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227 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2010/11/01(月) 18:50:11 ID:0OY8+B2Q


「私はだれ、あなたはだれ」


およそなんの実感の湧かない我が家にての第一声がこれだった。
「やっちゃん、キレイ好きだったんだ」
「だったら良かったんだけどな」
肩に提げていた荷物を開け、ほとんどが代えの下着類を洗濯カゴへ入れてきた竜児が居間へと踏み入る。
泰子は感心しながら整理整頓が行き届いた流し台や居間を順に眺めていき、これも実感のない自室の襖を開け、苦笑。
「だと思った」
精密検査は思いのほか早く終わった。というよりも、することがなかったというべきか。
あれはなに、そこはどこという至極簡単な応答ではよどみなく正答ができていた。
ペン、花瓶、テレビ。地名や、今居るのが病院だということも、きちんと理解できている。
言葉もはっきりしており、呂律もしっかりしていた。言語に支障をきたしてはいない。
いつもの間延びした、ちょっと子供っぽい口調も健在だった。
だけど、思い出せない。
自分が誰で、どうして病院に運ばれてしまっているのか。
名前もわからなくなってしまった自分を抱きしめた、名前もわからない少年のこともそう。
何も思い出せない。
代わる代わる現れた医師による目まぐるしさを覚えるほどの様々な質問や診察の甲斐もなく、よくわからない、なんだかおっかない機械に全身を収められても、結果は何も変わらなかった。
合間に受けた諸々の治療は拍子抜けしてしまうような軽いものでしかなく、頬にできた擦り傷はすぐに見えなくなり、膨らんでいたこぶも同様だった。
いたって健康そのもので、だから、帰宅許可は案外すんなりと下り。
「おかえり」
肝心の記憶が戻らないまま、数日ぶりに泰子は自宅へと帰ってきた。
「ただいま」
当たり前のその言葉はすぐには口をついて出ることはなく、まだほんの少し、違和感が残る。
服や化粧品が乱雑に散らかっている自室をはじめ、なにもかも見覚えも馴染みもなくなってしまったここが、なんだか他人の家のように感じられて、落ち着かないのが、なんだか辛い。
寂しげにたたずむ泰子の肩に、ぽんと、背後から竜児が手を置いた。
泰子の顔が申し訳なさで歪む。
「ごめんね」
「なに謝ってんだよ。なんもないだろ、謝ることなんて」
「ううん。だって竜ちゃん、学校だって」
今は平日の、まだ日が空で爛々と照っている時間だ。
本来なら学校に行っているところを、竜児はわざわざ欠席していた。
今頃は授業を受けているだろう大河は、朝は一緒に行くと言ってきかなかったが、一人で充分だと竜児は断っていた。
「気にすんなよ、そんなの」
そうは言ってくれるが、そういうわけにはいかない。
「でも、だって」
母親が、お母さんそんなんじゃだめなのだ。
振り返った泰子の目の前にいる、こんなに大きな男の子は自分がお腹を痛めて生んだ、正真正銘のわが子、らしい。
それを聞かされた時のことはまだ鮮明に覚えている。驚いたなんてものではない。
なんとなく親しいような感じはしてはいたが、それでも、そんな関係だったとは思いもよらなかったのだ。
しかしへたり込んでしまった竜児に寄り添い、声を大にして力説する大河からは嘘を言っているような印象は受けなかった。
真剣で、必死に思われた。
なら、この女の子もそうなのだろうか。
柔らかそうな長い髪に人形のような精緻な作りの顔をした、それでいて活発さも感じられる小柄な女の子。
尋ねると、気の強さを如実に物語る吊り目が今は下がり、信じられないという風にこちらを見つめた大河は首を横に振った。
ただ、大雑把な説明によれば、家族同然に接していたという。
大河は他にもいろいろと教えてくれた。
自分の名前。泰子の名前。竜児の名前。
どんな風に暮らしていたか、大河から見た自分はどんな人間だったか。
聞くにつけ、なおのこと悲しくなった。
教えてくれたことの何一つとして覚えていないことが、それ以上に、そのことで二人を悲しませることが。
「いいんだ。俺がいいって言ってんだから」
真面目な顔で正面から合わせられる竜児の視線に、泰子はそれ以上何も言えなくなった。
こくんと頷き、口癖のようにごめんと言いかけ、慌てて訂正する。
「ありがとう」
「おぅ。それよりも疲れたろ、座ってろよ。すぐ昼飯にするから」
「うん」


精一杯の笑顔を浮かべた泰子が畳の上に腰を下ろした。
うーんと伸びをしてから足を崩し、少々むくんでしまった筋肉を揉んで解す。
退院し、病院からの道を歩いて帰ろうと提案したのは竜児だった。
異存を唱えず素直にあとを歩く泰子だったが、想像していたよりもずっと家路は長かった。
それでも文句を言うことはなく、いや、口を開くことさえしなかった。
半歩先を行く竜児は一言も喋らない。だから何も言えなかった。
道すがら、思い出話でもするのだろうかといくらか構えていた泰子は肩透かしをくらい、それに遅れて次第に居心地の悪いような感じを覚える。
どんなに些細なことでも、言葉を交わすことに意味はあるのだ。なのに、なんで口をきいてくれないんだろう。
何か話してくれたなら。それはそれで、何かがきっかけになるかもという淡い期待にはたぶん応えられないと思う。
でも、こんな風に、無言でいられるのはもっと辛い気がする。
こちらから話しかけるのも、どうにも勇気が要った。
への字に引き結んだ口で、睨むような目つきの横顔が怒っているようにも見えて、声をかけづらい。
居心地の悪さがより強くなって、沈みがちな内心を反映するかのように少しずつ歩調が遅れだして、一歩、二歩と距離が開く。
影に目を落としながら泰子が歩いていると何かにぶつかってしまった。
慌てて顔を上げると、そこには竜児がいて、何してるんだと言わんばかりに見下ろしている。
あ、だの、う、だのと声にならない声が喉からもれ出て、わけがわからない。
子供みたいだ。
おずおず見上げた先、特徴的な竜児の瞳に映った自身は、そう喩えて差し支えなかった。
なんとなく、嫌われてるのかもと、重い心で呟く。
だから口をきいてくれない。だからあんな怒ったよう顔で、不機嫌そうなんだ。
そう思った矢先だった。竜児が無言で泰子が持っていた荷物に手を伸ばした。
そのまま黙って受け取ると、元から提げていた荷物と一緒くたにして、空いた手で泰子の手を握った。
そうして、また何も言わずに歩き出す。
力強い足取りに引かれ、嫌われているわけじゃなさそう、といくらか安堵した泰子も黙って歩を進める。
日中にも関わらず吐息がほのかに白かったが、歩く分にはちょうどよく、街中から住宅街に入ると人通りも少なくて静かだった。
結局アパートに着くまでの道すがら、会話は交わされなかった。
繋いだ手が解かれることはなかった。
居心地の悪さは消えていた。
芽生えていたのは、離れないように、放さないように、痛いぐらいに固く繋いだ手から伝わる陽気にも似た暖かさで。
「もうちょっとだけ、歩いててもよかったかなぁ」
思い出すとどうにも表情がにやけそうで、何故だかもったいないような気持ちになる。
とはいえ疲労感もそれなりだ。
徒歩で、しかも途中から荷物は全部任せきりで手ぶらだったというのにこの体たらく。
あまり運動らしい運動はしていなかったらしい。
パンパンに張ってしまったふくらはぎをさする泰子に、背中を向けたまま竜児が声をかける。
「なあ、今なんか言ったか?」
フライパンがじゅうじゅうと音を立て、炒められた具材が踊り、食欲をそそるいい匂いを漂わせている。
誘われるように、立ち上がった泰子が竜児の隣までやってきた。
「気のせいじゃなぁい」
そう言われれば、確かにそんな気がする。
あまり深くは詮索せずにそうかと返す竜児に、泰子が尋ねる。
「ねぇねぇ、なに作ってるの?」
手際よく振られるフライパンを一瞥すれば大体の見当はついたが、それでも。
「炒飯。本当はもうちょっと凝ったもんにしたかったんだけどな」
そのわりには手抜き感はしてこない。慣れた手つきに感嘆する。
興味深そうにまじまじと見つめる泰子に、竜児がくつくつと笑った。
「そんなに腹減ってたのかよ」
「うんと、そんなことぉ、あるけど」
実際空腹だ。見ているだけでよだれが溢れそうで、腹の虫がやんややんやの喝采を上げそうだ。
それはいささか恥ずかしいので、我慢しておく。
「そうだぁ。やっちゃんも手伝おっか? ううん、手伝いたい」
「なら、そっちの棚から皿取ってくれ。ああ、それとインコちゃんにごはんやってくれると助かる」
「は〜い」


何がそんなに楽しいのか、明るい泰子を横目に、竜児は笑みを深くする。
こうしていると、まるで何事もなかったかのようで、ここ数日のことは悪い夢だったんじゃないのかとさえ思ってしまう。
「なぁに?」
そんな竜児に気づき、泰子が棚から取った皿を渡しつつ言った。
受け取り、出来上がったばかりの炒飯を皿に盛っていく竜児は、
「ねぇ、そのぉ、インコちゃんって、なんだっけ」
けれど唐突に、これが現実なのだと突きつけられた。
こんなこと少しでも気を回せばわかっただろうに、ついいつもの調子で頼んでしまい、それ故に後悔するはめになった。
だれ。なに。そうなんだ。
この数日、何度も口にする度に浮かべている表情を、きっと今もしているんだろう。
申し訳なさそうで、苦しそうで、泣きそうな顔を。
そんな顔をさせたくなくて極力気をつけていたつもりが、帰ってきて早々これだ。
竜児が深く静かに息を吐き出す。
「ほら、できたぞ」
つとめて何でもないようにして、先ほどの明るさを少々欠いた泰子を伴い居間へと戻る。
食卓に並んだのは質素倹約の代名詞みたいなものだが、味は胸を張れる。
「おいしそう。竜ちゃん、お料理上手だねぇ」
鼻先まで近づけると柔らかな湯気が顔にかかって、焦がした醤油の芳ばしい香りがまた一段と腹を空かせるようだ。
「こればっかりはな。もう長いことやってるし」
そうなのだろう。見る限り、一朝一夕の腕前でないことは明白で、泰子は内心複雑だった。
家事の一切合切を押し付けてしまっているんじゃないかと薄々勘付いてはいたが、まったくもって的中していたらしい。
いったい自分はどんな母親だったのだろう。
まさか育児放棄でもしていたんじゃ。
「どうしたんだよ、んな難しい顔してよ」
どうやら表情に出てしまっていたようだ。
どんなお母さんだった? なんて聞くのは、容易だけど困難で、目の前にはほんのり湯気を昇らせる、せっかくのおいしそうな炒飯がある。
温かいうちに食べたいし、重い雰囲気にしてしまうのも恐くて、泰子は首を横に振った。
「なんでもないの。早く食べよ」
「おぅ。おっと、そうだった」
と、なにやら思い出したようで、竜児が一度立ち上がった。
なんだろうと泰子が首を巡らせてその背を追うと、台所から小皿を手に竜児が戻ってきて、背後を通り過ぎていった。
「遅くなってごめんなあインコちゃん。お腹減っただろ」
部屋の隅に掛けてあったカゴからシートを取り払うとくぐもった声がする。
「ああ〜。インコちゃんって、その子のことだったんだ」
泰子が納得顔になる。
見てみれば、カゴの中には小皿によそわれたごはんをはぐはぐむぐむぐ凄い勢いで啄ばむ小鳥がいた。
しげしげとこちらが様子を窺っていることに気がつき、やや興奮したように鳴き声を上げる。
「お、おかか、おかえ、おかえり、おかえり」
「おお、すごいぞインコちゃん、ちゃんとおかえりが言えるなんて」
気を良くした竜児がインコちゃんの頭を撫でてやると、嬉しそうにぐえっぐえ鳴く。
ひとしきり愛鳥を褒めてから竜児は泰子の対面に座った。
「かわいいねぇ」
「だろ。なんせ我が家のアイドルだからな」
「それにお話できるなんてすごいね。教えてあげたの?」
「いや、あれは特別俺が教えたわけじゃないんだけどなあ」
頭が良いらしい。個性的な容姿も含め、なかなかに可愛らしい。
「まあ、インコちゃんも喜んでるんだろ、おかえりってさ」
「そっか。竜ちゃんが言うんならそうなんだよね、きっと。ただいま〜、インコちゃん」
お返事をしているのだろうか。カゴが微妙に揺れるほど翼をはためかせ、高く長い奇声を上げている。
機会があったら今度はちゃんとごはんを持っていってあげよう。
話し相手にもなってくれるかもしれない。
「そんじゃ、そろそろ食おうぜ。冷めちまう」
言うと、竜児はさっさと食事にありついた。
それを見た泰子も手を合わせる。
「いただきまぁす」
久方ぶりの病院食以外の食事であり、初めての自宅での食事は新鮮で、微かに懐かしいような味がした。
目を見張るような大げさなものではないが、とてもおいしい。
「おいしい」


素直に言葉にすると、竜児が鷹揚に頷いて、どこか誇らしそうで嬉しそうで、もっとおいしくなる。
箸が進む。舌鼓が止まらない。
こんなことになる前はこれが当たり前で、毎日こんなおいしいごはんを食べていたのかと思うと贅沢な気持ちになった。
たった数日前からぷつりと途切れた幸せが、おいしいおいしいと口いっぱいに頬張ると戻ってくるような気がして、すぐに飲み込んでしまうのがもったいなくって、でも苦しくて。
しきりに顎を動かして、詰まりそうな喉で嚥下して、膨らんだ頬がだんだんしぼむ。
「おいしい。すっごくおいしい。ほんとだよ。ほんとにおいしい」
それもまたすぐに膨らんだ。息をつくのも惜しむようだ。
あんまりにもおいしくて、おいしすぎて、やがて視界がぼやけてきた。
何で忘れてしまったんだろう。どうして思い出せないんだろう。
おいしくて幸せなはずなのにそんなもやもやが積もっていく。
晴らそうと躍起になればなるほど余計にもやもやが厚くなっていって、胸の底、沈んでいったそれが淀んでしまう。
「ゆっくりでいいんだ」
言い聞かせるように竜児が言った。
「ゆっくりでいい。焦んなくっていい」
嘘みたいに心が晴れたということはなかったが、泰子が小さく頷き、言われたとおりにゆっくりと飲み下していく。
初めて食べたのに懐かしい味がする炒飯は、少しだけしょっぱかった。
                    ***
異変というほど大げさなものでもない。しかし些細な違和感を感じ取ったのは、やはり実乃梨だった。
その日、大橋高校のとある教室はひどく静かだった。
先日のこと、竜児と大河が同時に欠席したときよりもなお静けさで満ちている。
そんな静けさの中心に大河はいた。
登校してからというもの、大河はほとんど誰とも口をきいていない。面白半分、もう半分は彼女は頑として認めないだろうが、心配からいつものように憎まれ口を叩く亜美を睨むことすらせず、ただ黙ってそこに座っていた。
唯一実乃梨とだけは一言二言、簡単に言葉を交わしはしたが、それも内容のあるものではない。
誰もが竜児の不在と関係があるのだろうと当たりをつけてはいたが、ただならぬ大河の様子に、誰も核心を突こうとはしなかった。
四六時中重苦しい雰囲気がたち込めている。
発生源は、当然大河だった。
苛立ちを辺り構わず放つのならばまだわかる。気性の荒さは周知の事実であり、藪をつつけば虎が顔を出すのは級友たちの間ではもはや常識ですらあった。
その虎を宥めることのできる数少ない人間である彼が傍にいなくて、それで彼女が不機嫌であるならば、なんと単純明快だったことか。
だが、そうではない。そうではないと誰もが思っていた。
不機嫌だから、苛立っているからといって、大河が大人しくなどなるはずがない。
曲がりなりにもこれまで同じ空間を共有し、同じ時間を過ごしてきたのだ、その程度はわかる。
それに、フォローする者がいないままドジを重ねて、その都度無感動にたたずむ大河は、誰の目にも痛々しかった。
喜怒哀楽に当てはめれば、断然怒りではなく、哀しんでいるように見えて仕方がない。
昼休みに入って、ようやく見かねた者がいた。北村だ。
孤立してしまったみたいにぽつんと自席に座ったままでいる大河の下へ歩んでいこうとして、しかし間に人影が割り込む。
北村を阻んだのは亜美だった。その横をすり抜けて、実乃梨が大河の横に立った。
「どおしたよぉ? 揉め事か?」
おどけた口調に返事はこない。臆せず実乃梨は続けた。
「そういや、さっきも階段とこで転んでたっけね? 私ゃまた心配しちまったぜ? またべそ掻いて泣いてんじゃねえかと思ってよぉ」
肩に腕を回し、常ならばさすがにしないような人を小ばかにした態度。
亜美に倣って、いくぶん度の過ぎた絡み方をしてみる。効果は皆無だった。
「なんでもないの」
大河はか細い声で言って、実乃梨の腕を力なく払いのけた。
いよいよ実乃梨からも作り笑いが消える。
「本当、どうしたんだよ、大河」
ゆっくり大河の目の前へと回り込んだ。俯き加減な彼女を見下ろす実乃梨は、そこから動こうとしない。
しばしそうしていたが、いたずらに時間が流れることを実乃梨はよしとしなかった。おもむろに大河の頬に両手を添えて上向かせる。


そこで違和感を感じた。
手のひらに触れる大河がなにやら細く思われる。熱も少し低めなように思う。
よくよく注意して見れば目元にはうっすら影ができてしまっていて、顔色もちょっと悪い。
「ねえ。ごはん、食べてないんじゃない」
日頃ダイエット戦士を自称する実乃梨でなくとも、大河のやつれ具合には気がいっただろう。
しかし、実乃梨の頭の中にあったのはそれだけではなかった。
大河の食生活はよく知っている。
半年ほど前まではそれはもう酷い有様だったが、今はだいぶ改善されていたはずだ。
この場にいない竜児のおかげで、でも、事実この手に感じる大河はその酷い有様だった頃と比べてもさらに酷そうだ。
実乃梨の予感は的中していた。
大河は今日の昼食も用意していなければ、今朝も、それに昨夜だってろくに食事をとっていない。
「ううん。そんなことないよ」
嘘だ。
見抜くのは容易かった。けれど指摘することは憚られた。
どうせ押し問答になるのは目に見えている。
原因が大河の食生活を一手に担っているはずの、最近元気のなさそうだった竜児にあるのだろうというのはわかるが、聞いても大河は言ってくれそうにはない。少なくとも今は。
いったい何があったのだろうか。
そこまで言いづらい訳だったらと考えると、人目の多い教室だと余計に口を噤んでしまうだろう。
知られたくないことを無理強いして言わせても、もっと塞ぎこまれるかもしれないし、第一そんなことしたくはない。
だったら今は、近づき方を変えるとしよう。
「大河、お昼まだでしょ」
包み込んだ両手の中、一瞬なんのことだと目を丸くした大河だが、壁に掛かる時計が視界に入ると、もうそんな時間だったのかと思いつつ、こくりとわずかに首を振る。
「そっか。じゃあさ、お願いがあんだけど、いいかい」
パッと大河から手を離し、実乃梨はその手を今度は自分の腰に持っていき、抓むような仕草。
「この頃一段と寒くなってきたからか、こいつが蓄えちゃうんだよねえいろいろと」
ぷにぷに。もみもみ。
制服の上から人差し指と親指を引っ付き合わせたり離したりを繰り返し、残念ながら残念でしたねとでも言われたような、悔しそうな顔を作る。
「こいつはダイエッターには見過ごせない事態だよ」
「だからなに?」
痺れを切らした大河に、実乃梨がやわらかく微笑んだ。
「私のおべんと、食べてよ」
言うが早いか、実乃梨がだだだっと駆け足で自分の机から提げていたバッグを引っ掴むと、大河の前の席を拝借し、腰を落ち着けた。
「いやぁ〜助かっちゃった。ほんとこれどうしたもんかと困ってたんだよねえ。捨てんのもあれだし」
手早く包みから取り出した弁当箱は女の子らしい控えめな大きさだった。
それを実乃梨は大河の机で広げ、準備完了、いつでも召しあがれと腕を広げる。
開いた口がふさがらないのは大河だった。
いまいち要領を得ないと、実乃梨と弁当箱とを交互に見やる。
「みのりん、あの」
「ん。どしたい」
やっぱり悪いからいいよ。その言葉をかき消して、きゅうと何かが囀った。
体は正直なもので、じわじわ大河の血色が良くなっていく。
「あ、あ、あ。今のは」
「大河」
わたわたふためく大河を、実乃梨はしっかりと見据える。
「ありがとね。私のことに付き合ってくれて」
十秒ほどの間を空けて、羞恥と緊張で硬直しかけた大河の表情がくしゃっとしわくちゃになる。
照れ交じりに鼻先を掻いた実乃梨がくししと笑った。
「ほらほら早くそれ食べちゃっておくれよ。これじゃ拷問だよ」
促すと、大河は聞き取れないほど小さな声で何事か唱え、差し出された弁当を静かに食べ始めた。
ごめんね。そう聞こえたような、聞こえなかったような。
もし本当にごめんねと言っていたのなら、そのごめんねは、どんなごめんねだったんだろう。
実乃梨はそれについて深く考えることはしないで、黙って大河を見つめていた。
二人のその様子を先ほどから少し離れた位置で見守っていた者たちがいた。
「あんたにあんな風にできた?」
「断言してもいい。むりだ」
張り合いのない大河に調子の狂う思いでいた亜美と、その亜美に大人しくしていろと言われた北村だ。
二人の視線の先、大河はぽちぽちと実乃梨の弁当を食べている。食事をとれているのなら、一先ずは、一安心といったところか。


隣の北村に気づかれぬよう表面上なんでもないようを繕いながら亜美が胸をなでおろす。
こういうことは真面目が取り柄の幼馴染よりも、万事抜けることなく気を回すことができ、相手からしてもあまり気を遣わないような人物が適任だ。
できないことはないかもしれないが、やはり自分にはそういう役回りは不似合いだと判断した亜美は、同じく始終大河を気にかけていた実乃梨に大河を任せた。
結果としては微々たるものだが、今のところ実乃梨の優しいおせっかいはプラスに働いているように思う。
にしてもだ。彼女のあの落ち込みようはいったいぜんたいどうしたことか。
それにここ数日の竜児もどこかおかしい。大河と一緒に欠席した日からだろうか、心ここにあらずという体で、まるで地に足がついていない感じがする。それも併せて気にかかる。
今日にいたっては欠席までしているし、その途端大河がこれだ。
「ねえ、祐作はなんか聞いてないわけ」
「なにがだ」
「高須くんのこと。最近調子悪そうだから」
わからんと素で返す北村に、そっ、と素っ気なく返した。
言い方は悪いがあまり期待はしていない。
何か事情を知っていれば北村のことだ、言えないようなことで、言わないようにしていても態度には出てしまう。
はぐらかそうとしているにしてもこの堅物が自分を煙に撒けるような人間でないことは重々承知しているし、平気で嘘をつくような性格をしてもいない。
これ以上こうしていてもしょうがないかと、亜美は身を翻した。
そうして教室から出ていこうとして、しかしその足が止まる。
逡巡するようなそぶりをして、そして亜美はまた北村の傍に戻ってきた。
「祐作。それ、まだ開けてないわよね」
細く白い指先で差したのは北村が握るアイスティーのボトルだ。
二本あるのは、もう一本は大河に渡すために買っていたのだ。それを渡してから話を聞こうというつもりだったのだが、結局渡しそびれたままだった。
「いらないんならちょうだいよ。てか、二本もいらないでしょ」
ずいっと手を伸ばす亜美に、北村はああと頷き、二本ともを譲った。
「あのさ、べつに一本でも」
それ以上何か言おうとする前に亜美に下手くそな目配せをし、それからポンと北村は彼女の背を押した。
その目配せの含むところを理解した亜美は、意外にも気の利いたことをしてみせた北村の意を汲み、勢いをとめることなく素直に歩いていく。
「ひゃっ」
突然首筋にあてがわれた物体のその冷たさに、大河が仰け反り素っ頓狂な声を上げた。
「なんだ、けっこう元気そうじゃん」
にやにやとした笑みを貼り付けた亜美は、口にしていたものが喉に詰まってしまいけふけふ咽ている大河の横の席にどっかと腰を下ろす。
実乃梨がいきなりどうしたのだろうかとじろじろ見ていたが、亜美の手にあるボトルに気がつくと、得心しふふっとこぼした。
そんな実乃梨のことはわざと意識の外にやり、亜美は大河の呼吸が落ち着くまで待つ。
「なにすんのよ」
じとりと大河が視線をめぐらす。ふむと亜美はむくれ気味な顔を覗きこんだ。
心もち、顔色は良くなったようだ。普段の威勢のよさはまだなりを潜めてはいるが、無視しなくなっただけでも上々としておこう。
嫌がらせしてきたかと思えば人のことを穴が空くまで見ているわけのわからない亜美に、沸々と血圧を上昇させられていく大河はキッと吊り上げた瞳を向ける。
「だ、か、ら。なにすんのよって聞いてんのよ」
「ごめーん。なんか辛気臭いからうざったくって、つい」
そんな大河のことなぞどこ吹く風。亜美は殊更にいやらしく言ってのけた。
鼻持ちならない憎たらしさに、思わず大河が席を立とうとしたときである。
「ああ、そうそう。ほらよ」
北村から託されたアイスティー。
それを亜美は大河にふわりと軽く投げよこす。
中途半端に浮いたお尻をぺたりと椅子に乗せ、落っことしそうなおっかない手つきでお手玉をする大河は、やっと両手でボトルを捕まえた。
「なによこれ」
キャッチしたボトルを手の中でころころ転がしながら見てみる。
そこの踊り場に設置してある自販機で買える、ただのアイスティーだ。
「あげる」
あらぬ方向に向けた顔で、投げやりに聞こえるような感じでぽしょりと亜美は言った。
大河が目を丸くした。


「ばかちーがなんかくれるなんて、気味悪い」
いつもどおりのあまりにもあんまりな言い草に、そりゃむかっ腹は立った。
立ったが、おくびにも出さないでもう一本、北村から受け取ったボトルを開ける。
ほんの少しだけ、いつもどおりの大河に安心している自分を見つけて、それだけで充分だった。
と、それまでさてどうするのやらと面白そうににこにこ眺めていた実乃梨が割って入った。
「あーみんはやさしいのう」
「でしょ? 亜美ちゃん超かわいい上に超やさしいから。もう完璧すぎてまさに女神のごとくだから」
実乃梨の言葉にあたりきしゃりきとばかり得意満面笑んでみせ、これ見よがしに胸まで張る。
そんな亜美が気に入らないながらも、でも、そこまで嫌な気持ちにもならなかったのは、気持ちの深い部分では大河もなにかを感じとったのかもしれない。
「言ってなさいよ。このばかばかちー」
口にしたアイスティーはほのかに甘かった。喉を流れ、鼻腔から抜ける茶葉の香りが頭をすっきりさせていく。
胸に沈んでいたものを乗せるように、ほうっと深い息をつく。
知らず知らずのうちに張り詰めていた心がたしかに安らいでいくのを感じて、大河は二人の存在に感謝したが、だからこそ、黙っていなければならないことが一層辛くなる。
実乃梨も亜美も、きっと本音では何があったのか気にしているだろう。でも、今は何も言わずにいてくれている。
いつもどおりでいられるように。
心苦しさでいっぱいになった。
それでも竜児が自分で打ち明けていないことを、竜児の目がないところで勝手に誰かに教えてしまうのは間違っている。
だけど。
大河はぐっと歯を噛みしめ、堪えた。
降って湧いた、いっそのことすべてを話して、助力を仰ぎたいという考え。
そんなことでどうする。そんなことをしていったい何になる。
竜児のママが記憶喪失なのと、そう言って、それで。そこからのことはこれっぽっちも進みはしない。
泰子のこと。治すことが仕事である医者が何もできずじまいで、家族ですらない自分たちにはたして何ができるのか。
結論はわかりきっていた。なにもできない。
ましてや現実感すらあまりないような難病だ。信じさせることだけでだって多少なりと時間が必要だろうし、目の当たりにしていないなら尚更のことだ。
しかしながら、そもそもからして泰子と接点のない二人であり、こちらに関しては然程気を揉むことはないだろうと大河は思った。
問題は、竜児のこと。大方の事情を理解している大河でさえ接し方を慎重に選んでいる今、その事実を唐突に突きつけられた形の二人がその後取る行動に、大河は責任をもてない。
もちろん実乃梨だって亜美だって、浅はかなことをしたりはしないはずである。
でも、それを竜児がどう思うかは竜児しだいだが、なんとなく良いようには思われないだろう気がしてならない。


今朝だってそうだった。さらに言うならば、もっと前からも。
退院の日取りは事前に聞いていた。今日の午前中だ。
竜児は無論のこと、大河も泰子のことを迎えに行くつもりでいた。それをすることは当然のことだと大河自身は思っていた。
竜児はそうではなかった。
なにもおまえがそこまですることはないと遠慮して、なおも食い下がる大河の同行を頑として受けつけなかった。
単位だの出席日数だの、他諸々の評価なんて大河にとっては歯牙にもかけないようなどうでもいいことではあったが、最終的に折れたのは大河であり、彼女は渋々竜児の言うことを聞いた。
甚だ的は外れていながら、それが純然たる優しさからくるものであることはわかっていたからだ。
だから、大河はそれ以上なにも言うことなく、飛び出すような勢いで高須家をあとにした。
朝食と、それに弁当がどうだのという竜児の声はあえて聞かないふりをした。顔を合わせたままでいると怒りだしてしまいそうで、嫌だった。
通学路。早朝独特の痛いくらいに澄んだ寒さが身に沁みる。空虚な感情と空腹に泣き虫な腹の虫は後悔を訴えるが、無理やり黙らせる。
途中のコンビニで簡単にすませようと何度自分に言い聞かせ、何軒素通りしただろう。
食欲はないこともなかったが、それすらも億劫だった。
いや、そんな味気のないものに魅力を感じなかったからという方がまだ正しいか。
ここ最近竜児は泰子に付きっきりでいた。大河も時間の許す限りは竜児と共に見舞いに訪れてはいたが、毎日となると難しい。
その上、あのわからず屋はさっきみたいなことを言うのだ。もう暗いからとか、先に休んでろとか、こちらを案じる言葉を添えて。
疲れているのはよほど竜児の方だろうに。
そんな竜児を置いて一人帰るわけにはいかなかったが、だけど決まって最後は押しきられる。
昨夜もそうであり、そうなると竜児と一緒に食事をする機会もなく、間に合わせのものを口にする気はさらさら起きてこない。
おかげでここしばらく、まともな食事にありつけないでいることが多い。
自分以外誰も居ないマンションの一室は殺風景で冷たく、することだって何もなく、したいことだってなく、張りつくような疲労からも逃れるように、帰ったらただ眠りについた。
まどろみの中、竜児が帰宅すればすぐにわかった。夜も深い時刻になっておしかけ、余計な手間をかけさせることなんてできなかったため、足の遅い睡魔がやってくるまで窓からもれる明かりを眺める。
そうしている間だけは、どこかが空っぽになっていることを誤魔化していられた。
でも、明かりはじきに消える。そうなるともう誤魔化しきれない。
広がる暗がりで。誰もいない部屋で。隣に歩く者のいない通学路で。竜児のいない教室で。
役立たず。空っぽなどこかから染み出してくるその言葉が、まるで所詮そんなものだと思い知らせるかのように木霊する。
竜児のことを支えてあげたい。なんでも受け止めてあげたい。ちょっとでいいから力になりたい。
そんなの全部できないかもしれないけど、でも。
せめてこんなときぐらい、もっと頼ってほしかった。
いつか虎と竜は並び立つものだと自分に教えた張本人はその実、差し伸べる手のことごとくを取らずにどんどん一人で行ってしまう。


並び立つということは、対等であるということではなかったのか。なのに実際にはこの関係はあまりに一方的なものであり、それどころかおまえなんて必要ないと、今やそれに等しいほどだ。
少なくとも大河にはそう感じられてならないし、不可視の壁でもはさんだように遠くにある竜児がとことん不安定なように見える。
脆い足場で強引に踏ん張り、すぐにも倒れそうな危うさを隠すのは、偏に、背負った泰子のため。
無理をしているのは誰の目にだってあきらかで、何故一番近くにいるはずの泰子が気づかないでいるのか大河には理解できなかった。
記憶なんてなくても、それとなくわかって然るべきだろうに。
ぶつけどころがなくて膨れ上がった不満が、見当外れにもほどがある方向に矛先を向けていることに気がつくと今度はそれが何より腹立たしく、大河は自分でももうどうしたらいいのかわからなかった。
泰子のせいでは断じてない。もちろん竜児のせいなんかじゃない。結局誰のせいでもありはしない。
何もさせてもらえない役立たずの小さな自分。頼ってももらえないその非力さ無力が、どうしようもなく苛むのだ。
竜児にとっての自分の存在価値が希薄なようで。泰子からしたら会ったばかりの頃の赤の他人に戻ってしまって。
家族の輪から除かれてしまったようで、ただ、悲しかった。
不意に突き出されたのはハンカチだった。ごく淡い藍の生地に百合の白い花弁が刺繍された落ち着いた風合いのもので、宙に浮いたまま眼前で静止している。
「使いな、これ」
「え」
縦にゆらゆら振られたハンカチは、どうも下を見ろというジェスチャーらしい。
緩やかな動作で胸元に目を向ければ、水滴が制服の上で筋を作っていたり、雫になっていたり。
シャツには薄茶色の染みが広がっているところであり、そこで大河はやっと何が起きていたのかを把握した。
「ドジねえ、あんた」
亜美が呆れ顔という他にはなんとも喩えようのない表情を浮かべている。
大河は中身が半分以下になってしまったアイスティーのボトルを置いて、実乃梨からハンカチを受け取った。
「これ、ちゃんと洗って返すね」
ゴシゴシと力任せにあちこち拭きながらそう言うと、実乃梨は顔の前で手を振った。
「いいよいいよ。それよりも大河。ここ、こーこ」
そのまま人差し指だけを立てると、それを唇の端にもってくる。
そんな感触はしなかったが、口元まで濡れていたのか。
こぼしてしまっただけでも恥ずかしいというのに、まさかボトルに口をつけたままこぼしていただなんて、そんな間抜けな様を想像するともう火が点きそうだった。
いそいそと大河が口元を拭っていると、
「あー、まだだね。もちっと上」
実乃梨はさっきよりも少しだけ上の方を指す。
ほとんどほっぺたであったが、大河は疑うことなくハンカチを当てる。
すると実乃梨はわかってないという風に顔をしかめた。
「違うよ、もっと上だってば」
「まだなの?」
大河も不思議に思い始めた。これよりも上となると、鼻の位置よりも高くなってしまう。
さすがにそんなところにかかってしまうほど大げさにこぼしたことはないだろうし、下ならともかく、口よりも上に飲み物を持ってくるだろうか。
「まだまだだよ。どれ、貸してみ」
実乃梨は大河からハンカチを取ると、一度折り目を裏返し、皺を伸ばすようにぱんぱんとはたく。
それからそのハンカチを大河のおとがいからそっと沿わせ、口元、頬と、徐々に上らせていく。
大人しくされるがままでいた大河だったが、その視界が突如暗くなった。ハンカチで覆われたのだ。
押し当てられているようで、実乃梨の手の温もりがほのかに伝わってきて、じんわり暖かい。
「だめじゃんか、しっかり拭いとかなきゃ」
目は見えない。でも、だから目には見えない実乃梨の優しさが、普段よりもずっと身近に感じられて。
「ほんと、ドジなんだから」
見ないフリをしてくれているのだろう亜美の茶化すような口ぶりが、決壊寸前のものを寸でのところで堰きとめてくれて。
淡い藍のハンカチが次々に濃い水玉を浮かべる。点々としていたそれがいつしか繋がり、広がって、吸いきれずに染み出てきたものが、実乃梨の手のひらを熱く濡らしていく。
いまこの一時だけは何もかも忘れて、大河は声を殺して泣いた。


237 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2010/11/01(月) 19:00:27 ID:0OY8+B2Q
おしまい
ずっと言いそびれてましたが補完庫管理人さん、タイトルをつけていただきありがとうございました。
素敵です。

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゚・*:.。..。.:*・゜(*´∀`)。. .。.:*・゜゚・*

・・・・・・目次のための私益なのです。

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