web上で拾ったテキストをこそっと見られるようにする俺得Wiki

 携帯電話機のスピーカーからは、レストランらしいざわついた雰囲気とともに、若い男の声が聞こえてきた。

『それで、川嶋さんは法学部だそうだけど、別に司法試験とかを受験する訳ではないよね? あれは法科大学院を
出ないと受験すらできなくなったから、大学出てからも必死に勉強しなくちゃいけないなんて、人生の空費だよ。
それよりも、女としてもっと楽しい人生を送った方がいいと思うけどね』

『そう言われましても、学生は勉学が本分ですので、あたくしは女としてよりも、在学中は学徒として実直に参りたいと
思っています。それに、会ってすぐに結婚とか何とか、性急すぎやしませんか?』

 どうやら、バカ御曹司は単刀直入に亜美にプロポーズしたらしい。一方の亜美は、大学で勉強したいから、結婚なん
てのは時期尚早とつっぱねたのだろう。しかし、『あたくし』とは…、亜美の本性を知っている竜児には、噴飯物の
一人称だ。

『まぁ、僕と結婚しても、引き続き今の大学には通えばいいんだし…。結婚したからっていっても、家事とかは全くやる
必要はない。全部、家政婦に任せておけばいい。何ら思い悩むことはない優雅な生活が待っているんだけどね』

『何ら思考することなく、上げ膳据え膳の毎日なんですか? それって、脳味噌が退化しそうですわね』

 亜美の性悪毒舌が始まった。

『いやいや、セレブにはセレブらしい頭の使い方があるんだよ。まぁ、暇つぶしに株式や為替相場、それに美術品か何か
のオークションに手を出せば、それなりに頭を使うことになるし、それで十分だろ?』

 うふふ、という鈴を転がすような亜美の笑い声が聞こえてきた。悪意をオブラートにくるんだときに亜美がよくやる
笑みに相違ない。

『それって、思考というよりも運任せの要素が大きすぎますわ。単なるギャンブルでしょ? 競馬や競輪、もっと低俗な
パチンコ辺りと何ら変わらないですわね』

 ドン! という、耳障りなノイズが竜児の携帯電話機のスピーカーに轟いた。亜美の性悪な応答に翻弄され続けて
いるバカ御曹司が、ワイングラスか何かをテーブルへ乱暴に置いたのだろう。

『あらあら…、どうかされました? もう、酔われましたのぉ? そんなことはありませんよねぇ? 殿方たる者、ワイン
程度で酔われるようでは、宜しくありませんことよ』

 こぽこぽ、というグラスにワインが注がれるような音が聞こえてきた。ウェイターが気を利かして、バカ御曹司が干した
ワイングラスに新たなワインを注いだらしい。

『君ねぇ、僕に勧めるのはいいけど、君自身は全然飲んでいないじゃないか』

 バカ御曹司の語気がいささか荒くなってきた。意のままになりそうもない亜美の態度に業を煮やした上に、酔っても
きたのだろう。

『あたくしは未成年ですから、もとよりお酒はたしなみません』

 嘘つけ! と竜児は、内心で毒づいた。
 弱いくせに飲酒は大好き、酔えば酒乱という、どうしようもないのが亜美の本性だ。

『そりゃ、残念だ。酔った方が、刺激的な体験が色々とできるもんなんだけどね』

『刺激的? それはどういう意味ですか?』

『そ、そりゃあ…』

 バカ御曹司が口ごもっている。下心を見透かされたことで動揺しているのだろうが、そんなものは見え見えだ。

『あたくしは、今の大学での勉強の方が刺激的ですけど…。そういえば、あなたも法学部のご出身でしたわね。では、
ちょっと教えて戴きたいのですが、民法の三大原則って何ですかぁ?』

 先日の予告通り、亜美からの攻撃開始である。

『そ、それは…』

『たしか、民法のどの教科書にも冒頭に書かれているはずなんですけどぉ…。何せ、これから財閥の御曹司として、
法務にも精通されていなければならない御身ですからぁ…。まさか、ご存じないなんてことはありませんよねぇ』

『う…』

 バカ御曹司が苦しげに唸っているのが聞こえてくる。

『これだけ待っても、何のお返事も戴けないので、どうやらご存じないらしいですわね、ダメじゃないですかぁ、
所有権絶対の原則と、私的自治の原則と、過失責任主義の原則の三つですよぉ。
こんなの民法の講義の一番はじめに習うことなんですけどぉ』

『あまりに初歩的過ぎて、忘れたんだよ』

 例の鈴を転がすような笑い声が、またも聞こえてきた。

『そうですか、ではもうちょっと高度なことをお伺いしても宜しいですわね? では、先ほどの過失責任主義の原則とは
いかなるもので、その過失責任主義が適用されない例外を条文を含めて挙げて戴けますか?』

『き、君ねぇ、あんな長ったらしい民法の条文なんか、手元に条文集がなくちゃ答えられないだろ』

『あら、そうでしたわね。でしたら、これをお使いください』

 テーブルの上に、厚みのある紙束が置かれたような音がした。

『ポケット六法! こ、こんなのを持ち歩いているのか?!』

『あら、こんなものとは失礼な。仮にも、あたくしは法律を学んでいる学徒ですのよ。であれば、常日頃、条文集を持ち歩
いていて当然ではないでしょうか。さぁ、あなたの御託は結構ですから、これをお使いになって、先ほどの質問に答えて
下さいな』

 バカ御曹司のものらしい呻き声と、パラパラと条文集をめくっている音が聞こえてきた。しかし、亜美も意地が悪い。
無過失でも責任が問われる追奪担保責任(民法第五百六十一条)や瑕疵担保責任(同五百七十条)だが、
このバカ御曹司に答えられるとは到底思えなかった。

『だいぶ時間も経ちましたし、条文集もかなりいろんなページを開いてご覧になったようですけどぉ、そろそろ答えて
戴けないでしょうか? あ、分からない、っていうのでしたら、潔くそうおっしゃって下さいませんかぁ?
答えられなくても、別段、ペナルティーはありませんわ。所詮、この程度だと思うだけですからぁ』

 竜児は、その光景が目に浮かぶようだった。亜美の奴は、例の目をちょっと細め、口元をいくぶんはひきつるように
歪ませた、例の性悪笑顔をバカ御曹司に向けていることだろう。
 竜児等のごく近しい者を除けば、第三者に披露することは滅多にない亜美の腹黒い素の部分。
 今はその滅多にない場合なのだろう。例えば、ストーカーに逆襲して、これを撃退したときのように、または、どうでも
いい存在と、相手を完全に見下しているときである。

『く、くそ、何て、陰険な女なんだ』

 性悪チワワに追い詰められたバカ御曹司が歯噛みしている。そりゃそうだろう。楚々としたお嬢様面の内面が、こんな
にも腹黒いと初対面で見抜ける奴は、そうは居まい。中身のない奴ほど、亜美の皮相な面しか分からないのだ。

『陰険な女が答えですのぉ? そんなの条文集には書いてないでしょう?』

 語尾を持ち上げたイントネーションが嫌味ったらしい。

『まぁ、とにかく、あなたが所詮はこの程度だっていうことが分かりました。やはり、為替だ株だ程度の低俗なギャンブル
にうつつを抜かしているうちに、脳味噌が退化なされたようですわね』

『退化とは何だ、失礼だろ!』

 バカ御曹司が激昂している。そろそろ、怒りの臨界点が近い。

『あら、そうでしたわね。退化という言葉は不適当でした』

『当然だ!』

『退化というのは、元はまともだったのが、後で劣化することを言いますけどぉ、あなたの場合は、どうやら最初からダメ
みたいですもの。ですから、退化という言葉は不適当でしたわね。ほんとにぃ…』

 再び、鈴を転がすような亜美の笑い声が聞こえてきた。

『なんて、失敬なんだ。君は、躾というものがなってない。所詮は、成り上がり芸人の娘だな』

『あらまぁ、それこそ失敬ではありませんかぁ? まぁ、あたくし自身、それはそう思いますけど、それをあなた程度の
おバカさんに言われる筋合いはありませんわ』

 じわじわと、真綿で首を締めるように亜美がバカ御曹司を追い詰めているのが、電話でも手に取るように分かる。
 何のことはない。これは隠し事をしている竜児を追及するときの亜美と似ている。ただし、竜児との場合は、詐欺すれ
すれの引っ掛けや、恫喝まがいの強迫等、いっそう遠慮がないのだから、もっと大変である。

『所詮、芸人の娘が偉そうに…。どうやら、君は男というものがどんなものなのか身をもって知る必要がありそうだな』

『あら、そうですの?』

 怒りの臨界点寸前のバカ御曹司に対して、亜美は冷静そのもののように感じられる。
 だが、亜美だって精神的にはきついのだ。それを押し殺してバカ御曹司と対峙していることが竜児には分かった。
 不意に、じゃらり、という金属が干渉するような音が聞こえてきた。

『ちょっと夜風に当たった方がいいだろう。僕のポルシェで、ちょっと首都高を走って、河岸を変えよう』

 バカ御曹司は、ポルシェだか何だかのキーをテーブルの上に置いたらしい。

『河岸って、具体的にはどこですの?』

『予約が取れる手近なホテルだ。そこで男が何たるかを教えてやる』

『嫌だと言ったら?』

 鼻息荒いバカ御曹司に比して、亜美の口調はあくまでも冷やかだ。

『腕ずくでも引っ張っていって、一発ぶち込んでやる』

『あら、下品…。あんたって嫡子らしいけど、躾がなってないって言葉をそっくりお返しするわ。
単に甘やかされるばかりで、何ら苦労なくのうのうと育ったんでしょ? だから、バカなのよ』

 亜美が不自然なお嬢様口調をやめ、言葉遣いを普段のそれに戻している。どうやら、とどめを刺しにかかるらしい。

『生意気な女だな…。なるほど、お前の母親の川嶋安奈が持て余す訳だ。言っておくがなぁ、お前を煮て食おうが、
焼いて食おうが、それはお前の母親である川嶋安奈も承知の上なんだよ!』

 バカ御曹司の激昂の後、気詰まりな沈黙が続いた。会話に代わって、レストランらしいざわついた雰囲気が伝わって
くる。時間にしてみれば、ほんの数秒間なのだろうが、その会話の中断が竜児にはひどくじれったい。

『あら、そう…、今の話は何かあんたの作り話っぽいけどぉ、そうだとしたら、川嶋安奈に対する名誉毀損もいいところね。
それに、話が本当だとしても、別段、あたしは驚かないわ。ママは本当に食えない女だからねぇ、あたし以上に。だから、
自分の利益になるなら、この程度のことは言いかねないわね』

『強がってんじゃねぇよ、お前は、実の母親にも、手駒というか、厄介物扱いされてんだ。だが、そんな厄介物を俺は川嶋
安奈から貰って、これから調教してやろうってんだよ。どうだ、自分が何様か思い知ったか!』

『調教、あんたかこの亜美ちゃんを? 本当に下品ね…。あんた本当に財閥の跡継ぎなの? まぁ、あんたみたいな
バカは、衣食足りても礼節はないんでしょうね。そんなあんたに、あたしが何様かなんて言われる筋合いはないわよ。
自分が何様かは、モデルを廃業して、一高校生になったときにきっちりと理解している。あんたなんかに言うつもりは
なかったけど、あたしはママである川嶋安奈の影響から脱するために大学で勉強して、自分で進路を切り拓くのよ。
温室でぬくぬくと育ったあんたなんかとは違うのよ』

『小娘が偉そうに…』

『その小娘に、いいようにあしらわれているのは、どこのおバカさんかしらね。どうでもいいけどぉ、さっきから何か端末を
ごそごそいじってるけどぉ、何やってんのよ、みっともない』

『ホテルの空きを確認したんだよ。お前みたいな小娘は、一晩中、陵辱されて、身の程を知った方がよさそうだな。来い! 
ちょうど、湾岸地区のホテルに空きがあるようだ。そこで、男と女の関係ってもんを教えてやる!』

『嫌よ! あんた、強姦罪って知ってるの? 嫌がるあたしを手篭めにすれば、当然にそうなるわね。そうなれば、あんた
お終いよ』

『そんなもん、お前を黙らせれば済むし、警察や検察にもパイプはある。もみ消す方法はいくらでもある』

『腐ってるわね…。それに、あたしは黙らないわ。だとしたら、この亜美ちゃんを殺すのかしら? 強姦どころか殺人罪ね』

『口の減らない女だな、だが、その方が調教のしがいがあるってもんだ。とにかく来い!
ホテルに着いたらたっぷりかわいがってやるぜ』

『あら、あら…、劣情丸出しでみっともない。それはそうと、確認なんだけど、そのホテルにはどうやって行くのぉ?』

 興奮しているバカ御曹司とは対照的に、亜美の態度は落ち着き払っている。
 竜児は、無理してクールに振る舞っている亜美を案じた。亜美が健気に頑張っているのが、受話器を通して竜児には
分かるのだ。

『何度も言わせるな! 俺のポルシェでだ。そいつでひとっ走りすれば、すぐに着く』

『あんた飲酒運転するの? ワインだいぶ飲んでんじゃない。もう、それだけ飲んだら、酒気帯び運転じゃ済まないで
しょうね。それって、立派な犯罪よ』

『うるさい! そんなものいくらでももみ消せるんだ。金とそれに見合う権力があればな』

『あ〜ら…、つまり、あんたは、強姦事件や飲酒運転等の罪を犯しても、それを非合法にもみ消して知らぬ存ぜぬ
という訳なのね。コンプライアンスのかけらもない、本当に腐った奴だわ』

 例の性悪笑顔で畳み掛けるように迫っているのだろう。
 大きな瞳を意地悪そうに心持ち細めた表情は、竜児の三白眼同様に、本当はこけおどしだが、意外に迫力がある。

『だからどうした、この場の単なる会話の言葉尻をつかまえて、ねちねちと下らないことを言いやがって。
腐ってるのはお前の方だ。さすがに、業界で食えない女の代表格である川嶋安奈の娘だな。
その川嶋安奈ですら持て余す出来損ないがお前だ』

 元より亜美には何ら論理的な反論ができていないのだが、ここに至っては、低次元な悪口雑言の水準に堕したよう
だ。そろそろ、フィニッシュだな、と竜児は直感した。

『言いたいことはそれだけかしら? でも、まぁ、いいわ、あんたが、どうしようもない人間の屑だってのが分かったし、
それを多くの人が知り得る証拠も手に入れることができた…』

『どういうことだよ!』

 ゴソゴソという音がした直後、ごつん、といった、携帯電話機がテーブルにぶつかったような音がした。

『け、携帯電話…』

『そう、ICレコーダーじゃないから、これを没収しても、通話先で録音しているから、もうあんたにはどうしようもない。
あとはこの録音データを有意義に活用させて戴くわ』

『はったりだ! そ、そんなもん』

『はったりかどうかは、あんたが、この場で亜美ちゃんにおいたをすれば、すぐに証明できるわ。通話先では、ここの会話
をモニターして、あたしに万が一のことがあれば、警察に通報することになっているのよ。警察に通報するだけでなく、
この録音データは色々と使い道があるでしょうしね』

 警察に通報は、亜美との事前の打ち合わせでは予定外だが、緊急事態となれば、誰でもそうするだろう。

 だが、バカ御曹司は、警察よりも、亜美が言った『色々な使い道』の方が気掛かりのようだ。

『脅迫するのか?!』

『まさか、あたしは、あんたみたいな人間の屑じゃないからそんなことはしないわよ。あたしは、この場を安全に去って、
あんたみたいな人間の屑に金輪際関わり合いになりたくないというだけ…。それだけが所望よ』

 バカ御曹司が歯噛みしながら唸っている。

『お前…、このままで済むと思うなよ…』

『おお、こわい…、あたしが、この場を安全に去って、あんたみたいな人間の屑に金輪際関わり合いになりたくないって
控えめに言った意味が分からないようね。いいことぉ? 既に某所で安全に管理されているここでの録音データは、
そうしたあんたの側からの合法又は非合法な報復に備えるためなのよ。あんたがちょっとでも不埒な真似をしたら、
これを容赦なく世間にばらまくわ。その時は覚悟なさい』

『うちの財閥はマスコミにも影響力があるんだ。そんなもの記事になる前に握りつぶしてやる』

 鈴を転がすような亜美の笑い声が携帯電話機のスピーカーを振るわせた。

『誰が、広告収入いかんで、事実を歪曲するマスコミなんかへ真っ先に流すもんですか。今はインターネットがあるの。
ここにアップロードして、風評が広まるのを待って、一般誌の記者に記事を書かせる。これなら、どう?
いくらあんたでも手も足も出ないでしょうね』

『く、くそ…』

『インターネットの民意を甘く見ないことね。あんたのような人間は、民衆なんて虫けら以下としか思っちゃいないだろう
けど、今は違うの。そこんとこをわきまえて欲しいわね』

 何だか、嗚咽のようなくぐもった声が聞こえてきた。

『あら、脅しやすかしが通用しないとなったら、泣き落としぃ? 女々しいわね、これだけでも、あんたって下らない人間だ
わ。でも、その人間の屑に、もう一つ、念押し…。今回の件で、あたしのママ、つまり川嶋安奈にも手出しは許さないわ。
あんな女でも一応は、あたしのママだもの。あんたらの圧力で、仕事を干されたりしたらかわいそうだからね。どう、約束
して戴けるかしら?』

 しかし、バカ御曹司は返答しない。受話器から聞こえてくるのは、湿っぽい嗚咽だけだ。

『泣いてばかりで、だんまりだと困るんですけどぉ。まぁ、いいわ。沈黙しているあんたは、黙示の同意ってことで、どう?』

『う、う、うううう…、ち畜生、黙示の同意でも何でも勝手にしやがれ!』

『はい、ご苦労さん。今の言葉忘れないでね。もっとも、あんたが忘れても、ちゃんと録音してあるから、どうでもいいけ
どぉ。あとは、あんたも、あたしや川嶋安奈に変なちょっかいや圧力を加えない。川嶋安奈の仕事も妨害しない。これを
きっちりと守ってちょうだい。それを守れないときは、あんただけじゃなくて、あんたが継ぐことになっている財閥とやらも、
相当の打撃を受けると思ってなさい』

 携帯電話機のスピーカーからは、『畜生…、畜生…、畜生…』というくぐもった怨嗟の呟きが、切れ切れに聞こえてくる。

『あら、きったない。涙も洟も涎も垂れ流しじゃない。今の顔を携帯で撮影してもいいけれど、そこまでみっともないと、

さすがに哀れを催すわね』

 おそらく、性悪笑顔で冷笑しているであろう、その亜美に、バカ御曹司が懇願するように言葉を紡いでいる。

『わ、分かった、お前や川嶋安奈には、て、手出しはしない。や、約束する。そ、その代わり、その携帯電話の通話先を
教えてくれ…』

 屈服したように見えても、送信先を聞き出して、手を打とうというのだろうか。そのあまりのバカさ加減に、竜児も呆れ
返って、大きくため息をついた。
 何より、亜美の携帯電話は囮でもあるのだ。亜美の脇に置いてあるバッグでは今もICレコーダーが作動中で、携帯
電話でモニターしたもの以上に明瞭な状態で会話が記録されているのだから。

『本当にバカ丸出しね。切り札のありかを言うわけないじゃん。でも、これだけは言っておくわ。送信先は“我らが同志”』

『わ、我らが同志ぃ?』

『そう、あたしと同じ志を持った素晴らしい人よ。あんたみたいな屑とは大違い。ていうか、あんたと比べることすら、
その人には失礼過ぎるくらいだわ』

 持ち上げすぎだ、と竜児はこそばゆく思ったが、亜美は、本気でそう信じているのだろう。だからこそ、気丈にも、
バカ御曹司に立ち向かっていられるのだ。

『くそったれ! 好き放題喚きやがってぇ』

『あらまあ、みっともなく喚いているのは、あんたでしょ? でも、もういいわ、あんたのみっともないのは、十分録音でき
たから…』

 携帯電話機が何かに掴まれるような、ごそごそとした音が聞こえ、再び亜美の声が響いてきた。

『それではぁ…』

 音声が急に明瞭になった。亜美が携帯電話機を手にして、話し始めたらしい。

『我らが同志へ、協力を感謝する。以上…』

 その言葉を最後に、亜美からの通話は切れた。

「大変な一大活劇だったな…」

 状況自体は、男女二人が向かい合って会話したというだけなのだが、その応酬の激しさは、活劇と呼ぶにふさわし
い内容だった。
 竜児は、ICレコーダーの録音を終了させ、そのレコーダーをUSBケーブルでパソコンに接続した。そして、レコーダー
に記録されていたmp3ファイルをパソコンにも保存し、パソコンのメディアプレーヤーで再生する。
 音声は意外と明瞭だった。バカ御曹司が亜美を手篭めにしようとしたところとか、飲酒運転しようとしているところとか、
それらの罪を犯しても、もみ消せば済むとか息巻いているくだりも、しっかりと記録されていた。これなら、証拠としての
価値は十分にある。

「しかし、あいつが精神的につらいのは、むしろこれからかも知れねぇな…」

 バカ御曹司との見合いが亜美によって台無しにされたことで、川嶋安奈の面目は丸つぶれである。

 それゆえに、川嶋家では、親子で相当の諍いがあるはずだ。その時に亜美は、ICレコーダに記録されているであろう、
バカ御曹司の『お前を煮て食おうが、焼いて食おうが、それはお前の母親である川嶋安奈も承知の上なんだよ!』なる
発言を盾に、川嶋安奈を追及するに違いない。

「親子の確執は、もはや決定的だな…」

 バカ御曹司による問題発言の真偽は不明だが、今回の見合いまがいの茶番を率先して手引きしたのは川嶋安奈に
ほかならない。亜美の意向を完全に無視して、それを執り行った責任は決して軽微なものではないだろう。竜児にしても、
今回の川嶋安奈の所業は許せない。だが…、

「後味はどうしようもなく悪いが、ひとまずは俺たちの大勝利だ…」

 そうであれば、敗者をギリギリまで追い詰めてはいけない。甘いとか、手ぬるいとか言われそうだが、温和な竜児は、
こんな時でも非道にはなり切れないのだ。
 竜児は携帯電話機を手に取った。

『我らが同志へ
 第一次作戦の成功を祝す。録音データを確認したが、相手とのやりとりが克明に記録されていた。
 それにしても鮮やかな戦いぶりだった。本当にお前はすごい奴だと思う。
 この後は、対お袋さんの作戦である第二次作戦が展開されるが、録音データにバカ御曹司によるお袋さんの許可を
得て、お前を犯す、という発言がある以上、その発言の真偽のいかんを問わず、お袋さんは相当に苦しい立場に立たさ
れることだろう。それに、お前の親父さんの立ち位置が不明なのも気になる。
 もし、今回の一連の騒動が、お袋さんの独断専行であるなら、下手すれば、川嶋家は分裂しかねない。それはお前も
望むところではないだろうし、俺もそうだ。
 だから、今回の事件で、敗者であるお袋さんを過剰に追い詰めるようなことはしないでくれ。
 俺たちは勝ったんだ。手ぬるいと思われるかも知れないが、これで十分だと思う。
 以上、同志竜児より』

 その文面を送信し終わって、時計を見た。時刻は午後十時になろうとしていた。今頃、川嶋家では、亜美、川嶋安奈、
それに亜美の父親を交えての家族会議が行われているのかも知れない。その顛末は、早ければ、午前零時ごろの定時
連絡で竜児にも知らされることだろう。
 竜児は、それまでの間も、少しでも法律の勉強をしようとして、条文集と青本を開いたが、亜美のことが気になって、
勉強が手に付かなかった。

「大丈夫だろうか?」

 それにしても、バカ御曹司による、『お前を煮て食おうが、焼いて食おうが、それはお前の母親である川嶋安奈も承知
の上なんだよ!』発言は強烈だ。常識的に考えて、亜美の保護者である川嶋安奈がそんなことを言うはずはないのだが、
そんなとんでもないバカに亜美を嫁がせようとしたのは事実なのだ。
 しかも、今日の会場に、亜美の父親の姿がなかったことから、どうやら彼は、与党大物政治家主催のパーティーに端
を発した今回の騒動で、全くの蚊帳の外だったのかも知れない。

「あのコメントは、さじ加減を間違うと、川嶋家が崩壊しかねない劇薬だ」

 川嶋家が分裂せずに存続するか否かは、その劇薬を扱う亜美次第だ。あのコメントを盾に取って、頑なに川嶋安奈を
責めたら、おそらくは蚊帳の外であった亜美の父親の憤懣を激化させ、最悪の事態に陥りかねない。

「あいつの節度と良識に祈るしかねぇな…」

 亜美は、性悪で、嫉妬深い。しかし、健気で、聡明でもある。その亜美であれば、判断を誤らないかも知れない。

 時間の流れが異様なほど遅く感じられる中、竜児は条文集や青本をパラパラめくりながら、亜美からの連絡を待った。
 条文集や青本の記載は、映像として網膜には結像しているものの、それは情報として記憶されることはなかった。
亜美のことが気掛かりで、その他のことを思考し記憶する機能が一時的にせよ麻痺したような気分だった。
 そんな状態で、難解な法学書に目を通すことは無意味なのだろうが、何かをしていないと不安でたまらない。

 時刻が午前一時近くになって、机の上の携帯電話機が鳴動した。
 竜児は、すかさず取り上げ、それが亜美からのメールであることを確認すると、落ち着くために、ごくりと固唾を飲み
込んでから読み始めた。

『我らが同志へ 定時連絡その8
 後味は誉められたもんじゃないけど、全てが終わった。
 あたしたちの大勝利。
 パパを交えての家族での話し合いで、最初、ママは“このバカ娘、せっかくの良縁を台無しにして!”って感じで、
あたしを詰りまくっていたけど、バッグの中に仕込んでおいたICレコーダーの録音を聞かせたら、形勢逆転。
 ママは、完全に意気消沈して、別荘の鍵も渡してくれて、この夏中、あたしたちがそこを自由に使っていいことになっ
た。それと、局アナになるつもりが全くないことも宣言した。弁理士を目指しているとは言ってないけど、難しい資格試験
に挑戦することは告げた。それに際して、必要な学費を出世払いを条件に貸してもらうことも約束させた。
 あんたは嫌がるかも知れないけど、あんたの分も借りるつもりだよ。
 理由のない施しを嫌うあんたでも、もらうんじゃなくて、借りるなら抵抗感は薄らぐんじゃないかしら。
 それに弁理士試験は戦争なの。戦争にはお金が掛かる。であれば、軍資金と割り切って、川嶋家から借りた方が
いいに決まってるって!
 それに、いずれは耳を揃えて返すことになるんだから、理由なく施しを受けている訳じゃない。何なら、返済する時に、
利子で色を付けてやればいいじゃない。返済する時は二人とも弁理士になって、相応の稼ぎを上げているだろうから、
多分、大丈夫でしょ。
 とにかく、今回はママの勇み足で、こっちにとって、かなり有利な条件を引き出すことができた。
 反面、ママは相当な痛手を被ったことになるわね。でも、安心して。あたしも鬼じゃないから、ママへを執拗に追及しな
かった。何よりも、あたしが追及する前に、ママはパパに“母親失格だ”と詰られていたからね。泣いたママを見たのは、
あたし、これが最初かも知れない。
 それを見たら、あたしも、ママにはそれ以上言えなかった。
 その後は、とにかくパパとママの仲をフォロー。バカ御曹司の、あたしを煮るなり焼くなりの許可をママから得ている
発言は、そいつの大嘘で、ママも、まさかあんなどうしょもない奴だとは知らなかったのよぉ! ってね…。
 そのおかげで川嶋家の崩壊は何とか食い止められたと思う。
 でも、今回の事件をきっかけに、あたしは精神的にママとは決別したと思う。それまでは、ママには反発しながらも、
女優としてのママの存在を輝かしく思い、母親としてのママを頼りにしていた。
 でも、それもつい数時間前までの話。今回の事件で、あたしはママの愚かしさや、ママの心の弱さ、醜さ、脆さを知っ
た。この人も、所詮は、物質的な欲望に忠実な存在なんだってこと。
 でも、ママを憎んではいないよ。かわいさ余って憎さが百倍とかって世間ではいうけれど、憎悪ってのは愛情の裏返
しみたいなもんなんだろうね。
 あたしが、今、ママに対して抱いてるのは、ママに対する期待どころか、興味すら失せた冷やかな感情だけ。
愛情と対立する概念は、憎悪ではなく無関心なんだなって、実感した。
 う〜ん、あたしって、何げにひどいこと書いてるなぁ…。でも、正直にそう思うんだから仕方がない。
 とにかく、あたしって、世間の相場では、とんでもない親不孝娘なんだろうけど、もう、だから何? って感じだね。
 あたしにだって、あたしの人生がある。それを、ママの、本当のセレブと姻戚関係になりたい、っていう私的な欲望の
ために犠牲にしなけりゃならない謂れはない。
 ママはあくまでも娘であるあたしの幸せのためとか泣きべそで主張していたけど、パパに上記の本音を指摘されて、
子供みたいに、わんわん泣き崩れちゃった。
 それを見て、かわいそうって気持ちよりも、無様だなって思った。もう、ママとの確執は終わった。こんな人といがみ
合っても不毛なだけだって。
 明日には、大橋に帰るつもり。あたしがママの居る実家を心地よく思うことは最早あり得ないし
ママのことを見直すこともないと思う。

 定時連絡は以上。
 同意亜美より』

「終わったな…」

 亜美からのメールでは、どうにか川嶋家の崩壊は食い止められたらしい。しかし、亜美と川嶋安奈の和解はならな
かった。それどころか、亜美は完全に母親である川嶋安奈を見限ったらしい。
 好ましい結果ではないが、無理もないな、と竜児は思った。本人の意向を無視して、夫である亜美の父親にも内緒で
独断専行した責任は重い。竜児が亜美の立場だったとしても、そんなことをしでかした母親は、見限ることだろう。

「これも、あいつなりの親離れなんだろうな」

 いずれ子は親の元を離れていく。
 それは、単に親とは別個の所帯を構えるだけで、心情的には親とはつながりがある場合が普通なのだろう。
 今回の亜美のように、子供の側から精神的に親の影響力を断ち切ってしまうというのは、極めて稀なことに相違ない。

「だが、こうするしかなかったんだな…」

 世間一般の物差しでは、亜美のように実の母親に冷淡な感情しか抱けなくなった者は、画一的に『親不孝者』と
呼ばれることだろう。だが、それはあくまでも親の側からの一方的な視点での評価に過ぎない。

「俺には、あいつの気持ちが何となく分かるんだ…」

 竜児の場合は父親だ。泰子を孕ませて、今となっては消息不明な無責任極まりない男。だが、その男を憎悪している
わけではない。会ったことがないせいもあるが、無視や無関心といった冷たい感情しか、その対象には抱けないのだ。

「好悪の感情のうち、極限的に虚無な状態は、無視や無関心なんだろうな…」

 愛情が憎悪に転ずるのは簡単だ。昨日のニュースでは、メールに返信しなかっただけで刺殺された男子高校生が、
報じられていた。客観的に見てつまらない些細なことでも、符号が逆転するように、愛情が憎悪に転ずることはままある。
 しかし、相当なことをしでかさないと、愛情が無視や無関心には至らないのだろう。対立や憎悪では、負の感情なが
ら、相手の存在を認めてはいる。だが、無視や無関心では、その相手の存在自体を認めてはいないからだ。

「川嶋安奈は、自分の娘を付加価値のある商品と思っていたんだろう。で、本人の意向は二の次に、永久脱毛やら、
ジムでのトレーニングやら、ダイエットやらを、幼い頃から課していた。その累積に加えて、今回は、自分の娘に対して、やってはいけないことをしでかした。亜美が、彼女を見捨てたのは、その報いだな…」

 傍目には、救いのない結末かも知れない。だが、亜美が、川嶋安奈に何らの感情を抱かなくなったということは、亜美
が母親のことで思い悩むこともなくなったことを意味する。虚無の極致とも呼ぶべき状態だが、安定した状態である
ことも、また確かなのだ。
 竜児は、携帯電話で『我らが同志の賢明なる判断に感謝する』とタイプし、更に追伸として、バイト最終日の明日は、
多忙で、かなり遅くなって帰宅するであろうことを記して、同志亜美へと返信した。

「もう、二時近いな…」

 明日も六時に起きることを考えると、睡眠不足は確定的だ。
 消灯してベッドに横たわる。虚無の極致の状態である無視や無関心、それが時の流れで変わることがあるのだろう
か、と思いながら、竜児は深い眠りに落ちていった。

「やはり来なかったか…」

 翌朝、春田の親父の事務所には、ノブオとテツの二人は現れなかった。もちろん、電話とかでの連絡もない。

「まぁ、こうだろうたぁ、思っていたけどな…」

 春田の親父が、シワの刻まれた面相を歪めて自嘲した。二人がいずれは辞めることを薄々は勘付いていたらしい。

「社長、あいつらは、他の内装屋と通じていたのかも知れやせんぜ」

 サブの指摘に、春田の親父は、頷いた。

「まぁ、そんなところだろうな。うちが期日の厳しい仕事を請け負ったことを機に、日頃、不満を抱えていたノブオとテツに
転職を打診し、わざと仕事を遅らせた挙句に、途中で仕事を投げ出すように仕向けたんだろう。どこの店の仕業かも
見当はついている。俺の予想している店だったら、連中への転職の打診も空手形だろうな。まぁ、自業自得なんだが…」

「じゃぁ、あの二人は馘ってこってすかぃ?」

 春田の親父は、ふふっ…、と脱力するように笑った。

「去る者は追わずだよ。このまま何の連絡も寄越さなかったら、そうなるな。だが、仕事を放棄したことを反省して、明日
にでもここへやって来るなら、待遇は更に悪くするが、雇ってやれないこともない」

「そうすか…」

 サブは、ちょっと納得がいかないのか、小首を傾げている。これだけの不始末をしでかした奴らでも、再雇用しようと
する春田の親父の真意を計りかねているのだろう。
 そんなサブの気持ちを、春田の親父は敏感に感じとったらしい。

「なぁに、職人は結構少ないから、戻って働く意思があるなら、取り敢えず働かせるということさ。それに、法律で給与を
簡単に下げることはできないが、今回のような職務規定にあるような、職務の放棄とかだったら、給与を下げる大義名
分が立つから、その点でもありがたいのさ」

 その計算高いシビアな判断に、竜児は、経営者というものの一端を垣間見たような気がした。一時の感情ではなく、
長い目で見て損か得かを判断する。そうした合理的な判断能力があったからこそ、春田の内装屋は、他店から妬まれ
るほどに成功しているのだろう。もちろん、経費や工賃を水増しすることなく適正に計上する明朗会計も、顧客に評価さ
れているているに違いない。

「さてと…、連中を待っていてもしようがないから、そろそろ現場に向かうことにするか。サブ、浩次それに高須、準備は
いいな?」

「「「へぃ!!!」」」

 職人二人が欠けたことは戦力として痛手だが、泣いても笑っても、今日が期日なのだ。徹夜をしてでも、工事は完了
させなければならない。
 春田の親父以下四名は、サブの運転するワゴンに乗り込み、大橋高校近くの現場へと向かう。
 外装のモルタルがひび割れた築二十年の賃貸マンション。もはや見慣れたこのマンションを訪れるのも、今日が
最後になるだろう。
 現場に到着して、マスクの吸収缶を新品に交換し、必要な資材や機材を抱えて、最後に手つかずで残った一室へと

向かう。

「一番厄介なのが残っちまったな…」

 ベテラン職人のサブがぼやきたくなるほどに、その室内は荒れていた。クッションフロアは、何箇所かが破けており、
壁にはところどころ大きな穴が開いている。

「サブと高須は、穴の開いた壁をやっつけてくれ。俺と浩次はクッションフロアを貼り替える」

「分かりやした。おーし、タカ、軽トラから石膏ボードを持ってこい」

 竜児が頷いて外へと向かうのをちょっとだけ目で追ってから、サブは、床に這いつくばるようにして作業している春田
の親父と春田の方を向いた。

「社長、すいやせん。ちょっくら、リムーバーを使いやす…」

「おお、そうか…」

 それを合図に、春田の親父と春田はサブと一緒にマスクを着用した。今日からは、春田も、サブや竜児が着用して
いる吸収缶付きの本格的なものを使う。
 室内にいる全員がマスクを着用したのを確かめてから、サブはリムーバーを刷毛で壁面に塗ったくった。マスクが
なければ、有機溶剤の蒸気で中毒しかねないが、有機溶剤専用の吸収缶の威力は絶大だ。

「おぅ、持ってきたか…」

 サブがリムーバーを塗っている最中に、石膏ボードを抱えた竜児が戻ってきた。

「もうちょいで、リムーバーが効いてくるから、そしたら、古いクロスをひっぺがすんだ。おれは、石膏ボードを切る鋸と、
石膏ボードの継ぎ目を埋めるパテを持ってくる」

「へい!」

 マスクを着用した竜児は、頃合いを見て、古いクロスを剥がしにかかった。リムーバーで糊が軟化したクロスは、
ちょっと力を入れて引っ張っると、ずるずると剥がれてくる。

「おぅ、剥がしたか…」

 振り向くと背後には電動の丸鋸を持ったサブが立っていた。

「よし、おれは、石膏ボードの穴の開いてるところを、こいつで切り取る。お前は、他の部分のクロスを剥がしていてくれ」

 そう言うと、サブは、手にした丸鋸で、石膏ボードの穴が開いている箇所を、長方形に切り取った。切り取った部分は、
竜児が持ってきた石膏ボードで継ぎを当てるのだ。
 一方の竜児も、サブに指示された箇所にリムーバーを塗り付け、クロスを剥がす。

「最終日だってのに、修繕箇所がやたらと多いな…」

 四人がかりでも夕方までには到底終わりそうにない。冗談抜きで、徹夜を覚悟しないといけないようだ。

「とにかく、頑張るしかねぇ…」

 春田の親父やサブは、そうは思っていないようだが、ノブオとテツの職人二人が職務を放棄したのは、竜児にも責任
がある。竜児が居なければ、こんなことにはならなかったかも知れないのだ。

「これは、もう単なるバイトじゃねぇ…。俺自身のけじめの問題だ…」

 マスクのせいで、もごもごとした声にならない呟きを漏らしながら、竜児はクロスを剥がす作業に没頭した。


 悪夢から覚めたばかりのように、目覚めの悪い朝だった。だが、これは夢でも幻でもなく、現実なのだ。
 亜美は、机の上の時計で時刻を確認した。既に時計は八時半を指していた。夏休みだから許されるかも知れないが、
普段だったら、竜児と一緒に都心へ向かう電車に揺られている頃だ。

「それにしても…、何もかも変わっちゃった…」

 亜美の縁談を独断専行で進めて、挙句に無残な失敗に終わり、そのことを亜美の父から詰られて、幼児のように泣き
喚いていた川嶋安奈の姿は、衝撃的だった。その無様な姿は、尊敬し、目標としていた女優川嶋安奈ではなく、反発し
ながらも、どこか頼りにしていた母親のそれでもなかった。
 単に愚かで、脆く、醜悪な中年女に過ぎなかった。

「結局、あたしは、川嶋安奈っていう偶像を崇めていただけなんだわ…」

 ブラウン管や銀幕で輝いているママのようになりたい、という気持ちがあったからこそ、ジムでの辛いトレーニングに
耐え、食べたい物も我慢してきた。ママのようになりたいから、レーザー照射による永久脱毛も、ママが勧めるままに受け、
焼けるような痛みも堪えたのだ。

「でも、それは、今となっては虚しいだけね…」

 亜美は、のろのろと起き上がった。寝具を片付け、シーツはマットレスから取り外して、簡単に畳んだ。
 そして、パジャマ代わりのTシャツを脱ぎ、ブラジャーとショーツも脱いで全裸になった。

「ひどい寝汗…」

 シャワーを浴びておこうかと思ったが、やめておいた。母親と完全に決別した今、この家に長居は無用だった。
 タオルで、全身を拭って、脇の下や陰部はアルコールで拭い、化粧水でそれらの部位と、首筋を拭き取るだけにした。
あとは、愛用しているトワレをつけておけば、そうひどい臭いはしないだろう。
 洗濯済みの下着を着用し、黒に近いチャコールグレーの長袖ブラウスに袖を通して、黒いコットンパンツを穿く。
 いつぞや、竜児と銀座を散策した時に着た服だ。太陽熱を吸収し易いが、紫外線を遮るには黒っぽい服装が効果的
ではある。
 汗まみれの衣類は適当に畳んでビニール袋に仕舞った。

「大橋に帰ったら、まずはシャワーと洗濯ね…」

 そのビニール袋を、キャスター付きのキャリーバッグに入れる。既に、荷造りはほぼ終わっており、実家に滞在中、
ついぞ開くことのなかった『工業所有権法逐条解説』、『特許法概説 第9版』、『商標 第6版』等の分厚い法学書、
それに、これも結局は使わなかったMac Book、昨夜は証拠収集に大活躍したICレコーダー、川嶋安奈からせしめた
別荘の鍵、数日前に購入し、黒パンを焼くときの型に使ったパウンドケーキ用の金型等が、衣類や化粧品等とともに
きちっと収納されていた。
 そのキャリーバッグへビニール袋に入れたTシャツと下着を収めた。

「このほかに、持ち帰った方がいいようなのはあるかしら…」

 亜美は改めて自分の部屋を見渡した。勉強や日常生活に必要なものは、あらかた大橋の伯父の家に持っていった
から、室内はこざっぱりし過ぎて、味気ない。本棚にも、子供の頃に読んだ児童文学の類を除けば、めぼしい書籍はなく、
段のいくつかは、本も何も置いてない空っぽの状態で、うっすらと埃が溜まっていた。

「でも、これぐらいは持ってくか…」

 本棚の片隅には高校の卒業アルバムが、ぽつんと横倒しになっていた。それを手に取って、息を吹きかけて埃を簡単
に払い、キャリーバッグの開いているスペースに押し込んだ。

「これでよし…」

 ファスナーを閉め、完全に荷造りが終わったことの合図のように、亜美は、ちょっと目を細めて、ふぅ〜っと息を吐き
出した。
 そうして、もう一度、首を左右に廻らせて自室をぐるりと見渡す。ストーカー事件が起こる高校二年の春まではここで
起居していた懐かしい部屋。
 母親である川嶋安奈と決別したことで、もしかしたら、もう、二度と、この部屋に戻ることはないかも知れない。
そう思うと、さすがにちょっと泣けてくる。

「でも、しっかりしなくちゃ…」

 もう決めたのだ。女優川嶋安奈の娘である前に、高須竜児の伴侶であり同志として生きていくことを…。
 滲んできた涙をティッシュペーパーで拭い取ると、亜美は手鏡で自分の面相をあらためた。お世辞にも状態はいい
とは言えない。ベッドで泣いた覚えはないのだが、目は充血して、目蓋は腫れぼったかった。

「もう、お化粧とかで、時間を掛けたくないわね…」

 母親と決別した以上、この家を一刻も早く出たかったからだが、ぐずぐずしていると、決意が鈍りそうだったからでも
ある。亜美は、部屋にある鏡台の前に座り、化粧水で顔を拭い、化粧乳液で肌を整え、紫外線対策のファンデーションを
薄く施した。目と目蓋は、短時間での姑息な化粧ではどうにもならないので、サングラスで覆い隠す。そのサングラスは、
竜児とお揃いのレンズがまん丸なミラーグラスである。
 さらに、これもいつぞやの銀座散策でかぶっていたつばの広い帽子を着用して、亜美は身支度を整えた。

「さてと…」

 思い出深い自室をもう一度隅々まで見渡した。懐かしいけれど、何だか、借り物のような気がして、滞在中、掃除する
ことのなかった自室。本棚や鏡台の手の入りにくいところには、既に埃が目に見えて溜まっている。鏡台の上に置いて
ある化粧品の類も、間もなく使用期限が切れて全てがゴミと化すのだろう。そんな様を想像して、亜美はうんざりする
ように大きく首を二、三回振ると、重たいキャリーバッグを抱えて、玄関へと向かった。
 家の中は静まり返っていた。父親は、仕事か、接待ゴルフか何かに行ったのかも知れない。母親の川嶋安奈は、
どうやら、昨日のショックで未だに寝込んでいるらしい。その証拠に、川嶋安奈用の靴は、玄関の脇にしつらえてある
彼女専用の収納スペースに全て揃っていた、どうやら、今日の仕事はドタキャンすることになるのだろう。
 昨夜は、バカ御曹司に、『川嶋安奈への手出しは無用』と釘を刺したが、何のことはない、川嶋安奈は、結局、自分で
自分の首を締めているのだ。芸能界で畏れられてはいるものの、やはり、CMモデルでの人気をてこに、棚ぼた的に
女優となったという噂は本当なのだろう。あぶく銭のような、演劇とは直接関係ないモデルとしての人気や容姿で、
労せずして仕事があてがわれてきたから、他者と対等の条件で、自ら何かを命がけで勝ち取るということはなかったし、
その厳しさがよく分かっていないのだ。
 そんな川嶋安奈に比べたら、何の拠り所もないのに、劇団で日々稽古に打ち込んでいる下積みの団員たちの方が
遥かに立派だ。

「でも、もういいわ…。あの人のことは、もう、完全にどうでもいい…」

 自分は、もう、川嶋安奈の価値観には影響されないし、惑わされない。美貌や他分野での評価で、他者を結果的に
押しのけて、幸運を享受するなんてのは最低だ。やるなら、その分野で、他者と対等の条件で戦うべきなのだ。例えば、
大学入試のように、さらには、亜美がこれから自らの能力と存亡を賭けて戦う弁理士試験のようにだ…。
 亜美は、ダークブラウンのウォーキングシューズを履くと、キャリーバッグを引きながら玄関を出て、再びこの家を訪れる
ことはないかも知れない、と思いながら、その玄関を施錠した。


 昼休み、例によってコンビニ弁当を突っつきながら、竜児、サブ、春田の親父の表情は優れなかった。

「思った以上に手が掛かりやすぜ…」

 サブが坊主頭に吹き出てきた汗を、薄汚れたタオルで拭いながら、ぼやいた。

「そうだな…、この分じゃ、徹夜も覚悟しなきゃならん。ぶっ通しで頑張っても、クロスやクッションフロアの貼り替えが
完了するのが真夜中頃、その後の、清掃と、作業の出来の確認作業に二・三時間ってところだろうな」

 春田の親父も、渋い顔だ。

「まぁ、頑張るしかねぇでしょう…」

「そうだな、みんなには済まないが、明日の午前中には不動産会社が工事の出来を確認に来る。その時までに全てが
終わっていなかったら、債務不履行として違約金を請求されても文句は言えない」

 債務不履行、民法の第四百十五条だな、と竜児は思い出した。弁理士試験の論文試験でも、主要な論点ではない
が、出題されることが少なくない条文だということを、いつか亜美に教えてもらったことがある。
 その亜美が、今日は帰ってくるのだ。本当なら、ここのバイトを早々に切り上げて、亜美に会いたい。会って、その華奢
でしなやかな身体を抱き締めてやりたかった。
 だが、今は、春田の内装屋が危機的な状況にある。それも、間接的とはいえ、竜児の存在が、かかる事態に少なから
ず影響しているのだ。亜美に会いたいという理由で、この場を早々に離れるのは、状況からも、竜児の倫理からも、
許されない。

 そんな風に亜美のことを思っていたからなのだろうか。不意にジーンズのポケットに入れておいた薄型の携帯電話
機が振動した。竜児はフリップを開き、それが亜美からの電話であることを知る。

「すいません、電話です…」

 春田の親父と、サブにそう告げ、春田の親父が鷹揚そうに頷いたのを確認して、作業場であり、四人揃って昼飯を
食べていた部屋を小走りで出た。
 廊下を進んで、階段の踊り場付近で、携帯電話機の通話ボタンを押す。

『もし、もし…、竜児ぃ?』

 スピーカーからは、亜美のよく通る声が流れてきた。声そのものは、昨夜のバカ御曹司との一大活劇でも聞いたが、
差しでの会話は本当に久しぶりだった。

「おぅ、俺だ」

 『元気そうだな』、という常套句は喉まで出かかったが、昨夜届いた亜美からのメールの文面を思い出すと、言えな
かった。母親である川嶋安奈と精神的に決別した今の亜美が、何の屈託もなく元気であるはずがない。

「それにしても、大変だったな…」

『うん…』

 やはり、気持ちが萎えているような反応が気になった。昨夜は、バカ御曹司や川嶋安奈への怒りに任せていたようだったが、一晩経って少し冷静になってみると、何かを後悔し、不安になっているのかも知れない。
 その不安を和らげてやりたいと竜児は思う。

「お袋さんの件は、仕方がねぇと思う。俺がお前の立場だったとしても、お前と同じように対処しただろう。
実際、ああするしかなかったんだ…」

『うん…。あたし、もうママは見限ったから…。あんなことをしたママのことを、あたし、多分、一生許さない』

「その気持ちは分かるよ…。俺も、泰子一人に苦労を背負い込ませた、自分の父親が許せねぇからな…」

『でも、もう、どうでもいいんだ。メールでも書いたけど、何だか憑き物が落ちたみたいでさ、ママに対する怒りとか、憎し
みとか、そんなものすらなくて、もう、冷え切った、ぽっかりと開いた空洞みたいに虚しい感じしかしないんだよ…』

 頼っていたもの、信じていたものが瓦解したのだ。川嶋安奈そのものはどうでもよくても、寄る辺なき不安感は否定
できないのだろう。

「亜美…。今、どこに居るんだ?」

 精神的に頼るものを喪失した亜美を支えてやりたい。今すぐにでも、その場に駆けつけて、抱きしめてやりたかった。
だが、それは許されない。

『大橋駅に着いたところ…。竜児、あんたにものすごく会いたいよぉ。でも、あんたは仕事があるんだ。あたしは、一旦、
伯父の家に戻って、夕方、あんたの家で、あんたが帰ってくるのを待ってるよ』

「その件なんだがなぁ…」

『な、なぁに?』

 竜児の一言にただならぬものを察したのか、スピーカーからの亜美の声が、不安げにかすれた。

「昨日もメールでは遅くなるって書いたが、事態が予想以上に悪いんだ。下手したら…、いや、正直に言おう。今夜は
徹夜で現場に張り付かないといけねぇんだ」

『そんな…』

「済まねぇ。今日の夕方で全てが終わるはずだったんだが、ちょっとしたトラブルが起きた。それも、俺がそのトラブルの
種なんだ。だから、その責任をとらなきゃならねぇ…」

 竜児は心苦しさで、口中が渇き、苦々しくなるような気がした。崇めていた母親と決別した今、亜美にとって精神的に
頼れるのは竜児だけなのかも知れない。それ故に、一刻も早く竜児に会い、会って互いの存在を確認し合いたいのだ。
 それが叶わぬとは、亜美にとっても、亜美を思う竜児にとっても、何と残酷であることか。

 二人にとって残酷で気詰まりな沈黙が暫し続いた後、抑揚に乏しい声が携帯電話機のスピーカーから聞こえてきた。

『いいよ、それなら仕方ないじゃない。あんたは自分の仕事を頑張ってよ。あたしは、泰子さんのために夕食を作って、
あんたの家で、あんたの帰りを信じて待ってるから…』

「亜美…、済まねぇ…」

『ずっと、ずっと、ま、待っているから…』

 亜美との通話は、嗚咽らしいくぐもった声で終わった。竜児には、涙を必死に堪えているであろう亜美を思い、唇を
噛んだ。こうした事態に陥った不運というか、こうした事態を招いた不甲斐なさが情けない。

「お、高っちゃん、こんなところに居たの? そろそろ昼休みが終わっから、親父が高っちゃんを連れ戻せってうるさいん
だよ」

 目の前に、にゅっ! とばかりに突き出された春田のアホ面で竜児は現実に引き戻された。
 竜児は、亜美との通話内容を聞かれたかな? と身構えたが、どうもそうではないらしい。もし、竜児が亜美と電話し
ているのを春田が知ったら、竜児にしつこくその内容を訊いてくるに違いないからだ。

「おお、済まねぇ、ちょっと、ぼんやりしてたんだよ」

「ばんやりかぁ…。高っちゃんでも、ぼんやりすることがあるんだな」

 春田は、ドラ猫のように鼻に小じわを寄せて笑った。こういうのを屈託のない笑いというのだろう。
 それにしても、責任感がみじんも感じられないのが春田らしい。元はと言えば、職人たちの前で、竜児が大学生で
あることを春田が暴露したのがいけなかったのだが、そんなことは、もはや全く気にしていないらしい。

「俺だって、色々と思い悩むことはあるのさ…」

 その言葉に春田が、うん、うん、と相槌を打っている。竜児は呆れるのを通り越して苦笑した。
 以前、奈々子が言っていたが、春田の脳味噌は本当にトンボ並なのかも知れない。

「何、その笑い? まぁ、いいか…。でもよぉ、高っちゃん、午後も頑張らなきゃいけないからさぁ、ぼんやりしていると
親父やサブ兄ぃにどやされるぜ」

 やれやれと、竜児は嘆息する。春田は我が身の愚かしさを理解していない。だが、ここまでアホだと、むしろ賛辞すら
送りたくなってくる。

「そうだな…。今夜は徹夜になるかも知れねぇんだ。頑張らないといけねぇな」

「そうそう…」

 アホの春田に促されるのは釈然としなかったが、不思議と腹が立たない。春田という男、底抜けにアホだが、人の
神経を逆なでしない不思議な雰囲気が備わっている。きまじめで、一見、強面の竜児には、望んでも叶わない資質だ。

 結局、人はそれぞれだし、持って生まれた資質というのは、簡単に変えることはできないのだ。
 先天的に有しない資質を後天的に獲得するというのは至難の業であり、人は、与えられた資質でもって、この世に
対処していかなければならないのだろう。
 アホだけど、どこか憎めない春田は、その憎めないところを意識無意識を問わずに発揮し、亜美は、人当たりのよい
笑顔に隠した性悪な洞察力で相手方との間合いをはかり、更にその深層に隠している健気さで、いざという時は頑張

り抜くし、北村祐作は、カリスマ性とも表現できそうなリーダーシップでその場を仕切ればよい。
 そして、竜児は、深く考え、何ごとも真摯に取り組む。午後からの作業も、竜児持ち前の資質に則って、やり遂げるしか
ないのだ。
 作業場に戻った竜児は、春田の親父とサブに黙礼して、マスクを着用した。

「おーし、タカ、午後も気合い入れて頑張ろうぜ」

「へぃ!」

 不運や自己の不甲斐なさを呪うよりも、自分ができることを全力で成し遂げる、それだけなのだ。
 竜児は、サブの指定した寸法通りにクロスを切断する作業に没頭した。


 時刻は午後七時になろうとしていた。高須家では、亜美と泰子が差し向かいでの夕餉を終え、泰子は食後のお茶を
堪能している。
 料理は、雑穀を炊き込んだご飯に、いつぞや竜児が作ってくれた豆のカレー、タンドリーチキンにグリーンサラダで
ある。調理していた竜児の手元を思い出しながら、ぎこちない手つきでこしらえた料理だったが、泰子は満足してくれた
らしい。
 竜児は、作りおきのおかずで泰子が晩ご飯を済ませることを想定していたらしいが、それを覆して、豆のカレーを作っ
てみたのは正解だったようだ。

「亜美ちゃんって、本当はお料理上手なんだね〜。うん、うん、もう、立派に竜ちゃんのお嫁さんだよ〜。
やっちゃん、何だか嬉しくなっちゃう〜」

 誉め殺しのような礼賛は、身体のどっかがむず痒くなるような違和感があるものだが、泰子の賛辞にはそれがない。
おそらく、本心で言っているから、言葉に毒がないのだろうと亜美は思った。
 だが、それにしても、竜児のことが気に掛かる。昼間の電話では徹夜も覚悟していることを言っていたが、どうやら、
本当に徹夜での作業に突入したらしい。そのことを思うと、泰子の他意のない賛辞で形成された淡い笑みが崩れ、
眉をひそめ、口元を引き結んだ険しい面相になってしまう。

「あれれ〜、亜美ちゃん、何だか、綺麗なお顔をそんなに歪めちゃ、美人さんが台無しだよ〜」

「あ、ああ、す、すいません。ちょっと、考え事していたもんで…」

 元モデルの亜美であれば、ウソのツラで内心を誤魔化すことは造作もないはずだった。
 しかし、竜児の身を案じていると、そのウソのツラを制御することができなかった。

「隠さなくたっていいんだよ〜。やっちゃんは、亜美ちゃんや竜ちゃんと違って、あんまり頭はよくないけど、雰囲気で
二人が何を考えているのかが分かっちゃう…。竜ちゃんが、やっちゃんに内緒でアルバイトしているってことも〜、
それを亜美ちゃんが知ってて、帰りが遅くなりそうな竜ちゃんのことを心配しているのも〜、やっちゃんは〜、ぜ〜んぶ
お見通しなんだよ〜」

「は、はい…」

 亜美は、年増女の色気と、幼女のような頑是なさが渾然一体となった泰子の笑顔に魅入ってしまった。
 およそ、洞察力とは縁のなさそうな風情の泰子だが、意外にも、物事をきちんと正確に把握している。長年、水商売で
それなりにやってこれただけのことはあるのだろう。

「だったら、簡単! 亜美ちゃんが思う通りのことをすればいいんだよ〜。竜ちゃんのことが心配なら、お仕事をしている
竜ちゃんのところへ行ってみればいいじゃない〜。ただ、会いにいくだけでもいいし〜、その時に、亜美ちゃんが竜ちゃん

を助けられるようなら、竜ちゃんを助けてやっていいんだよ〜」

「ええ?! で、でも…」

 本当は亜美だって、竜児の手助けをしたい。だが、春田の母親らしい人物に言われた、女は男が成し遂げようとする
ことを黙って見守ること、という言葉が、今もこだまのように耳の奥で響いているような気がして、それは憚られた。

「誰かに何かを言われて、それを気にしているのかも知れないようだけど、そんなことよりも、亜美ちゃんの本当の気持ち
の方が大切だよね〜。今の亜美ちゃんは〜、竜ちゃんのことが心配でたまらないし、何よりも竜ちゃんに一目でも会いた
い。だったら、何の遠慮もいらないよ〜。亜美ちゃんは、その気持ちに素直になればいいんだよ〜」

「そ、そう言われても…」

 竜児の仕事は、きつい肉体労働だ。であれば、非力な女の出る幕ではないだろう。
 そうした点では、春田の母親の言い分は正しいのだ。
 だが…、泰子は、躊躇している亜美の背中を押すようなことを言う。

「亜美ちゃんができることで、今の竜ちゃんのためになることを、してあげればいいんだよ〜。何も、竜ちゃんの仕事を
直接手伝ってあげなくたって構わない。頑張っている竜ちゃんのためになることだったら、何だっていい。今、亜美ちゃん
にできること、そして、今の亜美ちゃんでしかできないことを、考えてみてね〜」

「あ、あたしにしかできないこと? な、何だろう…」

「何でもいいんだよ〜。例えば〜、竜ちゃんたちは、遅くまで仕事してるんでしょ〜? だったら、お腹も空いてくるじゃな
い〜? それをどうにかしてあげられるのは〜、今の亜美ちゃんなんだよ〜」

 亜美は、はっとした。未だに料理は得意とは言えないけど、竜児の助けになるならば、頑張れる。
 厳しい肉体労働をしているのであれば、塩分補給のために、ちょっと塩味を利かせた握り飯を作ってやろう。それに、
竜児にも誉められた水飴入りの卵焼き。これらを作業している人数分に見合うだけ作って、持って行ってあげよう。後は
飲み物。本当なら、冷たい麦茶でも作って持って行ってあげたいが、時間の都合でこれは途中のコンビニででも買って
いけばいい。

「や、泰子さん。すいません、タンドリーチキンの残りと炊飯器のご飯、全部使います。それと、冷凍保存しているご飯も
全部使わせてください!」

 泰子は、うんうん、と頷いて、亜美の申し出を了承している。その泰子に、軽く黙礼すると、亜美は再び愛用している
黒いエプロンをまとった。
 冷凍庫から保存しているご飯を残らず出して、ボウルに入れてレンジにセットする。雑穀入りではなく、白米だけの
普通のご飯。ざっと、五合分はあるだろう。レンジで、冷凍ご飯を温めている間に、亜美は中性洗剤で入念に手を洗い、
炊飯器に残っている雑穀のご飯でおにぎりを作る。具は、梅干しに塩昆布、それに削り節に醤油を加えたものだ。
更に、夏場なので、腐敗防止ために塩だけでなく酢も掌に付けて握った。

「亜美ちゃんて〜、すごく手際がいいね〜、やっちゃんも手伝ってあげたいけど〜、亜美ちゃんみたいに器用じゃないか
ら、見てるだけでごめんね〜」

「いいんですよぉ。あたし、泰子さんに励まされたから、竜児のためにおにぎり作る気になったんですから…」

「うん、うん、でもさ〜、最後に海苔で包むくらいは、やっちゃんでもできるから〜、ちょっとやっとくよ〜」

 そう言うなり、泰子は入念に手を洗ってから、防湿用の缶から海苔を何枚か引っ張り出し、それを紙をペーパーナイフ

で切るような要領で、包丁で適当な大きさに切り揃えた。
 その切り揃えた海苔で亜美が握った米飯を包んでいく。亜美と泰子の共同作業は意外に捗り、ものの十五分程度
で、都合七合分の米飯を使った握り飯が出来上がった。

「じゃぁさ、やっちゃんは、出来上がったおにぎりをラップで包んで、それと、タンドリーチキンとかをタッパーに詰めていく
から〜、亜美ちゃんは、卵焼きを作っていて〜」

「あ、は、はい…」

 泰子に促されるようにして、亜美はボウルに冷蔵庫に残っていた卵七個を全て割入れ、それに少量の水を加えて
レンジで軽く加熱した水飴と、薄口醤油と本みりんを加えて、菜箸でさっくりと混ぜ合わせた。
 それを、まずは半分、適温に加熱したフライパンに流し込み、じっくりと加熱していく。いつか、竜児が披露してくれた
プレーンオムレツ作りのように、卵の液の一部分が固まったら、それをフライパンの片隅に寄せ、新たに卵の液をフライ
パンの表面に広げて、薄い膜状に固めていく作業を繰り返した。そうやって、中はしっとり、心持ち半熟気味になるよう
して、一個目の卵焼きを焼き終えた。
 更に、残っている卵の液を全てフライパンに注ぎ、二個目の卵焼きも同じ要領で焼き上げる。

「うん、うん、この前も亜美ちゃんの卵焼きをご馳走になったけど〜、竜ちゃんのと違って、亜美ちゃんのは、ちょっと
優しい味がするんだよね〜。竜ちゃんのも好きだけど〜、亜美ちゃんの卵焼きも、やっちゃんは大好きだよ〜」

 泰子の、他意のない率直な賛辞が嬉しかった。これなら、竜児や、竜児と一緒に頑張っている春田や職人たちにも喜
んでもらえるかも知れない。

 出来上がった卵焼きは、粗熱をとってから、適当な大きさに切ってタッパーに詰め込んだ。その卵焼きの入った
タッパーと、タンドリーチキンを入れたタッパーと、泰子がラップで包んでくれた握り飯を、竜児お手製のエコバッグに
入れていく。

「じゃぁ、行ってきます」

「竜ちゃんのことを思っている亜美ちゃんは、やっぱり生き生きとしてていいね〜。竜ちゃんは、果報者だよ〜」

 その言葉に励まされたような気がして、亜美はバッグを抱えて玄関から小走りに階段を下りていった。
 場所は、以前に春田の母親らしい人物から教えてもらっている。大橋高校近くの賃貸マンション。通学途中で何度か
目にしたことのある建物だった。途中、コンビニで二リットルのペットボトル入りの麦茶と、緑茶、それに紙コップと割り
箸を買う。更に、紅茶か、烏龍茶も買いたかったが、重くなるので断念した。

 コンビニでの買い物もあって、少々時間はかかったが、足早に歩くうちに、どうにか目指す賃貸マンションに行き着いた。

「でも、どの部屋だろう…」

 亜美は、ずっしりと重いエコバッグの取っ手を両手で持ちながら、竜児が働いている部屋はどこなのか、マンションの
駐車場から、各部屋をあらためるように見渡した。
 だが、どの部屋なのかはすぐに目星がついた。玄関が開け放たれていて、煌々と輝く作業用照明の光が漏れ出てい
る部屋が一つだけあったからだ。

「ご、ごめんください…」

 もし、竜児が居なかったらどうしようと不安にはなったが、ここまで来て後戻りもできないので、亜美はどきどきしなが
ら、その部屋の玄関口から声を掛けた。
 その声と、白熱灯で浮かび上がったスレンダーな姿に、長髪にマスク姿の春田が真っ先に反応した。

「あれぇ? 亜美ちゃんじゃないの?」

「今晩は、そして、久しぶりね、春田くん」

 マスクはしていても、長髪と、アホっぽく間延びした声で、春田と分かった。

「浩次、その別嬪さんは誰だ?」

 手を休めた春田に、春田の親父らしい男が咎めるような目線を送っている。だが、アホでKYなくせに色気にだけは
敏感な春田は、そうした父親の非難なぞ意に介さず、素直に亜美の来訪を喜んでいる。

「俺と同じ高校出身の川嶋亜美ちゃん。すげぇ美人だろ? 何せ、元はファッションモデルなんだからさぁ」

 春田の『すげぇ美人』『元はファッションモデル』というコメントに亜美は苦笑した。今の出で立ちは、Tシャツにジー
ンズ。動きやすいように髪はポニーテールに束ね、化粧らしい化粧もせず、ほとんどすっぴんのままだったからだ。

「ファッションモデルだなんて…、もうとっくの昔に廃業して、今は単なる学生よ。それはそうと、高須くんは居るかしら?」

「居るよ、この部屋の奥の方で、クロスっていうか、壁紙を貼り替えている。でも、何で、高っちゃんなの?
俺に会いに来てくれたとばっかり思ったんだけどなぁ〜」

 アホで自意識過剰なところは、高校時代と全然変わっていない。そして、そんなことを口走っても、どこか憎めない
のも相変わらずであることに、亜美は呆れるよりも、何だかほっとした。

「まぁ、まぁ、そう拗ねないで…。ちょっと、泰子さんとあたしとで、おにぎりこしらえたから持ってきたの。
高須くんの分だけじゃなくて、春田くんたちの分も考えて作ってきたから、よかったら食べてね」

 そう言って、ずっしりと重いエコバッグを玄関の上がり框に置いた。

「うわぁ、何かいっぱい詰まってるけど、これって亜美ちゃんが作ったの?」

 亜美は、内心は、早く竜児に会いたくて、春田に苛立ちを覚えていたが、モデル時代にならした営業スマイルで、
にこやかに頷いた。
 だが、春田の親父は、そうした亜美の本音を見抜いたのだろう。

「おい、浩次! いい加減にしねぇか。この別嬪さんは、お前じゃなくて、高須に用があるんだ。さっさと高須を呼んでこい!」

 雷よりも怖い父親からの一喝で、春田は漸く、竜児が居るらしい部屋の奥へと向かって行った。

「お嬢さん、済まないね。浩次の奴は万事があんな調子でね…。親としても、頭が痛いんだ」

「いえ、そうした物怖じしないところが春田くんですから…」

 春田は一人っ子らしいから、いずれはこの父親の跡を継ぐのだろう。悪い奴ではないのだが、こうもアホだと、父親と
しては不安になるのも無理はない。とかく、相続とか、承継とかは、当事者の願う通りにはいかないもののようだ。
 かく言う亜美だって、母親とは決別し、竜児とともに弁理士を目指している。

「あ、亜美…」


 春田の親父と、とりとめのないことを話している時に、春田に伴われて竜児が玄関に佇む亜美のところへやってきた。

「ひ、久しぶりね…」

 春田や春田の親父の目がなかったら、衝動的に竜児に抱きついていただろう。
 その衝動を、亜美は辛うじて、声を震わせただけで、堪えることができた。

「色々と大変だったな…」

 亜美はかぶりを左右に軽く振って、微笑した。

「いいのよ…。結局、こうなるしかなかったんだから。もう、そのことは、あたし気にしないことにしているの…」

「そ、そうか…。それなら、川嶋家の部外者である俺が、つべこべ言うことじゃないな…」

 竜児の言葉に、亜美は心持ち頷き、そして、上がり框に置いてあるエコバッグを指差した。

「よかったら、皆さんで食べて。泰子さんと一緒に、おにぎりを作ってきたの。タンドリーチキンと、卵焼きも作ってきたから、
これも一緒に食べてよ」

 そう言いながら、エコバッグからラップに包まれた握り飯を一つ取り出して見せ、握り飯が潰れないようにエコバッグ
の隅に寄せていたペットボトルのお茶を、上がり框に置いた。

「おお、こ、こりゃ、助かる。しかし、本格的だな…」

 春田の親父が、エコバッグから次々に現れる握り飯やタッパーに、心持ち目を丸くしている。

「さあさ、どうぞ、皆さんで召し上がってくださいな。おにぎりは梅干しと昆布とおかかです。ご飯は大部分は白米だけの
ものですが、三個か四個くらいは、麦と小豆とかの雑穀を炊き込んだのが混じっています。おかずは、卵焼きと、鶏肉を
辛めにに仕上げたタンドリーチキンです」

 春田は、亜美の説明が終わらないうちに、「いただきま〜す」と言いいながら手をエコバッグに突っ込もうとして、父親
にその手を叩かれていた。
 その春田の親父は、亜美に対して「じゃ、有り難く頂戴するよ…」と告げて、握り飯を三個ほど掴むと、それを竜児に
手渡した。

「しゃ、社長、バイトの俺よりも、社長とサブ兄ぃが先に召し上がってください!」

 驚いている竜児に、春田の親父は、意味ありげな笑みを向けている。

「いいから、それを持って、そこの別嬪さんと屋上へでも行って涼んでこい。別嬪さんは、本当はお前に会いたくて、
お前だけに握り飯を食べさせたくて、ここにやって来たんだ」

「社長…」

「俺だって、男女の機微は何となく分かる。だから、四の五言わずに、それ持って、別嬪さんと好きなだけ話してこい」

 春田の親父はそれだけ言うと、なおも「え〜っ? 高っちゃんと亜美ちゃんって、どういう関係よ?」と口走っている
春田の襟首を掴んで、「お前は、引っ込んでいろ!」と一喝した。
 竜児は、そんな春田の親父と、騒ぎを聞きつけて奥から出てきたサブに、申し訳なさそうに一礼すると、亜美を伴って、

エレベータへと向かった。

「そんなに高くねぇマンションだけどよ、屋上からの眺めは悪くねぇんだ…」

「う、うん…」

 前を行く竜児から、男の汗の匂いが漂ってくる。
 竜児と一緒にエレベーターに乗り込み、ドアが閉まるや否や、亜美は、その逞しい肉体に縋り付いた。

「お、おい、ちょっと気が早いって。屋上に着くまでに誰かが乗ってきたら…」

 そう言いかけたが、抱き付いている亜美がくぐもったような嗚咽を漏らしているのに気付いたのか、竜児は慌てて
口ごもった。

「やっと、やっと、会えた…」

 泣くつもりなんかなかったのに、竜児の身体に縋ったら、もう気持ちを制御できなかった。
 本当なら、竜児はとっくの昔に仕事を終えて、今頃は、竜児の家で互いに抱き合っていたはずなのだ。

「亜美、屋上に着いたぞ…」

 屋上に着くまで、このエレベーターに誰も乗り込んで来なかったのは僥倖だった。
 竜児の身体にしがみついたまま、亜美はエレベーターを下り、竜児とともにフェンスに寄り掛かるようにして座った。
 竜児は、手にしていた握り飯を膝の上に置くと、縋り付いている亜美の身体を力強く抱き締めた。

「俺も、会いたかったぜ…」

 湿っぽい夏の夜空の下で、竜児と亜美は抱き合い、唇を重ねた。互いの舌が別個の生き物のように妖しく絡み合い、
竜児も亜美も陶然となる。
 亜美は、乳首とクリトリスが痛々しいほどに固くなり、秘所から生暖かい愛液が滲んでくるのを感じた。用心のために
パンティライナーを当てておいてよかった。そうでなかったら、ジーンズにも愛液のシミがくっきりと目立ってしまったこと
だろう。
 口唇を重ねながら、亜美は竜児の股間に手を伸ばした。竜児のペニスも、ジーンズを突き破りそうな勢いで勃起して
いる。
 亜美に股間をいじられた竜児が、その報復とばかりに、亜美の乳首を摘み上げた。

「あ、う、うう…」

 その電撃のように唐突に襲ってきた快感に、亜美は身悶え、声にならない呻きを発する。
 互いの官能が極致に達し、同時に息苦しさを覚えた頃、竜児と亜美は、ゆっくりと口唇を引き離した。口唇が離れた
後も、暫し絡み合っていたそれぞれの舌は、一筋、二筋の唾液の糸を煌めかせながら、名残を惜しむかのように、互い
の口中に収まった。

「き、気持ちよかったよぉ〜」

「俺もだ…」

 亜美は、ハンカチを取り出して、竜児の口元から唾液を拭い、次いで、そのハンカチで、自分の目元と口元を拭った。

「このまま、あんたと一つになりたい…。互いに気絶するまで抱き合っていたいよぉ…」

「そうしたいのは、俺も同じなんだけどよ…」

 亜美は、うつむいて、首を微かに振った。

「うん…、分かってる…。竜児の仕事が第一だもの。だから、あたしのわがままもキス止まり…」

「済まねぇな…。社長である春田の親父の好意に、いつまでも甘える訳にはいかねぇ…」

「そうね、積もる話はあるけど、それは、あんたのバイトが無事に終わってからにしましょ…。だったら、時間が限られて
いるから、そのおにぎりを食べちゃってよ。
正直、あんまり上手じゃないから恥ずかしいけど、それでも、竜児の腹の足しになるんなら嬉しいわ…」

 そう言いながら、亜美はうつむいたまま、上目遣いに竜児の顔を窺った。
 その竜児は、ラップをほどき、亜美がこしらえた握り飯を美味そうに食べ始めた。

「上手にできているじゃねぇか。これを『あんまり上手じゃない』って言ったら、専業主婦の大半から恨みを買うだろうな」

「ほ、本当?」

 竜児は頷きながら、指先に付いたご飯粒まで美味そうに嘗め取った。

「塩だけじゃなくて、酢でご飯を締めているのが秀逸だな。夏場だから腐敗防止のためなんだろうけど、適度な酸味が
食欲をそそるし、何よりもさっぱりしていて美味しいよ」

 更に、もう一つ、竜児は握り飯にかぶりつき、最後の一個は、亜美に差し出した。

「なんか、俺ばっかが食べていると申し訳ないから、お前も食べてくれ。お前も食べてみれば、俺の言葉が嘘ではない
ことが分かるはずだ」

「う、うん…」

 差し出された握り飯を、亜美はおちょぼ口でおずおずと食べた。汗を流している竜児たち向けに、かなり塩分をきつめ
にしたのだが、米飯とうまくなじんで穏やかな味わいになっている。酢で締めたのも正解だったようだ。

「本当だ…、美味しい」

「なぁ、本当だっただろ?」

「で、でも、あたし、押っ取り刀で適当にでっち上げただけなのに…、何でこんなに美味しいんだろう…」

 竜児は、握り飯を食べ終えて、伸びをするようにしながら、夜空を見上げている。

「料理ってのはよ、作り手の気持ちがこもるんだと思う。お前は適当にでっち上げたとか言ってるけど、
本当は、頑張ってる俺に食べさせたくて、時間に追われながら必死に作ったんだろうな。そんなマジな気持ちが、
その握り飯には込められている。だから、美味いんだ」

「マジな気持ち、そうなんだ…」

「お前は、いざという時は、誰よりもマジになるからなぁ。マジな気持ちになったから、大学にも合格した。マジな気持ちに

なったから、弁理士試験にも挑戦する。そして…」

 亜美は、食べかけの握り飯を手にしたまま、竜児の言葉をじっと待った。

「マジになったから、実家からこっちに戻ってきた…。実家では色々と大変なことがあったかも知れねぇが、俺はマジに
なったお前の判断に誤りはなかったと信じている」

「う、うん…。あ、ありがとう」

 双眸に涙が溢れ、優しげに微笑む竜児の姿がぼやけてきた。再び竜児の胸に縋りたかったが、竜児のバイトが第一
であることを思い出し、ハンカチで目頭を拭いながら、その欲求を押し止めた。

「そろそろ戻らねぇと…。いつまでも春田の親父の好意に甘えるわけにはいかねぇ」

 亜美も頷いて、残りの握り飯を食べ終えた。

「じゃぁ、降りるとするか」

 竜児と亜美はエレベーターに乗り込んで、春田の親父たちが作業している階へと向かう。

「お仕事、頑張ってね…。あたしも、祈ってるから」

「ありがとよ…」

 エレベーターは目的階に到着した。

「ここで、いいよ、今夜はあんたに会えて本当によかった…」

「ああ、俺もだ…」

 本当は、竜児の仕事を手伝ってやりたいが、非力な女が出しゃばれるのは、おにぎりを差し入れるのが関の山なのだ。
それでも、この一言だけは言っておきたかった。

「あたしは、あんたの助けにはならないかも知れないけど、明け方、また会いに来るから…」

「お、おぅ…」

 夜明け前の薄闇の中で竜児に会いたい。その思いは竜児も同じなのだろう。頬を赤らめながら、微かに頷いてくれた。

「じゃあ、もう行くね…」

 思いを振り切るように、『閉』のボタンを亜美は押した。
 鉄の扉がゆっくりと、視界から竜児の姿を奪い去るように閉まり、エレベーターはマイナスのGを伴って降下した。
 一階に着いて、亜美はマンションの駐車場に佇み、竜児たちが作業している部屋の方を見た。その部屋は、亜美が
来た時と同様に、作業灯の白い光が玄関から溢れていた。あの光の中で、竜児は頑張っているのだ。
 亜美が訪れたことで、春田が執拗に二人の関係を訊いてくるだろうが、竜児は適当に相槌を打って誤魔化している
に違いない。それを思うと、亜美はちょっとだけ可笑しくなった。
 とにかく全ては明日だ。そう思いながら、亜美は、自宅へと歩き出した。

 帰宅して、ベッドに横になった亜美は、三時間ほど仮眠をとって、午前三時に目を覚ました。
 軽くシャワーを浴びて、新しい下着と、Tシャツにジーンズを身に纏った。
 肌は化粧水と乳液で整えた程度で、昨夜同様に、ほとんどすっぴんだ。もっとも、若い亜美には、ごてごてとした化粧
は本来必要ない。
 ただ、睡眠不足は明らかだ。薄くだが、目の下にはクマができていた。

「眠たいけど、竜児なんか、寝ずに頑張っているかも知れないんだから…」

 そう思うと、睡眠不足も不思議と苦にならない。亜美は、軍手とタオル等、必要となりそうな物を何枚かをバックパック
に入れ、そのバックパックを背負って、竜児たちが居るはずの大橋高校近くの賃貸マンションに向かった。

 目的地に着き、先刻と同様に、マンションの駐車場から各部屋をあらためるように眺めてみる。どの部屋も真っ暗で、
ひっそりと静まり返っていた。

「作業は終わったのかしら?」

 だとしたら、竜児たちは帰宅してしまったかも知れない。だが、駐車場に、先刻も目にした春田の家のものらしい大型
ワゴンを認め、亜美は未だに竜児たちがこのマンションに居ることを確信した。

「呼び出してみるか…」

 亜美は携帯電話機を取り出した。

『約束通りやって来たわ。起きてる?』

 そうタイプして送信し、竜児からの返信を待った。竜児はマナーモードで使っているのが常だから、寝入っていたら
メールには反応しないだろう。
 だが、竜児にメッセージを送信して間もなく、その返信が亜美の携帯電話に送られてきた。

『起きてるよ。今は、春田たちが寝泊まりしている部屋とは別の部屋に居る』

 やっぱり起きていたか、と亜美は思った。そして、何故に、竜児だけが起きているのかも察しがついた。

『寝泊まりってどういうこと? どこの部屋に居るの? それに、一人で何をやってるの?』

『夜中まで作業したら、みんなバテバテで、仮眠することになったんだ。だが、俺は一階の105号室で、部屋を掃除して
いる』

 思った通りだった。春田の内装屋の仕事が危機的状況に陥ったのは自分のせいだと思い込んでいる竜児は、その
責任を感じて、一人作業現場の清掃に明け暮れていた。
 もっとも、責任云々とは別に、単純に掃除が好きだというのも、大きな理由なのだろう。

『あたしも手伝うよ。今から、そっちに行く』

 送信して、一分ほどだけ待ってみたが、竜児からの返信はなかった。それを、亜美は、竜児の許可と受け取ることに
した。そのまま105号室のドアの前に進み、ノックする。

「亜美だな? 待ってろ、今開けてやる」

 ドア越しに竜児の声が聞こえ、カチリ、という金属音とともに解錠された。そのドアが、室内側から押し開かれる。

「来たよ…」

「まぁ、入れ…」

 言葉少なに頷き合って、竜児は亜美を室内に招き入れた。
 クロスもクッションフロアも新しく貼り替えられた室内には、建材に含まれているらしい溶剤っぽい臭いが微かにした。
 カーテンも何もない窓からは、街灯の青白い光が差し込んでいる。その光に照らされた室内は、当たり前だが、調度
品の類は何もなく、ただただ、白い壁と、マホガニー調の木目をあしらったクッションフロアが貼られた床面があるだけ
だった。

「掃除は、まだまだ大変なの?」

 がらんとした室内には塵一つ落ちていなかった。もう、あらかた掃除は済んでしまっているように亜美には思えた。

「大まかには片付いている。後は床面を洗剤と水で拭うだけだ」

「あんた、結局無理して、一人で徹夜してたんだね。もう、やめなよ、そんなバカなこと…」

 内罰的な竜児に言っても無駄だとは思ったが、ちょっとした皮肉のつもりで苦笑混じりに言ってやった。
 それが竜児にも分かるのだろう。形良く明瞭に突き出ている鼻の頭をぽりぽりと引っ掻いている。

「まぁ、お前も呆れているとは思うけどよ。これが俺のキャラなんだ。今さらどうこう言ってもはじまらねぇや」

「あら、開き直り? どうでもいいけど、何でも一人で背負い込むのは、いい加減やめにしなよ。あんたが苦しいときは、
あたしができる限りのフォローをする。それを忘れないで欲しいわね」

「お、おぅ…」

「だったらさぁ、床の掃除は手分けしてやろうよ。あんたが洗剤で床を拭ったら、その後はあたしがその洗剤を水拭きし
て取り除く。これなら、あっという間に掃除は終わるわよ」

「たしかにそうだな…」

 かくて、スプレー式の住居用洗剤を噴霧しながら雑巾で床を拭う竜児の直後を追うようにして、亜美がその床を水拭
きしていくことになった。

「ねぇ、あたし、竜児から、今回のバイトでの竜児の責任ってのを説明してもらってない」

「ああ、そのことか…」

 作業する手を休めることなく、落ち着いた声で竜児が応えてきた。そろそろ、亜美に事情を説明しておくべきだと竜児
自身も考えていたのだろう。

「そう言えば、このマンションの工事をしている人って、あんたと春田と、春田の親父と、奥から出てきた坊主頭の人
だけ? だとしたら、なんか人数足りなくない?」

 実家に赴く日の朝、竜児は『職人のリーダー格は結構まともな人だった』とか言っていたはずだ。そうであれば、
あの坊主頭がそのリーダー格だろう。そのリーダーに従うはずの他の職人の存否が気になった。

「実はな、おれのせいで、職人が二人、フケちまった…」

「フケたって、居なくなっちゃったってことぉ?」

「ああ、俺が大学生だって分かったら、連中不機嫌になって、仕事を放り出しちまった…。それで、昨日は徹夜覚悟で、
しかも、社長である春田の親父までが作業するハメになったんだよ」

「あんたが、大学生だって理由だけで、仕事を放棄したのぉ?
そんなの、人間ができてない、そいつらが悪いんじゃない! あんたは、全然悪くないってぇ!」

 予想はしていたが、竜児という人間は、本当に内罰的でお人好しだ。

「いや、事情はちょっと複雑でさ、たしかに辞めてった連中は人間としてダメだろうが、連中が不機嫌になるのも全く
理由がないわけじゃねぇんだ」

「どんな理由なのさ」

「まぁ、こういった肉体労働やってる奴は、俺たちのような大学生とかはインテリで虫が好かないんだとさ…。で、春田の
親父は、俺を素行不良で進学も就職もできなかった落ちこぼれってことにして、俺を雇ったんだ」

「随分な設定じゃない…」

「まぁ、たしかにそうだな…。でも、それでバイトできるんだったら、俺は構わねぇよ。問題は、そんな人間の屑であるはず
の俺が、つい、小器用にも職人並の作業をしちまって、連中の妬みを買ったことなんだ」

 亜美は思わず眉をひそめ、左手を額に当てた、何だかめまいのような頭痛がする。

「あんた…、またしてもやり過ぎたのね。もう、言わんこっちゃない…」

「済まねぇ…。何かの課題みたいなもんがあると、ついそれに熱中しちまうんだ。それに、お前には『嫌味な謙遜』に注意
するように釘を刺されていたんだが、ダメだった…。自然に振る舞うように心掛けたが、それでも、何か嫌味ったらしい
謙遜の雰囲気があったのかも知れねぇな」

 亜美は、深呼吸するように、大きくため息をついた。

「まぁね…。何事にも全力で取り組み、水準以上の成果を上げても、それをことさら誇らないのは、あんたの個性なんだ
から、しようがないわね。所詮、高須竜児は、どこまでいっても高須竜児なんだわ。その個性は、基本的に変わらない…」

「そう言ってもらうと、俺もちょっとは気が楽になるな。弁明するわけじゃねぇけど、俺も同じようなことを考えていたんだ」

「そうなの?」

 亜美の問いに、竜児は頷き、その広い背中がたわむように上下した。

「このバイトで春田に卒業以来、久しぶりに会ったんだけどよ、最初は、春田でも、仕事すれば、しっかり者になるんだっ
て思ってたんだよ」

「でも、そうじゃなかった、とか?」

「結論を先回りされちまったが、そうなんだ。本質的な部分は、まるっきり変わっちゃいなかった。まぁ、お前なら俺以上に

人を見る目があるから、気付いているだろうけど、アホで軽薄で、KYなところは全然変わっていなかった。まぁ、あいつ
は、それでも不思議と憎めないから、いいけどな」

「春田には昨晩会ったけど、全然しっかりなんかしていなかった。父親に怒られていたわよ」

「さすがだな…。おれは、一瞬だが、あいつがしっかり者だと誤認した。まぁ、それからすぐに、あいつが相変わらずって
ことには気付いたけどな」

 そう言いながら、竜児はその部屋のどん詰まりまで洗剤で拭き終わり、その場から脇に退いて、後続する亜美の水拭
きを待った。

「終わったわ…」

 竜児に追いつくようにして水拭きを終えた亜美は、右手の甲で額にうっすらと滲んだ汗を拭った。

「掃除は、もうこれで終わりなの? 他の部屋はどうなの?」

「おぅ、あっけなかったが、これで、もう御仕舞だ。他の部屋は、お前が来るまでに、済ませちまった…」

 そのコメントに、亜美は不満げに頬を膨らませた。しかし、目には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。

「あんたって、いざというときでも人を頼ったりしないのね。ほぉ〜んと、可愛くないんだからぁ」

「まぁ、それは自覚しているよ。でも、これが俺なんだから、しようがねぇ」

「そうね、でも、いいわ…。あたしは、何かしら、あんたの手助けになるようなことをしたかったから…。昨日はおにぎりを
差し入れて、今朝は、ほんのちょっとだけだけど、あんたの掃除の手伝いができた…。まんざらでもない気分かしらね」

 春田の母親らしき人物には、『女は男がやることを黙って見守ること』と言われたが、泰子に言われたように、亜美は
亜美の思う通りのことをすべきなのだ。
 亜美は、ポケットから携帯電話機を取り出して時刻を確認した。

「ねぇ、未だ、四時半くらいだわ。そろそろ夜が明けるだろうけど、春田たちが起き出してくるまで、ちょっと余裕ありそう
よね?」

 いわくありげな流し目を竜児にくれてやる。これなら、鈍感な竜児にも亜美が何を求めているのかが分かるだろう。

「そうだな…。掃除した場所を、ちょっとばかし汚すことになるが、昨夜の屋上での続きをするのか?」

「あんたにしては、察しがいいじゃん。それに、もう、あたしのあそこが大変…。おっぱいも張っちゃって…、乳首とかが
何かずきずきする…」

 そう言うなり、亜美はTシャツの裾をめくり、背中のホックを外してブラジャーをたくし上げた。
 乳首が腫れ上がったように勃起した美乳が露わとなる。

「ねぇ、おっぱい吸ってよ…。なんか火照るように疼いちゃって、啜ってもらわないと、乳腺炎とかになりそう…」

「バカ言え、乳飲み子抱えた母親じゃあるまいし、単に、お前にとって乳首が敏感だってことだろ?」

 竜児の突っ込みに妖艶な笑みを返し、亜美は乳房を揺らしながら、いざるように竜児へ寄り添った。

「あんただって、おっぱい好きでしょ? 誤魔化してもだめ。この前だって、しつこく吸い付いて離れなかったんだしぃ」

「あれは、お前が、乳を吸われただけでイキそうになったから、無理矢理に俺の唇を引き剥がしたんだろうが。
まぁ、お、俺も、お前の乳、す、吸いたいけどよ…」

 亜美は、にやりとしながら、勃起した乳首を竜児の眼前に差し出した。

「なら、つべこべ言わずに、本能に忠実になりなさいよ。あんたは亜美ちゃんのおっぱいを吸いたい。
あたしは竜児におっぱいを吸われたい。互いの利害は一致するんだからさぁ」

「お、おぅ…」

 竜児の薄い唇が亜美の乳首にあてがわれ、甘噛みされながら強く啜られた。その電撃のような刺激に、亜美は
身悶え、思わず声を上げそうになった。

「あ、あんまり大きな声出すな。マンションの住人や、春田たちに感づかれる」

「う、うん、じゃぁさ、こ、こうするから…」

 亜美は、ポケットからハンカチを取り出し、それを噛み締めた。

「お、おい、大丈夫かよ」

 心配そうな竜児に、もごもごと声にならない呟きを発しながら、亜美は頷いた。口で呼吸できないのは辛いが、
それほど息苦しくはない。

「じゃ、再開するぞ…」

 だが、亜美は、立ち上がって、ジーンズとショーツを脱ぎ捨てる。ショーツは粘液の糸を煌めかせて、亜美の秘所から
離れていった。

「ど、どうしたんだよ、も、もう本番か?」

 亜美は頷くと、噛み締めていたハンカチを一旦抜き取った。

「う、うん。勝手な話だけど、なんか、久しぶりに乳首吸われたら、それだけで気持ちよくなり過ぎちゃいそう。
だから、このまま前戯なしで突っ込んでよ。ここだと何か落ち着かないから、手っ取り早くエッチしたいし…」

「それもそうだな…。長期戦になって春田とかに見られたら大変だ。だったら、激しいのを一発やって、この場をしのぐ
ことにしようぜ」

 亜美が頷いたのを確認してか、竜児もジーンズとブリーフを脱いだ。
 勃起して大きく反り返った竜児のペニスに、亜美は目を奪われる。亜美の秘所をかき回し、無上の快楽へと誘って
くれる至福の器官だ。

「き、来て…」

 亜美は、再びハンカチをくわえると、床に仰臥して、股を開いた。外側の薄い褐色と内側のピンクとのコントラストが
艶めかしい陰裂は、滴る愛液で瑞々しく潤っている。

「じゃ、い、いくぞ…」

 その陰裂に、熱く膨れ上がった亀頭が撫で付けられ、次いで、それが、ずぶずぶと、亜美の膣へと送り込まれていっ
た。火のように熱い竜児の亀頭が、蛸の吸盤のような子宮口に達し、それを子宮ごと突き上げる。

「う、ううう…」

 子宮だけでなく、内臓全てが突き上げられるような激しさに、亜美は身悶える。
 竜児には内緒だが、実家では、毎晩自慰にふけっていた。ある時は、我慢できなくて、竜児のペニスよりも少し太い
化粧乳液の瓶を膣に突っ込んだこともある。だが、気持ちよくなかった。固いことは固いが、ただの円筒形の瓶では
メリハリがなく、むしろ瓶の底の縁で痛い思いをしただけだった。
 やはり、膣に突っ込むのは男性器に限る。それも竜児のものでなければダメだ。竜児に処女を捧げ、その後も竜児の
極太ペニスを受け入れてきたことから、亜美の膣は竜児のペニスでなければ満足できないようになってしまったらしい。

「あ、亜美…。ど、どうだ?」

 亜美の膣の中で、竜児の極太ペニスがピストンのように激しく往復している。そのピストンは、上死点では子宮だけ
でなく内臓全てを押し上げる爆発的な衝撃で亜美の全身を震わせ、その上死点と下死点への移動では、膣壁を擦過
し、下死点では膨れ上がった亀頭が膣口をひしゃげさせ、亜美にめくるめく快楽をもたらすのだ。

「う、う〜っ、う〜…」

 よがり声を出さないように自ら噛み締めているハンカチが恨めしい。だが、ハンカチがなくても、もう呂律が怪しくなっ
ていたことだろう。

「あ、亜美、体位変えるぞ」

 そう言って、竜児は正常位で亜美に挿入したまま身体をほぼ九十度ひねった。竜児の脚と、亜美の脚とが、互いの
陰部を接点にして直角に交差している。

「う、ううううううっ〜!!」

 いわゆる松葉崩し。亜美は、竜児の反り返った極太ペニスで腹腔の中身全てがかき回されるような感じがした。
その、これまでに経験したことがない強烈な刺激が、高圧電流のように亜美の身体を貫いている。
 その松葉崩しで、竜児は二・三回ピストン運動をして、更に身体を九十度ほどひねり込んだ。
 いつしか、亜美は尻を突き出したまま、うつ伏せになっていて、背後から竜児のペニスに突かれていた。

「ど、どうだ? バックで突いているんだが」

 正常位とも、対面座位とも全く違う刺激に、亜美は全身をわななかせた。強いて言えば、一度だけ試した背面座位に
似た感じだが、それよりも格段に深く竜児の極太ペニスが突き込まれている。その激しい突っ込みに、亜美は思わず、
くわえていたハンカチを吐き出した。

「あ、あぅ、ふ、深いよぉ〜! い、いくぅ、あ、亜美ちゃん、いっちゃうよぉ〜」

 さらに、竜児の指が、パンパンに膨れ上がっている両の乳首を強く摘んで捏ね上げた。その乳首から走る電撃のよう
な快感が全身を駆け巡り、脳髄に入力される。
 秘所を突かれる衝撃と、乳首に走る電撃のような快感が、頭の中で交錯した。まるで、スタジオ用の大型ストロボの
ような眩い閃光が炸裂したような感じだった。それとともに、亜美の膣が痙攣するかのように不随意に収縮し、脈動した。

「あ、亜美、し、締め付けが、き、きつ過ぎる!」

 悲痛とも聞こえそうな叫びとともに、亜美の中に熱を帯びた生命の源が注ぎ込まれる。
 その幸せな暖かみを胎内に感じながら、亜美は夢見心地で意識を喪失した。


 雑魚寝から目覚めてみれば、一緒にいたはずの竜児の姿がなく、他の部屋を探して、亜美とともにその姿を発見した
春田の親父は、呆気にとられたように竜児の顔を見た。

「全く、お前という奴は…。結局、徹夜で今回工事した部屋全部を掃除していたんだな」

「俺一人じゃないですよ。途中からですが、亜美が手伝ってくれましたから」

 床を水拭きしただけという内容を考えると、こそばゆかったが、それでも、微力とはいえ、竜児を手助けできたことが
誇らしかった。

「まぁ、おかげで、今回の工事は成功だ。綺麗に修繕してあるってことは最低条件なんだが、こうも徹底的に清掃して
あれば、仕事を発注した不動産会社も文句は言わんだろう」

 サブも、春田の親父の言葉に頷いている。だが、春田だけが、亜美が竜児のために差し入れを持ってきてこと、
それに亜美が竜児と一緒に二人だけで掃除をしていたことに納得がいかない風情だった。

「ほら、浩次、何をぼんやりしてやがる。この場はひとまず撤収するぞ。昼頃に不動産会社のチェックがあるが、その前に、
今回の最大の功労者である高須にバイト代を支払ってやらにゃならん」

 昨日の朝と同様に、サブの運転で、事務所でもある春田の自宅に戻ることにした。
 ただし、昨日と違うのは、大型ワゴンの後席には、竜児と春田に加えて、Tシャツにジーンズ姿の亜美が居たことだ。
 その亜美と竜児とを、春田はしきりに見比べている。アホの春田でも、二人の関係がただならぬものであるような感じ
がするらしい。

 そんな春田の視線を亜美は鬱陶しく感じたが、それをおくびにも出さずに、にこやかなウソのツラを貫き通した。

「さてと…。うちの奴は、ちゃんと言いつけ通りに計算してくれたかな?」

 時刻は六時。照明が消え薄暗い中、事務所に備え付けの金庫を解錠しながら、春田の親父は呟いた。昨日までの
うちに、おそらくは副社長か経理か何かの立場であろう春田の母親に、竜児のバイト代を計算して、現金で用意して
おくように命じていたらしい。

「おお、あった、あった、これだ…」

 春田の親父は、定形サイズの茶封筒を金庫から取り出すと、「ご苦労さん」とだけ言って、竜児に手渡した。
 封筒は思った以上に重かった。税込みで日当が一万二千円だから、十日間では、税抜きで十万円強になるはずだ。
しかし、竜児の手にある封筒は、とてもその程度の金額ではなさそうなほど、ずっしりとしている。

「まぁ、何だ、ちょっと中身を確かめてくれ」

 春田の親父に促されて封筒を開けると、『明細書』と銘打たれた書面と一万円札が入っていた。
 竜児は、明細書を一読して驚き、一万円札の枚数を数えてみた。

「…十九、二十、社長! 二十万円も入っています!!」

 明細書にも、税引き後の手取りが二十万円であることが明記されていた。
 社長である春田の親父は、苦笑とも微笑とも判じがたい微妙な表情を竜児に向けてきた。

「今回の最大の功労者を適正に評価したまでのことさ。正直、十日前に雇ったときは、ここまでできる奴だとは期待して
いなかった。しかし、やらせてみれば、下手な職人よりも手先は器用で、しかも勤勉だ。作業の結果も申し分なしだ」

「で、でも、俺のせいで…」

 春田の親父が、『それ以上は言うな』とばかりに、竜児に右掌を向けて左右に振った。

「職人二人がフケちまったが、それはお前のせいではなく、フケちまった連中に問題がある。連中は、元々、うちでの待遇
に不満があった。それに、うちとは競合関係にある他店と通じていた節もある。お前が居なくても、遅かれ早かれ、ここを
出ていっただろうな」

「はぁ…」

 それでも、未だに自己の責任を感じているらしい竜児の脇腹を、亜美は右肘で軽く小突いて、微笑んだ。
 何のことはない、竜児に過失らしい過失はないのだ。そうであれば、破格とも言うべき報酬も、遠慮なく受け取って
おけばいい。

「それにだ…。お前は、報酬が高すぎると思っているようだが、これは信賞必罰の結果なんだ。手柄のあった者は高く
評価し、過ちを犯した者は必ず罰する。今回、まず罰せられるべきは、フケた二人の職人だ。この二人の最終日での
日当をお前に割り振っている」

 だが、それにしても高すぎる。他にも罰の対象になった者が誰か居るようだ。

「次いで罰せられるべき者は、浩次! お前だ」

 いきなり名指しされた春田は、目を白黒させている。自分に非があるとは夢にも思っていなかったのだろう。

「な、何で、俺なんだよぉ!」

 その責任感はおろか、当事者としての意識がみじんも感じられない発言に、春田の親父は怒りを顕わにした。

「バカ野郎! お前が、この十日間に、どんだけ下らないことを口走ったのか、胸に手を当てて考えてみろ!」

「そ、そんなこと言われたって、お、俺、バカだから、いちいち憶えてねぇよぉ〜」

 春田の親父は怒りで顔を歪めながら、息子のおつむのお粗末さに今さらながら呆れ返ったという感じで、大きく嘆息
した。

「サブから、お前の失言については色々と聞いているが、今回の最大のミスは、高須が大学生であることを職人たちの
前でお前が暴露したことだ! あれさえなかったら、昨日は泊まり込みで作業することはなかったし、高須も嫌な思いは
しなかっただろう。浩次ぃ! 全ては、お前のバカさ加減が招いたトラブルなんだぁ!! だから、当面、お前に給料は
支払わないから、そのつもりでいろ!」

 そのライオンの咆哮のような怒号とともに当面無給であることを宣告された春田は、茫然として後ずさった。
 そして、あろう事か、肩先が触れた亜美の身体に反射的に抱き付いた。

「ちょ、ちょっとぉ! は、離しなさいよぉ!!」

「春田、お、お前は、何やってんだ!」

 フィアンセの危機に、朴念仁である竜児も慌てて、春田の身体を亜美から引き剥がしにかかる。しかし、当の春田は、
まるで牡蠣か何かのように亜美にくっついて離れない。

「亜美ちゃぁ〜ん、おや…、じゃなかった、社長がひどいんだよぉ。ただでさえ手当てが安いのに、これからはただ働き
だってのは、あんまりだぁ〜。亜美ちゃぁ〜ん、お、俺を慰めてくれよぉ〜」

「やだぁ! キモイこと言わないでよぉ! さっさと離れなさいよっ!!」

 しかし、春田も怯まない。更にしつこく、亜美の腰の辺りにしがみついてきた。

「おい、浩次、いい加減にしねぇか!!」

 本能と煩悩が剥き出しになった春田には、雷よりも怖そうな父親の怒号も耳に入らないらしく、大胆にも、亜美の
脇腹に、頬を擦り付けている。

「いやぁ〜ん、竜児ぃ、何とかしてよぉ!!」

「あ、亜美、あれだ、お前が俺に食らわす、こめかみに拳骨をねじ込む奴を見舞ってやれ!!」

「う、うん、わ、分かった」

 亜美は身体をひねると、脇腹に擦り付けられている春田の頭部、そのこめかみに小さいけれど、サザエのように固い
拳骨を、渾身の力を込めてねじ込んだ。

「う、うぎゃああああああああ!!!!」

 頭蓋骨ばかりが分厚くて、大した脳味噌が詰まっていそうもない春田であっても、亜美の必殺技にはひとたまりも
なかった。高圧電流で感電死する時の断末魔もかくやの絶叫を残し、春田は頭を押さえて、その場に昏倒した。

「お前なぁ…」

 その春田を、竜児と亜美が、怒りよりも、哀れみを込めて見下ろしている。

「あ、あたしには、もう、け、結婚を約束した相手がいるんだからさぁ。そのあたしに、それも、あたしの結婚相手が居る
目の前で、抱き付くなんて、最低!」

 春田の目に涙が浮かんでいる。

「け、結婚? 亜美ちゃん、結婚しちゃうの?! 相手は誰よ? ま、まさか、高っちゃんじゃないよね? だって、お、俺の
方が、高っちゃんよりも、お、男前だもん…」

 自意識過剰もここまで来れば犯罪的と言っていいだろう。
 竜児や亜美だけでなく、春田の親父も、サブも、申し合わせたように、大きくため息をついた。

「その、『まさか』なんですけどぉ、何かご不満?」

「そ、そんなぁ、高須ばっかり、何で、何でぇ〜」

 春田は床にひっくり返ったまま、子供が駄々をこねるように手足をバタつかせた。

「おい、おい、お前にだって、瀬奈さんだったっけか? つき合ってる美人のお姉さんが居ただろ?」

 自分のフィアンセに狼藉を働いた春田にも竜児は慰めの言葉を掛けた。しかし、それを聞くや否や、春田は、海老の
ように背を丸めて、号泣した。

「うぉおお!! た、高っちゃん、そ、それは言わないでくれぇ!! い、言わないでくれよぉ!!」

「お、おい、ど、どうしたんだよ?」

 なおも、春田を問い詰めようとする竜児の左手を亜美は引いた。

「それ以上、春田を追及しちゃ酷だわ…」

 春田は濱田瀬奈にも愛想を尽かされたのだ。それを察してやれ、というつもりで、亜美は竜児に向かって、眉をひそめ
て首を左右に振った。
 それで、男女の機微に異様なほど疎い竜児も察したのだろう、「お、おぅ…」と、力なく頷いて、床に転がったままの
春田から離れていった。

「高須に、嬢ちゃん、最後の最後まで済まなかったな…。何せ、不肖の息子でね。君らも知っての通り、どうしようもない
アホだが、これでも跡取りなんだ」

「「はぁ…」」

「それはさておき、何でもそつなくこなす高須に、しっかり者らしい嬢ちゃんは、理想のカップルだな。
君らなら、末永く幸せに暮らしていけるだろう。俺からも、おめでとうと言わせてもらうよ」

「そ、そんなぁ、結婚するのは確実ですけどぉ、少なくとも大学を卒業して、ちゃんと稼げるようになってからですよぉ」

 そうは言ってみたが、春田の親父の言葉が嬉しくて、亜美は、自然と頬が紅潮するような気がした。

「高須や嬢ちゃんみたいなのが、うちの子供だったらよかったんだが…。まぁ、親である俺が大したことないから、
浩次みたいなのが息子なのが分相応なのかも知れないけどな…」

 苦笑する春田の親父を、春田が恨めしそうに見ている。

「親父ぃ〜、何だかんだ言ったって、結局、俺は親父の子供だからダメなんじゃないかぁ〜。それを、今回の件は俺が
全部悪いみたいに言う。ひどいじゃないかぁ〜」

 その一言に、苦笑していた春田の親父の表情が、憤怒で大魔神のように険しくなった。

「バカ野郎ぉ! 一番の大バカ野郎のお前に、そんなことを言われる筋合いはねぇ!! それにぃ…」

 春田の親父は、怒りのエネルギーをチャージするかのように、深々と息を吸った。そして…、

「公の場で、『親父』と呼ぶんじゃねぇ!! 俺は、社長だぁあああああ!!」

「何か、未だに鼓膜がじんじんするみたいな感じ…」

「俺もだ…。それにしても、春田の親父が本気で怒鳴ったときの迫力は凄まじかったな」

 春田の家を出た竜児と亜美は、それぞれの自宅に戻るところだった。何しろ、竜児は完徹であるし、亜美だって、
睡眠不足は否めない。帰宅したら、まずは睡眠が必要だ。

「でもさぁ、二十万円も貰っちゃって、そのお金どうするの? そう言えば、バイト代の使い道も教えてもらってなかった
わねぇ」

 並んで歩く竜児の顔を、亜美が例の目を細めて口元を左右に軽く引きつらせたような性悪笑顔で覗き込んでいる。

「お、おぅ…、こ、これはだな…」

「これは? 何だか、さっぱり要領を得ないわね」

「い、いや、今はちょっと言えねぇけど、時期が来たら必ず明かにするから、も、もうちょっと待ってくれ」

 三白眼を神経質そうに動かして、額に冷や汗を浮かべている姿が、亜美には可笑しかった。良くも悪くも、高須竜児
という男は、隠し事とか嘘とかが下手なのだ。

「はい、はい、もう、隠し立てなんかしなくたっていいのよ。事情は、祐作が全部白状したから」

「え? 北村が、言っちまったのか?!」

「そうよ、祐作に、幼稚園の頃の悪行を、アメリカに居る狩野先輩にバラすぞ、って言ったら、即座に白状したわよ。
でも、何? 酔っ払ったあたしが気まぐれで指差したプラチナの指輪を買おうとしたんですってぇ?」

 亜美は、苦笑しながら、大きなため息をついて、心底呆れていることを、わざとらしく表現した。

「で、でもよ…、あの日、お前は、本当にあの指輪が欲しそうに思えたんだ…。それに、お、俺は、お前が何かを貰った時
の嬉しそうな顔を見たかったんだよ」

「それだったら、もっと安いもんで十分じゃない。何も、何十万円もするような高価なアクセサリーを無理して買うことは
ないわよ」

 竜児がプレゼントしてくれるのは、正直嬉しかった。しかし、ここまで無理をして欲しくなかったのも確かである。

「まぁ、でも、俺はお前に何かをプレゼントしたい。せっかく、バイトで稼いだんだ。何か、俺たちの記念になるものを
プレゼントさせてくれよ」

 『頼むよ』という感じで、亜美を見ている竜児が、可愛らしかった。その竜児に、性悪笑顔ではなく、穏やかな微笑みを
投げかける。

「そうねぇ…、そう言うんなら、記念にペアリングを買ってもいいかも知れないわね」

「そ、そうか!」

 竜児が目を輝かせている。どうにか、当初の目的通りに、亜美に指輪をプレゼントできそうなことを喜んでいるのだ。
亜美のためにバイトをした以上、その金を、その目的以外に遣うことは、どうやら念頭にはないらしい。

「それじゃぁ、今日の午後三時に大橋駅に集合して、電車に乗って、指輪を買いに行きましょうよ。せっかくだから、
デートも兼ねてね。あ、服装は、特別なものじゃなくていいけどぉ、できれば、あたしたちのイメージに合う、黒っぽいもの
であること。それに、お揃いの黒眼鏡を忘れないこと」

「お、おぅ…」

「じゃぁ、決まりね…。午後三時に駅に集合するまで時間があるから、少し眠っておきなさいよ。
あんた、徹夜したんでしょ? あたしも、寝不足気味だから、帰宅したら、シャワー浴びて、ちょっとお昼寝…」

 そう言って、亜美はウインクして、竜児とは交差点で別れ、寄宿している伯父の家へと歩いていった。


 午後二時五十分、大橋駅改札口。
 シルキーな光沢がある黒いタイトなブラウスと、これも黒でシルキーな細身のパンツを着こなした亜美は、竜児と
お揃いのレンズが丸いサングラスで目もとを隠し、鍔の広いチャコールグレーの帽子をすっぽりと被って竜児を待つ。
 ブラウスの胸元からは、黒いレースのブラジャーが、微かに見え隠れしている。いわゆる、勝負下着の心意気だ。

「遅くなって済まねぇ!」

 午後二時五十五分。黒いコットンパンツに、通気性が良さそうな黒いカットソーのプルオーバーシャツ、亜美と揃いの
黒眼鏡、それにいつぞや銀座で買った黒いリネンのハンチングを被った竜児が現れた。
 現金を入れているであろうショルダーバッグを、大事そうに胸元で抱えているのが、亜美には微笑ましかった。

「遅いわよ! と言いたいところだけど、まぁ、いいでしょ。遅刻じゃないんだから。でも、今度からは、女の子を一人っきりにしないこと。いいわね?」

「お、おぅ…」

「まぁ、分かれば宜しい…。じゃぁ、もう行きましょ。善は急げよ。とにかく電車に乗って東京へ出るわ」

 言うが早いか、亜美は定期入れを自動改札のセンサーにかざして、ホームへと向かって行った。その後を竜児は
慌てて追う。
 平日で、昼間だったので、電車はガラガラだった。竜児と亜美は、強い日差しを避けるために、北側になる席に並んで
座った。窓の外に目をやると、青い空に入道雲が湧き上がっている。

「なんだか、空梅雨のまま夏本番になっちゃったみたいね」

「そうだな、今日も暑いし、梅雨はもう明けたみたいな感じだな」

「だとすれば、間近に迫った合宿が楽しみだわ。別荘の鍵も、亜美ちゃんが捨て身の行動でせしめてきたしぃ」

 だが、その代償という訳ではないが、亜美は、母親である川嶋安奈とは決別することになってしまった。
 実家を出てきた時は、葛藤などは全く感じなかったが、今となっては、何か、心の中に釈然としないしこりのようなもの
を感じている。それが、竜児にも分かるのだろう。

「そうだな、その準備もそろそろ考えねぇと…」

 鍵を借りられた経緯には触れず、苦笑するような、それでいて毒のない淡い笑みを向けてくる。
 以心伝心、心が通じ合うとは、こういうことなんだな、と亜美は思った。

「それはそうと…。何を狩野先輩にバラすって言ったら、北村は自白したんだ?」

 今朝方の話を竜児が聞き返してきた。無理もない。どちらかと言えば、口が固い北村祐作が、慄いて自白するような
ネタとは如何なるものなのか、北村という人物を知る人間であれば、誰だって知りたくなる。

「教えてあげてもいいけど、あんたがこれを知ると、祐作との友情にひびが入るかも知れないわよ。それでもいい?」

 ちょっと大げさに言ってみたが、幼稚園の頃とはいえ、真相を知ったら、竜児だって複雑な感情を北村に抱くかも
知れない。

「そんなにひどいことを北村はやらかしたのか?」

「うん…」

 今朝方は、うっかり口を滑らせたが、竜児には真相を告げない方がいいだろう。竜児が北村を今以上に変質者扱い
することになりそうだし、亜美も、恥ずかしくて竜児には知られたくない。
 だが…、竜児の突っ込みは、あまりにも正鵠を射ていた。

「なぁ、ひょっとして、北村がお前に、お医者さんごっこをしたことか?」

「ど、ど、ど、どうして、それをあんたが知ってるのよ!!」

 亜美は驚愕し、次の瞬間には耳まで真っ赤に染めて、竜児に詰め寄った。

「お、怒るなって。いや、北村の奴が、俺とお前の仲が進展しないことを気にしてか、お前との幼稚園時代の話を持ち出
してさ…。お医者さんごっこで、お前の、な、何だ、パ、パンツを北村が脱がしかけたってのを聞いちまった…」

「あんたぁ!! 祐作からそんな話聞いてて、何とも感じなかったの? 不快に思わなかったの? サイテー!!」

 恥ずかしそうに口ごもってはいるが、事実をたんたんと話す竜児に、亜美はムカついた。

「ま、まぁ、話を聞いたときはびっくりしたけどよ、それも、甲斐性なしの俺が、お前に全然手を出さないから、発奮させる
ために、そんな話をしてくれたんだって思うことにしたんだ」

「お人好しねぇ。あんたって、呆れるくらい、その更に超が付くくらいのお人好しだわ」

 亜美は、いからせていた肩の力を抜くと、気だるそうに嘆息した。怒ってもしょうがない。高須竜児は、どこまで行って
も高須竜児なのだ。

「それに、北村は、もうちょっとのところで、お前のお袋さんに見つかって、未遂に終わったそうだし…。それだったら、
子供の頃のことでもあるし、北村を責めてもしょうがねぇって思うんだよ」

「そうね…」

 亜美は、その頃の若々しい川嶋安奈を思い出した。女優業にかまけていて、母親らしいことを碌にしてこなかったが、
北村がパンツを下げる寸前で亜美を救ったその時は、女優川嶋安奈ではなく、亜美の母親そのものだった。

 電車は、JRと地下鉄との乗り換え駅に到着した。改札口を出て、地下鉄乗り場に向かおうとする竜児の袖を亜美が
引いた。

「地下鉄じゃなくて、JRで行きましょ」

「え、何でだ? 銀座に行くんじゃなかったのか?」

 あくまでも、この前に亜美が指差したプラチナの指輪を買うつもりだったのだろう。それが亜美には可笑しかった。

「そう、指輪は銀座以外で買いましょうよ。プレゼントされる側から要求するのも変だけど、あたしが欲しい指輪を
買うってことで、どう?」

 サングラスをデコに押しやり、双眸を大きく見開いた輝くような笑みを竜児に向けた。作られたウソのツラではなく、
竜児のことを慮っての素の表情だった。それが竜児にも分かるのだろう。

「それでよけりゃ、俺は別に構わねぇよ。お前が喜んでくれるなら、それで俺は満足なんだ」

「なら、こっちよ。地下鉄じゃなくて、山手線で原宿まで行きましょ」

 原宿駅を降りて、亜美と竜児は人混みをかき分けるようにして進んだ。平日とはいえ、この界隈はいつも賑わって
いる。もうすぐ、中学校や高校も夏休みになるから、そうなったら、尋常ではない混み方をするに違いない。

「ここら辺りがよさそうね…」

 亜美が足を止めたのは、若者向けのアクセサリーを売る店だった。

「お、おい…、宝石店でなくていいのかよ…」

 店に入っていこうとする亜美を見て、竜児が語尾を震わせて困惑している。
 その竜児に、亜美は、サングラスを取って、淡い笑みを投げ掛けた。

「そうよ、何も高級品でなくたって、いいものはいいのよ。第一、あたしが欲しい指輪を買うって、さっき約束したばっか
でしょ?」

「お、おぅ…、そ、そうだけどよ」

 納得がいかなそうな竜児の手を亜美は引いた。

「あんたは、どうしても銀座で見たプラチナの指輪のイメージが抜けきっていないようだけど、あんな高額なもの、学生に
は分不相応よ。第一、あたしたちは、自己の存亡を賭けて弁理士試験に挑戦するんでしょ? 受験勉強って、お金が掛
かるものよね? だったら、アクセサリーとかにはあんまりお金を遣わないで、バイト代は弁理士試験を戦い抜くために
温存しとくべきだわ」

 予想外のことを指摘されたのか、竜児が口をぽかんと開けている。未だに、亜美はセレブで、きらびやかで高価な
ものを好むと思い込んでいるのだろう。この点は、今後の教育が必要なようだ。
 亜美は、竜児の手を引いて、その店の中へと入っていった。

 その店は、学生でも無理なく買えるシルバーのアクセサリーが主力商品らしかった。
 その店の指輪のショーケースを前に、亜美は、呻吟しながら、個々の指輪を慎重に見比べた。

「う〜ん、色々あって、正直迷うわね。でも、これかしら…」

 亜美が選んだのは、縦方向と言うか、はまり込む指の方向に対して波打つように歪んでいるシルバーの指輪だった。

「なんか、妙な形だな…。波打ってやがる」

 一目見て、キワモノ扱いしている竜児に亜美は、ちょっと性悪そうに目を細めた淡い笑みを向けた。

「そうね、でも、この形って、最近は結婚指輪とかでも見られるのよ。だから、決して変な形なんかじゃないの。それに…」

 亜美は、手にした指輪の位置をほんの少し変えてみせた。

「この角度で見ると、何かに似てない?」

「何かって、何だよ?」

 訝しげに指輪を見ていた竜児が、「あっ!」という、短い叫びを発し、その頬が、ぴくん、と動いた。

「分かったでしょ? この角度から見ると、数学の無限大の記号にそっくりよね」

 確かに、その指輪は、『∞』の記号に見えなくもない。それを知った竜児が、にやりとした。

「ベタだけど、俺たちの可能性は無限大、俺たちの関係も無限に続く、ってことを言いたいんだな?」

「ご名答。無限の可能性を求めて、まだまだ戦わなくちゃいけないあたしたちには、最高の指輪だわ」

「そうだな…。そういうことなら、この指輪でいいんだな?」

 亜美は無言で、しかし、満足そうに頷いた。
 竜児は、店のスタッフに、この指輪で竜児と亜美に合うサイズのものを出してもらい、試着して着け心地を確認して
から、料金を支払った。

「なんか恥ずかしいな…」

 店を出た二人の左薬指に銀の指輪が光っていた。
 その指に指輪をはめることの意味は、さすがに竜児でも分かっていて、反対したのだが、いつものように亜美に
押し切られた。

「でも、すごく似合ってるじゃない。まるで、若夫婦みたいでさ」

「そ、それが恥ずかしいんだよ…」

 サングラス姿の竜児が、頬を朱に染めている。恥ずかしいとは言いつつも、内心はまんざらでもないらしい。

「ねぇ、この後なんだけど、軽くお茶して、ちょっと、服を見て…」

「そうだな、まぁ、デートも兼ねているんだから、それぐらいしとかないと割が合わねぇな」

「でしょ? で、ショッピングが終わったら、ホテルにチェックイン」


「え? 今、何て言った?!」

 サングラスをデコに押しやっている亜美が、目を細めたお馴染みの性悪笑顔を竜児に向けている。

「ホテルにチェックイン、って言ったのよ。実質的には、本日が、あたしたちの夏休み初日じゃない? それに、揃いの指
輪を買った。これからショッピングやお茶もする。その他にカップルがすべきことと言ったら、もう、決まりきっているわよ」

「で、でもなぁ、ホテルなんていつ予約取ったんだよ? それに、ホテルったって、まさかラブホじゃないよな?」

「大丈夫よ、ちゃんとしたまともなシティホテルだから。そこのダブルを昼間のうちに予約したのよ、インターネットでね。
知ってた? インターネットで予約すると、宿泊料がものすごく安くなるの」

 にこやかに迫る亜美に気圧されて、竜児は額に冷や汗を浮かべている。

「しかし、や、泰子はどうなる? さすがに、今夜ぐらいは俺がちゃんと晩飯を作らねぇと具合が悪い…」

 そうくると思っていた亜美は、あはは! と哄笑した。

「泰子さんなら、あんたが昼寝している間に、電話して了解しているわよ。『亜美ちゃん、竜ちゃんと〜、好きなだけエッチ
してきなよ〜、何せ、一週間以上も離れ離れだったんだから〜』、ですって」

「しかしなぁ…」

 なおも、渋る竜児に、亜美は、表情を引き締めて無言で詰め寄り、キス寸前の状態で向き合った。竜児のサングラス
のレンズに、目元がマジな亜美の顔が映っている。

「あのさぁ。ラブホじゃないちゃんとしたホテルが予約してある、泰子さんの許可も得ている。それに…」

「そ、それに、な、何だよ?」

「女に恥をかかせないで。あんたは優しい、そしてあたしを気遣ってくれている。でも、そうやって気遣ってくれるなら、
あたしの気持ちもちゃんと汲み取ってよ」

 そう言って、ブラウスの胸元のボタンを一つ外し、勝負下着である黒いレースのブラを見せつけた。

「お、おぅ。マ、マジなんだな?」

 その言葉で、亜美は、ふっ、と微笑した。

「そうよ、マジにあたしは、あんたが好きになった。マジだから、あんたと一緒に人生を歩んでいくことを決意した…」

「マジなお前は、正直怖いぜ…。それに、こうまで段取りよく先手を打たれると、正直萎えるな…」

「あら、失礼ね。怖いかどうか、ちゃんと確かめてくれないとダメじゃない。あたしたちは永遠の愛を誓ったんでしょ? 
それに、段取りよく先手を打たれた、って言うけど、あんただって、あたしを謀ってバイトしてたんじゃない。お互い様よ。
だから、今夜は、マジなあたしを、あんたに捧げるから、あんたも、あたしにマジになってよ」

「永遠の愛をマジに捧げるか…」

 今度は、竜児の方が苦笑した。

「な、何よ? 急に笑うなんて気持ち悪いじゃない」

「いや、ちょっと、『指輪』と『永遠の愛』で、ある物語を思い出してさ…」

「何よ、それってトールキンの『指輪物語』?」

「違う、ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』だ」

 頓珍漢な誤答を指摘された亜美がむっとしていたが、竜児は構わず続けた。

「その『ニーベルングの指環』で、男は妻に永遠の愛を誓った。だが、忘れ薬を一服盛られたとはいえ、その誓いを違え
るんだ」

「男が、女を裏切ったってこと?」

 亜美の訝しげな問いに竜児は頷いた。

「まぁ、事情はもうちょっと複雑なんだが、結果的にはそういうことになる。なぜ、そうなったかについては、いろんな解釈
があるだろうが、俺なりに思ったのは…」

 そう言って、竜児もサングラスを取って目の前に迫った亜美の瞳と向き合った。竜児の瞳と、相対している亜美の方が
動揺したのか、その瞳が落ち着きなく彷徨っている。

「ど、どう思ったのよ、あんたは…」

「男女の間柄で、男ってのは、常に全力で女を愛してやらなくちゃいけねぇ。正解かどうかは分からねぇが、俺はそう思う。
記憶がなくなるような薬を一服盛られても何ともないくらいに、男は相方の女を愛さなくちゃいけねぇんだ」

「じゃ、じゃぁ、いいのね?」

「おぅ…、『指環』でジークフリートは妻のブリュンヒルデを不幸にしたが、それは、俺の哲学上、あってはならねぇ…」

 あくまでも、自己を律するような竜児のもの言いに、亜美は苦笑して、その頬を左手で優しく撫でた。

「内罰的な言い方には問題があるけど…、まぁ、いいわ…」

 竜児は、その亜美の左手を取り、その手の甲にキスをした。

「長い夜になりそうだな…」

「でも、思い出に残る、楽しい夜になるわよ…」

「そうだな…」

 そう言って、二人は、指輪を嵌めた左手の掌を合わせた。それぞれの薬指にある指輪は、西日を浴びて、
赤みを帯びた輝きを放っていた。

(終わり)

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Posted by pon 2010年04月26日(月) 14:57:47

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