセージに対して返信することはあるが、それもほとんどが夜間での通信である。

「何かあったな…」

 竜児は、そのメッセージを選択して、黙読した。

『我らが同志へ 緊急連絡!
 今朝になって、ママから、今夜日比谷のホテルで行われる与党の大物政治家のパーティーにママと一緒に出席する
ように言われた。その時のママは、物腰は穏やかだったけど、有無をも言わせない圧力があって、ほとんど命令も同然。
正直、罠が仕掛けられているのが見え見えっぽいから、出席なんかしたくないけど、面従腹背を貫くのであれば、
にっこり笑ってママに同伴するしかない。
 一昨日、ドレスやら何やらを買い漁ったのは、やっぱりこのためだったんだね。買ったドレスは三着だったから、今日を
含めても、こんな茶番が少なくとも三回はあるってことなんだろうね。もう、うんざり…。
 とにかく、どんな時でも冷静に対処して、敵の術中には嵌まらないようにするつもり。
 それと、昨日は返信でのアドバイスありがとう。あんたのアドバイスに従って、ICレコーダーを潜ませておく。
 はっきり言って誉められた行為じゃないけど、ママを追い詰めるネタが拾えればめっけもんだね。
 緊急連絡は以上。今夜の首尾は追って報告するつもり。
 同志亜美より』

「茶番か…」

 親子で腹の探り合いをやっている。これが茶番でなくて何であろうか。
 川嶋安奈も亜美にはギリギリまでスケジュールを明かさないらしい。そうやって、亜美をきりきり舞いさせて、屈服させ
ようというのか、それとも、単に手の内を探られないようにしているだけなのか、どっちにしても、ガキ臭い幼稚なやり口だ。
 クールだと業界で畏怖されている川嶋安奈だが、その実、メンタリティーは、十代の小娘とさほど違いはないのかも
知れない。

「高っちゃん、しかめっ面してぶつぶつ言ってさぁ、第一、茶碗がどうかしたの?」

 つい亜美のことを考え込んでいて、横合いの春田の存在を忘れていた。
 しかし、『茶番』を『茶碗』と聞き違えるとは、いかにも春田らしい。竜児は、引き締めていた相好を崩して苦笑した。

「な、何だよ、高っちゃん。今度は急に笑ったりしてさぁ…」

「お、おぅ、すまねぇ。ちょと、考えごとをしてたんだけどよ、お前の何気ない一言で、何だか救われたぜ」

「はぁ?」

 春田が、意味不明とばかりにアホ面を歪めている。竜児は、そんな春田を見て、何だか微笑ましいような気分になった。
KYな春田だが、時には心の救いになることもあるようだ。


 仕事を終えて帰宅した竜児は、入浴と泰子との食事もそこそこに携帯電話機を手に亜美からのメッセージを待った。
 まずは、午後七時頃に亜美からの第一報が届いた。

『我らが同志へ 緊急連絡その2
 今、ホテルに設定されているパーティー会場に到着して、さりげなく辺りを窺っているところ。
 それにしても、政治家のパーティーなんだから当然なんだけど、政治に疎いあたしでも新聞やテレビで見聞きした
政治家とか財界人が脂ぎった顔つきで、ぞろぞろやって来ている。
 それに、芸能人、特に女優とか、女性タレントとかがやけに目立つ。出席している政治家とか、財界人とかの愛人やっ
てる奴も多いんだろうね。うわぁ〜、生臭い!
 そんな中、ママはそうした政治家や財界人の間を、ひらひらと蝶が舞うように行き来して、しきりに愛想を振りまいてい
る。パパが居るってのに何やってんだか…。
 以上、取り急ぎ報告。
 続報は、可能であれば行うつもり。
 同志亜美より』

「始まったな…」

 簡略な文面からでは、パーティーの詳細な様子は分からないが、雰囲気は何となく把握できた。思ったよりも大物が
揃っているらしい。
 パーティー自体は、よくある立食形式のものだろうが、そういう形式だからこそ、他の出席者と会話する機会に恵ま
れるというわけだ。

「で、あれば、亜美を誰かに引き合わせるつもりなんだろうな…」

 政治家、それに財界人というのが曲者だ。
 そういった連中に亜美を紹介するつもりかと思ったが、老いても劣情することは忘れない生臭い政治家や財界人は、
モデルを引退した亜美を愛人候補程度にしかみなさないだろう。
 家事も育児も、多分放ったらかしだった川嶋安奈とはいえ、一応は母親だ。娘の幸せを願っていることだろう。そうで
あれば、パーティーでの成り行き上は別として、そんなエロ爺に亜美を好んで引き合わせるとは考えにくい。

「では、このパーティーで、川嶋安奈は何を企む?」

 竜児は、改めて、亜美からのメールによる情報と、テレビ等から得られた川嶋安奈のプロファイルを検討してみた。
 無学だけれど、計算高く、人一倍上昇指向が強く、貧しかったであろう過去を明かさず、それを振り返らない。
 そして、亜美が女優になることを放棄させた原因が男であることを勘付いているであろう、亜美の実母。

「成り上がりセレブである自己を満足させ、かつ、亜美が引退したことの間接的な原因を排除するには、どうするか…」

 古典的でベタなやり口だが、結局は『玉の輿』を目論んでいるらしい。
 であれば、パーティーで亜美に引き合わせるのは、政財界の大物の御曹司か何かだろう。おそらくは、大学も卒業
していて、親のコネで一流企業に職を得て、そこで羽振りを利かせているような奴といったところか。もちろん、世間一般
の相場では『イケメン』に分類され得る容姿を備えているに違いない。

「そいつに中身が伴っていれば、ちょっとした脅威かも知れないな…」

 だが、竜児は、不安になるよりも苦笑した。楽観視はできないが、そういった親や親族の庇護の下でぬくぬくと育った
輩は、往々にして中身がない。
 優れた直感に加えて、竜児との密なつき合いで、思考力も備えた亜美の眼鏡にかなうのは難しいことだろう。

 竜児は、携帯電話機を手にすると、亜美へのメッセージをタイプした。

『我らが同志へ 返信
 俺の勝手な推測だが、お袋さんは、お前に政財界の大物の御曹司を引き合わせるつもりのようだ。
 そいつは、若くても、金も地位も保証されていて、多分、イケメンだろう。
 そいつの中身がどれほどのものか、しっかり確認しておいてくれ。特に、何か知的な話題を振ってみたときに、どんな
反応を示すかが見ものだろう。
 以上』

 その文面を送信して、竜児は、亜美からの応答を待つ。
 待つこと二十五分、亜美からのメッセージが、竜児の携帯電話機に届いた。

『我らが同志へ 緊急連絡その3!
 やっぱりあんたの推測通りだったよ! ママは、あたしに財界大物の孫で、その家の跡継ぎになる奴を引き合わせた。
 容姿もあんたの予想通りに、かなりのイケメン(笑)。
 笑顔も爽やか(苦笑)で、多分、並の女ならイチコロなんだろうな。
 でも、その絶えず笑みをたたえている目が気持ち悪い。もう、何ていうか、世の中、舐めきっているっつうか…、何つう
か…。とにかく、自ら問題解決せずに、ぬくぬくと育ちました、っていうのが、その目を見ただけで感じられる。
 まぁ、阿呆だろうね。それも救いようがないほど。今日は、ざわついていた立食パーティーだから、込み入った話は
してないけど、親が社主やってる大手商社で秘書室長をやってるなんて自慢してた。その社長とやらも、そいつの親族
らしいんだけど、大学出たての青二才にそんなポスト与えるなんて、どいつもこいつもどんだけバカなんだか…。
 もう、失笑もののおバカさん。
 あんたは、亜美ちゃんが、そのイケメン・バカに寝取られるかと気が気じゃないだろうけど、安心して。それは絶対に
ないから。
 緊急連絡は以上。
 同志亜美より』

 竜児は苦笑した。やはり、知的であることに覚醒した亜美には、物足りない男のようだ。
 しかし、油断は禁物。亜美自身は、その男に全く興味がなくても、川嶋安奈が、先方と通じて、何らかの強行手段に
打って出る可能性が否定できない。
 竜児は、携帯電話機を手にすると、亜美に返信する文章をタイプした。

『我らが同志へ 返信
 まぁ、正直なところ、あんまり心配していなかった。
 財閥の御曹司だか何だか知らないが、本当に自身の力で問題を解決した経験がない奴じゃ、熟慮の末、女優への
道を敢えて放棄し、必死の猛勉強で大学に合格し、更には、弁理士になることを目指しているお前には全く物足りない
に違いないと思っていた。実際に、そうだったようだな。
 しかし、お前がそいつを拒絶しても、お袋さんとか、そいつの家の奴等とかが、何かエグいことを企んでいるかも知れ
ない。そのエグいことが何なのかは具体的には不明だが、一つ考えられるのは、何らかの既成事実で、お前を拘束し、
俺と別れさせるなんて線だろう。
 既成事実には、色々あるが、お前が未成年であることを利用して、お前の法定代理人に相当するお袋さんが勝手に
婚約させるとか、もっと、エグいところでは、そいつにお前を抱かせるなんてのまで考えられそうだ。
 後者に関しては、お袋さんはさすがに了承しないと思うが、何かの弾みで、そのイケメン・バカが暴走して、そうした
事態に至るおそれがなくはない。

 いずれにせよ、油断大敵だ。
 次にお袋さんがどう出てくるか次第だが、お前とそいつが差し向かいで会食する、見合いもどきの一席を設けそうな
予感がする。
 そのときは、成り行き次第で、ピンチにもチャンスにもなるだろう。嫌だろうが、面従腹背を貫いて、表面上は大人しく
出席してくれ。お前も、ICレコーダーを忍ばせて、敵方の言質を記録することができるからだ。その席では、お前一流の
性悪さを剥き出しにして、相手の無知や無教養を執拗にいたぶってやればいい。その挑発に乗って、財界の貴公子
(笑)にふさわしからぬ違法性がある発言を記録できれば、俺たちの大勝利だ。
 問題は、夏場のドレスではレコーダーを隠蔽できる箇所がほとんどないことだが、今日はどうだった?
 うまくレコーダーを隠せたか? 男だったら、ドレスシャツの胸ポケットに入れておけば、十分に相手の声は記録でき
るんだが…。婦人物のドレスにはそうした箇所がないから、大変だな。
 う〜ん、男の俺じゃちょっと妙案が思いつかない。この点はお前の才覚で何とかしてくれ。
 以上』

 上記の文面を送信してから、竜児は亜美の応答があるかどうか待機していたが、そのまま音沙汰なしだった。
 きっと、頻繁にメールをしていると、川嶋安奈等に怪しまれるからだろうと思うことにした。

「ただ無駄に待っていても仕様がねぇ…。ちょっと、青本でも読んでおくか」

 時刻は午後九時半。定時連絡があるであろう午前零時までは未だ時間があった。
 竜児は、青本(工業所有権法逐条解説)のうち、特許法第百条に規定の差止請求権から同百六条に規定の信用回
復の措置までを読みながら、亜美からの連絡を待った。

 果たして、午前零時に机に置いていた携帯電話機が振動し、亜美からメッセージを受信した旨を伝えてきた。

「さて…、その後の首尾はどうだったのか…」

 いくばくかの不安をもって、竜児はそのメッセージに目を通した。

『我らが同志へ 定時連絡その6
 ついさっき、帰宅したところ。
 午後九時半以降応答できなかったのは、ママにぴったり張り付かれて、携帯をいじる隙がなかったため。
 どうよ、連絡がなくて心配した?
 その後も例の御曹司君と話したけど、それにしてもバカ丸出し。
 夏なのに新型インフルエンザが流行っていることが話題になったら、“うがいして、インフルエンザ菌を洗い流す必要
がありますね”、だって…。
 インフルエンザは、細菌じゃなくて、ウィルスで感染するなんてのは、小学生だって知っているよ。
 学歴を訊いたら、最難関の私学の名前を挙げやがった。そこの幼稚舎から大学の法学部まで、ずっとそこの私学
だったらしい。もう、完全な温室育ち、そんでもって裏口入学及び進級は間違いなし。
 ママは、こんな奴に、“うちの娘です、宜しく”、なんて調子で妙に恭しくしてて、本当に気持ち悪かった。
 宴席でのマナーというには、ちょっと度が過ぎていたよ。
 この分だと、ママはあたしを、このバカにくっつけるつもりだね。うぇ〜、冗談じゃない。
 おそらく、あんたが指摘したように、近日中に、こいつとの差し向かいの席を用意するんだろう。でも、その時は、う〜ん、
といたぶってやるつもり。何しろ法学部卒だっていうんだから、法律関係の話に持ち込んで、徹底的に痛めつけてやる。
 ああ、それから、念のため言っておくけど、亜美ちゃんは性悪なんじゃなくて、バカなくせに威張ってる奴が嫌いなの。
そういう奴を天に代わって成敗するというだけのこと。性悪、性悪ってあんたも言い続けていると、寝技で成敗してやる
からね。
 それと、ICレコーダーだけど、今日は超小型のものを腰の辺りにテーピングして、そこから外部マイクロフォンを胸の
谷間に忍ばせてテーピングしておいた。しかし、大失敗! 自分の心音がかなり目立っちゃって、肝心のママやバカ
御曹司の声が微かにしか聞こえない。
 テーピングしていた部分は蒸れて痒くなるし、最悪。あんたが居れば、痒くなった部分を嘗めて治してもらえるんだけどね。

 まぁ、冗談はさておき、レコーダーを隠し持つ方法は、ちょっと考え直す。今日は、インフルエンザ菌なんてのを別に
すれば、それほど大した話はしなかったから、録音に失敗してもあまり影響はないけど、差しでの会食でミスは許され
ないからね。
 一応は、レコーダー本体はハンドバックに隠し、ハンドバッグのストラップの付け根辺りに外部マイクロフォンを付けて、
そのマイクをバカ御曹司とかに向けるってのがよさそう。この方法なら、ノースリーブで、胸元が大きく開いたタイトな
ドレスでも関係ないからね。ちょうど、捨ててもいいようなハンドバッグがあるから、明日はそれにマイクを取り付けて
テストしてみる。
 定時連絡は以上。
 同志亜美より』

「やはり、そうきたか…」

 どうやら、『見合い』というベタで古典的な手段に訴えるつもりらしい。
 それにしても、亜美からの主観的な情報だが、相手の男はもうちょっとどうにかならなかったのか、と思わざるを得な
い。資産も地位も約束されている財閥の御曹司だが、『インフルエンザ菌』なんてことを臆面もなく口走る愚か者だ。
 川嶋安奈には、もはや人を見る目がないのだろうか、それとも、自身が財界と結び付くための手駒として自分の娘を
利用するつもりなのかとも思い、竜児は胸くそが悪くなった。

「いずれにしろ、思い通りにはさせねぇ…」

 母親としての川嶋安奈の気持ちは、所詮、竜児には分からないし、分かりたいとも思わない。はっきりしているのは、
彼女はもはや竜児にとって敵だということである。
 竜児は、亜美に対して、今日も作業は無事に終わったことを記すと、最後に『俺達の未来のためにも、負けるわけに
はいかない』と結び、亜美へ送信した。


 賃貸マンションの一室に籠もっての作業も、八日目になった。
 もう、竜児は、完全に職人並の扱いで、サブと一緒に、クロスやクッションフロアの貼り替えに従事している。作業で
出てくる廃材や廃棄物の処置、作業に必要な資材や機材の運搬は、もっぱら春田の役目になった。

「高っちゃん、いいなぁ、俺もクロス貼ってみたいよ。今後は、ずっと内装屋をやっていくんだろうからさぁ…」

 その春田が、羨ましげにぼやいている。
 その春田の台詞を字面通りに判断したら、竜児への嫉妬が込められていると思われることだろう。しかし、アホだが、
春田は気のいい奴なのだ。その春田の台詞は、不甲斐ない自己へと向けたものであることを、竜児は知っている。
 人を妬んだり、ましてや逆恨みするような奴では決してない。

「だが、問題は、あいつらだよな…」

 そう微かに呟きながら、竜児は、別の部屋でクロスの貼り替えをしているであろう、ノブオとテツを思い浮かべた。
 今日は幸い、彼等とは別々の部屋での作業となったが、そうでなかったら、この作業場の雰囲気は更に険悪になって
いただろう。

「おぃ、タカ、何をぼんやりしてやがる、ここは貼ったから次、いくぞ」

 サブの塩辛声で竜児は現実に引き戻された。
 サブは口調はきついし、ぶっきらぼうだが、器用に作業をこなす竜児を高く買ってくれている。
 だが、それがために、サブと他の職人たちとの間の軋轢が目立つようになったのも確かなのだ。
 それにしても…、サブ配下の職人たちが不満なのは、アルバイトに過ぎない竜児が職人まがいの扱いを受けている
ことが原因かと思われたが、どうもそんな単純な話ではないらしい。

 春田に聞いても要領を得ないから、以下は竜児の推測なのだが、元から、リーダーのサブと、その配下であるノブオ
とテツとは、あまり仲が宜しくないようだ。特に、テツは、サブを敵視しているのが、その言動の端々に窺える。
 職人たちの反目は、元々、存在していたのであり、竜児がやって来たことで、それが激化し、顕在化したというのが
真相なのだろう。

「背景はどうあれ、俺がトラブルの種であることには違いねぇなぁ…」

 大橋高校での亜美のぼやきではないが、結局は竜児も異分子なのだ。
 異分子は、どんなに有能であっても、いや、有能であればあるほど、称賛よりも嫉妬、嫉妬よりも憎悪の対象にされ
やすい。

「今日が終われば、あと二日だな…」

 とにかく、無事にこのアルバイトを勤め上げることだ。そして、竜児さえ去れば、ここの職人たちの険悪な雰囲気も、
少しはマシになるかも知れない。
 竜児は憂鬱そうにそう思いながらも、持ち前の器用な手先を、産業用ロボットのように正確に操って、クロスを
ぴったりと貼り合わせた。


 食後、机の上に携帯電話機を置いたまま、今夜も竜児は特許法の勉強をした。本当は、亜美からの連絡が気になっ
て仕様がないのだが、そんなときこそ、勉強や家事で気を紛らわすのが竜児の流儀である。
 この日は、特許法第百七条から第百十二条までに規定の特許料とその納付は簡単に読んだだけにして、
第百二十一条から始まる審判に関する規定を熟読した。
 審判とは、裁判と紛らわしい言葉だが、裁判所ではなく、特許庁が特許の有効性を司法に準じる方法で解決する
制度である。
 特許権者は、その特許権に基づいて差止請求(特許法第百条)や損害賠償請求(民法第七百九条)をすることが
できるが、権利行使をされる側にとっては、下手すれば廃業せざる得ないような死活問題となる。それでも、権利行使
に係る特許権に問題がなければまだしも、もし、その特許権に瑕疵があったら、それで権利行使をされた側はたまった
ものではない。そのため、特許無効審判によって、瑕疵ある権利を消滅させることができるようになっている。
 また、特許受けるための出願は、その出願よりも先にその出願の発明と同種の発明がないかどうか、ない場合でも、
過去の発明に基づいて、その出願の発明が簡単に発明できるようなものではないかどうかが、特許庁の審査官によっ
て厳重にチェックされる。
 その結果、問題がない出願だけが特許される(特許法第五十一条)。
 しかし、審査官の判断にだって過誤はあり得るし、出願に問題があったとしても、適法な補充・訂正によって、瑕疵の
ない出願となる可能性だってある。そのため、審査で拒絶された出願も、拒絶査定不服審判で審判官によって再度
チェックされ、問題がなければ特許されるようになっている。
 司法まがいの判断が行政である特許庁で行われるのは、三権分立を考えると、何となく微妙だ。
 しかし、特許制度は法的のみならず、技術的な観点からも対象をチェックする要請があることから、技術系の公務員
である審判官が、準司法的な手続きである審判を行っている。

「特許無効審判は、当事者対立構造なんだな…」

 特許権者と、それに対抗する者が争う特許無効審判は、特に、準司法的な手続きが色濃い。その当事者は、裁判の
ように、原告・被告とは呼ばずに、それぞれ請求人・被請求人と呼ぶが、実質的には民事訴訟の原告及び被告とさして
変わらない。実際に、請求人と被請求人との間で、訴訟まがいの激しい攻撃防御の応酬が行われる。

「特許法ですら、紛争が生じることを前提にしてやがる」

 当たり前のことだが、みんな仲良しなんて綺麗事は、現実の社会ではあり得ない。法律というのは、紛争解決の物差
しでもある訳だから、融和よりも、利害をめぐって対立するという、シビアな現実を実によく捉えている。

 竜児は、そうした対立構造の一部を描いた特許法第百三十四条の規定を見て、軽い眩暈を覚えたような気がした。
 昼間の作業で疲れていたせいだろうが、その規程は、亜美と川嶋安奈との対立を想起させ、それで気が滅入ったのも
確かだった。

「今日は、ここまでにしとくか…」

 竜児は条文集や青本、その他の専門書を閉じると、照明を消し、携帯電話機を持ってベッドに横たわった。
 時刻は午前零時五分前。そろそろ、亜美から定時連絡が来る頃だった。

「来たか…」

 携帯電話機が発光ダイオードを明滅させながらブルブルと振動した。
 竜児は、送信元が亜美であることを確認して、そのメッセージを黙読した。

『我らが同志へ 定時連絡その7
 今日は朝食時には何も言われなかったので、夕食時までは平穏だった。
 “夕食時まで”と勿体をつけたのは、察しの悪いあんたでも分かるように、明日は、例のバカ御曹司と差しで会食と
いうことになったから…。
 うんざりするほど嫌だけど、こうも展開が早いと、そう感じている余裕すらなくなってしまいそう。何でも、先方があたし
のことを気に入っているんだとか。おい、おい、あたしの気持ちや都合はお構いなしかよ、って感じでムカついている。
 金も身分も保証されていて、特別扱いが当然って奴だから、何でもかんでも相手方が言いなりになると思っているん
だろうね。
 まぁ、こんなことだろうと思って、昼間のうちにハンドバッグにレコーダーを隠す工作をしておいてよかった。
 ちょっと勿体ないけど、ハンドバッグの側面にマイクが覗く小さな穴を開けて、そこにレコーダーの外部マイクロフォン
を強力な粘着テープでバッグの内側から固定した。
 テストもしたよ。
 実際に、あたしがテーブルについて、その差し向かいの席に例のバッグを置き、レコーダーを作動させてみたんだけ
れど、結果はバッチリ! 自分の声がちゃんと録れている。現地はノイズがあるだろうと思って、テレビをつけた状態でも
テストしたんだけど、これもオーケイ。この外部マイクは指向性が強いから、相手方にさえ向いていれば、多少離れてい
ても、周囲にノイズがあっても、明瞭に録音できるみたい。昨日、あたしの心音を拾っちゃったのは、ご愛嬌だけど。あれ
は、心臓近くにマイクをべったりと貼っ付けたから、心音というよか、振動を拾ったんだね。まぁ、とにかく、これで、明日の
準備は万全。
 あんたが言うように、バカ御曹司にとって致命的な言質をとれたら、もう、ママとの反目は決定的なものになるだろう。
今渡こそ、本当に勘当かもね…。少なくとも、実家には今まで以上に居づらくなるから、作戦が成功したら、その翌日、
つまり、明後日には、そっちに帰る。
 あたしとしては、ちょっと悲しいけど、さすがに今回のような強引なやり口には怒りを覚える。だから、明日は容赦なく、
例のバカをいたぶって、こっちに有利な発言を引き出してやるつもり。
 あたしからの定時連絡は以上。
 ああ、それと、今日もパン作りをしたよ。材料を残しておきたくなかったから、残りの材料全部使って、盛大に白パンと
黒パンを焼いた。もう、白パンも黒パンも、どうにか人様に食べてもらえそうなものが、コンスタントにできるようなったよう
な気がする。
 あんたも、バイト頑張って。あんたは何も言わないけど、本当は、バイト先で嫌な目に遭ってるんでしょ? 隠しても
ダメ。あんたは、苦しいことや、辛いことがあっても、それを明かさないけど、あたしは雰囲気で分かるんだからね。でも、
もう、あと二日なんだから、止めろとかは言わないよ。あたしも、あんたの無事を祈っているから…。
 あたしからの定時連絡は以上。
 同志亜美より』

「予想以上に展開が早いな…」

 亜美の外面のよさに、バカ御曹司も気をよくしたのだろうが、単にそれだけで、こうも話が勝手に進むとは思えない。

相手方が、亜美のことを気に入っているのは確かだろうが、川嶋安奈が強力にプッシュしていると見るべきだ。

「川嶋安奈の焦りみたいなもんが感じられるな…」

 おそらく、川嶋安奈は、何らかの手段で、竜児と亜美の関係を知ったのだろう。相思相愛で、肉体関係を持ち、更には、
共通の目的を持って行動している二人の仲を裂くのは容易ではないことも理解しているらしい。
 そのため、何としてでも、バカ御曹司に亜美をくっつけるつもりのようだ。

「ヤバイ状態だが、むしろ精神的に追い詰められているのは向こうなんだ…。そこに、こっちの勝算がある」

 竜児は、携帯電話機を取り出すと、今日もバイトが無事に終わったことと、川嶋安奈がかなり焦っているであろうこと、
及び、こちらとしては、あくまでも冷静に相手方に対処し、バカ御曹司なり、川嶋安奈なりが、失言や失態を演じたら、
すかさず反撃に転ずること、をタイプし、亜美へと送信した。

「蝶のように舞い、蜂のように刺す、といったところか…」

 有名なボクサーが、自身のファイトを表現したものだが、それは今の亜美にもあてはまる。美貌に加え、直感と洞察力
に富んだ亜美ならば、相手を翻弄し、致命的な失言を引き出すことも可能だろう。

「全ては、明日が勝負だな…」

 竜児は亜美の身を案じながら瞑目した。昼間の疲れもあって、竜児は、携帯電話機を手にしたまま、夢すら見ない
深い眠りに落ちていった。


 大橋高校近くの賃貸マンションに籠もっての作業は九日目を迎えていた。
 作業完了の期日は翌日である。その日にまでには何としても作業を完了して、更にその翌日には、マンションを管理
している不動産会社の立会いの下、作業が完璧であることを示さねばならない。もっとも、これは社長である春田の
親父の役目ではあるのだが。
 その一方で、期日までに作業が終わらなかったらどうなるか。それは、理系といえど、法律の勉強を始めた竜児には、
分かっていた。その場合は、民法第四百十五条に規定されている債務不履行に該当し、春田の親父の内装屋は、
違約金という名目で損害賠償を請求されることになるだろう。

「どうにも、作業が遅れ気味だな…」

 昼休みの休憩時、サブが二リットル入りペットボトルの麦茶をラッパ飲みしながら、ぼやくように言った。
 予想外に戦力となり得た竜児の奮闘によって、本来なら、作業は順調に推移しているはずだった。しかし…、

「あの二人がチンタラやりやがって…」

 サブと竜児のコンビがバリバリ仕事をしているのと比べ、ノブオとテツの作業の進捗が芳しくないのだ。
 この二人は、元々が勤勉ではないのだろうが、竜児やサブの働きぶりなどお構いなしに、いかにもやる気がなさそう
に、のろのろと身体を動かしており、覇気が全く感じられない。
 そのノブオとテツは、クッションフロアの床に寝そべって、しばしの惰眠を貪っている。

「よぉ!」

 その二人に向かって、サブが声を荒げた。
 その、いつになく刺々しい口調に、KYだが小心な春田はもちろん、竜児も驚いて、声の主を見やった。

「ノブオにテツ! お前ら、どういうつもりなんだぁ?! ここんとこ、チンタラ、チンタラ作業しやがって、お前らも職人なら、
プロだろう。プロってのは、締切りまでに仕事を終わらせてなんぼだ。それが、何だ、今のお前らは、ぐずぐず、のろのろ、
傍で見ててもイライラするぐれぇに手際が悪い。もっと、しっかりしやがれぇ!」

 マンション敷地内にある欅の大木から聞こえていたミンミンゼミの大合唱が、ひび割れた塩辛声で打ち消された。
 かつてないほどの、剣呑な雰囲気に、春田はもちろん、竜児も、凍り付いたように、身動きがままならない。
 だが、当のノブオとテツは、床にごろりと寝そべったまま、面倒くさそうに、物憂げな目線でサブを眺めている。
 更に…、

「うっせぇなぁ…、暑いんだからよぉ、作業の能率が落ちんのはしょうがねぇだろ? 文句は、梅雨明け前だってのに、
こんなにクソ暑い天気に言ってくれよぉ」

 ノブオもテツも、特にテツは、怒っているサブなんぞは意に介さずとばかりに、ふてぶてしく抗弁している。
 その、仕事への責任感がまるで感じられない弛みきった言動に、サブは怒りをあらわにした。

「作業の能率が落ちるのはしょうがないだとぉ?! ふざけるな! お前らは職人だろ? 親父さんに雇ってもらって、
給料をもらっている身だ。お前らが、びた一文もらってねぇってんなら、まだ、話は分かるが、一応はプロのはしくれなん
じゃねぇのか? プロならプロらしくキッチリ仕事をしやがれぇ!!」

「プロねぇ…。昨日や今日、この仕事を始めたばかりのガキでもできる仕事にプロ意識を求めてもしょうがねぇだろ?」

 テツは面倒くさそうに言うと、例の鮫のように感情が伺えない冷たい眼で竜児を一瞥した。

「お前は、タカのことを言ってるのか? タカは関係ない。問題なのは、お前らのだらしなさだ!」

 その一言に、テツは寝っ転がったまま、「へっ、へっ!」と、吐き捨てるように、サブを嘲った。

「だらしねぇのは認めるよ。だけどよ、俺たちがいくらだらしなくったって、俺たちが居なくちゃ、ここの作業は絶対に明日
中には終わらねぇ。そこんとこを忘れねぇでもらいてぇな」

 テツたちを責めているはずのサブが、一瞬だが、ぎょろ目を不安そうに泳がせたのが竜児にも分かった。
 どうやら、痛いところを突かれたらしい。
 だが、そこはリーダーとしての意地なのか、次の瞬間には持ち直し、ノブオとテツに、殺し文句を突きつけた。

「お前らがその気で居るのは勝手だが、親父さんは、お前らの体たらくを薄々は知っている。今回の報酬にもそいつが
影響することは覚悟しておくんだな」

「薄々も何も、サブが逐一報告してんだろうから、もう、親父は俺たちのことをよくは思ってねぇだろ? でなきゃ、サブと
俺たちとの待遇の違いが説明つかねぇ」

 相変わらず寝っ転がったまま、テツがふてぶてしく言い放つ。
 職人たちの間の不協和音は、結局のところ、賃金格差だったらしい。物質的な欲求に関わる諍いは、単純だが根深
いのだ。

「逐一報告だぁ? 俺はそんなことをしちゃいねぇ! 親父さんを甘く見るなよ。俺が何も言わなくても、親父さんは、
お前らの不甲斐なさを、とっくに承知だ。お前らの待遇が悪かったとしても、それはお前らが怠けた結果だ。
それを履き違えるんじゃねぇ!」

 サブがテツたちの行状を報告していないというのは本当だろうと、竜児は思った。
 初対面でも感じたが、春田の親父は、洞察力に長けている。一見、穏やかそうな目で、対峙する相手の内面を、

驚くほど的確に把握する。その春田の親父であれば、サブからの具体的な報告がなくても、職人二人の働きが
芳しくないことぐらい分かるのだろう。

「けっ、雇い主の犬が偉そうに…。まぁ、安い報酬で俺たちをこき使って、儲けは全部、あの親父の懐におさまって、
サブや、そこのバイトに、おこぼれがめぐってくるって寸法か…」

 そう言って、鮫のように感情が伺えない眼をまたも竜児に向けてきた。
 異分子である竜児の存在が、元々存在していた軋轢を、さらに悪化させたことは間違いない。

「おい、もう、いい加減にしやがれ! ここにはボンも居る。親父さんへの不平不満は言うもんじゃねぇ。それにタカも
関係ねぇだろ! どうしても、ここでの扱いに不満があるなら、それは俺やボンの前ではなく、親父さんに直接言って
くれ。その結果、どうなるかは、親父さん次第だってことも覚悟しとけ」

 言い終わると、サブは、ぎょろ目でテツの感情が伺えない眼を睨め付けた。テツも、サブに臆することなく、その視線を
無言で受け止めている。
 水を打ったように静まり返っているマンションの空き部屋に外の蝉しぐれが残響していた。
 風はそよとも吹かず、実に暑苦しい。

「そうかい…、分かったよ…。ま、雇い主の犬には敵わねぇや。ああ、はい、はい…、俺たちの待遇が悪いのは、俺たちが
だらしねぇから、ああ、もう、そういうことでいいよ。その代わり、午後も、だらしない俺たちなりにやらせてもらうからよぉ」

 それだけ言うと、テツは、目をつぶって、サブに背を向けるようにして側臥した。
 聞く耳もたん、と言いたげな、そんなテツの態度に、サブは唇を震わせている。職人たちの対立は、竜児の出現を
契機として、もはや修復が困難なほど険悪化していた。

 竜児と春田は、ぴん、と張り詰めた空気にいたたまれなかったが、身体が強張って身じろぎすらままならない。
 そのくせ、聴覚だけはやたらと鋭敏になっていて、蝉しぐれと一緒に室内に流れ込んでくる往来の物音のうち、
行き交うクルマの車種すら識別できそうなほどだった。

 不意に近くの大橋高校から、午後一時を告げるチャイムが、蝉しぐれや往来の物音を打ち消すように鳴り響いた。

「時間だな…」

 テツの背中を睨んでいたサブが、吐き捨てるように呟いた。

「ああ、そのようだな…。じゃぁよ、俺とノブオは、引き続きマイペースでやらせてもらうからよ、そっちはそっちで、
リキ入れて頑張んな」

 テツが憎々しげにそう宣うと、ノブオとともに、持ち場である別の空き部屋へと去って行った。
 その二人を、サブが腕組みし、目をぎょろつかせて見送る。
 竜児と春田はほっと胸を撫で下ろした。一触即発の険悪な空気は、割れ鐘のようなノイズ混じりのチャイムで、
ひとまずはおさまったらしい。

「タカ…。頭のよさそうなお前なら、俺と連中の関係は、前から分かっていたんだろうな?」

 サブが、テツとノブオを見送るような姿勢のまま、竜児の方を見ずに訊いてくる。
 その問いに、竜児は、「へぇ…」とだけ応答した。

「なら、話は簡単だ。今回の連中との揉めごとは、お前には一切、責任がねぇ。だから、さっきのことは気にしなくて
いい…。そんなことを気にするよりも、今は仕事だ。何しろ期日は明日なんだ。連中があんな有り様じゃ、あてには

できねぇ。その分まで、俺とお前と、それに…」

 サブは春田を一瞥した。

「ボン、お前にも職人と同じ仕事を頑張ってもらわなきゃならねぇかも知れねぇな…」

「え、お、俺?」

 唐突に名指しされた春田が、アホ面を弛めている。剣呑な状況だが、下働き以外の作業も任されるかも知れない
好機と思っているのだろう。どんなに深刻な状況でも能天気でいられるのが春田なのだ。

「まぁ、胸糞悪い揉めごとは取り敢えず忘れるこった…」

 サブは自分に言い聞かせるように呟くと、マスクを顔に固定した。竜児も、サブに倣ってマスクを着用する。

「よし、じゃぁ、タカ…、クロスを七百五十五ミリ幅で正確に切ってくれ」

「へぃ」

 嫌なことを忘れるには、作業に徹することだ。これは竜児のモットーのようなものなのだが、サブも同じなのだろう。
 竜児とサブは、互いに言葉少なに、時折、頷き合う程度のコミュニケーションで、クロスを修繕する作業に没頭した。

 その日の午後は、テツとノブオが不甲斐ない分をフォローすべく、竜児とサブは、夕方まで懸命になって働いた。
その甲斐あってか、どうにか期日である翌日までには、作業が完了できそうな目処がついたらしい。
 ただし、不甲斐ないなりにも、テツとノブオが成し遂げるであろう分も勘定に入っている。この点が、ちょっと心許ない
ところだろう。

 クロスを貼り替える作業では、その日、どの程度の面積を貼り替えたかを克明に記録する必要がある。
 この記録を根拠にして、使用した資材のコストや、作業代金を算定することになるからだ。

「うちは、明朗会計がポリシーだからな…」

 サブがメジャーを手に、貼り替えた部分の寸法を計り、その寸法と、それから計算された面積を作業日報に記録していく。
 クロスは長方形に切断されて貼り替えられるから、面積の計算自体は小学生だってできる。縦と横の寸法を乗じる
だけだ。
 だが、今日に限っては、少々勝手が違っていた。

「こいつぁ、計算がやっかいだな…」

 サブが面積を割り出そうとしている箇所は、長方形ではなく、三角形だった。それも、単純な直角三角形ではなく、
三つの角のいずれもが、九十度以外の角度を示していた。
 二等辺三角形ならまだ話は分かる。しかし、その三角形は、三辺の長さがバラバラで、正三角形とか、直角三角形
とか、二等辺三角形とかの規則性を持っていない。

「サブ兄ぃ、そんなの適当でいいじゃないすかぁ」

 どうやって面積を割り出すかで悩み、呻吟していたサブの脇で、春田がKYなことを宣っている。その春田を、サブは、
ぎょろり、と睨み付けた。

「ボン、うちがこの地区の内装屋の中でも、多くの不動産屋から贔屓にしてもらっている理由ってのを、親父さんの跡を

継ぐかも知れない身なら、ちったぁ考えてくれぇ」

「そんなこと言われたって、俺、頭悪いから、分かんないよぉ…」

 サブのぎょろ目に射竦められて、春田は弁明どころか却ってサブの不興を買いそうなことを口走っている。考えずに、
あたかも脊髄反射でものを言っているようなところは、高校時代と全く変わらない。
 そんな春田に呆れたのか、サブは大きく嘆息して、坊主近くまで刈り込んだ頭を、物憂げに振った。

「ドンブリ勘定はまずいってこってすよね、サブ兄ぃ」

 竜児のフォローに、サブは軽く頷いた。

「さすがはタカだ。ちゃんと、分かっていやがる…。そうとも、この業界ってのは、結構いい加減なところが多いんだ。
で、そういったところは、かなり露骨に水増し請求をしてやがる。だが、水増し請求がバレたら、お終いだ。仕事の契約は
打ち切られるだろう。だから、うちは、きっちりと作業に掛かった労力や、建材の量を正確に記録して、仕事を充てがって
くれた不動産会社に報告しているってわけさ」

「正直なのが一番ってことですかい?」

 敢えて訊き直すまでもなかったが、サブ、それに雇い主の春田の親父に、実直で正直な自分と共通する何かを感じ、
竜児はちょっと嬉しくなった。
 そのサブは、ぎょろ目を心持ち細めて、頷いた。

「さてと、問題はこいつの面積だなぁ…」

 数学科である竜児にはどうやれば正確な面積が計算できるかは当然に分かっていた。しかし、この場でそれを口に
することは、竜児が大学生であることを職人たちに勘付かれるおそれがあった。
 竜児は、何とかサブが解決してくれることを願ったが、サブはうん、うん、と唸りながら首を捻るばかりで、いたずらに
時間だけが過ぎ去っていく。その姿を、サブに反目しているノブオとテツが苛立ちながら、眺めている。いい加減に早く
帰りたいのだろう。その点は、竜児も同じだ。何しろ、今夜は、亜美が例のバカ御曹司と見合いをする。その際に、亜美
からは緊急の連絡とかがあるに違いない。その緊急連絡に対処するためにも、今日はここを引き払いたかった。

「サブ兄ぃ、ここはこうすりゃ、面積が出そうですぜ」

 竜児はスケール類の中から、分度器を取り出して、それぞれの角度を計り始めた。

「分度器なんかで角度計ってどうすんだ?」

 こんな三角形は、二辺とそれに挟まれる角に着目し、その二辺の長さとその角の正弦とをそれぞれ乗じ、二分の一に
すればよい。高一の数学で習う初歩的な計算方法だ。だが、ここでの竜児の設定は、落ちこぼれということになって
いる。その落ちこぼれが、三角関数を使った計算方法を使うという不自然さをどうやって誤魔化すかが鍵であった。

「いや、ちょっとばかし、高校での数学の公式を思い出したんでさぁ。こんな、直角のねぇ三角形でも計算できる奴が
たしかあったと思いやして…」

 指数、対数、三角関数といった分野は、数学嫌いには虫唾が走るほど嫌なものだろう。落ちこぼれだったら、憶えて
いる方がおかしい。そうした設定をされている竜児が、ごくごく初歩的とはいえ、三角関数を使うのは、さすがにまずい
だろうとは思ったが、それよりも、さっさと帰りたいという欲求が優先した。

「ここの角度はちょうど三十度でさぁ。そうなると、この角度のsinは二分の一ってことになりやす。で、この角を挟んで

いる二つの辺の長さを掛けて、さらにその値を半分にすると、この三角形の面積になるはずですぜ」

 サブが、うん、うん、と頷きながら、紙の上で鉛筆を走らせている竜児の手元を見ている。

「そういやぁ、こんな式、高校で習ったような気もするなぁ。まぁ、俺にはその式が正しいのか、何でそんな風に計算でき
るのかは分からねぇけど、たしかに、そんな式は授業で習ったなぁ…」

「じゃぁ、サブ兄ぃ、この計算で求まったのが、ここの面積ってことでいいすね?」

 サブが顎を引くようにして頷いている。竜児は内心ほっとした。本当かどうかは分からないが、サブの記憶に、三角関数を
使った三角形の面積の求め方が、微かに残っていたらしいことが幸いしたようだ。
 しかし…、

「お〜っ、すげえやぁ、さっすが、大学で数学を専門にやっている高っちゃんだぁ。俺なんか、こんなの全然分かんないよ」

 アホな春田が、全てをぶち壊す致命的なことを口走っていた。

「何だと?! ボン、そいつは本当か?」

 竜児を落ちこぼれニートだとばっかり思い込んでいたサブが、ぎょろ目をまんまるに見開いて春田に詰め寄った。
 春田の親父が言った竜児のプロファイルとまるっきり違うのはどういうことだ、ということなのだろう。
 その春田は、詰め寄るサブの尋常でない雰囲気と、ノブオにテツの怒りがこもった刺すような視線を感じ、弛んで
いたアホ面をにわかに引きつらせて、心持ち後ずさった。

「サブ兄ぃたちに親父や高っちゃんがどう言ったのか、お、俺は知らないけど、高っちゃんは、大橋高校でも成績優秀で
さぁ、今は国立大で数学を専門に勉強してるんだぜ。そ、それがどうかしたの?」

 なんてこった、春田の親父の心遣いも、任侠口調を真似てサブに同調していた竜児の苦労も、この春田のKY発言
で全てが台無しになってしまった。

「タカ、ボンの言ってることは本当なのか?」

 サブが、竜児に詰るような視線を送ってきている。もはや、言い逃れはできないだろう。
 竜児は、申し訳なさそうにうなだれた。

「すんません…。俺は、春田が言ったように、ニートじゃありません。大学生です」

 三人からの視線が刺々しく、竜児は思わず目を伏せた。方便とはいえ、嘘をついていたのは確かである。
 実際に竜児が落ちこぼれであるという設定をでっち上げたのは春田の親父だが、それを否定しなかった竜児もまた、
責められるべきなのだ。

「けっ! 何か気に食わねぇと思ったら、一流大学の学生さんとはね…。それを、素行不良の落ちこぼれとか親父も含め
て騙しやがったのか、屑だぜ、こいつは」

 テツが、鮫のように冷たい瞳を竜児に向けて、吐き捨てた。
 春田の親父も竜児が騙したということにされてしまっている。春田の友人であるという竜児の立ち位置を考えれば、
春田の親父が竜児の素性を正確に把握していないという方がおかしいのだが、場の雰囲気は、その抗弁を許すような
ものではない。
 それに、春田の親父が職人たちを騙していたことをつまびらかにすれば、サブはともかく、雇い主に反感を覚えている
ノブオやテツは黙っていないだろう。

「た、高っちゃんは親父を騙してなんかいないよ。実際、親父は、みんなが帰った後で、高っちゃんのことを、大学生だが、
根性のある奴だ、って誉めていたんだぜ…」

 またしても春田だった。

「ボン、そりゃあ、どういうこった?!」

「ど、どうって…、多分、親父には親父の考えがあって、高っちゃんが大学生だってのを兄ぃたちには内緒にしていたん
だと思う。お、俺も親父からは何も聞いちゃいないから、これ以上のことは分からないよう」

 更にまずいことを口走ったことに春田もようやく思い至ったようだが、もう遅かった。ノブオとテツは、
憤怒を込めた険悪な視線を春田と竜児に向けている。

「要は、親父は俺たちをコケにしていたってことだろ? こいつが大学生だってのが俺たちにばれると、こいつがいじめ
られるとかって親父は思ったんだろ? で、親父は猿芝居をした。ほんと、ふざけてるぜ」

 そう言い捨てると、テツはのっそりと、その場から立ち去ろうとした。そのテツに、ノブオも追従する。

「どこへ行きやがる!」

「どこって? 帰るんだよ。今日の作業は終わったし、ここに居てもしょうがねぇからさ」

「作業現場からの勝手な帰宅は許されねぇ! 作業現場に直接行かずに、まずは事務所に集合するのと同じように、
作業が終わったら、事務所にワゴンで戻って、それで解散ってのがルールだ。それには従え!」

 だが、テツはもちろんノブオも口元を歪めて、睨み返してきた。

「ルールだとぉ? 笑わせちゃいけねぇや。こいつが大学生だってことを、俺たちに正直に言わなかった奴が決めた
ルールなんざ糞喰らえだ。俺もノブオも、そんな奴の言いなりになんかなりたくねぇ。
第一、報酬だって、働きからすりゃ安すぎるんだ。そんな状況だってのに、ルールなんざ知ったことかよ」

「そいつは、親父さんに対する反抗と見ていいんだな? それと…、ここを辞めると見てかまわねぇんだな?」

 『辞める』、の一言に、テツが眉毛つり上げた。

「辞めるかどうかは、今晩ゆっくり考えるさ。まぁ、ノブオはどうだか知らねぇが、俺はかなり辞めたい気分だ。正直、ここ
よりももっと待遇がいいところで働きてぇ。まぁ、明日の朝、事務所にひょっこり現れるかも知れないし、そうでないかも
知れねぇ。こればっかりは、明日にならねぇと分からねぇな」

 サブが、怒りでぎょろ目を血走らせて、小生意気なテツを凝視している。

「勝手過ぎるぜ! お前らをどう扱うかは親父さんが決めるんだ。だから、勝手に帰るのは許されねぇ」

 サブは、暗に春田の親父が二人の職人を解雇するかも知れないことを匂わせて、テツを牽制したつもりのようだった。
しかし、テツとノブオは、もう春田の内装屋を辞める気だったのだろう。全く動じる気配がない。

「雇い主の犬であるお前さんと、ほとんど使い捨てに等しい俺たちとじゃ、所詮は考え方や価値観が違うんだよ。
今回のこいつの件じゃ、お前だって親父にコケにされていたんだぞ? それでも腹が立たねぇのか? だとしたら、
立派なもんだよ。そのご立派な態度を貫いて、精々、親父と一緒に仲良くやっていくんだな」

 それだけ言い放つと、ノブオを伴って、作業現場から立ち去っていった。

「畜生…」

 サブが悔しそうに頬を引きつらせ、両の拳を握りしめたまま、その場に立ちつくしている。
 怒りと動揺からか、握りしめた拳が、ぶるぶると振るえていた。

「サブ兄ぃ…」

 その背後に掛けられた竜児の声で、サブは振り返った。

「すんません…、おれが身分を隠していたばっかりに、こんなことになっちまって…」

 サブは竜児をぎょろ目で一瞥したが、それだけだった。

「タカ…、正直お前が大学生だってのを知ったときは、嫌な気分になっちまったが、今はそれをどうこう言ってもしょうが
ねぇと思っている」

「へぃ…」

 もう必要はなさそうなのだが、サブと向かい合っていると、任侠めいた口調が出てしまう。

「問題はだな…、期日が明日に迫ったここの内装工事が無事に完了するかどうかってことだ。俺とお前とで、残りの
作業を完全に終わらせなけりゃいけねぇが、まぁ、無理だろう。今は実際の作業をしていない親父さんにも頑張ってもら
わなきゃならねぇかも知れねぇし、他の内装屋から応援を頼む必要があるかも知れねぇ。いずれにしろ最終的な判断は
親父さんがすることになるだろう」

 そう言って、サブは本日は撤収する旨を竜児と春田に告げ、自身が大型ワゴンを運転して、内装業の事務所である
春田の家に向かった。
 事務所では、春田の親父が、険しい顔つきでサブの報告を聞いている。
 ひとしきり報告を聞いた後、春田の親父は竜児に向き直った。

「そこでだ、高須、明日のお前だが、定時を超えて、場合によっちゃ徹夜でも作業はできそうか? サブからの報告で、
お前が並の職人以上の能力を備えてることを教えてもらった。サブとお前の頑張りで、この難局を打開したい。
宜しく頼む」

 半ば、『やれ』という命令だった。それに、春田の親父の嘘に便乗して、今回の事件のきっかけを作った責任もある。

「できます。徹夜でも何でも、俺にも責任がありますから、やらせていただきます」

 春田の親父は、険しい表情ながら、鷹揚に頷いた。

「しかし、俺とタカが徹夜でやっても、間に合うかどうか微妙な状態ですぜ」

 サブが春田の親父の前で、不安そうに眉をひそめている。職人たちが造反したのは、リーダーである自分の不手際
だと思っているのかも知れない。

「うん、たしかに、あの二人が明日来ないかも知れないことは痛手だが、それについては、もうどうしようもない。
元々、働きはそう誉められたものじゃなかったから、こういう日がいずれは来るだろうとは思っていた。だから、連中が、

明日から来なくなっても、それはお前の責任ではないし、ましてや、学生であることを隠すように俺に言われて、
それを正直に守った高須のせいじゃない」

 請け負った仕事が不履行に終わるかも知れない緊急事態にもかかわらず、竜児やサブを責めない春田の親父に、
竜児は人を使役する立場というものが何となく分かってきた。無理難題をふっかけるようなゴリ押しは禁物なのだ。
事実に基づいて、公平かつ誠実であれ、ということなのだろう。
 春田の親父は無学であるかも知れないが、人を使役する経営者としては、なかなかの徳義を備えているらしい。

「すいやせん…、親父さんにそう言って戴きやすと、こっちも少し気が楽になりまさぁ。しかし、俺とタカ、それにボンの
三人だけじゃあ、戦力が足りません。あと最低でも職人が一人、それに職人を補佐するボンみたいなのが、できれば
あと一人は欲しいところですぜ」

 春田の親父は、もっともだとばかりに頷いた。

「よそから職人を連れてくるってのは、時間的に厳しいだろう。それに、サブは知っての通り、うちは明朗会計で公正に
やってきているから、それを快く思わない同業者が少なくない。そんな連中は、うちの窮状を、ざまぁ見ろ、ぐらいにしか
思わないだろうし、そんな徳のない連中に助けてもらったら、後々が面倒だ。だから、これは俺たちだけで解決するんだ」

「と、言いやすと?」

 竜児には、春田の親父がどうするか分かっていた。それはサブも当然に理解しているのだろうが、念のために、
それに、隣でアホ面を晒している春田に聞かせるために、こう言ったのだろう。

「言わなくても分かっているだろうが、俺も一職人に戻るのさ。経営者として、デスクワークばかりしてきたが、それで少々
身体がなまってきたようだ。明日からは、初心に戻って、お前たちと一緒に汗を流すつもりだ」

 春田の親父は、にっこりと笑った。その笑みは、竜児やサブを不安にさせないためのものなのだろうが、同時に、職人
としてのアイデンティティを取り戻すことへの愉悦のようなものが感じられた。

「話としては以上だ。明日は、サブに高須、お前たちの働きに期待している。特に高須は、あと一日だってのに、こんな
ことになって済まなかった。お前にも定時以後はプライベートで色々あるだろうが、無理をきいてはくれないか。もちろん、
相応の報酬ははずむつもりだ」

「いえ、今回の騒動の原因の一つは自分にあります。だから、当然に責任をとらせて戴きます」

 竜児の言葉に春田の親父は満足げに頷いたが、気になることを呟くように言った。

「お前のその責任感が強いところ、それに何でも如才なくこなす器用さは本当に得がたい能力だ。だが、周囲の人間は、
俺もサブも、今回、造反した二人も含めて、お前と同じじゃないんだ。悪い意味でなく、お前は普通の人間じゃないんだ。
その点は、ちょっとでいいから、心の片隅にでも置いといてくれ…」

「は、はい…」

 竜児は、台所でオムレツの出来栄えについて亜美から『嫌味な謙遜』とたしなめられたことを思い出した。たしかに
亜美の言う通りだった。竜児にしてみれば、自分が成し遂げた結果を、正直に論じているのだが、それは、竜児以外の
人間には煩わしく不快に映る場合があるのだろう。
 そんな風に竜児が思い悩んでいることを春田の親父は敏感に察したのか、ほんの少しだけ相好を崩して、竜児の顔
を見た。

「まぁ、お前という奴は、何事も徹底しないと気が済まないようだから、凡人である俺がつべこべ言えた義理じゃないな。

今言ったことは忘れてくれて構わない。その代わり、明日は、そのお前の能力を遺憾なく発揮して、サブと一緒に頑張っ
てくれ」

「は、はい!」

「それじゃぁ、今日は解散だ。ただし…」

 春田の親父の表情が再び強張った。

「浩次、お前は別だ。今回の騒動で、お前には色々と訊きたいことがある。この場に残ってもらおうか」

 その、ドスの効いた一言に春田は震え上がった。
 サブと竜児も互いに目配せをして、「こりゃ、やばそうだ」という意見の一致をみた。二人は、春田に注意がいっている
春田の親父に黙礼すると、その場をそそくさと立ち去ることにした。

「お、親父ぃ〜、おい、俺は何も悪気があって、高っちゃんの素性を口走ったんじゃねぇよぉ」

「馬鹿野郎! あれほど言ってるのに未だ分からねぇのか。公の場では、俺は社長だぁ!!」

 サブと竜児が門から外に出た瞬間、雷のような春田の親父の怒号が聞こえてきた。


 帰宅してシャワーを浴びたら、すでに時刻は午後七時近くだった。竜児は、携帯電話機を傍らに置いたままで、夕餉
の支度をし、泰子と一緒の食卓についた。
 バカ御曹司との見合いが何時から始まるかは教えてもらってないが、今日は平日だし、バカ御曹司も一応は社会人
ということになると、仕事を終えてのイブニングという線が濃厚だ。

「竜ちゃぁ〜ん、さっきからどうしたの? 携帯ばっか気にして〜」

 携帯電話機をチラ見しながらの食事している竜児が気になったのだろう。

「いや、亜美から連絡があるかも知れねぇって思ってさ。あいつ、急に実家に戻っちまって、もう一週間以上だから、
ちょっとさ…」

 下手をしたら、亜美は金輪際、こっちには戻って来ないかも知れない。もしかしたら、今の大学も辞めさせられて、
どっかの私学を受け直させられるかも知れないのだ。
 そんな不安を抱えた息子に、泰子は、幼女のような頑是ない笑みを向けてきた。

「ふぅ〜ん、そうだねぇ、やっちゃんもそうだったけど〜、愛する人が、遠くに離れていると、落ち着いてご飯も食べられ
ないからね〜。でも〜」

「でも、って?」

「亜美ちゃんは、必ずここに帰ってくるよ。理由なんか全然ないけど〜、やっちゃんには分かるんだ。亜美ちゃんは、実家
での生活よりも、こっちの方を選ぶ。そんな気がする。だから〜、今はあれこれ悩まずに、しっかりご飯を食べて、勉強す
るなり、ゆっくり休むなり、気持ちを切り替えていこうよ〜。亜美ちゃんは賢い子だから、絶対に間違ったことはしない。
だから〜、竜ちゃんは亜美ちゃんを信じて、もうちょっとだけ待っていてあげようよ〜」

「お、おう…」

 泰子の言う通りだった。亜美からの緊急連絡があるかも知れないが、竜児にできることは、その際に、適宜アドバイス
をすることと、亜美から何か要請があったら、可能な限りそれに応えるということだけだ。
 全ては、その場での亜美の奮闘にかかっている。
 食後の食器洗いを終え、自室に籠って、亜美の連絡を待った。時刻は既に八時過ぎになろうとしていたが、未だ亜美
からの連絡はない。
 何かあったのだろうか、と竜児は不安になる。川嶋安奈の監視が厳しくて、身動きがとれないのかも知れないし、
下手したら、バッグの中にICレコーダーを仕込んでいるのがバレて、作戦が台無しになっているのかも知れなかった。

「待つってのが、こんなにも精神的にきついのは初めてだぜ…」

 時刻が八時十五分を過ぎた頃、ようやく亜美からの第一報が届いた。

『我らが同志へ 本日の緊急連絡その1
 連絡が遅くなってごめん。
 宴席は七時に始まって、最初は関係者全員での会食になった。あたしの側からは、あたしとママ、相手側からはバカ
御曹司とその母親ってのがやって来たよ。それに仲人気取りの財界のお偉いさんの夫妻。その夫妻の旦那の方は
テレビか何かで見たような気がするし、名前も聞いたんだけど、忘れた…。要するに、どうでもいい存在だね。
 で、相手方の母親ってのが、意外に若くてびっくり。どう見ても四十代には見えない。だとしたら、未成年でバカ御曹
司を生んだのか? うわぁ、生臭い。なんか正妻じゃない感じなんだよね。物腰が微妙に下品だし…。まぁ、それは成り
上がりセレブの我が家にも言えるんだけどさ。
 やっぱ、元は妾って感じがプンプンする。想像なんだけど、こいつの父親ってのが、高校生くらいの女の子にお手付き
しちゃって、こいつができちゃった。で、責任とって妾にして囲った。正妻は別に居たんだろうけど、跡継ぎが生まれな
かったとかで妾にその座を奪われたのかも知れない。
 どっちにしてもかなり複雑な家庭の事情がありそう。関わり合いにならないのが一番だね。
 だけど、その元妾らしい母親と、成り上がりセレブのママとが気が合うとかだったら嫌だな。今回の話がトントン拍子
に進んだのは、そのせいか? もう、正直、気持ち悪くて吐きそう。
 でも、これで心置きなくこの宴席を台無しにできる。
 もう、ママに対する罪悪感なんか吹っ飛んだ。この後は、バカ御曹司との差しでの面談が待っている。あたしは正気
でいるためにアルコールは飲んだふりにしておくけど、バカ御曹司にはワインでもシャンパンでも飲ませて、少しでも
理性を麻痺させて、挙句に暴走させるつもり。
 ちょっと、危険だけど、飲酒した後、“僕のクルマで、どこかホテルか、うちの別荘にでも行って、今夜を過ごしません
か?”とか言い出せばしめたもの。堂々と飲酒運転を宣言していることになるし、そこで嫌がったあたしに無理強いした
ら、強姦未遂とかも言い出せそう。あたしが十八歳未満だったら、淫行条例に違反することも主張できるけど、さすがに
今は無理。
 そこで、お願いがあるんだ。これからの一連のイベントもバッグに隠したICレコーダーで記録しておくけど、念の為に
携帯電話でも会話の一部始終をそっちに送っておく。あんたは、それを録音しておいて。万が一だけど、レコーダーを
没収されたり壊されたりすることもあり得るから。
 次、あたしからメールじゃなくて電話のコールがあったら、それには無言で応答して、代わりにあたしの携帯からの
音声を記録しておいてね。
 本日の緊急連絡その1は以上。
 そろそろ、化粧室から出なくちゃ、怪しまれるから…。
 同志亜美より』

「会話が長くなりそうだな…」

 であれば、携帯電話機の録音機能では録音時間が足りない。竜児は、講義の録音に使っているICレコーダーを
専用のケーブルで携帯電話機に接続した。これなら長時間の録音も可能になる。
 そして、接続を完了して、いつでも録音が可能なようにしたタイミングを見計らったかのように、亜美からの電話で
竜児の携帯電話機が振動した。
 そのまま、無言で通話ボタンを押し、レコーダーでの録音を開始する。

続く

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