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8 聖夜の狂詩曲 SL66 ◆5CEH.ajqr6 sage 2010/01/11(月) 00:26:18 ID:GitLwFcl








「美由紀ちゃんって、本当に可愛い〜。私もこんな子が欲しいよぉ」

 麻耶が、眠りこけて人形のように動かない美由紀を膝の上に乗せて、その頬を、ちょんちょんと突いていた。
 そのすぐ脇では、酔っぱらった北村すみれが豪快ないびきをかいて寝入っている。

「麻耶ちゃん、欲しいたって、物じゃないんだから、自分の子供は自分で産んで育てなさいよ。欲しがったって、はいそう
ですか、ってあげられる訳ねぇっつうの」

「いやん、産みたいけど、仕事忙しいし、お産は痛そうだし…。出来のいい子なら、産まずにもらった方がいいなぁ〜」

 麻耶は冗談のつもりらしかったが、ちょっとばかり目がマジだった。亜美も、顔は笑っているように見えるが、内心は
穏やかではないのか、こめかみに青筋が、見え隠れしている。

「とにかく、この子は、高須王国の後継者なんだから、麻耶ちゃんは、自分のお腹を痛めて、自分の子を産みなさい」

「いやぁよ、もう、マル高だし…。それに出産って、鼻からスイカを出すくらい痛いっていうじゃん」

「ばっかじゃねぇの? お産がそんなに痛かったから、とっくの昔に人類は滅亡してるわよ。とにかく、案ずるより産むが
易しよ。我が子が生まれた瞬間には、痛みなんか全部吹っ飛ぶほどの幸福を感じるからさぁ」

 本気か冗談か判然とし難い女同士の言い合いが続いている。

「まぁ、その何だ…。男には理解不能な会話だな…」

 北村が、居心地悪そうに肩をすくめている。すみれが意識不明で本当によかった。そうでなかったら、話が更に
ややこしくなっただろう。

「そう言えば、息子の祐太くんはどうしたんだ? 未だ、二歳児だよな」

 竜児の指摘に、北村は渋面のまま頷いた。

「実は、ここへ連れて来ることも出来ないから、幸太のところに預けてきたんだ。あそこは、五人も子供が居るからな。
さくらによると、一人くらい増えたってどうってことはないらしい」

「さくらか…、学生時代は、可愛いが、ほわぁ〜んとした感じの娘だったが、今や肝っ玉母さんだよな。見直したよ」

「さくらちゃんって、そんな風になってたのか…。人ってのは本質的な部分は変わらないが、時が経つと意外な面が現れ
るもんなんだな…」

「「たしかになぁ…」」

 能登の言葉に竜児と北村は深く頷いた。そう言えば、三人と同級生だった春田は、結局、瀬奈さんと結婚し、家業を
継いでいた。相変わらずのアホぶりらしいが、猿でも訓練すれば芸を覚えるように、社長業もそれなりに頑張っているら
しい。ただし、それもお目付け役である会長、つまり春田の父親の目が光っているためであろう。

「今日は来てくれなかったけど、香椎は、今や、キー局の看板アナだからな。それも、タレント的な女子アナじゃなくて、
科学番組や時代劇のナレーターもこなす、アナウンスの職人だ。香椎とは、あんまり話す機会がなかったから、これには
ちょっとびっくりだな」

 竜児が感慨深げに言うと、北村が「そうだな…」と応じた。


「いつぞや、テレビで香椎が安奈さんに対談形式でのインタビューをしていたな。安奈さんは相変わらず美しかったが、
香椎がもの凄く綺麗になっていて驚いたよ。それに、大女優に対して、一歩も引かずにインタビューしている。声に張り
があって、美しい。あいつは、本物のプロのアナウンサーだな」

「どんな番組だったんだ?」

 能登の問いに北村は、「う〜ん」と、目線を上に向けて、その番組の内容を思い出そうとし、それから、合点がいったか
のように、「うん、うん」と呟いた。

「何でも、『家族』ってテーマだったな。安奈さんが老舗料亭の女将で、母親っていう設定の役を演じるんで、安奈さん
の家族観を伺うっていう番組だったよ」

 竜児は思わず苦笑した。

「その番組、うちの女王様には見せられないな。想像だけど、『私にも娘が居ますけど、未だに反抗期っていうんでしょう
か、私の意に反して、役者にはならずに、今は法律関係の仕事をしています。本当に困ったもんですわね』とか、言って
たんじゃないか?」

 北村は苦笑しながら、「当たり…」と呟くように言った。

「やっぱりな…。休戦協定っていうか、美由紀が生まれたら、お袋さんも態度を軟化させたんだよ。だが、どうも敵は美由
紀を歌手か女優に仕立て上げたいらしい。その意図を亜美も感付いているから、最近は、また美由紀のことでピリピリ
してるんだ」

「母親は、我が子のことになると神経質になるからなぁ…」

 能登は竜児とともに、北村の何気ないコメントをじっと聞いていたが、美由紀がぐっすりと寝入っているらしいことを
横目で確認すると、竜児に向き直った。

「その美由紀ちゃんのことで、話があるんだ」

「どうしたんだ、いきなりあらたまって、養子縁組だったら、俺もお断りだぞ」

 能登は苦笑しながら、「違うよ」と、かぶりを振った。

「実はな、美由紀ちゃんの学校と言うか、美由紀ちゃんの担任がらみで、何か変わったことはなかったか?」

「担任って、学校の先生のことか? それがどうかしたのか? 正直、特にはないようだが…」

「じゃぁ、高須には全然心当たりがないんだな?」

 竜児が、「お、おぅ…」と、訳が分からず曖昧に相槌を打つと、能登は亜美を呼ばわった。

「亜美たん! 女同士のトークを楽しんでいるところを申し訳ないが、亜美たんは、美由紀ちゃんと、彼女の担任との間
で何か変わったことに気付いていないか?」

「へっ?」

 亜美の方も、能登の質問の意味がよく分からないのか、麻耶との会話を中断して、素っ頓狂な声で返事をしてきた。

「へっ! ってことは、亜美たんも全然心当たりがないんだな?」

「べ、別におかしなところはなかったわよ。強いて言えば、今日、終業式から帰ってきた時から、変におどおどしていた
くらいかしらね」

「そうか…」

 そう呟いた能登は、「う〜ん、どう切り出そうかな…」と呻きながら、天井を見上げるように上目遣いをした。

「切り出す、ってどういうことだ? そんなに言いにくいことなのか?」

 竜児が、いよいよ能登の言わんとすることを計り兼ねてか、心持ち眉をひそめている。能登は、ちょっと困ったような
表情で、その竜児の方に向いた。

「いや、言いにくくはないが、にわかには信じてもらえないかもって、思ったのさ。何しろ、美由紀ちゃんに類似した事例を
取材した俺でさえ、未だに納得がいかないんだからな」

「勿体ぶらずに教えてくれ。新聞記者であるお前が見聞きした事例に、今の美由紀が当てはまるなら、なおさら聞かな
きゃならん」

 亜美も竜児の発言に頷き、夫とともに、能登の次の言葉を待った。

「よし、単刀直入に言うぞ。だが、呆れたり、驚いたりしないでくれ」

「相当に荒唐無稽な話みたいだが、そんな風に予防線を張られちゃ、聞かない訳にもいかんだろ?」

 能登は、竜児と亜美の目を、見比べるように窺ってから、本題を述べ始めた。

「美由紀ちゃんは、担任にいじめられている。それも、徹底的に憎悪され、敵視されている。このままだと、美由紀ちゃん
は、よくて鬱病、悪くすると自殺にまで追い込まれるおそれだってあり得る」

「お、おい! 冗談にもほどがあるぞ。教師が特定の児童を目の敵にするなんて、道義上あり得んだろ? それに、鬱病
とか、自殺とか、荒唐無稽もいいところだ」

「そうよ、美由紀は問題児じゃないし、成績だって悪くない。そんな子が先生にいじめられるなんて、信じられないわ」

 竜児と亜美の反応はもっともだというように、能登はいくぶんは渋い表情で頷き、同意を求めるように麻耶へと視線
を移した。麻耶も、能登の意思を感じ取ったのか、美由紀を膝の上に乗せたまま、竜児と亜美に向き直った。

「高須くんも、亜美ちゃんも、うちの旦那の言うことが信じられないのは無理もない…。私らだって、駅前で真っ青になっ
て震えていた美由紀ちゃんに出くわさなかったら、多分、気付かなかったでしょうね。その美由紀ちゃんの様子があまり
にも異常だったから、久光が取材の時みたいに、美由紀ちゃんから話を聞き出したのよ」

「真っ青になって震えていた? 麻耶ちゃん、それどういうこと?!」

 思わず叫んでしまった亜美を、麻耶は口唇に人差し指をあてがい、「し…」とたしなめた。

「こんなことを話している時に、美由紀ちゃんを起こす訳にはいかないでしょ? でも、亜美ちゃんがびっくりするのも
無理ないわね。だって、駅からここへ来る途中、美由紀ちゃん本人から聞かされた私たちだって、未だ納得がいかない
んだから、でも…」

「でも…、マジなんだな?」

 目を丸くして驚く竜児と亜美に、能登は「マジなんだ…」と告げ、麻耶は無言で頷いた。

「割り込んで済まないが、具体的には、美由紀ちゃんはどんな仕打ちを、その担任から受けているんだ?」

 当事者でないからだが、北村が、落ち着いた口調で能登に尋ねてきた。場を仕切るというか、イニシャティブを取るということにかけては、元生徒会長だけあって、一日の長がある。

「それは美由紀ちゃん本人から聞き出せなかったが、取材した事例と全く同じだろう。その事例では、ある児童が担任
に対して、『先生が日本や日本人を悪く言うのはおかしい』って抗議したんだ、そうしたら、その日以来、何をやっても
先生に認めてもらえなくなった。オール五だった通知表には一と二ばかりが並び、授業では、あらぬ難癖をつけられて、
しょっちゅう叱られるという有様だ」

「担任教師が反日教育をやっていたんだな?」

 北村の指摘に、能登が「ああ…」と応じた。

「そうなんだ。その子の担任は、日頃から公然と日本と日本人を悪く言っていた。例えば、日本人は、第二次大戦で、
アジア各地に攻め込んで、悪行の限りを尽くしたとか吹き込んでいたらしい」

 能登の話に、北村は、我が意を得たりといった風情で「なるほど…」と呟いた。

「ど、どうなってるんだ? 俺や亜美は未だ理解不能だぞ」

「まぁ、大先生は文科省の役人だからな。本来は、宇宙開発担当でも、噂は色々と耳に入って来るんだろう。しかし、そう
でない高須や亜美たんが、未だに話についていけないのは無理もない」

「だったら、早いところ、何がどうなっているのか教えてよ。ねぇ、麻耶ちゃん、うちの子っていうか、その事例の子の場合、
事件の背景は何だったの?」

 亜美に詰め寄られた麻耶は、傍らの夫に助けを求めるように困惑した表情を向けた。

「ちょっと、微妙な問題なんで、麻耶じゃなくて俺が話そう。その子の担任は、日本人じゃなくて在日朝鮮人だったんだ。
それも、日本の公立学校で教職に就いていながら、日本と日本人を侮蔑し、ホームルーム等では、公然と反日教育を
行っていた。例えばこうだ。『日本人は邪悪な民族だから、前の戦争では原爆を落とされた。日本にはもっともっと原爆
が落とされるべきで、日本人は一匹残らず死ぬべきだった』とかね…」

「ひでぇな…」

「取材した俺も絶句したくらいだからな。奴らは日本に住まわせてもらいながら、日本や日本人に感謝することはない。
日本人を理由なく敵視し、日本そのものの解体を図る危険な存在だ。これは、日本に帰化した元朝鮮人もそうなんだ」

 能登の口調は、努めて感情を交えない事務的なものだったが、内容の凄まじさに、居合わせた一同は暫し二の句が
継げなかった。

「で、でも、公立学校の教員は公務員だろ? それなのに、何で、朝鮮人が教師になれるんだ?」

 竜児が呈したもっともな疑問で、気詰まりな静寂が破られた。
 その質問に能登だけでなく北村も、いくぶん渋い顔をしている。

「大先生の方が俺よりもよく知っていそうだが、とんでもない特例があったんだよ。平成三年から、在日朝鮮人も公立
学校の教員になれるようになったんだ。これは、未だ確証がないが、日教組のゴリ押しで決まったようだ」

「日教組って、労働組合でしょ? それが何で、在日朝鮮人の利益になることをするの?」

「亜美たんの指摘はもっともだな。日教組ってのは、元々反体制的な体質があり、支持政党は社会党だった。その社会
党が朝鮮労働党との関係を強化した昭和四十年代から日教組も北朝鮮との連帯を強調し、訪朝団の派遣を積極的
に行ってきたんだ。その結果…」

「そ、その結果、どうなったの?」

 亜美と竜児が固唾を飲んで見守る中、能登は言いにくいそうにちょっと言葉を濁すと、軽く咳払いをした。

「日教組は今では、朝鮮人のための組織に成り下がっている。幹部の多くは朝鮮人だし、重用されるのも朝鮮人だ。
学校側に対しても、朝鮮人組合員を高く評価するようにゴリ押ししている。もう、根底から腐りきっているんだ」

「信じられん…。でも、美由紀の担任が朝鮮人だって、何で分かったんだ?」

 その説明を怠っていたことを迂闊に思ったのか、能登は「おっと…」と、呟いた。

「そうだった、その説明が未だだったな。これは美由紀ちゃんが教えてくれたんだが、今日の午後、俺たちと出会う寸前、
美由紀ちゃんは、彼女の担任と遭遇した。その時に、彼女は担任から『チョッパリのガキ』と罵倒されたんだ」

「ちょ、チョッパリって…」

 竜児と亜美は、思わず顔を見合わせた。

「その様子じゃ、高須や亜美たんも知ってるよな? チョッパリが朝鮮人による日本人の蔑称だってことを。日本人なら
まず絶対に使わない言葉だ。これだけで、美由紀ちゃんの担任が、朝鮮人であることは明白だよ」

「そ、そんなことって…」

 竜児も亜美も驚きの余り口ごもった。亜美は悪寒がするかのように、身を震わせている。

「残念だが事実だよ。取材した事例に鑑みれば、美由紀ちゃんの成績は、非常識なレベルにまで下げられているはずだ。
それが、朝鮮人に楯突いたチョッパリのガキへの報復ってもんらしい」

「く、狂ってる…。で、でも、能登くんが言うように、美由紀の成績が下げられているってのは何となく分かるわね。あの子、
学校から帰って来てから、妙におどおどしていたから…。きっと、あまりの成績の悪さにショックを受けていたのね」

「多分そうよね。だから、亜美ちゃん、美由紀ちゃんの成績がどんなに悪くたって、怒っちゃ駄目。美由紀ちゃんは被害者
なんだから」

「う、うん。それはさすがに心得ているつもり。むしろ慰めてやらなくちゃ…。でも、美由紀はなんで担任からいじめられる
ようになったのかしら」

「その辺のことは、俺たちも把握してないんだよ…」

 能登は、渋面でかぶりを微かに振った。その辺のことは美由紀が話してくれなかったからだ。

「だが、戦争がらみで日本人に反省を促すような反日教育のあり方に、美由紀ちゃんは反発したんだろうと思う。そうで
あれば事件が起こったのは、今月の八日頃だろう。この日は、日米開戦の日だからな。反日教育にはうってつけだ」

「過去のことをいつまでも蒸し返すとは、連中らしいな…」

 竜児が吐き捨てるように言うと、亜美も頷いた。

「おや? 高須に亜美、朝鮮人がらみで何かあったのか?」

 北村がきょとんとして、竜児の顔を眺めていた。

「いや、知財やってると、韓国や中国での権利侵害のひどさには閉口させられるからさ。手短かに言うけど、連中に遵法
精神はない、契約の概念もない。法律や約束は破るためにあると思っている。そして、痛いところを突かれると、過去の戦争責任を蒸し返してくる。本当にどうしようもない連中だぜ」

「だったら、そんなイカれた奴に抗議しても何にもならないことは分かるよな?」

「ああ、担任に抗議すれば、美由紀が余計にいじめられるだけだな。だとしたら、教育委員会に訴え出て、その教師を
免職させるのはどうだろう?」

「理屈の上では可能だが…」

 北村は何かを言い掛けたが、口ごもった。それを能登がフォローした。

「過去においては、それが可能だったようなんだが、今は微妙だな。何せ、教育委員会の幹部も日教組の息が掛かって
いる。下手すれば、余計に窮地に追い込まれるぞ」

「じゃあ、どうしたらいいの? このまま美由紀がいじめられるのを黙って見ているしかないの?」

「転校しかないだろうな…」

 北村が、呟くように、ぽつりと言った。

「転校ですってぇ? 無理よ。転居でもしないと、勝手に転校なんか認められないでしょ?」

 北村は、亜美の意見が正しいことを示すつもりなのか、「うん、うん…」と二、三回頷いた。

「公立だったら、確かにそうだ。それに、他の公立小学校へ行っても、またとんでもない教師が居ないとも限らない」

「じゃぁ、どうしようもないじゃない…」

「そうでもないさ。公立が駄目なら私立がある。日教組の影響力が及ばない私立に横滑り出来れば、何とかなる」

「い、いや…、何とかって、そうした私立は、お受験で入るんだろ? それも、入学時の…。生え抜きの児童しか居ない
ような感じだが、どうなんだ?」

 竜児の指摘に、文科省の官僚である北村も困ったように、口をへの字に曲げた。

「確かにな…。他校からの編入を認めてくれる私立はそうはないかも知れない。だが、言い出した手前、俺も、ちょっと調
べてみるよ。都内のどこか、この家からさほど遠くないところにある私立で、美由紀ちゃんを受け入れてくれそうなところ
は、きっとあるはずだ」

「恩に着るよ。だが、俺たちも、インターネットでどんな学校があるのかは調べてみるつもりだ」

 言い終えて竜児は、置時計で時刻を確認した。

「十時近いのか…。飲み足りないようだったら、ウイスキーかブランデーでも嗜もうと思うが、どうだ?」

 竜児の誘いに、北村と、能登と、麻耶は、無言で顔を見合わせたが、それだけで意見の一致を見たらしい。

「お誘いは有難いけど、俺は遠慮しとくよ。何せ、かみさんがこのざまだし、一人息子を引き取りに行かなきゃいけない
からな」

「俺と麻耶も、そろそろ、おいとまするよ。これ以上、高須や亜美たんに世話になったら、恩を返し切れなくなっちまう」

「恩だなんて他人行儀な…。もうちょっとゆっくりしていけばいいのに…」

 亜美の誘いに、三人は微笑した。素直に応じても許されるだろうが、ここは退散するのが大人の良識というものだ。

「おっと、そうそう。これを今のうちに渡しておこう」

「俺も渡しとくよ」

 北村と、能登は口々にそう言って、綺麗に包装され、リボンが結ばれた包みを竜児に手渡した。

「俺たちから、美由紀ちゃんへのクリスマス・プレゼントだ。中身は、明日の朝まで秘密だけどね」

 北村は悪戯っぽく笑った。

「済まないな…。俺たちもプレゼントは用意してあるが、せっかくだから、戴いておくよ」

 竜児は、北村たちに礼を述べると、受け取ったプレゼントは書斎に隠した。美由紀が寝入った頃、子供部屋にこっそり
と置いておくつもりらしい。

「さて…、美由紀ちゃん、ちょっとおっきして。悪いけど、おばちゃんとおじちゃんは帰らなきゃいけないから、ね?」

 麻耶は、膝の上に乗せていた美由紀の身体を軽く揺さぶった。美由紀は、「う〜ん」とかむずかっていたが、うっすら
と目を開き、眠気を振り払うつもりなのか、顔を子犬のように、ぶるぶると左右に振った。

「はい、あんた、もう立ちなさい。そうしないと、麻耶おばちゃんが帰れないでしょ?」

 母親に促されて、美由紀は眠い目をこすりながら、立ち上がった。
 そして、大人たちがジャケットやコートを着る様子を見て、パーティーが終わってしまったことを実感した。

「じゃあ、高須に、亜美たん、ごちそうさま、何よりも楽しかったよ。それに、美由紀ちゃん、おじちゃんとおばちゃんは帰る
けど、今度よかったら、おじちゃんたちの家に遊びにおいで。美由紀ちゃんにも読める物語の本がたくさんあるからね」

「高須に、亜美、済まなかったな。予想通りに、かみさんは沈没した。酒は嫌いじゃないみたいだが、どうしようもなく弱い
のは、高校時代と変わってなかったな」

「いいってことよ…」

 竜児は、北村に赤いケーキを入れたタッパーウェアを手渡した。

「これは?」

 いくぶん戸惑っている北村に、竜児と亜美は淡い笑みを向けた。

「あたしたちが作ったケーキを、狩野先輩は未だ食べてないでしょ? だからそれを入れてきたの。でないと、みんなが
食べたのに、狩野先輩だけ食べてないのは、公平性を害すると思って」

「公平性を害するか、法律で飯を食っているお前たちらしい言葉だな」

 苦笑する北村に、竜児が言葉を添えた。

「そんな杓子定規な理由ばかりじゃないんだぜ。俺と亜美が作ったケーキの出来を、狩野先輩にも評価してもらい
たいっていう、俗な欲求もあるんだ。言うなれば、俺たちなりの自己顕示欲さ」

 北村は納得したのか、苦笑したまま、二度、三度、頷くようにかぶりを振った。そして、未だに、意識が朦朧としている
らしい北村すみれの肩を支えながら、玄関へ向かおうとした。

「祐作、タクシー呼ぼうか? 狩野先輩、歩くのがかなり辛そうだよ」

「いや、大丈夫だよ。先週も文科省とJAXAの合同での忘年会があったんだが、すみれはその席でも、飲めもしない
酒を飲んで、ひっくり返ったんだ。で、俺がタクシーが掴まえられるところまで、すみれを背負って行ったんだよ」

 言うなり、北村は、すみれの身体を、「よっこらせ…」と背負った。

「お、おい、北村、それじゃ荷物が持てないだろ? タクシーが拾える大通りまで、俺と麻耶が荷物は運んでやるよ」

 言うなり、能登と麻耶は、北村とすみれのバッグを、それぞれ手に取った。

「済まないな」

「なぁに、気にするな。それじゃ、高須に、亜美たんに、美由紀ちゃん。今夜は楽しかった。ありがとう…」

 狭い玄関で来客たちは軽く礼をして、最初に能登、次いで麻耶、最後にすみれを背負った北村が出て行った。
 来客たちが辞去した後、それまでの慌しさが嘘のように、美由紀の家は静寂に包まれた。

「ホームパーティーは、その最中は楽しいんだが、終わっちまうと急に寂しくなるな」

「また、みんなを集めてやればいいじゃない。今度は、節分にでも、適当な理由をつけてさ」

「そうだな、その時は、オイルフォンデュでもやってみるか。串に刺した肉や野菜を、銘々がオリーブオイルで揚げて食べ
るんだ。カロリーはちょっとあるかも知れないが、ゲーム性があって楽しいだろうな」

「そうね…。次回が楽しみだわ。で、寂しさを紛らわすために、ワインでもちょっとどう? みんなシャンパンを飲みすぎて、
肉料理の時に赤ワインをあんまり飲まなかったから、かなり余っちゃって…」

 亜美の誘いに、竜児もまんざらではないのか、柔和な笑みを浮かべている。

「いいんじゃないか? 例の話もあるしな。ちょっと、飲みながら気楽になった方がいいだろう」

「そういうこと、ね…」

 ちょっと意味深な両親の会話に、美由紀は剣呑なものを感じた。覚悟はしていたが、いよいよ通知表を両親に披露し
なければならないらしい。

「美由紀も、よかったらシャンパンもどきのソフトドリンクで付き合え」

「う、うん…」

 竜児の左手が美由紀の方に伸びてきて、彼女の右手がやんわりと掴まれた。
 パパの手は暖かい。その暖かさが、美由紀の恐れも、ためらいも、そして哀しみも癒してくれるような気がした。

「さてと…」

 リビングに戻った竜児は、愛用のソムリエナイフを操って、赤ワインのコルクを抜き取った。長めのコルクは、最後に、
ポコン、という微かな音を立てて、瓶の口から離れていった。その赤ワインを二本のボルドー型のワイングラスに満たし
ていく。

「はい、あんたは、こっちね」

 亜美は、フルートグラスにスパークリングワインに似せた炭酸飲料を注ぎ、それを美由紀に手渡した。

「お疲れさん…」

 そう言って、竜児はワイングラスを目の高さまで軽く持ち上げた。亜美や美由紀も、それに倣ってグラスを持ち上げた。

「パーティーは無事に終わって、お客様も満足してくれたようだし、まずまずね。あたしたちだけでの締めの乾杯をしま
しょう」

「うん…」

 亜美による、「じゃぁ、かんぱ〜い」の合図で、親子三人はグラスを軽く合わせ、ワインや炭酸飲料を味わった。

「ふぅ…」

 長い時間を掛けてではあったが、シャンパンに始まって、白ワイン、赤ワイン、そしてドンペリ、更には再び赤ワインを飲
んだこともあって、亜美は頬を染めて陶然としている。少なくとも機嫌は悪くなさそうだ、と美由紀は踏んだ。

「どうかな? そろそろ、美由紀の通知表を、パパとママに見せてくれないか」

 飲みさしのワイングラスをテーブルに置いた竜児が、美由紀に問い掛けてきた。美由紀は、来るべきものが来たと
思い、両親に対して、こっくりと頷いた。

「じゃ、持ってくるから…」

 そう言って、子供部屋に赴き、ランドセルから通知表を取り出した。能登のおじちゃんが言った、『本当のことを話せば、
ちゃんと分かってくれる』ということと、両親の機嫌がそう悪くないことを鑑みれば、理不尽に叱られることはなさそう
だったが、成績が成績だけに、正直気が進まない。美由紀は、不本意な成績が記されている通知表を手に、のそのそと
リビングに戻り、おずおすと両親にその通知表を手渡した。

「どれ…」

 とばかりに竜児と亜美は美由紀の通知表を覗き込んだが、その瞬間、二人とも目を点にして絶句した。

「な、何、これは…」

「まさかとは思っていたが、能登の言うことが本当だったとはな…」

 一学期はオール五にも等しかった成績は、ほとんど一か二にまで低下していた。

「露骨だな…」

 成績の記載が意図的に歪められているのは、誰が見ても明らかだった。どうせなら、もうちょと巧妙に、心持ち評価を
下げる程度にしておけばいいものを、そうしたさじ加減が出来ないところが、いかにも朝鮮人らしい。

「評価の欄なんか、笑っちゃうわね。『テストの点もさることながら、道徳において問題があるようです。したがって、その
懲罰も兼ねて厳しい評価をさせていただきました』ですって…。美由紀の今学期のテストは、ほとんどが満点かそれに
近い点数だったのに、『テストの点もさることながら』って、何を言いたいのかしら」

「『道徳において問題があるようです』ってのも、ちゃんちゃらお笑いだな。こんないい加減な評価をする輩に道徳を論
ずる資格はないだろ? こうしたいい加減な教師こそが『懲罰』の対象となるべきだぜ」

「パパ、ママ…」

 ある程度の叱責は覚悟していたが、そうした気配が全くなさそうなことに、美由紀は安堵するよりも、目を丸くして驚
いた。

「心配するな美由紀。今回の成績はひどいもんだが、こんなものは嘘っぱちであることを、パパやママはちゃんと分かっ
ている」

「能登のおじちゃんやおばちゃんからも聞いたわよ。あんた、担任の先生と揉めているんでしょ? 評価の欄に『懲罰』
とかって書いてあるけど、これでその先生が腹いせで美由紀の成績を下げたってのが見え見えよ」

 父母は、眉をひそめた心持ち険しい表情であったが、その怒りの矛先は美由紀ではなく、件の朝鮮人教師へ向けら
れていた。

「どうやら、お前は担任の先生に口答えしたとかで、この先生に嫌われたらしい。しかし、単なる好悪の感情で、生徒の
成績を大幅に下げるとは理不尽過ぎる。パパは、こういう人間は大嫌いだ」

「ママも嫌いね、こんな教師の風上にも置けないようなのは。ただ、この先生がここまで美由紀を嫌いになったのには、
やっぱり理由はあると思うのよ。ね、よかったら、何がきっかけで、こんなことになったのかを話してくれない?」

「それは…」

 担任教師のホームルームでの言い草はたしかにおかしかったが、小学四年生である美由紀が、大の大人に歯向
かったことは事実なのだ。それを思うと、その時の状況をつまびらかにしてよいか悩ましかった。

「能登のおじちゃんは、日本とアメリカが戦争を始めた日である今月の八日に、美由紀の先生が、日本と日本人は前の
戦争の償いも反省もなってないとか、無茶苦茶なことを言って、それにお前が反論したんじゃないかって、言ってたぞ。
本当のところはどうなんだ?」

 図星に等しい父の言葉に、美由紀は驚いたが、同時に、ほっと安堵した。やはり、美由紀のパパやママは、頭がよくて、
話が分かる。

「う、うん…、パパの言う通り。その日、先生は、日本人は駄目な人間ばかりだから、朝鮮や中国の人にこれからも謝り、
償っていかなきゃいけない、なんてことを言ったから、私、我慢出来なくて…」

「先生に口答えしたわけね…」

 母の言葉に美由紀は頷いた。

「先生は、駄目な人間や悪い人間は、これからもずっと悪いままだから、永遠に反省と償いが必要なんだって…。
そして、それは、私らの子供や孫の代になっても続くなんて言ってた…」

「相当だな…。それじゃ、美由紀が反発するのも無理はない」

「その先生は、何のために法律や刑罰があるのかが理解出来ていないのよ。だから、美由紀は悪くない。おかしいのは
その先生の方ね」

 父母は怒りよりも、呆れているようだった。罪と言うよりも、弱みを握られた者が、未来永劫、償いを求められるのは、
およそ文明国ではあり得ない。未開な古代社会の忌まわしい風習そのものである。

「というわけで、美由紀。その先生は、どうしようもないから、出来るだけ早く別の学校に移った方がいいだろう。公立の
学校だと、また、あんな変な教師が居るかも知れないから、私立の小学校に行くことになるだろうな」

 転校は、美由紀にとっても願ったり叶ったりの展開だった。しかし、仲のよいクラスメート、特に、一緒に歌手になると
約束した、ともちゃんと別の学校に行くことは、ちょと心残りではあった。

「仲のよいお友達と学校は別々になるけど、学校が終われば、その子たちとも遊べるでしょ? 今は、昔と違って携帯電話があるんだもの。今までと全く同じという訳にはいかないけど、
本当に仲のよい子とは、お付き合いは出来るわよ」

 美由紀の懸念を亜美が代弁し、それがどうにかなることも述べてくれた。ママは何でも知っているのだ。

「さて…、後は、美由紀にふさわしい学校を探さなくちゃな。祐作おじちゃんも探してくれるようだが、これはうちの問題
だ。だから、パパやママが、ちゃんと何とかするさ」

 竜児はそう言うと、書斎に引っ込み、程なく仕事で使っているノートパソコンを携えてきた。

「手始めという訳じゃないが、ちょっとインターネットで調べてみよう」

「そうね、インターネットの情報は断片的だけど、概略を把握するのには役立つから」

 竜児と亜美は、そんなことを言い合いながら、ノートパソコンの画面に表示される情報に見入った。
 だが、都内の有名私学のサイトをひとしきり見て、竜児は嘆息した。

「いやぁ、編入の条件は、どこも厳しいな」

「試験があるのは仕方がないとして、保護者面接とかがウザいわね。学校によっては後見人を要するし…」

「後見人は、通常は保護者の親、つまりは児童の祖父母ってことらしい。だが、泰子じゃ、後見人には明らかに役不足だ」

 こうした有名私学の後見人は、それなりの社会的地位と、財力が求められる。だが、未婚の母として竜児を産んだ
泰子に、そんなものはない。

「ねぇ、税理士やってる高須のお祖父ちゃんなら大丈夫なんじゃない? 社会的にも認められてるし、財力もそれなりに
あるから」

 だが、竜児は渋い顔をしている。

「美由紀にとっては曾祖父ということになる。親等が離れ過ぎだよ。多分、駄目だろうな。それよりも、お前のお袋さんや
親父さんはどうなんだ? 社会的な地位もあるし、親等も適切だ」

 今度は、亜美が膨れっ面をした。

「もう! パパはいいけど、ママに借りを作るなんて、まっぴら御免だわ。それでなくても、美由紀を芸能界に引きずり込も
うとしているんだから、本当に油断も隙もないのよ」

「じゃあ、どうすんだよ?」

「だから、困ってんじゃない! もう〜」

 不意に、『ピンポーン』とインターホンが鳴った。その音で、良策がなくて、互いに渋い表情だった竜児と亜美は、目
を丸くして顔を見合わせた。

「誰だ? こんな時間に」

「祐作か、麻耶が忘れ物があるとか勘違いして戻ってきたんじゃないの? あ、美由紀、悪いけど、ちょっとインターホン
に出てくれる?」

「う、うん…」

 言いつけ通りに美由紀はキッチンに備え付けのインターホンのハンドセットを取り、モニターの画面を見た。画面には、銀狐だろうか、黒っぽい銀灰色の毛皮のコートを纏った、どことなく美由紀に面影が似た女性が映っていた。

「お、おっきなママ!」

『しーっ』

 モニターに映った美由紀の祖母である川嶋安奈は、唇に人差し指をあてがう仕草で、大きな声を出した美由紀を
たしなめた。

「おっきなママどうしたの? こんな時間に」

 美由紀は、囁くように、モニターの向こうの川嶋安奈に問い掛ける。

『どうしたも、こうしたも、ないでしょ? 可愛い孫娘がメールで私の家でクリスマスを過ごしたいっていうから、お迎えに
来たのよ』

 しまった! 取り消しのメールを中途半端な状態で送信したままだったっけ、と思ったがもう遅い。よもや、本当に川嶋
安奈本人がお出ましとは、美由紀ならずとも驚きだ。

『で、あなたのパパとママは、今何してるの?』

 美由紀は、自身の転校先を両親がインターネットで調べている旨を手短に伝えた。

『そう…。それじゃあ、美由紀。これから、玄関に来て、鍵を開けて頂戴。玄関に行く途中、パパやママに何か訊かれ
ても、私が来ていることは内緒にして、適当に誤魔化してね。それじゃ、玄関で待ってるから』

 モニター上の川嶋安奈は、美由紀ににっこりと晴れやかな笑みを向けていた。その笑みには、抗いがたい拘束力が
備わっている。

『ともちゃんと同じだ…』

 こういうのを『カリスマ』って言うんだろう、と美由紀は思った。父にもなければ、母にもない。芸能界でひとかどの
評価を得られる大物女優たるには必須の資質というものなのだろう。
 美由紀は、ハンドセットを元通りに置くと、リビングを通って、玄関へ続く廊下へと出ようとした。

「あんた、何やってんの?」

 夫ともにノートパソコンの画面を凝視していた亜美が、美由紀に気付いて声を掛けてきた。

「あ、う、うん…。ちょ、ちょっとトイレ」

 玄関への途中にはトイレと洗面所があったから、格好の釈明ではあった。そのまま玄関にたどり着き、鍵を開けた。

「おっきなママ!」

「美由紀、いつまで待っても来ないから、迎えに来たのよ。まぁ、それはともかく、ちょっと、あなたのパパやママが何を話
しているのかを、こっそり聞かせて欲しいわね。だから、このまま抜き足差し足で、パパやママの居るところまで案内して
頂戴」

 川嶋安奈が、先ほどもインターホン越しに美由紀に寄越した笑みを向けている。美由紀は、僅かに良心が咎めたの
か、ごくりと固唾を飲んだものの、その抗い難い笑みに屈した。

「しかし、ここぞと思った私立は、どこも後見人とか保証人とかの基準がうるさいわね」

 リビングでは、亜美と竜児が、パソコンの画面を見ながら、相変わらず不毛な議論を重ねていた。

「う〜ん、ここも保証人を要するとか抜かしてやがる。困ったもんだ…。なぁ、やっぱりお袋さんか、親父さんに頭を下げて
だな、保証人とか後見人になってもらうしかないんじゃないか?」

 途端に、亜美が般若のように面相を歪めて竜児に噛みついた。

「冗談じゃないわよ! あんなババァに頭を下げるなんて、願い下げだわ。それに、あのババァ、うちの美由紀を歌手か
女優に仕立てようと狙っているのよ。ここで借りを作ったら、どうなるか、あんたにだって分かるでしょ?!」

「ま、まぁ、そうかも知れないが、お袋さんだって、そんなに悪い人じゃないだろう。話せば分かってくれると思うけどな」

「あんたは、川嶋安奈って言う人間の一部分しか見てないのよ! その正体は、強欲で、無知無学無教養で、陰険で、
傲慢で、どうしようもない俗物なんだからぁ! そんなババァを美由紀に関わらせるなんて、悪夢以外の何ものでもない
わよぉ!」

「お前、言い過ぎだよ」

 川嶋安奈への悪口雑言をまくし立てる亜美を、竜児がたしなめた瞬間だった。

「ずいぶんな言い草ね。亜美…」

 玄関に通じるドアが開け放たれ、シルバーフォックスのコートを纏った川嶋安奈が現れた。その後ろに隠れるように、
美由紀が控えている。

「ママ! ど、どうしてここに?!」

 狼狽して素っ頓狂に叫ぶ亜美を見下すかのように、安奈は、口元を歪めて、冷笑した。

「どうしたもこうしたもないでしょ? ここは、私の可愛い孫娘が居るところなんだから、その孫娘に会いに来ただけ、
それがどうかしたの?」

「孫娘に会いに来た、ですってぇ?! 断りもなく、勝手に入ってきたくせに。もろ、不法侵入じゃないの」

「ま、まぁ、二人とも落ち着いて。双方ともいきなり喧嘩腰じゃ、話せば話すほど、こじれるばかりだ」

 女同士の諍いを調停すべく、竜児が話に割り込もうとした。だが、亜美と安奈が、きっ! とばかりに般若顔負けの
形相で睨み返し、その迫力に、竜児は蛇に睨まれたカエルのように身をすくませた。

「不法侵入とか、小賢しい。大体が、この家は、孫娘が鍵を開けてくれたの。あなたのような小便臭い小娘と違って、
我が孫娘は優秀ね。隔世遺伝って言うのかしら?」

「しょ、小便臭い小娘ですってぇ?! 冗談じゃないわよぉ! ちゃんと、弁理士として世間で認められつつあるのに、
失礼にもほどがあるわぁ!!」

 酔った勢いも手伝って、亜美は金切り声で、安奈に詰め寄った。しかし、亜美以上に修羅場を経験し、それを乗り越え
て来たらしい川嶋安奈は動じない。

「おや、当人が居ないと思って、ババァ呼ばわりしたのは、どこのどなたさんだったかしらね。そっちの方がよほど失礼で
しょ。第一、あなた酔っ払っているんじゃない?」

「酔ってなんかいないわよぉ! そりゃ、今もワインは飲んでいるけど、こんな程度で酔っ払う訳がないじゃない」

 そうは言っても、亜美は頬を赤く染め、目も心持ちどんよりと濁っている。誰が見ても、酔っていることは明白だった。

「そうかしら? 酔っ払いは、大概が自分は酔ってないと言い張るものよね。ちょっと、酔いを覚ました方がいいようね。
これからママとクルマに乗って、夜風に当たりましょう。酔いを覚ましてからじゃないと、あなたとはまともなお話が出来
そうにないから。まぁ、そもそも、あなたは、女優になり損なった、出来損ないなんだけれど…」

 嫌味たっぷりの口調に、亜美がマジギレした。

「さっきから、大人しく聞いてれば、好き放題言いやがってぇ! ママ、あんたとは、一度決着をつける必要がありそうね」

「あら、瞬間湯沸かし器みたいに、すぐ熱くなるのね。もう、だいぶ前だけど、別荘の鍵が違っていた時も、電話でだった
けど、こんな状態だったかしらね。本当に進歩のないこと」

「失礼ねぇ! これでも、弁理士試験に合格したし、五年前には、竜児と一緒に、特定侵害訴訟代理業務試験にも合格
してるんだから、進歩がないなんて言わせないわよ」

 だが、川嶋安奈は、顔を真っ赤にして激昂している亜美が面白くてたまらないのか、双眸を意地悪く細めて、冷笑して
いる。

「弁理士試験? 特定侵害訴訟代理業務試験? それが何? ガリ勉で得た知識を競う試験が何だっていうの。
そんなことよりも人間として大事なことが、あなたは綺麗さっぱり欠落しているのよ。だから、女優への道を途中で
投げ出して、逃げたりするんだわ」

 亜美に欠けているという、『人間として大事なこと』は、川嶋安奈の台詞からは皆目分からない。多分に、川嶋安奈の
挑発臭かった。しかし、完全に頭に血が上っている亜美が、そんなことに頓着するはずがない。

「おーし! 上等よ、酔醒ましでも何でも結構! ドライブとやらに付き合ってあげようじゃないの」

 明かに、川嶋安奈のペースに乗せられていることが、竜児にも察せられた。

「お、おい…、迂闊な行動は、相手の術中に嵌るぞ」

 そうたしなめたが、亜美は、ヒステリー丸出しで、

「うるさい! 今夜こそ、ママと決着を付けてやるから、あんたは、美由紀と一緒に待ってるのよぉ!」

 と叫ぶと、コートハンガーに引っ掛けてあったダウンジャケットに袖を通し、安奈の後を追うように、リビングから廊下、
廊下から玄関の外へと出て行った。

「パパ…、ママ大丈夫?」

 美由紀から見ても、母である亜美は、祖母である安奈に比べて、冷静さを欠いている。安奈が仕掛けているであろう、
何かとんでもない罠に引っ掛かるような気がした。

「ま、まぁ、ママと、おっきなママは、実の親子だからな。変なことにはならないと思うよ」

 そうあって、欲しいものであった。
 そして、待つこと二十分。亜美と安奈が戻ってきた。

「う、うううっ、ひ、ひっく…。りゅ、竜児ぃ、こ、怖かったよぉ…、き、気持ち悪いよぉ…」

 いつもと変わらずに、颯爽とした川嶋安奈とは対照的に、亜美は、顔は真っ青、髪は振り乱してぼさぼさ、そして、
よろよろと覚束ない足取りで、リビングのソファーにへたり込んだ。

「ママ!!」

「お、おい、大丈夫か?!」

 娘や夫の呼び掛けも、まともに届かないのか、亜美は、ひっく、ひっくと、しゃっくりのような嗚咽を連発するばかりだった。

「お義母さん。いったい、亜美に何をしたんですか? 気丈な亜美がここまでボロボロになるなんて、ひどすぎる!」

 竜児は、川嶋安奈を内心では恐れていたが、最愛の女房をここまでいたぶられては黙って見過ごすことは出来な
かった。だが、さすがに芸能界一の食えない女、川嶋安奈は動じない。いつものように、謎めいた苦笑とも冷笑とも判別
し難い笑みを浮かべている。

「あら、いやだ、竜児さんは、バカ娘と違って、沈着冷静だったはずなのに、似た者夫婦っていうのかしらね、この子の
悪い面が伝染したのかしら」

「ふざけないで、真面目に答えてください! いったい、亜美に何をしたんですか?!」

「どうもこうもないわねぇ…。ちょっと、この界隈をクルマで走り回っただけよ。ただし、ちょ〜っとばかり、制限速度とかを
オーバーしていたかも知れないけど…」

「せ、制限速度をオーバー?!」

 竜児は思わず亜美と安奈の顔を見比べた。どうやら、安奈は、狭い路地を、WRCや、カースタント顔負けの荒っぽい
運転で走り回ったらしい。自らのドラテクに絶対の自信がある安奈本人はともかく、助手席で、今にも電柱や、塀、他の
クルマに激突しそうな恐怖に晒された亜美はたまったものではない。

「ふぇえええ〜ん、こ、怖かったよぉ」

「お、おい、亜美、しっかりしろ。ここは、俺たちの家だ。もう、怖い思いはしなくて済むんだよ」

 竜児は、幼児のように泣きじゃくっている亜美を抱いてやった。
 その竜児と亜美を、川嶋安奈は、冷やかな笑みを浮かべながら一瞥すると、美由紀の手を引いた。

「さぁ、約束通り、私の家でクリスマスを過ごしましょう。おっきなパパも、あなたが来るのを心待ちにしているのよ」

「ちょ、ちょっと待ってください! 美由紀は、うちの子だ。いくら、お義母さんでも、そんな勝手は許されない」

「あら、竜児さん。私は、美由紀に頼まれて、ここへ来た。美由紀が望むから、私の家に連れていく。それだけのことなのよ」

「美由紀が望むって、どういうことですか?!」

 気色ばむ竜児に、川嶋安奈は、自身の携帯電話機を突き付けた。その画面には、『今夜は、おっきなママのおうちで
クリスマスを祝いたいです。 美由紀』という文字が表示されていた。

「み、美由紀! こ、これは?!」

 美由紀は、ばつが悪そうに川嶋安奈の後ろで縮こまった。

「ご、ご免なさい…。私、二学期の成績が悪くって、パパやママに顔向け出来なくて、それで、おっきなママのおうちに
逃げたくなって、メールしちゃった…」


 後ろに美由紀を従え、携帯電話機を水戸黄門の印籠の如く竜児に突き付けた川嶋安奈は、どうだとばかりに胸を
張った。

「た、確かに、み、美由紀がメールしたようですが、美由紀は未成年です。法律上の権利能力を有しません。ですから、
美由紀が、お義母さんの家に行きたいという意思表示は、法律上は有効なものではありません」

 安奈に睨まれて、しどろもどろになりながらも竜児は必死に反論した。元祖性悪女。これに比べたら、亜美なんてのは
可愛いものだ。
 案の定、川嶋安奈は、竜児を嘲笑うかのように、口元を歪め、瞳には侮蔑の色をたたえている。

「おや、おや、辣腕弁理士である竜児さんは、自分の娘の権利能力を否定されるらしいわね。でも、この子は聡明よ。
だから、この子自身に、今この場で最終的な判断させましょう。どう?」

「ど、どうって…」

 完全に安奈のペースに飲まれてしまい、二の句が継げなくなっている竜児には構わず、川嶋安奈は美由紀の目線に
合わせるように屈み込んだ。

「賢い子である、あなたに決めてもらいましょう。あなたは、メールでの通り、私の家でクリスマスを過ごすのね?」

 微笑んでいる安奈には、抗い難い拘束力がオーラのように放射されていた。笑顔で同意を迫る様は、クラスメートの
ともちゃんも同じだが、威力は桁違いである。

「う、うん…」

 祖母のオーラに気おされて、美由紀は、ためらいがちに頷いてしまった。

「み、美由紀!」

 父である竜児が、柄にもなく取り乱し、娘の名を叫んだ。川嶋安奈は、勝ち誇ったように肩をそびやかしている。

「これで、竜児さんも文句はないわね? 美由紀は、彼女自身の判断で私の家に来ることを選択したんだから」

「ま、待ってください! 今の美由紀とお義母さんとのやりとりは、お義母さんが合意を強制したニュアンスが窺えます。
承服出来ません」

「合意を強制した? あなたは何を言っているの? 私は、屈み込んで美由紀に向かって微笑んだだけ。それのどこが
合意の強制になるのかしらね」

「そ、それは…」

 川嶋安奈の言う通りだった。安奈の微笑自体に、合意を迫る拘束力があると、竜児は言いたいのだろうが、あいにく、
それを証明する術はない。

「パパ…」

「美由紀、お前は、川嶋の家に行きたいのか? 本当にクリスマスをあっちで過ごしたいのか?!」

 言われて美由紀は申し訳なさそうにうつむいた。

「う、うん…。おっきなママに約束しちゃったから。その約束は、取り消しになってないから…。ほら、パパが前に教えてくれ
たでしょ? 約束っていうか、契約を解除するときは、そのことを相手にきちんと伝えないと駄目だって。私、そのことを、
おっきなママに伝えてない。その責任を取らなきゃいけないよね?」


 竜児は絶句した。美由紀が言っているのは、民法五百四十条の規定のことだ。以前、守れそうにない約束を友達と
したときは、どうしたらいいかということを、法規に則って説明したのが仇になったらしい。生真面目で賢い美由紀は、
その法規に従わねばならないと思い込んでいるようだ。

「美由紀、お、お前は…」

 肩を落とした竜児とは対照的に、川嶋安奈は、「おほほほ」と哄笑している。その様は、テレビや映画でお馴染みの、
悪役そのまんまだった。

「美由紀自身も異存がないようだし、この子は私が暫く預かります。いいわね?」

 念を押したときの面相は、ヤクザの姐御紛いの凄みがある。
 その迫力に、ぐうの音も出ない竜児を冷笑しながら、孫娘には、慈母の如き微笑を向けている。

「さぁ、外は寒いから、マフラーとコートを着て。それと、携帯電話機ぐらいは持って行ってもいいかしらね」

 祖母に促されて、美由紀は子供部屋へ行き、セーターを着て、マフラーを巻き、紺色のダッフルコートに袖を通した。
携帯電話機をコートのポケットに入れ、他に何か持って行くべき物はないか、ランドセルの中をあらためた。

「あ…、これをパパやママに見せてなかった」

 ハナマルが、朱の大きなばってんで打ち消されている水彩画と習字の作品。これを見せるのは、川嶋安奈の家から
戻ってきた後になるだろう。だが、美由紀が担任に理不尽にいじめられていることを、彼女の両親が理解してくれた今、
朱の大きなばってんも、どうということはない。

「美由紀、早くなさい」

 祖母がしびれを切らしたのか、廊下から美由紀を呼んでいる。その祖母に、美由紀は「はーい」と返事をすると、件の
水彩画と習字の作品を机に置いて、子供部屋を出た。

「すぐ近くにクルマを止めてあるけど、最近はお巡りさんが駐車違反にうるさいから、早く行きましょ」

「う、うん…。でも、おっきなママの運転って、怖くない?」

 母である亜美は、安奈の荒っぽい運転で、恐怖のあまり人事不省に陥っている。自分も同じような目に遭うかも
知れない、と美由紀はビクついた。

「大丈夫、あなたが助手席に乗っているときは、大人しい運転をするから」

 そう言う祖母に背中を軽く押されながら、美由紀は靴を履いた。そして、玄関から、廊下、更にはリビングに続くドアへ
と視線を彷徨わせ、両親に詫びるつもりで、軽くお辞儀をした。
 その様が可笑しかったのか、祖母は、ちょっと苦笑している。

「さぁ、クルマで行けば、すぐだけど、あなたに見せたいものがあるのよ」

 見せたいものとは何だろう、それに本当に大人しい運転をしてくれるのか、と訝りつつ、美由紀は玄関を出た。
そう言えば、美由紀自身も川嶋安奈に告げねばならないことがあった。



「うぇええええ〜ん、あの子、あの子がぁ!!」

 リビングでは、亜美が竜児にすがって泣きじゃくっていた。


「しかし、お袋さんがお出ましとはな…」

「あんたぁ! 何をしれっと言ってんのよ。これは拉致よ! 誘拐よ! キッドナッピングよ! エイリアン・アブダクション
なのよぉ!! は、早く警察に知らせなくちゃ」

「いやぁ、拉致や誘拐ったって、警察にどう説明するんだよ。嫁の実母が娘を連れて行きました、ってか? 警察は取り
合ってくれないって…。それに、エイリアン・アブダクションってのは何だよ。お袋さんは、いつから宇宙人になったんだ?
とにかく落ち着け」

「ばかぁ! あんた、実の娘がさらわれたのよ、これが落ち着いていられる訳ないじゃない!!」

 竜児は、上目遣いで亜美から目線を逸らし、大きなため息をついた。川嶋安奈は美由紀を溺愛しているから、
悪いようにはしないだろう。今は、そう思うしかない。
 その時、電話のベルが、リビングに響き渡った。

「おっと、電話だ」

 竜児は、亜美を抱いたまま、ラックの上に手を伸ばして、ハンドセットをどうにか取り上げた。いつもなら、ハンドセットを
持ち上げる前に番号通知のディスプレイを確認するのだが、この状態では難しかった。

「はい、高須です」

 相手が誰だか分からないまま電話に出るのは気が進まなかったが、致し方ない。その竜児の耳に、聞き覚えのある
初老の男性の声が聞こえてきた。

『今晩は、川嶋です。竜児くんだね?』

「お、お義父さん!」

 相手は、亜美の実父であり、川嶋安奈の夫であった。

「い、今、亜美に代わります。ちょ、ちょっと待ってください」

 岳父、岳母というものは、婿にとっては、どちらかというと苦手なものである。それは竜児であっても例外ではない。
 特に、岳母である川嶋安奈は難敵と言ってよく、まんまと美由紀を連れ去られた。

『いや、亜美は、安奈にこっぴどくやられて、電話に出られる状態じゃないだろ? それに、竜児くん、君に話があって、
電話をさせてもらったんだ』

「はぁ…」

 岳父は何を切り出すつもりなのか、竜児は、下手に言質を取られないように、ひとまず用心することにした。

『まずは、美由紀の件だ。先ほど、安奈と美由紀から状況は聞いた。何でも、今の美由紀の担任はかなり問題があって、
そのために、美由紀を私立の小学校に編入させたいそうじゃないか』

「は、はい、そうです…」

『だったら、私が及ばずながら力を貸そう。君たちも、もう分かっているとは思うが、まっとうな私立の学校は、編入はそう
簡単なものじゃない。後見人だか、保証人だかが必要だし、その他の基準も色々とうるさい。要は、生え抜き以外は欲し
くないんだな。編入試験を制度として設けていても、積極的には他校の生徒を編入させたくないのが本音なのだろう」

「そうかも知れませんね…」


 それは竜児も薄々は承知していた。インターネットで調べた限りでも、編入の条件は、どの学校も極めて厳しい。

『だが、コネというと響きは悪いが、人脈があれば、こうした障壁も問題ではなくなる。幸い、君たちの家から通学出来る
範囲にある私学の理事長と私は懇意でね。君たちさえよければ、その学校へ美由紀を編入させようかと思っている』

「ど、どこの学校ですか?」

 亜美の父は、竜児に学校名を告げた。その学校は、名門校だが、編入の条件があまりに厳しくて、真っ先に断念した
ところだった。

『どうかね? 水準も高いし、何よりも、反日教育をするような変な教師は居ないはずだ。そこなら、安心して美由紀を
通わせることが出来るだろう』

「は、はい…」

 個人の力だけではどうにもならない事態であっても、誰かの助けでそれが可能となることだってある。コネに頼らず、
亜美とともに徒手空拳で頑張ってきた竜児であったが、援助があればそれに越したことはない。その点は認めざるを得
なかった。

「もう一つは、仕事の話だ。独立して事務所を構えた君たちの活躍は、私の耳にも届いているよ。私の知人も君たちに
注目していてね、その知人らが経営する企業でも、君たちに製品開発やブランドイメージ構築のコンサルティングをお
願いしたいらしい。詳細は、私の事務所で話そう。週明けの月曜日にでも、亜美を伴って、来てくれないか?
時間は、そうだな、食事を挟んでゆっくり話したいから、午前十一時頃ではどうだろう」

「私はそれで結構です。多分、亜美も大丈夫でしょう」

「そうか…。それなら、旨い物でも食いながら、ゆっくり話そう。正直、君たちがいつも作っている物ほどではないかも知
れないが、その点は勘弁してくれ」

 事務所を開業して半年足らずだから、竜児たちの活躍が実業界で注目されるはずがない。多分に岳父のリップサー
ビスだろうが、形はどうあれ、評価してくれるうちが花である。

「何から何まで済みません」

 電話の岳父は、声を上げて笑った。

『礼には及ばないよ。その代価という訳ではないが、美由紀は暫く私たちの家で預からせて戴く。今年の正月も、長年
連れ添った婆さんの顔だけを見ながら屠蘇を飲むのも、何だか侘しくてな。寂しい老人のわがままだと思って許してくれ。
おっと、婆さんって言ったのは、安奈には内緒だからね』

 茶目っ気のある岳父の言葉に、竜児は少しだけ心が和むような気がした。川嶋家のようなセレブであっても、亭主と
いうものは、女房には頭が上がらないものらしい。

『安奈のことだが、彼女は、君や亜美には厳しい態度であるものの、内心では君たちの存在を認めている。私自身も、
君たちの手腕や力量を高く評価しているつもりだ。君たちの今後の活躍を楽しみにしているよ。頑張ってくれたまえ』



 助手席に美由紀を乗せたシルバーグレーのスポーツカーは、首都高新宿線をゆったりと進み、環状線に進入した。

「もうちょっとしたら、見えてくるからね」

「わぁ! すごぉ〜い」


 深夜になっても明かりの絶えない高層ビル群の間から、オレンジ色のナトリウムランプでライトアップされた
東京タワーが唐突に現われた。

「綺麗でしょ? 何十年も変わらない光景だけど、東京を代表する夜景の一つよね」

 美由紀は、きらびやかな夜景にすっかり見入られ、呆然と窓の外を眺めていた。

「ねぇ、美由紀…」

「あ、ご、ごめんなさい、おっきなママ。東京タワーがあんまり綺麗だから、ぼやっとしちゃった…」

 その子供らしい無邪気な反応に、川嶋安奈は微笑した。

「あなたのママも、昔は私が運転するクルマの助手席に座って、そうして東京の夜景を見ながらはしゃいでいた。それが、
どうかしらね。今では、すっかり生意気になって…。でも、こうしてあなたとドライブしていると、あの頃が懐かしいわね」

「おっきなママ…」

 美由紀は、憂いを帯びた祖母の横顔に暫し見入った。五十代とは思えないほど張りのある白い肌、そして美由紀に
も受け継がれている整った面相は、掛け値なしに美しい。

「あら、私の顔に何か付いているかしら? そんなにまじまじと見られると、ちょっと恥ずかしいわね。それはそうと…」

 川嶋安奈は、美由紀に夜景をよく見せるためなのか、アクセルペダルを緩めて心持ち減速した。

「あなたは何になりたいの?」

「え?」

 唐突な問い掛けに、美由紀は目を丸くした。

「あなたが昔書いた作文を読ませてもらったわ。『パパやママのような立派な弁理士になりたいです』って書いてあった
わね。でも、あなたは未だ小学生なの。今から、急いで何になるかを決めなくたっていいんじゃないかしら」

「う、うん…。そ、そうかも知れない」

 勉強が嫌になった訳ではないが、勉強以外のこともやってみたい気持ちがある。昼間、ともちゃんに誘われたように、
音楽をやるというのも一つの選択肢であるはずだ。

「あなたは、歌も上手いし、音楽の才能もある。あなたさえよかったら、勉強の合間だけど、歌や音楽のレッスンを受け
させるけど、どう?」

 カラオケや学校の授業でしか歌ったことがないけれど、歌っている最中は、引っ込み思案の美由紀でも、気持ちが
高揚し晴れ晴れとした気分になってくるのだ。

「うん…。歌は好き…。歌っていると、その間は嫌なことも気にならなくなるから。それに、オルガンやピアノも好き…」

 それを聞いて川嶋安奈は、もくろみ通りということか、にんまりと笑みを浮かべた。

「そう、それならよかった…。あなたのために専任の先生を用意して、あなたの才能を開花させるようにするわ。あなたは、
可愛くて、素質もあるから、きっと芸能界で成功するはずよ」

 芸能界…。実母である亜美は反対するだろう。かつて、母親もモデルとしてその世界に居たが、諸般の事情から、
足を洗っている。美由紀も、結局は大成せずに終わるかも知れない。それでも、美由紀は、その世界に首を突っ込んでみたくなった。それに、ともちゃんとの約束もあった。

「ありがとう、おっきなママ…。でも、おっきなママに、お願いがあるの」

 何かをねだるということがほとんどなかった美由紀の意外な一言に、川嶋安奈は、はて? とばかりに目をきょとんと
させて、助手席の孫娘を見遣ったが、すぐに慈母のような笑みを浮かべて、視線を前方に集中させた。

「いいわよ…。他でもないあなたの願いなんですもの。ちゃんと聞いてあげるから」

 美由紀は、「うん」と微かに頷き、うつむいた。

「仲のいいお友達が居て、ともちゃんっていうんだけど、私以上に可愛くて、音楽の成績がよくって、そして何よりも、
あたしに歌を勧めてくれた子がいるの。その子も、私と一緒にレッスンを受けさせてもらえないかと、お、思って…」

 こんなこと、祖母であっても、川嶋安奈に頼めるものではないことぐらい美由紀は承知していた。
 しかし、ともちゃんは、一緒に芸能界へ行こうと誘ってくれた。それを思うと無下には出来なかった。

「そう…。会ってみないと何とも言えないけど、あなたがそれだけ推すということは、その子にも才能があるんでしょうね。
いいわよ。一回実技のテストをすることにはなるけど、そのテストに合格したのなら、その子もあなたと一緒にレッスンを
受けさせましょう」

 川嶋安奈は、ともちゃんが積極的な子で、美由紀を引っ張っていく立場の子だと直感したらしい。その子がいれば、
気の弱そうな美由紀でも、大胆な行動が可能だと踏んだのだろう。

「あ、ありがとう、おっきなママ!!」

「お祖母ちゃん、と呼んでいいわ。こう呼べるのはあなただけ。おっきなパパにも呼ばせていないんだからね」

 そう言って、川嶋安奈は、緩めていたアクセルペダルを踏み込んだ。背後でエンジンが唸り、シルバーグレーの
スポーツカーは、矢のように加速していく。
 ジャンクションを右折し、レインボーブリッジへと続く上り坂を川嶋安奈のクルマは飛ぶように駆け上がっていった。

「わぁ、まるで光の海の上を飛んでいるみたい!」

「そうね、今夜はクリスマス・イブだから、夜景がいつもと違って華やかね。ちょっと、寄り道しちゃったけど、急ぎましょ。
家では、おっきなパパ…、お祖父ちゃんが、あなたへのプレゼントを用意して待っているはずよ」

「う、うん…」

 走行に伴う微かな揺れが、ゆりかごのようだった。美由紀は、夜景に興奮しながらも、目蓋が重くなってくることに
抗えなかった。
 運転席の川嶋安奈の姿が、ぼやけてきて、意識が薄れていく。その薄れゆく意識の中に、先ほどの川嶋安奈の台詞
が浮かんできた。

『あなたは何になりたいの?』

 正直、美由紀にも本当に歌手や女優になりたいのかは分からなかった。だが、何かの可能性があれば、その可能性
に賭けてみたかった。

「美由紀、美由紀?」

 美由紀が妙に大人しくなったことで、川嶋安奈は孫娘が寝入ってしまったことを察した。ツインテールの長い黒髪、
大理石のように白い肌、そして長いまつ毛は、実母である亜美よりも、祖母である川嶋安奈の子供の頃にそっくりだった。

「何の夢を見ているのかしらね」

 出来れば、歌手になって成功し、更には安奈の後を継いで女優になっている夢であって欲しかった。

「まぁ、芸能界で生き残るのは大変だけどね…」

 そんなことを呟きながら、川嶋安奈はアクセルペダルを一段と深く踏み込んだ。シルバーグレーのスポーツカーは、
深夜の首都高速を軽やかに疾走していった。

(終わり)



33 SL66 ◆5CEH.ajqr6 sage New! 2010/01/11(月) 01:03:49 ID:GitLwFcl
以上です。
最後のはみ出した部分は、64番目に吸収できなかったので、別のレスになってしまいました。
完全オリジナルで、エロなし、かつキナ臭い話入りでしたが、これにて、終わりです。

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